南九州旅行1日目夕方5時近く、アヤメの花が残る都城市内の「早水公園」と、公園内に祀られている「早水神社」を訪れました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/87/119a4a9712314908069ab9aa9f758ddb.jpg)
澄んだ池の水面に緑の木々と、「髪長姫橋[かみながひめばし]」の赤い欄干が映る風景です。
橋の架かる池は、「髪長姫池」で、橋の向こうの林の中に「早水神社」が建つ、すがすがしい公園でした。
「髪長姫[かみながひめ]」は、古墳時代の「仁徳天皇[にんとくてんのう]」の妃で、日向の豪族「諸県君 牛諸井[もろがたのきみ うしもろい]」の娘とされています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/27/044e010eac801b949cb0ff11751f9e8b.jpg)
「早水神社」参道にあった「早水公園」の案内図の一部です。
広い「早水公園」は、道路を挟んで東西に分かれており、東側の「早水神社」に近い第2駐車場へ駐車しました。
第2駐車場の北に「髪長姫池」があり、「髪長姫橋」は、(2)の場所です。
■公園案内図にあった説明文です。
******************************************************************************
早水公園案内図
ここ早水の地には、髪長姫の産湯として使われたと言う井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛える池が当公園内に6箇所あります。当時、髪長姫はその美貌で都にまで知られており、応神天皇によって召され、第4子仁徳天皇に娶[めと]られたと言われています。そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。その後、昭和41年万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。昭和56年度に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生広場、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。その他、児童プールやあやめ園、外来樹め森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/f3/3b0cdd4178f198a00c103d46111ce33f.jpg)
「髪長姫池」の東岸、「早水神社」の参道脇に柵で囲まれた小さな円墳が見えます。
そばに立つ案内板を読む限り、仁徳天皇や、髪長姫の時代の古墳ではなく、造られた時代は不明とされ、墳丘頂部から出土した埋納品は平安時代のものだったようです。
■参道脇に案内板がありました。
******************************************************************************
種別 県指定文化財
名称 都城市沖水古墳
指定年月日 昭和十一年七月十七日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘一基(二号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和四十九年に墳丘頂部から平安時代に埋納[まいのう]された鋳銅製経筒[ちゅうどうせいきょうづつ]・中国製湖州鏡[こしゅうきょう](宋代・浙江省湖州産)・玉石[ぎょくせき]とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約六十センチメートル離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒式であり、蓋[ふた]は宝珠形つまみのある笠蓋である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成十年九月
都城市教育委員会
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/8c/61a8eb7fe75b5f245a1566835c2d9256.jpg)
「髪長姫池」の東岸、円墳の北にある「髪長姫の泉水」です。
「髪長姫の泉水」は、参道脇の石垣の下に湧いているもので、水辺に下りて行く石段も見えます。
■「髪長姫の泉水」の案内板がありました。
******************************************************************************
仁徳天皇妃 髪長姫の泉水
この湧水は 早水神社祭神髪長姫が産湯を使われた井戸と申し伝えます。
昔五世紀頃 国造諸県君牛諸井[もろあがたのきみうしもろい]は 諸県地方を治めて居り この地方の豪族の娘と結婚し その間に生まれた娘髪長姫は 絶世の美人でしたので朝廷に召されました。
時の皇太子大雀命(仁徳天皇)は 難波の高津宮に上がられた姫を一目ご覧になり その美しさに心を打たれ 武内宿祢大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来 此の湧水を飲み 又 顔や手を洗うと美人になると言伝え 近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み 手や顔を洗い 神社に参拝する風習があります。
仁徳天皇・大日下王 目弱王
髪長姫・若日下部命
雄略天皇
髪長姫
諸県君牛諸井 大夷持命(三俣邇[ミマタノムラジ])この地方を治めた
五百津御気主命(川東乙戸神社祭神・髪長姫について行き朝廷に仕えた)
昭和五十九年八月吉日 早水神社
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/d6/28ba4628f6a141dbab42f3fbd11be6b4.jpg)
天皇家と、日向豪族の系譜を対比させ、上段に応神天皇以前、下段に応神天皇以後の時代に整理していますので、以下の記述の参考にして下さい。
「髪長姫の泉水」の案内板の後半、「仁徳天皇・大日下王 目弱王」以下の記述で、説明もなく羅列された名前を不思議に思い、調べてみると、そこには古代に起きた悲惨なドラマが秘められていることが分りました。
案内板の記載に「仁徳天皇」とその妃となった「髪長姫」の次に「大日下王[くさかのみこ]」「若日下部命[わかくさかべのみこと]」とあるのは、二人の間に出来た皇子と、皇女の名で、「目弱王[まよわのみこ]」は、「大日下王」の皇子でした。
又、これらの名は、その次の「雄略天皇」と共に古代に起きた凄惨なドラマの登場人物でもありました。
成人した「大日下王」は、「仁徳天皇」を継いだ「履中[りちゅう]天皇」の皇女「中蒂姫[なかしひめ]」を妃とし、二人の間には皇子「目弱王」が誕生していました。
「大日下王」は、時の「安康天皇」から妹の「若日下部命」を「安康天皇」の弟「大長谷王[おおはつせのみこ](後の雄略天皇)」の妃になるよう求められ、承諾しましたが、使いの者の讒言で、断ったとされ、誅殺されてしまいます。
更に「安康天皇」は、「中蒂姫」を自分の后としますが、その後、連れ子の「目弱王」は、父「大日下王」を殺したのが「安康天皇」と知り、寝ている天皇を刺し殺してしまいます。
「若日下部命」を妃とした弟の「大長谷王」は、事件後「目弱王」を殺して「雄略天皇」となりましたが、讒言に始まる一連の事件は周囲の豪族を巻き込んだ血みどろの皇位争いでもあったようです。
面積が世界最大と誇る「仁徳天皇陵」が造営された時代の生々しいドラマでしたが、「髪長姫」の嘆きが聞こえてくるようです。
系譜の最初「景行天皇」は、九州地方の平定で、日向の高宮に数年間滞在中、妃とした「御刀媛[みはかしひめ]」との間に「豊国別皇子」が生まれ、「日向国造祖」となり、その孫娘「泉長媛」は応神天皇妃となるなど、「髪長姫」以前にも日向と天皇家のつながりが続いており、思った以上に大和と地方の緊密な関係がうかがわれます。
又、「諸県君[もろあがたのきみ]」の例にあるように「君」が付く地方豪族は、天皇の血統と考えられ、その後の時代に起こった「磐井の乱」の「筑紫君磐井」も、「諸県君」をはるかにしのぐ有力な天皇の血統だったのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/7b/e4b16c678e79f5a464dcb731cb12ec7d.jpg)
「早水神社」の参道に建つ祭神の石碑です。
上段に三柱の祭神「応神天皇」「髪長姫」「諸県君 牛諸井[もろあがたのきみ うしもろい]」、下段に三柱の合殿神「神功皇后」「玉依姫」「早水天神」の名が刻まれています。
最初の祭神には「応神天皇」、その下に合殿神「神功皇后」と母子の祭神が並ぶのは八幡神社でよく見かけます。
続く祭神に「髪長姫」「諸県君牛諸井」と父子が並ぶものの「髪長姫」を妃とした「仁徳天皇」の名が無く、その父「応神天皇」と、「髪長姫」が並ぶのはやや不自然に思われます。
又、「玉依姫」は、日向生誕の神武天皇の母、「早水天神」は平安時代に始まる天神信仰の神「菅原道真」を祀ったものでしょうか。
六柱の祭神や、合殿神を見ると、複数の神社が合祀されたようにも思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/f4/dd0d7c3c6ecf894bef8b3fee54d2d24d.jpg)
「早水天神」拝殿にガラスケースに美しい人形がありました。
てっきり美しい「髪長姫」の人形と思い、社殿を撮影するのを忘れて眺めていました。
しかし、「祭神髪長姫衣装」と書かれたガラスケースの貼紙の末尾「衣装」から、古墳時代の衣装を再現してマネキン人形に着せているようで、惑わされていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/9d/8d09787a43112471ea0822e072eecfd4.jpg)
拝殿の入口から見た祭壇の風景です。
何故か、写真左手の白い紙幣の下がぼやけて光っていました。
「髪長姫」のお出迎えだったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/95/cf0f3800a617ac9009a89c7721d7d62a.jpg)
「早水公園」の東にある「あやめ園」の風景です。
既に開花のピークが終わり、花もまばらです。
上の案内図にもあるように、中央の東屋から放射線状に6本の散策道が造られ、円形のあやめ畑は六分割されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9b/970a53b9ae6a3ecc577aaa4e26ad5280.jpg)
中央の東屋を背にして見た「あやめ園」の風景です。
「あやめサミット記念植栽」と書かれた案内板と、東屋を円形の道に囲むように全国に分布する市町村名の看板が並んでいました。
都城で、あやめサミットが開催され、その記念でこの「あやめ園」が造られたのでしょうか。
「平成6年4月27日」とあり、九州南部ではあやめの花のピークは4月下旬なのでしょうか。
■あやめ園の案内板です。
******************************************************************************
第7回 全国市町村あやめ指定自治体交流会議
あやめサミット記念植栽
?~ 70周年ウエルネス都城 平成6年4月27日
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/ac/577643e86e06da56280205b05be2cea9.jpg)
帰りに「髪長姫橋」を見ると、橋のたもとに白い鳥が見えました。
写真右上は、ズームで撮った鳥で、水辺に伸びた細い木の枝にとまっています。
鋭い目の上から後方に太い眉毛のような黒い羽根がアンテナの様に頭の後ろまで伸びて、長いノドにも黒く細長い線が見られます。
調べると、鷺の一種「アオサギ」のようですが、この姿からアオ(青)のイメージは湧いてきません。
「早水神社」や、「髪長姫の泉水」などを訪れ、改めて記紀の神話を読んでみると、書かれている物語が史実だったように思われてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/87/119a4a9712314908069ab9aa9f758ddb.jpg)
澄んだ池の水面に緑の木々と、「髪長姫橋[かみながひめばし]」の赤い欄干が映る風景です。
橋の架かる池は、「髪長姫池」で、橋の向こうの林の中に「早水神社」が建つ、すがすがしい公園でした。
「髪長姫[かみながひめ]」は、古墳時代の「仁徳天皇[にんとくてんのう]」の妃で、日向の豪族「諸県君 牛諸井[もろがたのきみ うしもろい]」の娘とされています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/27/044e010eac801b949cb0ff11751f9e8b.jpg)
「早水神社」参道にあった「早水公園」の案内図の一部です。
広い「早水公園」は、道路を挟んで東西に分かれており、東側の「早水神社」に近い第2駐車場へ駐車しました。
第2駐車場の北に「髪長姫池」があり、「髪長姫橋」は、(2)の場所です。
■公園案内図にあった説明文です。
******************************************************************************
早水公園案内図
ここ早水の地には、髪長姫の産湯として使われたと言う井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛える池が当公園内に6箇所あります。当時、髪長姫はその美貌で都にまで知られており、応神天皇によって召され、第4子仁徳天皇に娶[めと]られたと言われています。そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。その後、昭和41年万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。昭和56年度に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生広場、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。その他、児童プールやあやめ園、外来樹め森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/f3/3b0cdd4178f198a00c103d46111ce33f.jpg)
「髪長姫池」の東岸、「早水神社」の参道脇に柵で囲まれた小さな円墳が見えます。
そばに立つ案内板を読む限り、仁徳天皇や、髪長姫の時代の古墳ではなく、造られた時代は不明とされ、墳丘頂部から出土した埋納品は平安時代のものだったようです。
■参道脇に案内板がありました。
******************************************************************************
種別 県指定文化財
名称 都城市沖水古墳
指定年月日 昭和十一年七月十七日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘一基(二号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和四十九年に墳丘頂部から平安時代に埋納[まいのう]された鋳銅製経筒[ちゅうどうせいきょうづつ]・中国製湖州鏡[こしゅうきょう](宋代・浙江省湖州産)・玉石[ぎょくせき]とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約六十センチメートル離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒式であり、蓋[ふた]は宝珠形つまみのある笠蓋である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成十年九月
都城市教育委員会
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/8c/61a8eb7fe75b5f245a1566835c2d9256.jpg)
「髪長姫池」の東岸、円墳の北にある「髪長姫の泉水」です。
「髪長姫の泉水」は、参道脇の石垣の下に湧いているもので、水辺に下りて行く石段も見えます。
■「髪長姫の泉水」の案内板がありました。
******************************************************************************
仁徳天皇妃 髪長姫の泉水
この湧水は 早水神社祭神髪長姫が産湯を使われた井戸と申し伝えます。
昔五世紀頃 国造諸県君牛諸井[もろあがたのきみうしもろい]は 諸県地方を治めて居り この地方の豪族の娘と結婚し その間に生まれた娘髪長姫は 絶世の美人でしたので朝廷に召されました。
時の皇太子大雀命(仁徳天皇)は 難波の高津宮に上がられた姫を一目ご覧になり その美しさに心を打たれ 武内宿祢大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来 此の湧水を飲み 又 顔や手を洗うと美人になると言伝え 近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み 手や顔を洗い 神社に参拝する風習があります。
仁徳天皇・大日下王 目弱王
髪長姫・若日下部命
雄略天皇
髪長姫
諸県君牛諸井 大夷持命(三俣邇[ミマタノムラジ])この地方を治めた
五百津御気主命(川東乙戸神社祭神・髪長姫について行き朝廷に仕えた)
昭和五十九年八月吉日 早水神社
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/d6/28ba4628f6a141dbab42f3fbd11be6b4.jpg)
天皇家と、日向豪族の系譜を対比させ、上段に応神天皇以前、下段に応神天皇以後の時代に整理していますので、以下の記述の参考にして下さい。
「髪長姫の泉水」の案内板の後半、「仁徳天皇・大日下王 目弱王」以下の記述で、説明もなく羅列された名前を不思議に思い、調べてみると、そこには古代に起きた悲惨なドラマが秘められていることが分りました。
案内板の記載に「仁徳天皇」とその妃となった「髪長姫」の次に「大日下王[くさかのみこ]」「若日下部命[わかくさかべのみこと]」とあるのは、二人の間に出来た皇子と、皇女の名で、「目弱王[まよわのみこ]」は、「大日下王」の皇子でした。
又、これらの名は、その次の「雄略天皇」と共に古代に起きた凄惨なドラマの登場人物でもありました。
成人した「大日下王」は、「仁徳天皇」を継いだ「履中[りちゅう]天皇」の皇女「中蒂姫[なかしひめ]」を妃とし、二人の間には皇子「目弱王」が誕生していました。
「大日下王」は、時の「安康天皇」から妹の「若日下部命」を「安康天皇」の弟「大長谷王[おおはつせのみこ](後の雄略天皇)」の妃になるよう求められ、承諾しましたが、使いの者の讒言で、断ったとされ、誅殺されてしまいます。
更に「安康天皇」は、「中蒂姫」を自分の后としますが、その後、連れ子の「目弱王」は、父「大日下王」を殺したのが「安康天皇」と知り、寝ている天皇を刺し殺してしまいます。
「若日下部命」を妃とした弟の「大長谷王」は、事件後「目弱王」を殺して「雄略天皇」となりましたが、讒言に始まる一連の事件は周囲の豪族を巻き込んだ血みどろの皇位争いでもあったようです。
面積が世界最大と誇る「仁徳天皇陵」が造営された時代の生々しいドラマでしたが、「髪長姫」の嘆きが聞こえてくるようです。
系譜の最初「景行天皇」は、九州地方の平定で、日向の高宮に数年間滞在中、妃とした「御刀媛[みはかしひめ]」との間に「豊国別皇子」が生まれ、「日向国造祖」となり、その孫娘「泉長媛」は応神天皇妃となるなど、「髪長姫」以前にも日向と天皇家のつながりが続いており、思った以上に大和と地方の緊密な関係がうかがわれます。
又、「諸県君[もろあがたのきみ]」の例にあるように「君」が付く地方豪族は、天皇の血統と考えられ、その後の時代に起こった「磐井の乱」の「筑紫君磐井」も、「諸県君」をはるかにしのぐ有力な天皇の血統だったのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/7b/e4b16c678e79f5a464dcb731cb12ec7d.jpg)
「早水神社」の参道に建つ祭神の石碑です。
上段に三柱の祭神「応神天皇」「髪長姫」「諸県君 牛諸井[もろあがたのきみ うしもろい]」、下段に三柱の合殿神「神功皇后」「玉依姫」「早水天神」の名が刻まれています。
最初の祭神には「応神天皇」、その下に合殿神「神功皇后」と母子の祭神が並ぶのは八幡神社でよく見かけます。
続く祭神に「髪長姫」「諸県君牛諸井」と父子が並ぶものの「髪長姫」を妃とした「仁徳天皇」の名が無く、その父「応神天皇」と、「髪長姫」が並ぶのはやや不自然に思われます。
又、「玉依姫」は、日向生誕の神武天皇の母、「早水天神」は平安時代に始まる天神信仰の神「菅原道真」を祀ったものでしょうか。
六柱の祭神や、合殿神を見ると、複数の神社が合祀されたようにも思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/f4/dd0d7c3c6ecf894bef8b3fee54d2d24d.jpg)
「早水天神」拝殿にガラスケースに美しい人形がありました。
てっきり美しい「髪長姫」の人形と思い、社殿を撮影するのを忘れて眺めていました。
しかし、「祭神髪長姫衣装」と書かれたガラスケースの貼紙の末尾「衣装」から、古墳時代の衣装を再現してマネキン人形に着せているようで、惑わされていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/9d/8d09787a43112471ea0822e072eecfd4.jpg)
拝殿の入口から見た祭壇の風景です。
何故か、写真左手の白い紙幣の下がぼやけて光っていました。
「髪長姫」のお出迎えだったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/95/cf0f3800a617ac9009a89c7721d7d62a.jpg)
「早水公園」の東にある「あやめ園」の風景です。
既に開花のピークが終わり、花もまばらです。
上の案内図にもあるように、中央の東屋から放射線状に6本の散策道が造られ、円形のあやめ畑は六分割されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9b/970a53b9ae6a3ecc577aaa4e26ad5280.jpg)
中央の東屋を背にして見た「あやめ園」の風景です。
「あやめサミット記念植栽」と書かれた案内板と、東屋を円形の道に囲むように全国に分布する市町村名の看板が並んでいました。
都城で、あやめサミットが開催され、その記念でこの「あやめ園」が造られたのでしょうか。
「平成6年4月27日」とあり、九州南部ではあやめの花のピークは4月下旬なのでしょうか。
■あやめ園の案内板です。
******************************************************************************
第7回 全国市町村あやめ指定自治体交流会議
あやめサミット記念植栽
?~ 70周年ウエルネス都城 平成6年4月27日
******************************************************************************
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/ac/577643e86e06da56280205b05be2cea9.jpg)
帰りに「髪長姫橋」を見ると、橋のたもとに白い鳥が見えました。
写真右上は、ズームで撮った鳥で、水辺に伸びた細い木の枝にとまっています。
鋭い目の上から後方に太い眉毛のような黒い羽根がアンテナの様に頭の後ろまで伸びて、長いノドにも黒く細長い線が見られます。
調べると、鷺の一種「アオサギ」のようですが、この姿からアオ(青)のイメージは湧いてきません。
「早水神社」や、「髪長姫の泉水」などを訪れ、改めて記紀の神話を読んでみると、書かれている物語が史実だったように思われてきました。