昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

南九州旅行No.9 髪長姫生誕の地「早水公園」

2012年06月24日 | 九州の旅
南九州旅行1日目夕方5時近く、アヤメの花が残る都城市内の「早水公園」と、公園内に祀られている「早水神社」を訪れました。



澄んだ池の水面に緑の木々と、「髪長姫橋[かみながひめばし]」の赤い欄干が映る風景です。

橋の架かる池は、「髪長姫池」で、橋の向こうの林の中に「早水神社」が建つ、すがすがしい公園でした。

「髪長姫[かみながひめ]」は、古墳時代の「仁徳天皇[にんとくてんのう]」の妃で、日向の豪族「諸県君 牛諸井[もろがたのきみ うしもろい]」の娘とされています。



「早水神社」参道にあった「早水公園」の案内図の一部です。

広い「早水公園」は、道路を挟んで東西に分かれており、東側の「早水神社」に近い第2駐車場へ駐車しました。

第2駐車場の北に「髪長姫池」があり、「髪長姫橋」は、(2)の場所です。

■公園案内図にあった説明文です。
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早水公園案内図
 ここ早水の地には、髪長姫の産湯として使われたと言う井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛える池が当公園内に6箇所あります。当時、髪長姫はその美貌で都にまで知られており、応神天皇によって召され、第4子仁徳天皇に娶[めと]られたと言われています。そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀ってあります。
 早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。その後、昭和41年万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。昭和56年度に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生広場、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。その他、児童プールやあやめ園、外来樹め森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
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「髪長姫池」の東岸、「早水神社」の参道脇に柵で囲まれた小さな円墳が見えます。

そばに立つ案内板を読む限り、仁徳天皇や、髪長姫の時代の古墳ではなく、造られた時代は不明とされ、墳丘頂部から出土した埋納品は平安時代のものだったようです。

■参道脇に案内板がありました。
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 種別 県指定文化財
 名称 都城市沖水古墳
指定年月日 昭和十一年七月十七日
 大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘一基(二号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和四十九年に墳丘頂部から平安時代に埋納[まいのう]された鋳銅製経筒[ちゅうどうせいきょうづつ]・中国製湖州鏡[こしゅうきょう](宋代・浙江省湖州産)・玉石[ぎょくせき]とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
 経筒と軽石製容器は約六十センチメートル離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
 経筒は円筒式であり、蓋[ふた]は宝珠形つまみのある笠蓋である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
      平成十年九月
      都城市教育委員会
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「髪長姫池」の東岸、円墳の北にある「髪長姫の泉水」です。

「髪長姫の泉水」は、参道脇の石垣の下に湧いているもので、水辺に下りて行く石段も見えます。

■「髪長姫の泉水」の案内板がありました。
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仁徳天皇妃 髪長姫の泉水
この湧水は 早水神社祭神髪長姫が産湯を使われた井戸と申し伝えます。
昔五世紀頃 国造諸県君牛諸井[もろあがたのきみうしもろい]は 諸県地方を治めて居り この地方の豪族の娘と結婚し その間に生まれた娘髪長姫は 絶世の美人でしたので朝廷に召されました。
時の皇太子大雀命(仁徳天皇)は 難波の高津宮に上がられた姫を一目ご覧になり その美しさに心を打たれ 武内宿祢大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来 此の湧水を飲み 又 顔や手を洗うと美人になると言伝え 近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み 手や顔を洗い 神社に参拝する風習があります。

仁徳天皇・大日下王 目弱王
  髪長姫・若日下部命
       雄略天皇

          髪長姫
諸県君牛諸井 大夷持命(三俣邇[ミマタノムラジ])この地方を治めた
          五百津御気主命(川東乙戸神社祭神・髪長姫について行き朝廷に仕えた)

昭和五十九年八月吉日 早水神社
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天皇家と、日向豪族の系譜を対比させ、上段に応神天皇以前、下段に応神天皇以後の時代に整理していますので、以下の記述の参考にして下さい。

「髪長姫の泉水」の案内板の後半、「仁徳天皇・大日下王 目弱王」以下の記述で、説明もなく羅列された名前を不思議に思い、調べてみると、そこには古代に起きた悲惨なドラマが秘められていることが分りました。

案内板の記載に「仁徳天皇」とその妃となった「髪長姫」の次に「大日下王[くさかのみこ]」「若日下部命[わかくさかべのみこと]」とあるのは、二人の間に出来た皇子と、皇女の名で、「目弱王[まよわのみこ]」は、「大日下王」の皇子でした。

又、これらの名は、その次の「雄略天皇」と共に古代に起きた凄惨なドラマの登場人物でもありました。

成人した「大日下王」は、「仁徳天皇」を継いだ「履中[りちゅう]天皇」の皇女「中蒂姫[なかしひめ]」を妃とし、二人の間には皇子「目弱王」が誕生していました。

「大日下王」は、時の「安康天皇」から妹の「若日下部命」を「安康天皇」の弟「大長谷王[おおはつせのみこ](後の雄略天皇)」の妃になるよう求められ、承諾しましたが、使いの者の讒言で、断ったとされ、誅殺されてしまいます。

更に「安康天皇」は、「中蒂姫」を自分の后としますが、その後、連れ子の「目弱王」は、父「大日下王」を殺したのが「安康天皇」と知り、寝ている天皇を刺し殺してしまいます。

「若日下部命」を妃とした弟の「大長谷王」は、事件後「目弱王」を殺して「雄略天皇」となりましたが、讒言に始まる一連の事件は周囲の豪族を巻き込んだ血みどろの皇位争いでもあったようです。

面積が世界最大と誇る「仁徳天皇陵」が造営された時代の生々しいドラマでしたが、「髪長姫」の嘆きが聞こえてくるようです。

系譜の最初「景行天皇」は、九州地方の平定で、日向の高宮に数年間滞在中、妃とした「御刀媛[みはかしひめ]」との間に「豊国別皇子」が生まれ、「日向国造祖」となり、その孫娘「泉長媛」は応神天皇妃となるなど、「髪長姫」以前にも日向と天皇家のつながりが続いており、思った以上に大和と地方の緊密な関係がうかがわれます。

又、「諸県君[もろあがたのきみ]」の例にあるように「君」が付く地方豪族は、天皇の血統と考えられ、その後の時代に起こった「磐井の乱」の「筑紫君磐井」も、「諸県君」をはるかにしのぐ有力な天皇の血統だったのではないでしょうか。



「早水神社」の参道に建つ祭神の石碑です。

上段に三柱の祭神「応神天皇」「髪長姫」「諸県君 牛諸井[もろあがたのきみ うしもろい]」、下段に三柱の合殿神「神功皇后」「玉依姫」「早水天神」の名が刻まれています。

最初の祭神には「応神天皇」、その下に合殿神「神功皇后」と母子の祭神が並ぶのは八幡神社でよく見かけます。

続く祭神に「髪長姫」「諸県君牛諸井」と父子が並ぶものの「髪長姫」を妃とした「仁徳天皇」の名が無く、その父「応神天皇」と、「髪長姫」が並ぶのはやや不自然に思われます。

又、「玉依姫」は、日向生誕の神武天皇の母、「早水天神」は平安時代に始まる天神信仰の神「菅原道真」を祀ったものでしょうか。

六柱の祭神や、合殿神を見ると、複数の神社が合祀されたようにも思われます。



「早水天神」拝殿にガラスケースに美しい人形がありました。

てっきり美しい「髪長姫」の人形と思い、社殿を撮影するのを忘れて眺めていました。

しかし、「祭神髪長姫衣装」と書かれたガラスケースの貼紙の末尾「衣装」から、古墳時代の衣装を再現してマネキン人形に着せているようで、惑わされていました。



拝殿の入口から見た祭壇の風景です。

何故か、写真左手の白い紙幣の下がぼやけて光っていました。

「髪長姫」のお出迎えだったのでしょうか。



「早水公園」の東にある「あやめ園」の風景です。

既に開花のピークが終わり、花もまばらです。

上の案内図にもあるように、中央の東屋から放射線状に6本の散策道が造られ、円形のあやめ畑は六分割されていました。



中央の東屋を背にして見た「あやめ園」の風景です。

「あやめサミット記念植栽」と書かれた案内板と、東屋を円形の道に囲むように全国に分布する市町村名の看板が並んでいました。

都城で、あやめサミットが開催され、その記念でこの「あやめ園」が造られたのでしょうか。

「平成6年4月27日」とあり、九州南部ではあやめの花のピークは4月下旬なのでしょうか。

■あやめ園の案内板です。
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第7回 全国市町村あやめ指定自治体交流会議
 あやめサミット記念植栽
 ?~ 70周年ウエルネス都城 平成6年4月27日
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帰りに「髪長姫橋」を見ると、橋のたもとに白い鳥が見えました。

写真右上は、ズームで撮った鳥で、水辺に伸びた細い木の枝にとまっています。

鋭い目の上から後方に太い眉毛のような黒い羽根がアンテナの様に頭の後ろまで伸びて、長いノドにも黒く細長い線が見られます。

調べると、鷺の一種「アオサギ」のようですが、この姿からアオ(青)のイメージは湧いてきません。

「早水神社」や、「髪長姫の泉水」などを訪れ、改めて記紀の神話を読んでみると、書かれている物語が史実だったように思われてきました。

南九州旅行No.8 島津氏発祥の地「祝吉御所跡」

2012年06月17日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、都城の市街地に入り、都城市の「田の神さあ」の次は、「祝吉御所跡[いわよしごしょあと]」の見学です。

「祝吉御所跡」は、鎌倉時代初期の1185年(元暦2)、源頼朝の御家人「惟宗忠久[これむねただひさ]」がこの地を中心に広がった荘園「島津荘」の下司職[げすしき=地頭・管理人]に任じられ、居館「祝吉御所」を構えた場所とされています。

「島津荘」は、平安時代中期に大宰府の役人だった「平季基」が「島津院」と言われたこの地に開発した荘園で、時の関白「藤原頼通」へ寄進されていたものです。

「惟宗忠久」は、荘園の名「島津」を姓とし、「島津忠久」と名乗ったことから荘園の政所があったここ都城市を「島津家発祥の地」とし、「島津忠久」の居館跡と伝えられる「祝吉御所跡」に顕彰碑を建てたようです。



石碑が並ぶ「祝吉御所跡[いわよしごしょあと]」の風景です。

右手の大きな陶板の案内板には「伝島津忠久画像」と、「御所周辺古絵図」が見られます。

「島津荘」が寄進された関白「藤原頼通」の時代は、その父「藤原道長」の時代とあわせて藤原氏全盛の時代でした。

その後も荘園は周囲へ拡大され、宮崎県中南部から鹿児島県全域に及ぶ日本最大の規模となったようです。

惟宗氏は、摂関家藤原氏に仕える武士だったようで、源頼朝が「惟宗忠久」を任命したのは、摂関家藤原氏との関係に配慮しながら、大きな「島津荘」の利権確保を円滑に行うことだったのかも知れません。

■陶板の案内板より
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県指定史跡
 祝吉御所跡[いわよしごしょあと]
  指定年月日 昭和九年四月十九日
 ここは、島津氏の始祖忠久が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘[みしょう]の中心であった。
 忠久は文治元年(一一八五)八月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職[げすしき]、ついで同荘八千町の惣地頭職[そうじとうしき]、薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。
忠久は、はじめ惟宗[これむね]姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称した。
 また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬の厚い神社であった。
 島津氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
 その名(苗)字がここに由来するのである。
    平成六年二月
        都城市教育委員会
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「祝吉御所跡」周辺の地図です。

「祝吉御所跡」は、JR都城駅から東に約3Kmの場所です。

すぐ南西にはこの地の豪族「諸県君 牛諸井[もろかたのきみ うしもろい]と、その娘で仁徳天皇(古墳時代)の妃となった「髪長姫」の父を祀る「早見神社」があることから、古代からこの地方の中心地だったようです。



陶板の右上にある「伝島津忠久画像」です。

服装や、ポーズには、平安貴族の様な優雅さを漂わせていますが、矢を背負い、腰に太刀を下げた姿はやはり武士のものです。

「島津忠久」が御家人として「源頼朝」から重用され、「島津荘」の下司職[げすしき]に任命された背景には、有力御家人「比企能員」との姻戚関係にあったようです。

「比企能員」は、頼朝の乳母「比企尼[ひきのあま]」の養子(甥)で、頼朝の嫡男「頼家」の乳母父となり、さらには娘「若狭局」を「頼家」の側室とし、嫡男「一幡[いちまん]」が誕生するなど、鎌倉幕府内で北条氏と権勢を争った御家人でした。

「島津忠久」の生母は、「比企能員」の妹「丹後局[たんごのつぼね]」で、「忠久」を「源頼朝」の御落胤とする説もありますが現在では有力視されていないようです。



陶板の左下にあった「御所周辺古絵図」です。

絵図左上に上を北とする記号がありますが、絵図の左端に「北」、上に「東」、下に「西」の記載があり、混乱します。

絵図の説明がなく、絵図の描かれた年代や、現在の地図と対比させて見たいものです。



「御所周辺古絵図」の御所の部分を拡大し、絵図を左に90度回転させたものです。

「表御門跡」「東御門跡」などの文字が見え、赤く塗られた範囲が屋敷だったのでしょうか。

左上に「横百拾四間」の文字が見え、赤い屋敷の横の長さを200m余りと考えると、門の間口が広すぎるようにも見えます。



陶板の案内板の後方に建つ石碑です。

発掘された遺構の紹介もなく、石碑が御所跡を示す唯一のもののようです。

源頼朝死後4年目の1203年(建仁3)、鎌倉幕府内の政争「比企能員の変」が発生、北条氏により比企氏一族が滅亡、「島津忠久」も連座して島津荘の下司職や、日向・大隅・薩摩の3ヵ国の守護職を失ってしまいます。

その後、薩摩守護職だけは短期間で回復されたようで、1221年(承久3)後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げた「承久の乱」では幕府軍として戦い、越後守護職も得ています。

「島津忠久」は鎌倉に居を構えており、地方の政務は代官を置いたようで、島津家の当主が薩摩を中心に活動するのは3代目「久経[ひさつね]」以降と思われます。

■左右の石碑の碑文を転記します。
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(向かって右の石碑)
祝吉御所舊(旧)跡

(向かって左の石碑)
島津家発祥之地
 都城市長 有田秀秋書

碑文
 源頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦一一八五)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国綜合する島津庄下司職に任ぜられた 更に忠久は 上御門天皇建久七年(西暦一一九六)征夷大将軍源頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦一一九七)島津庄政所に着任し 律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め 祝吉御所と稱し 政治文化発展の藩礎を築き ここで島津の姓を名乗り島津家の始祖となった。
 よって この地に居館門柱の跡と云い伝える塚四基 及び 延喜式時代駅の一つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐め 島津家発祥の地として残さんとするものである
 昭和四十三年十月吉日(明治百年)
  都城市議会議長 柳田盛彦撰
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周囲にアヤメが咲く「祝吉御所跡」の石碑の後方の風景です。

「祝吉御所跡」は、まばらに建つ住宅地の中で、分りづらく、町の人にたずねてやっとだどりつきましたが、駐車場や、植込みなどもよく整備されていました。

観光案内や、碑文「島津家発祥之地」を見て、「惟宗忠久」がこの地に移住して荘園経営を行い、「島津荘」の名を姓としたと思っていましたが、実態は違うものでした。

しかし、日向国中南部、大隅国、薩摩国の3国に及ぶ日本最大の「島津荘」の名を苗字としたことで、代々にわたって島津家のあり方を伝えていくことになったのかも知れません。

島津家初代当主の下向が不明な「祝吉御所跡」に「島津家発祥之地」の石碑を建てるのはやや強引にも思えるスポットでしたが、島津氏の歴史を学ぶ機会を得ることが出来ました。

南九州旅行No.7 都城市の「田の神さあ」めぐり

2012年06月11日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、高千穂峰信仰にまつわる「霧島東神社」「東霧島神社」の参拝後、都城市内にもある「田の神様[たのかんさあ]」を見に行きました。

「田の神様」は、旅行準備で読んだ書籍「宮崎県の歴史散歩」に「えびの・諸県地方の田の神様」の記述があり、訪れるきっかけとなりました。

都城市の「田の神様」は、全国の石仏を紹介するwebサイト「石の仏」の「都城市の田の神」のページを拝見し、その中の3ヵ所を選んで訪れたものです。(貴重な情報で、大変お世話になりました。)

「田の神様」信仰と、独特の石像は、江戸時代初期から薩摩藩領で祀られてきたもので、農民が豊作を願い、収穫を感謝する民間信仰です。

民俗学者小野重朗氏によると、「田の神像」は、薩摩藩領の各地域で、様々な姿の石像が造られ、鹿児島県北西部に始まる仏像型系統と、宮崎県諸県地方に始まる神像型系統から多様化したとされています。

都城市北部の「田の神像」は、神像型から派生した「神官型」が多く見られ、鹿児島県に近い南部では「神官型」から更に派生した「田の神舞型(農民型ともいう)」が多いようです。



都城市下川東の「川東墓地」にある「田の神様」で、隣に自然石に文字が刻まれた「牛馬観音」があります。

田園地帯に広い墓地が造成され、昔からその土地あった「田の神像」数体が墓地の北東端に集められ、安置されたものと思われます。

低く置かれた両手で持っている細長い板は、聖徳太子像でおなじみの「笏[しゃく]」と思われます。

この石造は、都城市北部で多い「神官型」の「田の神様」のようです。

■「宮崎県の歴史散歩」(山川出版社 2006年)の「田の神様」の一節です
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えびの・諸県地方の田の神様
 えびの・諸県の鹿児島藩領内に田の神様とよばれる石像が多くたてられている。この南九州独特の石像は、農村地に点在して、神官型・農民型・僧侶型・地蔵型などにかたどられ、ユーモラスで素朴な土のにおいを感じさせる石像が造作されている。地元民から田の神どんとかタノカンサーとよばれて親しまれている。
 石像造立の契機と目的は、天災や飢饉および門割[かどわり]・新田開発などをきっかけに、除災招福・五穀豊穣・生殖増産にあったといわれている。
 田の神像は山岳仏教に端を発して、北薩地方にはじまり、やがて享保年間(1716~36)に自然災害が多発したのに伴って、各地に田の神文化が広まっていったといわれる。~
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これも「川東墓地」の別の一画にあった「田の神様」です。

左右の石像は、中央の小さな石像と比較して古くに造られたものと思われ、特に右手の石像は、元の姿が分らない程に風化しています。

中央の小さな「田の神様」は、右手にメシゲ(飯杓子)、左手にお椀を持つ「田の神舞型」と思われ、左右の「田の神様」も風化する前は同じ型の石像だったと思われます。

後方に丸い自然石が立てられていますが、上段の写真にもあった牛馬観音でしょうか。



中央の小さな「田の神舞型」の「田の神様」を大きく撮った写真です。

頭にかぶっているのは、ワラで編んだ「シキ」(甑[こしき]の底に敷くもの)だそうで、左手のお椀にはご飯が盛られているようです。

素朴で、にこやかな表情に豊作を願う農民の期待が込められているように感じられます。



これも「川東墓地」の別の一画にあった「田の神様」です。

大小2体の「田の神様」と、右に「下前方 牛馬神」と刻まれた石が立てられています。

左手の「田の神様」は、大きなシキをかぶり、右手にメシゲを持つ姿は、上段の「田の神様」と同様ですが、左手には棒状の物が握られています。

棒状の上部が欠けていることから推察すると神社の祭礼の舞で見られる「神楽鈴」かも知れません。

この地方の祭りに田の神様が大きなメシゲと、「神楽鈴」を持って舞う「田の神舞」があり、、YouTubeの 霧島神宮「お田植え祭」t田の神舞 でもその素朴な踊りが見られます。



中央の小さな「田の神様」です。

隣の石像と、大きく体型が違いますが、メシゲを持つ点は同じです。

「田の神様」の後ろ姿に「男根」を表現した例もあるようで、スリムなスタイル、丸く尖った先端、肩に掛けられたしめ縄の位置などから同様の事例だったのかも知れません。

隣のにこやかな石像と対照的に、こわばった様な表情にあやしい雰囲気を感じます。



これも「川東墓地」の別の一画にあった「田の神様」です。

珍しく、前後に並んで立てられているもので、前の「田の神像」は、かなり風化して目鼻はまったく崩れています。

「田の神像」の前にある風化した小さな石は何だったのでしょうか。

後方に立てられている自然石は、他の区画と同様、牛馬の神が祀られているようです。

農耕作業などを共にし、支えてくれた牛馬の霊に感謝する農民の素朴な気持ちが石に込められているようです。



これも「川東墓地」の別の一画にあった「田の神様」です。

テルテル坊主のような「田の神像」と、小さな馬の焼き物が祀られていました。

小さな馬は、現代風に牛馬神を祀ったものと思われます。

「田の神様」は、丸い頭と風化の激しい胴体がコンクリートで接合されており、永い年月、石像の更新がされていなかったようです。

以上、「川東墓地」(宮崎県都城市下川東4丁目1号1番)の北東端に並ぶ4~5ヶ所の区画にあった「田の神様」です。



次に見物した「田の神様」のあった場所の地図です。

これらも全国の石仏を紹介するwebサイト「石の仏」で「桜木の田の神」と紹介されていたものです。

都城インターの近くで、いずれも小さな神社の脇に祀られていました。



「将軍神社」のすぐ横に祀られていた「田の神様」です。

車で走っていたらすぐに見つかりました。

脇の石灯篭の屋根の下に島津藩の紋「田」が書かれています。

向かって左側の道路脇の「将軍神社」の鳥居も同じような赤に塗られており、同じ地域の人々が祀ることによるものと思われます。

鳥居の前に「将軍神社」の立札がありましたが、一部が朽ちてよく読めませんでした。

かつてこの地を治めていた人の屋敷跡だった由来があるようです。



「将軍神社」前の「田の神様」を大きく撮った写真です。

両手をお腹の前で合わせていることから、最初の「田の神様」と同様、両手に「笏[しゃく]」を持っている「神官型」と思われます。

衣装の赤、顔と手の白、頭の黒は、化粧で飾られた姿のようで、時々に塗りなおされているものと思われ、石仏のサイト「石の仏」で掲載されている写真と違う顔になっていました。

大きな目や、鼻などをもっと上手に描くと素敵な「イケメン」に変身するかも知れません。



菅原天神脇の「田の神様」で、道の向いは大淀川の支流「花の木川」です。

川沿いの狭い道路でしたが、すぐそばに路肩が広くなった場所があり、駐車して見物できました。

「将軍神社」前の「田の神様」とほぼ同じような外観で、これも「神官型」のようです。



菅原天神脇の「田の神様」を大きく撮った写真です。

タラコくちびる風な口と、左右アンバランスな眉毛にこの土地の人々の素朴な信仰が感じられます。

脇の石碑に文政十二年(1829)の文字が見られ、180年以上前に造られた石像のようです。

多くの「田の神像」が屋外に祀られ、風化していますが、この石像は長く所有者の屋敷に祀られていたとされ、ほとんど傷みは見られません。

資料によると、かつて「田の神像」を持たない(持てない?)集落の人々が他の地区の「田の神様」を盗む習慣があり、数年後にお礼の品物を添えて返却し、受渡しの宴が開かれることもあったようです。

昔の農民の心が伝わってくるような「田の神サア」めぐりで、心がなごみました。

資料
「探訪神々のふる里 二」小学館発行 ・・・田の神サア 小野重朗
「人づくり風土記45近世の宮崎」農山漁村文化協会出版

南九州旅行No.6 鳥居に赤鬼の立つ 「東霧島神社」

2012年06月04日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、「高千穂峰」の東麓「霧島東神社」の参拝を終え、宮崎県都城市高崎町の「東霧島神社」へ向かいました。

「東霧島神社[つまきりしまじんじゃ]」は、文字で見ると「霧島東神社」と似ていますが、「東」を「つま」と読ませた名称には何故か興味をひかれます。



「東霧島神社[つまきりしまじんじゃ]」の鳥居が見えてきました。

向こうの道の上に立体交差の道路があるようです。

田舎の直線の道に立体交差とは不思議に思われますが、道路のすぐ右側にJR吉都線[きっとせん]があり、安全を考慮したものと思われます。

■神社で頂いた資料に神社の由来が書かれていました。
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東霧島神社の由来                      (都城市高崎町鎮座)
 東霧島神社は霧島六所権現の一つで「延喜式」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。
 東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第五代孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝えられる。
 その後、第62代村上天皇の御世、応和3年(西暦963年)京都の人、天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が巡錫参篭(じゆんしやくさんろう)し、噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興されました。
 江戸時代になって東霧島大権現宮と唱えるようになりました。
御祭神は建国の祖とたたえられる伊弊諾尊(イザナギのミコト)を主祭神として地神5代の天照大御神(あまてらすおおみかみ)より神武天皇に至る皇祖を合祀し、ご神宝十握の剣(とつかのつるぎ)を御奉斎申し上げております。
 御祭神は日本国土を生み給うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。
 特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。
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「東霧島神社[つまきりしまじんじゃ]」周辺の地図です。

地図左側は、神社近くの地形図ですが、長尾山から伸びた尾根の東側斜面に社殿があり、信仰対象と思われる「高千穂峰」の姿を遥拝できる場所ではないようです。

神社の由来に性空上人が「噴火出土で焼失し、埋没した神殿を再興・・・」とあることから推察すると、「高千穂峰」を望む長尾山の頂上付近にあった神社を現在の場所に移設した可能性もあります。

又、「日本の神々 神社と聖地」(谷川健一編 白水社発行)によると「・・・東霧島神社と霧島東神社もそれぞれに古代の官社あるいは式内社と伝え、さらに、霧島東神社は東霧島神社の奥之宮とも言われたという。」とあります。

長尾山から遥拝する当神社と、登山道の途中から山頂を祈る「霧島東神社」が「高千穂峰」信仰の中心だったのかも知れません。



境内を進むと右手に「御札所」の建物があり、通路を覆う屋根の下に今年の厄年の生まれ年を知らせる看板がありました。

厄払いの神事は、神社の貴重な収入源になっているようです。



都城の観光案内にも掲載された赤鬼の立つ鳥居が見えてきました。

赤鬼は、右手に金棒、左手にひょうたんを持ち、ひょうたんから出た水は、手水鉢へ注いでいました。

すぐ横の鳥居から始まる石段に鬼の伝説があり、赤鬼の像が置かれているようですが、どことなくサービス精神を感じます。

右の大杉は、前々回掲載の「狭野神社」の狭野杉と同様、薩摩藩の重臣「新納 忠元[[にいろ ただもと]」による植栽だったようです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍する藩主島津義弘が戦勝祈願を行い、無事帰還したことによるものと考えられますが、戦勝祈願は、藩内の有力な寺社へ広くされていたのかも知れません。

■大杉の前の立札です。
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歴史を語りつぐ「大杉」
東方発心門なりし聖地、東霧島神社には数多くの伝説・神話が生づいている。此の大杉は藩主島津義弘公が、戦勝祈願報賽として、慶長五年(一六〇〇年)老臣の新納忠元に命じて植栽したものと伝えられる。以前は参道入口付近からうっそうとした巨樹が立ち並んでいたが、台風の被害や老朽により失われ、現在は数少ない杉となった。
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鳥居の左手に大きな楠が立っていました。

立札に「性空上人御霊徳樹 幸招大楠 樹齢1000年」とあり、幹の根元には大きな穴が開いています。

穴をくぐって左右に回るのは「茅の輪くぐり」にも似ていますが、左右それぞれ3回めぐった後、すぐそばに湧く「乳水・竜神水」を飲むと言うのはこの神社オリジナルのようです。

■神社で頂いた資料より
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東霧島神社の大クス
                     (町指定天然記念物)
 通称、性空上人(しょうくうしょうにん)御霊徳樹幸招(こうしょう)大クスと言い、樹齢1000年以上のこの大クスは本殿へ昇る石段の左側に幹を大きな洞をかかえるようにしてそびえたっております。
 この洞をくぐり、右に3回、左に3回めぐり、乳水・竜神水をいただくと無事出産安産であり、病魔を払うといいます。
 なお、クスの木はこの地方の特産木でありました。クスの樹皮を蒸留加工した樟脳(しょうのう)は島津藩財政の収入振でもあったようです。
 境内にはイチ・カシなど大木がたくさんありますが、この大クスは東霧島神社の歴史と神話伝説を今日に伝える唯一の古木であります。
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赤鬼と、大楠の間の鳥居をくぐると一直線に続く長い石段のはるか上に小さな神門が見えます。

鳥居の脇に立札によると、かつて僧が呪文を唱えて修業した「振りむかずの坂」とあり、「一心に願い事をとなえて昇りましょう」と案内されていました。

石段を見ると平たい石が不規則に積まれており、参拝者の歩き易さではなく、修業を目的とした造りだったのかも知れません。

この石段には鬼の伝説がありました。

■神社で頂いた資料より
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東霧島神社の『石階段』の伝説
その昔、この地方を治めていた豪族で鬼といわれるほど恐れられ、善良なる土民に悪の限りを尽くしていたという。
ところで、この善良なる土民の一人に、気品ある娘がおったという。悪しき豪族、その娘を嫁にせんがため、再三口説くもその願いかなわず、ついには田畑を荒らし、土民を困らせたという。
土民はほとほと困り果て、ついには守り神である霧島の神様に願いをかけたのであります。
霧島の、鬼どもを集めていはく。
『この神殿に通ずる階段を一夜にして一千個の石を積み上げたならば、お前たちの願いをかなえ、もし、そのことがなし得られない時は、この地を去れ』と契約をなされたのであります。
ある日のこと、夜も更け静まりかえったある時のこと。
鬼どもiま約束の石段作りに取りかかった。
集った鬼どもはあの怪力をもって!!あれよ あれよ!!という間に石段を積み上げていったという。
霧島の神 ハタと困り、このままでは悪がはびこり、善はすたるの御心にましまして、東の空、しらじと明るくし、長嶋き鳥を集めて鳴かして、鬼どもは夜明けと思い、九百九十九個の石を積み上げたところでそうそうに
退散したという。
この石階段を鬼磐階段(おにいわかいだん)と言い、振り向かずにこの階段を心を込め願い事をとなえながら登ると願いが叶うと言い、『振り向かずの坂』とも言います。
なお、今でも霧島の神には鶏を殺し、御供えすることを禁じています。
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石段を登り、神門から見た境内の風景です。

左の建物が拝殿、右が本殿、その間を幣殿がつないでいます。

写真右側にしめ縄が掛けられた岩の一部が見えていますが、境内案内図で「神石」とされる大きな岩がありました。



拝殿から建物奥を見たピンボケの風景です。

神社で頂いた資料に「社殿奥に、雌雄1対の龍が彫られた立派な柱や扉の昇り降り龍」とあり、右のグレーの部分がその柱で、その奥の鏡の上の両側がその扉と思われます。

又、写真左上の龍は、拝殿内を見上げた場所にあったもので、長い石段の下に湧く「龍王神水」などと合わせて雨乞いに関わる龍神信仰が色濃く感じられます。



拝殿建物の左端に太鼓が置かれていました。

「一年の家庭の幸福を願って龍神太鼓を打ちませんか」とあり、一部文字が消えていますが、三回打ってお賽銭を納める案内と思われます。



写真左は、拝殿前から神門を見た風景で、写真右は、神門の脇の大杉に龍の頭の形をした枝が生えているものです。

神門の横から見上げて龍の顔に見える部分は、明らかに枝が折れて出来たようです。

自然に出来た龍の形か、作為的なものかは分かりませんが、「摩訶不思議」を演出したい神主さんの気持ちが伝わってくるようです。

■神社で頂いた資料より
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東霧島神社の龍神
 歴史を感じる見事な造りの社殿奥に、雌雄1対の龍が彫られた立派な柱や扉の昇り降り龍がしっかりと霧島神の守護となり霊験あらたかなる御光をふり注いでいます。400年の大杉に龍神現われる。摩訶不思議。
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石段を降りた右手に「龍王神水」と案内された湧水がありました。

コンクリートブロックで囲まれた屋根のある湧水の池があり、ポンプでくみ上げた水がその横の龍の口から吹き出す構造になっているものと思われます。

この湧水や、折れた杉の枝、太鼓が龍神と結び付く理由は分かりませんが、無理やり神秘性を演出しようとする滑稽さには感動させられました。

■「龍王神水」の案内板です。
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龍王神水
龍王は絶大なる幸運・開運・厄除の力を発揮する守り神として敬われている。
この世で遭遇するさまざまな苦悩から衆生を救うために東霧島大権現宮のゆや谷に鎮座まして霊水を下されている。龍王神は洗心浄代の霊験あらたかで吉祥を授け人々を守護する神秘性をもっている。
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「龍王神水」のそばに「神石」と案内された岩がありました。

当神社の祭神主座とする「伊弉諾尊[イザナギノミコト]」が「十握の剣(とつかのつるぎ)」で切ったとする「神石」です。

丸い岩がスライスされた様な形で、案内板では「三段に切らた」とあり、水面上には見えませんが、右側にも切られた岩があったと思われます。

更にこの岩を切ったとする「十握の剣」が当神社の神宝として伝わっているとされ、赤鬼に始まり、各所に登場する龍神などと合わせて、余りの荒唐無稽さに愉快になった参拝でした。

■神石の案内板です。
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東霧島神社の『神石』について
天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。
天地創造の神である、イザナギの尊、イザナミの尊が誕生されました。
夫婦となられた二人の神様は国土・山川草木に至る私たちの生活に必要な種々のものを生成なされました。
あらゆるものを生み成していく中で、私たちの生活に最も大切な『火の神』
をお生みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。
夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。
愛しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆き、悲しめども亡き人は帰る術もありません。
その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが、『神石』(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)であるといいます。
そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とつかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭わないように・・・と、深き祈りの心を込めて三段に切らたといいます。
『十握の剣』は当神社の神宝であり、厄除け・魔除けの神となり御社殿に鎮め納めております。
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