昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.25 断崖から見下ろす「襟裳岬」の絶景

2011年09月26日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)昼過ぎ、襟裳岬へ到着しました。

広い駐車場には車が多く、数軒の土産物の店は観光客で、にぎわっていました。



雄大な「襟裳岬」の絶景です。

岬の先端に長く伸びる岩礁、打ち寄せる荒波、岬には感動的な風景が広がっていました。



「襟裳岬」付近の地形図です。

岬の先端は東西に分かれ、中央には「風の館」の建物、西側には「襟裳岬灯台」、東には長く延びる岩礁が見られます。

日高山脈が太平洋に没する場所とされる「襟裳岬」の姿は、この地形図にもありました。



駐車場から襟裳岬先端に向かう風景です。

左手の道は、地面の下にある「風の館」へ通じる道で、白いモニュメントは、円形の建物の「風の館」の中央に建っているようです。



岬の先端へ向かう道の途中から駐車場方向を振返った風景です。

左手には道道34号が北に伸び、右手には土産物店の屋根が並んでいます。

中央のハゲ山が印象的で、厳しい襟裳岬の気候を物語っているようです。



襟裳岬を見下ろす「襟裳岬灯台」です、

岬の先端を背にして南から撮った風景です。

タンポポの草原に囲まれた灯台の向こうに白い雲のかかった「豊似岳」がそびえています。



石碑を見ると二つとも「襟裳岬」と刻まれた歌碑でした。

向かって左は「作詞 岡本おさみ、作曲 吉田拓郎、唄 森進一」とあり、1974年(昭和49)に「えりもの春は何もない春です」と歌われて、襟裳岬の名を一躍全国的にしたことを思い出します。

向かって右は「作詞 灯至夫、作曲 遠藤実、唄 島倉千代子」とあり、調べてみると1961年(昭和36)に発売されたレコードでした。

岬の雄大な風景に感動し、詩が浮かんできたのでしょうか。



岬の西、灯台近くに岬を見下ろす場所がありました。

ここから見える襟裳岬の先端に長く伸びる岩礁の風景は、素晴らしいものでした。



「風の館」の建物の横から襟裳岬の先端に下りていく長い階段がありました。

だいぶ歩くようですが、雄大な風景に誘われて下って行きました。



岬の先端へ降りていく坂道から「風の館」を見上げた風景です。

断崖の下にも雄大な風景が広がり、打ち寄せる波の音にも迫力が感じられます。

「風の館」の見学はしませんでしたが、風速25メートルの風の体験や、襟裳岬の断崖の下に生息するゼニガタアザラシの生態を望遠カメラで観察できるようです。



岬先端への坂道の途中の風景です。

南に伸びる岩礁や、左右の海岸の風景を楽しみながら下っていきました。



石碑や鳥居が見え、神聖な雰囲気も感じられる岬先端の風景です。

写真ではよく伝わりませんが、沖に見える岩礁の巨大さには圧倒されました。

■下り坂の途中に「ゼニガタアザラシ」のイラストが描かれた案内板がありました。
********************************************************************************
ゼニガタアザラシ
ゼニガタアザラシは、日本では北海道東部、根室半島から襟裳岬にかけての岩礁帯に生息しています。
黒い体に、白いリング模様が、昔の穴開きのお金(銭)に似ていることからゼニガタアザラシという名前が付きました。
ゼニガタアザラシは、一年を通して暮らす日本唯一のアザラシです。
北海道全体では約900頭ほどが確認され、環境省の絶滅危惧種に指定されています。
襟裳岬は、約500頭が暮らす日本最大の生息地です。
春、4月下旬から5月にかけて出産し、約4週間ほど子育てを行うので、微笑ましい親子の姿を観察できます。
夏、年に一度の毛がわりの季節です。
換毛の促進のために1年のうちで最も岩礁に上陸する時間や頻度が多く、たくさんのアザラシを見ることができます。
   2008.12北海道
********************************************************************************

約500頭が暮らすとされる海岸を見下ろしてもカモメばかりで、ゼニガタアザラシはよく見えませんでした。



岬先の端に一人座り、沖を見下ろす人がいました。

手前には鳥居と、一本の石柱が柵に囲まれ、不思議な光景でした。

石柱を見ると「襟裳神社旧鎮座詞跡」と刻まれ、ネットで調べたところ、昔この場所には神社があり、暴風雨を避けて集落近くに移設されたようです。

かつては、神様が鎮座し、周囲の岩場でコンブ漁をする人々の海の安全を見守っていたのかも知れません。

襟裳岬を出発したのが14時近く、北海道旅行4日目の宿泊地「苫小牧」に向けて、約180Kmの道のりが残っていました。

北海道旅行No.24 えりも町 「百人浜」の風景と、緑化の歴史

2011年09月22日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)、「一石一字塔」の近くにある「百人浜」の海岸に向かう散策道を歩いて行きました。



道路から百人浜へ向かう道の入口です。

「百人浜の展望台」の案内板があり、向こうに展望台の屋根が見えています。

若い木が道の両側に茂り、好天にも恵まれた海岸への道は、さわやかでした。



「百人浜の展望台」の横に案内板と、東屋がありました。

案内板には「ようこそ、えりも国有林へ」のタイトルで、下に「北海道森林管理局・日高南部森林管理署」の名があることから、この一帯で行われている植林のことが書かれているようです。

展望台へ上ってみようかとも思いましたが、特に見るものもないと思い、止めました。



「百人浜の展望台」横の案内板に不思議な写真が掲示されていました。

タイトルに「ようこそ、えりも国有林へ」とあり、最後に「北海道森林管理局日高南部森林管理署」と書かれていることから、この一帯は国有林のようです。

写真の説明文では、かつてこの一帯の森林がなくなり、荒廃していた時代の風景でした。

以前、図書館のDVDで見たNHKのプロジェクトX「えりも岬に春を呼べ」で緑化に取り組んだ飯田常雄さん達の壮絶な物語を思い出しました。

コンブが豊かに育つことから襟裳岬の周辺には明治時代以降、多くの人々が入植、周辺地域の木々が伐採されて大正時代には海岸周辺の土地は荒廃してしまったそうです。

この地域の人々が森の再生に挑む物語「えりも岬に春を呼べ」は、この写真の時代からスタートします。

森が無くなると、陸地から海に流れ出る栄養分もなくなってしまいます。

昆布の育つ海底の岩場にも陸地から風で飛ばされてきた赤土が堆積し、覆われてしまったそうです。

百人浜一帯が緑豊かになり、昆布が育つ今日までには想像を絶する苦難の歴史が語られていました。

■森案内板の説明文に林造りの解説がありました。
******************************************************************************
1.生まれ変わったえりもの森
ここは砂漠?
いいえ、荒廃し、「えりも砂漠」と呼ばれていた頃のえりも国有林です。
失った自然を回復するため、昭和28年から緑化事業が始められ、現在ではすっかり緑に覆われています。

2.えりもの森が目指す森
厳しい気象条件を持つえりもでは、潮風に強いクロマツを中心に植栽してきました。
しかし、同じ樹種ばかり生えている森は、万が一害虫が発生した場合、大きな被害が出る心配があります。
昔のえりもの森は、カシワやミズナラといった広葉樹が中心だったようです。
そこで、広葉樹を少しずつ増やし、従来の森に近づけることを目標としています。

3.成長を続けるえりもの森
では、広葉樹を増やすにはどうしたらよいのでしょうか?えりも国有林では、混みすぎたクロマツを伐る(本数調整伐といいます)ことで、広葉樹の導入を進めています。木を透かすと、森の中が明るくなります。
そうすると、風や動物たちによって運ばれてきた広葉樹の種が芽を出しやすくなり。また、大きな木へと成長しやすくなるのです。
こうして、えりもの森は、旺盛な成長を続けています。
******************************************************************************



「えりも町郷土資料館ほろいずみ」にこの一帯の緑化の地図が展示されていました。

この地図は、「百人浜」から「襟裳岬」までの南北に長いエリアを二分割にして上下(A・B)に並べています。

オレンジ色のエリアが「草本緑化」、グリーン色のエリアが「木本緑化」で、百人浜一帯の緑化活動の経過が表示されています。

森林の再生は、最初に草の生えた土地にする「草本緑化」、次に木の苗を植えて森林を造る「木本緑化」のステップがあり、地図B(襟裳岬近くの南部)に緑が多くあることが分かります。

襟裳岬の先端には岩場が広がり、昆布が多く採れることを考慮して優先的に緑化を進めたものと思われます。

海を再生させようと立ち上がった人々は、試行錯誤で森林造りに取り組み、雑海草「ゴタ」で砂地を覆い、草の種を強風と、乾燥から守る方法にたどりついたそうです。

■緑化の地図の下に「えりも式緑化工法」のタイトルで工程が掲載されていました。
******************************************************************************
1.レーキで耕転、2.種子・肥料播き、3.レーキで地掻き、4.海草で被覆、5.防風垣を作る
******************************************************************************



小高い場所に建つ展望台の前から海岸方向を見た風景で、沖には美しい海が広がっています。

道の右手(南)に木が植えられ、上段の緑化の地図では「草本緑化」でしたが、「木本緑化」の段階に進んでいるようです。

又、道の左手(北)にも一面に小さな広葉樹が見られ、緑化事業が継続していることが分かります。

緑化が軌道に乗ってきた頃の1984年の冬、この海に奇跡が起きました。

夜明けに巨大な流氷が現れ、えりもの海を覆い、海底の砂をえぐって取り去ったそうです。

「泥コンブ」と称されていたえりもの昆布が再生し、地域の生活がよみがえる出来事だったようです。



海岸に近づくと、防風垣がありました。

表示板に「人工林」とあり、2003年に植えられたクロマツのようですが、柵により木の苗が強風から守られていることが分かります。

ここまで手をかけないと森林の再生が出来ないことを考えると、えりも町の自然環境の厳しさが分かるような気がします。



海岸近くから「百人浜の展望台」を振返った風景です。

今思えば、展望台に上がって周囲の風景を見なかったのが残念です。



道を横切るように溝があり、そこにオタマジャクシが泳いでいました。

どんなカエルになるのでしょうか。

既に6月、北国、北海道の季節の違いを感じます。



南北に長い砂浜が続く、百人浜の海岸です。

海岸の北方向の風景で、向こうに見えるのは庶野港の北にある岬でしょうか。

この砂浜の砂を見るとキメ細かく、強風で砂嵐になっていたことも想像できるものでした。



海岸近くから北西方向を見た風景です。

広い海岸に長い防風柵が伸び、向こうに美しい「豊似岳」などの峰々が続いています。

「草本緑化」されたと思われるこの草原も、やがて植樹され、様々な木が生える森林となるのでしょうか。



海岸近くから南西方向を見た風景です。

こちらにも長い防風柵が伸び、濃い緑の針葉樹林を守っているようです。

向こうに見える低い峰は、左手の襟裳岬付近まで続き、自衛隊のレーダーと思われる建物も見えます。

日高山脈が襟裳岬で海に没するとされる直前の風景でしょうか。



襟裳岬へ到着し、駐車場近くから北方向の百人浜を見た風景です。

強風を避けるためか、斜面に家が建てられ、その下には昆布の育つ岩場の海岸が広がっています。

岬近くには緑化に取り組んだ人々の集落、その向こうには緑化が進む長い「百人浜」、が見えます。

森進一の「襟裳岬」を思い出しました。

悲しみを暖炉で燃やし、暖かい「えりもの春」が来ていたようです。

菜園で採れた「踊るナス?」です

2011年09月18日 | 日記

今朝、家庭菜園で採れた「踊る?ナス」です。

妻が「こんなのがあったよ」と見せてくれた二股のナスにびっくり。

上から下まで約22cmで、たしか品種は「長なす」でした。

一昨日も二股のナスが採れましたが、直立不動スタイルで、あまり感動の無いものでした。

今回は、実に躍動感あふれるスタイルで、「走っているナス」のようにも見えす。

逃げ足の速そうなこのナスも、明日には「おいしい味噌いため」になっているものと思われます。



芦田川の河口近くの箕島町にある畑です。

3年前から知人の畑の一画を借り、野菜作りを楽しんでいます。

右手に黄色の花の咲く「オクラ」があり、「ナス」はその左に植えています。

2日に1度は収穫に行っていますが、オクラは、実が育ち過ぎて硬くなってしまうものが出てきます。

今日は、生い茂ったオクラの葉を風通しよくカットしてやりました。



「さつま芋」や、「モロヘイヤ」のエリアで、そばに「南京豆」や、「ピーマン」「ニラ」も生育中です。

今年は、植えたばかりの「南京豆」を半分以上「カラス?」に食べられて、しかたなく「モロヘイヤ」を植えましたが、初めてにしては成功でした。

食べきれない野菜を知り合いに差し上げますが、お返しの方が多過ぎて、次に差し上げるのが心苦しく、ちょっと困っている昨今です。

北海道旅行No.23 百人浜から眺める「豊似岳」と、「一石一字塔」

2011年09月15日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)、黄金道路から襟裳岬をめざして海岸沿いを南下すると、道は国道336号から分かれて道道34号になりました。



道道34号(襟裳岬公園線)を走っていると右手に堂々とした山が見えてきます。

道路には走る車も少なく、路肩に車を停めて雄大な山を見物しました。

地図から推察すると、最も高い峰が「豊似岳」、その右が「観音岳」と思われます。

標高1,105mの「豊似岳」は、日高山脈の南端、襟裳岬付近では千メーターを超える唯一の峰のようです。



襟裳岬の北に伸びる「百人浜」の長い海岸付近の地図です。(地図のすぐ下に襟裳岬があります)

前回紹介した断崖の続く「黄金道路」は、地図右上「庶野[しょや]漁港」付近で終わり、襟裳岬までなだらかな地形が続いています。

国道336号は、襟裳岬の北をショートカットして西岸に続いていました。

長い砂浜が南北に続く「百人浜」の中央付近に駐車場があり、浜辺に続く散策道があります。



道道34号(襟裳岬公園線)の左手に「百人浜」の海岸線が見えてきました。

長い砂浜の向こうには、かすかに襟裳岬が見えてきます。

好天に恵まれた日でしたが、冬季の悪天候の日などには厳しい風雪にさらされる土地でもあるようです。



車を止めて「豊似岳」を眺めた後、道道34号の北方向を振返った風景です。

道路標識に「道道34号北海道 襟裳岬公園線 えりも町庶野」とあり、右手の海岸側には庶野漁港付近かから家並みが続いていました。

庶野漁港周辺は、江戸時代から栄えた港で、えりも町の中でも比較的大きな集落のようです。



道道34号を走っていると右手前方になだらかな円錐形の山が三連になった面白い風景がありました。

しかも周囲の山の表面とは違い、木が無く、草原になっています。

地図で見ると牧場のエリアにあり、あの山には牛が放牧されるものと思われます。



タンポポの花が咲き乱れる広い草原があり、立ち寄ってみました。(地図に「タンポポの草原」と書いた場所です)

向かって左の円錐形の山は、「オキシマップ山」、向かって右のやや低い山が「観音岳」、その間に「豊似岳」の長い峰が続いているものと思われます。(地図から推察)

黄色いタンポポの草原、美しい山容に感激、これも想い出に残る北海道の雄大な風景でした。



上段の写真とほぼ同じ場所から左手の「オキシマップ山」部分を撮った風景です。

タンポポの草原の向こうに何かの建物が見え、円錐形の山にも魅かれました。



百人浜の駐車場の南から北の道路側を見た風景です。

左手に駐車スペース、中央に二つの三日月を組合せたような百人浜の看板があり、そのすぐ右側には百人浜の展望台が見えます。

百人浜の展望台は、浜辺に向かう散策道(次回紹介します)の途中にそびえていました。



百人浜の駐車場から南の襟裳岬方向の風景です。

左手に百人浜に沿った道道34号が走り、右手にラクダのコブのような低い峰が続いています。

先の峰に光る建物は、自衛隊のレーダーのようでした。



駐車場の北側に「北緯42°地点 」「風のまち えりも」と書かれた石碑が建っていました。

この地点が北緯42°のようです。

石碑には襟裳岬に生息する「ゼニガタアザラシ」「襟裳岬灯台」「昆布」の絵が刻まれ、「風」の文字と共に町の名物が紹介されていました。

襟裳岬周辺は「ゼニガタアザラシ」が日本最大の約300頭生息し、一年中姿が見られるようです。

又、この地域は、風速10m以上の強風が年間290日以上もあるようで、荒波の海岸に育つ昆布と、灯台の立つ雄大な襟裳岬の風景と併せて町の自慢をアピールしています。



駐車場の北に石碑「一石一字塔」があり、その横に案内板が見えます。

江戸時代、この辺りの海域は、濃霧による海難事故が多発し、多くの人々が亡くなったようです。

そのため様似町(えりも町の西隣)の「等澍院」住職「秀暁」により遭難者の慰霊と、航海安全の祈願が行われ、その記念碑が「一石一字塔」のようです。

「等澍院」(天台宗)は、1806年に江戸幕府が蝦夷地に造った寺院で、伊達市有珠町善光寺(浄土宗)、厚岸町国泰寺(禅宗)とあわせて「蝦夷三官寺」と呼ばれています。

「一石一字塔」の建立は、「等澍院」が建立された年と同年1806年とあり、この海域の海難事故への対応が新住職「秀暁」にとって重要課題だったことがうかがえます。

■駐車場脇の案内板にあった説明文です。
****************************************************************************************
<百人浜と一石一字塔の由来>
襟裳岬周辺海域は、古来より航海の難所で海難事故が多く、その昔遭難した南部藩の船から砂浜に流れ着いた百余名の乗組員が、飢えと寒さで亡くなったと云う伝説に由来し、文化3年(1806年)に村民達が遭難者の霊を供養するために、一石一字塔を建てたと云われています。
****************************************************************************************

■写真右手の案内板を転記しました。
****************************************************************************************
一石一字塔
(1806年建立)えりも町指定文化財
由来
 江戸時代、蝦夷地に和人が入り、東蝦夷地(北海道の太平洋岸)はコンブなどの魚場として開発された。蝦夷地と本州との交易は北前船を用い、帆を張り風を利用する航海てあった。このため悪天候に遭遇し遭難する船が多かった。襟裳岬は風が強く、蝦夷地でも有数の航海が困難な海域であった。
 東蝦夷地に場所(海産物などを生産し、本州からの商品と交易する地域)が開かれ多くの和人が入り、また、ロシアの南下への脅威から北方警備の重要性が認識された。さらに和人の心の拠り所として、アイヌの統制をも考慮し、幕府は東蝦夷地に寺院(伊達・様似・厚岸)を建立することを文化元年(1804)に許可決定した。様似等澍院は文化三年(1806)に建立され、幌泉場所(現在のえりも町地域)は、様似等澍院の管轄であった。
 碑文を解釈すると、建立の意図は海難者の追善供養であることが明白だが、ひいては法力により安全な航海ができるようにとの願いが込められているとも考えられる。また、当時のアイヌに対し、統制のために仏教の待つ荘厳さを印象づけるねらいもあった可能性がある。
 この一石一字塔は、建立時は、東の在田川河口に建立されたとされ、その後、2回移設され、昭和三十一年(一九五六)現在地に安置された。現在、埋納遺構や礫石経等の遺物は確認できない。
 一石一字塔の建立時には、大法要が施行され、幌泉場所(保呂泉場所)の管長八谷佐吉らが全面的な支援をおこなったと考えられる。江戸幕府の東蝦夷地での統制を引き締める歴史的行為が幌泉場所て行なわれた物的証拠として、極めて重要な石碑である。

碑文解釈
 北海道の東南にある百人浜は、鉄のように硬い鋭い岩盤がそびえならび怒濤は山に向かうような大波であります。
 海霧は始終沸き出て周囲を覆い隠し、そのため船乗りたちもたちまちのうちに方向を見失ってしまうことが多く、このために遭難して溺れ死ぬ者が最も多いと言われている所であります。或るときは一日に数隻も遭難することもあり、そのことは珍しいことでも不思議なことでもありません。八谷佐吉は、南部の出身の人ですが、幌泉支配人として長い間この海難事故に心を痛めていたのです。丁度、文化二年(1806)に時の幕府の命令を受けて、私は初めて仏教を広める為に、この地方に赴任して参りました。この地方の住民たちは、八谷佐吉と同じく皆心を痛めていたので、私に妙法蓮華経第十六品如来寿量品(約二千四百字数)のお経を一つの石に一字づつ写経して追薦の供養を行って欲しいと請われたのであります。
 様似の勤番所詰合人である南部藩士田中定右衛門は、非常に喜んで法要を護衛することになりました。その時大変に不思議なことが突如起こったのであります。法要の最中に昔沈没していた船の帆柱がにわかに浮き上がって岸辺に漂着致しました。驚いて帆柱をうやうやしく運んできて法要の席に奉ったのであります。あ~信仰の心、仏に御心に達したことは明らかで疑う余地もなく、私はこのことを喜んで思わず合掌したたえて詩を詠んだのでありました。

 御心の御教えいよいよ整い熱しその御心は東北海道に布教伝播されました。
 溺死した者の霊魂永い間さまよいしその苦労今は暁の風のごとく吹き去りて自ら戸を開けるように悩みが急に取り除かれた感にうたれにわかにめでたい感じが全身を走り抜け堰を切ったように涙がとどめなく流れ碑をぬらしてしまいました。

 仏のみ教えによる供養の功徳は永遠に動くことなく、直にに弥勒菩薩が説法する衆生済度の法会場に至り一字一字は金の仏を現し教化弘法のために果てしなく寄与することでありましょう。

   文化三年旧暦九月中旬 帰郷向山第一世法師権大僧都 秀暁 勤書

     功徳主 保呂泉舘舎
           管長(支配人 八谷佐吉)
           譯人(通詞<アイヌ語通訳>)守者(番人)

※「沙摩尼之館主」とは、シャマニ(様似)会所の勤番詰合人番頭で南部藩士田中定右衛門のことである。
         えりも町教育委員会****************************************************************************************



「一石一字塔」の南側に「観音堂」と書かれた建物が並んでいました。

海難事故で亡くなった多くの人々に観音様の救いの手をさしのべて戴く願いが込められたものでしょうか。

道路を挟んだ「観音堂」の前には百人浜へ続く散策道の入口がありました。


北海道旅行No.22 「黄金道路」と、近藤重蔵が造った江戸時代の山道

2011年09月12日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)、十勝平野の南端から襟裳岬へ進む国道336号は、「黄金道路」と呼ばれる断崖絶壁を切開いた海岸の道になります。



断崖絶壁の海岸に続く黄金道路の風景です。

広尾町音調津[おしらべつ]-地図②の南、「モイケシ覆道」-地図③付近から北を見た風景です。



十勝平野の南端広尾町から襟裳岬辺りまでの地図です。

襟裳岬を見物した後、立ち寄った「えりも町郷土資料館ほろいずみ」の展示によると「黄金道路」は、「広尾町広尾橋」-地図①から「えりも町庶野」-地図⑤までの約32Kmの区間とされていました。



「えりも町郷土資料館ほろいずみ」の「黄金道路」の展示コーナーです。

大きな航空写真には急峻な岩場の海岸に延々と続く整備された「黄金道路」が見えます。

■「黄金道路」の説明文です。
*****************************************************************************************
黄金道路
黄金道路は国道336号線のえりも町庶野から目黒を通って、広尾町広尾橋までの険しい海岸線約32キロにおよぶ道路の愛称です。そそり立つ断崖絶壁からは四季をとわず石が崩れ落ち、冬には雪崩が多発するルートです。7年の歳月と多額の費用が投じられ、昭和9年(1934)に開通「まるでお札を並べたような道路だ」として黄金道路といわれるようになりました。断崖を走るワインディングロードからの眺めには素晴らしいものがありますが、現在に至るまでには、遠く寛政の頃にはじまる苦難の歴史があります。
*****************************************************************************************



この絵も「えりも町郷土資料館ほろいずみ」の「黄金道路」展示コーナーにあったものです。

荒波が打ち寄せる岩場の道を数名のアイヌと思われる人たちの案内で歩く武士たちの姿が描かれています。

このような道では、波の荒い時には通行が出来なくなってしまいます。

悪天候で足止めをくった近藤重蔵が私財を投じて迂回する山道を造らせようとした昔の黄金道路の姿のようです。

■絵に添えられていた説明文です。
*****************************************************************************************
山道開削
寛政10年(1798)近藤重蔵は探検調査の帰り道、広尾にて大暴風雨にあい足どめをくい、道路を開削しようと思い立ち、通詞やアイヌ民族と相談し資金を出してアイヌ民族を雇い、従者下野源助に道路開削を指揮させ、十勝場所のルベシベツ山道からビタタヌンケまでの山道ルベシベツ山道約12キロ(3里)を開削しました。これは蝦夷地における道路開削の最初です。この時代蝦夷地は松前藩の領地でしたが重蔵はまったく独断でこれをおこないました。
*****************************************************************************************



これも「黄金道路」のコーナーにあった「近藤重蔵」の写真です。

■写真の説明文です。
*****************************************************************************************
近藤重蔵
文政12年(1829)~明和8年(1771)
江戸(東京)の与力の子として生まれる。幼少の頃より心身ともに優れていた。
寛政10年(1798)幕府の蝦夷地への2回目の探検隊に参加し、最上徳内と共にエトロフ島に渡り日本領のしるしの柱を立てた。その帰り道、広尾にて道路開削を思い立ち、現在の目黒から広尾の間に山道を開いた。
*****************************************************************************************



「えりも町郷土資料館ほろいずみ」に「黄金道路誕生までの施工経過図」と書かれた地図がありました。

近藤重蔵が開削させた「ルベシベツ山道」は右上にあり、海岸を迂回したルートも描かれています。

「ルベシベツ山道」から更に南に続く「猿留山道」など、江戸時代から明治以降の山道整備の歴史も紹介されています。

■地図に添えられた説明文です。
*****************************************************************************************
ルベシベツ山道(約3里)
寛政10年(1798)近藤重蔵によって山道開削
北海道における始めての道路

猿留山道(幌泉~ヒタタフンケ間約7里)
寛政11年(1799年)幕府御用掛大河内政寿の命により
最上徳内などにより山道開削
*****************************************************************************************



「ルベシベツ山道」が造られていた辺りの地図です。

地形図では海岸線の道路とは別に内陸部に道路と、ルベシベツ川(北の約4分の1)とで結ばれた「ルベシベツ山道」跡と思われるルートが浮かんできます。
(河口付近の集落内にも道が描かれておらず、地形図に道が省略されている可能性もあります)

南の海岸から続く「ルベシベツ山道」跡の約4分の3は、改良されて車道として現在も続いているようです。



「モイケジ覆道」の向こうにルベシベツ川河口のある「タニイソトンネル」入口が見えます。(上段の地図③付近)

「ルベシベツ山道」は、トンネル入口の見える山の右手に沿って造られたようです。



広尾町と、えりも町の境「ビタタヌンケ」に「ルベシベツ山道」の南端と思われる場所がありました。(最初の地図④付近)

二つ並んだ山の手前にある左に入る道が「ルベシベツ山道」跡と思われます。

交差点近くに襟裳岬の「風の館」の看板があり、向こうには断崖の下に覆道の入口が見えます。



えりも町庶野の国道336号沿いにあった「黄金道路」の記念碑の横で妻の記念写真を撮りました。(最初の地図⑤付近)

この辺りが「黄金道路」の南端のようで、北の急峻な岩場の海岸に美しい風景が続いています。

道路脇が広くなって地元の人たちの車が数台駐車していました。



「黄金道路」の記念碑の前の海岸のあちこちに海藻を採っていると思われる人の姿が見え、ズームで撮ってみました。

レジ袋や、大きめのザルを持って採っていることから家族のための海藻採りのようです。

干潮の岩場で採れる自然の恵みは何だったのでしょうか。



石碑の横から海岸の南方向を見た風景で、この辺りから右手の山の傾斜がなだらかになってきました。

「黄金道路」の記念碑と、地形の変化で、長かった「黄金道路」の終点を実感させられます。

この少し先には長い長い「百人浜」が続いていました。

北海道旅行No.21 黄金道路の「フンベの滝」

2011年09月09日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)、釧路市のホテルから襟裳岬を目指し、広大な十勝平野を過ぎると、国道336号は、海岸沿いを南下する別名「黄金道路」と呼ばれる道になります。



十勝平野の南端「広尾町」の町並みから「黄金道路」を1Km少々南下した道路脇にある「フンベの滝」です。

海岸沿いの道路脇に岩場を落ちる小さくてきれいな滝です。

「フンベ」とは、アイヌ語で「鯨」のことだそうで、この辺りで鯨にまつわる印象的な出来事でもあったのかも知れません。



北海道中央南部の地図です。

「フンベの滝」や、南の襟裳岬へ続く日高山脈が見られます。



南側から見た「フンベの滝」の風景です。

滝の前は道路が少し広くなり、案内板や、石碑などがありました。

勢いよく流れ出る滝の水が、あまり高くない岩の丘から出ており、水源となるエリアは後方の広いエリアにあるものと思われます。



「フンベの滝」のそばにあった案内板です。

■案内板には襟裳岬へ通じる黄金道路や、日高山脈の地図が描かれ、説明文がありました。
*************************************************************************************
日高山脈と黄金道路
日高山脈は、南北140Kmに及ぶ北海道の背骨をなす大山脈で、ヒマラヤやアルプスと同じ頃、その骨格が組み立てられました。幌尻岳(2,052m)を最高経とし.カムイエクウチカウシ山、ペテガリ岳など、1,500~2,000m級の山なみが連なり、襟裳岬の岩礁となっ 太平洋に没します。また、広尾町とえりも町庶野にかけての33Kmは、きり立った崖の連続であり、特異な風景を造り出しています。
当地の道路は、寛政10年(1798年)近藤重蔵らが山路を開いたことに始まり、その後、本格的には昭和2年から昭和9年にかけ、絶壁と岩礁の中、多大の費用をついやして完成したものです。
このことから、この道路は通称「黄金道路」と呼ばれています。
 ここの「フンベの滝」は砂礫層を浸透した水が下部の岩盤上を流れ、この崖地で表面に流出しているものであり、年中枯れることなく、夏は涼感を漂わせるとともに、冬には大きな氷の造形美が見られます。(フンベ:アイヌ語で鯨の意味)
*************************************************************************************



正面から見た「フンベの滝」です。

「フンベの滝」の流れは、岩場の上から続いているようです。

右手の岩の斜面にも細い水の流れがあり、この辺りは丘の上一帯の水が流れ出る低い場所のようです。



「フンベの滝」周辺の地形図です。

岩場の上は平らな丘が広がり、滝の上には地表に短い流れが見えます。

「フンベの滝」の南北側には岩場の海岸が続き、すぐ北にはトンネルもありました。

道路の両脇に駐車できるスペースがあり、車での見物には困りません。



「日高山脈襟裳国定公園 フンベの滝」と書かれた立て札のすぐ横に不動尊像があり、その隣には「海難供養碑」がありました。

「海難供養碑」はあまり古くなく、漁などで亡くなった人たちの供養のためのものだったのでしょうか。

剣を持って立つ不動尊は、荒れ狂う海の魔物を鎮め、亡くなった人々の成仏を願っているようにも思われます。



上段の写真の向かって左側にも「地蔵尊」と、墓のような形の「海難碑」が建っていました。

地蔵尊や、不動尊にはローソクや、お茶が供えられ、最近造り直されたと思われる「海難碑」の上部を見ると、厚い信仰と、慰霊の行事が永く続いていることがうかがわれます。



海岸を背に「フンベの滝」を撮影する人がいました。

海岸の向こうの丘に少しモヤがかかっているのが見えます。

小さく、迫力のない滝ですが、どこか親しみを感じました。

北海道旅行No.20 十勝平野から見た残雪輝く日高山脈の風景

2011年09月03日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)は、釧路市のホテルを7時頃に出発、襟裳岬を経由して次の宿泊地、苫小牧までの行程で、前半の道東エリア最後の日になります。

朝日を背にして走る広大な十勝平野のドライブは、西の彼方にそびえる残雪の日高山脈に次第に近づいて行くのが楽しみでした。



国道336号を進み、広尾町から見えた「楽古岳[らっこだけ]」(標高1,471m)です。

そびえ立つ三角形の峰は、神様が造ったのかとも思いたくなる堂々たる姿でした。



上段の地図は、北海道旅行4日目に走行した釧路市から苫小牧市まで約380Kmを走行した範囲です。

下段の地図は、今回掲載した道路脇の風景、5ヶ所のポイントがある範囲です。

南西に伸びる国道336号の延長線上に日高山脈の「楽古岳[らっこだけ]」があります。



国道336号を進み、大樹町美成の道路脇で見た牧場の風景です。(地図の一番上にある黄色のポイントの場所)

数十頭の乳牛が放牧されており、妻の希望で路肩に車を止めて見物です。

撮影地点の確認は、SONYのデジカメで記録されたGPSデータを付属ソフトのマップビューで見たものです。

地図を見ると、この場所から国道336号の5Km手前に「ナウマン象化石発掘跡地 」がありました。

ヨーロッパから渡ってきた乳牛が草を食む現代の風景ですが、約2万年前まではこの辺りをナウマン象が歩き回っていたようです。



妻が牛に声をかけると、牛が近づいてきました。

立ち止まってこちらを見ており、親しみを感じます。

牛の前には線が張ってあり、これ以上近づけないようです。



道路の正面はるか向こうに雄大な日高山脈が見えてきました。(地図の上から二番目にある黄色のポイントの場所)


すぐ先に防風林があり、見通しの良いこの場所で、車を停めて見物です。



雄大な日高山脈の風景に感動、ズームで撮った写真です。

「楽古岳[らっこだけ]」の三角の峰の両側に残雪の山並みが続き、巨大な鳥が翼を広げた姿にも見えてきます。



国道236号を進み、広尾町の豊似川から少し南の辺りで見た日高山脈の風景です。(地図の上から三番目にある黄色のポイントの場所)

妻のために絵になりそうな風景を見つけては、駐車して撮りました。



上段の風景をズームで撮ったものです。


雄大な日高山脈は、どこで見ても素敵な風景に見えてきます。



日高山脈を望む広い畑の向こうに防風林があり、その前に牛が遊んでいました。(地図の上から四番目にある黄色のポイントの場所)

美しい緑の向こうに青く霞んだ残雪の日高山脈は、素晴らしい風景でした。



上段の写真から右手に広がっていた風景です。

牛の遊ぶ広大な畑の向こうに美しい日高山脈の裾野の風景が続いていました。



道路脇に小さな白樺の木があり、ここからもそびえる「楽古岳」の素敵な風景が見えました。(地図の一番下にある黄色のポイントの場所)

北海道旅行No.19 釧路湿原「細岡展望台」黄昏の絶景

2011年09月02日 | 北海道の旅
北海道旅行3日目 6/5(日)釧路市のホテルから北海道本島の最東端「納沙布岬」へ到達、海岸線の道を再び釧路方面へ折り返しました。

18時過ぎ、釧路湿原の東にある「細岡展望台」へ到着しました。



「細岡展望台」から西に広がる釧路湿原の風景です。

広大な湿原に蛇行する釧路川の水面が光って見えます。

夕焼けの絶景を期待して「細岡展望台」を最後のスポットに予定しました。

旅行2日目午後、釧路湿原の西岸で濃霧に遭い湿原の観光を中断、霧が漂う釧路市街の観光に切り替えていました。



釧路市の北に広がる釧路湿原の地図です。

「細岡展望台」は、釧路湿原の東側にある標高60m余りの丘陵地にあり、北に「宮島岬」「キラコタン岬」、眼下に「釧路川」を望む釧路湿原最高の展望台とされています。

「細岡展望台」への道は、湿原東岸の道道391号を北上、達古武湖の南岸を左折(赤い矢印方向)、釧路本線「細岡駅」「細岡ビジターズラウンジ」の横を通り、未舗装の細い坂道を上って行きました。

展望台そばには駐車場がなく、路肩の広くなった場所に駐車しました。(本来は「細岡ビジターズラウンジ」へ駐車すべきだったようです)

帰りは、珍しい風景の発見に期待して山道を南下、岩保木山中腹を通り釧路市内のホテルへ帰って行きましたが、延々と夕暮れの寂しい山道が続いていただけでした。

北岸から西岸に表示しているスポットは、前日回った場所です。



「細岡展望台」へ入る車道の脇に案内板がありました。

■案内板の右に掲載されていた説明文です。
************************************************************************************
細岡展望遠地(湿原大観望)
眼下に広がる湿原は、キタヨシしハンノキ林からなるわが国最大の「釧路湿原」です。
ここは、約6千年前には「古釧路湾」と呼ばれる入り海でしたが、その後、海が退き泥炭が堆積してこの湿原が形成されました。
そのなごりとして、塘路湖やシラルトロ沼などの湖沼群が残されており、また、湿原を海とみなしてか、中央部に突き出た丘陵地は、「宮島岬」「キラコタン岬」と名づけられています。
遠方に連なる山脈は阿寒の山々です。
右側が雄阿寒岳、左側の噴煙を上げているのが雌阿寒岳です。
ずっと右手には、藻琴山や摩周岳などもみられます。
************************************************************************************



「細岡展望台」の風景です。

丘陵地から湿原に突き出た展望広場が造られていました。

正面の西の空は雲に覆われ、雲の周囲に夕焼けの色が広がっていました。



望台の正面には蛇行する釧路川が見え、柵の右には風景の説明図がありました。

しばし大自然を堪能する静かな時間を過ごしました。



「細岡展望台」から南西方向の風景を図解した案内図(左部分)です。

南西の彼方には昨日濃霧の時に訪れた「釧路湿原展望台」があり、釧路湿原を流れる釧路川の下流には「岩保木水門」があるようです。



「細岡展望台」から南西方向を撮った風景です。

沖の風景は、霞んで見えませんが、左手に見える山は「岩保木山」のようです。



南西方向の眼下に蛇行して流れる釧路川が見えます。

湿原の向こうに丘陵地の低い山並みが続き、広大な北海道らしい風景が広がっていました。



「細岡展望台」から北西方向の風景を図解した案内図(右部分)です。

残念ながら図に見える「雄阿寒岳」、「雌阿寒岳」は、よく見えませんでした。



「細岡展望台」から見た北西方向の風景です。

夕焼けの下になだらかに続く丘陵は、「宮島岬」と、「キラコタン岬」のようです。



西方向の美しい夕焼けと、光る釧路川の水面の風景です。

これで北海道旅行3日目が終わりました。

釧路から納沙布岬を往復、今日も300Kmを超えるドライブでした。