昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

浮御堂は、冬至の太陽を遥拝する聖地だった

2009年02月28日 | 近畿地方の旅
前回、日吉大社東本宮の建物の方角に疑問を持ったことを書きましたが、その後図書館で調べていて面白い本を見つけました。

薬師寺慎一著「聖なる山とイワクラ・泉」です。

2009-02-11に記載した浮御堂について、とても興味深い一説がありました。

(日吉大社東本宮のことは、次回に記載したいと思っています。)



浮御堂と、その右の琵琶湖の対岸に近江富士と呼ばれる「三上山」[みかみやま]が見えています。

浮御堂への橋は、琵琶湖の西岸から東方向にのびています。

「聖なる山とイワクラ・泉」の著者 薬師寺慎一氏によると冬至の日にはこの場所から見ると「三上山」から太陽が昇るそうです。

「三上山」は、その山麓にある御上[みかみ]神社の神体山です。

浮御堂は、冬至の太陽が、神聖な場所「三上山」から昇るように見える場所に建てられたということです。

又、浮御堂から見ると比叡山の「四明ケ岳[しめいがだけ]」が「冬至の日の入り線」に当たることが書かれていました。

「四明ケ岳」は、比叡山で霊山中の霊山だそうです。

地図で見ると比叡山の「根本中堂」の南西方向約500mの場所に「大比叡」があり、そこから約300m西に「四明ケ岳」があります。

浮御堂は、比叡山の僧「源信僧都」が、琵琶湖の交通の安全を願い建立したと伝えられ、霊山「四明ケ岳」を冬至の日没の場所に選ぶのは納得できます。



地図に「浮御堂」「三上山」「四明ケ岳」に印を付け、赤い線で東西の線、から30度南といわれる冬至の日の出・日の入の線を引いて見ました。

「浮御堂」と、「三上山」は、ちょうど赤い線上にあります。

「四明ケ岳」は、赤い線と1度違い、29度南に傾く黄色い線上にあります。

海上保安庁のサイトで、日出・日入の時刻・方位情報が提供されており、調べてみました。

ちなみに2008年の冬至は、12月21日で、日の出-07:00 (118度) 、日の入-16:49 (242度) でした。

日の出は、東西線から28度南、日の入も、28度南になるようです。

本には東西線から30度南と書かれていましたがどうも違うようです。

又、水平線を前提とした時刻・方位で、山はズレがあります。

いずれにしても浮御堂から実際に見える日の出・日の入の場所だと信用して、琵琶湖の湖畔にあったこの場所の偶然性に感心しました。

日吉大社東本宮摂社「樹下神社」の建物配置の謎

2009年02月24日 | 近畿地方の旅

日吉大社東本宮の楼門をくぐり、内側から見た様子です。

塀と、楼門が、調和して品のある美しさを感じます。

■門の脇に説明文があり、転記します。
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重要文化財 建物部
日吉大社東本宮楼門 一棟 (大津市坂本五丁目)

この楼門は、三間一戸楼門の形式で、入母屋造、檜皮葺、縁付きの建物で、斗栱[ときょう]は上下層とも三手先となっています。三間一戸とは、柱間三つのうち中央の一つが出入り口となっているものをいい、楼門とは、二階造りの門で、屋根が二階部分だけにしかなく、一階の上に縁がある形式をいいます。
西本宮楼門とは、やや違った比例を持っていて、どちらかといえば一階部分が高く、二階部分が低いのですらりとした均斉のとれた建物で、天正~文禄二(1573~1593)年頃に建てられたものです。
 大正一二年(1923)年三月に国の重要文化財に指定されました。
 大津市教育委員会 平成四(1992)年三月
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楼門をくぐり、正面に見える境内の景色です。

正面突き当りに見える建物は、「日吉大社東本宮拝殿」で、その背後に日吉大社東本宮本殿があります。

向って左に見える建物は日吉大社摂社「樹下神社本殿」で、向って右の建物は「樹下神社拝殿」です。

摂社の本殿と、拝殿が参道を挟んで配置されているのは初めて見ます。

正面の東本宮拝殿と、その裏にある本殿は、ほぼ北を向いて参拝しますが、「樹下神社本殿」はほぼ西を向いて参拝します。

一見、自然に思える本殿と、摂社の建物の方角に少し疑問を感じました。



日吉大社と、神山「八王子山」の地図で位置関係を見てみました。

古事記の記載★では主祭神の大山咋[おおやまくい]神は、「日枝山(八王子山)に鎮座し」とあります。

神社の建物ができる以前の時代は、大山咋神が鎮座する八王子山の磐座へ向かって祈っていたものと思われます。

しかし、八王子山に向った参拝は摂社「樹下神社」で、東本宮本殿では北に向かった参拝です。

本殿を無視するかのように参道を挟んで建つ「樹下神社」の本殿と、拝殿が古来からの「日吉大社」だったのではないかと思われます。

「樹下神社」の祭神は、大山咋神の妃神「鴨玉依姫神」で、やはり神様でも奥さんが実権を握っている姿かもしれません。

勝手な想像で、「大山咋神」に親しみを感じてしまいました。

★古事記(現代訳)の「大山咋神」一説です。
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大山咋神 またの名を山末之大主[やますえのおおぬし]神 この神は近淡海国[ちかつおうみのくに]の日枝山[ひえのやま]に鎮座し また葛野[かづの]の松尾に鎮座し 鳴鏑[なりかぶら]を持つ神
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「近淡海国」[ちかつおうみのくに]は、都から見て近い淡水湖「琵琶湖」の国という意味で、古代に淡水湖だった静岡県浜名湖「遠淡海」[とおつおうみ]」を意識した言葉だったと思われます。



東本宮の脇にある「樹下神社」の本殿です。

美しい社殿でした。

■説明板があり、転記します。
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重要文化財 建物部
日吉大社摂社樹下神社本殿 一棟 (大津市坂本五丁目)

この本殿は、三間流造、檜皮葺の建物で、後方三間・二間が身舎[もや]、その前方一間通しの廂[ひさし]が前室となっています。
数ある流造のなかでも比較的大型のもので、床下が日吉造りと共通した方式であることや、向拝階段前に吹寄格子の障壁をたてているのは本殿の特色となっています。
文禄四(1595)年に建てられたことが墨書銘によってわかりますが、細部の様式も同時代の特色をよく示し、格子や破風、懸魚などに打った飾り金具は豪華なものです。
 明治三九年(1906)年四月に国の重要文化財に指定されました。
 大津市教育委員会 平成四(1992)年三月 
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「樹下神社」の本殿正面です。

建物の各所に品の良い金色の飾り金具が付き、少し色のはげた木彫りの狛犬にも歴史を感じます。



「樹下神社」本殿の破風[はふ]に素敵な金具が付けられていました。

社殿の美しい切妻に見とれてしまいます。



参道を入り右手にある「樹下神社」の拝殿です。

この角度からの屋根が一番美しく見えました。

本殿と対照的に地味な入母屋の拝殿ですが、大きな鳥が羽ばたくような美しさを感じます。

■説明板があり、転記します。
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重要文化財 建物部
日吉大社摂社樹下神社拝殿  一棟 (大津市坂本五丁目)

 この拝殿は、桁行三間[けたゆきさんげん]、梁間[はりま]三間、一重[いちじゅう]、入母屋造、妻入り、檜皮葺[ひわだぶき]の建物です。
方三間[ほうさんげん]といわれる拝殿ですが、他とは、柱間が四方とも格子や格子戸となっている点が異なっています。屋根の妻飾[つまかざり]りは木連[きつれ]格子、天井は小組格[こぐみこう]天井、回り縁は高欄[こうらん]付きとなっていて、本殿と同じく文禄四(1595)年に建てられたものです。
なお、樹下神社の拝殿と本殿を結ぶ線と、東本宮の拝殿と本殿を結ぶ線が交わるのは、珍しいものです。
 昭和三九(1964)年五月に国の重要文化財に指定されました。
 大津市教育委員会 平成四(1992)年三月
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拝殿にはあでやかな神輿が置かれていました。

平安時代、比叡山の僧兵達が、日吉大社の神輿を担ぎ、都に繰り出して朝廷に強訴したそうです。

当時の神輿を見てみたいものです。

「日吉大社」東本宮の参道で見た奇妙な岩

2009年02月20日 | 近畿地方の旅
昨年11月1日~2日の滋賀旅行の思い出です。

堅田を後にして湖岸を南下、比叡山の麓、坂本にある日吉大社に向かいました。

日吉神社独特の鳥居(鳥居の天辺に三角飾りが付く)を見たいと、参拝に来ました。



駐車場から「日吉神社」の東本宮の参道へ向かう道です。

古い家並みがあり、古い石垣の下には水路が見えます。

向こうに「ゆどうふ」とだけ書かれた看板があり、なぜか気になります。



自然の石を並べて造った水路にきれいな水が勢いよく流れ、小さな水車がまわっていました。

青竹の花差しにススキが差してあります。



こちらの水車の前にはコスモスが差してあります。

三つの水車が、元気にまわる様は、何とも可愛らしいものです。

誰が何のためにこの水車や、花を飾っているのかちょっとした謎です。



東本宮の参道入口にかなり古そうな石橋がありました。

この橋は「二宮橋」と言い、日吉大社の境内にある「日吉三橋」の一つで、国重要文化財です。

神社の説明文では「日吉三橋」は、江戸時代の初め頃の寛文九年(1669)に花崗岩で造られた橋です。

豊臣秀吉が寄進したと言われる木の橋を、石橋に掛け替えたようです。

橋の両側にある擬宝珠[ぎぼし]には、この石橋の長い歴史を感じます。

頑丈そうな橋ですが、通行禁止になっています。



比叡山から流れ出た大宮川の清流に架かる「二宮橋」です。

メガネ橋のような石積みの橋とはまったく違う構造です。

まるで木製の橋を石材に代えて造ったような形です。

西本宮の参道近くには「日吉三橋」の「大宮橋」「走井橋」があります。

この「二宮橋」の名称から考えると「東本宮」は、№2の「二宮」のようです。



東本宮の参道入口にある料金所の小屋です。

壁に貼られ日吉大社のポスターには、11月1日(参拝当日)から12月7日まで「もみじ祭」の開催となっていました。

紅葉にはまだまだ早いようで、このような早い日程の案内に誘われ、何度も失敗した体験を思い出します。



緑に囲まれた道の両脇に小さな祠があり、参道の向こうに東本宮の楼門が見えて来ました。

向って右の石灯籠の脇にある祠は「八柱社」だそうです。

日本書紀では、素戔鳴尊が、高天原にいる天照大御神へ会いに行き、誓約[うけい]を行って生まれた五男三女の八柱の神様です。

左手の道の脇にある祠は「氏神神社」、左端の祠は「氏永社」です。



楼門が近づくにつれて木陰で暗くなり、神秘的な雰囲気を感じてきます。

右手に二つの大きな岩がありました。



手前の岩は、「猿の霊石」と呼ばれているようです。

なんとなく猿に見えて来ました。

しめ縄の上に丸く付いた白いコケが目に見え、しめ縄の下に鼻とアゴに見えます。

このしめ縄の位置が、何とも締まらない猿の顔にしているようです。

日吉大社の神様のお使いは、「猿」と言われています。

織田信長による比叡山の焼き打ちで焼失した社殿の再建には豊臣秀吉の大きな支援があったようです。

幼名を「日吉丸」と言い、あだ名が「猿」だった秀吉は、この日吉大社に特別な思いを感じていたのかも知れません。



二つ目の岩「夢妙幢岩」と、摂社「巌瀧社」です。

「夢妙幢岩」は、いい夢を叶え、悪い夢を消してくれるとされています。

地蔵菩薩の別名が、妙幢[みょうどう]菩薩ですが、言いかえて「夢地蔵菩薩岩」とすると何となく馴染みのある名前になるかも知れません。

摂社「巌瀧社」の祭神は、市杵島姫[いちきしまひめ]神、湍津姫[たぎつひめ]神だそうです。

この二柱の神様は、宗像三女神で、なぜか田心姫[たごりひめ]神だけが祀られていません。

そう言えば、最初の祠「八柱社」の八柱の神様の内、三女神は、この宗像三女神で、二度目の登場です。



東本宮の楼門です。

広い石段の下の中央にある平たい岩は、以前にどこかで見たような気もしますが、何のために置かれているのでしょうか。

楼門入口のお店で、サルのお守りが目にとまり、母への土産に買いました。

堅田の「伊豆神社」と、琵琶湖の水軍

2009年02月14日 | 近畿地方の旅
偶然すれ違った近所の方から「浮御堂」を北の湖岸から見ることを勧められ、前回、最後にその写真を掲載しました。

その途中に立寄った「伊豆神社」の案内板で知った室町時代からの自治組織「宮座」や、湖族と言われた琵琶湖の水軍の歴史など、想い出に残る場所になりました。



浮御堂周辺の地図です。

①満月寺の山門(浮御堂)
②伊豆神社
③~⑤浮御堂の北の湖岸の道

下の記事の中で、地図の番号で場所を説明します。


伊豆神社から琵琶湖に向けて細い路地を進むと、③の地点に出ます。

湖岸に出る手前にカンナの花が咲き、石碑が建っていました。

下段に青い文字で「湖族の郷文学碑」と刻まれています。

「湖族」の意味が気になりました。

上の文字板には「城山三郎」「一歩の距離 小説予科練」よりと題名があり、浮御堂付近での場面の一節が書かれていました。

敗戦が色濃くなった大津航空隊で、空襲警報の度に米軍のグラマン機の攻撃から「九四水偵※」を避難させていたそうです。

九四水偵で飛び立ち、浮御堂近くに着水し、芦の原の水路に逃げ込む場面でした。

※九四水偵は、「九四式水上偵察機」のことで、日本海軍の誇る偵察機でしたが、戦争末期になると相対的に性能が古くなり、特攻でも使用されてようです。



③の地点で琵琶湖を見た景色です。

湖岸近くにたくさんの白い水鳥が泳ぎ、対岸には近江富士と称される「三上山」が見えます。

水鳥たちに逃げられないよう、そっと歩いて行きました。



地図④の地点の辺りで、北を向いて撮った写真です。

橋の架かった水路は、伊豆神社につながっているようです。

⑤の地点から湖岸の北を見た景色で、長い琵琶湖大橋が見えています。

湖岸の道には、近所の小さな子供達がお父さんと、楽しそうに遊んでいました。



伊豆神社の門です。

鳥居の手前に水路があり、石橋が架かっています。

神社の周囲は、琵琶湖とつながる水路で囲まれており、環濠集落を思い浮かべました。

■入口に向って左に神社の案内板があり、転記します。
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当社の草創は寛平四年(西暦892年)と伝えられています。
宇多天皇の寛平年中諸国行脚の法性坊尊意僧正により三嶋明神の分霊を此の地に勧請したものであります。
又、村上天皇天暦三年五月(西暦947年)山城加茂大神を勧請し、神田大明神伊豆大権現の二神を祀り、堅田大宮と奉称され堅田全域の総鎮守府として崇敬されて来ました。
さらに当社を中心に室町時代より宮座(今の自治組織)があり、殿原衆と全人衆の会議制運営されたことが、歴史上明らかであります。
主祭神は大山祇の命で御神徳は農林、鉱業、海運、漁業、酒造等多方面に亘り開運の神と崇められています。
当神社の奥に伊豆の霊石 幸福を呼ぶ石があります。
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伊豆神社を中心とした自治組織「宮座」があったことに興味が湧きました。

平安時代後期、堅田に京都下賀茂神社の御厨[みくりや]が設置され、その後、延暦寺の荘園(堅田荘)となっています。

その後、堅田は、延暦寺・下賀茂神社の力を背景に琵琶湖の漁業や、水運などの特権を拡大していったようです。

説明文にある「殿原衆」[とのばらしゅう]は地侍で、臨済宗を信仰して祥瑞寺が創建されています。

又、「全人衆」[まろうどしゅう]は、商工業者たちで、浄土真宗を信仰して本福寺が創建されています。(一番上の地図にある祥瑞寺の左下にあります)

応仁2年(1468)、天台宗の本山、比叡山延暦寺の荘園でありながら他の宗派を信仰していることや、室町幕府の物資を運ぶ船に海賊行為を行ったことから堅田の町は焼討されたこともあったようです。(これを堅田大責[かたたおおぜめ」と言うそうです)

このような苦難の中で、伊豆神社の宮座の殿原衆・全人衆は、結束して立ち直り、その後も琵琶湖の水運や、漁業を取り仕切る自治が行われたようです。



琵琶湖全体の地図です。

堅田は、琵琶湖で最もくびれた場所に近く、湖上の関所としては最適の場所だったようです。

琵琶湖の水運は、陸上交通が発達していなかった昔は、日本海側の若狭湾の敦賀や小浜から湖岸にある塩津・今津などを経由して都へ物資を送る重要なルートでした。

■「大津市歴史博物館 展示案内」の説明文の引用です。
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堅田は、平安時代、京都下鴨神社に湖魚を納める御厨[みくりや]となり、また延暦寺領荘園となりました。そして琵琶湖の最狭部に位置し、海上交通をおさえるのに絶好の場所にあったことから、両社寺の勢力を背景として水運・漁業に活躍し、室町時代には強い湖上特権を獲得しました。・・・・。

・・・延暦寺の湖上関である堅田関の管理権、船に通行税をかけることのできる上乗権などの特権をもち、水軍力を背景に、室町時代には湖上水運を支配しました。
織田信長や豊臣秀吉も、この水軍力を利用するために堅田の特権を保護しています。・・・・。
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この説明文で、瀬戸内海にある愛媛県大三島の大山祇神社と、村上水軍を思い出しました。

この伊豆神社の祭神は、大山祇神社と同じ大山祇命で、伊豆の三嶋神社も大山祇命を祭神に併記しています。

織田信長にも水軍力を評価された堅田の「湖族」の情報が、「湖族の郷資料館」にあったことを知り、見落としたことが残念です。



鳥居を進むと立派な舞殿がありました。

この舞台で、どんな芸能が奉納されるのでしょうか?



本殿の門があり、両脇に貫録のある狛犬がいました。

本殿の周囲は塀で囲われ、その背後にはわずかに社叢[しゃそう]がありました。



伊豆神社の本殿です。

門と、本殿をつなぐ屋根が、参拝する場所のようです。

このような形式の神社を見たことがありますが、鳥居、舞殿、本殿が一直線に並んでいる形式は初めて見ました。

向って右に摂社がありましたが、祭神は分かりませんでした。



境内に入り左手にあった二つの摂社です。

向って左の鳥居の額には「天満宮」と書かれ、祠の横には菅原道真公にちなむ牛もいます。

向って右の鳥居の額は、よく読めませんが「○○大明神」と書かれています。

右手の奥にも鳥居があり、その先に朱塗りの板塀に囲われた摂社がありました。



舞殿の横に黒い石が置かれ、説明板がありました。

神社の入口の案内板に「伊豆の霊石 幸福を呼ぶ石」と説明されていた石のようです。

■すぐ横の案内板の文字が一部読み取れたので転記します。
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此の石は昔から神社の○○の中央に・・・・?
現在の場所に移され 往時は・・・・?
人々がこの石を・・・・?
祈ったものと言い伝えられて・・・・?
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この石は、古代祭祀で神山から神を招き、鎮座頂く依り石「磐座」だったものと思われます。

当然、その時代には、神社祭祀の中心にあった石ですが、神殿が造られ、神が常に神殿に鎮座すると考えられる現在では役割を失い、境内の片隅に置かれているものと思われます。

心がなごむ満月寺の「浮御堂」

2009年02月11日 | 近畿地方の旅
昨年11月1日正午近く、比叡山の次に大津市本堅田の琵琶湖湖岸に建つ「浮御堂」を見に行きました。



琵琶湖湖畔の古くから続いている静かな町の通りに満月寺の山門が見えて来ました。

山門は、江戸後期の文化9年(1812)の建物で、竜宮城の門のような形ですが、朱塗りがなく落ち着いて洒落た感じです。

入口の脇の石柱に「堅田落雁」と刻まれ、近江八景の一つとして紹介されています。

「浮御堂」の石碑や、落着きのある形の良い門が、この寺の古い歴史を語っているようです。

■「浮御堂」の石碑の後ろに「源氏物語千年紀in湖都大津」の看板があり、転記します。
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源氏物語千年紀in湖都大津
 平成20年3月~12月14日
源氏物語ゆかりの地
浮御堂(満月寺)
源氏物語に登場する横川の僧のモデル 恵心僧都源信が建立したお堂
 源氏物語千年紀in湖都大津実行委員会
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滋賀旅行は、石山寺の「源氏物語千年紀in湖都大津」のイベントも目的の一つでした。



門を入ると、受付の建物があり、向こうに見えるのは琵琶湖です。

青々と茂る太い松が、境内のあちこちで枝を張っています。

受付で、年配の女性が、拝観に来た人たちに丁寧にお寺の説明をされていました。

気持の良い天気、受付の方の応対、琵琶湖に面した景観で、心がなごみます。



受付の場所から右手に「客殿」の玄関があります。

江戸時代中期の宝暦4年(1754)の建物で、やはり禅寺の玄関のたたずまいです。

本堂と間違えるような比較的大きな建物で、東の琵琶湖に向いたの正面には長い生垣がありました。



山門をまっすぐ進んで行くと「浮御堂」が見えて来ました。

左手には「観音堂」があります。

「浮御堂」は、平安時代中期の僧「源信」が琵琶湖の交通の安全、衆生済度を発願して湖上に堂宇を建て、阿弥陀仏像を刻んで安置したのが始まりとされているようです。

「源信」は、「恵心僧都」とも尊称される比叡山の僧で、比叡山の大講堂に肖像画が掲げられ、「往生要集」を著わし、日本浄土教の基礎を築いたと説明文がありました。



「浮御堂」です。昭和12年(1937)に再建された建物だそうです。

天気が良く、琵琶湖の彼方には、琵琶湖大橋や、三上山が見えて。いました

なかなかの景色で、妻と記念写真を撮りました。



「浮御堂」の正面です。

琵琶湖につき出た橋を渡って行き、堂の反対側に回り込んだ側になります。

ここから拝むと西にそびえる比叡山や、西の彼方にある極楽浄土に向って拝むことになります。



「浮御堂」の仏壇です。

千体の阿弥陀仏が安置されているとのことでしたが、堂内を見渡すと横の壁にも多くありました。



琵琶湖の湖岸に並ぶ形の良い松と、その後ろに生垣に囲まれた「客殿」が見えます。

松の間に芭蕉の句碑が立っていました。

■この場所で詠んだ二つの句があります。
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 鎖[じょう]あけて 月さし入れよ 浮御堂
 比良三上[ひらみかみ] 雪さしわたせ 鷺の橋
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芭蕉の遺言により、琵琶湖南端の湖岸に近い「義仲寺」にお墓があるそうです。

今回の旅行で予定に入れていましたが、時間がなく又の機会としました。



「浮御堂」の橋のたもとにある「観音堂」です。

明和3年(1766)の建物で、満月寺の本堂になるようですが、実にこじんまりとしています。



「観音堂」の仏壇です。

満月寺の本尊で秘仏の「聖観音坐像」(重要文化財)は、中央の黒い仏壇の中に安置されているようです。

向って左の仏像は、「十一面観音像」で、写真には見えませんが、向って右には「薬師如来像」が安置されています。

■正面中央に「聖観音座像」の写真に添えられた説明文がありました。
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聖観音座像
浮御堂で名高い満月寺の本尊。天衣をまとわないことや、左手に未敷蓮華をとり、実き手は施無畏印風に立てる印相は、福井・長慶院聖観音座像や栃木・輪王寺阿弥陀五尊中金剛法菩薩像などにみるのみ。両手首先も当初。
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「観音堂」の天井です。

綺麗な模様が並んでいます。



少し北の湖岸から見た「浮御堂」です。

満月寺を出て、近所を散策し始めた時、地元の方と出会いました。

挨拶をしたら「浮御堂」が美しく見える場所があるとここを教えて頂きました。

湖岸にちかい水面にはたくさんの水草が浮かび、少し沖には水鳥が多く泳いでいました。



比叡山「根本中堂」の神秘的な内陣

2009年02月08日 | 近畿地方の旅
比叡山の「大講堂」の次に「根本中堂」へ向かいました。


講堂からの道は、写真に向って左に見える階段を下って来ます。

根本中堂は、写真中央に見える向って右に進む道を下って行きます。

紅葉が始まっていましたが、まだ本格的に色付いてはいませんでした。



「根本中堂」へ下る坂道です。

道幅がとても広く、杉の大木がそびえる印象に残る道でした。

建物は、巨大な堂の前にある中庭を囲う回廊が造られています。



「根本中堂」の入口です。

上履きに履き替え、左右の回廊を通り、奥の建物に向かいました。

やはり国宝の建物で、ここから先は写真撮影が禁止されています。

堂内に入ると、建物は表と裏の二部屋に仕切られていました、

表の部屋では参拝者がお祈りをしていましたが、奥の部屋は「内陣」と呼ばれています。

この部屋は、床がなく、3m下の地面から立つ台座に多くの仏像が安置されていました。

薄暗い照明に浮かぶ仏像が神秘的で、1,200年の重い仏教の歴史を肌で感じたような気持ちになりました。

■入口の横に案内板があり、転記します。
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根本中堂【国宝】
延暦七年(788)、伝教大師が比叡山に初めて鎮護国家の道場として建立されたのが根本中堂の始まりで、比叡山の総本山です。
現在の建物は寛永十九年(1642)、徳川家光公により再建された比叡山様式の特徴あるお堂で、ご本尊は伝教大師御自作の秘佛薬師如来を祀り、内陣では毎日国の安泰と国民の繁栄を祈って、護摩が修せられ、宝前には有名な「不滅の法灯」が輝きつづけております。
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「根本中堂」の向かいに高くそびえる銅像がありました。

「伝教大師童形像」と書かれており、開祖「最澄」の子ども時代の銅像のようです。

■説明板があり、転記します。
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伝教大師童形像
昭和十二年、比叡山開創千百五十年を記念して建立されたものです。伝教大師のご遺訓に
 我れうまれてよりこのかた 口に?言[そげん](荒々しい言葉)なく 手に笞罰[ちばつ](笞で打つこと)せず 今我か同法(道を同じくするもの)童子を打たずんば 我が大恩となさん 努力せよ
とあります。
伝教大師の児童に対する心を世に伝えるものとして、全国小学校児童の一銭醵出金によって建立されました。
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「伝教大師童形像」を拡大した写真です。

大切そうに手に持った小さな仏像の由来は分かりませんが、子供の頃から仏教を信仰していたのでしょうか。



「伝教大師像」です。

「南無根本傅教大師」と書かれています。

無垢な童形像と比べると、したたかな宗教家のイメージです。

比叡山「大講堂」で見た木像と、肖像画

2009年02月02日 | 近畿地方の旅
祖師御行績絵看板のある坂道を進むと左手に大講堂がありました。



朝日に輝く朱色の大講堂です。

■正面横に説明板があり、転記します。
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大講堂
第一世天台座主義真和尚の建立らよるもので、僧侶が学問研究のため論議する道場です。
ことに古来比叡山の行事で、慈恵大師以来五年毎に行われる法華大会の広学堅義は、僧侶になる登竜門として現在につづいています。
現在の建物は昭和三十一年焼失後、山麓坂本にあったものを移築したもので、堂内には叡山で研修された各宗派の御開山の尊像が、安置されています。
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大講堂の向こうに鐘楼が見えます。

鐘の下には「開運の鐘」と書かれた看板がありました。

1人1回鐘つきができるとのことで、鐘をつく場面を妻に1枚撮ってもらいました。



階段の下から見た大講堂の入口です。

とても大きな建物で、入口の高さは、人の背の3倍近くあるようです。



大講堂に入った正面の様子です。

皆さんが座って、これから始まるお坊さんの読経を待っているようです。

正面の天井の下にはお釈迦様の絵が掛けられ、周囲にも多くのお坊さんの肖像画が掛けられています。



お坊さんのお経が終わった仏壇正面の様子です。

寄付を要請する案内板が、各所に見えます。

木魚があります。

木魚は、禅宗だけと思っていました。



大講堂入口付近から、右手を見た様子です。

天台宗の高僧や、新たに宗派をおこした上人達の肖像画が並んでいました。

■大講堂の中に説明板があり、転記します。
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大講堂とご尊像
比叡山延暦寺は、延暦七年(788)に伝教大師最澄上人が山上に一乗止観院(根本中堂)を建立し、国宝的人材の養成と、鎮護国家の祈願を行う大道場としたのに始まります。
その後幾多の宗教的偉才をひらかれた祖師達が、この山で修業し、下山後は、大衆教化に専念して仏教文化の花を咲かせました。
中でも浄土宗の法然上人、浄土真宗の親鸞上人、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、日蓮宗の日蓮聖人などは、この山で命がけの修行の末、自己の信ずる道に従って一宗一派を開かれたのです。
この大講堂は延暦寺の中でも特に学問の道場として長期研鑽の総仕上げをする所であります。
諸宗の祖師達も、このお堂で血のにじむ修練をかさねられたのです。ご本尊は大日如来さま、右脇仏が弥勒菩薩左脇仏が十一面観音菩薩です。共に私達の諸願を成就して下さる尊いみ仏ですから、心から礼拝して下さい。
左右の間にはこの山で修業された、お祖師さまのお木像が夫々の宗派から泰安されております。
外陣にはお釈迦さまの十大弟子、中国、日本の高僧、比叡山修学の各宗祖師画像がかけられております。これは全日本肖像画美術協会総裁馬堀方眼善孝先生が三年の歳月をかけ精魂こめて画き上げられたものです。
比叡山が釈尊以来の正しい仏法を伝授し各宗の母山として、又現代新宗教々団とも深いご縁を持つ霊山であることがわかっていただけるでしょう。どうぞごゆっくりご拝礼下さい。
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仏壇の左右の奥に高僧の木像が並んでいました。

向って左から「日蓮聖人」、「道元禅師」、「栄西禅師」と並び、その右は「智証大師」だったと記憶しています。

延暦寺第5代座主円珍[えんちん]が「智証大師」と言われています。

彼の教えを継承した僧たちが園城寺(三井寺)を拠点とする天台宗寺門派で、叡山を拠点とする天台宗山門派と長く対立したそうです。



向って左の像は、「宗祖伝教大師(最澄)」で、隣は「聖徳太子」の像だったと思います。

聖徳太子の像は、最初に仏教を広めた人として並べられているのでしょうか。



向って左の像は、「桓武天皇」、右の像は、「高祖天台智者大師」です。

「桓武天皇」は、奈良の平城京から平安京へ遷都、勢力のあった奈良の南都六宗を牽制し、唐から伝わった天台宗や、真言宗を保護した天皇です。

「高祖天台智者大師」は、中国で天台宗を開いた智[ちぎ]大師で、「智者大師」の称号は、深く帰依していた隋の煬帝から贈られたようです。

この木像の二人は、比叡山が開山できた大恩人といったところでしょうか。



こちらの木像は、「法然上人」、「親鸞上人」、「良忍上人」と書かれています。

「良忍上人」は、融通念佛宗の開祖です。

その他、多くの高僧の像が並んでいましたが、比叡山が日本の仏教に及ぼした影響の大きさを改めて感じました。