昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.53[最終回] 支笏湖畔「苔の洞門」の風景

2012年03月18日 | 北海道の旅
2011年6月3日から8日間、妻と北海道旅行をした思い出を約8ヶ月間に亘って掲載してきましたが、今回が最終回です。

雄大な「羊蹄山」の風景を見た後、支笏湖の南岸にある「苔の洞門」に立ち寄りました。



「支笏湖」に流れ込む「美笛川」の清流です。

国道276号を「支笏湖」の西岸に近づくと、左手に「美笛川」が並行して流れてきます。

「美笛トンネル」入口付近の路肩に車を止め、さわやかな新緑の中を流れる「美笛川」の風景を眺めることができました。

この清流が支笏湖の高い透明度の元となっているようです。



支笏湖の南岸、国道276号沿いにある「苔の洞門ネイチャーセンター」です。

道路の標識に「苔の洞門」の案内表示があり、立ち寄ったものです。

「苔の洞門」は、徒歩で約20分の場所にあるようでしたが、空港の搭乗時刻まで余裕があり、行ってみることにしました。

■「苔の洞門ネイチャーセンター」裏手にあった苔の洞門の案内板です。
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苔の洞門
●苔の洞門の生い立ち
 苔の洞門は、寛文7年(1667)の樽前山大噴火の際に発生した火砕流から生じた熔結凝灰岩が、長い年月を経て浸食されてできた涸れた渓谷です。
 切り立った岩壁をコケが覆い、渓谷の上から差し込む木漏れ日を受けて、幻想的な緑の世界をつ<り出しています。
 火砕流は、火山灰や軽石を含んだ高温の火山ガスが高速で斜面を流れ下る現象で、火山災害の中で最も恐ろしいものの一つです。
●洞門のコケ
 苔の洞門の岩壁には、エビゴケ、ジヤゴケ、チョウチンゴケ類、ムワムクゴケ類など30数種類のコケがびっしりと密生しています。
 コケ植物は一般に陰湿な環境を好みます。岩壁の熔結凝灰岩が含む適度の湿気と、木々を通って<る弱い光が、コケの生育に適した環境をつくって、このような見事な群生となったのでしょう。
 とても成長が遅い植物なので、傷つけないように観察してください。
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上段は、案内板にあった「支笏湖」付近の地図で、「苔の洞門」は、地図上(南)の「P 現在地」の場所にあります。

「苔の洞門」のすぐ左(東)には「風不死岳[ふっぷしだけ]」、その上(南)に「樽前山」、地図下(北)の対岸には「恵庭岳」がそびえる風光明媚な湖です。

下段は「苔の洞門」付近の地図で、「苔の洞門ネイチャーセンター」から「観覧台」まで750mとあり、その先に「苔の洞門」が続いているようです。



さわやかな緑に囲まれた「苔の洞門」の道です。

木の下には伸び始めたシダ類や、フキが広がり、やさしい緑の世界を演出しています。



「苔の洞門」への道の途中にあった木や鳥を紹介する案内板がありました。

上段の「苔の洞門附近で見られる樹木」は、「苔の洞門ネイチャーセンター」から400m地点にあったものです。

ミズナラ、ドロノキ、ハンノキ、ウダイカンパ、ハウチワカエデ、イタヤカエデ、ハリギリが紹介されていますが、この一帯は針葉樹のない林でした。

下段の「支笏湖周辺で見られる野鳥」は、、600m地点にあったものです。

様々な鳥がいる中で、左下に風変わりな「エゾライチョウ」が目につきました。

案内板の説明文には意外にも「細い枝の上を器用に歩きます」とあり、あまり飛ばない本州のライチョウとは大分違うようです。



「苔の洞門」に近い道の脇に苔むした大きな岩がありました。

火山活動で出来た広大なくぼ地に溜まった支笏湖畔、この林には岩が苔むすほどの湿気があるようです。



「苔の洞門」の観覧台に上る階段です。

なだらかな林の道の先に斜面があり、「苔の洞門」はその上にありました。

階段の下には監視員と思われる人がいましたが、この一帯がヒグマの生息地と書かれた案内板もあり、遭遇の可能性を考えると、こわいお仕事です。



階段を上り切ると狭い観覧台がありました。

「苔の洞門」への道はここで終了、先へは進めませんでした。



観覧台から見た「苔の洞門」の風景です。

確かに珍しい風景ですが、ガッカリ感が漂う観察になりました。

「苔の洞門」には歩道が見られ、かつては歩いて観察できたようで、入口附近までには近づける配慮が欲しいものです。

案内板では、1667年(寛文7)に「樽前山」が大噴火、その火砕流に深い谷が刻まれたとあり、苔むした渓谷となった約350年のドラマはこれからも続き、未来にはもっと驚くような風景を見せているかも知れません。



観覧台の階段下の案内板に「苔の洞門」を奥に進んだ風景が掲載されていました。

苔むした岩の渓谷が延々と続き、90mから370m先までの風景が並んでいますが、人の姿などがないためスケールがよくわかりません。

160m地点の風景では、V字形の谷に丸い岩が挟まり、人はその下を歩くようで、かなり大きな岩のようです。

■「苔の洞門」の写真に添えられた説明文です。
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支笏洞爺国立公園 苔の洞門
苔の洞門データ
①位 置 支笏洞爺国立公園支笏湖南岸(北海道千歳市支寒内)
②標 高 駐車場入口 250メートル  洞門終点 340メートル
③総延長 洞門入口から420メートル
④洞門内で見られるおもなコケ
  エビコケ、エソチョウチンコケ、ジャコケなど
苔の洞門
 苔の洞門は、樽前山の西暦1739年の噴火によっ生じた火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が、噴火直後に頻発した土石流等により急激に浸しょくされてできたものです。
 この峡谷の岩壁には、約二十数種類のコケ植物が密生しており、これらは、適度な日照と湿度などの非常にうまく保たれた自然条件によって形成されております。
 このように、コケ植物が着生する特異な景観は私達の目を魅了するばかりではなく、学術的にも大変貴重な存在です。みんなで十分に保護しましょう。
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観覧台の階段下の苔の案内板にあったに苔の絵です。

左から「エビゴケ」「ジャゴケ」「エゾチョウチンゴケ」「オオホウキゴケ」です。

岸壁は、緑のビロードの様な苔で覆われていますが、10種類以上の種類が生えているとは意外でした。

■苔の絵に添えられた説明文です。
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苔の洞門のコケ植物
苔の洞門で多く見られるコケ植物は、次のとおりです。
●蘇類(せんるい)
 エビゴケ・エソチョウテンゴケ・スジチョウテンゴケ・タカネスギゴケ・ セイタカスギゴケ・ヤマコスギゴケ・エソノコブゴケ・ミヤマサナタゴケ
●苔類(たいるい)
 オオホウキゴケ・シャゴケ
代表的なコケ植物の特徴  代表的なコケ植物の特徴は、次のとおりです。

エビゴケ(エビゴケ科)
 エビゴケは主に、山地の日P芸地の、やや湿気のあるような岩面に垂れ下がるように群生し、葉の中央脈(中肋)がエビの触角をおもわせるように突出しているコケ植物です。
洞門内の岩面の大部分がこのエビゴケでおおわれています。

ジャゴケ(シャゴケ科)
 シャゴケはヘビのウロコのような六角形の区画が表面にみられ、湿った岩の上や土の上に生育し、人家のまわりにもみることができます。洞門内の中腹部に、まるで緑色のヘビがはうように群生する様子がみられます。

エソチョウチンゴケ(チョウテンゴケ科)
 エソチョウテンゴケは、山地の腐木の上や若の上に生育し、茎の先端に小枝状の無憎芽をつけます。胞子体の頭の部分はチョウテンがぶらさがつたようにみえます。洞門内ではエビゴケの次に多くみられるコケ植物です。

オオホウキゴケ(ツボミゴケ科)
 オオホウキゴケ1ま、湿つた岩の上や土の上に重なりあつて群落をつくります。個体13緑色で、ときとき赤みをおむます。一種独特な香りを持っていて、洞門入口付近や終点付近の岩の上や岩壁に密集して生育しています。
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支笏湖の南岸、「苔の洞門」附近の地形図です。

「苔の洞門」と同様、「風不死岳」の東にも数本の渓谷が見られ、「樽前山」の南東にも数本の渓谷が続いています。

「苔の洞門」は、「樽前山」が大噴火して周囲に火砕流を噴出、それが固まって熔結凝灰岩となり、浸食された地形であるとする説明がこの地形図により納得できました。

古い建物や、遺跡・遺物などから学ぶ歴史だけではなく、北海道の大自然の歴史も実に興味深いものです。


新千歳空港を起点にレンタカーで、道東の根室半島まで達し、襟裳岬を経由して北海道南端の渡島半島、積丹半島、小樽をまわる約3,000Kmを走破する楽しい旅になりました。

北海道旅行No.52 「羊蹄山」の風景

2012年03月08日 | 北海道の旅
北海道旅行8日目 6/10(金)、小樽のホテルを出発、余市町、倶知安町を経由して新千歳空港を目指しました。

6月の北海道各地で見た残雪の山が美しく、最終日は蝦夷富士と言われる「羊蹄山」を見て帰ることにしたものです。



「羊蹄山」の南東、喜茂別町から見た「羊蹄山」の風景です。

雲に覆われた「羊蹄山」の周囲を車で移動しながら、やっと晴れた姿を見ることが出来ました。

標高1,898mの頂上付近は残雪に輝き、神秘的な風景でした。



「羊蹄山」付近の地図です。

「羊蹄山」を撮影した場所を黄色い丸(Y1~Y4)で表示しています。

余市町から国道5号を南下、地図左上から国道276へ入り、羊蹄山の北西から南東を眺めながら走りました。

「尻別川」も国道276同様に 「羊蹄山」の北側を回り込むように流れ、西の日本海へ注いでいます。

上段の写真は、Y4の地点で見た風景です。



倶知安町の市街地に差し掛かったY1地点で見えた「羊蹄山」の風景です。

大半を雲が覆っているものの、近くで見る雄大な「羊蹄山」に感動、路肩に車を止めて眺めていました。



倶知安町の市街地の南、地図Y2地点から見た「羊蹄山」です。

駐車出来るが見当たらず、国道を外れ、「尻別川」に近い場所まで移動しました。

しばらく待ちましたが、雲は晴れてくれませんでした。



東のY3地点から見た「羊蹄山」です。

ここでも雲に覆われ、全体が見えません。

雲が南から北へ流れているようで、南側で晴れた「羊蹄山」が見えるかも知れないと思い、国道をはずれて南方向へ走っていきました。



「羊蹄山」南東のY4地点から見た風景です。

大半を雲に覆われた「羊蹄山」ですが、雄大さに車を止めて撮った風景です。



Y4地点の付近を走っていると、頂上付近が晴れた「羊蹄山」が見えてきました。

冒頭の写真と同じ場所の写真です。



これもY4地点の付近の風景です。

広い畑の向こうに裾野が晴れた「羊蹄山」がやっと美しい姿を見せてくれました。



山頂から裾野まで姿を見せた「羊蹄山」に感動して、ズームで撮った写真です。

残雪の白いスジが谷に沿って裾野近くまで続いています。

旅行最終日、感動の風景でした。

北海道旅行No.51 「オタモイ海岸」の風景

2012年02月29日 | 北海道の旅
北海道旅行8日目 6/10(金)、旅行最終日は小樽から羊蹄山付近を経由して新千歳空港へ向かうルートです。



晴天の小樽市オタモイ海岸の風景です。

オタモイ海岸は、2004年9月に一度訪れ、雄大な風景に魅せられて再訪したものです。

残念ながら海岸への道は通行止めで、駐車場からこの景色を見るしかありませんでした。

断崖には崩落を防ぐ金網が取り付けられていますが、やはり危険で、通行は無理のようです。



小樽市市街地の西にあるオタモイ付近の地図です。

大きな赤丸の場所がオタモイ海岸の駐車場、左の小さな赤丸の場所がオタモイ地蔵です。

駐車場からオタモイ地蔵への道は、破線で表示されており、途中に2ヶ所のトンネルも見られます。

海岸の駐車場への道は、連続するスピンカーブを下って行きます。



海岸の駐車場に戦後まもなく消失した「オタモイ遊園地跡」の案内板がありました。

■案内文を転記します。
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当代一を誇った夢の里、
 オタモイ遊園地跡

オタモイ
 地名は、アイヌ語のオタモイ(砂の入り江の意)に由来する。

現在、小樽市唯一のカタカナ表示の町名。
 オタモイ海岸は、市の北部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10Kmに及ぷ海岸の一部で、付近には赤岩山(371m)など標高200m前後の急峻なな崖と奇岩が連なっている。一帯は昭和38年ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、祝津・赤岩海岸とともに雄大な景観を誇り、訪れる人々を魅了している。
 かって、この景勝地に大リゾート基地が存在した。
昭和初期、隆盛を誇った割烹「蛇の目」(花園1)の店主加藤秋太郎は小樽には見所がないという知人の言葉に奮起し、名所探勝の日々にあけくれる。そして、ついに、古来白蛇の谷と呼ぱれたこの地を探し当て、昭和11年「夢の里オタモイ遊園地」を完成させた。
 その規模は当代一を誇り、プランコ、すべり台、相撲場等の遊園地施設のほか、龍宮閣や辨天食堂といった宴会場や食堂を設けた。特に京都の清水寺を凌ぐといわれた龍宮閣は、切り立った岩と紺碧の海に囲まれ、まるで龍宮城のお伽の世界のようだったという。
 最盛期には一日数千人の人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年5月営業再開を目前に控えながら消失した。
 現在、遊園地の跡を偲ばせるものは断崖の上に残った龍宮閣の礎石と遊歩道トンネルの部分だけである。
 また、オタモイには神威岬(積丹半島)が女人禁制の頃の悲恋にまつわる子授け地蔵尊の伝説があり、今でも多くの人々に信仰されている。
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2004年9月に訪れた時に撮った写真があり、以前のオタモイを紹介します。

駐車場付近から見たオタモイの入口付近の風景です。

雄大な断崖に造られた遊歩道の先にトンネルがあり、入口は竜宮城の門のようです。

左手に歩いて行く人の姿が見られます。



遊歩道を進み、トンネルの入口付近から駐車場方向を振り返った風景です。

駐車場付近は、「オタモイ遊園地」の施設跡があったとされ、広く整地された場所でした。

斜面の上の駐車場から海岸へ降りる道路もあり、「オタモイ遊園地」の船着場があったようです。



「オタモイ遊園地」の絵の一部で、右の岩山方向へ進むとオタモイ地蔵です。

現在の駐車場辺りに「辨天食堂」があったようで、プランコ、すべり台、相撲場などの遊園地施設が並び、車で下ってきたスピンカーブも描かれています。



遊歩道を進み、トンネルを抜けると断崖から突き出た細長い広場があり、下りてみました。

柵から下を除くと、岩の急斜面に柱を支えたコンクリートの基礎の跡が見られます。



「オタモイ遊園地」の絵に赤い柵で囲まれた広場に建つ建物が「龍宮閣」の名で描かれていました。

車で下りて来た道とは別に、右手の上の山から「オタモイ地蔵」へ下る道が見えます。

伝説が語り継がれる「オタモイ地蔵」だけに、あの蛇行した長い坂道を昔から歩いて参拝していたものと思われます。

今でも通ることが出来るのでしょうか。



「オタモイ遊園地」の案内板に「龍宮閣」のすごい写真がありました。

急斜面の岩場にたくさんの柱で支えられた大きな建物が危なっかしく建っていたようです。

この建物が、人々の度肝を抜き、話題性をつくっていたのかも知れません。



「龍宮閣」のあった広場から西の「オタモイ地蔵」付近を見た風景です。

早い北海道の秋、草が赤く枯れ始めて寂しさが漂っていますが、断崖の雄大な風景に感動した思い出がよみがえります。



「オタモイ地蔵」の更に西の風景です。

断崖の海岸は、はるか先まで続いていました。

「オタモイ地蔵」へお参りし、海岸に下りる道を進んでいきました。



大きな岩が並ぶオタモイ海岸の風景です。

「オタモイ遊園地」の絵では左の二つの岩に注連縄を渡して「二見岩」と名付け、伊勢の二見興玉神社の夫婦石をイメージさせたようです。

案内板にある伝説で、女人禁制の積丹半島の神威岬沖の海が荒れ、船から身投げをした妊婦が流れ着いたのはこの辺りだったのでしょうか。

妊婦が葬られた場所に立つ「オタモイ地蔵」は、いつしか子授けのご利益をもたらすとされ、亡くなった親子は地蔵尊の救いで成仏したようです。

駐車場から「オタモイ地蔵」への参拝の道が閉ざされた今、参拝者はほとんどいなくなり、子授けの願いは届かなくなっているようです。

北海道旅行No.50 「西崎山環状列石」

2012年02月22日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)、積丹半島から小樽へ向かう途中、余市の「西崎山環状列石」へ立ち寄りました。

「環状列石(ストーンサークル)」は、文字通り石を環状に並べた縄文時代の遺跡で、埋葬を伴うものや、伴わないものもあり、単なる墓ではないようです。

2008年04月、岩手県北上市の「樺山遺跡」をワクワクしながら見学した思い出があり、東北地方北部から北海道に伝わったストーンサークルに興味があり、訪れたものです。



静かな林の中に柵で囲まれた「西崎山環状列石」がありました。

資料によれば「西崎山環状列石」の遺構は、4区に分かれ、ここは唯一整備された1区です。

■「日本の古代遺跡 北海道」より(野村崇著 保育社発行)
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 この遺跡は、一九五〇・五一年(昭和25・26)に駒井和愛氏が、一九六三年に峰山巌、久保武夫民らが、一九六八・七二年に大場利夫氏を中心とする北海道大学北方文化研究施設が、それぞれ発掘調査をおこなっている。
 配石遺構は丘陵の頂上部から南側の鞍部[あんぶ]にかけて多数あり、丘陵北側から4区、1区、3区、さらに沢をへだてて西側を2区としている。
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「西崎山環状列石」周辺の地図です。

「西崎山環状列石」は、小樽市との境界線近くの「西崎山」の尾根にあり、余市湾を望むこの一帯には小樽側の「忍路環状列石」を含めて多くの環状列石遺構が発見されています。

北海道で発見された「環状列石」は、北部を除いたほぼ全域にありますが、密集しているのはこのエリアと渡島半島南部エリアのようです。

本州に始まる「環状列石」は、渡島半島南端へ伝わり、縄文時代後期中葉の北海道に広がっていきました。



長い階段の下に見えるのは「西崎山環状列石」の駐車場です。

坂道を登った駐車場から更に急な階段を上り、その後は平坦な尾根の山道が続きます。



一本道の山道を歩き、柵に囲まれた「西崎山環状列石」へ到着です。


林が途切れた遺跡の北方向の風景です。

遺跡の北側に門のような柵のない部分があり、屋根つきの案内板も見えます。

南北に伸びる「西崎山」の尾根を平坦にした楕円形の遺構がありました。

資料にあった「西崎山環状列石」の概要です。

■「日本の古代遺跡 北海道」より(野村崇著 保育社発行)
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頂上部のⅠ区は長径一七メートル、短径一二メートルの楕円状に大小の石が散列している。その数だけでも五〇〇個をかぞえ、うち二〇個ほどが直立している。配石の西南部に径一メートル内外の小型のストーン・サークルが七基ある。これらは低い立石や寝石で周囲を囲み、内部に割石などを詰めている。中心には五〇センチほどの立石が立てられるものもある。
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林の途切れた史跡の北側に古びた案内板ありました。

■案内板を転記します。
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説 明
一、指定文化財の名称
  道指定史跡 西崎山環状列石
二、指定の年月日
  昭和二十六年九月六日三、指定の理由 古代人の残した石造り遺構として考古学界の学術調査上重要な遺跡として認められ、北海道教育委員会より史跡文化財として指定を受けた。
四、説明事項
  環状列石(ストンサークル)直径一米程度の環をなして、自然石のやや大きいのが並んでおり現在七ケ所残っているが元はそれ以上あったものと思われその構造からみてもまた穴の中の燐分から云っても古代の墳墓であろうと推定されております。
この丘陵には4つの墓環状の列石があり立石の最大のもので、高さ約七〇~八〇糎、穴の深さ一米位穴内の土中から燐分が検出され、また敷石附近から縄文土器の破片が多数出ました。
五、注意
 一、無断で柵内に入らないようにして下さい。
 一、地域内より出土した埋蔵物を勝手に持 ち去ることのないようにたしましょう。
 一、その他史跡の保存に支障のある行為を した場合、厳重に処罰されることがあ りますからお互いに気を付けましょう。
  北海道教育委員会 余市教育委員会
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北側に開けた場所から余市湾が一望できました。

左に見える断崖の岬は、「シリパ岬」です。

東西の風景は、林にさえぎられ、よく見えませんでした。



北側から見た遺跡の風景です。

楕円形の柵に囲まれた遺跡の東側には石が見当たりません。

遺跡の範囲としたのは出土品などがあったのでしょうか。

東側の広場から西の環状列石に向かい祭祀を行う縄文人の姿が想像されます。

余市町の西には標高872mの「天狗岳」がそびえおり、祖霊の鎮座する山として崇めていたのかも知れません。



様々な形をした棒状の石が立てられています。

資料では7基のストンサークルがあるとしていますが、立石の周辺に置かれた石は雑然と置かれ、ストンサークルと呼ぶには苦しい表現のようです。



先端が太くなった印象的な立石がありました。

周囲の石も角が丸く、縄文人たちは川や海岸の石を運んできたものと思われます。

案内板にもありましたが、この地下に葬られた人の痕跡や、発掘された土器についての記載が資料にありました。

■「日本の古代遺跡 北海道」(野村崇著 保育社発行)
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配石の下部には、直径、深さともに一メートル前後の墓穴が掘り込まれている。駒井和愛氏は、穴の中の土のリン酸分析をおこない、外部の土との比較で三・五倍から七倍のリン分があると報告している。
付近から出た土器片は縄文時代後期中葉の手稲式土器である。1区の北側の4区では、配石は土壙上にただ並べたようなもので、整然としていない。配石遺構下から船泊上層式土器が数個体検出されている。
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北海道旅行No.49 積丹半島「神威岬」の絶景

2012年02月13日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)早朝、函館のホテルを出発し、積丹半島の先端、「神威岬」へ到着したのは11時頃でした。

途中、日本海沿岸の雄大な風景や、鰊御殿を見物しながらここまで5~6時間のドライブです。



駐車場から坂道を登った峠にある神威岬[かむいみさき]の門です。

門の上には「女人禁制の地 神威岬」とあり、江戸時代まで女人禁制だった歴史を知らされました。

門の向こうに岬の先端付近に建つ「神威岬灯台」が見え、尾根をたどる長い遊歩道が続いています。

■門の近くに案内板がありました。
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梨本弥五郎と女人禁制の解除
その昔、神威岬の沖合は「魔の海」として多くの人々に恐れられており「婦女子を同伴して行けば神霊の怒りにふれ、その船は必ず転覆する」という迷信があった。
安政二年(一八五五)幕府が蝦夷地を直轄して開拓を計画してから、箱館奉行が神威岬以北に対しても移住民の土着を奨励した。
翌年の安政三年、箱館奉行調役下役元締の「梨本弥五郎」が幕府に宗谷詰めとして赴任するよう命じられた。この命を受けた梨本は下役や妻子を連れて赴任するのだが、神威岬を通過する時、海は荒れ舟子たちは恐れおののいた。
しかし梨本は毅然と立ち上がり、岬の岩角に向かって大声で叫んだ。
「私は征夷大将軍家定の家来である。今君主の命を受け岬端を通るになぜ神罰を受けなければならないのか」そして、その岩角めがけて銃を撃ち放った。
銃声が波濤を打ち破り岬に響き渡ると、神霊の怒りはおろか海は穏やかそのもので、全員無事に岬を越え赴任地に着くことができた。
この梨本の岬越えがきっかけで、神威岬の女人禁制が事実上解かれたことになすのだが、しばらくは迷信の影響を受けてか、女性たちは自分のために海が大荒れになることを恐れ、船艫の板子の下に隠れたり、筵をかぶって全身を隠して通ったといわれる。
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「梨本弥五郎」は、北海道の最北「宗谷」へ警備のため、初めて赴任した人で、2010年10月27日の記事、稚内市「北方記念館」でも女人禁制の解除が紹介されていました。



「神威岬」付近の地図です。

「神威岬」は、積丹半島の先端付近にあり、小樽から車で海岸線を西へ60~70Kmの場所です。

積丹半島の先端付近には「余別岳」(標高1,298m)「積丹岳」(標高1,255m)などの峰がそびえています。



「神威岬」の門がある峠から駐車場を見下ろした風景です。

国道229号から約1Kmの場所に広い無料駐車場があります。

駐車場から岬の先端まで約1Kmありますが、最初にこの長い坂をゆっくりと登り、体を慣らします。



「神威岬」を少し進んだ辺りから北側の断崖の下を振り返った「念仏トンネル」付近の風景です。

断崖の下の浜に「念仏トンネル」の入口が見え、その左に「水無しの立岩」がそそり立っています。(写真右下に拡大写真)

向こうにかすかに見えるのは東の「積丹岬」です。

かつて岬の先端「神威岬灯台」への道は、下に見える海岸を歩いていたようで、「念仏トンネル」はその途中に掘られたものです。

遊歩道の柵には「念仏トンネルが見える場所」の案内標識があり、見下ろしました。

■そばにある案内板に「念仏トンネルの由来」が書かれていました。
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念仏トンネルの由来
大正一年(一九一ニ)十月二十九日午前八時半ごろ、神威岬灯台の草薙灯台長夫人、及び土谷補員夫人)」その二男(三歳)が天長節(天皇誕生日)のお祝いの品物などを買い出しに余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近で荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死した。
ワクシリ岬は上は断崖絶壁、下は波打ち際の険しい地形で、なぎや干潮の時はわたることができるが、そうでないときほ容易に越えることのできない難所である。
土地の人々はこのような海難事故が再び繰り返されないようにするため、大正三年にトンネルを造る計画をたて着工した。
開削作業は岬の西側と東側の南方から同時に始められたが、測量計画の誤算か開削枝術が未熟なためか、トンネルの中央で食い違いが生じ工事が頓挫してしまった。ところが和人たちが犠牲者の供養をふくめ、双方から念仏を唱え鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向がわかりエ事を再開することができたのである。
このようにして大正七年十一月八日に開通となり、以来「念仏トンネル」の名がある。
また、この全長六十メートルのトンネルは割合低く中が真っ暗闇なため、「念仏を唱えながら通ると安全である」と言い伝えられている。
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見下ろすと、驚くほど美しい海が広がっていました。

晴天ならもっと美しい色だったものと思われます。



更に先端に進んで、岬の南岸を振り返った風景です。

中央付近に「神岬漁港」があり、右端の海岸近くに「たこ岩」がそそり立っています。(写真右下に拡大写真)

長さ3mにもなると言われる北海道名物「ミズダコ」の頭をイメージします。

残雪のある堂々とした台形の山に魅せられます。



遊歩道のほぼ中間の急な下りの階段の上から岬の先端を見た風景です。

遊歩道は意外に起伏が大きく、変化に富んだ風景が現れてきます。



先端近くの最後の坂を登り、振り返った風景です。

道の先には「神威岬の門」が見え、向こうにそびえる残雪の山は「余別岳」と「積丹岳」でしょうか。

雄大な風景に感動しました。

「神威岬の門」左の小高い場所は、展望台だったようですが見過ごしてしまいました。



上段の写真の右側に広がっていた風景です。

山の急斜面を巨大な獅子が駆けおりている姿にも見える岩です。

獅子の頭のような茶褐色の岩には大小の石が混じった岩で、下の白い岩は堆積した砂岩のようです。

遊歩道を歩く人と比べると岩の巨大さを感じます。



「神威岬灯台」を先端側から見た風景です。

灯台の後方に平地があり、かつて燈台守が住む家があったのでしょうか。

■灯台の前に案内板がありました。
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神威岬灯台
~女人禁制の地に建つ灯台~
この灯台は、北海道庁明治21年(1888)年から6年間にわたって20基の灯台を
建設した最初の灯台であり、明治21年(1888年)8月25日に初点灯しました。北海道の現存する灯台では5番目に古いものです。~

位置     北緯 43度21分00秒
       東経 140度20分51秒
光り方    単閃光 毎15秒に1閃光
光の強さ   17.0万カンデラ
光の届く距離 21.0海里(約39Km)
高さ     地上から灯台頂部 約12m
       水面から投火   約82m
管理事務所  小樽海上保安部
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「神威岬」の先端から見下ろした風景です。

斜め右の先端にある岩礁は、「メノコ岩」と呼ばれ、アイヌの娘が身を投げて岩となった伝説がありました。

平泉から逃れてきた義経と、アイヌの娘の物語で、北海道各地にある義経伝説がここにもありました。

■アイヌ伝説集(更科源蔵編著 北書房版)に掲載されていた伝説です。
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神威岬の神威岩とメノコ岩
 義経が日高平取の酋長の家に滞在中、酋長の娘と恋仲になったが、大望を抱く義経は北に行くことになり、それを知った娘はその後を追い、神威岬まで来たときに、すでに義経主従は帆を張って舟出したあとだったので、恨みのあまり神威岬から激浪の中に飛び込んで、ついに岩になったのがメノコ岩であるとのことである。それ以来和人の舟が女を乗せてこの先を過ぎようとすれば、必ず船を覆えし難船するという。それは酋長の娘が恨みの言葉の呪いによるもので、それ以来この岬から奥へ女人が入るのを禁じたのであるという。(北海道庁編「北海道の口碑伝説」)

 もう一説には音義経がここへ逃げて来たときは冬であったので、この岬の親方のところで一冬をすごすうち、この親方の一人娘と仲がよくなったが、春になって義経が北へ行くことになり、親方から舟を一艘もらったが娘も一緒に行くというので、義経は家へ行って針と糸をもって来るように言いつけ、娘が家に行っている間に逃げ出したので、帰って釆た娘は悲しきのあまり‥今燈台のある崖のところから身投げしてメノコ岩になった。岩が抱いているのは義経の子供で、それからはメノコ岩の所を女が通らなくなったのである。(深瀬春一「松前伝説」)
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雄大にそびえ立つ高さ40mの「神威岩」です。

「神威岩」には神が岩になったとする伝説もあり、神秘的に立つ姿が心に残ります。

■岬の先端に方角を示す円形の案内板がありました。
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神威岩は現在位置から北西の方向約四十メーターの位置にあり、その大きさは高さが四十メーター(現在位置は標高七十メーター)、胴回りは最大約五十メーターにもなります。
海面に見える岩の表面積はおよそ五百坪と広大で「千畳敷」と呼ばれています。
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北海道旅行No.48 国道229号 「にしん街道」で見た風景

2012年02月10日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)、寿都町にある二ヶ所の「鰊御殿」を外から見物し、積丹半島の「神威岬」を目指して走っていきました。

江差から小樽までの海岸を走る国道229号は、かつて鰊漁で栄えていたことから「にしん街道」とも呼ばれているようです。



寿都町の鰊御殿から約20Km、長いトンネルが連続する雷電海岸を走っていると、そびえる断崖が見えてきました。(下段の地図[1]の場所)

雄大な断崖を見上げていると、大自然の圧倒的な力を感じさせられます。

駐車場の案内板を見て立ち寄りましたが、東屋もある小高い丘で、地図では「雷電野営場」(キャンプ場)とあります。

この辺りの道路は、岩盤をくり貫いて造られた区間が多く、難工事だったことがうかがわれます。



積丹半島付近の地図です。

立ち寄った場所に赤い番号を付けています。

上段の断崖の風景は左下の雷電岬の近く[1]の場所で、左上の神威岬を目指して走っていきました。



水田の向こうに残雪の山が美しく輝いていました。

地図[2]の場所(協和町)から南側に見えた風景で、地図で見ると「岩内岳」や、「雷電山」の峰々だったのでしょうか。

北海道南部でも1000mを超える山頂には6月でも残雪が見られます。



屋根の上の煙出しが印象的な「鰊御殿とまり」の建物と、その向こうに泊漁港が広がっています。(泊村、地図[3]の場所)

ここからも彼方に残雪の山が望まれ、上段の写真と同じ峰々だったものと思われます。

時間がなく、建物の外観だけ見て通り過ぎました。



泊村の北部、興志内村‎に差し掛かると海岸近くに大きな岩の島「弁天島」がそびえていました。(地図[4]の場所)

岩の島に架けられた橋は、島の手前で広場に降りていく階段があり、島の右手に続くコンクリートの遊歩道も整備されているようです。

人家もなく、磯釣りくらいしか用のないと思われる島に立派な橋とは実に不思議に思われますが、これも大きな岩山に魅かれる人の習性によるものでしょうか。



神恵内村の小さな港にそびえていた奇岩です。(地図[5]の場所)

5~30cmの石が混じった堆積岩のようで、左下の拡大写真にあるように表面には一部露出した石がイボの様に突き出ていました。

不思議な岩の形と、カモメの遊ぶ風景が印象に残っています。



カモメの遊ぶ奇岩のそばにレンガ造りの倉庫がありました。(地図[5]の場所)

神恵内漁港のすぐ北の海岸で、鰊漁で栄えた明治の頃の建物でしょうか。



道の駅「オスコイ!かもえない」に立ち寄りました。(地図[6]の場所)

魚の干物や、海草などが安く、お土産に購入しました。



海岸近くにちょっと珍しい「柱状節理」の巨大な岩礁がありました。(地図[7]の場所)

岩石に出来る規則的な割目を「節理」と言い、柱状になったものが「柱状節理」です。

溶岩の表面が冷えて規則的な割目が出来、冷えるに従って割目が内部へ進行することで柱状となるようです。

巨大な鉛筆のような六角柱の岩は各地で見られますが、球状の岩が「放射状節理」になった根室市花咲岬の「車石」も珍しい節理の事例です。

眺めていると、酒のツマミにするエイのヒレの干物に見えてきました。



柱状節理の岩礁が見える場所から北に見えた「ジュウボウ岬」の美しい風景です。(地図[7]の場所)

右手に「西の河原トンネル」の入口が見え、左手に岩場の「ジュウボウ岬」が伸びています。

「ジュウボウ岬」の岩場の右に平地があるようで、トンネルの名にもある「西の河原」と呼ばれる浜と思われます。

地図では「西の河原」に地蔵尊が祀られ、あの世へ渡る三途川[さんずのかわ]の「賽[さい]の河原」をこの世に再現した霊場のようです。

アイヌの伝承では約5Km北の「神威岬」の沖を女性を乗せて航行する船は遭難するとされ、この一帯は海の難所だったことも関連しているのかも知れません。



「西の河原トンネル」の入口のそばの美しい断崖の風景です。

沖には「ジュウボウ岬」の岩場が見え、断崖の下に洞窟があるようです。



「西の河原トンネル」の入口のそばにある洞窟の風景です。

よく見ると「柱状節理」の中に出来た珍しい洞窟のようでした。

この他、国道229号沿いには荒々しい断崖の風景や、奇岩が見られ、ドライブを楽しませてくれます。

北海道旅行No.47 寿都町の「鰊御殿」

2012年02月05日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)、最初の観光スポット寿都町の「鰊御殿」の見物です。



寿都町の「鰊御殿橋本家」(明治12年[1879年]完成)の全景です。

日本海沿いの国道229号に入り、北へ約2Kmの場所にありました。

中央に旅館の看板のある母屋、向かって右に蔵、左に倉庫と思われる建物が並んでいます。

早朝、函館市のホテルを出発、長万部から太平洋岸を離れ、日本海沿岸の寿都町へ着いたのは8:20頃でした。



北海道旅行7日目の予定は、函館市から積丹半島を経由して小樽までの約300Kmの行程です。

小樽まで車で走行するだけで7~8時間かかるため、ラッシュ前の早朝に出発、ほぼ中間地点の寿都町へ8:20頃着くことができました。

渡島半島の西海岸を走る国道229号は、前日訪れた江差と、小樽を結んでいます。



道路の向かいから見た「鰊御殿橋本家」の母屋です。

後方に低い山があり、前方は日本海を望みます。

正面から見ると寄棟屋根の二階建建物の堂々たる姿に魅せられます。

寿都町のサイトによると、橋本家は、鰊漁の網元ではなく漁家へ資金提供し、鰊の加工品(鰊粕・身欠き鰊・数の子など)で返済を受けて販売する「仕込屋」と呼ばれる商家だったようです。

やはり鰊漁場の番屋とは建物の趣が違います。



玄関の上に「御宿 鰊御殿」の看板が見えますが、今でも旅館を営んでいるのでしょうか。

一見、昭和の一般民家のような造りにも見えますが、建具をよく見ると明治時代初期、意欲的に洋風化を取り入れた建物だったことが伝わってきます。



屋根の上に小さな切妻屋根の施設が二つ並んでいました。

屋根に突き出た四角の柱の壁にある開口部から、煙出しの施設と推察されます。

シンプルな寄棟屋根にこれら大小の「越屋根」が変化のある美しさを演出しているようです。



向かって右の蔵と思われる建物です。

一見、質素な建物に見えますが、二階の窓周辺に手間をかけた細工が見られます。



向かって左の倉庫と思われる建物です。

屋根や壁に老朽化が見られます。

建物後方に全体をブルーシートで覆われた建物が見えますが、もっと破損が進み保護されているのでしょうか。

歴史的な建造物でも風化しやすい板壁の建物の維持は、困難な問題のようです。



「鰊御殿橋本家」から国道229号を北へ約1Km走った場所にある「漁場建築 佐藤家」です。

1894年(明治27)に釘をいっさい使わず造られた間口24.3m、奥行18mの「鰊御殿」です。

■建物の脇にあった案内板です。
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有形文化財
漁場建築 佐藤家
 所 在 地 寿都郡寿都町字歌棄町
 指定年月日 昭和四十年三月二九日
 管 理 者 寿都町
カクジュウ(□の中に十)佐藤家は嘉永五(一八五二)年以降ウタスツイソヤ、二場所請負人を勤め歌棄場所から黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登から岩内場所との境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し名字帯刀を許された定右衛門・栄右衛門父子の系図である。
またニシン漁獲法の改善を心がけ行成網を導入して西海岸のニシン漁の急速の発展に尽し維新後は駅逓取扱人を命ぜられ当地方随一の名家である。
この建物は主屋は間口二四.三メートル奥行一八メートルの二階建でよせ棟屋根に西洋風下見張り二階正面に櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓屋根の大棟をまたいて洋風の六角形の煙出しその背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風が入りまじった折衷の独特のスタイルの外形をもっている。またニシン場建築にみられる漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建物の完成年代は外形の洋風建築形式からみて常識的に明治一〇年から二〇年の間の建築と思われる。旧態の保存が良好である上建築年代・規模・意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
 平成二年四月
   寿都町教育委員会
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寄棟屋根の中央にガラス窓で囲まれた六角柱の施設がありました。

案内板によれば「六角形の煙出し」とありますが、ガラス窓の上・屋根の下には煙を出す開口部が見られず、ガラス窓にも開放構造が無いようにも見られます。

見る限り、ガラスには汚れも無く、煙出しの施設と思われませんが・・・。



建物を横から見た風景です。

屋根の上にある六角形のガラス窓の施設のすぐ右手に小さな屋根がのぞいているのが見えます。

案内板に「和風の切妻屋根の煙出し」と書かれた施設と思われます。

ガラスが高価だった明治20年代頃、「洋風の六角形の煙出し」とされる施設は、ガラスが煙で汚れることを考えると、明かり取りの施設だったと思われてなりません。



建物の正面を横から見た風景です。

玄関の向こうに柱で支えられた和風の竪繁格子のある出窓のような施設が続き、珍しく撮ったものです。

又、二階の屋根の下側も丸みのある壁で、洋風の窓と合わせてお洒落な雰囲気を感じさせてくれます。

一階が和風、二階や屋根の上の六角形の施設が洋風と、一般の住宅としては珍しい贅沢な建物です。



玄関の風景です。

かつては出入りする多くの人々で賑わう風景が見られたものと思われます。

老朽化した建物や、雑草が生えた玄関先を見ると過ぎ去った長い年月を感じさせられます。

北海道旅行No.46 洋式城郭「五稜郭跡」と再現された「箱館奉行所」

2012年02月02日 | 北海道の旅
に北海道旅行6日目 6/8(水)、江差町から函館市の「五稜郭跡」へ着いたのは夕暮れ間近の18:30頃で、かろうじて間に合いました。

「五稜郭跡」には2年前の夏にも訪れましたが、昨年復元された「箱館奉行所」の見学が楽しみでした。



入口付近にあった「五稜郭」の案内図です。

「五稜郭」は、江戸時代末期に箱館港の開港にともなって造られた施設で、五角形の洋式城郭です。

図右下の駐車場から「五稜郭タワー」の横を通り、濠に架かった二つの橋を渡って城内へ進んで行きます。

■案内板の説明文です。
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特別史跡五稜郭跡
昭和27年3月29日指定
五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨー□ッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。
安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。
五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。
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入口付近の案内板にあった「榎本武揚」と、「土方歳三」の写真です。

「五稜郭」の名を一躍有名にしたのは、「箱館戦争」でした。

明治維新の動乱期、「五稜郭」は、「榎本武揚」率いる旧幕府軍によってあっけなく陥落し、樹立された箱館政権の中核施設としても使われていました。

■案内板の写真に添えられた説明文です。
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箱館戦争と特別史跡五稜郭跡
江戸湾から軍艦8隻と共lこ脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館こ入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。
新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました。日本の新しい時代が始まったのです。

榎本武揚
天保7年~明治41年(1836年~1908年)。
江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。慶応4年(1868年)旧幕府脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占拠しました。

土方歳三
天保6年~明治2年(1835年~1869年)。
武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、脱走軍では陸軍奉行並となります。
明治2年5月11日箱館の一本木関門(現若松町)付近で戦死。
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濠をはさんで見る「五稜郭タワー」です。

日没間近の夕日に美しく染まっていましたが、時間がなく入場は出来ませんでした。

タワーから夕日に映える「五稜郭跡」や、町並みの風景は、さぞ素晴らしいものと思われます。



「五稜郭」の正門へ向かう最初の橋「一の橋」です。

左手の向こうには二番目の橋「二の橋」が見えています。

橋を渡り、右手に一段高く積まれた石垣は、左手の正門を銃砲から守る「半月堡[はんげつほ]」と呼ばれる施設です。

最初の案内図にあるように濠で囲まれた三角形の施設で、二つの橋で結ばれています。



左の図は、最初に設計された「五稜郭図」で、右の図は「半月堡 遺構確認図」と書かれた図で、案内板に掲載されていたものです。

当初、5ヶ所全てに「半月堡」が設計されたものの、施工では正門前の1ヶ所となっています。

江戸時代末期、幕府の予算不足なども要因だったのでしょうか。

■図に添えられていた説明文です。
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五稜郭図(初年度設計図)
市立函館博物館蔵(函館市指定有形文化財)
五稜郭の設計図武田斐三郎が作成した初期の設計図で半月堡が5ヶ所に描かれています。

半月堡
半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁[うまだしるい]ともいい
ます。郭内への出入口を防御するために設置されています。
当初め設計では各稜堡[りょうほ]間の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。
北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎ね出しのある石垣で囲まれています。

※刎ね出し 武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。
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正門付近の風景です。

藤棚のトンネルの上には満開の藤の花が美しく垂れ下がっています。

右手の石垣は、五角形の土塁に造られた石垣の門で、最上部には突き出た縁も見られます。

突き当りの左側手前に門番所跡があったとされ、土間と縁側のついた6畳、5.5畳二間の遺構確認図が展示されていました。



正門付近の案内板にあった「土塁・石垣」の説明図です。

五角形の土塁の中でも正門付近には、高い石垣が積まれ、その断面図のようです。

城郭の上に突き出た石の縁は、「刎ね出し」と呼ばれるものでした。

■「土塁・石垣」の説明文です。
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土塁・石垣
五稜郭の土塁は、堀割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築という工法で造られています。
郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがあります。
石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。
※刎ね出し 武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。

土塁・石垣の構造
本塁石垣は裏込めの奥に土留めの石垣を据えた二重構造になっています。
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上の写真は、城郭の中央に再現された「箱館奉行所」です。

城郭の中に歩いて行くと、風格ある建物が夕日を浴びてそびえていました。

下の写真は、再現建物の前の案内板に掲示されていた昔の「箱館奉行所」で、建物の復元に寄与したとされる写真です。

上に掲載した「榎本武揚」や、「土方歳三」の写真が「田本研造」により撮影とされ、この写真も箱館戦争の頃、「田本研造」により撮られたのかも知れません。

下の説明文にあるように元治元年(1864)に完成、明治4年(1871)に解体と、わずか約7年間の建物だったようです。

この古い写真と、同じ角度で撮影して並べてみましたが、ほぼ同じ姿で再現されています。

■案内板の説明文です。
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箱館奉行所古写真
箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です。
安政4年(1857)に着工して7年後の元治元年(1864)に完成し、蝦夷地の政治的中心となりました。
明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治4年(1871)に奉行所庁舎は解体されました。
それから140年の時を経て、平成22年(2010)に箱館奉行所が復元されました。
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この平面図も「箱館奉行所」前の案内板にあった「五稜郭内庁舎平面図」で、昔の建物の平面図と思われます。

「復元部分」と書かれ、青い破線に囲まれた復元建物以外にも、左や、上部分に建物があったようです。

復元されていない建物跡だった場所をは、カラー舗装で表示されており、当時の施設規模の大きさを感じさせられます。

■案内板の説明文です。
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箱館奉行所(遺構平面表示)
箱館奉行所は、公務を執る役所部分と奥向[おくむき]とよばれる奉行の役宅部分に分かれていて、その総面積は約3,000㎡となっています。このうらの約3分の1の範囲(約1,000㎡)は建物を復元し、残りの約2,000㎡分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示により奉行所建物の範囲を表示しました。
いずれも発掘調査によって発見された柱の礎石などの建物遺構の真上に復元しています。
役所部分は、玄関・大広間などの儀式の部屋、裁判などを行う部屋、奉行とその部下の仕事部屋、炊事部屋などが、奥向には奉行とその家族が住むための部屋などがありました。
また、奉行所を囲む板塀や木柵、井戸などの遺構の位置も表示しています。
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「五稜郭」の入口付近にあった復元模型です。

「五稜郭」全体の構造がよく分かります。

「箱館奉行所」の建物は、復元建物の写真とは違い、棟が複雑に組み合わされた施設だったことがわかります。



「五稜郭」の復元模型に並べて展示されていた建物の説明図です。

平面図の各建物に1~20の番号が付けられ、名称が紹介されていました。

「五稜郭」の門は三ヶ所、それぞれに門番所があったようですが、正門だった右下の門以外は半月堡がなく、防御の弱さが感じられます。

■平面図の建物名称文です。
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1.箱館奉行所、2.用人長屋、3.手附長屋、4.給人長屋、5.近中長屋、6.徒中番大部屋、7.供溜腰掛、8.公事人腰掛、9.仮牢、10.土蔵、11.板庫、12.板蔵、13.奉行所厩14.御備厩、15.秣置場、16.稽古場、17.湯所、18.湯遣所、19.門番所、20.門
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幕末、洋式の城郭「五稜郭」を造った「武田斐三郎」の顕彰碑がありました。

「武田斐三郎」(1827~1880年)は、大洲藩(愛媛県)に育ち、緒方洪庵に洋楽、佐久間象山から兵学を学んでいます。

ペリーが黒船で浦賀に来航した時に書いた「三浦見聞記」で幕府から才能を認められて役人に採用されたようです。

ペリー2回目の来航の時には、箱館での会談に列席しています。

■顕彰碑の碑文です。
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五稜郭築城設計及び監督
箱館奉行支配諸術調所教授役
武田斐三郎先生 顕彰碑

五稜郭は我が国はじめての洋式築城で安政4年着工、7年の歳月を費やして元治元年(1864)に竣功した。
のち旧幕府脱走兵がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念に当たってこの碑を建てた。
昭和39年(1964)7月18日  函館市
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これで北海道旅行6日目が終わり、次の日は積丹半島から小樽まで日本海海岸を北上して行きます。


北海道旅行No.45 江差の風景と、繁栄の歴史

2012年01月28日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、上ノ国を出発して江差町へ着いたのは16時半頃でした。

この後、明るい内に函館まで戻り、2010年に完成した五稜郭跡の「箱館奉行所」を見る予定で、時間がなく、ちょっと立ち寄った江差の風景です。



上ノ国から日本海海岸を北上、左手に鴎[かもめ]島が突き出た江差の町が見えてきます。

左手の海岸に見える三本マストの船は、青少年研修施設「開陽丸」です。

江戸時代、江差は、鰊[にしん]漁で大いに繁栄し、「江差の五月は江戸にもない」とまで言われ、蝦夷地では最も賑わう港でした。

蝦夷地の日本海沿岸の産物は、江差を経由して南に運ばれ、琉球などにも流通していたようです。



江差の町の地図です。

左下は、周辺の地図で、5Km南に上の国があります。

鴎島の東側の湾に江差港があり、港を中心に町がつくられています。



鴎島へ続く砂浜に青少年研修施設「開陽丸」がありました。

この施設は、箱館戦争の最中に江差沖で座礁・沈没した江戸幕府の艦船「開陽丸」を模した鉄筋コンクリート造りの建造物です。

実物大(長さ約73m、幅約13m)で再現され、海底から引き揚げられた「開陽丸」の遺物が展示されているようです。

「開陽丸」は、幕府がオランダへ発注して建造された戦艦で、箱館戦争では旧幕府軍の旗艦となる重要な戦艦でした。

榎本武揚率いる旧幕府軍を江差制圧のため上陸させた後、「開陽丸」は、暴風雨によりこの沖で座礁、さらに箱館から救出に来た戦艦「神速丸」も座礁したため、旧幕府軍の海軍力は致命的な打撃を受けてしまいました。



青少年研修施設「開陽丸」を過ぎると案内板「かもめ島歩きMAP」がありました。

島の左右には松前藩時代に沿岸警備で築いた砲台跡があり、直進すると「鴎島灯台」や、「江差追分節記念碑」などもあるようです。

時間があれば北前船で賑わった江戸時代の江差港を想い浮べながらゆっくりと散策したいものです。


上段のMAP「現在地」から見た「弁天島」と、江差港の風景です。

島の断崖の下に右手の防波堤に続く散策道があり、途中に大きな「瓶子岩」があります。

江戸時代、松前藩は、交易船からの税を徴収するため、蝦夷三湊(松前、江差、函館)のいずれかへ立ち寄るよう義務付けていました。

その中でも江差港は、中核となる港でしたが、幕末の1854年(嘉永7)、日米和親条約で箱館が国際貿易港となり、中核の座を譲ったようです。

しかし、明治から昭和まで鰊の豊漁が続き、港町の繁栄はまだまだ続きます。



江差港に浮かぶ巨大な「瓶子岩」[へいしいわ]です。

太い注連縄が掛けられ、「瓶子岩」は、海の安全や、大漁を願う漁師の守り神でした。

「瓶子」とは神社や神棚に酒をお供えする瓶で、この「瓶子岩」は逆さに置かれた形のようです。

昔、鰊の不漁が続いた時、「瓶子」に入った神水を神様から頂き、海に注いだところ鰊が戻ってきたと言う伝説があり、その瓶がこの岩になったとされています。



国道227号の脇に廻船問屋「横山家」の長い建物が見えてきました。

「横山家」の家屋は、国道と並行するかつての表通りだった右手奥の道沿いにあります。

江戸時代、江差には廻船問屋が13軒あり、その一部は松前藩から税の徴収を任されていたようです。



国道に面した「横山家」の倉庫です。

かつてこの建物は、海岸沿いに建っていたとされ、国道227号までは海だったようです。

船から陸揚げされた海産物は、すぐに海岸の倉庫に運び込まれるよう配慮されています。

横山家の出身は、現在の石川県珠洲市三崎町(能登半島の先端付近)の出身であることから、海運により財をなしたものと思われます。

左の長い建物の下部には柱があり、海に突き出た建物部分を支えているようです。

又、建物のやや左部分には出入り口のようなものがあり、倉庫の搬入出に使われていたものかも知れません。



横山家の近くにあった「姥神大神宮[うばがみだいじんぐう]」です。

「姥神大神宮」は、江差の産土神とされ、江差港に浮かぶ「瓶子岩」と同様に鰊漁の守護神としても崇められているようです。

1447年の創建とされる「姥神大神宮」は、函館にある北海道最古の船魂神社(1135年創建)には及ばないもののこの地に古くから和人系(渡党エゾ)の人々が住んでいたことを教えてくれます。

アイヌ以前の歴史は別格として、北海道は、広大な自然の風景と、明治以降の歴史を味わう土地と思っていましたが、渡島半島南部には中世からの和人系の歴史が想像以上に残っていることを学ぶことが出来ました。


北海道旅行No.44 鰊番屋の原型「旧笹浪家住宅」

2012年01月21日 | 北海道の旅

北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道最古の建物、「上ノ国八幡宮」の次は、隣の北海道最古の民家建築「旧笹浪家住宅」の見学です。

「勝山館跡ガイダンス施設」で、「旧笹浪家住宅」との共通観覧券を購入して入館しました。



国道沿いに建つ「旧笹浪家住宅」です。

「旧笹浪家住宅」は、江戸時代末期の建物とされ、この地で鰊漁を営む旧家の住宅でした。

ガラス戸の玄関を入ると、奥まで土間が続き、向かって左が笹浪家、右手は使用人の居住スペースで、外観の装飾も左右で明確な差がつけられていました。

屋根にはおびただしい数の石の並び、茶色の樹皮の壁は、杉の皮(松前杉?)でしょうか。

杉の皮(?)で覆われた外壁は、内側の板壁を保護し、厳寒の冬に断熱効果を高めるための工夫だったのでしょうか。

■「旧笹浪家住宅」で頂いたハンフレットの説明文です。
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 旧笹浪家住宅(主屋)は、天保九年(1838)に没した仝能登屋笹浪家の五代目久右衛門が建てたと伝えられています。安政四年(1857)に家の土台替え、翌五年に屋根の茸替えを行ったことを記した「家督普請扣」が残っており、十九世紀前半の建築であると認められます。
 イロリの自在鈎[じざいかぎ]に吊された鉄瓶から湯気がのぼり、カマドから真っ黒に煤けた梁組まで立ち上る煙が、遥か遠い時代の記憶を呼び覚まし、どこか懐かしいものに出逢ったような気分にさせてくれる北海道最古の民家建築です。

 昭和三十年代まで主屋の表通りに建ち並ぶ民家の大部分が石置屋根でした。主屋の屋根は置き石のヒバ柾葺です。
 松前藩政時代、無断で檎材を家作に用いた者は処罰されたそうです。
 主屋の柱や梁は雑木で建てられたと伝えられてきましたが、部材の大部分がヒバと判明しています。
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前回も掲載しましたが、上ノ国町の史跡の地図です。

「旧笹浪家住宅」は、地図中央の海岸に近い青色の家のマークの場所です。

西隣に「上ノ国八幡宮」、その隣にも「上國寺」があり、いずれも「北海道最古」と形容される建物が並ぶ歴史的なスポットです。



近くの海岸にあった笹浪家の漁場の風景画で、当時としては珍しい銅版画です。

江戸時代末期、近くの浜に造られた番屋で、ニシン漁の大型化に伴い、家屋と加工施設などが分離した歴史過程を感じます。

展示パネルのそばに銅版画を元に製作された漁場の模型も展示され、鰊漁で賑わう浜の様子が伝わってくるようです。

絵の上部に「渡島国桧山郡上ノ国村廿五番地」とあり、明治政府は渡島半島を平安時代から続く地方の国名にならい「渡島国」としています。

北海道には渡島国」の他に「後志国・胆振国・石狩国・天塩国・北見国・日高国・十勝国・釧路国・根室国・千島国」と全部で11カ国新設されました。

ちなみに「北海道」の名称は、古代からの広域地区名称「畿内・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道」に連なる名称で、幕末の探検家「松浦武四郎」の銘名と言われています。

■添えられた説明文です。
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銅版画(笹浪家漁場 明治20年頃)
のとや笹浪家漁場
重要文化財旧笹浪家住宅(主屋)西方の浜磯に能登屋笹浪家の漁場があった。能登屋笹浪家文書の中に明治20年頃の漁場の風景を刻んだ銅版画が残されている。漁場中央の番屋(漁舎)は、幕末期の上ノ国村名主として高名な久末善右衛門(のちに積丹美国に移住)の旧宅を移築したものと伝わる。
番屋二階の一室で向かい合うのは親方夫妻だろうか、玄関口の二組の男たちは〆粕や身欠きの出来具合でも話しているかのようだ。漁舟が並ぶ浜には大タモを担ぐ男や、早櫂を手に談笑する男たち、番屋横の干場ではニシン粕をエビリで叩き拡げ、筵に干す若い者の姿も見える。

漁場には番屋、船倉、網倉などと考えられる建物が並び、ニシン粕焚き用の薪が大量に山積みされ、の浜側に築設された「やらい」の中には釜場が据えられている。玉砂利の前浜には沖揚げを終えた保津船や磯船が引き揚げられ、澗印が所在なげだ。

モッコ背負いの女性が二人、モッコの中味は数の子や白子、笹目(えら)であろうか。廊下(船倉)から溢れ出たニシン相手にニシン潰しや尻つなぎに精を出す男女の喧噪が聞こえてきそうだ。
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建物正面の特徴のある部分の写真を集めてみました。

右上の家印は、案内の女性から「ほしやまに」と教えられ、星の付く名にオシャレな印象を受けました。

左上は玄関上の欄間で、手の込んだ組子細工のようです。

下の写真は、玄関脇の建物の下部で、基礎の石の上に表面が平らな「笏谷石」が使われていると教えて頂きました。

遠く福井から運ばれた笏谷石は、前回掲載の「上ノ国八幡宮」の狛犬にも使われており、濡れると青緑色になる美しい石材です。



頂いた「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった間取り図です。

一般住宅と比較すると大きな家ですが、小樽市の明治に建てられた豪華な鰊御殿などと比較すると規模が小さく、比較的質素な江戸時代の邸宅といったところでしょうか。

案内の女性から、日本海海岸を北上するに従い、鰊御殿の様式も次第に変化していくと教えて頂きました。

漁業の規模も次第に大規模になり、漁場を求めて次第に北上して行ったのでしょうか。

■パンフレットの説明文です。
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母屋の北半は明治、南半が江戸!!
 正面玄関を入って通り庭に立つと、左側にミセ、その東隣にザシキと呼ばれる接客空間があります。調査の結果、明治二十六年頃の道路拡張に伴い前面半間が切り縮められ、ザシキ・ミセともに改造されたことが分かりました。ミセの北側には蔀(しとみ)とつたわる戸が落とし込まれ、ザシキの出窓のガラスには気泡が入って歪んでいるのが分かります。
 ミセの奥の板敷きの部屋はイタマと呼ばれ、イロリが切られています。イタマは天井を張らず梁組(はりぐみ)を見せています。南側背面の高窓からの採光を考え、軒先を高くし、段違いに入る大きな梁を途中で止めたのでしょう。イタマの東隣にヘヤ二室が作られ、寝室として利用されたといい、二階は小屋裏部屋です。
 町屋建築の特長といわれる通り庭を通って大戸をくぐると、井戸とカマドを配した土間が眼に入ります。通り庭の西側には板敷きのシテンドコがあります。
 イタマとシテンドコの床高を比べると、イタマの床の方が約6cmほど高いのが分かります。イタマ側が家族の居室部、シテンドコ側は使用人が住む空間上下の格付けを床高で表現しているかのようです。
 シテンドコ北室の上には小屋裏部屋が作られ、若い衆(漁夫)たちが寝泊まりしていたと伝えられています。北海道の日本海沿岸にいまも残るニシン番屋建築の原型とも言われています。
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間取り図に「イタマ」とある部屋から「ミセ」「ザシキ」方向を見た風景です。

奥の「ザシキ」の「トコ」には家系図の掛け軸があり、その右には赤い布に包まれた「円空仏」が安置されています。



古びた掛軸に笹浪家初代久右衛門から12代目までの家系図がありました。

「旧笹浪家住宅」が1990年(平成2)に町に寄贈されたのは、11代目夫人とされます。

掛軸の前に置かれた刀掛けは、江戸時代の名主で、帯刀が許されていた頃のものでしょうか。

案内の女性のお話では、笹浪家初代の出身地、能登半島の笹浪の地名は、半島西(羽咋郡端志賀町)と、東の二ヶ所あり、東の珠洲市と考えられているそうです。

■パンフレットの説明文です。
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能登国笹浪家の系譜
 初代久右衛門は能登国笹浪村の出身で、享保年中に松前福山に渡り、のちに上ノ国に転住。爾来笹浪家の当主は代々久右衛門を襲名、家印は仝(ほしやまに)、屋号は能登屋と称しました。
 五代目久右衛門は越後椎谷村の室谷忠右衛門の次男で、文政年中に四代目の女婿となり、「頗[すこぷ]る丹精を抽[ぬき]んで財産を分かつこと数軒」と言われました。
 八代目久右衛門は家業の刺網漁に加え、荒物・小間物を販売するほか、海産業も営み、文久年間には村名主も勤め、家産は次第に豊かになり、慶応二年初めて建網漁を営みました。当時の松前藩主に金員[きんいん]を献じて名字帯刀、式日登城御目見得も免され、明治初期には「全道中の漁家の旧家」と許されました。
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奥尻島へ渡る海峡で拾われたとされる円空仏が安置されていました。

明治初期の神仏分離令によって各地で仏教施設の破壊活動が発生、この仏像も海に捨てられたようです。

■横にあった説明文です。
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円空仏(上ノ国町指定有形丈化財)
 円空は美濃の国(岐阜県)の人で生涯十二万体の造像を発願して諸国を巡った。北海道には寛文六年(一六六六)三十六歳の時に渡り、日本海、噴火湾沿岸各地で仏像を刻み四十数体が現存する。
 本像は全体の造形バランスが大変良く、彫りは細部に至るまで端正で整っており、顔立ちが非常に良く、保存状態もほぼ完全であり、北海道に現存する初期の円空仏の中で優品である。
 町内にはこのほかに五体の円空仏があり、北海道及び上ノ国町指定の丈化財に指定されている。
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円空仏受難
明治政府は江戸時代の仏教中心政策をやめて、神道中心政策に変え、神社から仏教的なものを排除しようとしました。神と仏を分ける神仏分離がエスカレートし、それまで神社にあった仏像などを捨てることにつながりました(廃仏毀釈)
上ノ国町内の円空仏はそれぞれに村人たちの機転で難を逃れ今日まで篤く信仰されてきました。
ここにある円空仏は明治時代の初め頃、久遠(現大成町-せたな町)と奥尻島の間の海中で拾われたものと言われています。受難の歴史を語り伝えているようです。
(字石崎西村初男・ミエ氏旧蔵)
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「上ノ国八幡宮」の参道横に並ぶ旧笹浪家の蔵へ案内されました。

中に入ると、江戸時代後期の旅行家「菅江真澄」のDVDの放映や、焼き菓子の道具、郷土菓子「かたこもち」の木製型数点が展示されていました。

かつて笹浪家では菓子を作っていたそうですが、自家用だったのでしょうか。



「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった蔵の写真です。

1885(明治18)年の建物とされ、1875年(明治8)に「上ノ国八幡宮」が「上之国 勝山館跡」から移設され、10年後の1885(明治18)年に建てられたようです。

上の写真が「米・文庫蔵」、下が「サヤが覆う屋根のない土蔵」で、概要は下記の説明文をご覧下さい。

説明文を見ると、珍しい建物のようでしたが、認識なく見過ごしていました。

■「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった説明文です。
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栄華をしのばせる土蔵建築群
 能登屋笹浪家の繁栄は、「宮の沢の川の水が干ることがあっても能登屋のかまどは干ることがあるまい。七つの倉にないものは馬の角ばかり。」と伝えられていますが、土蔵も往時の栄華を物語る貴重な文化財建造物です。
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嘉永元年築造米・文庫蔵
 平成四年に行った解体調査の結果、二重に仕切られた北室が文庫蔵、南室が米蔵と呼ばれ、北室の裏白戸に刻まれたヘラ書跡により建造年代が嘉永元年九月六日(1848)と判明、主屋に続いて建てられた一連の建造物群の一棟として重要なものです。
 この土蔵の屋根の下地にも樺が使われていますが、その上を漆喰塗で仕上げ、その上に登梁(のぼりばり)を載せて小屋を組み、桟瓦(さんかわら)を葺いた置屋根方式です。
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サヤが覆う屋根のない土蔵
 上ノ国人幡宮の参道をはさんで石垣の上に建つ、サヤで覆われた漆喰壁(しっくいかべ)の附属土蔵(重要文化財指定)は扉内側の漆喰壁のヘラ書きから、明治十八年に新築落成したことを知ることができます。
 土蔵は屋根を葺かず、表面を漆喰塗で仕上げているだけです。サヤと呼ばれる覆屋の中にありますので、雨漏りの心配はありません。
屋根の下地や土台の周りには白樺等の樹皮が使われていました。
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息づく樹皮の伝統文化
解体調査で発見された土蔵の樺葺下地。樺皮は油分が多く含まれているため、防水・防腐効果があると言われています。
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旧笹浪家の土蔵で見せて頂いたDVD「菅江真澄と上ノ国」の画面にあった「菅江真澄」の肖像画です。

柳田國男が「遊歴文人」と称した「菅江真澄」は、1789年(天明9)、蝦夷地の最西端に近い「大田権現(せつか町の神社)」参拝へ旅立ち、その様子を日記「蝦夷喧辞辯[えみしのさえき]」に残しています。

上ノ国には旅の往復で立ち寄り、上国寺へ滞在、夷王山にも登っている縁からこのDVDが製作されたようです。

三河の人「菅江真澄」が蝦夷地の霊場「大田権現」へ旅立ったとする話は、とても興味深いものでした。

その旅の年は、道東アイヌの蜂起事件「クナシリ・メナシの戦い」が発生した年でもありました。

「菅江真澄」は、帰路に上ノ国の天の川付近にさしかかり、早馬の役人が100人のシャモ(和人)が殺されたことを告げ廻っているのを目撃、事件を知ったことを記しています。

■DVD「菅江真澄と上ノ国」の案内画面より
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菅江真澄翁自画像
いまから200年も前、真澄は蝦夷地の領主・松前氏の祖が築いた勝山の旧跡をたずね、夷王山(医王山)の頂に立っています。真澄にならい仰ぎ見る勝山館跡と、背後にそびえる夷王山(標高159メートル)までの散策を試してみてはいかがでしょうか。
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蔵に「菅江真澄」が歩いた旅のルート地図が展示されていました。

霊場「大田権現」は、地図左上にあり、日本海側の赤いルートが旅日記「蝦夷喧辞辯[えみしのさえき]」に記されています。

東北地方から蝦夷までの旅の記録が多く残されているようで、とても興味深い人物になりました。

上ノ国では「上国寺」や、「洲崎館跡」などへ立ち寄ることが出来ず、心残りでしたが、史跡の案内では地元の方々の熱意を感じました。


参考文献:「人物叢書 菅江真澄」 菊池勇夫著 吉川弘文館発行

北海道旅行No.43 北海道最古の建物「上ノ国八幡宮」

2012年01月15日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道檜山郡上ノ国町を見下ろす「夷王山」中腹にある「上之国 勝山館跡」の見学を終え、麓の「上ノ国八幡宮」を参拝しました。

上ノ国町は、北海道の南端「白神岬」から日本海海岸を北へ約60Kmの場所にあり、北海道では松前・函館と並び、中世からの和人の史跡が見られる町です。



海岸近くの駐車場を背にして見た「上ノ国八幡宮」と、「旧笹浪家住宅」(左)です。

「上ノ国八幡宮」は、前回の「上之国 勝山館跡」にあった「館神八幡宮跡」を1875年(明治8)に移したとされます。

数年前の調査で、移設された本殿建物は、1699年(元禄12年)に再建されたことが分かり、北海道最古の建造物とされてます。

参道左手の「旧笹浪家住宅」の建物は、参道の右手にも蔵2棟が並んでおり、明治に「上ノ国八幡宮」がここへ移設されるまでは一体の土地だったのかも知れません。



「勝山館跡」のパンフレットに掲載されていた上ノ国町の史跡の地図です。

「上ノ国八幡宮」は、地図中央の海岸に近い辺りに赤い鳥居の場所です。

西隣に北海道最古の寺院「上國寺」(1758年)、東隣に北海道最古の民家「旧笹浪家住宅」があり、いずれも北海道最古級建物で極めて貴重な地区です。

北海道渡島半島の地図が左上にあり、赤い印が上ノ国町の場所です。



二つ目の鳥居の先に「上ノ国八幡宮」の社殿が見えてきました。

鳥居を過ぎると、石灯籠、次に狛犬が両側に見え、鳥居の左には手水舎があります。

北海道で見る鳥居の多くは、柱や、鳥木(横木上段)・貫(横木下)がすべて丸太状ですが、これは西日本でもよく見る明神系のスタイルです。

中世から交易で栄えた土地柄だけに神社のスタイルも本州並みのようです。


「上ノ国八幡宮」の社殿です。

拝殿後方に建物が見えますが、小規模な本殿建物(高さ3m、幅2.1m、奥行き2.3m)を収容した覆屋[おおいや]だそうで、残念ながら現存する北海道最古の建造物にはお目にかかりませんでした。

最近の改修工事で建物がきれいになった反面、古びた趣がなくなっているそうです。



鳥居をくぐると左右に背の高い石灯籠がありました。

隣の「旧笹浪家住宅」で、見学の案内をして頂いた女性のお話では、灯篭の下部を鶴(右)と、亀(左)が支え、上に鳥が載っているとのことで、非常に珍しい灯篭でした。



石灯篭の上に載る鳥です。

参道を通る人に頭を下げているようにも見え、狛犬と共に神社を護っているようです。

鷹か鷲かよくわからないとのことでしたが、礼儀正しい鳥の姿はほほえましいものです。



石灯篭の胴の部分です。

「旧笹浪家住宅」の見学案内の女性から龍が彫ってあると教えられ、撮った写真です。

下の動物は鶴とされ、押しつぶされたような姿には哀れさを感じます。



拝殿前の狛犬です。

風格のある狛犬ですが、台座にはかすかに「明治三十一年」とも読める文字が見られました。

「旧笹浪家住宅」の案内の女性のお話では本州で彫ったもので、狛犬の愛好家がよく訪ねて来られるとのことです。



神社拝殿の屋根には「千木」や、「鰹木」はないものの、豪華な彫刻で飾られていました。

拝殿建物は、1876(明治9)年に江差(上ノ国町から北へ約5Km)の「正覚院」(曹洞宗)から移設されたとされ、これらの彫刻も寺院建築のものだったのでしょうか。

1473年、松前氏の祖「武田信広」によって勝山館で創建された神社が、500年以上の歳月を地元の人々に大切に守り継がれていることを知りました。

北海道旅行No.42 中世の山城「上之国 勝山館跡」[2]

2012年01月08日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道の南端に近い松前町から北へ55Km、上ノ国町「勝山館跡」の見学の続きです。

前回掲載の「勝山館跡ガイダンス施設」で予備知識を得て、いよいよ史跡の見学です。



「勝山館跡ガイダンス施設」の大きな窓ガラス越しに見えた「夷王山」です。

時間がなく、山頂には上りませんでしたが、ガイダンス施設で見た映像では、山頂からの眺めはすばらしいものでした。

頂上の少し右に小さく鳥居が見え、茂みの中に武田信広を祀る「夷王山神社」の社殿があるようです。

幕末の松前藩士の著書「松前家記」によると「城西後ろの山に葬り、その山を夷王山と名付けた」とあります。

しかし、室町時代の1494年に没したとされる武田信広以降、四代目までの墓の場所は不明とされ、以外にも伝承は途切れていました。

地方豪族でも五輪石塔の墓を作る時代、石塔が無いのは身分の問題だったのでしょうか。



「ガイダンス施設」を出て、「勝山館跡」へ向かう道を行くとすぐ「夷王山墳墓群」の案内図がありました。

右上に赤い字で「館神八幡宮跡」とあるのが「勝山館跡」で、「夷王山墳墓群」は、第Ⅰ地区から第Ⅵ地区まで、破線で囲まれた六ヶ所のエリアに分かれています。

「勝山館」にちなむ多くの人々の墓は、「夷王山」に見守られる中腹の斜面につくられていました。

「ガイダンス施設」は、第Ⅱ地区に建てられており、「館神八幡宮跡」までの道の中間地点に「アイヌ墓」があます。

■案内板の説明文です。
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夷王山墳墓群
 勝山館跡の背後から天王山の麓のあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2×1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。
 火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積んで墓を作っています。宋銭や明銭、漆塗りの椀や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には覗[すずり]、玉なども副[そ]えられていました。
 いずれも仏教様式の墓と思われますが、シロシのついた漆器を副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。
 これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらには勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。
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上段の案内図があった場所から北東の斜面に広がる中世からの墳墓群(第Ⅱ地区)の風景です。

墳墓の盛り土の上に墓を識別する標識が立てられているようです。

説明文にあった六ヶ所に分かれた墓地が、時代で分かれていたのか、身分などで分かれていたのか、気になるところです。



ガイダンス施設から「勝山館」に向かう道の途中に案内板「夷王山墳墓群のアイヌ墓」に墓の説明図がありました。

左右の墓は、埋葬形式や、副葬品からアイヌの墓とされ、当時の「勝山館」をとりまく社会の様子を探る重要な遺跡としても注目されているようです。

■ガイダンス施設内の展示パネルにあったアイヌ墓の説明文です。
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夷王山墳墓群のアイヌ墓
 勝山舘の西後方、標高159mの夷王山の山裾から勝山館の背後を取り囲むように650余りの盛土の墓が、六地区に跨って広がる。1952年からの発掘調査で、火葬や北頭位・屈葬で土葬された仏教様式の墓であることが分り、勝山館の人たちの墓地と考えられているしても。
勝山舘跡に最も近い第Ⅰ地区から東頭位伸展土葬墓が2基、北頭位屈葬土葬墓に隣り合って見つかった。伸展葬墓は身体の脇や真ん中に太刀が置かれ、漆器や小刀、針、骨鉱などが副えられた男性の墓である。
一基は二人合葬の墓で、その一人はニンカリという銀製の耳飾りをつけている。葬法は江戸時代のアイヌの墓に共通する。周囲にアイヌの葬送儀礼を知る人の存在が見えてくる。
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■アイヌ墓のそばの案内板にあった説明文です。
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夷王山墳墓群のアイヌ墓
仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀を置き、漆器や小刀などをそえた男性の墓です。一人は錫製の耳飾をつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人たちがいたと思われます。
このすぐ北は斜面を削って砂利を敷いた墓所で、小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。
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二つの説明文で、耳飾(ニンカリ)が銀製と、錫製に相違があります。



「アイヌ墓」のある細い道から少し広い道に出ると、すぐに「搦め手門跡」が見えてきました。

急斜面の坂の先の左右に柵があり、「搦め手門」があった場所と思われます。



「溺手門」の前にあった付近の案内図です。

搦手門の前に幅の広い空堀Ⅲがありますが、手前に平行して空堀Ⅱ、搦手門に向かって左側にも空堀Ⅰが見られます。

空堀が造られた年代が不明で、断定も出来ませんが、空堀Ⅰは、ゴミ捨て場に沿って掘られており、ゴミ捨て場の排水と、空堀Ⅱの雨水を空堀Ⅲに誘導し、下流側にある川に流していたものと推察されます。

川に隣接する池は、泥やゴミを留め、直接川へ流さない配慮だったようにも見受けられます。

■「空堀Ⅰ」のそばにあった案内板です。
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溺手の構え
 城の正面を大手といい、背後を溺手[からめて]といいます。
勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを掘り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。
 土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がⅤ字形の「薬研掘」となっていました。
 空堀は15世紀後半から16世紀の間にⅠからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期があったとも考えられます。
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CGで再現された「勝山館」の画像です。

搦手門側から見た「勝山館」で、ガイダンス施設でビデオ放映されていたものです。

中央を貫く通りは、搦手門から北東方向に伸び、「勝山館」は、柵と急な斜面で守られていたようです。

■搦手門の前にあった案内板の説明文です。
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勝山館の後ろの守り
神仏に守られて
1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部は二つの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が館の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。
一番高いところに館の守護神、館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。
この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。
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搦手門を入り左手、階段状の敷地最上段に「館神八幡宮跡」がありました。

正面の建物跡の他、右手奥にも小さな建物跡があり、写真右下には「鳥居跡」と書かれた石が置かれていました。

凸型に石で囲まれた建物跡の中には柱の敷石が並んでいるようです。

右手奥の小さな建物跡には石を丸く並べた柱跡が四ヶ所見え、掘立柱の建物だったようです。



「館神八幡宮跡」の前にあった案内板の説明図です。

凸型の建物跡は、「江戸再建社跡」とあり、右手奥の建物跡は「室町創建社跡」とあります。

右側や、下側の建物跡には「掘建柱建物跡」とあり、室町時代に創建された社と同時代の建物だったのでしょうか。

■案内板の説明文です。
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館神八幡宮跡
1473年松前氏初代武田信広は館の上に八幡神を祀り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。
 高い部分を削り下伏西から南を囲む土塁を造つて柵を立て、正面に溺手門を設け堀を渡る橋を架けています。
 土塁の内側で掘立柱の建物跡と礎石立[そせきだて]の建物跡が見つかりました。掘立柱は創建当初の社跡で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。
現在の上ノ国八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷された北海道最古の建造物です。
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通りを進み、通りの両側に柵が見える勝山館の北東の端に来たようです。

柵のある通路の脇に太く短い柱があり、門の跡だったのでしょうか。

通りの両脇には排水溝があり、空堀へ流れ込んでいたようです。

左右の土地は、階段状に整備され、海の見える風光明媚な宅地の造成地にも見えます。



勝山館の北東の門跡が見える辺りにあった案内板の建物跡説明図です。

凡例には茶色が「住居」、緑が「クラ」、紫が「コヤ」とあり、建物が混在していたようです。

下の説明文では、図の上部の柵に沿った部分が「三段目(帯郭)」とあり、土塁の上に柵があったと思われます「物見櫓」があったとしています。

その内側「二段目」と書かれた場所も一段目より高くされていたようです。

凡例では紺色ほ「櫓」とし、二段目、三段目、空堀の上に櫓があったようです。

「現在地」の左の通路にも紺色の「櫓門」とされる場所がありますが、他の再現図には見当たらず、謎のままです。

■案内板の説明文です。
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東の厳重な守り
帯郭[おびぐるわ]と物見櫓
勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100~140㎡ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。
中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになうています(帯郭)。
堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。
勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。
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ガイダンス施設に展示されていた「勝山館C.G復元と整備」の写真です。

正門のある東北方向から見た「勝山館」の再現画像で、左手の谷が「華ノ沢」、右手の谷が「寺ノ沢」です。

「寺ノ沢」の名は、「夷王神社」となった1893(明治26)年以前には「夷王山」に薬師如来が祀られていたことによるものかも知れません。

門の右手には「客殿」があり、来客のもてなしは、海がよく見える最高の場所が選ばれたようです。

時間がなく、ゆっくりと見学出来ませんでしたが、中世の山城の雰囲気は、味わうことが出来ました。

北海道旅行No.41 中世の山城「上之国 勝山館跡」[1]

2012年01月05日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、函館のホテルを出発、北海道最南端の白神岬、日本海沿岸の松前町から北へ55Km、江差の南約5Kmの場所にある上ノ国町へ着きました。

上ノ国町は、函館を基点とする江差線が半島の南部を横断して日本海側に出て、はじめての駅がある町でもあります。

先ず訪れたのは発掘された中世の山城「勝山館跡」を紹介する「勝山館跡ガイダンス施設」です。



「天河の湊と上之国三館跡」と書かれた展示パネルに北から見下ろした上ノ国町の風景写真がありました。

日本海に注ぐ天の川対岸の山の斜面に「花沢館跡」「勝山館跡」があり、右手の海岸には「州崎館跡」と、交易で栄えた天の川河口の港を取り囲むように三つの「館跡」が見られます。

対岸にそびえる「夷王山」には、この地で覇権を握り、松前藩主の祖となった「武田(蠣崎)信広」も埋葬され、山頂には「信広」を祀る「夷王山神社」がありました。



「勝山館跡ガイダンス施設」に展示されていた「中・近世における主な交易品の経路」のパネルです。

中・近世の蝦夷地では北の樺太・大陸北部、東の千島など、ユニークな産品の交易が想像を超えるスケールで行われていたことがわかります。

中世、「上之国」といわれたこの地は、和人が日本海沿岸に造った主要な交易拠点では最北に位置していたようです。

■「勝山館」のパンフレットに交易の記述がありました。
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勝山館と日本海交易
 勝山館からは10万点ほどの様々な種類のものが発掘されています。5万点あまりの陶磁器、鉄・銅などの金属製品、漆器や木製品、骨角器、石・土製品などです。陶磁器はすべて本州から運ばれてきたもので、中国製のものが40%ほどあります。瀬戸・美濃、志野、唐津、越前、珠洲[すず]焼などの日本製もあります。物と一緒に仏教や茶道などの本州文化が伝えられ、鉄砲(玉)やキセル(タバコ)など、この頃外国から日本に入ってきたばかりのものなども勝山舘に伝えられています。
 館の中では、当時の最先端技術を駆使して鉄製品や鋼製品を盛んに作っていました。たくさんの鉄製品や銅製品は生活を豊かにし、交易にも大いに役立ったと思われます。
1485年北夷(樺太-今のサハリン)から「銅雀台瓦硯」(中国製)が武田信広に献上され、1920年頃まで松前氏の家宝になっていたことなどは、北との交易が大変盛んだったことを教えてくれます。
 勝山館直下の大澗[おおま]や天ノ川の河口には、各地からたくさんの交易船が集まり、上ノ国は日本海交易の中心地として、とても繁栄していたと思われます。
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「三類のエゾ」と書かれたパネルがありました。

夷島[えぞがしま]と呼ばれた中世の北海道には、日本海沿岸の「唐子」、太平洋岸の「日ノ本」、渡島半島南部の「渡党」と、三類のエゾ(アイヌ?)が住んでいたとしています。

奥州藤原氏が滅亡後、蝦夷地との交易は、鎌倉幕府から蝦夷管領に任じられた安藤氏に支配されていました。

安藤氏は、津軽半島の十三湊[とさみなと]を拠点とし、次第に蝦夷地への影響力を拡大させていったようです。

安藤氏の支配下にあった津軽海峡を挟む南北のエリアを「渡党エゾ」としている点に強い興味が湧いてきます。

函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の見学で、縄文時代に共通の文化圏だったことや、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を目指していることを知りました。

「渡党エゾ」は、縄文時代から続く交易に携わる人々だっのかも知れません。

■「夷島代官安藤氏と三類のエゾ」と題するパネルの説明文です。 ******************************************************************************
夷島代官安藤氏と三類のエゾ
 安藤の乱 鎌倉時代の終わり頃(1322~1328年)幕府の夷島代官、津軽の豪族安藤氏は、相続争いをして従兄弟同士が岩木川を挟んで戦った。幕府はこの紛争を「東夷蜂起」と恐れたが治めることができす、滅亡する原因の一つにもなった。
 戦いに勝った一族は十三湊を拠点に活発に交易を行い、勢力を拡大した。また秋田に進出した一族は湊安藤氏の祖となった。

 この頃の夷島には「日ノ本」「唐子」「渡党」という三類の蝦夷がいた。「渡党エゾ」は時々、津軽外浜に交易にやってきた。
 彼らが毒矢を射る様子などは後のアイヌの風俗ととてもよく似ている。
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渡島半島南部に広がる中世の「館」(交易拠点)の地図です。

安藤氏は、渡島半島南部での交易体制を整備、大館(松前エリア)、茂別館(下之国エリア)、花沢館(上之国エリア)の三拠点に守護を置き、他の館をその支配下に置いたようです。

■パネルの説明文です
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道南十二館と三守護職
1450年頃、函館の東、志濃苔[しのり]から上ノ国の間に12の館[たて]があったという。館には渡党[わたりとう]の子孫とも言われる館主がいた。彼等の中には、津軽や南部の出身者で安藤氏ゆかりの「季」の一字を名乗る者も多かった。
1456年秋田の湊安藤氏から男鹿に呼び寄せられた安藤政季は、大館の下国安藤定季を松前守、茂別館[もべつだてに弟家政を置いて下之国守とし、花沢館の蠣崎季繁[かきざきすえしけ]を上之国守護としてその後を守らせたという。

館と館主
 館 名   所在地(現在の地名)   館   主
1志苔館  函館市志濃里町     小林太郎左衛門尉良景
2箱 館  函館市函館山々麓    河野加賀右衛門尉政通
3茂別館  上磯郡茂別町茂辺地   下国安東八郎式部大輔家政
4中野館  上磯郡木古内町字中野  佐藤三郎左衛門尉季則
5脇本館  上磯郡知内町字脇本   南條治郎少輔季継
6穏内館  松前郡福島町字吉岡   蒋土甲斐守季直
7覃部館  松前郡松前町字及部   今泉刑部少輔季友
8大 館  松前郡松前町神明    下国山城守定季 相原周防守政胤
9禰保田館 松前郡松前町字近藤   近藤四郎右衛門尉季常
10原口館  松前郡松前町原口    岡部六郎左衛門尉季澄
11比石館  檜山郡上ノ国町字石崎  厚谷右近将監重政
12花澤館  檜山郡上ノ国町字勝山  蠣崎修理太夫季繁
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松前氏の始祖「武田(蠣崎)信広」の肖像画が展示されていました。

松前藩の歴史書「新羅之記録」によると「武田信広」は、若狭武田氏とし、事情があり出奔、上之国花沢館の蛎崎季繁の客将となったとされます。

1457年コシャマインの戦いが発生、大半の館が陥落する中、武田信広はコシャマインを討ち、苦境を脱したようです。

蛎崎季繁の娘婿となった信広は、海岸に近い場所に「州崎館」を築き、「花沢館」を廃止した後、「勝山館」の建設に着手したようです。

アイヌとの争いは、その後も90年以上続いていたことが下の年表からもうかがえ、館の立地や、施設の内容には緊迫した時代背景が強い影響を及ぼしたものと思われます。

■年表のパネルが展示されており、その一部を転記しました。(一部文章を簡略化)
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年表
1439(永享11) 平氏、夷島脇沢山神(現函館市石崎)に鰐口を寄進。
1443(嘉吉3) 下国安東盛季、南部義政に敗れ夷島に渡る。
1454(享徳3) 安東政季、武田信広、河野政通、相原政胤らを従え、南部大畑より夷島に渡る。
1457(長禄元) コシャマインの戦い。道南12館の内茂別館・花沢館を除く10館が陥落。武田信広、コシャマイン父子を討つ。
1467(応仁元) この頃、武田信広、上之国勝山館を築造。
1473(文明5) 武田信広、上之国館内に館神八幡宮を造立。
1512(永正9) 宇須岸、志濃里、与倉前の三館が陥落。
1513(永正10) 大館、陥落。
1514(永正11) 蠣崎義広、上ノ国より大館に移住し、松前之守積職に就く。
1551(天文21) 蠣崎季広、東西アイヌと和睦。夷秋之商船往還之法公布。
1593(文禄2) 蠣崎慶広、秀吉より朱印状、貢鷹の印書、公逓の印書を賜り、夷島管理者として公認される。
1596(慶長元) 上ノ国に檎山番所を設置したという。(勝山館終末年代)
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「勝山館跡」のパンフレットに掲載されていた上ノ国町の史跡の地図です。

道南12館の一つ「花沢館」は、天の川に面した山の中腹にある標高58mの尾根に築かれ、天の川上流方向や、海岸に沿った北方向からの敵を見渡し、川を濠とした小規模な施設のようです。

「花沢館」から移転した「州崎館」は、当時北に広がっていた河口湖の北岸にあったとされ、交易港の施設も伴っていたようです。

コシャマインの戦いで陥落した他の和人集落からの流入対策や、コシャマインを破った自信などから平地への移転を決断をしたのかも知れません。

しかし、コシャマインの戦いから10年後の1467年頃、「勝山館」を完成させ、交易港の施設の中心も次第に天の川南岸へ移設したようです。

河口湖の館と、交易港と言えば、蝦夷地の交易を支配していた安藤氏の拠点、「十三湊」が思い浮かんできます。



「勝山館跡ガイダンス施設」に展示されていた「勝山館」のジオラマです。

左上に標高159mの「夷玉山」がそびえ、二つの谷に挟まれた細長い斜面に造られた「勝山館」には以外に多くの建物が見られます。

「天の川」河口の港から続く一本の坂道の両側に家屋が並び、賑わった当時の様子が伝わってくるようです。

「勝山館跡」を見下すように、なだらかな円錐形の「夷玉山」がそびえ、「勝山館跡ガイダンス施設」はその左手にあります。

■「勝山館跡ガイダンス施設」で頂いたパンフレットにあった「勝山館」の説明文です。
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館のつくりと整備・復元
1979年から始まった発掘で、舘の中の様子が大分わかってきました。勝山舘の中心部は宮ノ沢と寺ノ沢に挟まれた丘にあり、三段の大きな平地になっています。二段目と三段目の前後に大きな空壕[からぽり]を掘り切り、柵や櫓[やぐら]などで厳重に守っています。壕の底から段の上までは8~10mの深い急斜面になっています。
 壕の中央に架かる橋を渡り、門をくぐって館の中心部に入ります。館の中央には幅3.6mの道が通り、道の両側に100~150㎡ほどの敷地が作られ、住居などが建てられています。正面の橋を渡ったすぐ右側には2000㎡ほどの広い敷土世かあり、館の主たちが使っていたと思われます。それぞれの地区は5回前後作り変えがされています。
 現地や模型では、勝山舘の勢いが一番盛んだった第Ⅲ期(1520年頃か)の様子を整備・復元しました。
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「勝山館跡」から出土した「フイゴ羽口」(左)と、「るつぼ」(右下)、スラッグ(右上)が展示されていました。

「フイゴ羽口」は、送風管の先端部分、「るつぼ」は、溶解した金属を入れる容器、「スラッグ」は金属の精錬で出来たカスです。

コシャマインの戦いの発端になったのも志苔館(函館の東)の鍛冶屋とアイヌの少年との取引のいざこざからとされ、和人が作る鉄製品は、ここでも重要な交易品だったと思われます。

■添えられていた説明文です。
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鍛冶関連遺物
客殿西側の板塀に囲まれた場所で、鍛冶作業場がみつかっている。そこからは、火力を強めるフイゴ羽口、金属素材を溶解させる容器である土製のるつぼ(坩堝)がみつかっている。

フイゴ 羽口[はぐち]
鍛冶を行う作業では、フイゴを用いて火力を高める。フイゴで発生させた風は、送風管を経て炉に送られる。羽口は、送風管の先端に装着する筒状の付属品である。勝山館では鍛冶作業場もみつかっており、そこから鎧の小札149枚・銅製金具37点、釘317点などが出土している。
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木製のヘラのようなものが展示され、トイレットペーパーの役割をする「ちゅう木」と称する道具と知り、掲載しました。

ちゅう木[籌木]は、古代から近世まで使われただそうで、紙が高価だった時代、必須のアイテムだったことを知りました。

生活の中から生まれた道具と思われますが、上手に使うにはだいぶ慣れが必要なのてしょね。

■添えられていた説明文です。
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ちゅう木
勝山館から長さ約15cm、幅約1~1.5cmの薄い板がたくさん見つかっている。
これらは、大きさからウンチをした後にぬぐう板であることが考えられている。
想像するとちょっと痛そうだが当時は紙が貴重であったため、仕方なかったのかもしれない。
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様々な展示のある「勝山館跡ガイダンス施設」の建物の中に床のない場所があり、発掘された墓の遺跡のレプリカが保存されていました。

夷王山の頂上付近から中腹一帯に600以上の墓があり、これもその一部のようです。



「夷王山墳墓群」と書かれたパネルに「勝山館跡ガイダンス施設」付近の墓の遺跡分布地図がありました。

凡例3番目の茶色「屈葬土葬墓」と、凡例4番目の橙色・十字形「荼毘跡・火葬墓」が混在していたようです。

■墓の説明文です。
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このガイダンス施設の周辺、600㎡ほどの中に19個の盛り土があり墳墓と想定していたが、発掘調査で40基に倍増した。
長い間に盛り土が崩れ、位置が分からなくなったものも多く、中には道の下になってしまったものもある。
なお、このガイダンス施設の中にある7基のレプリカは、真下にある墓をそのままに型取りして再現したものです。
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「勝山館跡ガイダンス施設」内に頭を北に向け、横向きに寝かされた「屈葬土葬墓」のレプリカがありました。

展示パネルでは、この上に盛り土をして「卒塔婆[そとば]」(細長い木片)を立てていたようです。

これが当時の和人の埋葬の基本形式だったのでしょうか。



土の上に「火葬施設」「136号」と書かれ、十字型に掘られた遺跡(レプリカ)がありました。

棺を燃やした跡で、多くはその場に埋葬したとされ、専用の火葬施設ではなかったようです。

墓の分布図では土葬墓と、火葬墓が混在していますが、時代変化によるものか、宗教の違いによるものか不明です。

90年以上続いたアイヌとの争いの時代、数は少ないものの、アイヌの遺品が出土した「伸展土葬墓」も発掘されたようで、遺跡から当時の勝山館の様子が垣間見えてくるようです。

■「火葬施設」の説明文です。
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荼毘の跡と火葬墓
直径1m、深さ20cmほどの円い穴や、十文字型に掘りくぼめた長軸が2m、深さ20cm前後の溝の中から白く焼けた骨、銭、数珠玉、炭、釘などが見つかっている。この上にマキを積み、棺を置いて茶毘[だぴ]に付した火葬場の跡である。
 溝は風通しを良くする工夫と思われる。火葬後その場に埋葬したり、骨を拾い集めて、曲げ物や一辺が30cmほどの木箱に納めて別に埋葬し、残りの骨などをそのまま埋めたりしている。
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次回は、日本海を見下ろす史跡の見学です。

北海道旅行No.40 再現された蝦夷地の都市「松前藩屋敷」

2011年12月30日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道松前町の松前城の見学の後、江戸時代の松前を再現したテーマパーク「松前藩屋敷」へ行きました。



「松前藩屋敷」の入り口付近の風景です。

入口の上に「武田菱」と言われる「四つ割菱」が丸で囲まれた紋が白い幕に描かれています。

松前藩主の松前氏の始祖「武田信広」が清和源氏の流れを汲む若狭武田氏だったとされることによるものです。

室町時代中期にアイヌと和人の戦い「コシャマインの戦い」(1457年~1458年)が発生、渡島半島の各地にあった和人の拠点「道南12館」の大半が陥落する事態となったようです。

若狭から蝦夷地に渡った「武田信広」は、「道南12館」の一つ、上之国「花沢館」の蠣崎氏の配下にあり、コシャマイン率いるアイヌ軍を倒したことから、蠣崎氏の女婿となり、家を継承していったようです。

5年前の若狭旅行で行った「高浜町郷土資料館」で、若狭武田氏が安芸武田氏から派生した武門と知り、広島県にも縁があることから歴史への興味も増してきます。

■門を入った所に案内板がありました。
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松前藩屋敷
 蝦夷地唯一の城下町松前は、幕末時には戸数八千、人口三万を数え、仙台以北では最大の都市といわれ、近江商人を中心として北前船(弁財船)によって、日本海沿岸から瀬戸内海方面まで広く経済交流が行われ、大いに発展した町である。
 しかし、箱館戦争で城下街の三分の二を焼失し、廃藩後は、士族、豪商が多く離散し、さらに打ち続く火災によって、古い町並みは全く消失した。
 町では、これら往時の特色を持った建物十四棟を再築し、松前藩屋敷と命名した。
 この場を通じ、北前船交流地との広域経済をすすめると共に、松前藩の政治・経済・文化・民俗を理解していただき、さらに町の活性化、観光産業の飛躍を期待している。
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「松前藩屋敷」の鳥瞰図です。

パンフレットにあったもので、再現された松前の街を見学する順路で、右下の「表門」から番号順に歩きます。



「松前藩屋敷」の廻船問屋の土蔵に江戸時代の松前の街の絵が展示されていました。

再現された松前の街の見学順路の案内で、右下の「表門」から番号順に歩きます。

海岸に沿って松前の街が長くのび、中央に松前城がそびえています。

海岸にはたくさんの黒い帆柱が林立し、沖には帆をあげたおびただしい数の北前船が水平線まで続いています。

江戸時代後期には年間1,500艘以上の船が来航していたとされ、この絵もまんざら大げさな表現ではなかったようです。

■絵に添えられた説明文です。
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松前風景画
江戸時代松前城下の賑わいの様子を描いたもの、海岸には多くの北前船が停泊し、沖の方には出船入船が多数帆をたてている、いわゆる北前船である。本州と北海道(えぞ地)の産物、生活物資の輸送が盛んな松前港は最大の拠点であった。東北以北で最大の都市と福山(松前)が言われたのもこの頃である。
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海岸近くにあったとされる「沖の口奉行所」の再現建物です。

幕府から独占を認められた蝦夷地交易への徴税に依存する松前藩の重要な役所で、現代の税関のような機能だったようです。

江刺や、函館にも同様の役所があったようで、蝦夷地に来航する船は、松前・江刺・函館の三湊いずれかに立ち寄ることとされていました。

日本海沿岸を宗谷まで行く場合の「江刺」、太平洋側を根室・千島まで行く場合の「函館」を想定したものと思われます。

■建物の前に案内板がありました。
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松前藩沖の口奉行所
 松前藩の蝦夷地へ出入りする船改め、積荷、出入人を改め、税役を徴収する役所て、奉行、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代等の役人が配置されていた。
 白洲では、入国者を裸にして調ベ刀傷のある者、入墨のある者と、身元引受人のない者の入国を許さず、次に本州へ出帆する船に乗せて帰した。
遭難船の救助は附船宿に任せ、奉行所はこれを監視するたけであったが、商人達からは役人に多くの太義料、袂銭の献金があったといわれている。
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武士の人形が展示された「沖の口奉行所」の建物の中の風景です。

来場者が少ないのんびりした会場内で、暇そうにふんぞり返った武士を見ると、のんびりとしたお役所仕事を連想します。

しかし、パンフレットの説明に「蝦夷地に入ろうとする者は、お白州で裸にされ、刀傷や入れ墨がないか等を調べられました」とあり、現代では考えられない厳格な取調べがあったことに驚きます。



「沖の口奉行所」の向かいにあった商家「近江屋」の再現建物です。

店内には呉服、味噌・醤油・油などが陳列されていました。

門の近くの案内板に「近江商人を中心として」とあり、意外にも松前には北陸・東北など日本海沿岸各地の商人と並び、近江商人の活躍が顕著だったようです。

江戸時代に「天下の台所」といわれた「大阪」や、「京都」へ蝦夷地の産物を運ぶには、若狭湾から琵琶湖、淀川を結ぶ経路が使われていたものと思われます。

中世から琵琶湖周辺の勢力が複雑に絡み合う地域事情を考えると、地域事情に詳しく、顧客情報を把握する近江商人が夷地との流通に活躍する背景があったものと推察されます。

又、都に近い近江には医薬品の歴史もあり、蝦夷地との交易に欠かせない産品だったのかも知れません。

■建物の前に案内板がありました。
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商家
 松前の商家の多くは近江商人や、北陸地方出身の商人が多く、これらの人たちの出身地の商品を北前船(弁財船)に積んで来て販売した。取扱う商品も大阪、敦賀、三国湊、橋立、輪島、七尾、新潟、佐渡、酒田、秋田、津軽の太物(錦織物など太い糸の織物)調味料から儀筵、縄、竹細工、漆器、鍋釜、瀬戸物、鉄器類、漁網、薬品にいたるまで、あらゆる品を取り揃えていた。
また、これらの店舗を張る商人のなかには場所請負人となるものもあり、巨万の富を築いた人が多い。
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■店内に豪商のリストが展示されていました。
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松前藩屋敷の五豪商
 飛騨屋久兵衛 飛騨(岐阜)
 村山傳兵衛  能登(石川)
 栖原角兵衛  紀伊(和歌山)
 伊達浅之助  陸奥(青森)
 高田屋嘉兵衛 淡路(兵庫)
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最初の通りを突き当たった辺りから振り返った風景です。

左手に「髪結屋」、その向こうに土蔵の「土産物店」、その向こうが上段の商家「近江屋」と並び、右手に「旅籠屋」と、「沖の口奉行所」が続いています。

土蔵の「土産物店」では松前杉を加工した民芸品が販売されていました。

杉の生育の北限は、青森とされていますが、江戸時代末期の植林で、ここ松前にも杉が育っていました。

民芸品を製作する店主のお話では、渡島半島の南端に近い松前は、北海道でも特に温暖な気候だそうです。

函館から来る途中、北海道南端「白神岬」の東側に霧が立ち込め、西は晴れていたことを話すと、松前の温暖な気候によるものと説明されました。

又、店主から聞かれ、広島県福山市から来たと告げると、松前の福山(城)と、福山市とどっちが古いのかと質問を受けました。

広島県の福山は、江戸時代初期に出来た城下町で、松前の福山(城)が古いと答えると、以前から疑問に思っていたことがわかったと喜ばれたことを思い出します。

土蔵の土産物店「民芸松前杉」のホームページがあり、興味のある方はリンクからご覧下さい。



「髪結」とされる建物の石が置かれた屋根に興味がわき、掲載しました

屋根は、長柾葺(ながまさぶき)とされ、屋根の上には木材で留められた石が並べられています。

他の地方でも屋根に石を乗せた風景を見たことがありますが、雪の多い日本海沿岸、雪下ろし作業と、屋根の傾斜が気になります。

民家や、漁家の再現建物でも同じ屋根が使われ、財力のない庶民は、こんな屋根の建物に住んでいたのでしょうね。

■建物の前に案内板がありました。
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髪結
近世の時代、男は必ず髷を結い、女性の多くは島田髪を結った。
髷の場合、月代を剃った上、髪を鬢付で固め固めに髷に仕立てた。
個人ではできないので髪結いに行き、男の月代剃や、髪結いは男性の床屋が行い、女性の髪結いは女性が結った。
店には待合室があり、待合の時間に将棋を指したり、四方山話をする社交場でもあった。
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「廻船問屋」の建物です。

向かって左に土蔵があり、さすが交易の都市松前の主役を担う「廻船問屋」の建物だけに立派なものです。

■建物の前に案内板がありました。
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廻船問屋
 松前藩内三湊(松前、江差、箱館)では、沖の口奉行所に従属する三つの問屋制度があった。
一つは問屋、二は小宿、三は附船である。
 問屋は松前から出入する船の積荷の取り扱いをして二分の口銭を取り、その積荷の内容を奉行所に申告し、また、廻船の手配をするなどの業務を担当した。
 この問屋は、株式制で、年代によって異なるが、凡そ十軒から十五軒程の問屋があり、荷捌や廻船で莫大な財をなした。
 小宿の業務は問屋と同じであるが、取り扱う仕事は問屋全体の三割であって、業者は五軒程度である。
 附船は他国からの入港船の薪、水、食糧の供給、洗濯女の斡旋、宿屋等の業務を担当して利益を得た見返りとして難破船の救助等が義務付けられていた。
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「廻船問屋」の土蔵に弁財船(北前船)の模型が展示されていましたが、北前舟が立ち寄った港の資料館で見かけるものです。

幟に「長者丸」の文字が染められ、前回掲載の松前城資料館でも松前藩の参勤交代で飾られて航行する絵が展示されていました。(前回の5番目の写真)

「この模型は約8分の1で製作したものです」と補足説明がありましたが、大きさは実感できませんでした。

テーマパークとPRする施設だけに、実物大の弁財船を参勤交代で海上を航行する姿で展示し、船内の見学が出来たら見ごたえがあると思うのですが、・・・。

■船体に貼られていた説明文です。
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弁財船と長者丸<模型>
江戸時代、日本海やえぞ地周辺で活躍した大型船は、弁財船と呼ばれ明治になって西洋式船舶にとってかわられるまで、えぞ地と本州間の物資輸送を一手に担って活躍した。
これは、長者丸と名づけられた弁財船の模型で、松前藩が藩主の御座船として建造したものである。
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「自身番小屋」と書かれた建物があり、通りの角に火の見櫓が建っていました。

火の見櫓の上には「半鐘」が吊り下げられています。

昭和30年代は、このような火の見櫓が日本各地で普通に見られましたが、次第に半鐘がサイレンに、木製の櫓が鉄製になったものの、基本的な構造はあまり変わっていないようです。

写真左側は、建物の中に展示されていた火消しの道具と思われるものです。

これらは、現代の消防署の装備とはまったく雲泥の差で、火事に対してほとんど無力だったことを感じさせられます。

■建物の前に案内板がありました。
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自身番小屋
 本来の自身番小屋は、目明の勤務場所であったが、松前市街の自身番小屋は、火の見番所であった。
 したがって番所内には火の見番が居り、夜は拍子木を叩いて町内を「火の用心」とふれて歩き、火災を発見すると半鐘を叩いて、消防組員が町内に知らせまわった。
 小屋のなかには、龍吐水(腕用ポンプ)をはじめ刺子、馬穴、布馬穴、天水桶、鳶口、鋸、丸太、提灯等が備えられていた。
 海岸で風の強い松前では、一度出火すると消す方法がなく、延焼しそうな先の家を潰してしまう破壊消防が主な消化の方法であった。
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これで松前の見物を終え、日本海沿岸を北へ約50Kmの上ノ国町へ向かいました。

上ノ国町には15世紀後半、松前藩の祖「武田信広」が築いた中世の城郭跡など楽しみにしていた地です。

北海道旅行No.39 「松前城資料館」で見た「夷酋列像」

2011年12月22日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道松前町の松前城の天守閣にある「松前城資料館」を見学しました。



「松前城資料館」受付の建物です。

「搦手ニノ門」をくぐると正面にある建物で、ここを通り抜けると、そびえる松前城の天守閣が見えてきます。

■天守閣にある「松前城資料館」の案内板があり、階別の展示内容が書かれていました。
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地階 アイヌ
1階 松前藩関係資料
2階 松本家資料展
3階 夷酋列像・松前城写真・福山(松前)城出土陶器展
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地階のアイヌ関係の展示場に「正装した弁開凧次郎氏」と名付けられた写真があり、興味深く見せて頂きました。

幕末に生まれ、明治・大正期に活躍されたアイヌのリーダー的な方だったようです。

この写真のすぐ横にも雪の中に立つ7人の男達の写真があり、下記の説明文にある八甲田山遭難事件で捜索で、アイヌの仲間を引き連れて出動した時の記念写真だったと思われます。

■写真に添えられた説明文です。
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弁開凧次郎(1847~1919)
牛馬商、獣医。アイヌ名はイカシパ。落部[おとしべ]コタン(現 渡島管内八雲町)の有力者の家に生まれる。
1902年、青森歩兵第5連隊の八甲田山遭難事件では、3週間にわたって捜索活動に参加した。
皇太子殿下(大正天皇)のご成婚を祝い子クマ2頭を献上している。また、1911年殿下がご来道の際には、大沼公園の船遊びの近くまで泳いで行き、ご歓迎したという。
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1階の松前藩関係資料の展示場の風景です。

左側の絵図が、前回も紹介した「松前屏風」(小玉貞良筆・宝暦年間[1751~1763])です。

江戸時代中期、交易で賑わう松前城下の様子がよく伝わってきます。

鎖国の江戸時代、公然と交易を収入源としていた松前藩は、西に開かれた長崎ほど知られていませんが、アイヌを通してアジア大陸北東部に開かれた意外に大きな窓口だったようです。



1階、松前藩関係資料の中に「慶応3年の福山城」と題する古い写真がありました。

「函館市写真歴史館」でも紹介されている幕末からの写真家「木津幸吉」「田本研三」両氏の撮影による貴重な映像です。

慶応3年は、箱館戦争が勃発した明治元年の前年で、江戸時代の福山城(松前城)の雄姿と、城下町の様子が伝わってきます。



2階、松本家資料展で見た「長者丸姿図」です。

見慣れた北前船の姿とは違い、美しく飾られた船に目がとまりました。

松前藩主の参勤交代で航行する様子が描かれたもので、船を曳く周囲の小船と合わせ、さながら海上の大名行列絵図といったところでしょうか。

この船の船頭「松本家」は、能登半島の出身とされ、蝦夷地から日本海を南下、若狭湾~琵琶湖~京都~大阪と続く中世からの交易ルートに関連するものと推察されます。

■絵の下に添えられていた説明文です。
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長者丸姿図
参勤交代の時、旗や幟[のぼり]、まん幕などで飾られた長者丸が、たくさんの小船曳かれて松前から出発している様子を描いたもの
   「福山温故図解」より
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松前町指定有形文化財
松本家資料
 松本家は能登(石川県羽咋)出身で、初代金蔵・2代百蔵(のちに金蔵を襲名する)にわたり、松前藩の御召船(おめしぶね)の船頭を勤めた家柄であつた。 御召船とは藩主が参勤交代で津軽海峡を渡る時に乗る船をいう。この船の名を長者丸とこいい、松前城下の豪商柏屋藤野家の持船であつた。
 松本金蔵は、ふだんは長者丸の船頭とこして蝦夷地と大坂・江戸とをはしり、藩主の参勤交代時には御召船の船頭とこして活躍した。したがって、いわゆる北前船の船頭とは異なり身分は松前藩の徒土格士席(かちかく しせき)であった。
 松本家資料は、同家に長く保存されてきたものを平成7年、松前町で購入したものである。資料は、文化年間(1804)から明治・大正期に及び、和船関係、古文書、美術工芸、民族資料など多岐にわたり、北海道の経済史、海運史、生活史などのうえから貴重なものである。
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江戸時代の1791年(寛政3)、蠣崎波響によって描かれたアイヌの有力者「乙箇吐壱[イコトイ]」(左)と、「失莫地[シモチ]」(右)の異様な像です。

北海道旅行No.14、根室半島「ノッカマフ」の記事でも紹介しましたが、江戸時代の道東でアイヌが蜂起した大事件「クナシリ・メナシの戦い」の後に描かれたとされる絵です。

松前城天守閣最上階3階に「夷酋列像」12枚が展示されていましたが、額のガラスに城の窓の光が映った写真になってしまいました。

■パネルに添えられていた説明文です。
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乙箇吐壱[イコトイ]
アッケシ(厚岸)の指導者。常に槍を携えている。騒動を聞き、参加者の逃亡を防ぐため、弓が巧みな部下数十人をウルップ(ラッコ)島、エトロフ島へ派遣した。

失莫地[シモチ]
シモチアッケシの準指導者。幼少より体術に巧みで弁舌に優れていたという。
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■「夷酋列像」12枚のパネルの説明文です。
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夷酋列像<いしゅうれつぞう>
 寛政元(1789)年、クナシリ島やメナシ地方(根室管内)のヌイヌ民族が場所請負人飛騨屋の横暴に対し蜂起する事件があつた。(国後目梨騒動、クナシリ・メナシの戦いと呼ばれる)この事件では、クナシリ島や対岸の標津(しべつ)地方で和人71人が殺害され、搾取に苦しむアイヌ民族の怒りが頂点に達した結果であつた。
 これに対し松前藩側では急きょ260人余の討伐隊を派遣し、首謀者ら37人のアイヌを処刑し事件を収束させた。この時、松前藩側に協力し事件の収拾にあたったアイヌの指導者12人の肖像が「夷酋列像」である。
 事件後の9月、松前藩は44人のアイヌを引き連れ城下へ凱旋(がいせん)するが、それらアイヌの人々は松前で一冬過ごしたという。
この時、藩主道廣は、弟で家老であった蠣崎波響にその肖像を描せた。ただし、12人のうち実際に松前に来ていたのは4人(シモチ、イニンカリ、ニシコマッケ、イコリカヤニ)で、残りの8人は人相などの聞き取りによって描いたものと云われている。しかし、描くにあたってはかなり苦心したらしく、多数の下描き(粉本)が残されており、完成したのは翌年秋であつた。
 波響は寛政3年、作品を携えて上洛し、改めて浄書を行った。「夷酋列像」は文人の間での評判が高まり、ついに天覧(天皇陛下がご覧になること)を賜わるにいたった。その後、諸大名の間でも関心が持たれ、借り受けた大名による模写作品がいくつか知られている。展示作品は 黒田家旧蔵の模写(小島貞喜による)作品である。
 「夷酋列像」は二組(松前家と蠣崎家蔵、一説にはもうー組あった)作成されたが、明治維新の混乱のため散逸してしまい、現在、市立函館図書館に2幅とフランスのブザンソン美術館に11幅が保存されている。
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「夷酋列像」のパネル「貲吉諾謁[ツキノエ]」(左)と、その妻とされる「窒吉律亜湿葛乙[チキリアシカイ]」(右)の絵です。

上段の乙箇吐壱[イコトイ]は、二人の息子になるようです。

アイヌの蜂起事件「クナシリ・メナシの戦い」は、支配下のクナシリで発生したとされており、和人への強い反感がありながら騒動の鎮圧に動かざるを得なかったやり場のない心情があったものと思われます。

■パネルの説明文です。
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貲吉諾謁[ツキノエ]
クナシリの総指導者。身長6尺余(180cm余)、眉目秀麗、腕力出群。年齢70才以上。騒動の時には千島列島にいた。しかし、息子、支配下のアイヌの多くが騒動に加わっていた。
部下の中の雄弁な者に説得の演説をさせ、騒動を鎮めた。鎮圧の功績第一という。

窒吉律亜湿葛乙[チキリアシカイ]
ツキノエの妻でイコトイの母、65才
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「卜羅鵶[ボロヤ]」(左)と、「乙箇律葛亜泥[イコリカヤニ]」(右)の像です。

「イコリカヤニ」も上段の「ツキノエ」の息子とされるようで、「ツキノエ」の息子の一部には蜂起に参加した者がいたとされることから、親子、兄弟が戦う悲しい事件でもあったようです。

■パネルの説明文です。
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卜羅鵶[ボロヤ]
東部ベッカイ(別海)の指導者。シモチとともにクナシリ島アイヌの説得をする。

乙箇律葛亜泥[イコリカヤニ]
クナシリの準指導者。不敵勇猛であり、衆夷かに敬服されている。クナシリで一番の弓の名手。
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「麻鳥太蝋潔[マウタロケ]」(左)と、「起殺麻[キサマ]」(右)の像です。

説明文にある「ウラヤスベツ」は、網走の東にある地域のようで、国後島で始まった蜂起事件は、北海道東部のアイヌ社会全体を巻き込む深刻な事件となったことがうかがえます。

■パネルの説明文です。
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麻鳥太蝋潔[マウタロケ](マウタラケ)
東部ウラヤスベツの総指導者。騒動を聞き300人余のアイヌを率いて参加者の西北部よりの逃走を防ぐ。

起殺麻[キサマ](チョウサマ)
騒動の発生を聞き、マウタラケとともに300人余のアイヌを率いて騒動参加者者が西北部から逃亡するのを防ぐ。
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「贖穀[ションコ]」(左)と、「訥室孤殺[ノチクサ]」(右)の像です。

「知慮にあふれる」とする「ノチクサ」の説明文と、鹿をかつぐ姿は、どうもイメージが合いません。

夷酋列像の12人の内、松前に来なかった8人に含まれる「ノチクサ」の像だけに、蠣崎波響が会わないで描いた絵と、説明文に矛盾があることは仕方ないことかも知れません。

■パネルの説明文です。
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贖穀[ションコ]
東部ノッカマップ(根室)の総指導者。威厳があり、深い知恵にあふれ貧しいアイヌを救ったという。弓術が巧みで常に携えていた。

訥室孤殺[ノチクサ]
東部シャモコタン(根室)の指導者。道理をわきまえ、知慮にあふれる。弁舌により利害を説き、他のアイヌの騒動への参加を押さえる。
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「乙[口金]※葛律[イニンカリ]」(左)と、「泥湿穀末決[ニシコマッケ](右)」の像です。

■パネルの説明文です。
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乙[口金]※葛律[イニンカリ]
厚岸の指導者。侠気にあふれたという。
松前藩兵が到着する前に、騒動を起こしたアイヌを攻めようとするが思いとどまり、藩兵到着によりノッカマップ(根室)へ同道する。

泥湿穀末決[ニシコマッケ]
アッケシの指導者。弓に優れ、威名は東部にとどろくという。
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※[口金]は、1文字の活字表示がなく、口と金を合わせた一つの文字で見てください。



タイトルに「旧幕府軍 中島三郎助」と書かれた写真がありました。

函館戦争で五稜郭の南西約1~2Kmにあった「千代ヶ岡陣屋」の隊長で、降伏の勧告を拒絶して二人の子供と共に壮絶な最後を遂げたとされる人です。

一昨年、中島三郎助最期の地「千代ヶ岡陣屋跡」を訪れ、どんな人だったかと思っていましたが、この写真の顔に最後まで意志を貫いた強い人柄を感じます。

■函館市「千代ヶ岡陣屋跡」付近にあった案内板の説明文です。
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中島三郎助父子最後の地
中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明冶元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く思い哉」という辞世の句を残した。
昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。
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なぜ、この松前城資料館に写真があるのか分かりませんが、函館戦争の歴史を肌で感じるような写真でした。