昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.13 根室「金刀比羅神社」に立つ高田屋嘉兵衛の銅像

2011年07月27日 | 北海道の旅
北海道旅行3日目 6/5(日)「春国岱[しゅんくにたい]」から根室港を見下ろす丘に建つ「金刀比羅神社」へ行きました。



根室「金刀比羅神社」の社殿です。

「金刀比羅神社」は、江戸時代後期の1806年(文化3)に豪商「高田屋嘉兵衛」より創建された神社です。

北海道南部では記録に残る歴史が多くありますが、道東では数少ない歴史スポットとして訪れました。



オホーツク海に面した根室港周辺の地図です。

「金刀比羅神社」は、根室港の東にある丘にあり、根室港の西には「弁天島」が浮かんでいます。

地図の左下にある赤丸印は、日本で一番遅く桜が咲くとされる「清隆寺」です。

途中、道路から見ると花が散っているようで、立寄らずに来ました。



駐車場から神社境内に入る門で、境内側から見た風景です。

門の脇に観光客の記念写真用に顔の部分に穴が開いた「高田屋嘉兵衛」の人形がありました。



社殿正面にある神門です。

道東では由緒のある神社だけに立派なものです。



「高田屋嘉兵衛銅像」と書かれ、門の向こうに矢印で示した案内板のある門がありました。

駐車場側の門からこの門まで、社殿前の参道を横切る道があります。



門を出ると道の脇にたくさんのタンポポが咲いていました。

6月始めの北海道は初めてで、咲き乱れる黄色のタンポポの花に癒されました。



社殿横の広場にそびえる「高田屋嘉兵衛」の銅像です。

右手の建物は、門の脇にあり、手水舎と思っていましたが、違うようにも見えます。

■銅像前にある黒い石碑の碑文です。
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高田屋嘉兵衛銅像建立之趣意
一、金刀此羅神社の創祀者である事
一、北方領土及び根室地方開拓の功労音である事
一、日露両国の紛争解決に挺身し、その修好に尽力した功労者である事
一、北方領土返還願いの標として

道東地方及び千島の開拓には多くの人々の心血が注がれました。
中でも高田屋嘉兵衛は開拓当初の極めて厳しい時代にその先駆者として航路開拓、産業開発、民生安定に尽し、また日露両国の修好に尽力しました。
当神社創祀百八十年記念祭に当り彼の銅像を建立してその偉大な功労を讃え、更に之を標として、日ソ修好と北方領土の返還を期するものであります。
 昭和六十一年八月
  金刀比羅神社奉賛会
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「高田屋嘉兵衛」(1769年~1827年)の銅像です。

このスタイルや、顔もそれなりに調べて作ったものと思われますが、背の低さに強い印象を受けます。

測って見ると5頭身でした。



数年前の函館旅行で見た「高田屋嘉兵衛」の銅像です。

あまりに違う嘉兵衛の姿に戸惑いを感じます。

函館山を背にして立つこの武士のような姿には廻船業で財をなした豪商のイメージはあまり感じられません。

「高田屋嘉兵衛」の出身地淡路島は、徳島藩の支配下で、映画「北の零年」で城代家老の稲田家が実質支配していたことを知りました。

翌日は、「北の零年」の物語の舞台となった静内を見たいと、襟裳岬経由で苫小牧までのコースとしました。



銅像の横にあった根室港を見下ろす展望台です。

土を盛り、階段と、柵が取り付けられた珍しいもので、初めて見ました。



沖に弁天島が浮かぶ、穏やかな根室湾の風景です。

島に見えるのは弁天島神社のようで、赤い屋根の神社は、北海道でよく見かけます。

「高田屋嘉兵衛」は、弁天島に守られた良港の根室湾から国後島、択捉島にかけて漁場を開発したとされています。

展望台から見るこの根室湾の風景は、記憶に残るものでした。



展望台から根室湾の南側を見た風景です。

「高田屋嘉兵衛」が四国の金毘羅神宮から勧請した神社は、湾の向こうに見える街の中にあったようです。

穏やかな瀬戸内の淡路島に育ち、厳しい北の海へ乗り出し、やっと根室にたどりついた嘉兵衛の姿が想い浮かんできます。

海の安全を守る讃岐の金毘羅さんをこの根室の地に祀った嘉兵衛気持ちが少し分かってきました。

北海道旅行No.12 「春国岱」に広がる不思議な風景

2011年07月19日 | 北海道の旅
北海道旅行3日目 6/5(日)「春国岱[しゅんくにたい]」散策の続きです。



オホーツク海に接する第1砂州から左折、第2砂州へ渡る橋の風景です。

干潮の岸辺は、平らな岩場が広がっています。



橋のたもとに掲示されていた公園の案内地図の写真に補足説明を加えたものです。

図下の「P」駐車場から「橋」まで約500m、そのまま直進すると「展望塔」、更に進むと「休憩舎」の建物があるようです。

しかし、直進方向には木道が整備されておらず、「展望塔」も使用禁止とされていることから橋を渡り、赤い矢印付近の道を歩き、引き返しました。



橋を渡った辺りの風景です。

干潮で現れた広い、平らな岩場に細い川のような溝が見られます。

長い年月に幾度となく続いた干満で、岩が削られて出来た溝のように思われますが初めて見るものです。



岩場を過ぎ、草むらに変わる辺りに「タンチョウ生息地」の文字と、丹頂鶴が飛ぶ絵が描かれた案内板がありました。(板に描かれた丹頂鶴の絵を切り抜いて貼りつけた案内板)

丹頂鶴に害を及ぼすため、ゴミ・空缶・リングプル(空缶のフタ)を捨てないで持ち帰る注意書です。

残念ながら丹頂鶴には出会えませんでした。



草むらから展望塔方向をズームで撮った風景です。

倒れた白骨樹は、アカエゾマツでしょうか。

木が育っていた昔は、塩分のある湿地ではなかったと思われますが、次第に土地の条件が変わっているのでしょうか。

春国岱の砂州に広がるアカエゾマツ林は、世界でも極めて稀とされていますが、次第に枯れているようです。



第2砂州にさしかかると、木道が二手に分かれ、コースの案内板がありました。

右手は、第2砂州に沿ったコースで、「キタキツネの巣がある」と書かれています。

左手は、アカエゾマツ林が見える第3砂州へ向かうコースで、こちらへ進んで行きました。



林の入口付近に根っ子に黒い土を付けたままの倒木がたくさん並ぶ不思議な風景です。

倒木の根はどれも円盤状で、砂州の表層部分に根を張っていたようです。

汽水湖に囲まれた砂州の地下には塩分があると思われ、アカエゾマツの根が地下に達すると枯れてしまうのかも知れません。

林の外周から木が枯れているようで、風圧を強く受ける場所でもあり、倒れたのでしょうか。



倒木の間にミズバショウが咲いていました。

開花の季節は過ぎたようですが、チラホラと白い花が見られました。



アカエゾマツ林の風景です。

下段は林の入口付近で、枯れ木が多く見られます。

上段は林の中の風景で、緑の葉が茂る元気な木が並んでいます。

不思議な風景の続く春国岱の散策を終えて引き返しましたが、とても心が安らぐものでした。



2010年(昨年)7月19日に訪れた野付半島ネイチャーセンターに北海道新聞の切り抜きが掲示されていました。

野付半島は、春国岱から海岸を北へ約30~40Kmkの場所にあり、砂州が伸びて海老の形になった半島です。(前回の記事に掲載した地図でも見られます)

新聞によると、野付半島は地盤沈下で120年後には消滅してしまうとあります。

不思議な白骨樹林が見られるスポットで、期待して訪れましたが、あいにく霧と小雨であまり見られませんでした。

地理的に近い春国岱でも同じように地盤沈下があり、林が枯れているのかも知れません。



上段は、「野付半島ネイチャーセンター」の前にあった野付半島の案内地図です。

下段の二つの風景写真は、観光案内パンフレットにあったものです。

案内地図の「トドワラ」近くにある建物が「野付半島ネイチャーセンター」です。

観光案内パンフレットによると「トドワラ」は、トドマツの林が白骨樹化し、「ナラワラ」はミズナラの林が白骨化したものだそうで、海水に侵食されて枯れたようです。



道路から見た野付半島の「ナラワラ」の風景です。

枯れ木の向こうは、ドングリの木「ミズナラ」の林のようです。

擦文時代の住居跡も見られる野付半島には、かつてミズナラ以外にも様々な種類の樹木が生い茂っていたようです。

自然は、木が生い茂る砂州を造り、その砂州を地盤沈下で消滅させているようです。

北海道旅行No.11 「風蓮湖」と、空高く雲雀が鳴く「春国岱」

2011年07月15日 | 北海道の旅
北海道旅行3日目 6/5(日)釧路市から国道44号を東へ走り、根室市街まで約15Kmの「道の駅スワン44根室」へ到着しました。



「道の駅スワン44根室」の展望場から眺めた「風蓮湖」です。

沖に見えるのは「オホーツク海」と、「風蓮湖」の間に出来た砂州「春国岱[しゅんくにたい]」です。

案内板には「根室十景 白鳥の風蓮湖」とあり、秋から春先までの寒い季節に多くの白鳥が飛来するようです。



上段の地図は、北海道旅行3日目に回った北海道東部のエリアです。

東に突き出た根室半島は、沖に北方領土を望み、太平洋と、オホーツク海の間にある半島でもあります。

下段は「風蓮湖」周辺の地図で、北から伸びる砂州が途切れ、その南に離れ島となった砂州が「春国岱[しゅんくにたい]」です。

日本で最も東の道の駅「スワン44根室」は、国道44号と、「風蓮湖」に面し、「春国岱]」を一望できるスポットです。



「道の駅スワン44根室」から見た「風蓮湖」の風景です。

穏やかな湖面、右手に伸びるなだらかな湖岸の風景で、運転の疲れを癒してくれます。

沖に見える砂州「春国岱」へ続く遠浅の湖は、潮の干満もあり、水辺に多くの生物を育んでいるようです。

■駐車場付近に風蓮湖の案内板がありました。
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風蓮湖
周囲96mの海水が混ざる汽水湖で、野付風蓮道立自然公園の中にあり、周囲には広大な湿原や林、砂丘など変化に富んだ自然が広がっています。
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「道の駅スワン44根室」から東へ約4Kmの「根室市春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター」へ到着しました。

「春国岱[しゅんくにたい]」の散策を前に情報収集です。

館内に入るとポスターに印刷された神秘的なシマフクロウに目を奪われました。(写真右下)

シマフクロウは、アイヌの木彫りで見ますが、実物を意識して見たのは初めてです。

この風貌を見るとアイヌの人々が守り神と崇める気持ちが分かるようです。

ポスターは、「ねむろバードランドフェスティバル2011」とあり、2月26・27日に開催されたイベント案内でした。

■根室市の観光パンフレットにシマフクロウの案内がありました。
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春国岱はシマフクロウの生息地です。
シマフクロウは、全長70cm、体重3~4.5Kg、翼を広げると180cmを超える世界で最大のフクロウです。
シマフクロウの名前の由来は、蝦夷ヶ島(北海道)に棲むフクロウという意味で名付けられました。
体に縦縞の模様があることから(縞フクロウ)と勘違いされることもあります。
先住民のアイヌの人々はシマフクロウのことを「コタンクルカムイ」(村の守り神)と呼び最も尊い神と敬っています。
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根室市春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター」の駐車場に「ネイチャーセンター周辺ガイドマップ」と書かれた案内板がありました。

この後、「春国岱橋」を渡った駐車場へ行き、案内図左下に赤い線で描かれた「アカエゾマツコース」まで散策しました。

案内図左上にある「展望塔」は×印にテープが貼られ、センターの係りの方にたずねると、現在使用禁止になっていました。

「ネイチャーセンター」の周辺には黄色の線で描かれた散策コース「小鳥の小道」があります。

■案内板にあった散策コース「小鳥の小道」の説明文です。
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小鳥の小道
1.4Km/約30分
ハルニレ・ヤチダモ・ミズナラ・オニグルミなど、広葉樹の明るい林。ミソサザイなど、多くの小鳥類が観察できます。
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「春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター」の窓から「春国岱[しゅんくにたい]」方向を見た風景です。

向かって右手にオホーツク海が広がり、砂州に架かる「春国岱橋」を渡ると駐車場があります。

■根室市の観光案内パンフレットに「春国岱」の説明文がありました。
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春国岱
根室湾と風蓮湖を区切る長さ8Km、幅1.3Kmの長大な砂州。
3列の砂丘からできた春国岱は、海に近い第一砂丘では国内最大級のハマナスの大群落が6月下旬から8月頃にかけて見られ、第2砂丘では砂丘上に出来るのは珍しいアカエゾマツの純林を見る事ができます。
第3砂丘には、アカエゾマツ、トドマツ、ミズナラ、ダケンバなどの巨木が生い茂り、地上は苔で覆われており、そのダイナミックな様相はまるで原始の森を思わせます。
これらの自然は、まさにラムサール条約「国際的に重要な湿地」であるといえます。
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「春国岱橋」を渡った所にある駐車場です。

案内板によるとここから散策道「ヒバリコース」が始まっているようですが、コース名の通り、高い空からヒバリのさえずりが絶え間なく聞えていました。

■案内板にあった「ヒバリコース」の説明文です。
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ヒバリコース
1.2Km/約25分
展望塔までのコース。春夏には、ハマニンニクの草原にヒバリが多数見られます。秋には水際の湿地で赤く色づいたアッケシソウが見られます。
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散策道「ヒバリコース」は、長い木道です。

はるか先に展望塔が見え、向こうに立ち止っている若い男性がいました。公園内の生物調査を行っている

声をかけると、散策道沿いを一定間隔で調査し、生息する生物のデータを作っているネイチャーセンターの方のようでした。

一見、うらやましい仕事のように思えますが、冬の長い一年間の勤務を想うと、やはり大変な仕事のようです。



「風蓮湖」南岸近くで釣を楽しむ人が見えました。

干潮の浅瀬が広がり、カモメも遊んでいます。



木道を進むと、左に橋があり、展望塔方向に直進するコースは木道がありませんでした。

案内図では展望塔から先は、「ハマナスコース」で、ハマナスの赤い花が咲き乱れる夏の季節が最高でしょうね。

■案内板にあった「ハマナスコース」の説明文です。
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ハマナスコース
1.4Km/約30分
3Kmにおよぶハマナス大群落。
夏、コースをはさんで反対側の湿地は、お花畑になります。秋には、淡水性シギ・チドリ類も見られます。
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木道脇の干潟におびただしい数の小さな巻貝が見られました。

大きな貝が見られず、成長するとどこかへ行くのでしょうか。



干潮で流れが速くなった湖で何かを採っている人がいました。

橋の近くに軽四トラックがあり、岸には一輪車が置かれており、収穫量見込みは多いようです。

北海道旅行No.10 浜中町茶内「酪農展望台」からの眺望

2011年07月10日 | 北海道の旅
北海道旅行3日目6/5(日)7:00頃、釧路市のホテルを出発しました。

3日目は、釧路から北海道東端の納沙布岬を往復するコースで、行きは国道44号で根室方面へ直行し、帰路は南の海岸線の観光スポットを回りました。



釧路市から国道44号を東に進み、厚岸湾岸に出る少し手前の厚岸町門静[もんしず]辺りから霧が濃くなってきました。

昨日の釧路でも午後から濃霧で、道東はこんなにも霧が多いのかと思ってしまいます。

道路脇に「41.5Km」と書かれた表示板がありましたが、釧路市から根室市までの国道44号の所々に釧路市からの距離が延々と表示されています。



釧路市から納沙布岬までの地図です。

「酪農展望台」は、ほぼ中間地点で、休憩のために立寄りました。

厚岸町の赤丸印は、上段の濃霧が出てきた写真の地点で、厚岸湾岸や、東の厚岸湖周辺で霧が発生していたようです。

厚岸湖に流れ込む別寒辺牛川[べかんべうしがわ]流域には別寒辺牛湿原が広がり、国道44号や、JR花咲線もしばらく湿地帯を走ります。

幸いにも「酪農展望台」へ近づくにつれて霧が晴れてきました。



8:20頃、浜中町の「酪農展望台」へ到着です。

トイレと売店の間の通路の先に鉄骨で造られた高さ20mの展望台がそびえています。

パーキングは、国道44号の道路脇ですが、階段を上った展望台のすぐ下にも側道がありました。



駐車場に面して「もうもう亭」(レストハウス?)と、その向こうにお土産店がありました。

まだ朝で、開店していませんでしたが、大きなソフトクリームの看板を見ると食べたくなります。



展望台から南方向の駐車場を見下ろした風景です。

駐車場の向こうは、国道44号で、すぐ下の道は国道から分岐した側道です。

日曜日でしたが、駐車場には車1台、貸切状態の展望台では360度の雄大な風景をゆっくりと楽しみました。



国道の南側に牧場が広がっていました。

牧場には意外にたくさんの大きな建物があります。

北海道旅行では、各地で廃屋となった牧場の建物をよく見かけ、厳しい経営環境が続いているものと思われます。

のんびりと草を食べる牛とは裏腹に、農家の人たちの生活は、決してのんびりしたものではないようです。



牧場をズームで撮った風景です。

牧場の高い建物に二頭の乳牛の絵が描かれ、看板になっているようです。

広い牧草地に約50頭もの乳牛が見え、しばし牧歌的風景を楽しませて頂きました。



展望台から見た西方向の風景です。

国道44号が釧路方面へ続き、タンポポの花が広い牧草地を黄色に染めています。



展望台から見た北西方向の風景です。

林の向こうに畑が広がり、赤い屋根の農家の建物が並んでいます。

この辺りの風景は、雄大でした。



上段の写真の風景の一部をズームで撮ってみました。

緑の林、タンホポが咲き乱れる牧草地、カラフルな建物、平原の向こうの地平線、北海道の雰囲気が満喫できる眺望です。



展望台から見た北東方向の風景です。

この方向に知床連山が見えるようですが、地平線に霞がかかっています。

朝は逆光になり、夕方の風景が美しく見えるのかも知れません。



展望台から見た東方向の風景です。

右に見える国道44号は、この辺りから長い直線が続き、広い北海道を体感できます。

知床連山は見えませんでしたが、雄大な風景を楽しむことができる休憩スポットでした。

北海道旅行No.9 霧の街 釧路の散策

2011年07月08日 | 北海道の旅
北海道旅行2日目6/4(土)釧路市内の見物で「マリントポス」へ立寄りました。



霧が立ち込めた「マリントポス」の西側の埠頭の風景です。

太陽がまだ高い時刻でしたが、もはや夕暮れの雰囲気でした。

水産物の水揚げ高が全国的にも高い港だけに、停泊しているこれら大きな船も漁船と思われます。



釧路市内の地図です。

水産資料館「マリントポス」は、北の「新釧路川」と、南の「釧路川」の間にあります。

「マリントポス」から「米町公園」の展望台へ行き、釧路駅近くのホテルにチェックインした後、「幣舞橋」付近を散策しました。



水産資料館「マリントポス」に展示されていた昔の卸売り市場の再現模型です。

1910年(明治43)、釧路川河口の南岸に造られた水産・青果市場で、廃止される1938年(昭和13)までの28年間賑わっていたようです。(最初の市場は幣舞橋北岸西側-石碑あり)

現在の漁港は、この「マリントポス」の場所で、水揚量が昭和53年~平成3年まで13年連続日本一を誇っていました。

■市場の施設模型の近くに説明板がありました。
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マグロ水揚げにわく共同魚菜市場
大正末期から昭和10年前後にかけて釧路港はマグロの水揚げにわきました。そしてマグロの取引を通じ、市場の組織が築かれた時でもありました。
岩壁に着いた船からマグロが水揚げされ、せり人と仲買人との間で取引され、地元のみならず東京にも出荷されました。
現在の入舟町5~6丁目では、市場を中心に漁業者、加工業者、造船所などがひとつの地域に集まり「魚河岸(うおがし)」を形成していました。
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米町公園の駐車場から坂道の上にある米町展望台を見た風景です。

釧路の街を見下ろす高台に灯台のような展望台です。

ここでもたくさんのタンポポが咲き、目を楽しませてくれました。



米町展望台から霧に覆われた街を見下ろした風景(写真下部)と、展望台に備え付けられた街の風景の案内図(写真上部)です。

霧のない晴れた日には釧路港の向こうに雄大な雄阿寒岳、雌阿寒岳の風景が見えるようです。

釧路は、寛永年間(1624~1643)に松前藩がアイヌとの交易拠点「クスリ(久寿里)場所」を設置したことに始まり、場所の運営は商人へ請負わせて運上金を徴収していました。

「米町」の名称は、クスリ場所の最後の請負人「佐野孫右衛門」の屋号「米屋」にちなむもので、1869年(明治2)に「クスリ」が「釧路」に改称された後、1875年(明治8)に村を分割して「米町(村?)」だった時期もあったようです。

江戸時代の港は、目の前の海岸付近にあったようで、その後の市場もすぐ東にあり、この一帯は昭和初期まで水産の町、釧路の中心地だったようです。

釧路川河口に近い「幣舞橋」の上流には「久寿里橋」があり、江戸時代の「クスリ(久寿里)場所」のなごりを見ることができます。



「JR釧路駅」前広場の風景です。

蒸気機関車のものと思える大きな車輪や、モニュメントが展示されています。

白いモニュメントには「5周年記念 JR釧路支社」「北・大地のうねり」とあり、四つのうねる形は、北の大地「北海道」の力強い未来を期待するものだったのでしょうか。



「JR釧路駅」建物に向かって左に「釧路グレース協会」の看板がある建物があり、調べて見ると結婚式場でした。

キリスト協会風の建物が、おしゃれな駅前の景観に寄与しているようです。

信仰とは無縁のキリスト教の神様の前で誓い合う式が多いようですが、二人の約束だけは心からのものであり続けることを祈るまでです。

写真右下は、「JR釧路駅」の建物の中に「阿寒湖の養殖まりも」と書かれた水槽があり、約20個の「まりも」がありました。

国の特別天然記念物に指定されているとは言え、水槽で飼育する「まりも」を何度も見ましたが、絶滅しないよう大切に守ってほしいものです。



釧路川に架かる「幣舞[ぬさまい]橋」の北西岸の風景です。

釧路駅から北大通を南に1km歩くと広い歩道に片側2車線の大きな橋でした。

橋げたの上には著名な作家による四体の彫刻が立ち、釧路の町のシンボルのようです。

橋の隣にはガラス張りで、楕円形の建物「EGG」、その隣の建物はショッピングモール「フィッシャーマンズワーフMOO」です。

右下の写真は、2009年2月から5月頃まで幣舞橋付近に出没していたラッコ「クーちゃん」です。

「EGG」の前にも「クーちゃん」の案内板があり、釧路市長からの「特別住民票」や、釧路商工会議所会頭からの釧路観光大使に任命する「信任状」、釧路観光協会会長からの「感謝状」の写しが展示されていました。

たかが自然の動物一匹とは言え、「クーちゃん」が出没していた時期には観光客も増加し、大きな経済効果があったようです。



「幣舞橋」の隣にある「EGG」の建物内部です。

「EGG」の名称は、建物の形が玉子に似ているためかと思いましたが、Ever Green Gardenの略称でした。

建物の中央付近に姉妹都市鳥取の梨の木や、長崎からのものか被爆二世の木も見られました。

建物に入ると暖房されており、肌寒い外外から植物が守られていることがわかります。



「幣舞橋」の西側(下流)の歩道に立つ二体の銅像です。

右足を一歩前に出して少し手を広げたポーズの像は、「道東の四季 春」「舟越 保武作」、両手を高く上げ、三つ編みの髪を持つ像は、「道東の四季 夏」「佐藤 忠良作」です。

「春」「夏」それぞれの季節のイメージが表現されているようです。



「幣舞橋」の東側(上流)の歩道に立つ二体の銅像です。

向かって右の左手のひじを上げている像は、「道東の四季 秋」「柳原 義達作」、両手を高く上げている像は、「道東の四季 冬」「本郷 新作」です。

「本郷 新」の作品で思い出すのは、稚内公園の「氷雪の門」です。

このブログ<北海道旅行No.38 「稚内公園」で知った樺太の歴史>に写真を掲載していますが、樺太に向けて渾身の力で叫ぶ女性像は、忘れられない作品です。




幣舞橋のたもとから見た夕日に映える釧路川河畔の風景です。

午後からの濃霧で、「霧の釧路」の雰囲気を楽しみましたが、少し晴れてきました。

この風景で、昔流行った歌「釧路の夜」(美川憲一)を思い出しました。

「霧は降る降る 今日も又 一人歩きのヌサマイ橋よ 船の汽笛も泣いている 女心も知らないで 貴方がにくい 貴方がにくい~」

ホテルへの帰り道、道路脇の電光掲示板に表示された気温は11度、ちょっと肌寒い「釧路の夜」でした。

北海道旅行No.8 釧路市「鳥取百年資料館」元武士達の郷土への想い

2011年07月02日 | 北海道の旅
北海道旅行2日目6/4(土)釧路市内の「鳥取神社」へ到着しました。

この一帯は、1884(明治17)年、鳥取池田藩の元武士達が入植して開いた鳥取町で、その歴史が展示されている「鳥取百年資料館」を訪れました。



境内にタンポポの花が咲く、「鳥取神社」の建物です。

出雲大社から勧請した「大国主命」が祀られており、1891年(明治24年)に創建されています。

故郷の鳥取には、因幡一の宮「宇倍神社」(祭神 武内宿禰命)や、藩主の祖先でもある徳川家康を祀った「東照宮(現樗谷神社)」があります。

幕府が崩壊した時代、美濃出身で、徳川との血縁を深めた池田氏の家来達には故郷鳥取の神社の祭神を祀る選択肢はなかったようです。

因幡には大国主命に助けられた「因幡の白兎」の神話がありました。

故郷の生活に行き詰り、この地に移住して苦難の生活に耐える人々が祭神に選んだ神様は、心やさしい大国主命でした。



右手の建物は、「鳥取神社」社務所で、向こうに見えるのは「鳥取神社」社殿の側面です。

側面から見た社殿は、神社建築様式の「大社造り」の正面によく似ています。



「鳥取百年記念館」の窓から見下ろした風景です。

写真左上には観光案内のパンフレットにあった「鳥取百年記念館」正面の風景です。

この場所は、旧鳥取村役場が建っていた場所で、館内には集団移住した士族たちの歴史資料が展示されていました。

鳥取城に似せて造ったものと思われますが、故郷から追われるように移住してきたこの地で、小さいながらも城を築くことが出来た誇りが伝わって来るようです。



「鳥取百年記念館」に「昭和初期の釧路市・鳥取村の展望」の名称で展示されていた絵です。

下には「郷土俯瞰図」、「編さん・発行 鳥取尋常高等小学校」「昭和9年6月9月」とあり、鳥取村の郷土誌に掲載された絵のようです。

この時代、町の観光案内などで俯瞰図が見られますが、なかなか上手な絵です。



「鳥取百年記念館」で頂いた資料に、阿寒川や、釧路川の氾濫に苦しめられ続けた人々が、川の流れを大きく変えて克服した治水工事の歴史が紹介されていました。

かつて釧路市街の西を流れる「阿寒川」は、「仁々志別川」と合流して「釧路川」の河口付近で合流していたようです。

地図に表示した「元阿寒川1」「元阿寒川2」の赤い破線辺りが川が流れていたと思われる場所(推察です)で、流れを直接南へ変えることで町の水害を無くしたようです。

又、「新釧路川」を新設し、分岐する「岩保木水門」で流れを調整することで東の「釧路川」の氾濫を防いだようです。

釧路市街地は困難な湿原周辺の開拓だけでなく、大規模な治水工事によって造り上げられたことを教えられました。

■以下は「鳥取百年記念館」で頂いた資料「鳥取県士族移住前史」の一部です。
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 明治十七年六月九日、鳥取県士族移住者四十一戸二百七人が、第一次として人跡未踏のベットマイ原野の一角に、集団移住帰農して「鳥取村」を創始した。ついで、翌十八年五月十四日第二次六十四戸三百六人が移住し、総戸数百五戸、総人口五百十三人の村落が形成された。
 第二次が移住した年の秋には、阿寒川が溢水氾濫して農作物は収穫皆無となり、以来、毎年のように水害が生じてその日の食糧にも窮するようになり、一時は離散するような状況ともなった。北海道庁は、阿寒川の溢水氾濫防止と村民救済事業として排水溝を掘削したりしたが、大正六年に阿寒川切替工事が完成通水して、一応水害の危機も少なくなった。そして、大正九年秋の大洪水により阿寒川は、オンネビラより掘削されていた第一分水溝に流入し、大楽毛川に合沫して本流を変え、以来、洪水の脅威より救われた。
 阿寒川の溢水氾濫はなくなったが、釧路川は氾濫して下流の釧路市や鳥取村の一部住民にも被害をあたえていた。しかし、昭和六年に新釧路川が完成通水したので被害は皆無となったが、この釧路川治水工事は北海道庁が大正十年に着工し、十年の歳月と巨額の事業費を投入して完成したもので、水害から救われるとともに沿岸流域は自然排水がよくなって開発が進み、鳥取村にとっては画期的な大事業であった。
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一階の展示室の中央に珍しい麒麟獅子が展示されていました。

鳥取県東部の神社の祭では麒麟の獅子舞が見られるようで、ここ鳥取神社にも伝わっているようです。



ガラスケースに展示されていた麒麟獅子です。

珍しい麒麟獅子が展示されていました。

鳥取県東部の神社の祭では麒麟の獅子舞が見られるようで、ここ鳥取神社にも伝わっているようです。

麒麟獅子の隣りには道化役の猩猩[しょうじょう]が立ち、共に朱色の衣装ですが、麒麟の顔は金色のようです。



これも展示されていた麒麟獅子舞の写真で、かなり迫力のある顔です。

麒麟獅子は、鳥取藩主池田光仲が始めたとされ、祖父徳川家康を祀る「鳥取東照宮」の建立で考えられたようです。

鳥取県東部の神社では麒麟獅子が一般的となっているようで、藩主の影響力の大きさを痛感します。

祭神「大国主命」は、中国で考えられた架空の動物をどんな気持ちで見られているのでしょうか。



一階の展示室の奥に「因幡の傘踊り」の傘が展示されていました。

この踊りも故郷の踊りのようで、一時期、途絶えたことがあったようですが、復活して歴史を伝える郷土芸能になったようです。

■「鳥取百年記念館」に展示されていた手書き資料の説明文です。
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釧路・鳥取傘踊りの伝承
昭和37年、鳥取開基八十年記念事業会が高田鳥取市長に「因幡の傘踊り」伝承を依頼したので、同市長から八十年を祝い傘六本が贈られ同時に市職員二人が指導のため派道された。十條錠製紙㈱釧路工場民謡研究会員が指導を受け、同三十八年六月九日の開基八十年記念式典に披露された。ついで、同四十一年に釧路・鳥取傘踊り保存会に鳥取市から新作の「鳥取シャンシャン傘踊り」の傘五十本が寄贈され指導を受けたので、これが契機となり、「釧路・鳥取シャンシャン傘踊り」が学校や一般に普及した。
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北海道旅行No.7 「北斗遺跡展示館」釧路湿原西岸の集落遺跡

2011年07月01日 | 北海道の旅
最古の土器北海道旅行2日目6/4(土)14:00頃、釧路湿原西岸の「北斗遺跡展示館」へ到着しました。



「北斗遺跡展示館」の建物です。

周囲には益々霧が深くたち込め、14:00だというのに薄暗くなり、気温も低下してきました。

「北斗遺跡」までここから約500mを徒歩で行くようで、断念しました。



館内に展示されていた釧路湿原周辺の遺跡分布の地図です。

「北斗遺跡」は、釧路湿原の南西岸に突き出た岬の先端にあります。

西岸の三ヶ所に集中した赤い場所は擦文時代を含んだ遺跡、その他の濃い緑の部分はそれ以外の時代の遺跡を現わしています。

釧路湿原の周囲全体に多くの遺跡が分布していることが分かります。

■「釧路湿原周縁の遺跡」の地図の説明文です。
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釧路湿原周縁の遺跡
釧路湿原は、面積21,440ha、国内湿原総面積の60%を占める低湿地帯である。
湿原のまわりには、旧石器時代からアイヌ時代にかけて約400ヶ所の遺跡が分布する。釧路川やシラルトロ沼・塘路[とうろ]湖・達古武[たっこぶ]沼など海跡湖沼[かいせきしょう]に沿った東側台地に多い。交通や食糧確保など生活条件にめぐまれていたためである。
東釧路貝塚・緑ヶ岡遺跡・幣舞[ぬさまい]遺跡・モシリヤ砦跡などは東側台地にあり、西側の拠点となる遺跡として北斗遺跡が存在する。
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本州と、北海道の年代区分を対比した表です。

本州以西で稲作が始まった弥生時代以降、北海道では本州とは違う文化が営まれていました。

北斗遺跡では旧石器時代から始まり、縄文時代、続縄文時代、擦文時代の遺跡が発掘され、その後の近世アイヌ文化期の遺物も見つかっているようです。

何と、北斗遺跡では約1万年もの間、人々の生活の営みがあったようです。



石器時代から擦文時代まで、釧路湿原が時代により変遷してきた地図が展示されていました。

釧路湿原の変化の地図は、1.石器時代、2.縄文時代早期、3.縄文時代前期、4.縄文時代中期、5.縄文時代後・晩期、6.続縄文時代と続き、下段の擦文時代に至ります。

約6,000年前の「3.縄文時代前期」をピークとして縄文海進(気温が上がり、海面が3~5m高くなった時代)が顕著となり、釧路湿原は大きな釧路湾だったようです。

又、その後の気温の低下により次第に釧路湿原が形成されてきた様子も分かります。

高台にある「北斗遺跡」は、長い時代の変化の中でも豊かな自然に恵まれた生活の場になっていたようです。



「旧石器時代の石器」と案内され、展示されていたものです。

小さな刃のついた細石刃のようなものも見られ、旧石器時代末期の遺物でしょうか。

これらの石器の中には、当時の人々が使い勝手を考え、工夫して作り上げた道具も多かったものと思われます。

案内板によると「北斗遺跡」では旧石器時代の火を焚いた跡も発見されたようです。

高台から低地を見渡し、狩りの獲物を探していたのでしょうか。



「縄文早期の土器」と、下部に「縄文時代早期の墓壙」と案内された写真が展示されていました。

丸い平底の土器で、下部の縄文が波打っているのが印象的です。

縄文時代早期の北海道南部では本州から伝わった尖底土器が主流となったようですが、道東では違っていたようです。

「縄文時代早期の墓壙[ぼこう]」の中には横向きの屈葬人骨が残っていたことに驚きます。



左側三つの土器は、「縄文時代中期~後期の土器」、右下の背の低い土器は「縄文時代後期の土器」と表示されています。

バケツを細長くした様なこの土器は、この時代に道東・道北で作られた「北筒式土器」です。

同じ時代、東北地方北部から道南にかけては、細長く、上部にくびれがあり、丸みのある形の「円筒土器」が作られていたようで、文化圏の違いを教えられます。

三つの土器の上部に連続して開く穴が見られますが、何のためのものだったのでしょうか。

又、土器の縁にヒモをリボンのように結んだ飾りは初めて見るものです。



左は、「縄文晩期の土器」、右の二つは、「続縄文時代の土器」と案内されています。

時代が下るに従い、単純だった文様が次第に複雑なものになっていくようです。



一番多く展示されていた「擦文土器」です。

「北斗遺跡展示館」で、「擦文時代」の遺物の展示コーナーは半分以上を占めていました。

擦文が、木片で擦ったことも弥生式土器などにもみられるようで、本州との交流がうかがわれえます。

■擦文時代の展示コーナーにあった説明文です。
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擦文文化
擦文文化は、縄文・続縄文文化の伝統を受け継ぎ、北海道で7世紀ころに成立し、本州やオホーツク文化の影響を受け、13世紀頃アイヌ文化へ移り変わったとみられる。
生活は、サケ・マス漁が中心で、狩りや野生植物の採取及び雑穀栽培も行われていた。生産用具の石器は姿を消し、鉄器が多用されるようになる。
擦文の名称は、土器の表面に残された「はけ目」による。土器の形を整える際、木片で擦ったあとである。
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上段に並ぶ「高杯形土器」は、古墳時代以降の本州の遺物で見るものに似ており、「擦文土器」が本州の「土師器」の影響を受けたとされることが納得できます。

■「高杯形土器」が底を上にして展示され、説明文が添えられていました。
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刻印記号のある高杯形土器
刻印記号は、高杯形・杯形や台つき浅鉢形など特別な機能を持つとみとめられる土器に限られることから、「祭器印」の可能性が考えられている
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ガラスケースの中に遺構全体模型が「擦文時代の北斗」と案内され、展示されていました。

向って右が南方向で、谷を挟んだ丘の両側に縄文時代から擦文時代の住居跡があり、復元された住居の模型は奥の丘に見られます。



「擦文時代のくらし」と案内された展示パネルです。(パネルの写真の文字が小さく、赤い文字を付けました。)

一年間の生活は、縄文時代とほとんど違いがないようにも思われます。

擦文時代には本州から鉄器が伝わり、狩猟の効率が上がった半面、交易目的の毛皮などの確保が必要となっていったものと思われます。

縄文時代にも交易で黒曜石を得ていたようですが、金属の鍋を交易で得るようになる次のアイヌ時代には土器が作られなくなってしまいました。

近世・近代と押し寄せてくる文明に、アイヌの人々がどんな時代を迎えたのか考えると、文明の功罪に複雑な気持ちになります。



館内に擦文時代の住居が復元されていました。

竪穴住居の出入り口の突当りに「かまど」が見え、四角の建物内の二辺には床が供えられています。

平安時代の東北地方でも同様の竪穴住居が多くあったようです。

大和から東北、北海道とつながる住居の歴史も興味深いものと思われます。

1万年に渡る「北斗遺跡」の歴史に触れ、北海道の奥深い歴史に触れたような気がします。

■擦文時代の住居を発掘風景の写真パネルに添えられた説明文です。
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住まい
縄文・続縄文文化に引き続き竪穴式と呼ばれる半地下式の住居であった。屋内は、本州文化の影響を受け四角形で、一片の長さが5~10m、深さ70~110cm、4~8本の柱、東壁に炊事用のかまど、中央に暖房・炊事用のいろり、南壁寄りに貯蔵穴、北・西壁側に寝床が設けられ、出入り口は東側と考えられる。
住居の柱や梁は、ミズナラ・ヤナギなど、屋根材にはヨシが用いられている。
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