昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

トルコ旅行 15 バスから見たエルジェス山の風景

2015年02月09日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の門」を終え、カッパドキアの「ギョレメ野外博物館」までバスで約3時間の移動です。



カッパドキアまでの中間地点を過ぎてしばらくすると、左手に、雪をかぶった美しい「エルジェス山」が見えてきました。

地平線の向こうに浮かぶようにそびえる山の美しさに魅かれ、バスの車窓から「エルジェス山」の風景を撮り続けました。

この辺りは畑でしょうか、右手にダンプカーが見え、左手の建物は、穀物の保管、出荷のための施設と思われる黄色いタンクが見られることから農業施設だったのでしょうか。

広大なアナトリア高原の不思議な風景でした。



トルコ共和国の地図です。

トルコ共和国は、ピンク色のエリアで、県境を破線で表示しています。

旅行3日目は、トルコ共和国の首都「アンカラ」を出発、「ハットゥシャ遺跡」を見学してカッパドキアの「ギョレメ野外博物館」へ向かって行きます。



小高い丘の向こうに「エルジェス山」がそびえています。

半砂漠のアナトリア高原の所々で、木が見られるものの、湖川や、低地でない限り緑の少ない荒涼とした風景が続きます。



青や、黄色のビニールシートが掛けられた場所は、収穫物などが保管されているのでしょうか。

後継者の少なくなった日本の農業を考えると、標高1000mを超えるアナトリア高原の厳しい自然の中でも農業が続けられるトルコが頼もしく見えてきます。



所々に集落が見られました。

電信柱が立ち並ぶゴチャゴチャした風景を前にしても「エルジェス山」の気高い美しさは変わりません。



美しい湖が見えてきて「エルジェス山」の風景では一番気に入った写真です。

さすがに湖のそばには、木々が茂っています。



岩山の向こうにそびえる「エルジェス山」の雄大な風景です。

だいぶカッパドキアに近づいて、低地の向こうの山にカッパドキアの岩山の特徴が見られるようになってきました。



カッパドキアの「ギョレメ野外博物館」に近づいてきた辺りの風景です。

カッパドキア独特の岩山が見えてきました。

この独特の地形は、六千万年前、「エルジェス山」(標高3917m)や、西の「ハッサン山」(標高3268m)の噴火により岩石地帯が形成され、その後の風雪、雨水による浸食で出来たとされます。

この辺りまで来ると「エルジェス山」は見えなくなりましたが、ここまでの道中、素晴らしい雪山の風景を堪能することが出来ました。



トルコ旅行 14 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-6

2015年02月04日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「スフィンクスの門」を終え、最後の「王の門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

遺跡の見学道路を北の大神殿から南の「スフィンクスの門」まで進み、最後は「王の門」の見学です。

見学を終えた後、遺跡の北にあるレストランに行きましたが、地図の上部にある青い矢印のすぐ上がその場所です。



写真上段は、城内に向いて作られた「王の門」の風景で、左側の白い石柱にレリーフが見られます。

写真下段は、城壁の外側から見た門の風景で、左右の石の形から、かつてスケールの大きいアーチ型の門があったことがうかがわれます。

「王の門」のレリーフは、発掘された当初、王の像と考えられ、門の名称としたようですが、その後の研究で、神の像と考えられるようになっています。

「ライオンの門」や、「スフィンクスの門」など左右に像がある門とは違い、片方だけに神の像が作られたことに興味を魅かれます。

約3500年前の遺跡の中に真新しい白のレリーフは、明らかにレプリカと分かりますが、実物は、アンカラのアナトリア文明博物館にあるそうです。



「王の門」のそばの案内板にあった門の再現イメージ図です。

門の両側の城壁を突き出すことにより、門の前を狭くして押し寄せる敵の人数を制限し、城壁の上からの反撃も考えられていたようです。

一見、中世ヨーロッパの城門にも思えますが、既に3500年前頃、このような城門が造られていたとは驚きです。



トルコ人ガイドさんが「王の門」のレリーフを説明している風景です。

指さされた腰の下辺りの説明内容は、すっかり忘れてしまいましたが、克明に刻まれた神の像にヒッタイト時代が垣間見えるようです。

門に押し寄せる敵を迎え撃つ味方の兵士達を鼓舞する姿のようにも見え、いかめしい顔を門の外に向ける守護神の雰囲気とは違うものです。

体は、正面に向き、顔や、手足は、横を向く姿は、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」でも見られ、ヒッタイト帝国時代のレリーフの特徴のようです。

同様の形式は、メソポタミヤ文明や、古代エジプトの彫像の一部にも見られますが、この形式が好んで使われたのは写実を離れ、描きたい面を組み合わせるピカソ的発想だったのでしょうか。



神の像とされるレリーフを拡大した写真です。

トルコ人ガイドさんが指さした腰の下には剣と思われる長い棒状のものが見え、右手に持つ斧もタツノオトシゴの顔にも似た珍しいものです。

先が尖った帽子の後ろに垂れ下がったものが付いますが、耳の下まで覆う形から兜にも見えてきます。

資料を探していたら面白い記述がありました。

■「古代オリエント文明」(ピエール・アミエ著、鵜飼温子訳、白水社発行)より
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~城門のひとつ《王の門》は、力強い写実的肉付きの守護神の像で飾られている。この髯(ヒゲ:頬のひげ)のない人物は、うしろに飾りの帯の垂れた角のついた冠を被り、そしてパレスティナやイラン出土の武器と類似の、刃の反対側が掌の形に分岐した斧を手にしている。帯に結びつけられた曲がった短刀と腰巻は、ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる。
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「王の門」と、その付近にあった建物の再現イメージ図(上段)と、平面図(下段)です。

何故かこの図は、「王の門」付近ではなく、「スフィンクスの門」の地下道の入口付近の案内板にあったもので、その場所がこの図で紹介された「王の門」付近一帯が見晴らせる場所だったことによるものでしょうか。

再現イメージ図(上段)を見ると、場外から「王の門」を入り、左手に続く塀に沿って進むと大きな建物の入口があったようです。

中庭がある大きな建物や、その横にある小さな建物は、城門に近いことから旅人の宿泊施設で、小さな建物には馬や、ロバ、ラクダなどを休ませる施設だったのかも知れません。

下に掲載した遺跡南東部の地図で見ると、平面図(下段)は、「王の門」付近と一致していますが、再現イメージ図(上段)は、南北が逆さまに描かれています。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

ヒッタイト帝国の都には各地方からの往来があったと考えられ、南東方面に向いた「王の門」にはカッパドキアや、その先の地中海東岸、エジプトとの交流の門だったことが考えられます。

前述の資料に「王の門」に刻まれた守護神の像の短刀や、腰巻が「ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる」とあり、「ラス・シャムラ」を調べて見ました。

Wikipediaによると、「ラス・シャムラ」は、地中海東岸にあるシリアの港湾都市「ラタキア」から北に約8Kmの海岸近くの町で、紀元前1450年頃から紀元前1200年頃に栄えた古代都市国家「ウガリット」があった場所だそうです。

「ウガリット」の北にはヒッタイト帝国、南東にはメソポタミア、南西には古代エジプトと、それらを結ぶ三角形の中央に位置し、地中海との交流もあったとされます。

Wikipediaによると、「バール神」は、ウガリット神話に「バアル」の名で登場する神で、「右手に矛、左手に稲妻を握る戦士の姿」、「自然界の水を征する利水・治水の神」、「慈雨によって実りをもたらし、命を養う糧を与える神」などの特徴が紹介されています。

ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」の大ギャラリー奥の岩に刻まれたレリーフで見た主神「テシュプ」も天候神・雷神とされ、よく似ています。

やはり、半砂漠地帯の気候の中で生きる人々の祈りは、雨の恵みだったものと思われます。

又、「ウガリット」の神話がユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型とされていることを知り、驚きました。



写真上段は、「スフィンクスの門」の下の道から「王の門」付近を見た風景で、写真下段は、右手の風景を拡大したものです。

写真右手の道路脇にあるのが「王の門」でしようか。

門から細長く続く石の列が塀の跡のようで、写真右端の建物跡が案内板にあった再現イメージ図の建物と思われます。



ハットゥシャ遺跡の見学を終え、ツアーのバスで、昼食に立ち寄ったレストランの風景です。

冒頭の地図の上にある青い矢印の先にあり、ハットゥシャ遺跡の全体が見渡せました。

写真下段にレストランの入口があり、入口の左手に等高線が描かれたハットゥシャ遺跡の地図が掲示され、その写真をブログで、利用させて頂きました。



レストランの庭にブドウの棚があり、たくさんの房が実っていました

かつて見たことのない小粒のブドウで、未熟とも思える緑色の実に白い粉が付いた珍しいものでした。

写真右下は、ブドウの房のそばにこぶしを並べて撮ったものです。

野生のブドウかと思い、トルコ人ガイトさんに尋ねると、ワインを作る品種だそうです。

こんな小さなブドウで、本当にワインを作るのでしょうか。



写真上段は、レストランから南に見えたハットゥシャ遺跡の風景です。

遺跡は、正面の山すその「大神殿」から左の山頂の「スフィンクの門」まで続いています。

山頂から少し右に見える大きな岩山の上が「大城塞」があると思われますが、こここからは見えないようです。

アナトリアの古い集落は、守りを考え、山裾から見えない山の中腹に作られる例が多く、ハットゥシャの最初の集落も「大城塞」から始まったものと思われます。

写真中段は、大神殿付近の風景です。

右手に再現された城壁(左下隅に拡大写真)、左手の道路わきの木立付近が大神殿の駐車場で、その間に神殿などの建物跡が広がっています。

写真下段は、「スフィンクの門」がある山頂付近の風景で、駐車した車も見えます。



レストランの東に見えたヤズルカヤ遺跡付近の風景です。

山の中腹に三角形の岩山が並ぶ(写真の中央)辺りが「ヤズルカヤ遺跡」で、土産物店の黄色い建物も見えていました。

エジプトのラムセス3世(在位前1182~1151)の葬祭殿の記録によると、紀元前1180年、ヒッタイト帝国は、「海の民」によって滅ぼされたとされます。

ヒッタイト帝国末期、聖地ヤズルカヤで、天候神「テシュプ」へ祈る最後の王を想うと、厳しい干ばつが続く時代だったのかも知れません。

次回は、いよいよカッパドキアです。

トルコ旅行 13 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-5

2015年01月25日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「地下道」の次は、その上にある「スフィンクスの門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回り、「スフィンクスの門」は南端にある門です。



バスが駐車した場所から少し長い階段を上ると「スフィンクスの門」が見えてきました。

スフィンクス像が刻まれた門は、城壁の外側に向いており、これは場内に向いた門の風景です。

城門の内側の向かって右側は、崩れており、左側の柱の一部がかろうじて残っています。

石の柱の下部を見ると、二本の動物の足のような模様が見られ、上部には円の模様が縦に並んでいます。

中央部が破損していますが、動物の顔でもあったのでしょうか。



写真上段は、城門の外側にまわり、「スフィンクスの門」を見た風景です。

写真下段は、スフィンクス像の後側から見た風景で、向かって左のスフィンクス像の上部が大きく破損しているようです。

座ったエジプトのスフィンクスとは違い、翼のある神秘的な姿が印象的でした。



「スフィンクスの門」のそばの案内板にあった「地下道」と、「スフィンクスの門」の平面図です。

左右に延びる太い線が当時の城壁、中央の部屋が「スフィンクスの門」、上側が城外です。

地下道の真上に門が作られ、門の右下(城内側)にも関連施設があったようです。



向かって左側のスフィンクス像です。

顔は人間、体はライオンと思われ、大きな翼も付いています。

スフィンクスと言えば、エジプトの大スフィンクスですが、翼のあるスタイルは意外でした。

大城塞にある宮殿を見下ろす最も高い場所にある重要と思われる門に置れた「スフィンクス像」は、強い力を持つ守り神と考えられていたものと思われます。

西側の「ライオンの門」にある地上最強の獣であるライオンと、東側の「王の門」にある人の姿をした神(優れた知恵?)に加えて、自由に空を駆け巡る翼を付けた「スフィンクス」を強い守り神として期待したのかも知れません。

両耳の下に垂れ下がる帯状のものや、アゴの下に細長く伸びるものなど、古代エジプトの文化的影響が感じられますが、翼のあるスフィンクスは、メソポタミア文明からの影響とも考えられます。

又、最初に見た城壁の内側の門に二本の前足や、頭の上に並ぶ円の模様などがあり、この像と類似しているようです。



向かって右側のスフィンクス像です。

背中に盛り上がっていた部分が崩れ、露出したライオンの胴体後部の様子から考えると、最初にライオン像が作られ、その上に、翼などが接着されたように思われます。

ライオンの門は、石の彫像でしたが、この像は、材料を組み合わせ、接着して作られたように見えます。



「スフィンクスの門」から「ハットゥシャ遺跡」を見下ろした風景です。

ツアーのバスが駐車する遺跡の見学道路の下の斜面にはたくさんの神殿跡が見られ、その先にはヒッタイト帝国の中枢機能があったとされる「大城塞」、その左には「二シャン・テペ」の遺跡が見えています。

最初に見学した「大神殿」付近を探してみましたが、ここからは見えませんでした。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

「スフィンクスの門」から遺跡内を見下ろすと、眼下に神殿跡とされるたくさんの建物跡のが見られ、その向こうに「大城塞」などの遺跡が広がっています。



「スフィンクスの門」から見た「大城塞」付近の風景を拡大したもので、向こうの左に盛り上がった大きな岩と、神殿跡が続く手前の斜面との間が「大城塞」です。

ここにヒッタイト帝国の宮殿跡や、粘土板を保管する文書館跡などがあり、1906年、ドイツの古代言語学者フーゴ・ビンクラーが遺跡を発掘し、約1万枚に及ぶ粘土板文書を発見したそうです。

アッカド語(古代メソポタミアの言語で、この地域の国際言語だった)が解読できるビンクラーは、既にエジプトで発見されていた古代エジプトのラムセス2世と、ヒッタイトのハットゥシリ3世が締結した平和条約の粘土板文書と同じ内容の文書を見つけ、ここが「ハットゥシャ」と呼ばれるヒッタイト帝国の都であったことを悟ったようです。

しかし、彼は、初めて見る多くのヒッタイト語の文書の解読は出来ませんでしたが、その後、多くの学者による研究で、BC1680年頃からBC1200年頃までの約480年に及ぶヒッタイトの歴史が解明されるこことなったようです。



左手の岩場の辺りに広がる建物跡「二シャン・テペ」付近を拡大したの風景です。

1862年、フランス人学者ジョルジュ・ペロがここで、古代文字が刻まれた大きな岩を発見し、ひどく風化していたもののその中にヒッタイトの聖地ヤズルカヤで発見された文字(象形文字-ヒエログリフ)と共通していることが分かり、解読がすすんだそうです。

解読された内容は、ヒッタイト帝国最後の王「シュピルリウマ2世」(在位紀元前1218~1200年)の偉業を讃える文書が刻まれているようです。

ヒッタイト帝国は、海の民(謎の民族)によって滅ぼされたとされますが、詳細は分かっていません。

大城塞には激しく燃えた壁がガラス状に溶け、滅亡を伝えているようです。

次回は、南東の城門「王の門」です。

トルコ旅行 12 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-4

2015年01月16日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の「ライオン(獅子)門」の次いで遺跡の南端にある「スフィンクスの門」に向かいました。



バスが駐車した「スフィンクスの門」の下の風景です。

左の高い斜面に造られた階段を上りきった付近に「スフィンクスの門」、階段の途中には地下道「Yer Kapi(イェル・カプ=大地門・出撃門)」の入口があります。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図です。

「スフィンクスの門」と、「地下道」は、「ハットゥシャ遺跡」の一番南にあり、遺跡の見学は、バスで「大神殿」、「ライオン門」と回って来ました。

「ハットゥシャ」の城門は、北東部に1ヶ所離れてありますが、その他の城門は、「大神殿」の西から南に2~300m間隔で3ヶ所あり、南端の「スフィンクスの門」から西の「ライオン門」と、東の「王の門」までが約7~800m間隔で造られていたようです。

北東の城門から「王の門」までの東側の城壁は、険しい渓谷のようで、城門も見当たりません。



階段を上がった地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近の風景です。

門の左右の石は、方形に整えられていますが、門の上部は崩れているようです。



地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近の案内板にあった説明図です。

上段の図は、側面図で、城壁の外に向かって下り坂のトンネルになっていることが分かります。

下段の図は、北方向を下に描いた平面図です。

城壁と交差するトンネルの西側に「スフィンクスの門」があるようです。

城郭の外側(南)に台形のような地形が見られ、人工的に造られた地形に城門が造られたことが分かります。



写真上段は、地下道入口をのぞいた風景です。

長さ約71mとされる地下道の出口から見えてくる光を頼りに歩いて行きますが、大勢の行列では光が遮られてしまうかも知れません。

写真下段は、地下道の出口に近づいた時の風景です。

トンネルの形状は縦長の三角形で、頭を打つこともなく、しゃが姿勢だと反対方向から来る人と交差できる幅もあるようです。



写真上段は、地下道出口を正面から見た風景で、斜面上には城壁の一部ものぞいて見えます。

左右の石は、入口と同じように方形に整えられており、入口ではこわれていたと思われる上部の石も見られます。

写真下段は、地下道出口を横から見た風景で、トンネルの高さや、城壁に沿った付近の地形も見えています。

出口左は、更に低くなっていますが、谷は余り深くないようです。



地下道出口の案内板に地下道出口付近の復元イメージと思われるイラストがありました。

台形に突き出た地形が造成され、その上に城壁が築かれていたようです。

左に見える地下道の出口は、造成された斜面の下部に造られており、出口から下が元の地形だったものと思われます。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図から「スフィンクスの門」周辺部分を切り出し、拡大したものです。

等高線を調べたところ、元の地形と思われるバスが停まった道幅の広い付近や、地下道出口付近の標高が約1220mで、その間に城壁の土台になった地形が造成されたようです。

最高地点の「スフィンクスの門」付近の標高が1236mとみられることから造成された高さは、16m前後に及び、長さは25mを超えるものと思われます。

又、地下道の入口の標高が約1230m、出口が約1220mであることから約71mとされる地下道は、10m程度の標高差で造られたようです。

自然の地形だったと思われる地下道の出口のすぐ南の地点の標高は、更に10m低い1210mで、そこから東西に谷が下って行く稜線だったようです。

広大なヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」を一望できる南端の地点の城壁を考えた時、東西に走る深さ約10mの緩やかな傾斜の谷では防御に弱いと考え、急傾斜の土塁を造成し、その上に城壁や、城門を造ったようです。



地下道出口からの帰り、石垣の斜面を城壁のある高台まで登って行く風景です。(広角でとったので、上までの距離が実際より長く見えています)

高台の上には、「スフィンクスの門」から出て下を見下ろしている人が見えます。



「スフィンクスの門」の前から地下道出口ある斜面を見下ろした風景です。

出口の南の谷の向こうには大きな岩山があり、その向こうには林が広がっていました。



「スフィンクスの門」の前から西側の城壁を見た風景です。

かつては石垣の上に日乾レンガの城壁が続き、所々に外側に突き出た櫓が造られていたようです。



「スフィンクスの門」の数十メートル東の櫓跡の風景です。

内側の城壁の石積みから細長く突き出たスペースがありました。

約3500年の歳月によく残っていたものと思いますが、かつての様子を思い浮かべるには余りに乏しい知識でした。

次回は、「スフィンクスの門」と、「王の門」です。


トルコ旅行 11 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-3

2015年01月11日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の大神殿の見学を終え、ライオン(獅子)門へ向かいました。


「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回ります。



前回紹介した「ハットゥシャ」の大神殿を見下ろした風景です。

「ハットゥシャ遺跡」の見学を終えて、カッパドキアへ移動する山道から見えた風景で、写真右に見える白い塔の手前に復元された城壁が見え、写真左端の木立の辺りに大神殿の駐車場があります。

南の「上市」エリアへは、大神殿の駐車場から左手に進んで行きます。



上の写真の左に続く「ハットゥシャ遺跡」の風景です。

写真右端の赤い矢印の場所が大神殿の駐車場で、左の矢印の少し先にはライオン(獅子)門があります。

冒頭に掲載した遺跡の概略地図にある大城塞や、南城塞など、遺跡の東側は、岩山の陰で見えていませんが、左の矢印まで長い上り坂が続いている様子が分かります。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図です。

遺跡の見学を終え、遺跡の北にあるレストランでの食事の時、店先に掲示されていた案内地図を撮ったものです。

北の大神殿付近の標高が1000m、南端の「スフィンクス門」付近が1237mと、ヒッタイト帝国の都は標高差237mにも及んでいたようです。

遺跡地図の道路に標高差50m毎のポイントを記していますが、次の見学スポット「ライオン門」から「スフィンクス門」までの傾斜が大きいことが分かります。



写真上段は、「ライオン門」へ向かう途中、上の地図の★印の場所を、南側から見下ろした風景で、写真下段は、写真右上部分を拡大したものです。

斜面に続く石積みは、大神殿から南東の大城塞を囲んでいた城壁と思われ、南の「上市」が拡張される以前のものと思われます。

道路から城壁前までの間は、急斜面になっており、城壁から迫る敵に安定した足場を与えないよう考慮されたものと思われます。

道路脇に駐車し、城壁まで歩いて見物する人が見られますが、ゆっくりと自由に見学できるのはうらやましい限りです。



写真上段は、「ライオン(獅子)門」を城壁の内側から見た風景で、写真下段は、ライオン像のある外側から見た風景です。

門の両脇に刻まれたライオン像にはタテガミが見られず、雌ライオンと思われますが、吠えるように口を開けた巨体には迫力がありました。



そばの案内板にあった「ライオン(獅子)門」の写真です。

上段は、現在の風景、下段はヒッタイト帝国時代の姿に復元されたものと思われます。

かつての門は、かなり高い石積みとなっており、ライオン像が刻まれた石柱も左右がアーチでつながっていたようです。

又、石積みの上には大神殿の北側に復元された城壁と同様、日乾レンガの建物がそびえていたと思われ、堂々たる姿が思い浮かびます。

入口の縦長のアーチは、古代ローマ遺跡などで見られる半円形のアーチ型とは違う独特のデザインで、アーチ構造の発展過程の形式だったのかも知れません。



左右のライオン像の画像を合わせたものです。

向かって左の像は、風化が激しく、最近レプリカに代えられたようで、かつての姿がよく復元されたものと思われます。

向かって右は、紀元前13世紀に上市が拡張された当時からのものと思われ、顔や足に破損が見られます。

ヒッタイト時代以前からアナトリアに大きな影響を及ぼしたメソポタミア北部のアッシリアでもライオンは、女神など様々な神の属獣とされ、門を守るライオン像は、やがてインド、中国、朝鮮半島を経由して日本にも伝わり、狛犬となったと思われます。

かつてアフリカからインドに及ぶエリアに生息したとされるライオンですが、有名な古代アッシリアのライオン狩りのレリーフ(大英博物館 )にもあるように当時は危険を冒してでも狩る必要がある恐ろしい猛獣だったようです。

しかし、百獣の王である雄ライオンの姿ではなく、雌のライオン像としたことが気になります。

2014年12月08日、このブログに掲載のヤズルカヤ遺跡のレリーフにも主神「テシュプ」と向き合う女神(配偶神)「へパト(アリンナ)」がパンサーの上に立って属獣としている姿が見られ、ライオンを雌としたことに関連があるのでしょうか。



向かって左のライオン像の上半身の拡大写真です。

キバがなく、長い舌を出した表情は、門の前に来る敵を威嚇するための表現とも思えず、顔の輪郭や、耳などに抽象化されたデザインが見られるのは門の守護神としての表現形式があったのでしょうか。

「世界歴史の旅トルコ」(大村幸弘著、山川出版社)によると、「左手の破損している獅子(レプリカに取り替えられる前の像)の頭部左上にはヒエログリフ(象形文字)が刻まれており,光線の具合によって読み取ることができる。」とあり写真を拡大して見ましたがよくわかりませんでした。

Webサイトwikipediaのハットゥシャのページにレプリカに代えられる前の顔が破損したライオンの門の写真が掲載されていましたが、やはり復元されたこの像が見ごたえがあります。



向かって右のライオン像の上半身の拡大写真です。



これは上市が建設された当初からの石像と思われ、三千年を超える歳月によく残ったことや、この像から左の像をよく復元したことに感心します。

明治時代以前の神社の狛犬がひどく風化している姿を見るにつけ、当時の石材の選定にしっかりしたノウハウがあったことがうかがえます。


トルコ旅行 10 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-2

2015年01月05日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の大神殿の続きです。



「ハットゥシャ遺跡」の北端にある大神殿周辺の地図です。

前回は、門や、門を入った付近の紹介でしたが、今回は、神殿や、復元された城壁、倉庫群などの紹介です。



門から奥に進むと、右手に神殿の入口があります。

胸の高さまである大きな基礎石を見ると、かつての神殿が驚くほどのスケールだったことがうかがわれます。

入口を入ると、中庭が広がり、そのはるか先にはなだらかな丘の斜面が見えます。

木々もまばらなこの辺りは、標高1000mを超え、右手の岩山の陰(北東方向)には標高約1200mの聖地、ヤズルカヤがあります。



案内板にあった神殿の復元イメージ図と、平面図です。

神殿の復元イメージ図を見ると、日乾レンガで造られたとされる神殿は、石材を多用したエジプトや、ギリシア建築とは趣を異にしており、やはりメソポタミア建築の影響を強く受けたものと思われます。

この神殿には天候神「テシュプ」、配偶神「へパト」が祀られていたとされ、聖地「ヤズルカヤ遺跡」の大ギャラリーの一番奥のレリーフにも左の列の先頭に男神を従えた「テシュプ神」、右の列の先頭に女神を従えた「へパト神」が向き合った姿で描かれており、この神殿奥にも同様の考え方で祀られていたのかも知れません。

神殿奥の左右の二部屋(C・D)が二神を祀っていた場所とも思われ、神殿入口(平面図A)から広い中庭(平面図B)に入り、奥に祀られた二神への祈りの儀式が行われていたのかも知れません。



写真上段は、神殿入口から右手(東側)を見た風景です。

神殿の基礎石は、大きな岩を隙間のないよう丁寧に加工してつないでおり、周囲の建物とは際立った違いが感じられます。

幅が1mを超え、高さが胸まである基礎石の上に載せられた日乾レンガの壁は、かなり重厚なものだったと思われ、それだけでも神殿の壮大さがうかがわれます。

横幅130m、奥行き165mの巨大な大神殿が約3500年前、ここに建っていたことを想えば、古代エジプトと、覇を競ったヒッタイトの偉大な歴史に興味が深まってきます。

写真下段に遺跡研究員と思われる二人の若い女性が基礎石を調べていると思われる姿が見られますが、門の付近などにも4~5人が見られ、今でも詳細な研究が続けられているようです。



写真上段は、神殿奥の部屋(平面図D)の風景です。

中庭とは違い、床に石が敷き詰められています。

正面の左右の方形に整えられた基礎石と違い、中央の基礎石は、自然の岩の形を残し、部屋に突き出ており、祭壇だったのかもしれません。

「古代アナトリアの遺産」(立田洋司著、近藤出版社)によると、このアナトリアのコンヤ平原にある新石器時代の遺跡チャタル・ヒュユク(BC 6500頃~)では既に建物の内装に漆喰(しっくい)が使われており、クリーム色の漆喰で、床や壁を幾層にも塗って補修していたとされます。

この建物の床や、壁、天井も漆喰で白く塗られ、神聖さを演出していたのかも知れません。

写真下段は、神殿奥の辺りの部屋の仕切りと思われる基礎石の風景で、石の上に等間隔で小さな穴が開けられていました。

チャタル・ヒュユク遺跡の建物の壁や、屋根は、木材を骨格にして日乾レンガを積んだとされ、いち早く鉄器を使っていたヒッタイト帝国の神殿と考えると、この穴には金属棒(青銅、又は鉄)が差し込まれ、石材や、木材などを固定していたのかも知れません。



神殿西の奥(平面図Cの付近)から入口(南西)方向を見た風景です。

左手に神殿の中庭を隔てる基礎石、右手には神殿を囲む小部屋の基礎石が続き、正面に細く延びる場所は、廊下のような場所だったのでしょうか。

向こうの丘の麓の斜面を見ると、多くの建物跡が広がっています。



神殿入口を西に進んだ辺りの案内板の前にトルコ人ガイド、ギョクハンさんが立ち、その右(北西方向)に復元された城壁を望む風景が広がっています。

冒頭の大神殿の地図にもあるように城壁と神殿の間には倉庫とされるたくさんの建物跡が広がっています。



写真上段は、一段低くなった場所に倉庫群が広がり、城壁の背後にボアズカレ村が広がる風景です。

写真中段は、復元された城壁の全景で、写真下段は、案内板にあった復元城壁の平面図です。

城壁の平面図で、櫓が図の下に突き出た側が城壁の外側で、左の櫓の壁の白い部分は、入口と思われます。

ガイドさんの説明によるとこの城壁はJT(日本たばこ産業)の支援で復元されたそうで、JTのWebサイトを調べてもそのいきさつは見つかりませんでした。



写真上段は、案内板にあったハットゥシャで発掘されたとされる城塞形土製品の写真です。

城壁の復元は、この土製品を参考に行われたようです。

写真下段は、復元された城壁の左右の櫓部分を拡大したもので、土製品と比べてみると復元の参考としたことがうかがわれます。

右の櫓の下には入口があり、左右の櫓の右側(二階部分)には階段が見られることから一階と、二階を結ぶ階段があったようです。

左に傾斜が高くなる地形の高低差は、櫓の左右で城壁の高さを変えて造られており、階段が右だけに必要だったようです。

城壁の下の基礎石を見ると、比較的小さな石を積み重ねた石垣で、その上に日乾レンガの壁が造られているようです。

前回の記事の冒頭で掲載したオリエントの地図にヒッタイト帝国の主要部を囲むクズルウルマック川(赤い川)が見られますが、日乾レンガは、この川辺に沈殿した土が使われているようで、壁の色もその土の色が反映されたものかも知れません。

櫓の壁に丸く突き出たものが見られますが、一階の天井や、二階屋根を支える木材が壁から突き出ているものと思われます。

又、右の櫓の入口の左上には木材が見られないのは、おそらく二階に登る階段があることによるものと思われ、左の櫓にも同じ様な部分が見られます。

しかし、写真上段の土製品には一階天井を支える丸太は見られず、やはり約3500年の隔たりを埋める資料としては限界があったのかも知れません。

二つの谷に挟まれた尾根の斜面にこのような城壁が6Kmにも及んでいることを考えると、当時の高い建築技術や、建設にかけられた労力の膨大さが伝わってきます。



写真上段は、復元された城壁の右手(北方向)を見た風景です。

左右の赤い矢印の場所に大きな甕が埋められた場所がありました。

ガイドさんの説明では穀物(小麦?)などが貯蔵されていた甕だそうで、この一帯の建物には様々な物資が保管されていたものと思われます。

写真中段は、左手の5個の甕が見える場所で、遺跡の保護のためかフェンスで囲まれています。

写真下段は、右手の4個の甕が見える場所で、バスで走った道の近くでした。

これらの甕の縁には保管した物がヒエログリフ(象形文字)で刻まれていたとされ、それぞれの物資の必要量を保存する管理が行われていたことがうかがわれます。

直径が1mを超えると推察される大きな甕を作る焼き物の技術や、基礎石が甕の直径より幅広く造られた理由など写真を見ていくと興味が尽きません。



上段の4個の甕が見える場所の向こうで、建物を発掘していると思われる風景が見られました。

冒頭の大神殿周辺の地図に「建物A」と記した場所で、この地図に描かれているものの本格的な発掘はこれからだったのでしょうか。



写真上段は、大神殿の駐車場から道の向こうに見えた建物跡で、なだらかな斜面に基礎石が見られました。

写真中段は、建物跡をそばで見た風景で、倉庫でも見られた基礎石の幅の広さが印象的です。

標高1000mを超える土地で、冬の厳寒や、夏の猛暑に対応したたてものだったのでしようか。

写真下段は、案内板にあった建物の復元イメージ図で、石垣の基礎の上に建てられた平屋根の二階建ては、現代の建物と変わらないモダンさに驚きます。

現代の鉄筋コンクリートの建築は、石の基礎の上に木材を骨格とした日乾レンガの建築技術がベースになっているのかも知れません。

次回は、ハットゥシャ遺跡の南のエリアにある城門です。

トルコ旅行 9 ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」-1

2014年12月28日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ遺跡」の次は、帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の見学です。

ヒッタイトの歴史は、古代メソポタミアから伝わった楔形文字を記した粘土板の発見から解り始めたようです。

この地に文字を伝えたのはメソポタミア北部のアッシリア商人によるもので、ヒッタイト時代以前の紀元前1950〜1750年頃、金・銀・銅などの入手を目的にやってくるようになり、各地に植民商館を造って活動拠点としていたようです。

植民商館のひとつ「カネシュ(現キュルテペ)」1925年から「カッパドキア文書」と呼ばれる大量の粘土板(アッシリア商人の商取引記録)が発掘され、ヒッタイト以前の時代が歴史時代となったようです。

ヒッタイト王国の歴史は、ここハットゥシャ遺跡の「大城塞」にあった王室文書館から1万枚に及ぶ粘土板が発見されたことで解明が始まったようです。

ハットウシャの中核施設と思われる「大城塞」の見学は、残念ながら見学は出来ませんでした。



ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図で、「ハットウシャ」は赤丸印の場所です。

「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。

「ハットゥシャ」は、ヒッタイト古王国が建国された紀元前1680頃からヒッタイト帝国終焉した紀元前1200年まで約480年間続いた都の地で、ヒッタイト帝国の最盛期の領土は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがっていたようです。

特に「ヒッタイト帝国主要部」は、大きく湾曲したクズルウルマック川(赤い川)に囲まれたエリアで、帝国が拡大する過程に川を防衛や、国境として利用していたなごりかもしれません。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、東西を谷で挟まれた地形に造られた城壁に囲まれたエリアをピンク色に塗っています。

又、大神殿や、大城塞のある「下市」と表示した北のエリアは、建国頃からの市街地で、南のエリアは「上市」は、紀元前14世紀に外敵に備えて拡張されたとされます。

ヒッタイトの歴史は、紀元前1680年頃建国された古王国時代、紀元前1430年頃再建された新王国(帝国)時代に分けられ、その間の紀元前1500年頃から70年間を中王国時代とされているようです。

ハットゥシャは、中王国がミタン二(オリエント地図参照)の侵攻により崩壊したとされ、現在の遺跡の大部分は、新王国(帝国)時代に造られた施設と思われます。

周囲6Kmにおよぶ城壁跡は、紀元前の規模としては最大級と思われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

見学は、大神殿、ライオン門、スフィンクス門、王の門と左回りで進んで行きました。



上段は、「大神殿」の復元イメージ図、下段は、その平面図で、遺跡の案内板に展示されていたものです。

この神殿は、天候神「テシュプ」と、配偶神「へパト」に捧げられたものだそうで、日乾レンガの巨大な建物(短辺130×長辺165)があったようです。

神殿の北西には復元された城壁があり、神殿との間に倉庫群の基礎石が並んでいました。

■古代アナトリアの遺産(立田洋司著、近藤出版社)より
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たった一人の守衛が見守る入口から少し行くと、右手にまず大神殿跡が見える。この大神殿跡はまことに大きな遺構である。まず中庭状の大神域があり、その周りを40以上の部屋が囲み、さらに少しの間隔をおいて外側を80余りの細長い部屋がとり巻いている。どうやらこれらの部屋は、さまざまな物資を貯蔵するのに使用されたらしい。現在は土台の石灰石しか残っていないが、当時はこの上に粘土を乾燥させたいわゆる日乾レンガ【この地は夏の太陽光線が強いので、これでもかなりの強度を持った建材となり得る】で厚い壁が造られ、さらにその上には木で支えられながら同じ日乾レンガ製の屋根が載っていた。この大神殿、長さを測れば、短辺で130メートル、長辺で165メートルもあるという。
大神殿跡のすぐ南側には、ごく近年の発掘(1967~1968年)で地上にその姿をあらわした古代の道路(幅8メートル)があり、さらにその向うには、貯蔵用や住居用と目される大きな建物の跡がある。
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上段は、大神殿の駐車場近くにあった石の遺物で、下段は、案内板にあったその復元イメージ図と思われるものです。

案内板の撮影で、ガイドさんの説明を聞きもらし、何か分かりませんが、前後4頭のライオンが守るデザインから王の棺桶にも思えます。



写真上段は、大神殿の門にガイドさんが立つ風景です。

建物の復元イメージ図にあるようにここから建物に入って行ったようです。

ガイドさんの足元に遺跡調査の人が置いた測量器具のようなものが見られ、付近では今も発掘調査が続けられている風景が見られました。

写真下段は、石段を上がった門の地面の風景です。

ガイドさんの話では、ここには二つの秘密の井戸(赤い矢印の場所)があったそうで、昼間の開門時間帯は、石で蓋をされ、夜間の閉門時間帯には蓋が外され、外部からの侵入を防ぐ落とし穴としていたようです。



門から神殿内を進み、振り返った風景です。

通路には石が敷かれていますが、盛り上がっていびつになっている部分は地震などの影響でしょうか。

向こうに門や、駐車場が見えますが、遺跡内はバスで移動して行きます。



門を直進した辺りにあった石で、ガイドさんが建物の基礎石に開けられた穴の説明をしている場面です。

ガイドさんの分かりづらい日本語を私なりに解釈すると、いち早く鉄器を利用していたヒッタイトは、鉄の棒と、石に開けた穴を門の開閉に利用していた意味の説明でした。(この石が何に利用されていたのは理解できていませんが・・・)

付近に散らばっていた建物の基礎と思われる四角柱の石にも等間隔で同様の穴が見られ、基礎の石をつなぎ合わせていた可能性も考えられます。



穴の開いた石の少し南につやのある緑色の石がありました。

冗談なのか、ガイドさんから「宇宙から落ちた石」で、石に手を置き、石を左回りすると願い事がかなうと紹介されていました。

座るのにちょうど良い高さだったように記憶していますが、上部が平らで、神殿にあったことから祭礼などで使われていたものかもしれません。

廃墟のように殺風景な遺跡の中で、美しく磨かれた緑の石には不思議な存在感がありました。



穴の開いた石の近くに、ガイドさんからヒッタイトの王が入った風呂と紹介された水槽のようなものがありました。

深さは確か1.5メートル位で、お湯を沸かして入れるには、大き過ぎるようにも思われます。

「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)によると、様々な民族を統治していたヒッタイトは、それぞれの伝統宗教を許容し、自分達の信仰に受け入れて多くの神を信仰していたとされます。

そして、メソポタミアの影響もあり、神を人のように考える擬人神観を持ち、神々は、住居である神殿で、食事、入浴、娯楽の供養まで受けていたとされます。

この風呂も神様が入浴するためのもので、井戸から水を汲み、神様の体を洗う儀式をしていたのかも知れません。

大神殿の外観の再現イメージ図をながめ、更に建物内部の様子や、当時行われていた様々な儀式を私が想像するには余りに情報が足りないようです。

中庭のある神殿、倉庫群、再現された城壁などは、次回とさせて頂きます。

トルコ旅行 8 ヒッタイト帝国の祭祀場遺跡「ヤズルカヤ」-2

2014年12月15日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャシュ遺跡」に近い、聖地「ヤズルカヤ遺跡」の見学の続きです。

前回は、ヤズルカヤ遺跡の岩山の壁面に彫られた神々のレリーフの内、大ギャラリーのものを紹介しましたが、今回は、小ギャラリーの紹介です。



「ヤズルカヤ遺跡」の小ギャラリー入口の風景です。

左右の石段が合流した先が小ギャラリーの入口で、切り立った二つの岩山の狭い間の通路を進んで行きます。



前回も掲載した遺跡の再現平面図で、案内板にあったものを加工編集したものです。

建物1が門、建物2が王の葬祭殿、Aのエリアが大ギャラリーで、Bのエリアが今回紹介する小ギャラリーです。

岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けており、(8)~(11)の順で見ていきます。



入口の階段左手にあったレリーフ(8)です。

長い尾をまっすぐに上げ、仁王立ちになった守り神の顔は、野獣のようにも見えます。

この奥の小ギャラリーに戦いの神「シャルマ」のレリーフがあり、前回紹介した大ギャラリーのレリーフ(5)にもパンサー(豹)の上に立つシャルマ神の像があることからシャルマ神にちなんだパンサー(豹)を守り神としたものと考えられます。

この後、見学する「ハットゥシャシュ遺跡」の城門にもライオン像、スフィンクス像などが門の脇に見られ、聖なる動物を守り神とする信仰があったことがうかがわれます。

しかし、それらの守り神は、門の両脇にあり、左に一体だけあるこの守り神には不自然さを感じます。

「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」によると、「厄除けの2体の怪物に守られた岩の狭い通路を通って、「付属」の部屋に達する」として第二の小ギャラリーの説明が始まっており、右手にも1体あったのかも知れません。

又、このレリーフの写真をよく見ると、風化が見られず、レプリカをコンクリートで貼り付けた形跡にも見えます。

ひどく風化したレリーフを保護する目的でレプリカに変えるなら右にも付けるはずで、片方しかない守り神にはやはり疑問は残ります。



ガイドさんを先頭に狭い岩の通路を進んで行く風景です。

右側の岩壁に削られような跡が見られ、人為的に広げられた通路と思われます。



小ギャラリーで、ツアーの一同がガイドさんの説明を聞いている風景です。

右手(東側)の壁にレリーフ「12神の行進」(9)があり、その先に二つの不思議な穴が見えます。

高く切り立った左右の岩壁の間には、人がすれ違う程度の幅で、ロープが張られており、すぐ先は、行き止まりです。

周囲を岩壁で囲まれたこの地形は、ほとんど天然のものと思われますが、不思議に気持ちが落ち着く空間でした。



右手(東側)の岩壁に「12人の黄泉の国の神々が行進するレリーフ」(9)(地球の歩き方-ダイヤモンド社)と案内されたレリーフがありました。

写真右上は、レリーフの一部を拡大したもので、トンガリ帽子をかぶり、三日月型の剣をかかげて進んで行く姿からは「黄泉の国」のイメージは浮かんできません。

三千年以上の歳月を経たレリーフですが、くっきりと像が残っていることに驚きます。

大ギャラリーの男神の列の最後尾にも同じような姿をした12神が並んでいましたが、関連はあったのでしょうか。



写真左は、回廊左手(西側)奥にある「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」とされるレリーフ(10)で、写真右は、そのレリーフの線画で、案内板にあったものです。

「シャルマ神」と、「トゥドハリヤ4世」は、共に大ギャラリーでも登場し、主神「テシュプ」と、配偶神「へバト(アリンナ)」の子神「シャルマ(戦いの神)」とあり、この三神はハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤ四世を表すとされていました。

トゥドハリヤ四世を表すとされるシャルマ神に抱きかかえられているこのレリーフの意味を考えると、シャルマ神を守護神として崇め、加護を願うものだったのかも知れません。



写真左は、回廊左手(西側)にある「剣の神ネルガル」とされるレリーフ(11)です。

この遺跡のレリーフでは最も大きな像で、写真では上の三角帽子の部分が欠けています。

写真右は、レリーフの線画で、両肩と、両足のひざに顔のあるライオンが見られ、ガイドさんの説明によると足元は剣を表すようです。

「ネルガル」は、メソポタミアの神話で、冥界の王とされ、ヒッタイトにも受け継がれていたようです。

前回の大ギャラリーの諸資料で、記事では聖地ヤズルカヤは、ハットゥシリ3世と、その息子トゥドハリヤ4世の代に造られたとされていましたが、ガイドブック「地球の歩き方」(地球の歩き方編集室 著、ダイヤモンド社 )では「~トウタルヤ4世の息子にしてヒッタイト最後の王、シュピルリウマ2世が父トウタルヤ4世(トゥドハリヤ4世)を祀るために造った~」あり、資料により違う説が採用されているようです。

大ギャラリーの右の列最後尾のトゥドハリヤ四世のレリーフや、小ギャラリーのシャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世のレリーフを生前に自身が造らせたとしたら不自然にも思われます。

シュピルリウマ2世が亡くなった父トゥドハリヤ4世のため、冥界の王「ネルガル」を崇め、シャルマ神の加護を受けるよう冥福を祈ったのかも知れません。

鉄器時代のさきがけとなったヒッタイト時代、鉄器時代の始まりは、ヒッタイト帝国の滅亡から始まったとされますが、製鉄は、ヒッタイト以前に始まったとされています。

鉄器、しかも高度な鋼鉄製にまつわる興味深い歴史がこのレリーフにあったようです。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの磨崖に彫られた「短剣神」この浮彫りと同じ様式化した獅子を装飾している鋼鉄製の刃をもった斧が、ウガリット※から出土しているので、この短剣の刃も鉄であったと思われる。これはヒッタイト帝国とウガリットの密接な関係を示す史料でもある。
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※地中海東岸の町、現在のシリア領。



「12神の行進」のレリーフの奥にある不思議な二つの穴です。

写真下段は、大きさを確認するため、左の穴に手先を添えて撮ったものです。

確か、ガイドさんの説明は、お供えのための場所だったように記憶しています。

当時、祭祀には動物のいけにえが捧げられたようで、そのための穴と考えれば不自然な大きさとは思われません。



大ギャラリー左手奥を妻が撮った写真で、逆光によるものだったのでしょうか、数ヶ所に青く光る模様が写っていました。

左の岩壁に一つの穴が見え、その左に「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」の像、更に左に「冥界の王ネルガル」のレリーフが見えます。

遺跡の平面図に描かれていた小ギャラリーの穴がを見ると、この穴の向いに上の写真の二つの穴があることが分かります。

お供えは、目の前にすることが普遍的と考えると、岩壁の両側にお供えの穴が向かい合っていると考えるのは不自然に思われます。

右手に12人の黄泉の国の神々と、左手に冥界の王「ネルガル」のレリーフが迎えるこの小ギャラリーがトゥドハリヤ4世の祭礼と、その後の祭祀の場所と考えると、この穴がトゥドハリヤ4世の埋葬の穴だったと考えるられなくもありません。



狭い岩の通路を過ぎて小ギャラリーを出た風景です。

前の広場には「王の葬祭殿」の建物跡が見られます。



ヤズルカヤ遺跡の駐車場北側に並ぶ土産物屋の風景です。

二列に並んだ小さな小屋にたくさんのお土産が陳列され、ツアーの人たちが見て歩いています。

写真中段は、トルコ名物の魔除け「青い目玉(ナザール・ボンジュウ)」が並ぶ風景で、トルコ各地で見られました。

写真下段は、石の置き物のお土産で、「ヤズルカヤ遺跡」や、「ハットゥシャシュ遺跡」などヒッタイトにちなむ遺物のコピーのようです。



写真上段は、「ハットゥシャシュ遺跡」の最も高いスフィンクス門から北東方向を見下ろした風景です。

眼下には城塞や、神殿跡が見られ、写真右端の山の中腹にはヤズルカヤ遺跡のある岩山も遠望できます。

写真下段は、ヤズルカヤ遺跡付近を拡大した風景で、向かって右にいくつかの岩山が集まっている場所です。

ヒッタイトの祭祀文化は、メソポタミアなど、周辺民族の信仰を広く受け継ぎ、帝国滅亡後は古代ギリシアへも大きな影響をもたらしたとされています。

メソポタミアに発した文明は、アナトリアのヒッタイト王国へ伝わり、更にエーゲ海を渡りギリシア、ローマへと続いていったようです。

トルコ旅行 7 ヒッタイト帝国の祭祀場遺跡「ヤズルカヤ」-1

2014年12月08日 | 海外旅行
10/1 、トルコ旅行3日目、アンカラのホテルを出発して東へ約3時間、小さな村ボアズカレにあるヒッタイト帝国の都「ハットゥシャシュ遺跡」と、その聖地「ヤズルカヤ遺跡」の見学です。

「ヤズルカヤ遺跡」の見学は、午後の日差しでは岩に彫られたレリーフが見づらくなるとのことで、最初のスポットとされました。

ヒッタイトは、BC1680頃に王国を築き、曲折はあったものの、この地を都としてアナトリアの大半を版図とする帝国に発展させた民族で、BC1200年までの約480年間続きました。

高度な製鉄技術で鋼[はがね]までも作っていたとされ、二頭の馬が曳く三人乗りの二輪戦車(チャリオット)などで周辺国を圧倒した華々しい歴史があります。

ヤズルカヤは、ヒッタイト帝国末期のハットゥシリ3世(在位 BC1275~BC1250)と、その息子トゥドハリヤ4世(在位 BC1250~BC1220)の代に造られたとされ、帝国が滅んだBC1200年から数十年前のことだったようです。



「ヤズルカヤ遺跡」の駐車場から遺跡の方向を見た風景です。

「ヤズルカヤ」は、トルコ語で「碑文のある岩場」の意味だそうで、正面の岩山の中には神々のレリーフが彫られた祭祀場の遺跡があります。



ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図です。

「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。

ヒッタイト帝国は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがり、大きく曲がったクズルウルマック川に囲まれたエリアが帝国の主要部だったとされ、「ハットゥシャシュ(ヒッタイト語でハットゥシャ)」を都としていました。

イスタンブールのあるボスフォラス海峡から東側は、ギリシア語で「日の出の国」を意味する「アナトリア」と呼ばれる半島です。

又、アナトリアの北西岸にあった「アスワ」と呼ばれる小国の名が転じて「アシア(アジア)」の呼称となり、その後アナトリア全域を指す名称となり、更に東洋全域が「アジア」と呼ばれるようになると、アナトリアは「小アジア」の名に変わって行ったようです。



遺跡の入口付近の案内板に当時の聖地の再現イメージが描かれていました。

向かって左手が現在の駐車場がある方向で、岩山の前を塞ぐように建物が造られ、左が門、中央が王の葬祭殿だそうで、右手の小さな建物は、柵で囲まれていることから、ロバや、馬などをつなぐ施設だったのかも知れません。

一見、近代的なコンクリート造りのようにも見える建物ですが、世界最古の文明とされるメソポタミアや、古代エジプト、又ヒッタイト時代以前のアナトリアでも日乾レンガの建物が普及していたとされ、この建物も同様の工法による建物だったものと思われます。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ボアズキョイの郊外ヤズルカヤの王室祭祀場所
 岩山の裂け目を通って中に入ると、狭い広場に出る。その周囲の磨崖下部に、ヒッタイト新王同時代の王室の神々(大多数は元来フり人とメソポタミアのもの)が行列をなしている。神々は男女のクループに分けられ、王権神授の場面がその中央に位置する。岩山の入り口付近には、王の葬祭殿の遺構がある。
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これも案内板にあった遺跡の再現平面図を加工編集したもので、岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けています。

又、遺跡の見学順路を赤い矢印で記しましたが、図の下の駐車場から建物1・2を通り、岩場の祭祀場へ進む順路は、昔もほぼ同じようだったと思われます。

図にAと記され、レリーフ番号(1)~(7)のある場所は、「大ギャラリー」と呼ばれ、(1)から(4)が男神の列、(6)に女神の列が彫られ、奥のレリーフ(5)では男女の神々の行列が左右から向き合う場面となっています。

女神の行列の最後尾のレリーフ(7)は、トゥドハリヤ4世とされ、大きく彫られた姿が印象的でした。

「小ギャラリー」には神に抱かれたトゥドハリヤ4世のレリーフの他、2ヶ所のレリーフや、その横に不思議な穴も彫られており、次回の紹介とします。



写真上段は、岩山に向かう坂道をトルコ人ガイドギョクハンさんが先行して上って行く風景です。

案内板の平面図を見ると、この辺りから上の岩山付近までの約70mに建物群が続いていたようです。

写真下段は、坂道の途中から下の駐車場方向を振り返った風景で、石段や、道の脇に並ぶ石は建物遺構と思われ、三千数百年の歳月を経て残っていることに驚きます。



大ギャラリーの入口付近から奥の方向を見た風景です。

広く開いた岩山の間も奥に進むにつれて狭くなり、少し先から神のレリーフが始まります。

人影が見えない写真は、見学を終えた時に撮った写真です。



大ギャラリーを更に奥へ進み、行き止まりの岩が見えてきた風景です。

左手の神のレリーフの下に数十センチの高さの段が見られ、その場所は案内板の平面図でも確認できます。

岩山の斜面を削り、神のレリーフを彫る垂直の面を造り、その下を祭壇として利用していたのかも知れません。



行き止まりの岩壁の前に立つ私を妻が撮ってくれた写真です。

右隅の上に大きな岩が乗せられ、その下の隙間に石を詰め、土(漆喰?)で固めたような工事の跡が見られます。

正面のレリーフ(平面図-5)は、この大ギャラリーで最も神聖な場面が彫られており、神聖な場を演出するために塞がれたものと思われます。



写真上段は、大ギャラリーの奥にあるレリーフです。

写真下段は、そのレリーフを線画にしたもので、案内板にあったものです。

写真中央で向き合っているのは左が主神「テシュプ」(天候神・雷神)、右が配偶神「へパト(アリンナ)」(太陽の女神)だそうです。

配偶神へパトの後方(右)に立つのは子神「シャルマ」(男神・戦いの神)で、右手の女神の列に男神が加わっているのは子神は、母神に属す(化身?)ものとする当時の思想が反映されたものと考えられているようです。

これらの主要な神は、アナトリア南部のキズワトナや、メソポタミヤ北部のミタンニに住むフルリ人の神だったようです。

この祭祀場を造ったハットゥシリ3世の妃「ブドゥへパ」は、ヒッタイトの傘下で同盟関係にあったフルリ人の国「キズワトナ」から嫁いだとされ、フルリ人の神を祀り、信頼関係を強めることにより帝国の安定を図ろうとしたのかも知れません。

それぞれのに神は、前に伸ばした手の上に不思議な模様が描かれています。

これは、ヒッタイトの象形文字「ヒエログリフ」だそうで、この解読がなされ、これらの神々の名が分かったそうです。

又、それに加えて永年、粘土板に記録されたヒッタイト帝国の祭祀記録や、周辺民族の記録と併せて、神々の素性や、当時の状況が分かって来たようで、その内容は「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」で見られます。

右端の二女神の足元を支えるのは最古の文明シュメールを起源とする「双頭の鷲」と思われ、東ローマ帝国や、ロシアなどでも使われている紋章がここで見られるとは意外でした。

二神の後方に描かれたツノのある牛(ヤギ?)や、足の下の人やパンサーなどを神聖とする宗教観に興味が湧きます。

しかし、地中海東岸の「カデシュ」で覇を競い、歴史上初めて成文化した平和条約を交わした古代エジプトの黄金の遺物などと比較すると、「ヒッタイト帝国」の聖地としては、驚くほど質素に思われます。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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向きあった2柱の神(擬人化された二つの山の上に立つ天候神と、パンサーの十二に立つつ妃、太陽の女神アリンナ)が中心てある。女神の背後には子神シャルマがいる。この3柱は三神一座をなすと同時に、この浮彫り群の奉納者ハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤス四世を表すと考えられる、この2柱の背後には、男神たちと女神たちの行列がつつく。
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奥に向かって左側の岩壁に続く男神のレリーフの写真を奥から順に並べてみました。

左上の番号は、案内板の平面図に記したもので、メソポタミアや、メソポタミア北部のフルリ人、ヒッタイト以前からアナトリアに住むハッティー人など様々な民族の神を受け入れ、祀っていたとされます。

ヒッタイト帝国は、一定の自治が認めた小規模の都市国家をヒッタイトの王が直接統治する仕組みで、王は各地の都市国家を巡って統治していたようで、各地に伝わる神話や、宗教的儀式などを統合したものがこれらのレリーフではないかと思われます。

人を横から見た姿で連続的に描いたデザインは、古代エジプトのピラミッドなどで見られる絵と類似しているようです。

ヒッタイトが王国を築く前の時代、メソポタミア北部からアッシリア商人が訪れて盛んに交易が行われ、各地に拠点の町を造っていたようで、メソポタミアの文字や、様々な文化の影響を受けたとされます。

アッシリア商人は、商取引などを粘土板に記録し、模様を彫った「円筒印章」を転がして刻印したとされ、繰り返し連続する模様がこれらレリーフのデザインに影響しているものと思われます。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの「神々の行列」の図像や葬祭殿遺跡を見ると、王たちが宗教混合と祭儀をきわめて重視していたことが明白である。彼らは首都では人工的な宗教の大祭司であったが、地方の神殿共同体は自治が認められ、王たちはときどきそれらの霊場に巡礼旅行に出て、一種の顔つなぎをした。
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奥に向かって右に続く女神の列のレリーフ(6)です。

この後方にもレリーフがあったようですが、不鮮明でよく見えませんでした。



奥に向かって右側、女神の列の最後尾に「トゥドハリヤ4世」の像とされる大きなレリーフ(7)がありました。

写真右は、案内板にあったレリーフを線画にしたもので、手に持つ物は、象形文字ヒエログリフが書かれているようです。

このレリーフ(7)を平面図で見ると、ただひとつ奥の方向を向いています。

この祭祀場を造り上げた王「トゥドハリヤ4世」が、最も神聖な場面を見つめるよう考えて造らせたのかも知れません。

半砂漠ともいえる広いアナトリア台地を版図とするヒッタイト帝国の末期、天候神に雨を祈り、関連する多くの民族の神々までも祀る祭祀場に帝国の繁栄を願うトゥドハリヤ4世の物語を見たようです。

トルコ旅行 6 イスタンブールからアンカラまでの風景

2014年11月23日 | 海外旅行
9/30 、トルコ旅行2日目、イスタンブールの観光を終え、ツアーのバスは、宿泊地のアンカラを目指して450Km、約6時間の移動でした。



イスタンブールの旧市街からガラタ橋を渡るバス前方の風景です。

金角湾の入口に架かるガラタ橋の歩道には多くの釣りをする人が見られ、ここは釣りのスポットのようです。

ガラタ橋を渡った新市街を北上し、ボスフォラス大橋をアジアサイドに渡って行きます。(前回掲載の地図をご参照下さい)



地図上段は、イスタンブールからアンカラまでの高速道路を赤い線で表示したもので、地図下段はトルコ旅行8日間の旅程を書き込んだものです。

イスタンブールから首都アンカラへ向かうバスの車窓には、珍しい風景が続き、6時間余りの移動も意外に退屈しませんでした。

この地図にはトルコ東部が表示されていませんが、トルコの国土は783,562平方キロメートルで、日本のほぼ2倍だそうです。

又、現在のトルコの人口は、7,700万人で、30年前の160%と増加傾向が続いており、人口減少が始まった日本から見るとうらやましい気持ちになりますが、国境を接しているイラン、イラク、シリアでの紛争対策や、国境を越えて存在し、移動するクルド人問題もあり、良いことばかりではないようです。

トルコ人ガイドさんも徴兵されて、東部国境の防衛部隊の配属となり、クルド武装勢力との戦いで、多くの同僚を失った話を聞き、防衛について再考する必要性を痛感させられたものです。



イスタンブールの新市街に広がる住宅街の風景です。

1戸建ての多い日本と違い、4~5階建ての集合住宅ばかり並んでおり、写真左下にその一つの拡大写真です。

バスの車窓から見えたトルコの住宅は、郊外から田舎の町まで集合住宅が見られました。

トルコ人ガイドさんの話では、かつては所有権のない土地に一夜で造る違法なバラック建築があふれていたそうです。

田舎から都市へ出ていく人口移動の増加と、住宅供給の不足などが背景だったようですが、新たな住宅供給により次第に解消されているようです。

多階層の集合住宅は、土地の有効利用が出来、建築コストも割安となり、発展途上国トルコの知恵が生み出した住宅スタイルだったようです。



ボスフォラス大橋を渡りアジアサイドの郊外の丘の上にひと際そびえる高層建築が見えてきました。

背の低い左右のビルにはパイプで組まれた白いオブジェがかぶさるように飾られており、中央の高層ビルと合わせた複合的な建物風景がデザインされたのかも知れません。

高いビルの上には建設用のクレーンが見られ、発展していくトルコの勢いを感じる風景でした。



アジアサイドの郊外で見たモスクの風景です。

日本の神社、仏閣のようにトルコの各地には様々なモスクが見られ、珍しさもあり、車窓から見えるモスクの写真を撮っていました。

丘の斜面にひしめく建物も集合住宅ばかりで、区画ごとに同じデザインの建物が造られているように思われます。



緑色のドームに4本の小さな飾りの塔が付けられた素敵なモスクが見えてきました。

ボスフォラス大橋から約30分、高速道路の走行時間から考えると広いスタンブールの町のエリアから出た辺りでしょうか。

背後に見える濃い緑の山は、日本で見かける風景とあまり変わらないものでした。



イスタンブールから約2時間、トイレ休憩で立ち寄ったサパンジャ湖畔にある高速道路サービスエリアのスーパーマーケットの風景です。

店舗の軒先に野菜や、果物、加工食品などが大量に陳列されており、物珍しく見物しました。

イスタンブールの南に広がるマルマラ海の東にはイズミトまで長く入込んだイズミト湾があり、サパンジャ湖はその東にあります。

ところで、イズミト湾に橋を架け、イスタンブールと、南にある都市プルサ(地図上段参照)を結ぶ経路を大幅に短縮するイズミット湾横断橋の工事が日本企業IHI(旧石川島播磨重工業)を中心とする企業グループで受注され、2013年1月に着工、完成予定は、わずか3年後の2016年1月で、世界第4位の吊り橋(中央径間1,550m)となるそうです。

イズミト湾には湾に沿って東西に延びる活断層があり、1999年にはイズミトを震源地として推定4万人以上の死者・行方不明者が出たとされる大地震が発生しています。

IHIは、イスタンブールのボスフォラス海峡に架かる「ファティフ・スルタン・メフメット大橋(第2ボスフォラス大橋)」などでも架橋実績があるようで、阪神淡路大震災の震源地に近い世界第1位の明石海峡大橋(中央径間1,991m)の実績も含めて日本の企業によせるトルコの期待の大きさを感じるものです。



サパンジャ湖から2時間以上走った辺りで見た山村の風景です。

この小さな村にもモスクの白いミナレット(尖塔)が見られ、多くの住宅は1戸建てのようです。

又、内陸に進んで行くと次第に山の緑が少なくなっていきました。



アンカラまで残り1時間余りの付近で見た風景です。

モスクの周囲に工場や、倉庫と思われる建物が見られ、工業団地といっつたところでしょうか。

内陸に入るにしたがって山の緑が少なくなり、この辺りに来ると、平地には緑が見られますが、はげ山の風景が続いていました。

標高約1000mの広大なアナトリアの高地は、年間の最高気温が40度、最低気温がマイナス20度と、厳しい自然環境の中でも産業の育成がなされているようです。



信号待ちのバスから見たアンカラ駅の風景です。

ガイドさんに教えられ撮った写真ですが、人口約440万人の首都にしては意外に小さな駅舎でした。

昼食を食べたイスタンブールのレストランからアンカラのホテルまで約6時間、旅行2日目は終わりです。



トルコ旅行 5 海岸のレストランで食べた「ドネルケバブ」と「トルコアイス」

2014年11月16日 | 海外旅行
9/30 、トルコ旅行2日目、イスタンブールのバザール2ヶ所の観光を終え、海岸のレストランで名物料理の昼食です。



昼食で利用したレストラン「Sur Balik」です。

食べた料理はトルコ名物「ドネルケバブ」でしたが、トルコのアイスクリームもおいしいと案内されたお店です。

道路脇の看板には「Sur Balik」、その下に「Fish Restaurant」と書かれてあり、魚料理が売りのシーサイドレストランといったところでしょうか。

写真左上は看板の上部に描かれたお店のマークで、船の舵のイラストの中に魚がデザインされたオシャレなものです。



ボスフォラス海峡の両側に広がるイスタンブール市街地の地図です。(Excelのオブジェクトで自作したものです)

赤い丸印がレストラン「Sur Balik」で、南にはマルマラ海が広がり、東はボスフォラス海峡の入口です。

マルマラ海は、北のボスフォラス海峡の先にある黒海と、南のダーダネルス海峡の先のエーゲ海の間に横たわる海で、この小さな海域まで正式な海の名がつけられることに感心しました。

青い丸印のAが最初に訪れたグランド・バザール、Bが次に訪れたエジプシャン・バザールです。

又、近くには旅行最終日に訪れたC.ブルーモスク、D.アヤソフィア、E.トプカプ宮殿なども見られます。

赤い破線は、2013年10月29日に開通した海底トンネル地下鉄「マルマライ」で、アジア側の2駅と、ヨーロッパ側の3駅を結ぶ全長13.6Kmの路線だそうです。

トルコ人ガイドさんによると、海底下60mと、世界一深いトンネルだそうで、日本の資金協力や、重要な海底トンネル部分を日本の大成建設の技術で造られており、開通式には安倍首相が出席されたことも報じられたようです。



レストラン「Sur Balik」の前から東を見た風景です。

海の向こうに見えるのはアジアサイドの街並みで、ボスフォラス海峡を通る多くの船舶が見られます。



レストラン「Sur Balik」の前から西を見た風景です。

前の道路は、海岸線に沿って続いており、オスマン帝国時代以前の城壁と、海岸との間を走っています。

この先、約15Km西にはアタテュルク国際空港があり、更に進むとギリシア国境です。

トルコ人ガイドさんの話では、トルコが最も仲が悪い国は、ギリシアだそうで、隣国との問題はいずこも同じようです。



レストラン「Sur Balik」の建物に入り、左手にトルコのアイスクリーム「ドンドゥルマ」の売店がありました。

店に入ると、さっそく店員のおじさんが後ろの植込み台に上がり、長く伸ばしたアイスクリームで、前を通る私たちの気を引こうとしている場面です。

トルコアイス「ドンドゥルマ」は、羊乳と砂糖にラン科の植物「サーレップ」の根から採取したデンプン質の粉を合わせて煮詰め、水分を抜いた後、冷却するとあります。

更に冷やしながら長時間練ることにより粘りを出して長く伸びるようになるようです。

この独特の製法の目的は、品温が上がってもトロけないようにするものと思われ、「ドンドゥルマ」は、トルコの風土から生まれたアイスクリームと言えるようです。



写真は、トルコアイス「ドンドゥルマ」を、を注文し、受け取ろうとする場面です。

店員は、アイスクリームを渡すふりをして様々なパフォーマンスで、客をだまして渡してくれません。

写真(1)は、普通にアイスを渡そうとする場面で、写真(2)は、二重の三角コーンの下側だけ持たされ、アイスを入れた三角コーンを抜き取った場面です。

写真(3)は、アイスの上下にくっつけた三角コーンの下側を持たされた場面で、写真(4)は、アイスが三角コーンの上側にくっついて渡してもらえなかった場面です。

写真(5)は、さんざんじらされた後に、やっと笑顔で渡してくれた場面ですが、周囲は笑い声の連続でした。

この後、私も買いましたが、繰り返される同じようなパフォーマンスでは、感動が薄れてしまい、笑いながらのおつき合いでした。

様々な娯楽があふれる時代、ワンパターンとも思えるこのパフォーマンスを愛し続けるトルコ人の気質に興味がわきます。



トルコの名物料理「ドネルケバブ」と、フライドポテト、ライス(炒めた?)を食べている私を妻が撮ってくれた写真です。

ご飯党の私には「ドネルケバブ」の横に盛られたご飯がうれしく、パサパサした「ドネルケバブ」(牛肉でした)よりおいしく頂いたことが記憶に残っています。

横に置かれたデザートのムースは、同じようなものを旅行先の数ヶ所で頂いたことからトルコではポピュラーな料理と思われます。

又、左のビールの商品名は、トルコで有名な「エフェス(エフェソス)」で、さっぱりとした味が気に入り、これもトルコの各地で飲みました。

「エフェス」は、トルコ西部のエーゲ海に面した都市の名で、旅行6日目、古代ローマ帝国時代の大きな遺跡を見物した町です。



イスタンブールの街中で見たテイクアウトの「ドネルケバブ」のお店です。

バスの車窓から見えたお店で、写真右端は、「ドネルケバブ」の串刺し部分を拡大したものです。

店頭のカウンターに「ドネルケバブ」を置き、注文に応じて削ぎ取るように見えますが、加熱装置が見えないことから店内で焼いているものと思われます。

「ドネルケバブ」の調理方法は、スライスした肉を重ねて大きな串に刺し、回転させながら周囲から焼き、火の通った部分を切り取って食べるもので、世界各地に伝わっているようです。

スライスした肉をフライパンや、網で焼いたものは、広い表面に直接高熱が当たり、油分が出て、水分が減って濃厚なうまみが出てくるように思われますが、この調理法の場合は、蒸した感じになるのかも知れません。

トルコでは「ドネルケバブ」の他、焼き鳥のように串に刺した「シシケバブ」があり、トルコ旅行7日目、再びイスタンブールに戻った夜、ベリーダンスや、民族舞踊を見ながら食べたのを思い出します。

「ケバブ」は、トルコ民族が遊牧民だったことに由来すると考えられ、この料理法が生まれた歴史など知りたいものです。



食事を終え、海岸を西へ約150m歩き、バスのいる駐車場へ近づいた風景です。

左手にはマルマラ海が広がり、道路右側には長い歴史を感じさせられる、かつての城壁がそびえています。

駐車場に見える数台のバスは、レストラン「Sur Balik」で食事をする別のツアーのバスで、この駐車場のお陰で、レストランが繁盛しているようです。



道路右手にそびえる城壁の風景です。

上部には比較的小さな扁平な石が積まれ、下部には方形に整えられた少し大きめな石が規則正しく積まれているようです。

写真には見えませんが、城壁の上に家屋が見られ、城壁は丘の斜面を保護する石垣の様にも思われます。

この城壁は、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス大帝(在位 306~337年)が330年にこの地に遷都した頃に造られたものと思われ、興味深く眺めました。

上の地図に「コンスタンティヌス大帝の城壁」と表示した破線と、そこから東の海岸線に沿ったラインがローマ帝国から、オスマン帝国の時代まで続く帝都の城壁の始まりとされ、左の「テオドシウス2世の城壁」と表示した破線は、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世(在位 408~450年)により西側へ拡張された城壁です。

又、ローマ帝国の遷都以前は、ギリシャの都市「ビュザンティオン」があったとされ、この辺りからガラタ橋を結ぶラインと、その東の海岸線が城壁となっていたようで、この城壁の石の一部も4世紀以前の古代都市の城壁の石だったかも知れません。



城壁に円形の石を見つけて撮った写真です。

規則正しく石が積まれた城壁の右側には不規則に積まれた石積みが見られ、補修された跡のように思われます。

赤い矢印で示した円形の石は、石臼でしょうか、赤い丸印の石も再利用された石と思われ、壊れた城壁を急いで補修した様子が浮かんできます。

1500年以上前からの様々な歴史がこの城壁に刻み込まれているかも知れないと、崩れかけた城壁に化石でも見つけるかのように城壁を見つめていました。

旅行2日目、最初の観光地イスタンブールを後にして、トルコの首都アンカラのホテルまで約6時間のバス移動となりました。

トルコ旅行 4 「エジプシャン・バザール」と「イェ二・ジャミイ」の風景

2014年11月09日 | 海外旅行
9/30 10時頃、観光初日イスタンブールの「グランド・バザール」と、その隣の「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」の見物を終え、「エジプシャン・バザール」へ向かいました。



買い物客でにぎわう「エジプシャン・バザール」の風景です。

頭を黒いスカーフで覆った二人連れの女性は、親子でしょうか。

伝統的なイスラムの黒い服をまとった母、白いストライプの服と、ジーンズでおしゃれに装う娘が仲良くお買いものといった感じです。

外国人観光客で賑わう「グランド・バザール」と違い、鉄道の駅や、港などに近いこの市場は、地元の人に便利な市場のようです。

■「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)より
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エジプシャンバザール(ムスル・チヤルシュ)
イェ二・ジャミイの施設の一部の建物を、1660年に市場に改装したという歴史のあるバザール。トルコ語のムスル・チヤルシュとは「エジプトの市場」の意で、当時、エジプトのカイロで積み立てられた香辛料貿易の税金が建設費用に使われたため、その名があるという。
また、香辛料を扱う店が多かったためスパイス・バザールの別名もある。現在、ハーブやスパイス、食品を扱う店が多く、地元の人でいつも賑わっている。店の数は80余り、クランド・バザールよりも庶民的なので、買い物しやすいという声もある。
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「エジプシャン・バザール」付近の地図です。-「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)に掲載の地図を利用させて頂きました。

ボスフォラス海峡の東西にまたがるイスタンブール、そのヨーロッパ側の金角湾に架かる「ガラタ橋」の南に「エジプシャン・バザール」や、バザールの建物の元となった「イェ二・ジャミイ」があります。

googleマップの航空写真を参考に「エジプシャン・バザール」、「イェ二・ジャミイ」の実物に近い建物の外形を赤色の図にして挿入しています。

「エジプシャン・バザール」は、L字型の建物で、北の入口から入って行きました。

「ガラタ橋」の南には多くの船が出入りする港や、すぐ東には路面電車の「エミノニュ駅」、その南東には国際列車が発着するシルケジ駅があり、西側はエミノニュ広場に隣接するイスタンブール市内でも最も便利の良い場所のようです。



「ガラタ橋」のすぐ東の海岸から「イェニ ジャーミィ」を見た風景です。

目指す「エジプシャン・バザール」は、「イェニ ジャーミィ」の裏です。

「イェニ・ジャーミイ」の右には、「スレイマニエ・ジャーミイ」、写真右端は「リユステム・パシャ・ジャーミイ」です。

2本のミナレットがそびえる「イェニジャーミイ」の手前には路面電車の「エミノニュ駅」の乗場です。



「ガラタ橋」の東側の海岸から「ガラタ橋」や、対岸の新市街地を見た風景です。

水色の「ガラタ橋」は、車、路面電車、人が通る橋で、写真左側の橋の中央部分は、金角湾の奥へ航行する船舶を通すため跳ね橋になっているようです。

「ガラタ橋」の向こうにそびえるのは、ビザンツ帝国時代の528年に灯台として造られた「ガラタ塔」です。

「ガラタ塔」の東の沖合、ボスフォラス海峡を挟んだ対岸(アジア側)に近い小島にも灯台の機能や、税関の見張り台でもあった「クズ塔(乙女の塔)」があり、両岸でこの海域の航海の安全を支える重要な施設だったものと思われます。



「ガラタ橋」のたもとのエミノニュ広場から「エジプシャン・バザール」へ向かって歩く風景です。

右手の建物が「エジプシャン・バザール」、向こうに「イェニジャーミイ」が見えます。

「エジプシャン・バザール」の建物は、改装工事のためか工事中の仮囲いで覆われ、約350年前の歴史的な建物の姿は見られませんでした。



エミノニュ広場に面した「エジプシャン・バザール」の風景です。

建物の外側にも店が並び、建物の中に劣らず賑わっているようです。



写真は、北の入口から入った「エジプシャン・バザール」の中の風景で、大勢の客でひしめいています。

L字型の長い建物を一往復しましたが、スパイスのお店が目につく他は、グランドバザールとあまり違いが感じられませんでした。

通路両脇の青い柱の上の天井を見ると、工事の仮囲いがあり、ガイドブックで見るアーチ型の天井が見られず、魅力の薄いスポットでした。



スパイスのお店の風景です。

スパイスの知識も少なく、日常生活でなじみがないため、まったく興味が湧きませんでした。

前述のガイドブッツクで、1660年こ造られたとされるこのバザールが「エジプトのカイロで積み立てられた香辛料貿易の税金が建設費用に使われた・・・」とあり、オスマン帝国時代(1299~1922年)のエジプトとの関係を調べてみました。

オスマン帝国がエジプトを征服したのは第9代皇帝セリム1世(在位 1512~1520年)で、ヨーロッパ方面との和平で後方を固め、南のアラブ世界の征服へ乗り出し、1517年に遂にエジプトのカイロを首都とするマムルーク朝(1250~1517年)を倒したとされています。

征服したエジプトからは莫大な富がもたらされ、その蓄積もありこの施設や、様々なスパイスや、農産物がもたらされたものと思われます。



植物の実などの乾燥品を吊るしたお店がありました。

下の陳列品には加工品も見られ、興味をそそられました。

中にトウガラシもあり、これらもスパイスの一種でしょうか。



「エジプシャン・バザール」を奥に進み、左手に出て見えてきた「イェ二・ジャミイ」の風景です。

工事の仮囲いにより風情のなくなったバザールに見飽きて、しばらく「イェ二・ジャミイ」を眺めていました。

地図を見るとドームのある建物は、前回紹介した「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」と同様、キブラ(聖地メッカの方角)とされる南南東に向いています。

■「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)より
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イェニ・ジヤミイ
ガラタ橋のたもとに立つ大きなモスク。1567年(★1597年の間違い)メフメット3世の母后が建築家タバート・マ一に着工を命じ、メフメット4世の時代の1663年に完成。「イェニ」とはトルコ語で「新しい」という意味だ。建築様工ミノ二ユのシンボル的存在式はオスマン・トルコ様式で、中庭の清めの泉はイスタンブールで最も美しいものの一つといわれる。堂内は広く、中央ドームの高さは36m、直径17m。色とりどりのタイルで覆われた壁面装飾も見応えがある。扉の彫刻も見事だ。敷地内にはメフメット4世の霊廟がある。
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★着工を1567年としていますが、母后の夫であるムラト3世の在位が1574年からであり、別のガイドブックより1597年と訂正しました。



「イェ二・ジャミイ」前の広場の左手を見た風景です。

写真右橋は「イェ二・ジャミイ」の建物で、左手に並ぶ店舗は、L字型の内側が広場に面する「エジプシャン・バザール」の北部分です。(地図を参照下さい)

冒頭のガイドブックの記述にあるように「エジプシャン・バザール」は、「イェ二・ジャミイの施設の一部の建物を、1660年に市場に改装した」とあり、イェ二・ジャミイの完成より3年早く造られたようです。

「グランド・バザール」が造られた1461年から約200年、比較的小さな規模ながら利便性の高い場所で、付加価値の高いスパイスを売りにする新しい市場が開設されたことは、イスタンブールの経済にとって明るい話題となったものと思われます。



花壇に囲まれた美しい噴水の後方に堂々たる建物がそびえる風景です。

「エジプシャン・バザール」の開設から3年後、この美しい「イェ二・ジャミイ」の完成によって、この辺りは、一躍人気エリアとなったのかも知れません。

ガイドブックなどによると、モスクの着工が1597年、完成を1663年とすると、66年もの歳月がかかり、工事の中断、火災があったとしています。

しかし、「ブルーモスク」(1609年着工、1616年完成)の工期7年間と比較すると、66年間の中断には深刻な理由があったことがうかがわれます。

「興亡の世界史10オスマン帝国500年の平和」(林佳世子著、講談社発行)によると、この時代、オスマン帝国は、アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがり、世襲の皇帝では統治が困難となったことから、大宰相を中心とした政治体制に移行していたようです。

一方、ハレムの最高権力者である母后「サフィエ・スルタン(1550~1618年)」が政治に無関心となった皇帝に大宰相の選任などへの影響力を持ち、直接的な政治への権力行使までも行ったのが「イェ二・ジャミイ」の着工命令だったものと思われます。

「イェ二・ジャミイ」が工事中断されていた66年間の初期、1593年から1606年までの13年間は、オーストリアのハブスブルク家と「長期戦争」を行っており、オスマン帝国は、ひどい財政危機に陥っていたようです。

更に、新大陸中南米からヨーロッパに持ち帰られた大量の銀の影響などによるインフレや、長く続いたボスフォラス海峡が凍結するほどの寒冷化も帝国財政に深刻な影響を及ぼしていたようです。

その後、1606年にハブスブルク家との長期戦争を終結させ、財政赤字の中で「イェ二・ジャミイ」の建設を中断したまま1609年に「ブルーモスク」を新たに着工しており、深刻な財政赤字を考えると理解出来ないところです。(日本の巨大な財政赤字も心配です)

Wikipediaによると、母后「サフィエ・スルタン(1550~1618年)」は、ヴェネツィア共和国の貴族の娘で、海賊に捕えられ、奴隷として売り飛ばされ、オスマン帝国のハレムに入れられたとされています。

オスマン帝国に敵対するヴェネツィアの娘が皇帝の母后となり、孫の代まで影響を及ぼしたことは、血統にこだわらず、有能で美しい女性を登用していたオスマン帝国のハレムのシステムでしょうか。

サフィエ・スルタンの歴史に中国清朝の西太后や、日本の持統天皇を連想し、世襲による国家権力継承の限界を再認識させられたものです。

トルコ旅行 3 初めてのモスク「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」

2014年10月29日 | 海外旅行
9/30 10時頃、グランド・バザールの見物を終え、集合時刻まで余裕があったので、バザール東のモスクへ行ってみることにしました。



南側の駐車場から見上げたモスク「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」です。

大きなドーム(円蓋)の四方をアーチ型の壁で囲い、それぞれの角に小さな装飾塔がある個性的な建物です。

その横に建つミナレット(尖塔)は、ドームの上にももう一つの先端が見られるように二本ありました。

二本のミナレットを持つモスクは、オスマン帝国時代の皇帝によるものとされているようです。

ブルーモスクや、アヤソフィアの優美さのある姿と違い、ゴツゴツとした感じの装飾が印象的です。

Webサイトで、「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」を調べてみると、トルコ語のWikipediaに少し詳しい記述がありました。

googleの翻訳から、このモスクは、第24代オスマン帝国皇帝マフムト1世(1696~1754年 在位1730~1754年)の命により建設が開始され、皇帝が急死した翌年の1755年に完成したとされます。

弱体化しつつあったオスマン帝国を西欧化により建直そうとしたマフムト1世の政策の中で、西欧に広がるバロック建築を初めて導入したのがこのモスクだったようです。

しかし、西欧で見られるバロック建築の顕著な特徴は感じられなく、抑制されたイメージで設計されたのかも知れません。



「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」周辺の地図で、赤色で建物を表示しました。

旅行ガイドブック「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)に掲載されていた地図の一部を利用させて頂きました。

「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」が建つのはイスタンブールの歴史地区で、東にトプカプ宮殿、その南西にアヤソフィア、ブルーモスクが並び、西隣にグランド・バザールがあります。

バロック建築のモスクをグランド・バザールのすぐ隣に造ったマフムト1世の意図や、バザールに集まる多くの民衆が当時、どのように感じたのか興味が湧いてきます。



アーチの上に「NURUOSMANiYE CAMii」の表示がある「ヌルオスマニエ・ジャーミィ」の門です。

前回紹介したグランド・バザール東南の「ヌルオスマニエ門」を背に見た風景です。

この門を抜けると、正面に広い駐車場、左手前方に「ヌルオスマニエ・ジャーミィ」の建物がそびえています。



写真上段は、「ヌルオスマニエ・ジャーミィ」の門をくぐり、振り返った風景です。

門入口側と違い、簡素なデザインです。

写真下段は、門を入り、左手の階段方向を見た風景です。

階段を上り右手にモスク建物への入口、左手にはグランド・バザールの建物が見えます。

木の下に座っている黒い服の女性は、顔と、手以外隠すイスラム伝統の服装でした。

旅行で見たトルコ女性は、このような黒い伝統的な服装で口元まで隠す人も見られ、カラフルなスカーフで髪だけを隠した女性や、髪も顔も全く隠していない人まで様々でした。

トルコではイスラム教徒が99.8%とのことですが、トルコ人ガイドギョクハンさんによると信教の自由が国家的に保障され、イスラム教で禁止された飲酒など、戒律の順守程度も人により様々だそうです。



同じ福山市からツアーに参加されたOさんが「ヌルオスマニエ・ジャーミィ」の門を堂々と、入って行く場面です。

この後、モスクの係の方に見学が許可されていることを確認し、私たちを呼んで頂き、モスク見学が出来たものです。

Oさんは、独身時代に一人でヨーロッパ旅行をした経験があるとのことで、行動力には敬服です。



写真上段は、建物に入り、周囲を回廊に囲まれた前庭(アプス)の風景で、正面中央は、広い礼拝堂への入口です。

写真下段は、広場から見上げた風景で、ドーム(円蓋)を囲むアーチの壁の左右にミナレット(尖塔)がそびえています。

ミナレット(尖塔)は、アザーン(礼拝の時刻を告げる)を行う施設で、かつては塔の上部の柵に囲まれた台に立ち、肉声で人々に呼びかけていたようですが、現在ではスピーカーに代わっているようです。

当日、朝の礼拝は5時半頃、昼の礼拝は13時頃で、訪れた時刻には礼拝する人もなく、ゆったりと施設を見ることが出来ました。

その後は、午後、日没、就寝前と、毎日5回の礼拝があり、その時刻も地域により違い、日々変化するそうです。



礼拝堂の入口付近の風景です。

白い制服の警備員と、その横に清掃係の男性が話をしています。

入口中央の長テーブルには、女性の髪を隠すスカーフが置かれ、礼拝堂への入室には無料で借用できました。

両脇の柱上部の装飾や、入口上の壁龕[へきがん]のような装飾は、バロック建築の特徴と言えるものでしょうか。



礼拝堂に入り、正面の風景です。

多くのランプが付けられた円形のシャンデリアの上を見上げると、ドーム(円蓋)から吊るされ、建物の中心であることがわかります。

左右の壁沿いに二階建ての回廊が見られ、女性の礼拝は男子と区別された二階とされています。

正面奥の壁は、キブラ(聖地メッカの方角)に向いており、壁中央の窪みは、ミフラーブ(聖龕[せいがん]〉と呼ばれており、ムスリム(イスラム教徒)の礼拝は、キブラに向いて行われるようです。



礼拝堂の奥の壁、キブラの中央にあるミフラーブ(聖龕[せいがん]〉の風景で、その右手には説教壇(ミンバール)があります。

毎週金曜日は、イスラム教徒(ムスリム)の成人男子が集団礼拝を義務付けられた日で、礼拝に先立ち説教壇(ミンバール)では指導者(ハティーブ)による説教(フトバ)が行われるようです。

キブラ(聖地メッカの方角)の方向は、トルコではほぼ南南東のようで、地図に記した「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」の赤い建物や、右下のブルーモスクも方角が同じことが分かります。



礼拝堂の中心にある照明設備です。

床のじゅうたんにも円形の模様が織り込まれていますが、とても広いじゅうたんに本場トルコを痛感したものです。

写真左下は、ランプの写真を拡大したもので、ガラスのランプの中に電球がセットされていました。

かつては石油が燃やされていたものと思われるガラスのランプですが、その中の透明電球も今やレトロなものとなり、時代の流れを感じさせられる風景です。

オスマン帝国初のバロック建築とされるこの建物ですが、後方に見える二階建ての回廊の柱などもその特徴が出ているのでしょうか。



礼拝堂のドーム(円蓋)を見上げた風景です。

丸いドームの周囲や、ドームを囲む四方のアーチ型の壁にはステンドグラスの窓が美しく輝いています。

冒頭の写真ではドームの裾部分や、四方のアーチ型の壁の模様にゴツゴツとした感じを受けましたが、中から見た風景から美しい窓のための模様だったことが分かりました。

写真下段は、ドーム中央や、ドームの周囲に飾られたアラビア文字のカリグラフィー(西洋や中東などでの文字を美しく見せる手法)です。

何が書かれているのか分かりませんが、芸術性を感じさせられます。

人生初めてのモスクは、興味深いものばかりでした。

トルコ旅行 2 イスタンブールでグランド・バザール見物

2014年10月22日 | 海外旅行
9月30日、イスタンブールの観光は、グランド・バザールの見物からスタートしました。

グランド・バザールは、約5000店舗、2000以上の工房などがひしめく市場です。

1453年、オスマン帝国(1299~1922年)の「メフメット2世」(1432~1481年)がコンスタンチノープルを攻略してビザンチン帝国を滅ぼし、グランド・バザールの建築は、その直後に命令されたそうです。

1461年に完成したグランド・バザールは、次第に増築され、現在の規模になっのは1894年とされます。



駐車場から徒歩2~3分で到着したグランド・バザールの東南にある「ヌルオスマニエ門」の風景です。

入口上にトルコ語でKAPALICARSI(カパル・チャルシュ)とあり、ガイドブックによると「屋根のある市場」の意味だそうです。

写真右下の文字は、入口の内側の壁に表示されていたもので、下段左端に「GATE1(ゲート番号1)」とあることや、入口上に飾られた立派な紋章からもグランド・バザールに多くある門の中でも表玄関のような門と思われます。



旅行で持ち歩いた旅行ガイドブック「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)に掲載されていたグランド・バザールの案内図です。

右下(南東)の「ヌルオスマニエ門」から歩いた順路を赤丸印の番号(1)~(7)に記しています。

案内図には、店舗の種類を色分けしてありますが、実際には様々な店舗が混在しているようでした。



写真上段は、「ヌルオスマニエ門」を北側から見た風景です。

横から見ると、「ヌルオスマニエ門」の屋根は、かなり老朽化しているように見えます。

現在の建物は、1954年の火災後に再建されたとされ、既に築後約60年経っているようです。

写真右上は、門の上に飾られた紋章で、調べてみるとオスマン帝国の国章でした。

バザールが開設されたオスマン帝国時代からの歴史がアピールされているようです。

写真右下の赤いテントの下に日本人女性が経営する土産物店があり、写真下段は、お店の正面風景です。

このお店[案内図(2)]が自由行動の後のツアーの集合場所ででした。

グランド・バザール場外にある店舗で、女性店主の日本語の対応に安心して買い物ができます。

ガイドさんの話では、グランド・バザール内の家賃は1平方メートルで100万円/月とのことで、異常に高い家賃は、販売価格に転嫁されることとなり、バザールの安いイメージは幻想だったようです。



写真上段は、日本人女性の土産物店から向かいを見上げた風景です。

そびえている塔は、グランド・バザールの東側の一段高い場所に建つ「ヌルオスマニエ・ジャーミイ(モスク)」です。

グランド・バザールの「ヌルオスマニエ門」の名称は、隣接するこのジャーミイ(モスク)から名づけられたようです。

写真下段は、「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」からグランド・バザールを見た風景です。

東側から見たグランド・バザールは、屋根に小ぶりなドームが連続するレンガ造りの建物でした。



グランド・バザールの案内図(1)から(4)に通じる「カルバクチュラル通り」の風景です。

客の少ない開店直後の時間帯でしたが、様々な商品を陳列する店が並び、客が日本語に達者なトルコ人店員から声がかかってきます。

天井のアーチに描かれた模様が印象的でした。



通りを歩き、ちょっと気になったお店の一つです。

写真下段は、陳列棚の一部を拡大したもので、トルコのイメージを感じさせる商品が並んでいました。



この店舗は、案内図にもあるようにカルバクチュラル通りに多くある金製品のお店の一つです。

写真下段は、陳列棚の一部を拡大したもので、棚の中央には銀製品も陳列されており、案内図の店舗分類と実態は微妙に違っています。



カルバクチュラル通りから右に入る路地の角にあった楽器などを売るお店です。

小型のギターのような楽器、マンドリンに似た楽器、3本弦の素朴なバイオリン風の楽器など民族楽器と思われます。

トルコの音楽についてほとんど知らないことを自覚させられます。



トルコの陶器などを売るお店です。

トルコらしさが感じられ伝統的な手描きの模様の陶器は、魅力的ですが、わずらわしい値段交渉や、持ち帰りの破損対策などを考えると、買う気にはなりませんでした。



案内図(6)の「イチ・ベデステン(オールドバザール)」付近にあったジュータン、カーペットのお店です。

ショーウインドウのガラスが光り、少し汚く写っていますが、実物は美しいものでした。

ガイドさんの話では産地のカッパドキアで売られているジュータンと比較すると、非常に高いそうで、目の保養にながめて帰りました。



カルバクチュラル通りから左の路地の向こうに見えたチャルシュ門[案内図(3)]です。

出口の上に「GATE5(ゲート番号5)」と表示され、入ってきた「ヌルオスマニエ門」の「GATE1」から5番目の門だったようです。

何気なく歩いて来たためか、途中にあった門には気づきませんでした。

この後、ベヤズット門[案内図(4)]まで進んだ後、ここまで引き返し、「イチ・ベデステン(オールドバザール)」[案内図(6・7)]へ進んで行きました。



カルバクチュラル通りを突き当ったベヤズット門[案内図(4)]です。

出口の上に「GATE7(ゲート番号7)」の表示があり、カルバクチュラル通りの南側に沿った7番目の門だったようです。

写真下段は、門を出て外から見た門の風景です。

丸い紋章には複雑なアラビア文字が描かれていました。(左上に紋章の拡大写真)

現代のトルコでは使われなくなったアラビア文字ですが、漢字などと同様に書の芸術的作品としても描かれるようです。



ベヤズット門[案内図(4)]を出て、正面に見えた建物です。

ガイドブックには「ベヤズット・ジャーミイ(モスク)」とあり、コンスタンチノープルを攻略した「メフメット2世」の息子「ベヤズット2世」により1506年に造られた建物だそうです。

オスマン様式の代表的なブルー・モスク(スルタンアメフト・ジャーミイ)が1616年の完成とされますが、この「ベヤズット・ジャーミイ」は、イスタンブールに現存する最古のオスマン様式のモスクになるようです。

この門の名称も門に隣接する「ベヤズット・ジャーミイ(モスク)」にちなんだものと分かりました。



写真上段は、「イチ・ベデステン(オールドバザール)」[案内図(6)]に差し掛かった辺りの風景です。

通りの中央に水道施設のようなものがあり、男性が掃除のモップを洗っているようです。

このエリアは、1461年にグランド・バザールが完成した頃からのものだそうで、当時の建物かどうかは分かりませんが、他のエリアと違い、特に古びた感じでした。

写真下段は、「イチ・ベデステン」の通りの風景で、通路に2列の柱があり、通路が3列に分けられた古風な通りでした。

予定時刻より早くグランド・バザールの見物を終え、集合場所に近い「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」の見物に行きました。

トルコ旅行 1 岡山空港からイスタンブールへ

2014年10月14日 | 海外旅行
9月29日から10月7日まで9日間、トルコ旅行に行ってきました。

これから数ヶ月かけて想い出をまとめていきます。



写真は、観光最終日にボスフォラス海峡クルーズで、船から見たイスタンブール歴史地区の風景です。

クルーズ船などが発着する港後方の丘にジャミイ(礼拝施設=モスク)のドーム(円蓋)と、ミナレッツト(尖塔)がそびえる美しい風景です。

トルコでは各所ではどこへ行っても村や、町の規模に応じたジャミイ(礼拝施設=モスク)が見られました。

今回の旅行は、阪急交通社のツアー「岡山空港発着 9日間のトルコ大周遊」に妻と、参加したものです。

ただ、岡山空港発着とは言え、福岡空港からのツアーに韓国仁川空港で合流するもので、ツアーのバッチにも九州の文字がありました。

昨年も同じように岡山空港から韓国仁川空港経由でドイツ・スイス旅行に行きましたが、岡山空港からは私たち夫婦だけ、仁川空港での乗り換えなどで、心細い旅でした。

今回は、私たちの他、同じ広島県福山市のご夫婦一組が参加されており、仁川空港経由も二度目であることから少し安心感のあるスタートになりました。

トルコのツアーは、21名と比較的少人数で、気さくな方も多く、天候に恵まれ楽しい観光になりました。



トルコ旅行2日目から8日目の時計回りのコースと、観光概要を記した地図です。(地図の下部に記号の説明があります)

全行程、約3,200Kmのバス旅行で、移動に6時間前後の日も多くありましたが、大平原に続く荒涼とした山並みの風景にラクダの隊商がたどったシルクロードの雰囲気を感じたり、遠く地平線に白くそびえるトルコ第二の山エルジェス山(標高3,916m)、塩湖、種を食べるカボチャの畑など珍しい風景を堪能出来た旅でもありました。

トルコ東部の国境は、クルド人独立紛争や、世界的な脅威となっているイスラム国が活動するシリア、イラクと国境を接し、緊張が高まっている状況下でもありましたが、トルコ西半分を回る観光エリアでは特に危険を感じる場面はありませんでした。



岡山空港の搭乗口前の風景です。

写真右上に挿入した時刻表示板の二段目に10:00 ソウル(仁川)とあり、9時過ぎに搭乗手続きを済ませ待っているところです。

旅行会社の案内に岡山空港の集合が8:00までとあり、少し余裕をもって7:30頃に来たものです。

福山市の自宅を6:15頃出発し、イスタンブールのホテルへ20:00頃到着するまで約20時間(サマータイム期の時差+6時間)長い旅の始まりです。



乗り換えをしたソウル仁川空港の搭乗待合場所から見た雨の風景です。

乗り換えの手荷物検査で、初体験の靴の検査がありましたが、前の人もいなくて、靴を脱ぐ指示の意味が理解できず、戸惑った場面がありました。

多くの国から人が来るアジア大会真っ最中の韓国、脱いだ靴をカゴに入れたイラストなど掲示しておく配慮が欲しいものです。

11:35到着、14:05出発で、2時間半の余裕のある乗り換えで、福岡からの便は確か約30分後の到着だったと思います。

昨年のドイツ・スイス旅行では福岡からの便が大幅に遅れて、不安をつのらせたことを考えると、この程度の待ち時間はやむを得ないものと思われます。

待ち時間に空港の売店でミネラルウォーターや、缶ビール・アサヒスーパードライを購入、値段は忘れましたが驚く高さだったのが印象的に残っています。

福山から同行のご夫婦Oさんは、韓国産のミネラルウォーターを安く購入されたようで、韓国通貨の安さを考えると、輸入品との格差が実に大きいことを実感させられました。



ソウル仁川空港からイスタンブールへの航路が表示された座席モニターの画面です。

韓国から中国~カザフスタン~ロシア領空を通り、トルコへ飛んでいるようです。

カザフスタン経由のコースは、少し北を迂回していますが、直線的なコースでは中国の西にタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンなど通過国が増えてしまい、領空通過の小刻みな連絡などを避ける配慮でしょうか。



トルコ、アタチュルク空港の風景です。

現地時間で、17:45頃の着陸でした。

着陸前に上空から見たイスタンブールのボスフォラス海峡の美しい夜景に歓声を上げたことは忘れられない想い出です。



旅行2日目の朝、カーテンを開けたホテルの窓から見えた風景です。

大きなショッピングセンターや、高いビルが高架の高速道路の向こうにそびえていました。

歴史的な観光スポットを除くトルコの街並みは、ビルが林立する現代の都市でした。




宿泊したホリデイ・イン イスタンブール エアポートホテルの玄関付近の風景です。

アタチュルク国際空港から北に約10Kmの場所にあり、すぐ横に高速道路のインターチェンジがありました。

左手に駐車しているバスが旅行7日目まで乗ったバスで、座席が3列のVIPバスでした。

VIPバスとは言え、数ヶ所の窓で、カーテンの金具が外れて日よけが出来ず、添乗員さんにツアーバッチのピン止めで補修して頂いたのも想い出になりました。

いよいよトルコ観光のスタートです。