昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「二見興玉神社」参拝と、干潮の「夫婦岩」

2009年08月30日 | 近畿地方の旅
5月連休の伊勢旅行の思い出をゆっくりと書いています。

旅行2日目の夕方、二見浦の「夫婦岩」を見に行きました。

もし翌朝、快晴になれば、日の出を見たいと下見を目的に行きました。
(結局、翌朝は曇りで日の出見物は中止にしました)



近くの駐車場に車を止め、海岸沿いの参道口進んで行きました。

■参道口に案内板がありました。
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二見浦と浜参宮
夫婦岩(立石)沖には、現在は海中に没していますが、神様が寄り付く岩 興玉神石[おきたましんせき]があり、この周辺の立石浜は、神々のいる常世[とこよ]の国から寄せる波が最初に届く聖なる浜と信じられてきました。
神仏に参拝する時、水を浴びて心身を清めることを垢離[こり]と言いますが、古来立石浜は伊勢神宮の禊場[みそぎば](垢離場[こりば])として人々の信仰を集めてきたのです。
神領民は勿論、全国から来られた方々も外宮から内宮へ廻る神宮参拝や神事に参加する前にこの浜で禊をするのが慣わしです。
このように事前に禊のために立石浜を訪れてお祓[はら]いを受けることを「浜参宮」と言います。
本来は実際に海水に浸かって禊をするのですが、現在では、二見興玉神社に参拝し、興玉神石より採取した無垢鹽草[むくしおぐさ]草で身を清めるお祓いを受ける浜参宮が一般的です。
  第62回神宮式年遷宮浜参宮受入委員会
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海岸沿いの東に向かう参道を進むと「夫婦岩」が見えてきました。

干潮で、右手の岩が砂浜で地続きになり、写真で描いていたイメージとはだいぶ違っていました。

上段の説明文にあるように、この海岸は、伊勢神宮の禊の場でもあったようです。

神に祈る前に手や、口を清める習慣は禊[みそぎ]が変形したものと言われています。

大勢の見物客で、賑わっており、やはり人気のスポットのようでした。



海岸沿いの石垣の上に案内図がありました。

夫婦岩や、周囲の岩の名称が書かれています。

上段の写真では烏帽子岩と、獅子岩が一部重なっています。



上段の案内図のすぐそばに立て札がありました。
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古来烏帽子岩と呼ばれておりましたが御神威か近年蛙の容姿をなしていました・
神様のお使い蛙岩(親子蛙)
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何と! 神様の偉大な力で、烏帽子岩が、蛙岩になってきたようです。



蛙岩です。

なるほど、親子蛙の姿に見えてきます。



この中に「天の岩屋」の洞窟があるようです。

建物の中に「天鈿女命」[アメノウズメ]の石像がありました。

天照大神が隠れられた岩屋の外で刺激的な踊りを舞った神話を思い出します。

「天鈿女命」は、二見興玉神社の祭神、「猿田彦命」と夫婦神でもあります。



手水舎がひっきりなしに来る参拝者で賑わっていました。

手洗いの他、水槽の中に置かれた蛙の像に水を掛けています。

■水槽の横に立て札に書かれていた文です。
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満願蛙(水の中の蛙)
この蛙は 御神示により この水中にお鎮まりになりました
水を掛けると 皆様の願いが かなえられます
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「無事帰る」「貸したものが返る」「若返る」などの縁起があるそうです。

このような駄洒落のごりやくを感じた人達が、境内の各所に置かれたカエル像を寄進したそうで、楽しい観光地気分を盛り上げてくれます。



「二見興玉神社」の社殿です。

右手の拝殿入口が見えていませんが、長い拝殿と、左手に神殿があります。

写真左手(神殿後方)の鳥居は、日の出の遥拝所です。

■参道口に掲示されていた「二見興玉神社」の由緒です。
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二見興玉神社由緒
 祭神 猿田彦大神
    宇迦御魂大神
垂仁天皇の御代、皇女倭姫命天照皇大神の神霊を奉戴して、此の二見浦に御船を停め神縁深き猿田彦大神出現の神跡である海上の興玉神石を敬拝し給う
即ち夫婦岩に注連縄を張り拝所を設けたが其后天平年間僧行基興玉社を創建す
明治に至り宇迦御魂大神を合祀して二見興玉神社と称する
古来、日の出の名所として、また伊勢参宮の禊所として有名である。
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日の出の遥拝所で、夫婦岩の間から昇る朝日を拝む他、皇居も遥拝する場所のようです。

右手が「夫婦岩」、左手が神殿です。



拝殿の近くから撮った「夫婦岩」です。

干潮でもあり、意外に陸地から近く見えたことで、やや期待外れでした。

■参道口にあった説明板を転記します。
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夫婦岩
 夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られています。
 男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、「結界の縄」と称され大注連縄の向うを常世神が太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔りを持ち張られ
ています。
 この大注連縄は、およそ650年前(文保年間)、既に張られており、現在も氏子により大注連縄張替の神事が年3回、5月5日・9月5日と12月の第3日曜日に行なわれています。
 夫婦岩の大きさは、男岩 高さ9m、女岩 高さ4mで二つの岩を結ぶ大注連縄ま長さ35m、男岩に16m、女岩に10mか巻かれ、その間9mあります。
 夫婦岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ころで、その絶景は深い感動を与えています。
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拝殿横の通路で見かけた「日の出遥拝案内図」です。

この図をよく見ると、太陽の下に小さく富士山が描かれています。

夏至の日(6月21日4:30頃)の前後数日間は、夫婦岩の中心にある富士の上から太陽が昇るそうです。

上段の夫婦岩の説明文に「夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており・・・」とあります。

「夫婦岩の中心」に「興玉神石」「富士山」「夏至の太陽」が重なる奇跡場面が、この「日の出遥拝案内図」に描かれているようです。



境内に掲示されていた「注連縄張神事」のポスターです。

夫婦岩の上空から神事の様子をとった写真が掲載されていました。

左手の陸地には見物する人々があふれています。

■頂いた「二見興玉神社」しおりに神事の説明文があり、転記します。
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特殊神事
大注連縄張神事
夫婦岩は「日の大神」と夫婦岩沖合の猿田彦大神縁りの「輿玉神石」を拝する鳥居の役目をしております。
五月、九月、十二月、皆様方の御奉献により大注連縄を新しく張り替え大神様の御神威は益々光り輝きます。

藻刈神事
五月二十一日「輿玉神石」より無垢塩草[むくしおくさ]を採取します無垢塩草は、大日に干して祓の具、不浄祓守となります。
猿田彦大神は甦りの神と称えられております。

夏至祭と禊の神事
早い暁、夫婦岩より霊峰富士の神威を仰ぎ、その背に差し昇り御光洋上に輝く太陽を拝するとき、神神[こうごう]しく神秘的な壮厳さは王さに大照大神であります‥、夏至の当日日の出前に夏至祭を斎行し皆棟の御多幸御健勝また世界平和を御祈願します。
日の出とともに禊をし、「日の大神」「猿田彦大神」の御加護を戴きましょう。
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志摩国一宮の「伊雑宮」へ参拝

2009年08月26日 | 近畿地方の旅
三重県志摩市磯部町の「おうむ岩」を下って「伊雑宮」[いざわのみや]へ向かいました。

「伊雑宮」は、伊勢神宮 内宮の別宮で、志摩国一の宮として崇められています。



11:00頃、「伊雑宮」[いざわのみや]の参道口へ到着しました。

左手の駐車場から歩いてきましたが、参拝者が少なく、ゆったりとした気持ちで参拝できました。

■「日本の神々 神社と聖地」谷川健一著に「伊雑宮」の由緒が書かれていました。
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『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御世、皇女倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贅を奉るべき地を選定せんと志摩国を巡行したとき、伊佐波登美命が倭姫命を奉迎して磯部の地に神宮を営んだのが、伊雑宮の創立であるという。
『皇太神宮儀式帳』には「伊雑宮一院 志摩国答志郡伊雑村にあり、大神宮以南相去ること八十三里 天照大神遥宮と称す」と記され、『延書式』の伊勢大神宮式にも同様のことが記されている。すなわち、帳・式ほともに当宮を天照皇大神を遥拝する宮としているのであるが、一般に中世・近世には、『倭姫命世記』の記述から、当宮は伊射波登美命と玉柱屋姫命を祀る宮だと信じられていた。しかし明治維新後は天照大神の御魂と定められて今日に至っている。
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「伊雑宮」の境内と、付近の地図です。

東の参道口(赤丸印)から西の神殿の前まで一本道でした。

参道口の鳥居をくぐると左手に「衛士派出所」、右手に「宿営屋」があり、西に突き当たると右手に「伊雑宮」の神殿が配置されています。



参道口を入り右手にある留守のような「宿営屋」(社務所)です。

向かいには「衛士派出所」の交番のような感じの小さな建物があり、こちらも留守のようでした。

「宿営屋」の左右に大木がそびえています。



「宿営屋」の左にある大木です。

大木の根元が異様に丸く膨れ、巨大なカボチャのようにも見えます。



参道を進むと左手に塀で囲われた、井戸がありました。

通り過ぎて振り返って撮った写真です。

塀に囲まれ、使われていないのでしょうか。

水を汲まないと、井戸は、水の道が途絶えてしまいます。



右手の参道の脇に小さな小屋が建っていました。

資料がなく、建物の名は分かりませんが、倉庫のようです。

案内板が欲しいものです。



右手に見える最初の小屋のような建物を過ぎると、つい立があり、二つの建物が見えます。

奥の建物は、平屋の倉庫のようですが、手前の壁や床のない建物は内宮・外宮でも見た形式です。



右手の建物を通り過ぎ、参道口を見渡した景色です。

帰り際まで他の参拝者がいなく、妻と二人の貸切り状態の参拝でした。

杉の大木が斜め45度くらいに立っているのが不思議です。



「伊雑宮」 の社殿が見えてきました。

既に、参拝した内宮・外宮の別宮の建物とほとんど同じ姿のようです。

鰹木は6本(内宮は、10本)、千木の先は、内削ぎで水平にカットされ、内宮と同じものです。



「伊雑宮」 のある磯部の等高線のある地図です。

向かって左上に国民宿舎と「おうむ岩」があります。

「伊雑宮」の周辺は、「磯部町上之郷」で、川を挟んで南に「磯部町下之郷」があります。

それぞれに水田が広がり、昔の志摩国では数少ない田園地帯です。

■「日本の神々 神社と聖地」谷川健一著に「皇太神宮儀式帳」【804年(延暦23)】を引用したと思われる「磯部の地」に関する記述がありました。
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磯部の地には、はじめは伊雑神戸と粟島神戸があり、両者は磯部の地を貫流する野川を堺としていたようであるが、のちに合併して伊雑神戸と称されることになる。
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「神戸」とは特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のことだそうで、耕作される水田を「神田」と読んでいました。

ここ磯部の地の人々の労役や、「神田」からの収入が、伊勢神宮の運営を支えていたようです。(戦国時代まで?)

資料の記述に「伊雑神戸」「粟島神戸」が野川を堺としていたとあり、「磯部町上之郷」と、南の「磯部町下之郷」が比定されます。

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「Wikipedia 伊雑宮」の記載によると「鳥羽市を中心に鳥羽市安楽島町の伊射波神社※(いざわじんじゃ)を志摩国一宮とする異論がある。」とあります。

延喜式神名帳によると志摩国答志郡に「粟嶋坐伊射波神社」(二座・並大)があり、「伊雑宮」ではなく「伊射波神社」※を比定する説です。

その比定理由の一つに「粟嶋[あわしま]」と「安楽島[あらしま]の地名が似ていることがあげられています。

おそらく野川を堺としていた「粟島神戸」の文献の認識がなかったものと推察されます。

戦国時代末期、九鬼嘉隆に神戸を没収された伊雑宮側は、長期間にわたる執拗な神領復興の活動を続けていたようです。

その対抗上、九鬼側から「伊射波神社」※を「粟嶋坐伊射波神社」に比定する説を流布する目的で出されたものとも考えられます。
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※かって「伊射波神社」は、「加布良古神社」[かぶらこじんじゃ]と呼ばれていたが、明治の初めに改称されたようです。

志摩市磯部町のちょっと不思議な「おうむ岩」

2009年08月21日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮の参拝を終え、志摩市磯部町の皇大神宮別宮「伊雑宮」[いざわのみや]へ行く途中、磯部町恵利原の「おうむ岩」へ立ち寄りました。

「おうむ岩」は、音がこだまする岩壁で、相手の言葉をそのまま繰り返す「オウム返し」の言葉からこの岩の名前が付けられたものと思われます。



国民宿舎「伊勢志摩ロッジ」前の広場の片隅に「おうむ岩」(鸚鵡石」[おうむいわ])の案内板がありました。

左端に「おうむ岩展望台」に上る石段があり、そのすぐ右手に「おうむ岩」へ下る道があり、進んで行きました。

■鸚鵡石[おうむいわ]の案内板より
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鸚鵡石
「鸚鵡石」は、恵利原の和合山とゆう地にあり。この石のことは「伊勢参宮春の賑[にぎわい]」等にも記されて、往古より文人墨客の来遊が頗[すこぶ]る多い。ひと度この処にいり、語場[かたりば]より手拍子で得意の喉をうならせ、高吟すれば、巨巌は、之に応へて「聞石」[ききいし]と呼ぶ辺りの山小屋で聞く山彦の美しい音色は訪れる人の心をひきつける。
江戸時代、磯部を訪れた高山彦九朗。佐久間象山。俳人曽良等は、高さ二十七間(五〇米)巾八七間(一五八米)の石英岩の大岩壁を眺め乍らこの付近を探勝いつゝこゝをさる。
南約一粁今も皇大神宮別宮として崇敬されている志摩の大社(?)伊雑宮に詣でている。
巨巌の頂上より望む、なだらかなみどりの山脈[やまなみ]は、「神話の故郷」ともゆうべき「伊勢志摩」と共に、俄に脚光をあびつゝある。
  伊勢志摩国立公園
   磯部町 磯部町観光協会 恵利原区
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下り道を進むと左手に分かれる道があり、「おうむ岩 語り場」への案内標識がありました。

石柱に文字が刻まれていますが、達筆でまったく読めません。残念です。



道を下ると左手に「聞き場」と書かれた標識と、休憩所のような建物がありました。

この建物が「聞き場」で、中に座ってこだまを聞くようです。

建物の向こうに石段と、「おうむ岩」の切り立った岩壁が見えます。

右手の塀は、下の「語り場」から音が直接聞こえないようにするためのものと思われます。



この岩壁が、「おうむ岩」です。

岩壁の前に木製の鳥居と、祠が見えます。



「おうむ岩」に少し近づいた写真です。

「おうむ岩」の岩壁下部中央が、窪んだ感じで、音の反射が一定方向に集中する構造になっているように思えます。



「聞き場」の前から道を下った「語り場」[かたりば]方向を見た景色です。

妻が歩いている、すぐ右手の小さな建物が、「語り場」です。

「おうむ岩」全体の位置関係は、三角定規の頂点の配置に似ています。

ここ「聞き場」は内角90度の角、この先の「語り場」が内角30度の角、「おうむ岩」は内角60度の角の様になっています。(角度は違いますが・・)



この小さな建物が、「語り場」です。

中にはイスとテーブルがあり、拍子木が置かれていました。

この中で拍子木を打つと、入口から音が出て、「おうむ岩」の岩壁に当り、「聞き場」へ伝わります。

小さな入口だけから音が出るように建物を工夫して造っているのが分かります。



「語り場」の前から斜め上の「おうむ岩」を見上げた景色です。

「おうむ岩」へ直接登る石段の先に小さく鳥居が見えています。

鳥居の左手に白い塀が見え、その向こうに「聞き場」があります。

「語り場」と「聞き場」を妻と交代で、体験してみましたが、「語り場」の音があたかも「おうむ岩」から発したように実感しました。

童心に帰り、ちょっと無邪気な遊びでしたが、古代祭祀場の可能性もある岩壁や、岩の前の祠に祀られている神様の方が気になりました。



元の「伊勢志摩ロッジ」前の広場に戻り、「おうむ岩展望台」に登りました。

展望台に登り、振り返った景色です。

写真左手に「伊勢志摩ロッジ」の白い建物が見えますが、広場から比較的簡単に登れました。



展望台にあった周辺の案内図です。

これから参拝する「伊雑宮」の位置も書かれています。



上段の案内図とほぼ同じ方向を見た景色です。

「伊雑宮」の美しい緑の森も見え、気持ちの良い展望台でした。


油絵「道三川のバラ」

2009年08月18日 | 妻の油絵
妻の油絵「道三川のバラ」です。(F20号)



近所を流れる道三川を少し南東に下った「田中橋」付近の風景を描きました。

先日の日曜日まで天満屋福山店の8階の展覧会に前回掲載の絵と共に展示して頂いていました。

福山の街の中を流れる道三川の川辺には絵のように散策の道が造られています。

川には鯉の他、小魚や、ザリガニが住み、川辺には四季の花が植えられ、散策する者を楽しませてくれます。

油絵「夏の薔薇」

2009年08月15日 | 妻の油絵
妻の油絵「夏の薔薇」です。F6号


6月中旬頃の作品で、これまで描いたことのない新しいイメージにチャレンジしたそうです。

向かって左下の薄いピンクの大輪の花と、花瓶の隣にあるヨーロッパ風の陶器の模様が、全体のイメージを変えているように思えます。

今年は、梅雨明けが遅く、街のバラや、紫陽花の花を長く見ることができたような気がします。

夏になり、花瓶に美しく映える美しいバラの花にちなんで題名をつけました。

神風で、国難を救った内宮「風日祈宮」

2009年08月14日 | 近畿地方の旅
「荒祭宮」[あらまつりのみや]の参拝の後、別宮「風日祈宮」[かざひのみのみや]へ向かいました。



参道脇の立派な門をのぞくと、「神楽殿」の立派な建物がありました。

玄関の上に曲線の「唐破風屋根」[からはふやね]が二つ並んでいる珍しい建物です。

神楽殿では私祈祷の神楽が行なわれているそうです。



神楽殿の隣に「授与所」[じゅよしょ]があり、次々と、御守等を買う人がやってきます。

母や、知人へのお土産に、お守りを数個買いました。



神楽殿の向かいに「風日祈宮」[かざひのみのみや] へ入る参道がありました。

「風日祈宮」へ向かう道を進むと「島路川」に架かる「風日祈宮橋」が見えてきます。

「島路川」は「五十鈴川」の支流で、御手洗場の100m上流で合流しています。



「風日祈宮橋」から「島路川」の美しい清流が見えます。

この「風日祈宮」の参道に横たわる「島路川」と、「風日祈宮橋」は、あたかも内宮正殿の「五十鈴川」と、「宇治橋」のミニチュア版のように造られたように思えます。

外宮の「風宮」でも書きましたが、元寇の時に吹いた「神風」で、二階級特進で「別宮」の社格まで上りつめたようです。



「風日祈宮」[かざひのみのみや]の社殿です。

祭神は、風の神様、「級長津彦命」[しなつひこのみこと]と「級長戸辺命」[しなとべのみこと]が祀られているそうです。

■矢野憲一著「伊勢神宮―知られざる杜のうち」 (角川選書) の一節です
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鎌倉時代、蒙古(元)の大軍が襲来した時、朝廷は公卿勅使を神宮に派遣し、風の神に祈話した。
風社の社殿が鳴動して、赤い雲が立ち上り、天地を照らし大風が石や砂を巻き上げて巨木を倒して、西の方に駆け抜け、九州の博多湾では猛風が起こり、怒涛天を衝き、来襲する敵艦は沈没、十万の元兵はたちまち全滅した。それが二度もあった。
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しかし、鎌倉時代、蒙古(元)の大軍が襲来した時、この神様に「神風」を吹かせて下さいと祈り、それが実現したとは信じられません。

おそらく、台風で蒙古の大軍が壊滅し、その後造られた話ではないでしょうか。

日本が元によって征服されようとする最大の国難に、二度にもわたり奇跡的に助かったことは、決して偶然とは思えなかったものと思われます。



「参集殿」で放映されていた「風日祈宮」の神事の様子です。

今でも風の神様に感謝をし、天候の無事を祈っているようです。



上段の写真と同様、「参集殿」でビデオ放映されていた「風日祈宮」の5月の神事に「蓑と笠」お供えした場面です。

「風日祈祭」の昔の祝詞に「雨甘[あめあま]く、風和[かぜやわらか]にして」という一節があるそうで、適当な量の雨と、風を神様にお祈りしているそうです。

蓑・笠の材料は、菅[すげ]だそうで、「笠縫内人」[かさぬいうちんど]という専門の人によって造られているそうです。

「笠縫」[かさぬい]は、古代に天照大御神を祀っていた土地の名前でもあります。

万葉の時代から「神風の伊勢」と言うように「伊勢」の枕詞は「神風」です。

「神風」の本来の意味は、鎌倉時代の蒙古襲来の時に吹いた奇跡の「神風」ではないようです。

「伊勢神宮―知られざる杜のうち」 の本の一節には「神威が強い国という意味があろう・・・」とあります。

伊勢神宮 内宮 第一の別宮 「荒祭宮」、鳥居のない理由

2009年08月09日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮 内宮の御正宮を参拝し、別宮「荒祭宮」[あらまつりのみや]へ歩いて行きました。



緩やかな上り坂を進むと、左手に建物があり、立て札に「御稲御倉」[みしねのみくら]と書かれています。

■Wikipediaiに「御稲御倉」の説明文がありました。
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稲御倉は御稲御倉神を祀る内宮所管社で、神宮神田で収穫された稲を納める倉でもある。社殿は高床式倉庫に近い神明造で、社殿に垣がないため神明造の特徴を観察することができる。
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この中には籾[もみ]のままの抜穂が保存されているようで、脱穀をして保存する一般的な方法とは違う弥生時代の方法が残っているようです。

矢野憲一著「伊勢神宮 知られざる杜のうち」の記述では、扉を開いた瞬間、生温かい懐かしい米の香りが漂い、稲の魂を感じて思わずひれ伏してしまうそうです。

参道脇に、なにげなくある建物にも様々な行事や、小さなドラマがあるようです。



建物中央の扉の金具を拡大して見たものです。

「御稲御倉神」を祀る神殿として立派な装飾がされているのでしょうか。

これらも式年遷宮で、作り替えられるものと思われます。



「御稲御倉」を過ぎ、まもなく正面に「外幣殿」[げへいでん]が見えてきます。

外幣殿[げへいでん]は、「古神宝類」が納められている建物とのことだが、扉の金具もなく、質素な建物です。

中にはいっる「古神宝類」とはどんなお宝か分かりませんが、扉に架けられた黒い錠ては、大切な「古神宝類」を守るには少したよりない気持ちになります。



「外幣殿」からしばらく進んだ下りの石段から撮った「荒祭宮」[あらまつりのみや]です。

こちらと「荒祭宮」の間は低い地形で、階段の下りと、上りが連続します。

朝8:30頃でしたが、人出が次第に増えてきました。


「荒祭宮」[あらまつりのみや]に近づいてきました。

「荒祭宮」は、内宮第一の別宮で、御祭神が、「天照大御神」の荒御魂「天照坐皇大御神荒御魂」[あまてらしますすめおおみかみのあらみたま]をお祀りしるているそうです。

外宮の別宮 多賀宮[たかのみや] の御祭神も、外宮の神様「豊受大御神荒御魂」[とようけおおかみのあらみたま]で、同じ荒御魂をお祀りしるているようです。

この二つの社殿には鳥居がなく、小高い場所に建つと言う特徴があります。

このことから、これらの別宮は、当初には参拝を受ける社殿ではなく、神の降臨を祈った神事の場所だったとも考えられます。

京都「上賀茂神社」には深夜に非公開で行われる「御阿礼神事」[みあれしんじ]では、屋外に設けた祭壇で天に祈り、降臨した神が憑依した榊を神殿に運び、祀る神事があります。

この「荒祭宮」の場所でも同様に、「天照坐皇大御神荒御魂」に降臨を祈り、御正殿までご案内する神事があり、その後「荒祭宮」の社殿造営に至ったものと推測しています。

内宮「御正宮」には「和御魂」、「荒祭宮」には「荒御魂」と同じ神様が二つの性格で祀られているとされていますが、「荒御魂」[あらみたま]は、「新御魂」の意味で、天から新たに降臨された御魂だったものと考えます。

そういえばこの辺りの石段に「踏まずの石」と呼ばれる割れた石があると聞いていましたが、見逃していました。

「踏まずの石」は、割れ目が「天」の字の形になっているそうで、見落としたのは少し心残りでした。

油絵「ひまわり」

2009年08月07日 | 妻の油絵
妻の油絵です。


昨年の夏の終り頃に描いた「ひまわり」がサインもされず、棚に片づけられていたものが見つかりました。

運悪く、出展のチャンスがなかった絵でした。

改めて見るとうまく描けているようで、早速、撮影して掲載することにしました。

備前焼の花瓶と、ひまわりが、不思議に調和しているようです。


函館旅行と、「日本最古のコンクリート電柱」見学

2009年08月05日 | 北海道の旅
8月1~3日、函館旅行に行って来ました。熊野・伊勢・志摩旅行の記録をちょっと中断して近況報告です。

函館旅行を計画したきっかけは、5月の熊野の旅行で見た「日本写真界の先駆者 田本研造之碑」と刻まれた石碑でした。 (このブログ 2009-05-19 熊野「鬼ヶ城」の石碑で知った写真家「田本研造」 でも紹介しました)

幕末・明治の写真家「田本研造」(熊野市出身)は、函館で右足を失いながらも写真家として偉業を残した人で、「函館市写真歴史館」に「田本アルバム」が展示されていることを知りました。(函館市中央図書館のサイトにも写真を公開中)

「田本研造」は、「箱館戦争」直前に「榎本武揚」「土方歳三」の写真を撮ったことでも知られ、北海道開拓の貴重な記録写真などを残した興味深い人物です。

先月7/5 福山市ローズコム(中央図書館)で「福山藩の箱館戦争」の講演会があり、旧幕府軍と、明治新政府軍が戦った「箱館戦争」で、福山藩(広島県東部)も新政府軍の主力部隊として500名以上を出兵したことを知りました。

又、講演会では旧幕府軍は、幕府の海軍副総裁だった「榎本武揚」を総裁とする箱館政権を樹立して戦いましたが、「榎本武揚」の父「箱田良助」は、福山市神辺町箱田の出身だったことも驚きでした。

「箱田良助」は、日本地図を作成した「伊能忠敬」筆頭の弟子で、北海道の測量のスタート地点が函館だったことも何かの縁だったかも知れません。

しかし、最も函館に大きな影響を与えたのは日米和親条約を締結し、函館を開港した備後福山藩主で、江戸幕府老中首座の「阿部正弘」だったと思われます。

黒船の到来と、その外交圧力で条約締結を承諾した老中「阿部正弘」や、長州藩の倒幕軍に降伏し、箱館戦争に駆出された福山藩の判断には、歯がゆい想いがしますが、徹底抗戦して多くの死者を出した、榎本武揚や、会津藩の判断と、極めて対象的です。

それぞれの立場、置かれた状況の違いを含めて、激動の時代の判断のあり方を考えさせられる歴史の場面でもあるようです。

備後福山と函館の様々な関係を知り、明治維新を挟む激動の時代に想いを馳せた函館旅行になりました。



中心が青く、白い花弁の額紫陽花です。

今回の函館旅行で、最も印象的だった花は函館市内各所で満開だった紫陽花でした。



額紫陽花は、函館市末広町のマンションの玄関付近に植えられていました。

レンガの舗道を向かって右に歩いて行きました。



マンションの前を通り過ぎ、振り返った景色です。

マンションの前にコンクリートの大きな電柱が立っています。

このブログ 2009-07-06 外宮 北御門前に立つ80年前のコンクリート電柱で紹介した「日本最古のコンクリート電柱」で、大正12年に造られたとされています。

この「日本最古のコンクリート電柱」も伊勢外宮の昭和三年に造られたコンクリート電柱から興味を持ち、見学を楽しみにしていました。



電柱の根元部分です。表面にはひび割れがありますが、大正時代のものとは思えない新しそうな外観でした。

案内板がなく、これが本当に「日本最古のコンクリート電柱」なのかと持参した地図で確認しました。

伊勢神宮 外宮前に立つコンクリート電柱は、断面が丸いものでしたが、この「日本最古のコンクリート電柱」の断面は四角形です。





電柱のてっぺんを見上げてみました。

電線の他、電話線などもあるようで、やはりバリバリの現役電柱に見えます。



電柱を少し見上げた辺りに鉄のサビか目立つようになっていました。

これからも長く立ち続けるように保全をしてほしいものです。



電柱に木の板が取り付けられ、こんな表示がありました。

一番上に「北電」(北海道電力)と書かれていますが、以下は何のことやらさっぱり分かりません。



マンション一階にある喫茶店です。

このお店の前に「コンクリート電柱」があります。

電柱は、以外に古さを感じませんが、むしろこちらの喫茶店のほうが、レトロな雰囲気にも思えます。

油絵「紫陽花と、びわ」

2009年08月01日 | 妻の油絵
妻の油絵です。



6月に描いた油絵「紫陽花と、びわ」です。(F6号)

このブログ2009-06-04「アジサイ」(5月の作品)と同じ紫陽花ですが、今回の品種は「額紫陽花」[がくあじさい]です。

前回は、白い花瓶でしたが、今回は青いガラスの花瓶で涼しさを演出しているようです。

葉の付いた「びわ」の実が、花瓶の横に脇役らしく描かれています。

同じ季節に紫陽花の絵を2度も描くのは、記録的に長かった今年の梅雨のせいかもしれません。

中国地方の梅雨も8月に入り、やっと梅雨明け宣言が出そうです。