昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「店頭のシーサー達」

2007年03月31日 | 妻の油絵
 
写真上段は、妻の油絵です。

このシーサーは、数年前、那覇市国際通りの店頭で見つけ、描いたものです。
際立って個性的なシーサーで、既に数点の絵のモチーフにしています。

今回の旅行では、このシーサーか、同じ陶芸作家の作品を探して購入を考えていました。

数年前のシーサーの写真を持ち、写真で撮ったお店に行ってたずねてみました。
このシーサーは既に売却され、若い男性が数十万円で購入されたとのことでした。
同じ作家の作品が、姉妹店にあるとのことで行ってみました。

写真下段の中央に大きく口を開けているシーサーが、同じ作家の作品です。
その向かって右に作家のプロフィールが紹介されていました。

スペイン人の方でした。
1955年生まれで、1981年に沖縄で陶芸を学び今日に至っているようです。
窯は、今帰仁村にあると書かれており翌日探してみることにしました。

陳列の作品は、絵のシーサーと同じように個性的でしたが、絵のモチーフとしては少し描きづらい感じだったので購入を断念しました。

国際通りのシーサー見物の目的

2007年03月30日 | 沖縄の旅
 
実は今回の旅行は観光の他、別の目的がありました。

数年前、国際通りの店頭で撮ったシーサーを妻が油絵のモチーフにしました。
とても気に入ったユニークなシーサーで、同様のものが売られていないか探し、陶芸作家の方にもお会いして作品についての話を聞くことだったのです。

数年前、国際通りで撮った数十枚の写真の撮影日時と、観光案内地図でお店の位置などをで調べ、歩いた場所・順路を確認しました。
その結果は、後日掲載させて頂きます。

引き続き、那覇国際通りの店頭のシーサーを紹介します。

写真上段は、お店の入口に飾ってあるシーサーで、長年の陳列で少しキズがあります。
売り物ではないようですが、ちよつと値段を聞いてみたいシーサーです。

写真中段のシーサーは、なかなか迫力があるシーサーで、妻の油絵に登場しています。
名の知れた作家の作品のようです。

写真下段は、お店の入り口に立っていたシーサーです。
家の玄関脇に飾るといいかもしれません。

国際通りでシーサー見物3

2007年03月30日 | 沖縄の旅
写真上段は、売価1,029円のお土産用のシーサーですが、一つ一つ見るとなかなかいいシーサーもあります。

写真中段の中央のシーサーの名は、「福獅子」だそうです。
思わず一緒に笑ってしまいそうなゆかいな顔です。

写真下段の向かって左は漆喰のシーサーでしょうか。
とてもゆかいな感じですが、「これが獅子?」と言いたくなるような獅子離れした顔ですね。

鳳凰木の赤い花が咲いていた

2007年03月29日 | 沖縄の旅
 
国際通りの南側に街路樹のホウオウボク(鳳凰木)があり、赤い花がたくさん咲いていました。
ハイビスカスや、デイゴの赤い花も好きですが、ホウオウボクは大好きな花です。

ホウオウボクを初めて見たのは数年前、那覇市の松山通りで、福州園を見に行った時です。
やさしい緑の葉にオレンジ色っぽい赤色の花が映えて、感激したのを想い出します。
花が咲く時期は、5月から9月頃だそうで、花は、赤い蝶のようにも見えます。

葉は、ネムノキや、オジギソウに似ており、夜になるとオジギソウのように葉をたたんで眠るそうです。
ホウオウボク(鳳凰木)の名は、葉の形が伝説の鳥「鳳凰」の羽根ようなところからつけられたようです。

写真上段にはサヤマメがぶら下がっています。
ホウオウボクは、マメ科の植物で、原産地は、アフリカ大陸の南東に浮かぶ島、マダガスカル島だそうです。

「鳳凰」の想像の姿は一万円札の裏面にありますよ。

国際通りでシーサー見物2

2007年03月29日 | 沖縄の旅
 
続いて那覇市国際通りの店頭で見たシーサーを紹介します。

写真上段は、色・デザインが多様で、個性的なシーサーが並んでいます。
数多くの作家が、様々なデザインで製作し、シーサーの文化が隆盛を極めているようです。

写真中段の向かって右は漆喰のシーサーでしょうか。
ライオンのイメージが強いものの、少し幼稚な顔が特徴です。

向かって左は3色のシーサーで紺色・茶色と白色の組み合わせは落ち着いた印象を持ちます。

写真下段は、少し小振りですが、迫力あるシーサーです。
お尻を上げた、とても力強いポーズで、どうしてこんな造形美が発想できるのかと思うような作品です。

店頭で、作品を一つ一つ見ていくと見飽きませんが、量産品はやはり味気ない感じがしてきます。

上空から眺めた鳥取市

2007年03月28日 | 山陰地方の旅
 
3月26日に広島空港から千歳空港へ向かう上空から撮った鳥取市の写真です。
よく晴れた日で、地上の景色がとてもよく見え、大山に続いて撮影できました。

鳥取市は、千代川(せんだいがわ)の河口に広がる鳥取平野にできた町で、中心部は川の東側にあります。
鳥取といえば鳥取砂丘を思い浮べますが、千代川が運んできた砂が日本海へ流され、海岸に打ち寄せる潮流や、風で造られたといわれています。

河口付近には西に湖山池(こやまいけ)、東に多鯰ヶ池(鳥取砂丘の東南)がありますが、砂丘が出来る過程で海と切り離されて出来た池だそうです。

湖山池の東南には4000年前頃の縄文遺跡(布勢遺跡・桂見遺跡)があります。
遺跡からは丸木舟が完全な形で発掘され、外海用・湖沼用と2タイプがあったと考えられています。

湖山池は、汽水湖(海水と淡水が混じりあった湖)で、福井県の三方五湖の南側にある代表的な縄文遺跡、「鳥浜遺跡」と同様におだやかな池のほとりは古代の人々が暮らしやすい場所だったと思われます。

写真に見える「千代川」「鳥取砂丘」「湖山池」は、日本海の気候を背景に深いつながりで、山陰最大の都市「鳥取市」を育ててきたことが分かります。

国際通りでシーサー見物1

2007年03月28日 | 沖縄の旅
 
9月2日沖縄旅行の1日目の夕方、波上宮に程近いホテルにチェックインした後、那覇の国際通りを散策しました。
妻の絵のモチーフ「シーサー」を見る目的もあり、店頭のシーサーを見て歩きました。

沖縄のシーサーの歴史は、中国から魔よけとして伝わり、最初は王宮や、貴族の門や墓、次に村の入口を守り、最後に民衆の瓦葺屋根や、門柱に飾られるようになったようです。

沖縄の魔よけは、シーサーの他、道の突き当たりにある「石敢當」、門から入った突き当たりにある「ヒンプン」などがたくさんあります。

シーサーは、石造、木彫、焼き物、漆喰、張り子、鋳物、プラスチックなど多彩な材料で作られますが、店頭のシーサーの主役は何といっても「やちむん」(焼き物)です。

色々な種類のシーサーがあり、一つ一つ見るには数が多過ぎます。
我家にも一つ購入していますが、選ぶのにずいぶん迷い、時間がかかりました。

写真は、店頭で撮ったシーサーの一部を適当に並べたものです。

上空から雪の大山

2007年03月27日 | 山陰地方の旅

昨日、久しぶりに北海道へ出張しました。
広島空港から千歳空港の途中、上空から雪の冠をかぶる大山の写真が撮れ、沖縄旅行記の間に挿入しました。

写真上段は、鳥取県の大山を西南から撮ったもので、写真上に海岸線が見えます。
西から見た大山は、「伯耆富士」と称され非常に美しく整った姿に見えますが、この角度では富士には見えません。

写真中段は、南から撮った大山で、写真左上には弓ヶ浜半島と、かすかに島根半島が見えます。
大山は、日本百名山の一つで、標高は1709.4mと中国地方では最高峰です。

写真下段は、南東から撮った大山で、写真右上に弓ヶ浜半島がはっきりと見えています。
山の輪郭は、少し富士の感じです。

大山の麓には古代から生活が営まれ、たくさんの遺跡が発掘されています。
今年は、大山周辺の古代遺跡見物へ行きたいと思っています。

石塀の比嘉集落を散策

2007年03月27日 | 沖縄の旅
写真上段は、石垣の塀が続く比嘉集落の風景です。

昔、浜から石を運び、背の高さを少し超える程の塀を造ったのも大変な作業だったと思います。
自然の石を加工して整った石塀が造られ、石一つ一つが長い年月でそれぞれに味わいが出ています。

写真中段は、「吉本家」を塀の外から撮った風景です。
素朴な石塀の上に赤い瓦に白い漆喰が日の光に映えてきれいでした。

写真下段は、通りの足元を撮ったものです。
小石の砂利だと思っていましたが、よく見ると、サンゴのかけらに、貝殻が混じったものでした。

軽四輪がやっと通る道幅で、質素な家並みが続き、少しの時間でしたが、のんびりと散策できました。

比嘉集落の古民家「吉本家」

2007年03月26日 | 沖縄の旅
 
浜比嘉島には浜、比嘉の二つの集落があり、(集落の名を合わせたら島の名になりますよ)吉本家は、比嘉集落にあります。目印はアマミチューの墓の近くに「ハル商店」があり、その路地を入ると左にあります。

写真上段は、通りから吉本家に入る石垣に囲まれた路地です。
突き当たりに吉本家の案内板の説明を転記します。

吉本家の母屋は、明治末頃、チャーギ(イヌマキ)を使用して建てられた、貫木屋(ヌチギヤ)形式の本瓦葺き平屋です。
屋敷構えは、琉球石灰岩を用いたあいかた積みの石垣で囲い、門を入ると正面に石造りのヒンプンが築かれています。
主屋は敷地のほぼ中央に配しも北西側にはフール(豚小屋を兼ねた便所)、南側には自然の岩を利用した石庭があります。主屋の裏側には、アタイ(屋敷内にある野菜畑)があり、台所や裏座を増築していますが、全体的によく保存され、沖縄の地方に残る、伝統的な建築様式を色濃く残しています。

写真二段目は、敷地に入り建物の右側を撮ったものです。
小高い岩を利用したちょっと風流な庭が造られています。

庭に立て札があり、「来家記念 ハワードHベーカー駐日米国大使 2003年3月1日」と書かれ、記念植樹がありました。ちょっと驚きです。

写真三段目は、建物の左側を撮ったものです。
左にあるのはヒンプンで、建物の正面に目隠しと悪霊防ぎのために作られたものです。
沖縄独特の赤瓦の屋根がきれいで、後ろの岩山は、3月27日掲載の下段の写真の岩山の裏側になります。

写真四段目は、案内板にあった建物の図です。

「シルミチュー霊場」へ参拝

2007年03月25日 | 沖縄の旅
 
写真上段は、シルミチュー霊場の入口で、鳥居から長い石段が続いていました。
雨上がりの日で、少し湿気が多く由緒ある本土の神社で感じるすがすがしさはありませんでしたが、少し厳粛さを感じる場所です。

鳥居の横に案内板があり、転記しました。

<シルミチュー>
宇比嘉の南々東端の森の中に大きな洞穴がある。地元では琉球開びゃく祖神、アマミチュー、シルミチューの居住したところと伝えられている。
毎年、年頭拝みには比嘉のノロ(祝女)が中心となって海浜から小石一個を拾って来て、洞穴内に安置された壷に入れて拝んでいる。また洞穴内には鍾乳石の陰石があり、子宝の授かる霊石として崇拝され、信仰圏の広い貴重な霊場である。

写真中段は、石段を上がって見えたシルミチューの洞穴です。
洞穴をオリのように鉄柵で囲ってありました。

年配の女性2人が柵の入口から入り、少し経つと突然「ブォー!」と場違いな大きな音がしてきました。
何だろうとのぞいて見ると、線香にガスバーナーで火を付けている音だと分かりました。
アマミチューの墓の横に置いてあったガスバーナーの謎が解けました。

そこで見た沖縄の線香のあげ方はまるで変わっていました。
大胆にも線香の束にまるごと火をつけているようでした。(我家では2本で、完全に負けています)

よく見ると細長い板状のものに数本の縦筋が刻まれて、それを何枚か重ねてあり、普通の線香の束に見えたようです。
こんな束に火をつけるのならバーナーもいるだろうと納得しました。
それにしてもよく煙がでていました。

写真下段は、柵の中にある祭壇のようなところです。
暗くてちょっとこわい感じです。

平安座島の悲願の物語

2007年03月24日 | 沖縄の旅
 
平安座島について少し調べてみました。

写真上は、浜比嘉島のアマミチューの墓(下段の写真の下にあります)から見えた平安座島です。
沖に見える島の左右が少し高くなって二つの山の頂上になっています。

左に見える山の頂上付近にイリーグスク(平安座西城)、右に見える山の頂上付近にアガリグスク(平安座東城)があり、御嶽として島の集落の信仰場となっているようです。
イリーグスクは、標高115.6mで平安座島の一番高い山だそうで、旧暦3月3日から5日にはサングヮチャー(竜宮祭)が行われるようです。

写真下段は、海中道路・平安座島・宮城島・伊計島付近の地図で、黄色い地域は平安座島の石油基地建設で埋め立てられたものです。
(埋立の黄色いエリアは正確ではありません)

かって平安座島と与勝半島の屋慶名までの間は、約4Kmの浅瀬の海で、干潮になれば干潟が出来、歩いて渡ることができたようです(徒歩で約1時間)。
海中道路の名の由来はどうも整備される前の干潟の道ではなかったかと推測しています。

干潮は、昼夜で2回ありますが、歩いて渡るのはなかなか不便で苦労があったようです。
渡る途中で潮が満ちてきたり、干潟の深みにはまったりして溺れ死ぬ人も絶えなかったそうです。

戦後まもない1947年の平安座島にエンジン付きの渡船が運行を始め、干潮時は波の高い浜比嘉島の東岸が航路だったようです。
しかし、1953年8月29日高波で渡船が転覆して7名の犠牲者が出る悲しい事故がおきて、海中道路建設の悲願が島の人々に高まったようです。

平安座島の人々は、海中道路建設に向けて1958年から1世帯毎月50セントを積み立て、1960年からお年寄りや、女性を中心に自分たちで石を運び埋立を始め、1961年には3分の1まで基礎工事がすすんだようです。

しかし、その年9月、翌年10月の台風の高波で壊滅的な被害を受けて悲願の工事は挫折してしまったようです。

1971年6月巨大な石油基地進出の見返に海中道路は完成、平安座島の人々の悲願は達成されました。
しかし、信仰の中心であった二つのグスクがある場所、北東部の海など大切なものが石油基地に呑み込まれてしまいました。(石油基地内のイリーグスクには自由に行けるようです)

「アマンチューの墓」の方角にちなむ史跡にはめぐり合えませんでしたが、何も知らず、観光道路と思って走っていた海中道路に悲願の物語があったことを知りました。

アマンジ周辺の景色

2007年03月23日 | 沖縄の旅
 
アマミチューの墓がある小島「アマンジ」の風景をご覧下さい。

写真上段は、道路から「アマンジ」に渡り、突き当りから右を撮った景色です。
足元に舟のロープをつなぐものと思われる金具があります。
この島の祭礼にたくさんの人が舟で来るのでしょうか。

周囲の大きな岩に自然に開いた穴があります。
昔の人は、このような景観に神秘を感じて、神を祀る島としたのでしょうか。

写真中段は、小島「アマンジ」を少し東から撮ったものです。
岩で出来た小島の感じがよくわかる角度の写真です。

曇りの日の海の色はいまひとつですが、やっぱり沖縄独特の海の色ですね。

写真下段は、小島「アマンジ」の前の道沿いにある岩山です。
このあたりの昔の風景は、岩場の海岸が続いていたのでしょうか。

妻の油絵「菅原神社の桜」

2007年03月22日 | 妻の油絵

昨年の春、妻が描いた油絵です。
桜も見頃を過ぎた日曜日の夕方、急に思い立ち菅原神社に桜見物に行くことにしました。

めがね橋に夕陽が射し込み、水面の花びらがとても輝いて見えました。
水面に映る美しい景色はよくありますが、水面に自然の貼り絵を見るような景色でした。

満開の桜の美しさは云うまでもありませんが、見頃を過ぎた桜にもまた別の美しさがあります。
水面に浮かぶ花びらと合わせてお楽しみ下さい。

「アマミチューの墓」から平安座島が見えた

2007年03月21日 | 沖縄の旅
 
写真上段は、海岸の道から「アマミチューの墓」に上る石段で、上に墓が見えます。

岩に出来た洞窟を墓にして、石壁でふさいでいるようです。
階段の上がり口の横に案内板があり、その説明文を転記します。

-「アマミチューの墓」-
 字比嘉の東方海岸にアマンジと呼ばれる岩屋の小島があり、そこに洞穴を囲い込んだ墓がある。地元では琉球開びゃく伝説で有名なアマミチュー、シルミチューの男女二神及び他の神が祠られていると伝えられている。毎年、年頭拝みには字比嘉のノロ(祝女)が中心となって島の人々多数が参加して、豊穣・無病息災・子孫繁昌を祈願している。
 また、古くから各地からの参拝者が絶えない、信仰圏の広い貴重な霊場である。

写真中段は、墓を背にした景色です。

海にキノコの形をした岩があり、その向うに先程渡って来た「浜比嘉島大橋」が長く横たわっています。
海に立つ岩もいつか足元を波で削られ、倒れてしまう日が来るのでしょうか。

写真下段は、墓の正面から撮ったものです。
お墓にはプラスチックのコップにお茶と、お水(お酒かも)や、造花がお供えされていました。

写真には写っていませんが、墓の横に高さ20cm余りの円筒形のガスバーナー2本が置かれていました。
「いったいなぜこんなものが?」と、謎でした。(次のシルミチュー霊場で謎が解けました)

墓は、平安座(へんざ)島に向いているようにも思え、なぜこの場所にこの方角で作られたのか考えさせられます。
古代日本では、山の中腹に人を埋葬した洞窟の入口が、神山の方角に向いている例もあるようです。

「平安座島」又はそのはるかかなたに「アミマチュー」が想いを持つ何かがあったのか、とても興味深いところです。