2011年06月02日 | 中部地方の旅ゴールデンウィークに行った北陸地方を旅した続きです。
5月2日、能登半島の西にある茅葺の「阿岸本誓寺」の参拝を終え、海岸沿いの景勝地を見物しながら輪島市街を約10Km過ぎた辺りに「道の駅千枚田」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/11/fdf7d5456adbbbe80815b5da93f3ce3b.jpg)
「道の駅千枚田」の駐車場の脇から見下ろした「白米の千枚田」の風景ですです。
日本海に面した白米(しらよね)地区の急斜面にたくさんの水田がつくられ、素晴らしい景観が広がっていました。
人の力は、厳しい自然の地形をここまで美しく変えられるのか、実に感心します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/b9/ac7df8c43b49e63535fa9bf19b6c6f94.jpg)
「道の駅千枚田」の売店です。
ゴールデンウィークの「道の駅千枚田」は繁盛していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/81/9c173bfe0f8e2107d5a0c5028115e700.jpg)
「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」見下ろす場所には次々と、観光客が立寄っていました。
海岸の斜面に国道249号が東に続いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/d6/612e040d4ca0a69c65728aabff589511.jpg)
「白米(しらよね)の千枚田」を見下ろす場所に田植え体験を案内する貼紙がありました。
辺りにはスピーカーで、大きな案内の声が繰り返えされていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/21/d42248b6358f53e89aadee8e2fbdd06d.jpg)
「白米の千枚田」には田植え体験と思われる人も見られます。
一つ一つの水田の大きさは、意外に小さく、これでは耕運機や、田植え機を効率的に使うことは難しい感じです。
昔ながらの水田を大変な苦労で維持しているものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/f8/486e7c29fc008bc3789562ed2e8ac740.jpg)
「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」を見下ろす場所に案内板がありました。
■「白米の千枚田」の説明文です。
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国指定名勝 白米の千枚田
千枚田は、実際には1004枚ものミニ水田が連なっている。田の枚数が多いので千枚田と称するが、「狭い田」なので千枚田だという異説もある。
最も小さい水田は、0.2?、現在、13戸の農家が幾多の苦労を重ねながら耕作を続けている。畦付けのため、毎年、高い方の土手を削って田圃へ入れるので自然客土となり、肥料も一般の田の半分ぐらいでよいといい、病害虫も少なく二石六斗の反収があるという。米の味は特に優れており、消費者からは大いに歓迎されている。
千枚田は、地すべりの急傾斜地であるが、寛永15年(1638年)頃、能登小代官に赴任中の下村兵四朗(後の板屋兵四朗)が築造したという谷山用水もあり、水利に不安はない。
平地が少なく狭い国土、勤勉な国民性など、千枚田は我が民族の象徴ともいえる。縄文土器をもしのばせるその造型模様は美しく、平成13年1月、国の名勝に指定された。
白米村はかつて製塩も盛んであった。寛永12年(1635年)の記録によると出来塩1295俵とあり、延宝2年(1674年)の記録でも13軒のうち百姓数は六軒、他の七軒は塩士であったとある。また当時、塩を収納したという御塩蔵跡も残されている。
揚浜塩田は、その後の海岸浸触により水没、今は跡形もなくなっている。
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やはり名勝に指定されたこの場所には「白米の千枚田」の名の通り、約千枚の水田があるようです。
下村兵四朗(後の板屋兵四朗)の名は、前日に訪れた金沢の兼六園で見た「辰巳用水」を造った人でも知られ、興味をひかれます。
又、「水利に不安はない」とされ、水田に水を供給していると思われる「谷山用水」もどんなものだったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bd/37004712fb59af44138ed84fdb85a60a.jpg)
「白米の千枚田」周辺の地形図です。
前々回、「気多大社」周辺の地形図に灌漑の池が多く見られたことを思い出し、周辺で「谷山用水」を探してみました。
海岸近くの「白米の千枚田」から直線距離で、約2Km南に二つの池が見られます。
約10Kmの「辰巳用水」の距離を考えると、この池から取水されている可能性もあります。
下村兵四朗(後の板屋兵四朗)は、能登地方で「谷山用水」の他、「春日用水」、「尾山用水」を造ったとされ、測量や、計算に優れた技術を持っていたようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/95/100a3489ba6d7ca4df964dbd61170edc.jpg)
「白米の千枚田」の海岸近くの風景です。
海岸に日本海の荒波が押し寄せ、静かな瀬戸内海を見慣れた者には魅力的な風景です。
案内板によると、「揚浜塩田は、その後の海岸浸触により水没、今は跡形もなくなっている」とあり、かつてこの海岸一帯には揚浜塩田が続いていたものと思われます。
又、説明文に「下村兵四朗(後の板屋兵四朗)」は、「能登小代官に赴任中」とあり、塩田関係の業務に関わっていたようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/91/8b33623e3e050b2a510549c23f595c9e.jpg)
「道の駅千枚田」から約15Km東の道路脇で見つけた塩田の看板です。
「国指定 重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」とあり、江戸時代からの製塩技術が今日まで伝承されているようです。
各地にあった塩田の中で、特に「重要無形民俗文化財」に指定されていることを考えると高い技能が伴ったものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/51/71566704f1e6f3362f20842e48351eec.jpg)
「重要無形民俗文化財」の看板の横に塩田がありました。
海岸に近くに茅葺屋根の建物があり、塩田が造られていました。
■そばにあった案内板の説明文です。
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揚げ浜塩田
能登の揚げ浜塩田は、記録によると慶長元年(1596年)に開始。
それを加賀藩三代藩主前田利常公が農民救済のために「塩手米制度」をつくり、能登一帯に奨励しました。これは藩の自給米を確保する目的を兼ねていました。「塩手米制度」は田畑の少ない農民に米を貸し与えその変わりに塩を納めさせたもので、玄米一石につき塩9表の割合でした。
以来400年余原始製塩法が当地の重要産業として続けられてきましたが、生産性に劣るため戦後衰退し、ついにはほとんどが姿を消し、現在唯一のものとして保存されています。かお当地に保存されている砂取節(県指定無形文化財)はこの塩田に従事して人たちの労働歌であり、聞く人をしてその労働の辛さを覚えさせます。
珠洲市
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/af/37c50c3cf7645a279401bd2f4ee2436f.jpg)
塩田に隣接した茅葺屋根の建物裏の海岸の風景です。
「洗濯岩」と形容されるような岩場が続く海岸です。
海岸そばの塩田は、このような荒波が押し寄せる岩場に人の手を加えて造ったのものと思われま。
「白米の千枚田」にも見られる急傾斜に造られた水田、その水田に水を供給するための数Kmに渡る用水開発など、昔の人々の想像を超える苦労と技術に改めて感服します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c2/0bf6793ee4c0e66e6adfdb3a8c282458.jpg)
「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」の案内板の棚田の田植え風景の絵です。
■棚田の絵の下に昔話「蓑隠れの話」が紹介されていました。
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「蓑隠れの話」
「むかし、百姓夫婦が田植を終って、念のため水田の枚数を数えてみた。千枚あるはずなのに、どうしても二枚たりない。日も暮れたのであきらめて帰ろうと、そばにあった二人の蓑をとりあげて、みるとその下に二枚の田がかくされてあったという。
「蓑の下、耕し残る田二枚」の一句も伝えられている。
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ほのぼのとした話のようですが、小さな棚田の耕作に大きな労力を要するをことを知る人には百姓夫婦の過酷な生活が思い浮かぶものと思われます。
近代化から取り残されたこの棚田は、食糧生産の役割から郷愁ある美しい景観のためのものになったようです。
荒波が押し寄せる岩場の海岸に塩田を開発したり、急斜面に多くの棚田を造り、数Kmもの山中から用水を引いてきた先人たちの苦労に思いをはせ、ゆっくりとこの風景を眺めるのも良いのではないでしょうか。
5月2日、能登半島の西にある茅葺の「阿岸本誓寺」の参拝を終え、海岸沿いの景勝地を見物しながら輪島市街を約10Km過ぎた辺りに「道の駅千枚田」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/11/fdf7d5456adbbbe80815b5da93f3ce3b.jpg)
「道の駅千枚田」の駐車場の脇から見下ろした「白米の千枚田」の風景ですです。
日本海に面した白米(しらよね)地区の急斜面にたくさんの水田がつくられ、素晴らしい景観が広がっていました。
人の力は、厳しい自然の地形をここまで美しく変えられるのか、実に感心します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/b9/ac7df8c43b49e63535fa9bf19b6c6f94.jpg)
「道の駅千枚田」の売店です。
ゴールデンウィークの「道の駅千枚田」は繁盛していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/81/9c173bfe0f8e2107d5a0c5028115e700.jpg)
「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」見下ろす場所には次々と、観光客が立寄っていました。
海岸の斜面に国道249号が東に続いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/d6/612e040d4ca0a69c65728aabff589511.jpg)
「白米(しらよね)の千枚田」を見下ろす場所に田植え体験を案内する貼紙がありました。
辺りにはスピーカーで、大きな案内の声が繰り返えされていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/21/d42248b6358f53e89aadee8e2fbdd06d.jpg)
「白米の千枚田」には田植え体験と思われる人も見られます。
一つ一つの水田の大きさは、意外に小さく、これでは耕運機や、田植え機を効率的に使うことは難しい感じです。
昔ながらの水田を大変な苦労で維持しているものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/f8/486e7c29fc008bc3789562ed2e8ac740.jpg)
「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」を見下ろす場所に案内板がありました。
■「白米の千枚田」の説明文です。
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国指定名勝 白米の千枚田
千枚田は、実際には1004枚ものミニ水田が連なっている。田の枚数が多いので千枚田と称するが、「狭い田」なので千枚田だという異説もある。
最も小さい水田は、0.2?、現在、13戸の農家が幾多の苦労を重ねながら耕作を続けている。畦付けのため、毎年、高い方の土手を削って田圃へ入れるので自然客土となり、肥料も一般の田の半分ぐらいでよいといい、病害虫も少なく二石六斗の反収があるという。米の味は特に優れており、消費者からは大いに歓迎されている。
千枚田は、地すべりの急傾斜地であるが、寛永15年(1638年)頃、能登小代官に赴任中の下村兵四朗(後の板屋兵四朗)が築造したという谷山用水もあり、水利に不安はない。
平地が少なく狭い国土、勤勉な国民性など、千枚田は我が民族の象徴ともいえる。縄文土器をもしのばせるその造型模様は美しく、平成13年1月、国の名勝に指定された。
白米村はかつて製塩も盛んであった。寛永12年(1635年)の記録によると出来塩1295俵とあり、延宝2年(1674年)の記録でも13軒のうち百姓数は六軒、他の七軒は塩士であったとある。また当時、塩を収納したという御塩蔵跡も残されている。
揚浜塩田は、その後の海岸浸触により水没、今は跡形もなくなっている。
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やはり名勝に指定されたこの場所には「白米の千枚田」の名の通り、約千枚の水田があるようです。
下村兵四朗(後の板屋兵四朗)の名は、前日に訪れた金沢の兼六園で見た「辰巳用水」を造った人でも知られ、興味をひかれます。
又、「水利に不安はない」とされ、水田に水を供給していると思われる「谷山用水」もどんなものだったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bd/37004712fb59af44138ed84fdb85a60a.jpg)
「白米の千枚田」周辺の地形図です。
前々回、「気多大社」周辺の地形図に灌漑の池が多く見られたことを思い出し、周辺で「谷山用水」を探してみました。
海岸近くの「白米の千枚田」から直線距離で、約2Km南に二つの池が見られます。
約10Kmの「辰巳用水」の距離を考えると、この池から取水されている可能性もあります。
下村兵四朗(後の板屋兵四朗)は、能登地方で「谷山用水」の他、「春日用水」、「尾山用水」を造ったとされ、測量や、計算に優れた技術を持っていたようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/95/100a3489ba6d7ca4df964dbd61170edc.jpg)
「白米の千枚田」の海岸近くの風景です。
海岸に日本海の荒波が押し寄せ、静かな瀬戸内海を見慣れた者には魅力的な風景です。
案内板によると、「揚浜塩田は、その後の海岸浸触により水没、今は跡形もなくなっている」とあり、かつてこの海岸一帯には揚浜塩田が続いていたものと思われます。
又、説明文に「下村兵四朗(後の板屋兵四朗)」は、「能登小代官に赴任中」とあり、塩田関係の業務に関わっていたようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/91/8b33623e3e050b2a510549c23f595c9e.jpg)
「道の駅千枚田」から約15Km東の道路脇で見つけた塩田の看板です。
「国指定 重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」とあり、江戸時代からの製塩技術が今日まで伝承されているようです。
各地にあった塩田の中で、特に「重要無形民俗文化財」に指定されていることを考えると高い技能が伴ったものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/51/71566704f1e6f3362f20842e48351eec.jpg)
「重要無形民俗文化財」の看板の横に塩田がありました。
海岸に近くに茅葺屋根の建物があり、塩田が造られていました。
■そばにあった案内板の説明文です。
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揚げ浜塩田
能登の揚げ浜塩田は、記録によると慶長元年(1596年)に開始。
それを加賀藩三代藩主前田利常公が農民救済のために「塩手米制度」をつくり、能登一帯に奨励しました。これは藩の自給米を確保する目的を兼ねていました。「塩手米制度」は田畑の少ない農民に米を貸し与えその変わりに塩を納めさせたもので、玄米一石につき塩9表の割合でした。
以来400年余原始製塩法が当地の重要産業として続けられてきましたが、生産性に劣るため戦後衰退し、ついにはほとんどが姿を消し、現在唯一のものとして保存されています。かお当地に保存されている砂取節(県指定無形文化財)はこの塩田に従事して人たちの労働歌であり、聞く人をしてその労働の辛さを覚えさせます。
珠洲市
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/af/37c50c3cf7645a279401bd2f4ee2436f.jpg)
塩田に隣接した茅葺屋根の建物裏の海岸の風景です。
「洗濯岩」と形容されるような岩場が続く海岸です。
海岸そばの塩田は、このような荒波が押し寄せる岩場に人の手を加えて造ったのものと思われま。
「白米の千枚田」にも見られる急傾斜に造られた水田、その水田に水を供給するための数Kmに渡る用水開発など、昔の人々の想像を超える苦労と技術に改めて感服します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c2/0bf6793ee4c0e66e6adfdb3a8c282458.jpg)
「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」の案内板の棚田の田植え風景の絵です。
■棚田の絵の下に昔話「蓑隠れの話」が紹介されていました。
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「蓑隠れの話」
「むかし、百姓夫婦が田植を終って、念のため水田の枚数を数えてみた。千枚あるはずなのに、どうしても二枚たりない。日も暮れたのであきらめて帰ろうと、そばにあった二人の蓑をとりあげて、みるとその下に二枚の田がかくされてあったという。
「蓑の下、耕し残る田二枚」の一句も伝えられている。
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ほのぼのとした話のようですが、小さな棚田の耕作に大きな労力を要するをことを知る人には百姓夫婦の過酷な生活が思い浮かぶものと思われます。
近代化から取り残されたこの棚田は、食糧生産の役割から郷愁ある美しい景観のためのものになったようです。
荒波が押し寄せる岩場の海岸に塩田を開発したり、急斜面に多くの棚田を造り、数Kmもの山中から用水を引いてきた先人たちの苦労に思いをはせ、ゆっくりとこの風景を眺めるのも良いのではないでしょうか。