10/1 、トルコ旅行3日目、アンカラのホテルを出発して東へ約3時間、小さな村ボアズカレにあるヒッタイト帝国の都「ハットゥシャシュ遺跡」と、その聖地「ヤズルカヤ遺跡」の見学です。
「ヤズルカヤ遺跡」の見学は、午後の日差しでは岩に彫られたレリーフが見づらくなるとのことで、最初のスポットとされました。
ヒッタイトは、BC1680頃に王国を築き、曲折はあったものの、この地を都としてアナトリアの大半を版図とする帝国に発展させた民族で、BC1200年までの約480年間続きました。
高度な製鉄技術で鋼[はがね]までも作っていたとされ、二頭の馬が曳く三人乗りの二輪戦車(チャリオット)などで周辺国を圧倒した華々しい歴史があります。
ヤズルカヤは、ヒッタイト帝国末期のハットゥシリ3世(在位 BC1275~BC1250)と、その息子トゥドハリヤ4世(在位 BC1250~BC1220)の代に造られたとされ、帝国が滅んだBC1200年から数十年前のことだったようです。
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「ヤズルカヤ遺跡」の駐車場から遺跡の方向を見た風景です。
「ヤズルカヤ」は、トルコ語で「碑文のある岩場」の意味だそうで、正面の岩山の中には神々のレリーフが彫られた祭祀場の遺跡があります。
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ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図です。
「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。
ヒッタイト帝国は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがり、大きく曲がったクズルウルマック川に囲まれたエリアが帝国の主要部だったとされ、「ハットゥシャシュ(ヒッタイト語でハットゥシャ)」を都としていました。
イスタンブールのあるボスフォラス海峡から東側は、ギリシア語で「日の出の国」を意味する「アナトリア」と呼ばれる半島です。
又、アナトリアの北西岸にあった「アスワ」と呼ばれる小国の名が転じて「アシア(アジア)」の呼称となり、その後アナトリア全域を指す名称となり、更に東洋全域が「アジア」と呼ばれるようになると、アナトリアは「小アジア」の名に変わって行ったようです。
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遺跡の入口付近の案内板に当時の聖地の再現イメージが描かれていました。
向かって左手が現在の駐車場がある方向で、岩山の前を塞ぐように建物が造られ、左が門、中央が王の葬祭殿だそうで、右手の小さな建物は、柵で囲まれていることから、ロバや、馬などをつなぐ施設だったのかも知れません。
一見、近代的なコンクリート造りのようにも見える建物ですが、世界最古の文明とされるメソポタミアや、古代エジプト、又ヒッタイト時代以前のアナトリアでも日乾レンガの建物が普及していたとされ、この建物も同様の工法による建物だったものと思われます。
■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ボアズキョイの郊外ヤズルカヤの王室祭祀場所
岩山の裂け目を通って中に入ると、狭い広場に出る。その周囲の磨崖下部に、ヒッタイト新王同時代の王室の神々(大多数は元来フり人とメソポタミアのもの)が行列をなしている。神々は男女のクループに分けられ、王権神授の場面がその中央に位置する。岩山の入り口付近には、王の葬祭殿の遺構がある。
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これも案内板にあった遺跡の再現平面図を加工編集したもので、岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けています。
又、遺跡の見学順路を赤い矢印で記しましたが、図の下の駐車場から建物1・2を通り、岩場の祭祀場へ進む順路は、昔もほぼ同じようだったと思われます。
図にAと記され、レリーフ番号(1)~(7)のある場所は、「大ギャラリー」と呼ばれ、(1)から(4)が男神の列、(6)に女神の列が彫られ、奥のレリーフ(5)では男女の神々の行列が左右から向き合う場面となっています。
女神の行列の最後尾のレリーフ(7)は、トゥドハリヤ4世とされ、大きく彫られた姿が印象的でした。
「小ギャラリー」には神に抱かれたトゥドハリヤ4世のレリーフの他、2ヶ所のレリーフや、その横に不思議な穴も彫られており、次回の紹介とします。
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写真上段は、岩山に向かう坂道をトルコ人ガイドギョクハンさんが先行して上って行く風景です。
案内板の平面図を見ると、この辺りから上の岩山付近までの約70mに建物群が続いていたようです。
写真下段は、坂道の途中から下の駐車場方向を振り返った風景で、石段や、道の脇に並ぶ石は建物遺構と思われ、三千数百年の歳月を経て残っていることに驚きます。
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大ギャラリーの入口付近から奥の方向を見た風景です。
広く開いた岩山の間も奥に進むにつれて狭くなり、少し先から神のレリーフが始まります。
人影が見えない写真は、見学を終えた時に撮った写真です。
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大ギャラリーを更に奥へ進み、行き止まりの岩が見えてきた風景です。
左手の神のレリーフの下に数十センチの高さの段が見られ、その場所は案内板の平面図でも確認できます。
岩山の斜面を削り、神のレリーフを彫る垂直の面を造り、その下を祭壇として利用していたのかも知れません。
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行き止まりの岩壁の前に立つ私を妻が撮ってくれた写真です。
右隅の上に大きな岩が乗せられ、その下の隙間に石を詰め、土(漆喰?)で固めたような工事の跡が見られます。
正面のレリーフ(平面図-5)は、この大ギャラリーで最も神聖な場面が彫られており、神聖な場を演出するために塞がれたものと思われます。
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写真上段は、大ギャラリーの奥にあるレリーフです。
写真下段は、そのレリーフを線画にしたもので、案内板にあったものです。
写真中央で向き合っているのは左が主神「テシュプ」(天候神・雷神)、右が配偶神「へパト(アリンナ)」(太陽の女神)だそうです。
配偶神へパトの後方(右)に立つのは子神「シャルマ」(男神・戦いの神)で、右手の女神の列に男神が加わっているのは子神は、母神に属す(化身?)ものとする当時の思想が反映されたものと考えられているようです。
これらの主要な神は、アナトリア南部のキズワトナや、メソポタミヤ北部のミタンニに住むフルリ人の神だったようです。
この祭祀場を造ったハットゥシリ3世の妃「ブドゥへパ」は、ヒッタイトの傘下で同盟関係にあったフルリ人の国「キズワトナ」から嫁いだとされ、フルリ人の神を祀り、信頼関係を強めることにより帝国の安定を図ろうとしたのかも知れません。
それぞれのに神は、前に伸ばした手の上に不思議な模様が描かれています。
これは、ヒッタイトの象形文字「ヒエログリフ」だそうで、この解読がなされ、これらの神々の名が分かったそうです。
又、それに加えて永年、粘土板に記録されたヒッタイト帝国の祭祀記録や、周辺民族の記録と併せて、神々の素性や、当時の状況が分かって来たようで、その内容は「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」で見られます。
右端の二女神の足元を支えるのは最古の文明シュメールを起源とする「双頭の鷲」と思われ、東ローマ帝国や、ロシアなどでも使われている紋章がここで見られるとは意外でした。
二神の後方に描かれたツノのある牛(ヤギ?)や、足の下の人やパンサーなどを神聖とする宗教観に興味が湧きます。
しかし、地中海東岸の「カデシュ」で覇を競い、歴史上初めて成文化した平和条約を交わした古代エジプトの黄金の遺物などと比較すると、「ヒッタイト帝国」の聖地としては、驚くほど質素に思われます。
■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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向きあった2柱の神(擬人化された二つの山の上に立つ天候神と、パンサーの十二に立つつ妃、太陽の女神アリンナ)が中心てある。女神の背後には子神シャルマがいる。この3柱は三神一座をなすと同時に、この浮彫り群の奉納者ハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤス四世を表すと考えられる、この2柱の背後には、男神たちと女神たちの行列がつつく。
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奥に向かって左側の岩壁に続く男神のレリーフの写真を奥から順に並べてみました。
左上の番号は、案内板の平面図に記したもので、メソポタミアや、メソポタミア北部のフルリ人、ヒッタイト以前からアナトリアに住むハッティー人など様々な民族の神を受け入れ、祀っていたとされます。
ヒッタイト帝国は、一定の自治が認めた小規模の都市国家をヒッタイトの王が直接統治する仕組みで、王は各地の都市国家を巡って統治していたようで、各地に伝わる神話や、宗教的儀式などを統合したものがこれらのレリーフではないかと思われます。
人を横から見た姿で連続的に描いたデザインは、古代エジプトのピラミッドなどで見られる絵と類似しているようです。
ヒッタイトが王国を築く前の時代、メソポタミア北部からアッシリア商人が訪れて盛んに交易が行われ、各地に拠点の町を造っていたようで、メソポタミアの文字や、様々な文化の影響を受けたとされます。
アッシリア商人は、商取引などを粘土板に記録し、模様を彫った「円筒印章」を転がして刻印したとされ、繰り返し連続する模様がこれらレリーフのデザインに影響しているものと思われます。
■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの「神々の行列」の図像や葬祭殿遺跡を見ると、王たちが宗教混合と祭儀をきわめて重視していたことが明白である。彼らは首都では人工的な宗教の大祭司であったが、地方の神殿共同体は自治が認められ、王たちはときどきそれらの霊場に巡礼旅行に出て、一種の顔つなぎをした。
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奥に向かって右に続く女神の列のレリーフ(6)です。
この後方にもレリーフがあったようですが、不鮮明でよく見えませんでした。
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奥に向かって右側、女神の列の最後尾に「トゥドハリヤ4世」の像とされる大きなレリーフ(7)がありました。
写真右は、案内板にあったレリーフを線画にしたもので、手に持つ物は、象形文字ヒエログリフが書かれているようです。
このレリーフ(7)を平面図で見ると、ただひとつ奥の方向を向いています。
この祭祀場を造り上げた王「トゥドハリヤ4世」が、最も神聖な場面を見つめるよう考えて造らせたのかも知れません。
半砂漠ともいえる広いアナトリア台地を版図とするヒッタイト帝国の末期、天候神に雨を祈り、関連する多くの民族の神々までも祀る祭祀場に帝国の繁栄を願うトゥドハリヤ4世の物語を見たようです。