昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.45 江差の風景と、繁栄の歴史

2012年01月28日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、上ノ国を出発して江差町へ着いたのは16時半頃でした。

この後、明るい内に函館まで戻り、2010年に完成した五稜郭跡の「箱館奉行所」を見る予定で、時間がなく、ちょっと立ち寄った江差の風景です。



上ノ国から日本海海岸を北上、左手に鴎[かもめ]島が突き出た江差の町が見えてきます。

左手の海岸に見える三本マストの船は、青少年研修施設「開陽丸」です。

江戸時代、江差は、鰊[にしん]漁で大いに繁栄し、「江差の五月は江戸にもない」とまで言われ、蝦夷地では最も賑わう港でした。

蝦夷地の日本海沿岸の産物は、江差を経由して南に運ばれ、琉球などにも流通していたようです。



江差の町の地図です。

左下は、周辺の地図で、5Km南に上の国があります。

鴎島の東側の湾に江差港があり、港を中心に町がつくられています。



鴎島へ続く砂浜に青少年研修施設「開陽丸」がありました。

この施設は、箱館戦争の最中に江差沖で座礁・沈没した江戸幕府の艦船「開陽丸」を模した鉄筋コンクリート造りの建造物です。

実物大(長さ約73m、幅約13m)で再現され、海底から引き揚げられた「開陽丸」の遺物が展示されているようです。

「開陽丸」は、幕府がオランダへ発注して建造された戦艦で、箱館戦争では旧幕府軍の旗艦となる重要な戦艦でした。

榎本武揚率いる旧幕府軍を江差制圧のため上陸させた後、「開陽丸」は、暴風雨によりこの沖で座礁、さらに箱館から救出に来た戦艦「神速丸」も座礁したため、旧幕府軍の海軍力は致命的な打撃を受けてしまいました。



青少年研修施設「開陽丸」を過ぎると案内板「かもめ島歩きMAP」がありました。

島の左右には松前藩時代に沿岸警備で築いた砲台跡があり、直進すると「鴎島灯台」や、「江差追分節記念碑」などもあるようです。

時間があれば北前船で賑わった江戸時代の江差港を想い浮べながらゆっくりと散策したいものです。


上段のMAP「現在地」から見た「弁天島」と、江差港の風景です。

島の断崖の下に右手の防波堤に続く散策道があり、途中に大きな「瓶子岩」があります。

江戸時代、松前藩は、交易船からの税を徴収するため、蝦夷三湊(松前、江差、函館)のいずれかへ立ち寄るよう義務付けていました。

その中でも江差港は、中核となる港でしたが、幕末の1854年(嘉永7)、日米和親条約で箱館が国際貿易港となり、中核の座を譲ったようです。

しかし、明治から昭和まで鰊の豊漁が続き、港町の繁栄はまだまだ続きます。



江差港に浮かぶ巨大な「瓶子岩」[へいしいわ]です。

太い注連縄が掛けられ、「瓶子岩」は、海の安全や、大漁を願う漁師の守り神でした。

「瓶子」とは神社や神棚に酒をお供えする瓶で、この「瓶子岩」は逆さに置かれた形のようです。

昔、鰊の不漁が続いた時、「瓶子」に入った神水を神様から頂き、海に注いだところ鰊が戻ってきたと言う伝説があり、その瓶がこの岩になったとされています。



国道227号の脇に廻船問屋「横山家」の長い建物が見えてきました。

「横山家」の家屋は、国道と並行するかつての表通りだった右手奥の道沿いにあります。

江戸時代、江差には廻船問屋が13軒あり、その一部は松前藩から税の徴収を任されていたようです。



国道に面した「横山家」の倉庫です。

かつてこの建物は、海岸沿いに建っていたとされ、国道227号までは海だったようです。

船から陸揚げされた海産物は、すぐに海岸の倉庫に運び込まれるよう配慮されています。

横山家の出身は、現在の石川県珠洲市三崎町(能登半島の先端付近)の出身であることから、海運により財をなしたものと思われます。

左の長い建物の下部には柱があり、海に突き出た建物部分を支えているようです。

又、建物のやや左部分には出入り口のようなものがあり、倉庫の搬入出に使われていたものかも知れません。



横山家の近くにあった「姥神大神宮[うばがみだいじんぐう]」です。

「姥神大神宮」は、江差の産土神とされ、江差港に浮かぶ「瓶子岩」と同様に鰊漁の守護神としても崇められているようです。

1447年の創建とされる「姥神大神宮」は、函館にある北海道最古の船魂神社(1135年創建)には及ばないもののこの地に古くから和人系(渡党エゾ)の人々が住んでいたことを教えてくれます。

アイヌ以前の歴史は別格として、北海道は、広大な自然の風景と、明治以降の歴史を味わう土地と思っていましたが、渡島半島南部には中世からの和人系の歴史が想像以上に残っていることを学ぶことが出来ました。


北海道旅行No.44 鰊番屋の原型「旧笹浪家住宅」

2012年01月21日 | 北海道の旅

北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道最古の建物、「上ノ国八幡宮」の次は、隣の北海道最古の民家建築「旧笹浪家住宅」の見学です。

「勝山館跡ガイダンス施設」で、「旧笹浪家住宅」との共通観覧券を購入して入館しました。



国道沿いに建つ「旧笹浪家住宅」です。

「旧笹浪家住宅」は、江戸時代末期の建物とされ、この地で鰊漁を営む旧家の住宅でした。

ガラス戸の玄関を入ると、奥まで土間が続き、向かって左が笹浪家、右手は使用人の居住スペースで、外観の装飾も左右で明確な差がつけられていました。

屋根にはおびただしい数の石の並び、茶色の樹皮の壁は、杉の皮(松前杉?)でしょうか。

杉の皮(?)で覆われた外壁は、内側の板壁を保護し、厳寒の冬に断熱効果を高めるための工夫だったのでしょうか。

■「旧笹浪家住宅」で頂いたハンフレットの説明文です。
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 旧笹浪家住宅(主屋)は、天保九年(1838)に没した仝能登屋笹浪家の五代目久右衛門が建てたと伝えられています。安政四年(1857)に家の土台替え、翌五年に屋根の茸替えを行ったことを記した「家督普請扣」が残っており、十九世紀前半の建築であると認められます。
 イロリの自在鈎[じざいかぎ]に吊された鉄瓶から湯気がのぼり、カマドから真っ黒に煤けた梁組まで立ち上る煙が、遥か遠い時代の記憶を呼び覚まし、どこか懐かしいものに出逢ったような気分にさせてくれる北海道最古の民家建築です。

 昭和三十年代まで主屋の表通りに建ち並ぶ民家の大部分が石置屋根でした。主屋の屋根は置き石のヒバ柾葺です。
 松前藩政時代、無断で檎材を家作に用いた者は処罰されたそうです。
 主屋の柱や梁は雑木で建てられたと伝えられてきましたが、部材の大部分がヒバと判明しています。
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前回も掲載しましたが、上ノ国町の史跡の地図です。

「旧笹浪家住宅」は、地図中央の海岸に近い青色の家のマークの場所です。

西隣に「上ノ国八幡宮」、その隣にも「上國寺」があり、いずれも「北海道最古」と形容される建物が並ぶ歴史的なスポットです。



近くの海岸にあった笹浪家の漁場の風景画で、当時としては珍しい銅版画です。

江戸時代末期、近くの浜に造られた番屋で、ニシン漁の大型化に伴い、家屋と加工施設などが分離した歴史過程を感じます。

展示パネルのそばに銅版画を元に製作された漁場の模型も展示され、鰊漁で賑わう浜の様子が伝わってくるようです。

絵の上部に「渡島国桧山郡上ノ国村廿五番地」とあり、明治政府は渡島半島を平安時代から続く地方の国名にならい「渡島国」としています。

北海道には渡島国」の他に「後志国・胆振国・石狩国・天塩国・北見国・日高国・十勝国・釧路国・根室国・千島国」と全部で11カ国新設されました。

ちなみに「北海道」の名称は、古代からの広域地区名称「畿内・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道」に連なる名称で、幕末の探検家「松浦武四郎」の銘名と言われています。

■添えられた説明文です。
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銅版画(笹浪家漁場 明治20年頃)
のとや笹浪家漁場
重要文化財旧笹浪家住宅(主屋)西方の浜磯に能登屋笹浪家の漁場があった。能登屋笹浪家文書の中に明治20年頃の漁場の風景を刻んだ銅版画が残されている。漁場中央の番屋(漁舎)は、幕末期の上ノ国村名主として高名な久末善右衛門(のちに積丹美国に移住)の旧宅を移築したものと伝わる。
番屋二階の一室で向かい合うのは親方夫妻だろうか、玄関口の二組の男たちは〆粕や身欠きの出来具合でも話しているかのようだ。漁舟が並ぶ浜には大タモを担ぐ男や、早櫂を手に談笑する男たち、番屋横の干場ではニシン粕をエビリで叩き拡げ、筵に干す若い者の姿も見える。

漁場には番屋、船倉、網倉などと考えられる建物が並び、ニシン粕焚き用の薪が大量に山積みされ、の浜側に築設された「やらい」の中には釜場が据えられている。玉砂利の前浜には沖揚げを終えた保津船や磯船が引き揚げられ、澗印が所在なげだ。

モッコ背負いの女性が二人、モッコの中味は数の子や白子、笹目(えら)であろうか。廊下(船倉)から溢れ出たニシン相手にニシン潰しや尻つなぎに精を出す男女の喧噪が聞こえてきそうだ。
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建物正面の特徴のある部分の写真を集めてみました。

右上の家印は、案内の女性から「ほしやまに」と教えられ、星の付く名にオシャレな印象を受けました。

左上は玄関上の欄間で、手の込んだ組子細工のようです。

下の写真は、玄関脇の建物の下部で、基礎の石の上に表面が平らな「笏谷石」が使われていると教えて頂きました。

遠く福井から運ばれた笏谷石は、前回掲載の「上ノ国八幡宮」の狛犬にも使われており、濡れると青緑色になる美しい石材です。



頂いた「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった間取り図です。

一般住宅と比較すると大きな家ですが、小樽市の明治に建てられた豪華な鰊御殿などと比較すると規模が小さく、比較的質素な江戸時代の邸宅といったところでしょうか。

案内の女性から、日本海海岸を北上するに従い、鰊御殿の様式も次第に変化していくと教えて頂きました。

漁業の規模も次第に大規模になり、漁場を求めて次第に北上して行ったのでしょうか。

■パンフレットの説明文です。
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母屋の北半は明治、南半が江戸!!
 正面玄関を入って通り庭に立つと、左側にミセ、その東隣にザシキと呼ばれる接客空間があります。調査の結果、明治二十六年頃の道路拡張に伴い前面半間が切り縮められ、ザシキ・ミセともに改造されたことが分かりました。ミセの北側には蔀(しとみ)とつたわる戸が落とし込まれ、ザシキの出窓のガラスには気泡が入って歪んでいるのが分かります。
 ミセの奥の板敷きの部屋はイタマと呼ばれ、イロリが切られています。イタマは天井を張らず梁組(はりぐみ)を見せています。南側背面の高窓からの採光を考え、軒先を高くし、段違いに入る大きな梁を途中で止めたのでしょう。イタマの東隣にヘヤ二室が作られ、寝室として利用されたといい、二階は小屋裏部屋です。
 町屋建築の特長といわれる通り庭を通って大戸をくぐると、井戸とカマドを配した土間が眼に入ります。通り庭の西側には板敷きのシテンドコがあります。
 イタマとシテンドコの床高を比べると、イタマの床の方が約6cmほど高いのが分かります。イタマ側が家族の居室部、シテンドコ側は使用人が住む空間上下の格付けを床高で表現しているかのようです。
 シテンドコ北室の上には小屋裏部屋が作られ、若い衆(漁夫)たちが寝泊まりしていたと伝えられています。北海道の日本海沿岸にいまも残るニシン番屋建築の原型とも言われています。
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間取り図に「イタマ」とある部屋から「ミセ」「ザシキ」方向を見た風景です。

奥の「ザシキ」の「トコ」には家系図の掛け軸があり、その右には赤い布に包まれた「円空仏」が安置されています。



古びた掛軸に笹浪家初代久右衛門から12代目までの家系図がありました。

「旧笹浪家住宅」が1990年(平成2)に町に寄贈されたのは、11代目夫人とされます。

掛軸の前に置かれた刀掛けは、江戸時代の名主で、帯刀が許されていた頃のものでしょうか。

案内の女性のお話では、笹浪家初代の出身地、能登半島の笹浪の地名は、半島西(羽咋郡端志賀町)と、東の二ヶ所あり、東の珠洲市と考えられているそうです。

■パンフレットの説明文です。
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能登国笹浪家の系譜
 初代久右衛門は能登国笹浪村の出身で、享保年中に松前福山に渡り、のちに上ノ国に転住。爾来笹浪家の当主は代々久右衛門を襲名、家印は仝(ほしやまに)、屋号は能登屋と称しました。
 五代目久右衛門は越後椎谷村の室谷忠右衛門の次男で、文政年中に四代目の女婿となり、「頗[すこぷ]る丹精を抽[ぬき]んで財産を分かつこと数軒」と言われました。
 八代目久右衛門は家業の刺網漁に加え、荒物・小間物を販売するほか、海産業も営み、文久年間には村名主も勤め、家産は次第に豊かになり、慶応二年初めて建網漁を営みました。当時の松前藩主に金員[きんいん]を献じて名字帯刀、式日登城御目見得も免され、明治初期には「全道中の漁家の旧家」と許されました。
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奥尻島へ渡る海峡で拾われたとされる円空仏が安置されていました。

明治初期の神仏分離令によって各地で仏教施設の破壊活動が発生、この仏像も海に捨てられたようです。

■横にあった説明文です。
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円空仏(上ノ国町指定有形丈化財)
 円空は美濃の国(岐阜県)の人で生涯十二万体の造像を発願して諸国を巡った。北海道には寛文六年(一六六六)三十六歳の時に渡り、日本海、噴火湾沿岸各地で仏像を刻み四十数体が現存する。
 本像は全体の造形バランスが大変良く、彫りは細部に至るまで端正で整っており、顔立ちが非常に良く、保存状態もほぼ完全であり、北海道に現存する初期の円空仏の中で優品である。
 町内にはこのほかに五体の円空仏があり、北海道及び上ノ国町指定の丈化財に指定されている。
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円空仏受難
明治政府は江戸時代の仏教中心政策をやめて、神道中心政策に変え、神社から仏教的なものを排除しようとしました。神と仏を分ける神仏分離がエスカレートし、それまで神社にあった仏像などを捨てることにつながりました(廃仏毀釈)
上ノ国町内の円空仏はそれぞれに村人たちの機転で難を逃れ今日まで篤く信仰されてきました。
ここにある円空仏は明治時代の初め頃、久遠(現大成町-せたな町)と奥尻島の間の海中で拾われたものと言われています。受難の歴史を語り伝えているようです。
(字石崎西村初男・ミエ氏旧蔵)
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「上ノ国八幡宮」の参道横に並ぶ旧笹浪家の蔵へ案内されました。

中に入ると、江戸時代後期の旅行家「菅江真澄」のDVDの放映や、焼き菓子の道具、郷土菓子「かたこもち」の木製型数点が展示されていました。

かつて笹浪家では菓子を作っていたそうですが、自家用だったのでしょうか。



「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった蔵の写真です。

1885(明治18)年の建物とされ、1875年(明治8)に「上ノ国八幡宮」が「上之国 勝山館跡」から移設され、10年後の1885(明治18)年に建てられたようです。

上の写真が「米・文庫蔵」、下が「サヤが覆う屋根のない土蔵」で、概要は下記の説明文をご覧下さい。

説明文を見ると、珍しい建物のようでしたが、認識なく見過ごしていました。

■「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった説明文です。
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栄華をしのばせる土蔵建築群
 能登屋笹浪家の繁栄は、「宮の沢の川の水が干ることがあっても能登屋のかまどは干ることがあるまい。七つの倉にないものは馬の角ばかり。」と伝えられていますが、土蔵も往時の栄華を物語る貴重な文化財建造物です。
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嘉永元年築造米・文庫蔵
 平成四年に行った解体調査の結果、二重に仕切られた北室が文庫蔵、南室が米蔵と呼ばれ、北室の裏白戸に刻まれたヘラ書跡により建造年代が嘉永元年九月六日(1848)と判明、主屋に続いて建てられた一連の建造物群の一棟として重要なものです。
 この土蔵の屋根の下地にも樺が使われていますが、その上を漆喰塗で仕上げ、その上に登梁(のぼりばり)を載せて小屋を組み、桟瓦(さんかわら)を葺いた置屋根方式です。
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サヤが覆う屋根のない土蔵
 上ノ国人幡宮の参道をはさんで石垣の上に建つ、サヤで覆われた漆喰壁(しっくいかべ)の附属土蔵(重要文化財指定)は扉内側の漆喰壁のヘラ書きから、明治十八年に新築落成したことを知ることができます。
 土蔵は屋根を葺かず、表面を漆喰塗で仕上げているだけです。サヤと呼ばれる覆屋の中にありますので、雨漏りの心配はありません。
屋根の下地や土台の周りには白樺等の樹皮が使われていました。
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息づく樹皮の伝統文化
解体調査で発見された土蔵の樺葺下地。樺皮は油分が多く含まれているため、防水・防腐効果があると言われています。
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旧笹浪家の土蔵で見せて頂いたDVD「菅江真澄と上ノ国」の画面にあった「菅江真澄」の肖像画です。

柳田國男が「遊歴文人」と称した「菅江真澄」は、1789年(天明9)、蝦夷地の最西端に近い「大田権現(せつか町の神社)」参拝へ旅立ち、その様子を日記「蝦夷喧辞辯[えみしのさえき]」に残しています。

上ノ国には旅の往復で立ち寄り、上国寺へ滞在、夷王山にも登っている縁からこのDVDが製作されたようです。

三河の人「菅江真澄」が蝦夷地の霊場「大田権現」へ旅立ったとする話は、とても興味深いものでした。

その旅の年は、道東アイヌの蜂起事件「クナシリ・メナシの戦い」が発生した年でもありました。

「菅江真澄」は、帰路に上ノ国の天の川付近にさしかかり、早馬の役人が100人のシャモ(和人)が殺されたことを告げ廻っているのを目撃、事件を知ったことを記しています。

■DVD「菅江真澄と上ノ国」の案内画面より
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菅江真澄翁自画像
いまから200年も前、真澄は蝦夷地の領主・松前氏の祖が築いた勝山の旧跡をたずね、夷王山(医王山)の頂に立っています。真澄にならい仰ぎ見る勝山館跡と、背後にそびえる夷王山(標高159メートル)までの散策を試してみてはいかがでしょうか。
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蔵に「菅江真澄」が歩いた旅のルート地図が展示されていました。

霊場「大田権現」は、地図左上にあり、日本海側の赤いルートが旅日記「蝦夷喧辞辯[えみしのさえき]」に記されています。

東北地方から蝦夷までの旅の記録が多く残されているようで、とても興味深い人物になりました。

上ノ国では「上国寺」や、「洲崎館跡」などへ立ち寄ることが出来ず、心残りでしたが、史跡の案内では地元の方々の熱意を感じました。


参考文献:「人物叢書 菅江真澄」 菊池勇夫著 吉川弘文館発行

北海道旅行No.43 北海道最古の建物「上ノ国八幡宮」

2012年01月15日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道檜山郡上ノ国町を見下ろす「夷王山」中腹にある「上之国 勝山館跡」の見学を終え、麓の「上ノ国八幡宮」を参拝しました。

上ノ国町は、北海道の南端「白神岬」から日本海海岸を北へ約60Kmの場所にあり、北海道では松前・函館と並び、中世からの和人の史跡が見られる町です。



海岸近くの駐車場を背にして見た「上ノ国八幡宮」と、「旧笹浪家住宅」(左)です。

「上ノ国八幡宮」は、前回の「上之国 勝山館跡」にあった「館神八幡宮跡」を1875年(明治8)に移したとされます。

数年前の調査で、移設された本殿建物は、1699年(元禄12年)に再建されたことが分かり、北海道最古の建造物とされてます。

参道左手の「旧笹浪家住宅」の建物は、参道の右手にも蔵2棟が並んでおり、明治に「上ノ国八幡宮」がここへ移設されるまでは一体の土地だったのかも知れません。



「勝山館跡」のパンフレットに掲載されていた上ノ国町の史跡の地図です。

「上ノ国八幡宮」は、地図中央の海岸に近い辺りに赤い鳥居の場所です。

西隣に北海道最古の寺院「上國寺」(1758年)、東隣に北海道最古の民家「旧笹浪家住宅」があり、いずれも北海道最古級建物で極めて貴重な地区です。

北海道渡島半島の地図が左上にあり、赤い印が上ノ国町の場所です。



二つ目の鳥居の先に「上ノ国八幡宮」の社殿が見えてきました。

鳥居を過ぎると、石灯籠、次に狛犬が両側に見え、鳥居の左には手水舎があります。

北海道で見る鳥居の多くは、柱や、鳥木(横木上段)・貫(横木下)がすべて丸太状ですが、これは西日本でもよく見る明神系のスタイルです。

中世から交易で栄えた土地柄だけに神社のスタイルも本州並みのようです。


「上ノ国八幡宮」の社殿です。

拝殿後方に建物が見えますが、小規模な本殿建物(高さ3m、幅2.1m、奥行き2.3m)を収容した覆屋[おおいや]だそうで、残念ながら現存する北海道最古の建造物にはお目にかかりませんでした。

最近の改修工事で建物がきれいになった反面、古びた趣がなくなっているそうです。



鳥居をくぐると左右に背の高い石灯籠がありました。

隣の「旧笹浪家住宅」で、見学の案内をして頂いた女性のお話では、灯篭の下部を鶴(右)と、亀(左)が支え、上に鳥が載っているとのことで、非常に珍しい灯篭でした。



石灯篭の上に載る鳥です。

参道を通る人に頭を下げているようにも見え、狛犬と共に神社を護っているようです。

鷹か鷲かよくわからないとのことでしたが、礼儀正しい鳥の姿はほほえましいものです。



石灯篭の胴の部分です。

「旧笹浪家住宅」の見学案内の女性から龍が彫ってあると教えられ、撮った写真です。

下の動物は鶴とされ、押しつぶされたような姿には哀れさを感じます。



拝殿前の狛犬です。

風格のある狛犬ですが、台座にはかすかに「明治三十一年」とも読める文字が見られました。

「旧笹浪家住宅」の案内の女性のお話では本州で彫ったもので、狛犬の愛好家がよく訪ねて来られるとのことです。



神社拝殿の屋根には「千木」や、「鰹木」はないものの、豪華な彫刻で飾られていました。

拝殿建物は、1876(明治9)年に江差(上ノ国町から北へ約5Km)の「正覚院」(曹洞宗)から移設されたとされ、これらの彫刻も寺院建築のものだったのでしょうか。

1473年、松前氏の祖「武田信広」によって勝山館で創建された神社が、500年以上の歳月を地元の人々に大切に守り継がれていることを知りました。

油絵「水仙」

2012年01月14日 | 妻の油絵

妻の油絵「水仙」です。

今年、初めての作品になります。

厳寒の冬に凛と咲く水仙の美しさを表現したかったそうです。

重厚な備前焼の花瓶が全体を引き締め、ちょっと神秘的な青色の「くわい」も冬の演出に一役かっているようです。



北海道旅行No.42 中世の山城「上之国 勝山館跡」[2]

2012年01月08日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道の南端に近い松前町から北へ55Km、上ノ国町「勝山館跡」の見学の続きです。

前回掲載の「勝山館跡ガイダンス施設」で予備知識を得て、いよいよ史跡の見学です。



「勝山館跡ガイダンス施設」の大きな窓ガラス越しに見えた「夷王山」です。

時間がなく、山頂には上りませんでしたが、ガイダンス施設で見た映像では、山頂からの眺めはすばらしいものでした。

頂上の少し右に小さく鳥居が見え、茂みの中に武田信広を祀る「夷王山神社」の社殿があるようです。

幕末の松前藩士の著書「松前家記」によると「城西後ろの山に葬り、その山を夷王山と名付けた」とあります。

しかし、室町時代の1494年に没したとされる武田信広以降、四代目までの墓の場所は不明とされ、以外にも伝承は途切れていました。

地方豪族でも五輪石塔の墓を作る時代、石塔が無いのは身分の問題だったのでしょうか。



「ガイダンス施設」を出て、「勝山館跡」へ向かう道を行くとすぐ「夷王山墳墓群」の案内図がありました。

右上に赤い字で「館神八幡宮跡」とあるのが「勝山館跡」で、「夷王山墳墓群」は、第Ⅰ地区から第Ⅵ地区まで、破線で囲まれた六ヶ所のエリアに分かれています。

「勝山館」にちなむ多くの人々の墓は、「夷王山」に見守られる中腹の斜面につくられていました。

「ガイダンス施設」は、第Ⅱ地区に建てられており、「館神八幡宮跡」までの道の中間地点に「アイヌ墓」があます。

■案内板の説明文です。
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夷王山墳墓群
 勝山館跡の背後から天王山の麓のあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2×1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。
 火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積んで墓を作っています。宋銭や明銭、漆塗りの椀や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には覗[すずり]、玉なども副[そ]えられていました。
 いずれも仏教様式の墓と思われますが、シロシのついた漆器を副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。
 これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらには勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。
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上段の案内図があった場所から北東の斜面に広がる中世からの墳墓群(第Ⅱ地区)の風景です。

墳墓の盛り土の上に墓を識別する標識が立てられているようです。

説明文にあった六ヶ所に分かれた墓地が、時代で分かれていたのか、身分などで分かれていたのか、気になるところです。



ガイダンス施設から「勝山館」に向かう道の途中に案内板「夷王山墳墓群のアイヌ墓」に墓の説明図がありました。

左右の墓は、埋葬形式や、副葬品からアイヌの墓とされ、当時の「勝山館」をとりまく社会の様子を探る重要な遺跡としても注目されているようです。

■ガイダンス施設内の展示パネルにあったアイヌ墓の説明文です。
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夷王山墳墓群のアイヌ墓
 勝山舘の西後方、標高159mの夷王山の山裾から勝山館の背後を取り囲むように650余りの盛土の墓が、六地区に跨って広がる。1952年からの発掘調査で、火葬や北頭位・屈葬で土葬された仏教様式の墓であることが分り、勝山館の人たちの墓地と考えられているしても。
勝山舘跡に最も近い第Ⅰ地区から東頭位伸展土葬墓が2基、北頭位屈葬土葬墓に隣り合って見つかった。伸展葬墓は身体の脇や真ん中に太刀が置かれ、漆器や小刀、針、骨鉱などが副えられた男性の墓である。
一基は二人合葬の墓で、その一人はニンカリという銀製の耳飾りをつけている。葬法は江戸時代のアイヌの墓に共通する。周囲にアイヌの葬送儀礼を知る人の存在が見えてくる。
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■アイヌ墓のそばの案内板にあった説明文です。
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夷王山墳墓群のアイヌ墓
仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀を置き、漆器や小刀などをそえた男性の墓です。一人は錫製の耳飾をつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人たちがいたと思われます。
このすぐ北は斜面を削って砂利を敷いた墓所で、小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。
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二つの説明文で、耳飾(ニンカリ)が銀製と、錫製に相違があります。



「アイヌ墓」のある細い道から少し広い道に出ると、すぐに「搦め手門跡」が見えてきました。

急斜面の坂の先の左右に柵があり、「搦め手門」があった場所と思われます。



「溺手門」の前にあった付近の案内図です。

搦手門の前に幅の広い空堀Ⅲがありますが、手前に平行して空堀Ⅱ、搦手門に向かって左側にも空堀Ⅰが見られます。

空堀が造られた年代が不明で、断定も出来ませんが、空堀Ⅰは、ゴミ捨て場に沿って掘られており、ゴミ捨て場の排水と、空堀Ⅱの雨水を空堀Ⅲに誘導し、下流側にある川に流していたものと推察されます。

川に隣接する池は、泥やゴミを留め、直接川へ流さない配慮だったようにも見受けられます。

■「空堀Ⅰ」のそばにあった案内板です。
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溺手の構え
 城の正面を大手といい、背後を溺手[からめて]といいます。
勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを掘り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。
 土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がⅤ字形の「薬研掘」となっていました。
 空堀は15世紀後半から16世紀の間にⅠからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期があったとも考えられます。
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CGで再現された「勝山館」の画像です。

搦手門側から見た「勝山館」で、ガイダンス施設でビデオ放映されていたものです。

中央を貫く通りは、搦手門から北東方向に伸び、「勝山館」は、柵と急な斜面で守られていたようです。

■搦手門の前にあった案内板の説明文です。
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勝山館の後ろの守り
神仏に守られて
1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部は二つの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が館の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。
一番高いところに館の守護神、館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。
この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。
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搦手門を入り左手、階段状の敷地最上段に「館神八幡宮跡」がありました。

正面の建物跡の他、右手奥にも小さな建物跡があり、写真右下には「鳥居跡」と書かれた石が置かれていました。

凸型に石で囲まれた建物跡の中には柱の敷石が並んでいるようです。

右手奥の小さな建物跡には石を丸く並べた柱跡が四ヶ所見え、掘立柱の建物だったようです。



「館神八幡宮跡」の前にあった案内板の説明図です。

凸型の建物跡は、「江戸再建社跡」とあり、右手奥の建物跡は「室町創建社跡」とあります。

右側や、下側の建物跡には「掘建柱建物跡」とあり、室町時代に創建された社と同時代の建物だったのでしょうか。

■案内板の説明文です。
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館神八幡宮跡
1473年松前氏初代武田信広は館の上に八幡神を祀り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。
 高い部分を削り下伏西から南を囲む土塁を造つて柵を立て、正面に溺手門を設け堀を渡る橋を架けています。
 土塁の内側で掘立柱の建物跡と礎石立[そせきだて]の建物跡が見つかりました。掘立柱は創建当初の社跡で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。
現在の上ノ国八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷された北海道最古の建造物です。
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通りを進み、通りの両側に柵が見える勝山館の北東の端に来たようです。

柵のある通路の脇に太く短い柱があり、門の跡だったのでしょうか。

通りの両脇には排水溝があり、空堀へ流れ込んでいたようです。

左右の土地は、階段状に整備され、海の見える風光明媚な宅地の造成地にも見えます。



勝山館の北東の門跡が見える辺りにあった案内板の建物跡説明図です。

凡例には茶色が「住居」、緑が「クラ」、紫が「コヤ」とあり、建物が混在していたようです。

下の説明文では、図の上部の柵に沿った部分が「三段目(帯郭)」とあり、土塁の上に柵があったと思われます「物見櫓」があったとしています。

その内側「二段目」と書かれた場所も一段目より高くされていたようです。

凡例では紺色ほ「櫓」とし、二段目、三段目、空堀の上に櫓があったようです。

「現在地」の左の通路にも紺色の「櫓門」とされる場所がありますが、他の再現図には見当たらず、謎のままです。

■案内板の説明文です。
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東の厳重な守り
帯郭[おびぐるわ]と物見櫓
勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100~140㎡ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。
中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになうています(帯郭)。
堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。
勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。
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ガイダンス施設に展示されていた「勝山館C.G復元と整備」の写真です。

正門のある東北方向から見た「勝山館」の再現画像で、左手の谷が「華ノ沢」、右手の谷が「寺ノ沢」です。

「寺ノ沢」の名は、「夷王神社」となった1893(明治26)年以前には「夷王山」に薬師如来が祀られていたことによるものかも知れません。

門の右手には「客殿」があり、来客のもてなしは、海がよく見える最高の場所が選ばれたようです。

時間がなく、ゆっくりと見学出来ませんでしたが、中世の山城の雰囲気は、味わうことが出来ました。

北海道旅行No.41 中世の山城「上之国 勝山館跡」[1]

2012年01月05日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、函館のホテルを出発、北海道最南端の白神岬、日本海沿岸の松前町から北へ55Km、江差の南約5Kmの場所にある上ノ国町へ着きました。

上ノ国町は、函館を基点とする江差線が半島の南部を横断して日本海側に出て、はじめての駅がある町でもあります。

先ず訪れたのは発掘された中世の山城「勝山館跡」を紹介する「勝山館跡ガイダンス施設」です。



「天河の湊と上之国三館跡」と書かれた展示パネルに北から見下ろした上ノ国町の風景写真がありました。

日本海に注ぐ天の川対岸の山の斜面に「花沢館跡」「勝山館跡」があり、右手の海岸には「州崎館跡」と、交易で栄えた天の川河口の港を取り囲むように三つの「館跡」が見られます。

対岸にそびえる「夷王山」には、この地で覇権を握り、松前藩主の祖となった「武田(蠣崎)信広」も埋葬され、山頂には「信広」を祀る「夷王山神社」がありました。



「勝山館跡ガイダンス施設」に展示されていた「中・近世における主な交易品の経路」のパネルです。

中・近世の蝦夷地では北の樺太・大陸北部、東の千島など、ユニークな産品の交易が想像を超えるスケールで行われていたことがわかります。

中世、「上之国」といわれたこの地は、和人が日本海沿岸に造った主要な交易拠点では最北に位置していたようです。

■「勝山館」のパンフレットに交易の記述がありました。
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勝山館と日本海交易
 勝山館からは10万点ほどの様々な種類のものが発掘されています。5万点あまりの陶磁器、鉄・銅などの金属製品、漆器や木製品、骨角器、石・土製品などです。陶磁器はすべて本州から運ばれてきたもので、中国製のものが40%ほどあります。瀬戸・美濃、志野、唐津、越前、珠洲[すず]焼などの日本製もあります。物と一緒に仏教や茶道などの本州文化が伝えられ、鉄砲(玉)やキセル(タバコ)など、この頃外国から日本に入ってきたばかりのものなども勝山舘に伝えられています。
 館の中では、当時の最先端技術を駆使して鉄製品や鋼製品を盛んに作っていました。たくさんの鉄製品や銅製品は生活を豊かにし、交易にも大いに役立ったと思われます。
1485年北夷(樺太-今のサハリン)から「銅雀台瓦硯」(中国製)が武田信広に献上され、1920年頃まで松前氏の家宝になっていたことなどは、北との交易が大変盛んだったことを教えてくれます。
 勝山館直下の大澗[おおま]や天ノ川の河口には、各地からたくさんの交易船が集まり、上ノ国は日本海交易の中心地として、とても繁栄していたと思われます。
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「三類のエゾ」と書かれたパネルがありました。

夷島[えぞがしま]と呼ばれた中世の北海道には、日本海沿岸の「唐子」、太平洋岸の「日ノ本」、渡島半島南部の「渡党」と、三類のエゾ(アイヌ?)が住んでいたとしています。

奥州藤原氏が滅亡後、蝦夷地との交易は、鎌倉幕府から蝦夷管領に任じられた安藤氏に支配されていました。

安藤氏は、津軽半島の十三湊[とさみなと]を拠点とし、次第に蝦夷地への影響力を拡大させていったようです。

安藤氏の支配下にあった津軽海峡を挟む南北のエリアを「渡党エゾ」としている点に強い興味が湧いてきます。

函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の見学で、縄文時代に共通の文化圏だったことや、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を目指していることを知りました。

「渡党エゾ」は、縄文時代から続く交易に携わる人々だっのかも知れません。

■「夷島代官安藤氏と三類のエゾ」と題するパネルの説明文です。 ******************************************************************************
夷島代官安藤氏と三類のエゾ
 安藤の乱 鎌倉時代の終わり頃(1322~1328年)幕府の夷島代官、津軽の豪族安藤氏は、相続争いをして従兄弟同士が岩木川を挟んで戦った。幕府はこの紛争を「東夷蜂起」と恐れたが治めることができす、滅亡する原因の一つにもなった。
 戦いに勝った一族は十三湊を拠点に活発に交易を行い、勢力を拡大した。また秋田に進出した一族は湊安藤氏の祖となった。

 この頃の夷島には「日ノ本」「唐子」「渡党」という三類の蝦夷がいた。「渡党エゾ」は時々、津軽外浜に交易にやってきた。
 彼らが毒矢を射る様子などは後のアイヌの風俗ととてもよく似ている。
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渡島半島南部に広がる中世の「館」(交易拠点)の地図です。

安藤氏は、渡島半島南部での交易体制を整備、大館(松前エリア)、茂別館(下之国エリア)、花沢館(上之国エリア)の三拠点に守護を置き、他の館をその支配下に置いたようです。

■パネルの説明文です
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道南十二館と三守護職
1450年頃、函館の東、志濃苔[しのり]から上ノ国の間に12の館[たて]があったという。館には渡党[わたりとう]の子孫とも言われる館主がいた。彼等の中には、津軽や南部の出身者で安藤氏ゆかりの「季」の一字を名乗る者も多かった。
1456年秋田の湊安藤氏から男鹿に呼び寄せられた安藤政季は、大館の下国安藤定季を松前守、茂別館[もべつだてに弟家政を置いて下之国守とし、花沢館の蠣崎季繁[かきざきすえしけ]を上之国守護としてその後を守らせたという。

館と館主
 館 名   所在地(現在の地名)   館   主
1志苔館  函館市志濃里町     小林太郎左衛門尉良景
2箱 館  函館市函館山々麓    河野加賀右衛門尉政通
3茂別館  上磯郡茂別町茂辺地   下国安東八郎式部大輔家政
4中野館  上磯郡木古内町字中野  佐藤三郎左衛門尉季則
5脇本館  上磯郡知内町字脇本   南條治郎少輔季継
6穏内館  松前郡福島町字吉岡   蒋土甲斐守季直
7覃部館  松前郡松前町字及部   今泉刑部少輔季友
8大 館  松前郡松前町神明    下国山城守定季 相原周防守政胤
9禰保田館 松前郡松前町字近藤   近藤四郎右衛門尉季常
10原口館  松前郡松前町原口    岡部六郎左衛門尉季澄
11比石館  檜山郡上ノ国町字石崎  厚谷右近将監重政
12花澤館  檜山郡上ノ国町字勝山  蠣崎修理太夫季繁
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松前氏の始祖「武田(蠣崎)信広」の肖像画が展示されていました。

松前藩の歴史書「新羅之記録」によると「武田信広」は、若狭武田氏とし、事情があり出奔、上之国花沢館の蛎崎季繁の客将となったとされます。

1457年コシャマインの戦いが発生、大半の館が陥落する中、武田信広はコシャマインを討ち、苦境を脱したようです。

蛎崎季繁の娘婿となった信広は、海岸に近い場所に「州崎館」を築き、「花沢館」を廃止した後、「勝山館」の建設に着手したようです。

アイヌとの争いは、その後も90年以上続いていたことが下の年表からもうかがえ、館の立地や、施設の内容には緊迫した時代背景が強い影響を及ぼしたものと思われます。

■年表のパネルが展示されており、その一部を転記しました。(一部文章を簡略化)
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年表
1439(永享11) 平氏、夷島脇沢山神(現函館市石崎)に鰐口を寄進。
1443(嘉吉3) 下国安東盛季、南部義政に敗れ夷島に渡る。
1454(享徳3) 安東政季、武田信広、河野政通、相原政胤らを従え、南部大畑より夷島に渡る。
1457(長禄元) コシャマインの戦い。道南12館の内茂別館・花沢館を除く10館が陥落。武田信広、コシャマイン父子を討つ。
1467(応仁元) この頃、武田信広、上之国勝山館を築造。
1473(文明5) 武田信広、上之国館内に館神八幡宮を造立。
1512(永正9) 宇須岸、志濃里、与倉前の三館が陥落。
1513(永正10) 大館、陥落。
1514(永正11) 蠣崎義広、上ノ国より大館に移住し、松前之守積職に就く。
1551(天文21) 蠣崎季広、東西アイヌと和睦。夷秋之商船往還之法公布。
1593(文禄2) 蠣崎慶広、秀吉より朱印状、貢鷹の印書、公逓の印書を賜り、夷島管理者として公認される。
1596(慶長元) 上ノ国に檎山番所を設置したという。(勝山館終末年代)
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「勝山館跡」のパンフレットに掲載されていた上ノ国町の史跡の地図です。

道南12館の一つ「花沢館」は、天の川に面した山の中腹にある標高58mの尾根に築かれ、天の川上流方向や、海岸に沿った北方向からの敵を見渡し、川を濠とした小規模な施設のようです。

「花沢館」から移転した「州崎館」は、当時北に広がっていた河口湖の北岸にあったとされ、交易港の施設も伴っていたようです。

コシャマインの戦いで陥落した他の和人集落からの流入対策や、コシャマインを破った自信などから平地への移転を決断をしたのかも知れません。

しかし、コシャマインの戦いから10年後の1467年頃、「勝山館」を完成させ、交易港の施設の中心も次第に天の川南岸へ移設したようです。

河口湖の館と、交易港と言えば、蝦夷地の交易を支配していた安藤氏の拠点、「十三湊」が思い浮かんできます。



「勝山館跡ガイダンス施設」に展示されていた「勝山館」のジオラマです。

左上に標高159mの「夷玉山」がそびえ、二つの谷に挟まれた細長い斜面に造られた「勝山館」には以外に多くの建物が見られます。

「天の川」河口の港から続く一本の坂道の両側に家屋が並び、賑わった当時の様子が伝わってくるようです。

「勝山館跡」を見下すように、なだらかな円錐形の「夷玉山」がそびえ、「勝山館跡ガイダンス施設」はその左手にあります。

■「勝山館跡ガイダンス施設」で頂いたパンフレットにあった「勝山館」の説明文です。
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館のつくりと整備・復元
1979年から始まった発掘で、舘の中の様子が大分わかってきました。勝山舘の中心部は宮ノ沢と寺ノ沢に挟まれた丘にあり、三段の大きな平地になっています。二段目と三段目の前後に大きな空壕[からぽり]を掘り切り、柵や櫓[やぐら]などで厳重に守っています。壕の底から段の上までは8~10mの深い急斜面になっています。
 壕の中央に架かる橋を渡り、門をくぐって館の中心部に入ります。館の中央には幅3.6mの道が通り、道の両側に100~150㎡ほどの敷地が作られ、住居などが建てられています。正面の橋を渡ったすぐ右側には2000㎡ほどの広い敷土世かあり、館の主たちが使っていたと思われます。それぞれの地区は5回前後作り変えがされています。
 現地や模型では、勝山舘の勢いが一番盛んだった第Ⅲ期(1520年頃か)の様子を整備・復元しました。
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「勝山館跡」から出土した「フイゴ羽口」(左)と、「るつぼ」(右下)、スラッグ(右上)が展示されていました。

「フイゴ羽口」は、送風管の先端部分、「るつぼ」は、溶解した金属を入れる容器、「スラッグ」は金属の精錬で出来たカスです。

コシャマインの戦いの発端になったのも志苔館(函館の東)の鍛冶屋とアイヌの少年との取引のいざこざからとされ、和人が作る鉄製品は、ここでも重要な交易品だったと思われます。

■添えられていた説明文です。
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鍛冶関連遺物
客殿西側の板塀に囲まれた場所で、鍛冶作業場がみつかっている。そこからは、火力を強めるフイゴ羽口、金属素材を溶解させる容器である土製のるつぼ(坩堝)がみつかっている。

フイゴ 羽口[はぐち]
鍛冶を行う作業では、フイゴを用いて火力を高める。フイゴで発生させた風は、送風管を経て炉に送られる。羽口は、送風管の先端に装着する筒状の付属品である。勝山館では鍛冶作業場もみつかっており、そこから鎧の小札149枚・銅製金具37点、釘317点などが出土している。
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木製のヘラのようなものが展示され、トイレットペーパーの役割をする「ちゅう木」と称する道具と知り、掲載しました。

ちゅう木[籌木]は、古代から近世まで使われただそうで、紙が高価だった時代、必須のアイテムだったことを知りました。

生活の中から生まれた道具と思われますが、上手に使うにはだいぶ慣れが必要なのてしょね。

■添えられていた説明文です。
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ちゅう木
勝山館から長さ約15cm、幅約1~1.5cmの薄い板がたくさん見つかっている。
これらは、大きさからウンチをした後にぬぐう板であることが考えられている。
想像するとちょっと痛そうだが当時は紙が貴重であったため、仕方なかったのかもしれない。
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様々な展示のある「勝山館跡ガイダンス施設」の建物の中に床のない場所があり、発掘された墓の遺跡のレプリカが保存されていました。

夷王山の頂上付近から中腹一帯に600以上の墓があり、これもその一部のようです。



「夷王山墳墓群」と書かれたパネルに「勝山館跡ガイダンス施設」付近の墓の遺跡分布地図がありました。

凡例3番目の茶色「屈葬土葬墓」と、凡例4番目の橙色・十字形「荼毘跡・火葬墓」が混在していたようです。

■墓の説明文です。
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このガイダンス施設の周辺、600㎡ほどの中に19個の盛り土があり墳墓と想定していたが、発掘調査で40基に倍増した。
長い間に盛り土が崩れ、位置が分からなくなったものも多く、中には道の下になってしまったものもある。
なお、このガイダンス施設の中にある7基のレプリカは、真下にある墓をそのままに型取りして再現したものです。
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「勝山館跡ガイダンス施設」内に頭を北に向け、横向きに寝かされた「屈葬土葬墓」のレプリカがありました。

展示パネルでは、この上に盛り土をして「卒塔婆[そとば]」(細長い木片)を立てていたようです。

これが当時の和人の埋葬の基本形式だったのでしょうか。



土の上に「火葬施設」「136号」と書かれ、十字型に掘られた遺跡(レプリカ)がありました。

棺を燃やした跡で、多くはその場に埋葬したとされ、専用の火葬施設ではなかったようです。

墓の分布図では土葬墓と、火葬墓が混在していますが、時代変化によるものか、宗教の違いによるものか不明です。

90年以上続いたアイヌとの争いの時代、数は少ないものの、アイヌの遺品が出土した「伸展土葬墓」も発掘されたようで、遺跡から当時の勝山館の様子が垣間見えてくるようです。

■「火葬施設」の説明文です。
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荼毘の跡と火葬墓
直径1m、深さ20cmほどの円い穴や、十文字型に掘りくぼめた長軸が2m、深さ20cm前後の溝の中から白く焼けた骨、銭、数珠玉、炭、釘などが見つかっている。この上にマキを積み、棺を置いて茶毘[だぴ]に付した火葬場の跡である。
 溝は風通しを良くする工夫と思われる。火葬後その場に埋葬したり、骨を拾い集めて、曲げ物や一辺が30cmほどの木箱に納めて別に埋葬し、残りの骨などをそのまま埋めたりしている。
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次回は、日本海を見下ろす史跡の見学です。