昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

能登旅行 「白米の千枚田」と、「能登の揚浜式製塩」

2011年06月02日 | 中部地方の旅
2011年06月02日 | 中部地方の旅ゴールデンウィークに行った北陸地方を旅した続きです。

5月2日、能登半島の西にある茅葺の「阿岸本誓寺」の参拝を終え、海岸沿いの景勝地を見物しながら輪島市街を約10Km過ぎた辺りに「道の駅千枚田」がありました。



「道の駅千枚田」の駐車場の脇から見下ろした「白米の千枚田」の風景ですです。

日本海に面した白米(しらよね)地区の急斜面にたくさんの水田がつくられ、素晴らしい景観が広がっていました。

人の力は、厳しい自然の地形をここまで美しく変えられるのか、実に感心します。



「道の駅千枚田」の売店です。

ゴールデンウィークの「道の駅千枚田」は繁盛していました。



「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」見下ろす場所には次々と、観光客が立寄っていました。

海岸の斜面に国道249号が東に続いています。



「白米(しらよね)の千枚田」を見下ろす場所に田植え体験を案内する貼紙がありました。

辺りにはスピーカーで、大きな案内の声が繰り返えされていました。



「白米の千枚田」には田植え体験と思われる人も見られます。

一つ一つの水田の大きさは、意外に小さく、これでは耕運機や、田植え機を効率的に使うことは難しい感じです。

昔ながらの水田を大変な苦労で維持しているものと思われます。



「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」を見下ろす場所に案内板がありました。

■「白米の千枚田」の説明文です。
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国指定名勝 白米の千枚田
千枚田は、実際には1004枚ものミニ水田が連なっている。田の枚数が多いので千枚田と称するが、「狭い田」なので千枚田だという異説もある。
最も小さい水田は、0.2?、現在、13戸の農家が幾多の苦労を重ねながら耕作を続けている。畦付けのため、毎年、高い方の土手を削って田圃へ入れるので自然客土となり、肥料も一般の田の半分ぐらいでよいといい、病害虫も少なく二石六斗の反収があるという。米の味は特に優れており、消費者からは大いに歓迎されている。
千枚田は、地すべりの急傾斜地であるが、寛永15年(1638年)頃、能登小代官に赴任中の下村兵四朗(後の板屋兵四朗)が築造したという谷山用水もあり、水利に不安はない。
平地が少なく狭い国土、勤勉な国民性など、千枚田は我が民族の象徴ともいえる。縄文土器をもしのばせるその造型模様は美しく、平成13年1月、国の名勝に指定された。
白米村はかつて製塩も盛んであった。寛永12年(1635年)の記録によると出来塩1295俵とあり、延宝2年(1674年)の記録でも13軒のうち百姓数は六軒、他の七軒は塩士であったとある。また当時、塩を収納したという御塩蔵跡も残されている。
揚浜塩田は、その後の海岸浸触により水没、今は跡形もなくなっている。
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やはり名勝に指定されたこの場所には「白米の千枚田」の名の通り、約千枚の水田があるようです。

下村兵四朗(後の板屋兵四朗)の名は、前日に訪れた金沢の兼六園で見た「辰巳用水」を造った人でも知られ、興味をひかれます。

又、「水利に不安はない」とされ、水田に水を供給していると思われる「谷山用水」もどんなものだったのでしょうか。



「白米の千枚田」周辺の地形図です。

前々回、「気多大社」周辺の地形図に灌漑の池が多く見られたことを思い出し、周辺で「谷山用水」を探してみました。

海岸近くの「白米の千枚田」から直線距離で、約2Km南に二つの池が見られます。

約10Kmの「辰巳用水」の距離を考えると、この池から取水されている可能性もあります。

下村兵四朗(後の板屋兵四朗)は、能登地方で「谷山用水」の他、「春日用水」、「尾山用水」を造ったとされ、測量や、計算に優れた技術を持っていたようです。



「白米の千枚田」の海岸近くの風景です。

海岸に日本海の荒波が押し寄せ、静かな瀬戸内海を見慣れた者には魅力的な風景です。

案内板によると、「揚浜塩田は、その後の海岸浸触により水没、今は跡形もなくなっている」とあり、かつてこの海岸一帯には揚浜塩田が続いていたものと思われます。

又、説明文に「下村兵四朗(後の板屋兵四朗)」は、「能登小代官に赴任中」とあり、塩田関係の業務に関わっていたようです。



「道の駅千枚田」から約15Km東の道路脇で見つけた塩田の看板です。

「国指定 重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」とあり、江戸時代からの製塩技術が今日まで伝承されているようです。

各地にあった塩田の中で、特に「重要無形民俗文化財」に指定されていることを考えると高い技能が伴ったものと思われます。



「重要無形民俗文化財」の看板の横に塩田がありました。

海岸に近くに茅葺屋根の建物があり、塩田が造られていました。

■そばにあった案内板の説明文です。
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 揚げ浜塩田
能登の揚げ浜塩田は、記録によると慶長元年(1596年)に開始。
それを加賀藩三代藩主前田利常公が農民救済のために「塩手米制度」をつくり、能登一帯に奨励しました。これは藩の自給米を確保する目的を兼ねていました。「塩手米制度」は田畑の少ない農民に米を貸し与えその変わりに塩を納めさせたもので、玄米一石につき塩9表の割合でした。

以来400年余原始製塩法が当地の重要産業として続けられてきましたが、生産性に劣るため戦後衰退し、ついにはほとんどが姿を消し、現在唯一のものとして保存されています。かお当地に保存されている砂取節(県指定無形文化財)はこの塩田に従事して人たちの労働歌であり、聞く人をしてその労働の辛さを覚えさせます。
  珠洲市
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塩田に隣接した茅葺屋根の建物裏の海岸の風景です。

「洗濯岩」と形容されるような岩場が続く海岸です。

海岸そばの塩田は、このような荒波が押し寄せる岩場に人の手を加えて造ったのものと思われま。

「白米の千枚田」にも見られる急傾斜に造られた水田、その水田に水を供給するための数Kmに渡る用水開発など、昔の人々の想像を超える苦労と技術に改めて感服します。



「道の駅千枚田」の「白米の千枚田」の案内板の棚田の田植え風景の絵です。

■棚田の絵の下に昔話「蓑隠れの話」が紹介されていました。
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「蓑隠れの話」
「むかし、百姓夫婦が田植を終って、念のため水田の枚数を数えてみた。千枚あるはずなのに、どうしても二枚たりない。日も暮れたのであきらめて帰ろうと、そばにあった二人の蓑をとりあげて、みるとその下に二枚の田がかくされてあったという。
「蓑の下、耕し残る田二枚」の一句も伝えられている。
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ほのぼのとした話のようですが、小さな棚田の耕作に大きな労力を要するをことを知る人には百姓夫婦の過酷な生活が思い浮かぶものと思われます。

近代化から取り残されたこの棚田は、食糧生産の役割から郷愁ある美しい景観のためのものになったようです。

荒波が押し寄せる岩場の海岸に塩田を開発したり、急斜面に多くの棚田を造り、数Kmもの山中から用水を引いてきた先人たちの苦労に思いをはせ、ゆっくりとこの風景を眺めるのも良いのではないでしょうか。

能登旅行 茅葺屋根の寺「阿岸本誓寺」

2011年05月29日 | 中部地方の旅
ゴールデンウィークに行った北陸の旅行の続きです。

5月2日、能登地方の「気多大社」に続いて「阿岸本誓寺[あぎしほんせいじ]」に行きました。



「阿岸本誓寺」の山門前の風景です。

門の脇の石碑に「能登阿岸 新巻山本誓寺」とあり、真宗大谷派の寺院です。

向かって左の立て札には石川県や、輪島市に登録された文化財などが案内されています。

冒頭には県指定古文書として阿岸本誓寺古文書471点が記載されており、歴史的に高い価値を持つ数百年前の古文書が伝わってきたようです。

向かって右に道路が広くなった駐車場スペースがあり、静かな集落の中に建つ寺院でした。



能登半島の地図です。

「阿岸本誓寺」は、赤丸の場所で、能登半島の海岸を一周する国道249号から右折し、約1Km進むと右手に見えて来ます。

山沿いの小さな集落の中に大きな茅葺の屋根を見つけ、路地を右に曲がると山門の正面でした。



山門の脇に珍しい「鼓楼」がありました。

かつては時を告げる太鼓の音が響いていたものと思われます。

山門を入ると「鐘楼」もあり、それぞれの役割がどうなっていたのか興味があるところです。

老朽化したためか、二階の板壁に白いボードが立て掛けられ、少し痛々しい感じです。(雪害対策だったのかも知れませんが・・・)



山門の門扉に二つの家紋がありました。

徳川家の「三つ葉葵」、二条家の「二条藤」と言われる下がり藤の紋です。

「二条藤」の紋は、1839年(天保10)関白左大臣の二条家の息女「五百姫」が本誓寺住職家に嫁いでいることによるものと思われます。

「三つ葉葵」の紋は、1610年(慶長15)、「阿岸本誓寺」が鳳至郡(能登半島北西部)の触頭[ふれがしら]寺院となり、徳川幕府や、加賀藩の宗教統治の一翼を担うようになったとされ、そのことによるものでしょうか。



山門を額とした風景画のように茅葺の本堂の堂々とした姿が現れてきました。

5月にもかかわらず左手に満開の桜も見え、すばらしい風景にしばらく立ち止まって見ていました。

五木寛之さんの「百寺巡礼」のDVDで、「阿岸本誓寺」を見て北陸の旅を思いつきましたが、実物の風景には格別な思いがこみ上げてきます。



山門を入ると、左手前方に鐘楼と、枝を広げた満開の桜がありました。

桜の前の石碑には、「石川県指定 アギシコギクザクラ」とあり、毎年4月中旬から5月上旬を開花時期とするのようです。

阿岸本誓寺の「アギシコギクザクラ」は、二条家から花嫁と共に当地に持ち込まれた原木の子孫のようです。

■鐘楼前に桜の案内板がありました。
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石川県指定天然記念物 アギシコギクザクラ
指定年月日 昭和四十三年八月六日
指定理由  天然記念物基準植物の部 第一種
山桜系の一種で一花に八十枚~百四十枚の花弁をつける。つぼみは始め桜赤色を呈するが開くに従い外輪の花冠から淡色となりほとんど白色になる。
   石川県教育委員会
   輪島市教育委員会
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前回掲載の「気多大社」の「気多の白菊桜」が、山桜系で、花びらも多くあり、開花時期も同じであることから、同じルーツの桜だったのかも知れません。



たくさんの花びらがつく「アギシコギクザクラ」の花です。

前回掲載の「気多の白菊桜」の写真と比較しても違いはよく分かりません。



山門を入り、右手に建つ庫裏です。

高い身分の二条家と姻戚関係になった歴史を持つ阿岸住職の住まいは、やはり格調の高い玄関です。

民衆の信仰に支えられて、守り続けられた素朴な茅葺屋根とは対照的ですが、時代をしっかりと生き延びてきたことがうかがえます。



庫裏から本堂への渡り廊下がありました。

建物をつなぐ渡り廊下は、福井の永平寺や、金沢市の大乘寺などでも見られましたが、雪の多い地方では特に必要だったものと思われます。

渡り廊下の向こうに見える建物は書院のようです。



茅葺の本堂が美しく見えると思われるポイントを探して撮った風景です。

全国でも最大級の大きさを誇る茅葺屋根の建物ですが、瓦葺の建物にない素朴なやさしさが感じられます。



本堂の前には苔生した石段が印象的でした。

大勢の人が出入り出来るように石段や、建物の入口はかなりの広さで造られています。

しかし、驚くほど苔生したこの石段は、過疎が進む地方の苦しい実態を映しているようです。

五木寛之さんの「百寺巡礼」のDVDでは大勢の地元の人が集い、住職の説教に耳を傾け、五木さんの飛び入りの講話もありました。

■本堂石段横に案内板がありました。
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 石川県指定有形文化財 建造物
阿岸本誓寺 本堂
  本堂   一棟
  附 棟札 二棟

一、指定年月日 平成四年十月九日
二、指定の理由
   阿岸本誓寺本堂は、文永五年(1268)善了法師の創建と伝えられ、鳳至郡百六ヶ寺の触頭[ふれがしら]をつとめた県下有数の真宗大谷派寺院で有り、大規模建造物にもかかわらず、豪快な茅葺き屋根を保持していることは県内はもとより全国的にも稀有な文化財である。
三、説明
   本堂は、入母屋造り、平入り、総茅葺きで、正面に四本柱の三間向拝を設ける。
   規模は、正面桁行柱間九間(24.12m)梁行柱間十間(23.95m)棟高22.5mの大規模な建物である。
   本堂内部は、畳130帖を敷きつめた外陣、中央後方に須弥壇[しゅみだん]を安置する内陣、外陣の正面及び左右に広縁をめぐらしている。
   棟札には、越後国三嶋郡間瀬村の大工篠原嘉左衛門藤原副重を棟梁として、 安永九年(1780)に起工し、十二年間の歳月をかけ寛政四年(1792)に棟上げしたことが記されている。

平成六年三月三十一日
  石川県教育委員会
  輪島市教育委員会
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本堂に向かって左側の風景です。

小さな建物は「和合堂」と名付けられた納骨堂で、その前にしだれ桜が美しく咲き乱れていました。

さびれを感じる境内の風景ですが、この周囲だけは華やいだ雰囲気に支配されていました。

能登旅行「気多大社」参拝

2011年05月24日 | 中部地方の旅
ゴールデンウィークの4/29~5/3の4泊5日、北陸の旅行に行きました。

今回は、特に印象に残った4日目、能登地方の「気多大社」です。



能登国一宮「気多大社[けたたいしゃ]」の鳥居です。

金沢市内のホテルを出発、約1時間後の8:20頃到着しました。

両脇の鳥居の柱を支える小さな稚児柱がある両部鳥居[りょうぶとりい]ですが、白木のためか清楚な感じです。

両部鳥居と言えば、海に映える宮島の大鳥居が浮かびますが、「気多大社」の名に似た若狭国一宮の「気比神宮」の鮮やかな鳥居も思い出します。

■鳥居の横に案内板があり、説明文を転記します。
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気多大社
当大社の御祭神は、大国主命(またの御名大己貴命)と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。
創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、延喜の制では、名神大社に列しています。
本殿背後約1万坪の社叢(入らずの森)中央の奥宮には素盞嗚命、奇稲田姫が祀られています。
伝統的な特殊神事としては、新年の門出式(1月1日未明)をはじめ、平国祭(3月18~23日)、蛇の目神事(4月3日)、鵜祭(12月16日未明)等が有名です。
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能登半島の地図(Map Fan)です。

能登半島の南西部にある赤丸印の付近が「気多大社」です。

「気多大社」は、七尾市の「能登生国玉比古神社」(気多本宮)から分祀された伝承があり、毎年3月には「気多大社」から「気多本宮」までを6日間で往復する「平国祭」が行われているようです。

かつて羽咋市から七尾市市街地近くまで深く入りこんだ邑智潟があり、それを埋め立てた幅3~4kmの低地(邑知地溝帯)が続いています。

驚くほど波静かな富山湾側の七尾市の地から大和への海路の起点としやすい羽咋市の地へ移ることは不自然な話ではないと思われます。

■気多大社には以下の伝承があるようです。
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同社の縁起によれば、上古、大己貴命が出雲国より因幡の気多崎に至り、そこから能登に渡ってこの地を平定、やがて所口に鎮座し、孝元天皇のときに社殿の造営があった。気多とは気多崎によるもので、それから百有余年を経た崇神天皇の御宇に大己貴命は鹿島路湖水の毒蛇を退治して竹津路に垂述したのが一の宮(気多大社)である。
(「日本の神々 神社と聖地」 谷川健一編より)
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この文献から、出雲大社が思い浮かんできました。

出雲大社は、出雲平野の北に横たわる島根半島の西北端にあり、能登半島の付け根、邑智潟の西北端にある気多大社と類似しているように思われます。

又、「邑智潟」「邑知地溝帯」の珍しい名から島根県出雲市の南西にある「邑智郡」を思い浮かべます。

島根県松江市や、出雲市には越の国にちなむ「古志」の地名があり、日本海で結ばれた古代からの交流の歴史が感じられます。



一段高い場所にシルエットが美しく、苔生した檜皮葺き[ひわだぶき]の屋根の神門が見えて来ました。

1584年(天正12)の建立と伝えられ、国の重要文化財にも指定された由緒ある門のようです。

この門は、両部鳥居と同じ様に左右の門柱の前後に控柱がある四脚門様式とされています。



神門を見上げる参道の左手に数株の水芭蕉が咲いていました。

花屋さんで似た花はよく見かけますが、自然の水芭蕉を見るのは初めてです。

この後、能登半島の先端に近い禄剛崎灯台への遊歩道でも水芭蕉を見かけました。

水芭蕉の日本での自生地の南限が兵庫県の高地とされ、今回の旅行で見たかった花です。

この後の予定で、二千株の水芭蕉が咲く名所「来入寺」(能登有料道路の上棚矢駄IC付近)を訪れるつもりでしたが、これだけで満足して止めにしました。



神門の脇の塀の前に遅い満開の桜があり、その下にも赤いつつじが咲き始めていました。(花の拡大写真を付けています)

ほとんどが散っていた北陸地方の桜ですが、たくさんの花びらがある珍しい桜が満開で、水芭蕉と合わせてちょっと得をした気分になりました。

赤いつつじには「能登キリシマ(ツツジ科)」の前に立て札があり、能登島北東エリアで多く植栽されているようです。

■桜の前の立て札や、境内にあった案内板の説明文を転記します。
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【桜の前の立て札】
 「気多の白菊桜[ケタノシロギクザクラ]<県指定天然記念物>花弁数(花ビラ)が150枚~300枚になる珍しい品種です

【案内板】
石川県指定天然記念物 ケタノシロギクザクラ
1.指定年月日 昭和43年8月6日
2.指定理由  このキクザクラは、ヤマザクラ系ながら菊咲きする珍しい品種である。県内では他に数本が認められる。
3.説明事項
 花はおおむね一段咲きで、その名の示すように白色八重咲きである。花弁は50~160枚、花径は2.3~3.0cmあり、4月下旬から5月上旬に開花する。めしべは筒状のがく筒の底から生えていて、完全なものが多く、2個から6個の実をつける。
 幹の直径は15~25cmほどあるが、原木は数十年前に枯死し、現在のものは株から生じ5幹にわかれている。
 学名は右記のとおり Prunus jamasakura SIEBOLD cv. Haguiensis
4.保存上注意すべき事項
 (1)柵内に立ち入らないこと。(2)みだりに枝葉の伐採をしないこと。
        石川県教育委員会 / 羽咋市教育委員会
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前方の拝殿建物は、神々しさを感じる入母屋造妻入りで、1653~54(承応2~3)年、加賀藩3代目藩主前田利常により再建されたようです。

拝殿後方の「気比大社」本殿は、11代目藩主前田治脩により1787(天明7)年に再興された建物で、庇が前方に伸びた「流造」様式を、後方にも庇を伸ばした珍しい「両流造」様式です。

本殿後方の奥宮への礼拝を意識した様式だったのでしょうか。

本殿の右隣りにある建物は、摂社「白山神社」の本殿(三間社流造)で、気比大社本殿と同じ1787(天明7)年に再建されたようです。

写真では見えませんが、本殿に向かって左隣に1569(永禄12)年に能登守護畠山義綱により建造された最も古い建物、摂社若宮神社の本殿(一間社流造)がありました。

「気比大社」の祭神は、「大己貴命」、左の「若宮神社」の祭神は、「事代主命」、「白山神社」の祭神は、「菊理姫命」です。

神門をくぐって拝殿の美しさに足を止めていると、宮司さんに声を掛けられ、神社の説明を聞かせて頂きました。

印象的だったのは、宮司さんが年末、裏山の「入らずの森」で行う年1回の神事の話でした。

今では奥宮に信者の名を書いたものを奉納するそうですが、かつては新たな年のために神様の新御魂をお迎えする神事だったのかも知れません。



神門前にあった境内の案内図です。

本殿の背後に「気多大社入らずの森」とよばれる約3万平米とされる社叢が見られ、境内の広さと、さほど違いないことに気が付きます。

又、奥宮と云うには余りにも近く、その祭神も本殿の大国主命と異なる素盞嗚命、奇稲田姫とされており、その位置が本殿後方左と考えると、出雲大社本殿後方にある「素鵞社[そがのやしろ]」と類似しているように思われます。

又、出雲国の中心が出雲大社の東にある松江市にあったことと、七尾市の気多大社本宮の位置関係も似ているように思われます。

ところで、「気多大社入らずの森」の裏には、「昭和堤」と名付けられた灌漑用と思われる人口池が見られます。

裏山に広がる神聖な森は、時代と共に開発され、次第に狭くなってきた歴史があったのかも知れません。

昭和天皇が行幸され、社叢をご覧になって詠まれた歌がありました。
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■境内の案内板と、石碑に刻まれているものです。
案内板「昭和58年5月22日気多大社御行幸 昭和天皇御製碑」
石碑「斧入らぬ みやしろの森 めづらかに からたちばなの 生ふるを見たり」
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拝殿から右手奥に進んだ場所の風景です。

右手の鳥居の奥は、案内図では「楊田神社」とありましたが、なぜか社殿は見当たりませんでした。

気多大社の縁起に大己貴命が出雲国から能登に渡ってこの地を平定したとあり、旧来から祀られていた神様だったのでしょうか。

石段の上の建物は、境内案内図によると「神庫」とあり、建物前の立て札に「あぜくら造り 県指定重要文化財 約二百年前」と書かれています。

奈良の正倉院の建物を小さくした様な造りですが、山の湿気が多い環境が気になります。

石段の右手にあるタテ長の白い案内板に「気多大社入らずの森」とあり、石段の上にある「神庫」方向へ案内するようにも見えます。



国土地理院の地形図で、気多大社付近を調べてみました。

海岸近くのなだらかな斜面に水田が広がり、その上の高台には水田に水を供給するための池が驚くほどたくさん見られます。

「昭和池」の奥には「宮の池」と名付けられた池があり、かつては「気多大社入らずの森」が及んでいたエリアだったものと思われます。



境内右手奥にある「太玉神社」で、社殿後方から当たる朝日で、神々しい風景でした。

祭神は、天活玉命[あめのいくたまのみこと]とされ、神話では高皇産霊神[タカミムスビノカミ]に連なる神様のようです。



参道の脇にあった「養老大黒像」です。

小さな社殿に個性的な風貌の大黒様が鎮座されていました。

その後、出雲からこの地に来た大国主命の一族にどんな歴史があったのでしょうか。

様々な想像をかき立てられる神社でした。

上空から見下ろした「富士山」

2008年04月09日 | 中部地方の旅
4月5日(土) 17:55頃、飛行機から見えた富士山の写真を掲載します。



羽田空港を17:30出発の便で広島空港へ向かう飛行機から見た富士山です。
運よく前方左側窓側の座席から撮ることが出来ました。

以前、南から見た富士山は、何度かありましたが、この角度は初めてです。

撮影の直後に飲み物のサービスで来たスチュワーデスさんの話では、羽田を離陸して約15分すると富士山が見えるそうです。
ANAの機内誌に掲載されている航路地図では、富士山の北側をかすめるように東西に航路の線が描かれています。



眼下に後方に離れて行く富士山が見えます。
西方向に航行する機体が、夕陽に照らされています。

地上から見る富士山は、思わず手を合わせて拝みたくなる神聖さを感じますが、真上に近い位置から見下ろした気持はちょっと複雑でした。
富士山を見ることができた嬉しさと同度に、どこか神を冒とくしているのではと言った罪悪感を持ちました。



富士山が見えなくなり、雲の広がる景色の中に斜め前方を並走する飛行機が見えました。
同じ方向に横を並んで飛ぶ飛行機は、初めてです。

少しすると、追いつき、やがて左方向に離れて見えなくなりました。
富士山からやや南に向く知多半島を経由するコースの便だったようです。

古代神話にも出てくる「産屋」について

2007年01月24日 | 中部地方の旅
戦後しばらくまで、全国的に「産小屋(産屋)」でお産をする習慣があり、古代から長く続いていたようです。へえー、そんなことがあったのかと改めて驚き、伝統的な習慣が又一つ消えてしまったことを知りました。
写真は、若狭旅行で見た、小浜市の「若狭歴史民俗資料館」に「産小屋」についての展示です。若狭地方では昭和30年頃まで「産小屋」が利用されていたそうで、今でも敦賀市色浜や、京都府福知山市三和町に建物が残されています。
「産小屋」はお産が不浄のものと考えられ、隔離したと言われていますが、昔のきつい家事労働から開放し、お産から産後までを「産小屋」で過ごすことでその後の生活に必要な体力を回復させるやさしい知恵とも考えられます。
敦賀半島の先端に近い場所に県の指定文化財になっている「色浜の産小屋」がありますが、見つかりませんでした。(標識がほしい)
色浜の沖に明神崎の先に白砂に囲まれた三日月形の水島が見えます。
沖縄のエメラルドグリーンのような海の色と、白砂が素敵でした。

⑧白石神社

2006年12月15日 | 中部地方の旅
写真は白石神社です。
小さく、質素なお宮で、板壁に囲まれた少し風変わりな建物でした。お宮の由緒は分かりませんが、なにやらとても古くからのお宮のようでした。
外観はうらぶれた建物ですが、中には彫刻が施された建物があります。
落ち葉を掃除していた地元のおばあさんに挨拶をしてお参りしました。おばあさんのお話では最近熊が出没するそうで心配しながら掃除をしているそうです。
全国の有名な神社から小さなほこらまで、地元の人の素朴な信仰に支えられて歴史を引き継いできたことを考えると、これからの時代、いつまで引き継がれるのかと思うと寂しい気持ちになります。
下記のサイトにお水送りの映像や、白石神社の映像がありますよ。
http://www.fukui-c.ed.jp/~fec/gakusyu/kyozai/webwakasa/siseki/unose/unose.htm

⑥大木の長寿のわけ

2006年12月15日 | 中部地方の旅
写真は大木の幹の写真です。表面にコケがたくさん生えています。
案内の老人のお話では、木は根から水分を吸収するだけでなく、幹のコケに含まれた水分を吸収して元気に育つのだそうです。
コケは、大木の幹のかなり上まで生えていました。
近くの寺の新しい住職が、庭の木のコケを剥ぎ取り、ついに木が枯れてしまったお話も聞かせて頂きました。

③「お水送り」の伝統を引き継いでいる人

2006年12月13日 | 中部地方の旅
そばの鵜の瀬公園に行くと、ボランティアで案内をされている地元の老人に出会いました。
資料館の案内で「お水送り」のビデオを見ると白装束と、白頭巾の僧侶や、山伏が登場し、本当に神秘的な神事が行われるようです。
「御幣を持ち、前列にいるのが私です」と地元の老人に説明され、千年以上続くその土地の歴史をまの当たりにした気持ちになりました。
写真の前列やや右、足元にたいまつがある左の人形がそれです。
雪解け水で急流となった川べりで行う神事で、たくさんの見物客が危険なので気を使っていることや、大勢の人をお払いされるとのお話をちょっと誇らしく語られていたのが印象に残っています。

②鵜の瀬のお水送り

2006年12月13日 | 中部地方の旅
小浜市根来白石の鵜の瀬の神事が行われる場所です。鳥居をくぐり、階段を下りたらで鵜の瀬と呼ばれる場所です。
東大寺二月堂のお水取りは、当地出身の東大寺実忠和尚により始められたそうです。
その昔、二月堂を建立、国の神さま達を招き修二会を行った時、この地の遠敷明神が漁に夢中になって遅刻、そのお詫びに本尊に供えるお水を毎年送る約束をした故事にちなむ行事だそうです。

①鵜の瀬公園

2006年12月13日 | 中部地方の旅
先月若狭旅行で小浜市の鵜の瀬に行きました。写真はその時頂いた「お水送り」のパンフレットの写真です。
奈良東大寺二月堂のお水取り(修二会)をご存知の方は多いと思いますが、その前に行われる伝統行事が若狭根来の鵜の瀬(うのせ)で行われる「お水送り」はあまり知られていないと思います。この地から送られた水が地下を通り、10日間かかって二月堂の「若狭井」に届くといわれています。