昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

鳥取市鹿野町「茂宇気神社」創建の謎

2010年04月16日 | 山陰地方の旅
3月22日、鳥取県の日帰り旅行で、三仏寺の参拝を終え、鳥取市鹿野町河内の「茂宇気神社[もうけじんじゃ]」を参拝しました。



「茂宇気神社[もうけじんじゃ]」の参道口です。

石の鳥居は、比較的新しく、黒い扁額に「茂宇気神社」と刻まれています。

以前、このブログで鳥取県日野町金持の「金持神社」を紹介しましたが、この神社も「茂宇気」→もうけ→「儲け」と金運につながる神社として知られるようになりました。

神社名の発音が「もうけ」と言うだけで御利益を信じる人も少ないと思いますが、宝くじと同様、もしかしてと期待するささやかな願いと、遊び心の表れでしょうか。

神社は、鳥居の先に見える山沿いの道を進み、長い石段を登った山の中腹にあります。

■駐車場の入口に神社の案内板がありました。
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起源ははっきりしませんが、古くから地元河内の氏神であり妙見大権現と称しておりました。
明応年中の棟札が現存しております(一四九五年)。寛文七年(一六六七年)藩主池田家より社領六斗を寄進され、元禄五年(一六九二年)妙見茂宇氣神社と改称しております。
明治元年(一八六八年)神社改革にあたり茂宇気神社と改称しました。
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「茂宇気神社」がある鳥取県中央部付近の地図です。

米子自動車道湯原IC→国道482号→国道179号(天神川沿い)→県道21号(倉吉-鹿野町)→三朝温泉→三仏寺→茂宇気神社と走って来ました。

「茂宇気神社」は、県道21号と並行して流れる河内川沿いにあり、東に標高921mの「鷲峰山」[じゅうぼうざん]があり、その頂上からは鳥取県東部が見渡せるようです。

「茂宇気神社」の社務所は、約2Km北に走った場所にあり、社務所付近から右折して400m進むと「鷲峰神社」で、そこから鷲峰山の登山道が始まっているようです。(神主さん両神社を兼務)

■鷲峰山には大山と背比べをした伝説あります。
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鷲峰山と大山の背比べ
 全国の神様が出雲に集まる行事の帰り道、鷲峰山と大山の神様が背の高さを言い争い、背比べをしたそうです。
背比べに負けた大山の神様は悔しがり、鷲峰山の頭を杓子ですくいとったそうです。
この後の話はありますが、省略します。
 (鳥取県公式サイトを参考にしました)
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この伝説に「鷲峰山の神様」が登場していることから、「鷲峰山」は信仰の山だったものと思われます。



参道の途中から茂宇気神社の駐車場付近の様子を撮った写真です。 (3台駐車している)

河内川と並行する県道21号から橋を渡り、駐車場から山沿いの参道を進んで撮影場所まできました。

川の両側の狭い平地に水田が続いていましたが、民家は対岸の山のふもとに並んでいます。

戦国時代以前から続くこの神社への参拝は、洪水で橋が流されることもあったと考えられます。

この河内集落の人々が、なぜ不便な対岸の山の中腹を選び、神社を造営したのか興味のあるところです。



河内川に架かる橋から東北方向に雪をかぶった高い峰が見えます。

「鷲峰山」から北に続く峰と思われます。



最初の長い石段を登ると、道は左に折れ、更に長い石段が続いていました。

すぐ上に二番目の鳥居があり、はるか上の石段の先にはまだ社殿が見えてきません。

ここまで登ると、小高い場所にある並みの神社と違い、予想外に高い場所にあることに気付きます。

寒々として、息切れのする長い石段に、一瞬「くだびれ儲け」になるのではと不安がよぎりました。



長く続いた石段の上にようやく建物が見え始め、石段の左手には立ち枯れた大木や、倒壊して朽ちた大木がありました。

神社の長い参道や、社殿の周囲の森には枯れた大木があちこちに見られ、長い何百年も地域の人達が神様の領域を守ってきたことがうかがわれます。

上に見える建物は、社殿ではなく氏子の人達が集う施設のようです。



建物の下に「ガコの木」とかかれた標識と、その右手に「ガコの木」の大木がありました。

各地の神社をめぐっていますが、初めて見ました。

「ガコの木」は、くすのき科かごのき属の常緑樹で、薄い茶色の樹皮に鹿のような白い模様があることから「鹿子の木」と名付けられたようです。



下の駐車場に鳥取県が建てた自然環境保全地域の案内板があり、この図はその一部です。

「茂宇気神社」の原生的な森を保護するための案内板のようです。

図には大雑把な等高線が書かれていますが、国土地理院の地図で標高を確認すると、参道口約170m、本殿約240mで標高差は実に70mもあるようです。

又、神殿の背後には612mの無名の峰があり、その先には小富士山(標高769m)があります。

ここまで高く登らなくても周辺に適地があったと思われますが、信仰に関わる何らかの理由でもあったのでしょうか。

■下の参道口にあった環境保全地域指定の案内板の説明文を転記します。
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鹿野河内県自然環境保全地域
 指定年月日 平成十年十一月二十四日
 指定地域  気高郡鹿野町大字河内(茂宇気神社社叢)
 指定面積  1.2ヘクタール

保全地域の概要
 この地域は、スダジイ、ウラジロガシ、タブノキ、カゴノキなどの樹木からなる原生的な照葉樹林です。
 森林内には、巨木が数多く見られ、幹に鹿子模様のあるカゴノキは特徴的です。

注意
 この地域内では、許可なく樹木の伐採等はできません。 鳥取県
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石段の途中から見えていた建物の前に立つと一段上の場所に社殿が見えてきます。

最後の石段の下には、山の湧き水を引いたと思われる噴水の手水鉢がありました。

ふもとの石段の始まる付近の参道脇にも竹筒から流れ出る手洗い場所があり、参拝者への心遣いを感じます。

■建物の前に「茂宇気神社」の由緒記が書かれた案内板がありました。
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由緒記
祭神 天照大神、大山祇命、倉稲魂命、起原[きげん]詳[つまび]かならず。
往古より河内村の氏神にして妙見大権現と稱す。明應年中の棟札現存せり。寛文七年十月、藩主池田家より社領六斗を寄進せらる。當社祭神は、元禄十五年閏八月、天照大神を勧請合祀し、妙見茂宇氣神社と改稱す。同年當村字山神鎮座山神(祭神大山祇命)、同村字荒神鎮座荒神(祭神倉稲魂命)、境内末社稲荷大明神(祭神倉稲魂命)の三柱を合祀す。明治四年二月社領を上地し、翌五年三月村社に列格し、大正九年十月三十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
尚本殿の造営は総[けやき]造りにして明治二十五年十月十七日小別所村大工棟梁横山重平の作と云う。
 例祭日 十月十七日
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気が引き締まるような雰囲気の「茂宇気神社」社殿です。

予想を超える長い石段を何度も休みながら登り、寒い日でしたが少し汗ばんできました。

神社創建の時代は中世以前と思われ、これだけ高い場所に、しかも集落から川を隔てた対岸に神社が建てられているのかは今となっては分かりません。

もしかしてこの場所から神が鎮座する山を望み、遥拝する古代信仰の場であったのかも知れません。

社殿の周りは深い木立に囲まれ、社殿前方の周辺の山は見えず、神の山があったのかは謎のままです。



白木に金色の文字で書かれた「茂宇気神社」の扁額です。

改修当時、立派な社殿を造ろうとした氏子の意気込みが感じられます。



社殿の前から見上げると、森がぼっかりと開き、そそり立つ大木に神社の神聖さと、長い歴史を感じさせられます。

お金儲けの願望を満たしてくれそうな名称で話題となった神社ですが、この神聖な雰囲気の中で参拝すると「どうかお金を儲けさせてください」とは祈れず、家族や、周囲の人達の安全と、健康をお祈りしました。

今回の日帰り旅行で、「三徳山三仏寺」の参拝と、「茂宇気神社」の参拝で、なぜか心が安らぐ思いで帰途に着きました。

3 「三徳山三仏寺」本堂へ参拝

2010年04月11日 | 山陰地方の旅
3/22に行った鳥取県三朝町の「三徳山三仏寺」参拝の続きです。

「輪光院」の参拝を終えて本堂へ向かいました。



「輪光院」から長い石段を登り、見下ろした景色です。

「南無三徳山金剛蔵王大権現 三徳山開山三百年」と染抜かれた赤い幟が続いています。

本堂までには、もうひとつ石段が残っています。



石段を上がり、左手奥に「宝物殿」があります。

「宝物殿」には投入堂に安置されていた重要文化財の蔵王権現立像の他、仏像や、狛犬などが展示されていました。

「宝物殿」の前に四角に仕切られた場所が見えますが、火渡り神事などが行われるのでしょうか。



パンフレットにあった重要文化財「蔵王権現立像」です。

「宝物殿」の中で、金色の姿を拝観させて頂きました。

他にも役行者の像や、狛犬の像などがあり、印象に残っています。



本堂への最後の石段付近の様子です。

石段の上に見えるのが「三仏寺」とされる建物で、向って左に工事中の本堂がありました。

石段の下に慈覚大師円仁の石像が見えます。



石段脇の斜面に小さな石仏が並んでいました。

仮本堂で放映されていた寺の案内ビデオによると、米田住職がこの石仏を彫られているそうです。

苔むした石仏を見ると、長年彫り続けられているようです。

福山市図書館のDVDで、五木寛之さんの「百寺巡礼」のシリーズに「三徳山三仏寺」があり、米田住職が登場されています。

投入堂参拝登山口で、五木さんに説明されている場面です。



石段の下に両足の位置を示す石があり、ちょうど米田住職が参拝者へこの石の上に立つよう案内されていました。

何があるのでしょうか。

石段を見ると、長年の参拝で非常にすり減っており、取替えられた石段が、石仏の材料になっているそうです。



両足を置く石の上に立ち見上げると、杉の大木の間に「地蔵堂」が見えました。

「地蔵堂」は、奥の院「投入堂」への途中にある堂で、当日に参拝登山が出来ないこともあり、住職は参拝者へ熱心に案内されていました。

石段を上った左手も「地蔵堂」が見える場所で、案内板がありました。



石段下に金魚鉢を大きくしたような手水鉢があり、住職のご説明ではこれが水琴窟の一部になっているそうです。

横に「水琴窟」の案内板があり、「響き 日本第一」と書かれています。

地下に埋められた瓶に水がしたたり落ちる音だそうで、なかなか風流な音が響いていました。



現在、三仏寺本堂は解体修理中で、この建物は仮設の本堂です。

住職から堂内で、お寺の案内ビデオを見るようすすめられ、見せて頂きました。

寺の歴史や、投入堂などの施設など興味深い内容でした。



解体修理の本堂です。

本堂正面に向って右手に奥の院への登山道入口への通路から見た様子です。



参道口の西にある遥拝所から見上げた「投入堂」です。

車道の脇に小さな遥拝所の建物があり、ズームで撮った写真です。

はるか上に霞む「投入堂」の姿に感動し、改めて参拝登山に訪れたいと思いました。

2 「三徳山三仏寺」の宿坊「正善院」「輪光院」

2010年04月05日 | 山陰地方の旅
鳥取県三朝町の「三徳山三仏寺」参拝の続きです。



最初の宿坊「皆成院」を過ぎ、次の石段を登ると左手に「正喜院」があります。

■門の脇に案内板があり、転記しますが、「正善院庭園」の説明文は、後述します。
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正喜院の文化財
県指定保護文化財木造蔵王権現立像
指定年月日平成十五年九月五日
 蔵王権現は、役小角が吉野の金峰山で修行中に現れた日本独自仏であり、釈迦、観音、弥勒の三尊が一つになったものとされる。
 蔵王権現立像は台座まで含む一木造りであり、像高九〇‥六センチメートル内刳りは施されていない。所作は、三徳山三仏寺に残る他の蔵王権現現像と同じく片手、片足を上げて忿怒相をしているが、多くの蔵王権現像とは左右逆の所作となっている。
 平安時代後期の作と考えられるが、県内に残る数少ない木造りの蔵王権現像としてその価値は高く、秘仏として祈念所に安置されている。
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門を入ると道が二手に分かれていました。

屋根の軒下に雪対策と思われる壁が造られていました。

初めて見るものです。

当日は撤去工事が行われ、既にプラスチックの波板は外されています。



門を入り、正面の大きな入口を入ると、木彫りの大黒様が安置されていました。

神仏習合時代のなごりでしょうか、ちょっと戸惑う参拝でした。



門を入り、右手の入口の様子です。

こちらは、お寺らしい参拝場所になっていました。

向って右では軒下の仮設の壁を撤去する作業が進んでいます。



建物に向かって右手の山の斜面に造られた庭園です。

雨の多い山陰では庭の地面や、木々に苔が多く、風情を感じさせられます。

■門の脇の案内板にあった庭園の説明文です。
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県指定名勝 正善院庭園
 指定年月日 平成十七年十一月二十九日
 正善院には、方丈前庭と池庭の二つの庭園がある。方丈前庭は、斜面の傾斜を活かし三つの築山で構成されの傾向を活かし三つの築山で構成されている。池庭には後背の山林から取水された山川水が滝となって落され、渓流となり他に注いでいる。池中には、鶴・亀に見立てた中島、そして浮石が配され、池に面した書院座敷から中景の樹林越しに遠景の文殊堂を望むむみごとな景観ょなしている。作庭時期については、庭園の景観構成から成から江戸時代中期以降と推定される。
平成十八年三月鳥取県教員委員
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「正善院」の裏手にある庭園で、三つの宿坊では最も美しく造られています。

工事の人から「建物の裏にもいい庭がありますよ」と案内され、進んでいきました。

裏手に回るとすぐ右手に小さな滝が造られ、山水が心地よい音を立てて池に落ちていました。



池は、建物裏手の奥に広がり、縁側から庭園が見渡せるようになっています。

宿泊ができるとのことで、これらの庭に面した部屋でしょうか。



「正善院」から次の石段を登ると右手に「輪光院」の門が見えてきます。

最初の「皆成院」同様、門の手前に売店があり、シーズンには参拝者が多いものと思われます。

三つの宿坊は、それぞれが立派な寺院の構えをしており、かって多くの伽藍があった名残を感じさせられます。



「輪光院」の門の脇に観世音菩薩像が立っています。
切れ長の目で、とても気品のある石像です。

隣には大きな念珠が掛けられ、後ろの看板に説明書きがありました。

百八煩悩転生大念珠
静かに念じて念珠を下に引いて下さい
カチカチと音と共に厄除け開運をお祈り下さい 合掌



「輪光院」の門を入ると正面の建物の軒下が覆われ、撤去工事はまだのようです。

屋根から落ちた雪が残っており、この辺りの遅い春を感じます。

左手に十二支のお地蔵様が色々なポーズで迎えてくれます。



入口を入ると、小首を傾げたかわいい仏像が安置されていました。

賽銭箱の隣に円盤が取り付けられた木製の器具がありますが、これもクルクル回してお祈りするのでしょうか?



十二支のお地蔵様の裏手には、他の宿坊と同様、池がありました。

きれいな山水が注ぎ込み、とてもすがすがしい池でした。

長い石段の道を登って来ましたが、これからまだ本堂への坂道が続きます。

奥深い山の急な斜面を切り開き、よくこれだけ多くの建物や施設を造ったものだと感心します。

寺院を造ることを「開山」と言いますが、改めて「開山」の言葉の重さを実感するようです。




1 「三徳山三仏寺」参道口から皆成院まで

2010年03月31日 | 山陰地方の旅
3/22、鳥取県三朝町の「三徳山三仏寺」へ参拝しました。

受付で、奥の院「投入堂」への参拝は、4月1日山開きまでは出来ないことを知り落胆しましたが、とりあえず本堂までの参拝をしました。



三仏寺で頂いたパンフレットの表紙で、国宝の奥の院「投入堂[なげいれどう]」です。

「投入堂」は、山頂に近い急峻な断崖に造られ、写真を見るだけでも常識をはるかに超えた驚愕の建物です。

「三徳山・投入堂を世界遺産に!」と書かれていますが、このすばらしい建物を長く後世に遺すためにも世界遺産登録がぜひ実現してほしいものです。


三仏寺で頂いたパンフレットにあった三徳山全景の図です。

今回は、下の道路から、いくつかの石段を上り、登山事務所のある本堂までの参拝でした。

本堂から奥の院「投入堂」までの標高差は、約200m、往復1.5時間かかるそうです。

下の道路を向かって右に進むと三朝温泉です。



三朝温泉から三徳川に沿った県道21号を進むと石で造られた三仏寺の鳥居が見えて来ます。

この鳥居を見ると、古代からから明治維新まで続いた長い神仏習合の時代を感じさせられます。

道路脇に「洗心のみち」の案内板があり、鳥居の額束には「三徳山」と書かれています。

長い道のりを徒歩で参拝していた昔は、この鳥居に三仏寺に到着した感激を抱いた人も多かったものと思われます。

正面の高い山は、奥の院「投入堂」がある三徳山でしょうか。



道路に面した三仏寺の石段の登り口で、バス停もあります。

石段脇の白い案内表示に「中国観音霊場 第三十一番札所 三徳山三佛寺」とあります。

石碑には「石壇築立 八拾四壇」とあり、両脇に寄進されたと思われる名が刻まれています。

いきなり88段の長い、急な石段がはじまり、「投入堂」までの険しい行者道を予感させられます。

■石段の向いにあった三仏寺の案内板を転記します。
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三徳山三仏寺
 参道を登りつめた処に三仏寺本堂がある。嘉祥二年(八四九)慈覚大師が釈迦・大日弥陀の三尊をここに祀ったのが始まりという。
 本堂裏から山にむかうと重要文化財指定の文殊堂などの建造物が続き、巌窟の中には役の行者が投げ入れたという国宝投入堂がある。
 三仏寺には、重要文化財指定の蔵王権現像数体のほか、多くの文化財が保護されている。
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長い石段を上り、左に折れると二つ目の石段があり、上に参拝受付案内所の屋根が見えてきます。

石段の向かって右には、かなりすり減った石段が残されており、信仰を集める三仏寺の長い歴史を感じさせられます。



方形屋根に赤瓦の参拝受付案内所です。

受付を済ませ、一段上の「皆成院」の前から振り返って撮った写真です。

受付の人から投入堂への入山は4月1日からと教えられ、しかたなく本堂までの参拝としました。

肌寒い日でしたが、満開の梅が心をなごませてくれます。



参拝受付案内所の前から一段上の「皆成院」を撮った写真です。

手前の建物には、売店があり、御祈祷受付所、納経所などの看板の他、山菜料理、名物とうふ、冷やしあめ等々、食堂のメニューも掛けられていました。

周辺にお店もない山中の寺では、便利なお店と思われますが、宿泊も含めた運営は大変なご苦労があるものと思われます。



三仏寺の三つある宿坊の一つ「皆成院」の門で、参道の右手にあります。

門の柱に長い木の看板があり、「中国四十九薬師霊場 第四十三番札所」と書かれています。

又、門の脇の白い看板には「幸福・厄ばらいの 観音菩薩様」「寿命・眼・腰・病気の 薬師如来様」「智慧・受験合格の 文殊菩薩様」と案内され、まるで御利益の百貨店といったところです。



「皆成院」の正面です。

両脇に「薬師瑠璃光如来[やくしるりこうにょらい]」と染抜かれた赤と紺の幟が並び、門を入った堂の前にも「中国四十九薬師霊場」の幟も立てられていました。


「薬師瑠璃光如来」は、「薬師如来」と同義語のようです。



「皆成院」に参拝していると左手から聞きなれない大きなカエルの声が聞こえてきました。

見るとお堂の横に錦鯉が泳ぐ小さな池がありました。

向こう岸の中央付近の突き出た岩の下にヒキガエルを見つけましたが、声は池の右手の方から聞こえていました。



池の底にいたヒキガエルです。

よく見ると二匹で、大きなヒキガエルの上にもう一匹が乗り、前足でつかまっています。

まだ少し雪の残る境内で、冬眠から目覚め、さっそく繁殖期の行動開始のようです。

冬眠で体力を消耗した直後と考えると、ヒキガエルパワーは大したものです。

鳥取 春の風景

2010年03月27日 | 山陰地方の旅
先週3/22、世界遺産の登録を目指す、鳥取県三朝町の「三徳山三仏寺」へ参拝しました。

数年前、五木寛之の「百寺巡礼」をDVDで見て以来、三仏寺奥の院の神秘的な「投入堂」(国宝)の参拝を切望していました。

昨年6月、倉吉市付近を旅行しましたが、天候が悪く断念したこともあります。

午前11時に三仏寺へ到着、受付で奥の院「投入堂」への参拝は、4月1日山開きの後からと言われ、またしても「投入堂」の参拝はできませんでした。

境内で参拝者を案内されていた住職さんにザックを背負った山登りスタイルを見られ、服装はそれで良いが、もう少し下調べをして来て下さいと言われ、何とも恥ずかしい思いでした。



三徳山三仏寺の参拝の後、鳥取市気高町付近で見つけた菜の花畑です。

菜の花は、田舎の道端などでよく見かけますが、こんな広い菜の花畑は最近見かけなくなりました。

一面の菜の花にうれしくなり、車を止めて撮影しました。



菜の花畑のほとりで見つけた「ツクシ」です。

付近をよく見ると周囲は「ツクシ」でいっぱいでした。

「投入堂」への参拝が出来ず、落胆した気持ちを菜の花や、ツクシに癒されたようです。

ところで、「ツクシ」は杉の葉にも似た「スギナ」の子(胞子茎)で、これを食べるとスギ花粉症が治ったり軽減するそうです。

重症のスギ花粉症になった日本大学島方教授が、悲壮な覚悟で趣味の山菜採りに出かけ、採ったツクシを食べて完治したことから日大と企業による「つくし飴」の共同開発まで発展したそうです。

島方教授は、書籍「地図でみる西日本の古代」の編集もされた偉い先生で、ツクシはその日に水洗し、強火で油炒めするか、生で1年は冷凍保存できるそうです。

今が、ツクシ採りの季節、覚悟して採りに行くか、「つくし飴」を試してみてはいかがでしょうか。

次回の掲載は、「三仏寺」「茂宇気[もうけ]神社」への参拝の記録です。

益田市鎌手海岸の絶景と、「唐音の蛇岩」

2009年12月31日 | 山陰地方の旅
10月11~12日に行った石見旅行最後のスポットです。

益田市の東端に近い鎌手海岸にある「唐音の蛇岩」を見に行きました。



不思議な「唐音の蛇岩」のある鎌手海岸の入江です。

天気にも恵まれ、奇岩が続く海岸や、海の色がとにかくきれいでした。



「唐音の蛇岩」がある鎌手海岸周辺の地図で、山陰本線の鎌手駅や、国道9号線が見えます。

国道9号線から海岸に沿った道を進むと「唐音の蛇岩」の駐車場(緑の丸印)に着きます。



鎌手海岸の駐車場に「唐音水仙公園案内板」がありました。

この一帯を水仙の花の名所にする活動状況が書かれています。

「平成元年より毎年10アール増殖」とあり、植えた水仙の球根は平成15年で百万球にもなるようです。

小さな半島を横切るように「唐音の蛇岩」も描かれています。



駐車場から海岸への道は、整備された下り道から始まります。



少し歩くと景色が開け、道の向こうに海岸が見えてきます。

向って左の山裾の木や草が切り取られ、水仙が植えられているようです。

美しい水仙の花畑は、天気の良い冬が見頃です。

訪れた10月には、この一帯にツワブキの黄色い花がたんさん咲いていました。



入江の左側の景色です。

手前に砂浜があり、浅い海の底がきれいに見えていました。

こちらを向いた二匹のワニに見える中央の岩、その右手にタコのように見える岩があります。



入江の右側の景色です。

荒々しい奇岩の続く絶景の海岸です。

北北西方向に島影が見えました。



島影をズームで撮ってみました。

山頂には灯台も見えます。

調べてみると「高島」と言う無人島で、1975年まで人が住む島だったようです。



一つ西側の入江の景色です。

向って右手の大きな岩場に釣をする人が並んでいます。

左手は、上の地図にも見える「魚待ノ鼻」[うおまちのはな]です。

左隅に灯台の頭がのぞいています。



灯台がよく見える場所に移動して撮った写真です。

一段と荒々しい奇岩の海岸です。

向こうにかすかに山が見えています。

山影は、南西の方向ですが、いったいどこの山だったのでしょうか?



一見、道のように見える一段低い細長く続く岩が、「唐音の蛇岩」です。

黒っぽい岩の地層が90度傾き、両側の岩より風化して帯状に低くなったものと思われます。

先に見える白い案内標識には「国指定天然記念物 唐音の蛇岩」と書かれていました。

「唐音の蛇岩」の先に見えるのは、南西方向の「魚待ノ鼻」です。

■近くにこの「唐音の蛇岩」の案内板があり、転記します。
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国指定天然記念物 唐音の蛇岩
        指定昭和十一年十二月十六日
唐音海岸の一帯は今から約一億年前の白亜紀後期の阿武層群に属する石英粗面岩からなる隆起海蝕台地ですがその中を幅 1mほどの安山岩脈が屈曲しながら北東の方向ヘ貫き、途中から入江に没して再び対岸ではいあがっています。この岩脈があたかも岩盤の上に横たわる大蛇のようであることとから「唐音の蛇岩」と呼ばれています。
また、唐音の北約300mのところにある松島にも、同じ時代に形成されたものと考えられる安山岩脈が露出しています。
益田市には、このほかに「鑪崎及び松島の磁石石(飯裏町)」が貴重な地質鉱物として島根県の天然記念物に指定されています。
         平成十年三日
              益田市教育委員会
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写真に向って左下から黒い岩「唐音の蛇岩」が、北東方向の海に向って伸びています。

案内板の説明では向こうの岸までこの「唐音の蛇岩」が続いているようです。

奇岩に挟まれた海には潮が渦を巻き、激しい波しぶきがあがっていました。

海岸の景色がとても美しく、期待以上のスポットでした。

益田市久城町「スクモ塚古墳」

2009年12月20日 | 山陰地方の旅
前々回掲載した益田市乙吉町「小丸山古墳」の案内板に「スクモ塚古墳」が、石見地方最大の全長100mもある古墳とのことで、訪ねて行きました。



島根県益田市久城町の「スクモ塚古墳」です。

小高い墳丘に祠[ほこら]が作られ、案内板も見えます。



益田市の地図です。

「スクモ塚古墳」は、海に近く、近くを小川が流れる場所にあり、「小丸山古墳」からほぼ北の方向に位置します。



案内板に描かれていた古墳の平面図です。[案内板の画像の角度を変え、北方向を上に修正しています]

この図や、説明文を見ると、「スクモ塚古墳」は、全長100mの石見地方最大の前方後円墳ではなかったようです。

それでも石見地方を代表する大型古墳ということで気を取り直して見学させて頂きました。

平面図で、円墳の北に突出した造り出し部分を見ると、前方後円墳の原形にも思えます。

■古墳の案内板を転記します。
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史跡 スクモ塚古墳
指定 昭和十六年十二月十三日
スクモ塚古墳は古墳時代の五世紀初め頃に益田地方を治めていた首長の墓として、四塚山古墳(下本郷町)、大元一号(遠田町)につづく時期に築造されたものと考えられ、石見地方を代表する大型古墳です。
これまで全長一〇〇mに及ぷ前方後円墳といわれてきましたが、最近は造出し付きの大型円墳と方墳が隣接したものと考えられています。
円墳は直径約五六m、高さ約七mの二段築成で、墳頂部には広い平坦面があり、墳丘の表面には葺石が全面に施され、周囲には円筒埴輪が巡らされていました。
北側に延びる造り出し部分は縦約一七m、横約一五mで高さは約二、五m、その両側に従臣のものと思われる小さな陪塚(円墳)がありましたが、今はほとんどその原甘形を失っています。
また、この古墳の北側に隣接している方墳は一辺一〇~一二m、高さ一、五mの大きさです。
 平成十年三月
   益田市教育委員会
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中央のスクモ塚古墳の北西にある陪塚です。

古墳の平面図で、古墳の北側にある突出しの両側にあったとされる陪塚の一つと思われます。



スクモ塚古墳の頂上から東方向の景色です。

下に祠や、案内板が見えます。

上の地図には見えませんが、この古墳に接して東西南北に道が走っていました。



スクモ塚古墳の頂上から北東方向の景色です。

古墳平面図にもありますが、角に畑があるようです。



スクモ塚古墳の頂上から方墳が見える北東方向の景色です。

写真では縮小されてよく見えませんが、この一帯は海岸に近い小高い場所で、地平線付近に日本海が見えました。

そういえば乙吉町の「小丸山古墳」からも日本海がよく見えていました。

雪舟禅師終焉の地、益田市「大喜庵」

2009年12月13日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行2日目の続きです。

益田川の東岸を国道9号から南に入った「大喜庵[たいきあん」に行きました。

「大喜庵」は、雪舟が晩年を過ごし終焉を迎えた場所に建つ寺院です。



保育所の隣にある駐車場から坂道を登り始めると「大喜庵」の本堂が見えてきます。

保育所名は、何と「雪舟保育所」でした。

■大喜庵の案内板が壁に掛けられていました。
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大喜庵(東光寺)の由来
大喜庵[たいきあん]は元禄三年(一六九〇年)都茂[つも]の僧・大喜松祝[しょうしゅく]が建立した庵です。その前身は白水山東光寺(一名山寺)、後に妙喜山[みょうぎさん]とよばれたこの地方きっての大伽藍でした。鎌倉の中期・益田氏の一族・多根兼政[たねかねまさ]が菩提寺として建立・室町期には南宗士綱が再興し・以来・石窓禅師・勝剛長柔[しょうごうちょうじゅう]・竹心周鼎[ちくしんしゅうてい]が入山しました。文明年間に山口の雲合庵より来任した雪舟等楊[とうよう]禅師は、附近の風景が中国の名勝瀟湘[しょうそう]や洞庭[どうてい]の雰囲気によく似ていることからこの地を殊に愛し、「山寺図」をスケッチし・また「益田兼尭寿像図[ますだかねたかじゅぞうづ]」「四季花鳥図屏風[しきかちょうづびょうぶ]」を描くかたわら・医光寺[いこうじ]・万福寺[まんぷくじ]に心の庭を築きました。
 禅師が東光寺に生活の場を求めたのは文亀二年(一五〇二年)・二度目の益田訪問の時です。まさにあこがれの舞台でしたので・日夜禅の道に精進しなから画業にも専念していましたが、永正三年(一五〇六年)・八十七歳遂にこの地で永眠しました。
東光寺はぞの後天正年間に全焼し、仁保成隆[にほなりたか]が再建した小庵も益田氏の須佐転封で廃頽[はいたい]するばかりでした。前述した大喜松祝の力によって、雪舟禅師の香りを現今にとどめることができました。
裏山には雪舟禅師や大喜松祝上座の墓があり、堂内にはただ一つ焼失をまぬがれた東光寺のご本尊観世音菩薩立像があります。
 昭和五十六年九月
 雪舟顕彰会
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一見、古い絵図にも見えますが、タイトルの横に「 (昭和58年4月) 斎藤政夫翁作」とあり、雪舟が生きていた室町時代の町の様子を想像して描かれたものです。

向って左の絵図は、益田川東岸の「旧今市港附近図」で、「大喜庵 」の少し西にあった港や、町並みの様子が描かれています。

向って右の絵図は、「旧高津川益田川地図」とあり、益田市街地全体の地図が描かれています。



小高い山の中腹にある「大喜庵」の前には益田の町の風景が広がっています。

立て札に「雪舟山水郷展望地」「雪舟さんが晩年親しんだ風景」と書かれ、雪舟が室町時代に見た風景を連想してみました。



本堂の脇に「雪舟禅師硯水等にご使用の 霊巌泉 右の山裾の泉」と書かれ、下に進む坂道がありました。



坂道を下りて行くと竹の簾で覆われた「霊巌泉」がありました。

この泉の水がまさしく雪舟の絵に使われた水のようです。

■「霊巌泉」のそばにあった案内板を転記します。
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雪舟硯水霊巌泉[せっしゅうげんすいれいがんせん]の由来
この泉は画聖雪舟が伯耆[ほうき]大山にある七井戸の一水を持ち帰り、水神に供えて設けたもので、この名水を画筆や茶の湯として、愛用してやまなかったと伝えられています。
 益田の風土を殊の外、愛好した雪舟は、壮年の頃、この山寺、東光寺を中心とした「山寺図」[やまでらず]をスケッチして、京畿に遊び、間もなく益田城主益田兼尭[かねたか]の孫、宗兼[むねかね]の元服を祝うために帰りましたが、この時に大山の一水を得て、この泉を設けたものと思われます。さらに晩年に及んで、再度この寺を訪れた雪舟は、この泉水を愛用し、悠々自適の生涯を送りました。
 その後、火災のために東光寺は荒廃しましたが、元禄の頃、大喜松祝[たいきしょうしゅく]がこの地に大喜庵を再建し、この名水は「雪舟硯水霊巌泉」と名付けられました。
昭和六十二年三月
雪舟顕彰会
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大喜庵本堂の横に石碑があり「画聖雪舟禅師 終焉地碑 山寺東光寺旧跡」と刻まれていました。

又、「雪舟の墓」「小丸山古墳」と書かれた立て札があり、階段を登った先にあるようです。



坂道を登って行くと「石州山地雪舟廟」と書かれた標識と共に「雪舟の墓」がありました。

妻に画聖の雪舟さんに祈ると絵が上手になるかも知れないと一緒にお祈りしました。

■墓の正面に立てられた墓の説明板を転記します。
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益田市指定文化財
雪舟の墓
昭和四十六年六月二十一日
雪舟は応永二十七年(一四二〇)に備中(岡山県)に生まれ、幼くして相国寺[しょうこくじ]に入り、周文[しゅうぶん]から画法を学び、応仁元年(一四六七)明に渡り中国の画法も学んだ。
また益田氏の招聘[しょうへい]によって、石見を二度も訪れ益田で死没したと言われる。
雪舟の没年は、永正三年(一五〇六)であると言われており雪舟終焉地については東光寺(現大喜庵)の他、山口雲谷庵備中重源寺[ちょうげんじ]、同真福寺[しんぷくじ]など諸説があるが、墓が存在するのは益田市のみである。
雪舟の墓は東光寺の荒廃とともに寂れたが、江戸時代中頃の宝暦年間に乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり願主である佐州(佐渡)の浄念[じょうねん]とともに改築したものが現在の墓で、内部には旧墓の相輪[そうりん]が納められている。
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雪舟の墓の後方に小さな石塔があり、斜め後方に「雪舟禅師追褒塔[ついほうとう]」と書かれた白い標識がありました。

2005年が、雪舟没後500年だったようです。

雪舟の500年前の作品に今でも多くの人々が感銘を受け、画聖と讃え続けていることを改めて感じました。

■石塔の後方に案内板がありました。
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雪舟禅師追褒塔
 元禄十五年(一七〇二)頃、大喜松祝によって雪舟の旧墓(宝筐印塔)を発掘して建立されたが、星霜を経て崩壊し、その後、雪舟の旧墓は現今の雪舟廟の後ろ側に安置してあったが雪舟没五〇〇回忌を機に雪舟顕彰会によって雪舟禅師追褒塔として復元し建立された。
二〇〇五年(平成十七年)二月二十四日
益田市雪舟顕彰会
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墓の横の道を更に登ると山の頂上に「小丸山古墳」がありました。

古墳は、手入れが行届き、山頂に造られた濠のある珍しい前方後円墳でした。

古墳の上からは周囲の景色が良く見えました。



古墳の正面に陶板の案内板があり、古墳の説明図が描かれていました。

案内板の説明文にこの地で一番大きな「スクモ塚古墳」があり、早速見に行くことにしました。

■案内板にあった古墳の説明文を転記します。
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小丸山古墳[こまるやこふん]
 この古墳は前方後円墳です。益田平野を一望する山頂に立地しています。古墳時代後期の6世紀の初めごろにつくられたもので、
この地方を支配した首長の墓と考えられます。
 墳丘の全長は52m。石見地方では市内久城町の国史跡スクモ塚古墳(全長100m)、遠田町の大元1号墳(全長89m)、浜田市の
周布古墳(全長67m)に次ぐ第4位の前方後円墳です。大きな特徴は、古墳の周囲に周濠と外堤を備えていることで、このような
古墳は県内では唯一です。
 益田市ではこの貴重な遺跡を保存し、郷土の文化と歴史を学ぷ資料とするため、平成4年度にふるさとづくり特別対策事業によ
り復元しました。復元は発掘調査の成果にもとづき、奈良県の市尾墓山古墳の復元を参考に築造当時の規格性を推定し、現存する
古墳部分を保護しながら復元しました。
 所在地 島根県益田市乙吉町
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古墳の見学を終え、「大喜庵」の境内を歩いていると古い椿の木があり、標識に「雪舟禅師お手植椿」と書かれていました。

又、椿の木のそばに石が立ち、標識に「雪舟禅師面影石」とあります。

この一帯は一時、荒廃したようで、本当のものか疑わしく思いますが、雪舟を慕う人々の気持ちから作られた話かも知れません。

益田市「三宅御土居跡」の見学

2009年12月10日 | 山陰地方の旅
益田市の「染羽天石勝神社」「医光寺雪舟庭園」の次に「三宅御土居跡」を見学しました。



益田市の観光案内地図で、赤い丸印が、「三宅御土居跡」です。

「三宅御土居跡」は、平安末期から関ヶ原の戦いの頃まで石見国西部に長く勢力を張っていた豪族「益田氏」の屋敷跡です。



「医光寺」の総門の横に益田市の観光案内板があり、この「三宅御土居」の想像図が紹介されていました。

館は、川を利用した堀に囲まれ、三方に橋が架かっています。

この絵を見て早速、「三宅御土居」の見学に来たものです。



「三宅御土居跡」の様子です。

道路と、墓地に挟まれた細長い場所に「三宅御土居跡」が整備され、正面の小さな建物に「三宅御土居跡」や、「長尾城跡」の案内板がありました。

■案内板にあった「三宅御土居跡」の説明文です。
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三宅御土居跡
御土居とは武士の館があった場所を指す「土居」という言葉の敬称です。
 三宅御土居跡は益田氏の居館跡で、居館が七尾城から益田川を隔てた対岸に築かれた
のは、平野部の開発に伴う水の管理や益田川の水運を掌握するためと考えられます。
 発掘調査の結果、南側は益田川の支流と考えられる川を堀に兼用し、残る三方には人
工的な堀が巡っていました。最終段階の規模はおおよそ1町(約109m)×2町(約
218m)の大ささで、1町四方といわれる通常の館に比べ2倍の規模があり、このこ
とからも益田氏の勢力の大きさがうかがえます。
 三宅御土居は、11代兼見によって応安年間(1368~75)に築かれ、天正11年
(1583)頃に改修されたといわれてきましたが、12世紀にさかのぼる中国製の白磁や
青磁も多数出土したことから、平安時代の未期頃から拠点的な施設が設立していたと考
えられています。
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「三宅御土居跡」の案内板にあった「益田氏御殿略図写」です。

石見国西部に勢力を張る益田氏の館には様々な機能があったことがうかがえます。



「三宅御土居跡」の案内板にあった航空写真です。

上に掲載した「三宅御土居」の想像図と合わせて現地を歩くとよく分かるかもしれません。

■「三宅御土居跡」の案内板にあった説明文です。
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三宅御土居の発掘調査
三宅御土居跡の発掘調査は、平成2年度から12年度にかけで行いました。
周囲の調査
三宅御土居跡の周囲は高さが5mに及ぶ大規模な土塁や堀・川によって守られ
ていました。東西の土塁の外側は幅約10m、深さ約3mの箱堀で、北側は幅が
10m~16m、深さ約1.5mのやや浅い堀でした。南側は益田川の支流と考えら
れる幅約20m~25mの川を堀として利用していました。全体の規模は館の東が
北側に突出した長靴形で、敷地の東西は最大190m、南は最大110mもありま
した。
 また、館の敷地の南側には幅15m~20mの帯曲輪がありました。
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「三宅御土居跡」の案内板にあった発掘写真と、説明文です。

たくさんの柱穴跡をよく分析出来たものだと感心します。

400年を超える長い時代、館が営まれていた場所の発掘と聞くとわくわくします。



「三宅御土居跡」の案内板にあった「益田氏関係年表」です。

平安時代末期に益田氏の祖「藤原国兼」が石見に来て、関ヶ原の合戦の後、長州に移るまでの約500年の歴史が書かれています。




「三宅御土居跡」に再現された井戸と、その横に「掘立柱建物」の案内板がありました。

■「掘立柱建物」の案内板にあった説明文です。
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道路部分の発掘調査で約1000の柱穴が発見され、12世紀から16世紀にかけての掘立柱建物が繰り返し建て替えられたことがわかりました。館の東側には蔵や作業場など館の生活を支えるための建物があったと考えられます。
おどい広場では、建物の規模が明らかになった掘立柱建物10数棟のうち6棟を3種類の金属板を使って時代別に表示しました。銅は12~13世紀頃、真鍮は15世紀、ステンレスは館の改修が行われたといわれる16世紀に存在した建物を表しています。
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「掘立柱建物」の案内板にあった「建物の平面表示」の図です。

上段の写真の足元に光っている金属のラインが時代別の建物跡で、現在地が案内板の場所です。

■「三宅御土居跡」の案内板にあった発掘調査の説明文です。
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館内の調査
 おどい広場一帯では約1,000の柱穴が発見され、12世紀から16世紀にかけ
て掘立柱建物が繰り返し建てられていたたことがわかりました。建跡の大きさが
推定できた10数棟の建物は出土した遺物や向きから12世紀~13世紀と15世紀、
そして16世紀に行われた改修後の大きく3時期に分けられます。さらに礎石建
物が1棟発見され、周囲から済や鉄さい、ふいごの羽口が出土したことから鍛冶
場であったことがわかりました。
また13世紀の木組井戸跡や、16世紀に築かれた直径が約12mの石組井戸跡も
発見されました。このように、館の東側には倉庫や蔵など、生活を維持するため
良光寺本堂周辺では厚さ1mに及ぷ盛土が確認されました。建物跡はまだ発
見されていませんが、16世紀の改修の時に造成されたこの盛土の範囲に御殿な
どの主要建物があったと推定されます。
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上段の「建物の平面表示」の図で、現在地の右に見える建物跡です。

赤い線は12~13世紀、黒っぽい線は16世紀のものです。

この建物跡の表現や、案内板の図・写真・説明文を見ていると、この益田の地で400年を超えて勢力を誇った益田氏の歴史を解り易く伝えようとする気持ちが伝わって来るようです。

益田市 医光寺の雪舟庭園

2009年12月04日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行2日目の続きです。

朝8:30頃、益田市の「染羽天石勝神社」から数百メートル東の「医光寺」に行きました。



よく晴れた朝、風格のある「医光寺総門」が輝いて見えていました。

門の向こうには医光寺の中門、右手に鐘楼が見えます。

関ケ原の戦の後、総門がここに移設されたとされることから桃山時代以前の建築物と思われます。

■寺の前の道路脇に「医光寺総門」の案内板があり、転記します。
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島根県指定文化財
医光寺総門
  指定昭和三十四年九月一日
高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、両側を一段低くした構造になっています。
この門は、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、益田氏二十代元祥の長門国須佐への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える七尾城山の中央の谷あいと考えられています。南北朝時代には当時の大手口「北尾木戸」で三隅方との合戦があったことが益田家文書に残っています。
十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成四年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。
構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
 平成二十年三月
  益田市教育委員会
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中門前の石段から「総門」を振り返った景色です。

後ろの山には戦国武将益田氏の居城だった「七尾城跡」があります。



中門の前の石段脇に「医光寺境内案内図」がありました。

右手の「⑨雪舟灰塚」を見落としていました。

案内図は、落ち着いてよく見ないといけませんね。



「医光寺」の中門です。

中門の裏手に本堂、左手の建物は「開山堂」です。



中門をくぐると少し新しい本堂があります。

右手に歩くと庫裡の玄関があり、そこから裏の「雪舟庭園」に案内されます。



本堂の玄関前から左手の開山堂方向を見た景色です。

■頂いたパンフレットに「医光寺」の説明文がありました。
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医光寺
 臨済宗東福寺派。本尊は薬師如来像。もとは天台宗崇観寺の後身。崇観寺は医光寺の西方にあった古刹で、開山は東福寺の法系、竜門士源で聖一国師の法孫士顔の嫡子です。
貞冶2(1363)斎藤長者の妻、法名直山妙超大姉の本願によって創建され、益田兼弘の保護と援助を受けて栄えました。
寺領は1,500石、南北朝時代、益田兼見は当寺を尊崇し、「祥兼置文」に、崇観寺、万福寺など領内の小庵に至るまで退転ないようにと命じています。
その後、勝剛長柔の入山、画僧雪舟等楊の来山により繁栄しましたが、益田宗兼が医光寺を現在地に建立し保護を加えましたことから、崇観寺は衰退の一途をたどり、さらに寺堂の焼失によって医光寺と合併しました。
寺領30石。その後内容、外観ともに整備されましたが、亨保14年(1729)大火で延焼。
問もなく再建されて今日に至ってします。
本尊の薬師如来像は安阿弥の作と伝えられる高さ1メートルの座像。
日光、月光菩薩の脇侍よく均衡がとれ、金箔の上に繊細な色彩がつけられています。
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本堂裏の東側から庭の西を見た景色です。

朝の明るい陽射しが池の周辺をだけを照らして、庭全体が調和して見えない感じでした。

8:30頃の拝観でしたが、見頃の時間帯があるのかもしれません。

■中門に上がる石段の脇に「医光寺庭園」の案内板がありました。
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国指定
史跡及び名勝 医光寺庭園
指定 昭和三年三月二十八日
画聖雪舟作、池泉観賞(一部回遊)式庭園。
雪舟は文明十一年(一四七九)、益田氏第十五代当主益田兼尭に招かれ、画業の傍ら作庭したと言われている。
この庭園は山畔を巧みに利用した上下二段で構成されている。鶴を形どった池泉部に亀島(蓬莱神仙島)を浮かべており、その背には三尊石を整えている。
さらに庭の左上方には須弥山石を据え、その下に枯滝石組を置く蓬莱山水の手法で作庭されている。
春の枝垂桜、秋の楓等々背後の竜蔵山と融合して四季折々に異なった趣を表す庭園である。
当庭園は万福寺庭園(市内)、常栄寺庭園(山口県)、旧亀石坊庭園(福岡県)とともに「雪舟四大庭国」と言れている。
益  田  市
益田市教育委員会
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庭園は、山の斜面に広がっていました。

葉の落ちた大きなしだれ桜の枝が白く光り、花が咲いているようにも見えます。



頂いたパンフレットに印刷されていた「雪舟庭園」の写真です。

やはりプロの写真は庭園の雰囲気がうまく表現されています。

■頂いたパンフレットにあった「雪舟庭園」の説明文です。
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雪舟庭園
 国史蹟及び名勝。広さ2,198「ポ(666坪)医光寺の裏山を利用した西南向きの池泉鑑賞半回遊式の庭園。
雪舟が文明10年頃来山し、造園した鶴亀を主体とした武家様式で鶴を形どった池の中に亀島を浮かべています。
亀の背中には中心石と三尊石をおき、西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を作って、東のしだれ桜とバランスよくマッチしています。
禅の教えは「以心伝心」でそれは文字ではなく、心にあるといいます。したがって心の芸術である庭も「無心」そのもので、それが芸術として現れますので、作庭も枯山水となり、石庭となるのでしょう。
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庫裡の廊下付近にあった「雪舟像」の掛け軸です。

■説明書きです。
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雪舟和尚肖像 作者不詳
崇観寺(現:医光寺)五世であった雪舟和尚の350回忌法要に併せて作成された肖像画。
安政12年(1756)制作
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「雪舟像」の掛け軸の横に「益田宗兼像」の掛け軸がありました。

■説明書きです。
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益田宗兼像 作者不詳
医光寺の創立者で、益田氏第17代当主。直垂(ひたたれ)姿
烏帽子(えぼし)を冠り刀を帯びた凛々しい城主宗兼。
本寺の境内に宗兼墓がある。
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開山堂の少し西にあった益田宗兼の墓です。

益田宗兼は、15世紀後半から16世紀前半に山口の大内氏に従属したこの地の領主で、医光寺の創立者とされています。

益田市の名の由来が、この地で長く続いた領主「益田氏」によるものと知りました。

益田氏は、孫の藤兼の代に毛利元就の軍門に下り、関ヶ原の戦いの後、毛利に従い長州に移りました。

めまぐるしい栄枯盛衰の歴史の中で「益田氏」は、長州毛利の重臣として幕末まで続いたようです。

益田市「染羽天石勝神社」と、「米原恭庵」の石碑

2009年11月29日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

石見旅行の2日目 朝8:00頃、「染羽天石勝神社[そめばあめのいわかつ]」へ参拝しました。

「染羽天石勝神社」は、この地を開発した一族の祖霊を祀ったようで、奈良時代に創建され、明治維新の神仏分離までは「勝達寺」だったようです。

このブログ2009-11-23掲載の石見美術館の特別展で見た国の重要文化財「不動明王坐像」は、この勝達寺の本尊でした。


「染羽天石勝神社」の参道は、右手の益田東高校のグランド前にあります。

鳥居の前の石柱には「式内 縣社 染羽天石勝神社」、両脇に石灯籠には「瀧蔵大権現」の文字が刻まれていました。

下記の説明文に「弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]を石神とした自然崇拝を起源とし・・・」とありますが、「注連岩」は、背後に見える山の頂上の真下辺りにありました。

■境内の案内板に神社本殿の説明文がありました。
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国指定重要文化財
染羽天石勝神社本殿[そめばあめのいわかつじんじゃほんでん]
指定 昭和四年四月六日
染羽天石勝神社は、社殿の東側、弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]を石神とした自然崇拝を起源とし、神亀二年(七二五)に天石勝命を祭神として創建されました。
『延書式[えんぎしき]』に美濃郡五座のひとつとしてその名がみえ、後に蔵権現と呼ばれるようになりました。承平元年(九三一に社殿西側の高台に別当寺[べっとうじ]の勝達寺[しょうたつじ]を建立し、中世には益田氏の庇を受けて発展しました。
明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃寺となり、神社も名を染羽天石勝神社と改めました。なお、勝達寺の本尊であった不動明王坐像は鎌倉の極楽寺に現存し、国の重要文化財に指定されています。
 本殿は、天正九年(一五八一)に火災で焼失しましたが、益田藤兼[ふじかね]・元祥[もとよし]親子により再建されました。その後、江戸時代に修理され、昭和十二年に解体修理、昭和三十九年及び平成十年・十一年に屋根の葺き替え工事が行われています。
本殿は三間社流造[さんげんしゃながれづくり]で、三間×三間の身舎[もや]の前に奥行一間の吹放し板張りの庇床[ひさしゆか]を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。
本殿の特異な平面構成と装飾彫刻の蟇股[かえるまた]や手挟[たばさみ]に見られる桃山時代の特色から、昭和四年に国宝となり、戦後、文化財保護法の制定に伴い、改めて重要文化財に指定されました。
平成十八年十二月 益田市教育委員会
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右手の参道から境内に入り、左手の社務所前の駐車場から参道方向をみた様子です。

小さな屋根の手水舎から向って左の本殿に進んで行きます。

後ろの大きな建物の玄関が、手水舎の右手に見えます。

建物の出入口はここだけで、四方の壁面には窓が続いており、まるで寺院の講堂のような建物でした。

神社では初めて見る変った建物でした。



一段高く、石塀に囲まれた建物の前で、背後の本殿に参拝するようです。

写真の右手に見える大きな建物の裏手になります。



上段の写真の建物を正面から見た写真です

見た目には拝殿前の参拝する場所に見えますが、小さな屋根だけの建物です。



参拝の建物の奥には本殿に上がる石段がありました。

石段上の小さな赤い本殿を見上げた写真です。



参拝の建物の前から石段上の本殿を見上げた写真です。

染羽天石勝神社のすぐ左隣に別の神殿があり、上る石段がありました。

石段の横に神社のものとは違う石碑が見えます。



■石段の脇に興味深い江戸末期の医者「米原恭庵」の石碑があり、転記します。
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「米原恭庵頌徳碑」
米原恭庵は本名を祥 号を恭庵と称し文政十一年八月石見国高角村(現益田市高津町)米原宗敬の長男として生る 歳僅か十一才にして医学に志し 津和野藩医岩本靖庵に師事し 更に長門国須佐村田村玄洞に学び 十七才の時江戸に上り 竹内玄同の門を訪れ 西洋法内外科及牛痘種法等を修学の上帰郷す 
嘉永二年九月旧師田村玄洞より牛痘を入手し 初めて高角村において接種 翌年三月までに五百有余名に施行す 時に恭庵二十一才であった
当時高角港は津和野藩港として殷賑を極めたが 反面悪疫病の流行も亦猛威を振い 特に天然痘の災禍は地方住民を苦しめた 恭庵は惨状を見るに忍びず 私財を投じ決然として全国に先駆け牛痘接種を断行しその防疫に献身した 後 居を益田村に移し内外産各科に亘りその研究と診療に生涯を捧げた
ことに先師の医術に対する偉大なる研究心と牛痘実施の先駆者としての功績を讃えその遺徳を敬仰する
 昭和四十七年九月二十二日
  益田市美濃郡医師会建之
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■上段の写真向って左に新しく造られた石の案内板があり、上記の石碑と同様の説明に加え、次のことが刻まれていました。
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・・・・嘉永二年(1849)七月十七日に、オランダのモーニッケが長崎で日本初の牛痘接種に成功しているが、そのわずか二ヶ月後に僻地に住む恭庵が新しい接種法を実施したことになる。
・・・・右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。
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写真中央の石碑に向かって右隣に先の尖った石碑が江戸時代に恭庵が建てたようです。

新たな種痘技術を使う決意には、使命感の他、不安や迷いもあったと思われますが、この恭庵の話は、多くの人に希望と勇気を与えてくれるものと思われます。



石段を登ると小さな神殿があり、提灯には「染羽大元神社」と書かれています。



「染羽大元神社」の隣に「染羽天石勝神社」の赤い本殿があります。

この社殿は、天正九年(1581)に焼失、その後、益田藤兼親子により再建されとされ、おそらく桃山時代の建物と思われます。

天正九年(1581)は、織田信長が倒された本能寺の変の前年で、この神社も長い激動の歴史を生き延びてきたことを改めて感じました。



本殿の前部分を横から撮った写真です。

神社案内板に「・・・奥行一間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。 」とあり、この建物の特徴はこの部分と思われます。



本殿に向かって右手に進むと弁天池があり、小さな鳥居と祠が見えます。

神社の説明文に「弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]」とあり、後方の山裾の岩と思われます。

神亀二年(725)に創建されたとされていますが、岩のある古代祭祀的な場所を見るとその以前から祭祀が行われていた可能性があります。



それぞれ特徴のある形の小さな石碑が並んでいました。

刻まれたひら仮名混じりの文が読めず、残念ながら何の石碑かわかりませんでした。

益田の夜は、石見神楽と、仏像鑑賞

2009年11月23日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

益田市の二つの柿本神社の参拝を終え、とりあえず駅前のホテルにチェックイン。

夕方から石見美術館で石見の仏像展と、いわみ芸術劇場で石見の夜神楽を見に行きました。



「石見美術館」、「いわみ芸術劇場」は、島根県芸術文化センター「グラントワ」の中にありました。

「グラントワ」は、屋根はもちろん壁までも石州瓦で造られていました。

最初は、石州瓦に気が付かず、ただ巨大で、風変りな壁だと思っていました。



近づいて壁を見ると屋根に使われている石州瓦ではなく、壁用の焼物になっているようです。

上下2タイプの瓦は、「石州瓦」と言うより「石州タイル」のようです。



島根県芸術文化センター「グラントワ」の中庭で、中央に浅い池があり、四方を建物で囲まれています。

中庭から見る施設も屋根から足元まで石州瓦が徹底して使われているようです。

「大きな屋根」を意味する「グラントワ」(フランス語)の名称は、石見の文化を象徴する石州瓦の建物から新しい文化を培って行こうとする想いからでしょうか。

玄関を入り、左手に「石見美術館」、右手から正面奥にかけて「いわみ芸術劇場」の施設が配置されていました。

最初に入場した石見美術館には「千年の祈り 石見の仏像」と題し、白鳳時代以降、千年以上の石見地方の仏像が30体余り展示されていました。



石見美術館の特別展「千年の祈り 石見の仏像」のパンフレットの一部です。

この仏像は、かつて益田市にあり、明治時代の神仏分離によって廃寺となった「勝達寺」にあった木造の「不動明王坐像」(国の重要文化財)です。

現在、神奈川県鎌倉市「極楽寺」に安置され、約100年ぶりの里帰りのようです。

この座像を横から鑑賞させて頂きましたが、背筋から腰にかけてとても美しい姿が印象的でした。

光背が外されており、正面から見てやや迫力に欠け、物足りなさを感じました。



当日、「グラントワ」の玄関にあたパンフレットの一部です。

訪れた日は、ちょうど美術館が一年に一回の無料開放デーとなっていました。



この仏像は、島根県大田市の「龍沢寺」の木喰[もくじき]作「釈迦如来坐像」です。

素朴さと、微笑みが何となく落ち着いた気持ちになります。

木喰(1718年~1810年)は、江戸時代後期に全国を旅して一木造の仏像を刻んで奉納した遊行僧・彫刻家だそうです。




石見芸術劇場の小ホールで開催される「石見神楽」のパンフレットです。

毎週日曜日18:00から定期公演が開催されているそうです。

「石見神楽」がこの旅行の一番の楽しみでした。



石見芸術劇場の小ホールの受付場所です。

受付が始まる17:30の少し前の様子です。



石見の夜神楽の定期公演の入場券です。

この入場券は、大切な記念として下を切り取る前に撮影したものです。



受付で頂いた当日の夜神楽のプログラムです。

岡見神楽社中は、浜田市の西の端にある久代町で、益田市の隣だそうです。

昔、益田市の神楽団から伝統衣装などを引き継ぎ、始めた経緯があり、益田市での公演には格別の想いがあるようです。

ユーモアのある方言で会話する場面や、熱くなる激しい舞に神楽の面白さを堪能しました。

柿本人麿の終焉を祀る宮「高津柿本神社」へ参拝

2009年11月21日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

益田市戸田町の「戸田柿本神社」を後にして、益田市の市街地に近い「高津柿本神社」を参拝しました。



「高津柿本神社」の参道は、長い石段で、上には大きな楼門が建っています。

赤い欄干の橋の下の両側には鯉がおよぐ小さな池がありました。

石段の両側の手摺りに童謡の歌詞を白い板に手書きしたものがたくさん掛けられていました。

宮司さんが、歌聖人麿を祀る神社をもっと親しまれるように考えてのことでしょうか。



「高津柿本神社」は、益田市市街の西を流れる高津川の西岸にあります。(赤い鳥居)

今はありませんが、高津川の河口付近には柿本人麿終焉の地と言われる鴨島(後述しています)があったそうです。

万葉公園に隣接し、近くに「蟠竜湖」も見えます。

地図で見るとトナカイのツノのように枝分れしたような「蟠竜湖」は、谷がせき止められて出来た形だそうです。

海岸の砂が風で飛んで来て、谷が自然に堰き止められたと知り、驚きました。



長い石段の途中に堂々たる楼門がありました。

■楼門の由緒書があり、転記します。
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柿本神社楼門由緒
 歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。
聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(1026)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
 現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(1681)、高角山に本殿、拝殿楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
 この楼門は初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
 前回の大改修は明治二十四年(1891)に行われ、今回の平成十七年(2005)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。
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石段を登った山の中腹に大きな拝殿がありました。

拝殿は、切妻が三重になった立派な建物で、初めて見る形式です。

写真左手に見えるのは柿本人麿の銅像、右手には社務所がありました。

■社殿の一段下の境内に神社本殿の案内板がありました。
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柿本神社本殿
(指定 昭和五十七年六月十八日)
柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671年)には津和野藩主亀井茲政[これまさ]によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
そして、延宝九年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入、桧皮葺で、唐破風造の向拝を有し、津和野の方向を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。
また、柿本神社は享保八年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。
平成八年三月    益田市教育委員会
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柿本人麿の銅像です。

万葉歌人を代表する人麿の銅像は、絵で見るより実に風格ある姿です。



拝殿の横から更に坂道を登ると、急斜面に建てられた「宝物殿」がありました。



「宝物殿」の前から拝殿奥の神殿を見ることが出来ます。

拝殿の銅版葺きとは違い、桧皮葺の立派な神殿です。



拝殿前の広場の端に人麿の歌が書かれた立て札があり、その横に高津川の上流方向が見えます。

石見のや 高角山の木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか
(石見の 高角山の木の間から 私が振る袖を 妻は見てくれたろうか)

ここから見渡す景色で、何となく情景が浮かんでくるようです。

人麿の石見の妻とされる人は、島根県江津市の依羅娘子[よさみのいらつめ]で、高角山も江津市の山とされる説が有力のようです。

浜田市東部にある石見国府から国司の人麿が、江津市まで約13Kmを妻のもとに通っていたことになります。(参考-石見国府から益田市まで約47Km)

地元有力者の娘を現地妻としたのは政治的な配慮や、身分を考慮したものと思われますが、歩いて3時間の道のりは現代の感覚では気が遠くなるようです。

この他にも、人麿が石見で詠んだと思われる歌が書かれた立て札が3~4立っていました。

人麿を祀る宮司さんの気持ちが伝わってくるようです。



社務所で道を教えて頂き、拝殿前の境内から坂道を登り「和風休憩所」の裏にある「梅原猛記念碑」を見に行きました。

石碑には「柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛」と書かれています。

柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛

梅原猛氏は、著書「水底の歌 柿本人麿論」で発表した自説(柿本人麿が益田市沖の鴨島で水死刑となった説)を証明するため、地震で沈んだ鴨島の調査を行ったそうです。

この石碑は、その調査を記念するものと思われます。



拝殿の一段下の境内に梅原猛氏の海底に沈んだ「鴨島」調査の案内板があり、高津川河口にあったかっての「鴨島」の地図が描かれていました。

■案内板の説明文を転記します。
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鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況
昭和五十二年七月、梅原猛先生、考古学、地質学の先生等は、人麿公終焉の地である鴨島を科学的に立証するため、十日間の海底遺跡調査を試みられた。

海底調査資料より抜粋
●浅い所の水深は四米で、五~六米の所がかなり広がっている。
陸側で八米、沖へ向う側十二米、東西五百米、南北四百米位で面積は大体二十万平方米。

以下、省略しますが、石段に使われていたと考えられる石が引き上げられたと書かれていました。
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案内板の横に大きな歌碑があり、海底から引き揚げられた石が、台石になっています。

柿本人麿の生誕地「戸田柿本神社」へ参拝

2009年11月15日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

益田市三里ヶ浜の「観音岩」を後にして、海岸沿いを西に約2Kmの場所にある「戸田柿本神社」を参拝しました。

旅行の下調べで、ここが柿本人麿の出生地とする説があることを知り、少し驚きました。

二十数年前、梅原猛著「水底の歌 柿本人麿論」を読んだ記憶では、人麿は流罪で都から遠く離れた益田市に連れて来られ、水死刑となった説が、強く印象に残っていたためです。

この地が人麿の出生地であり、終焉の地としたら「水底の歌」で読んだ非業の死のイメージには違和感が出てきます。

ともかく益田市は、人麿と強いつながりがあるようです。



東光山の中腹に建つ「戸田柿本神社」の社殿です。

少し長い坂道を登り切った境内から更に一段上にそびえる社殿には写真以上に大きく輝いて見え、品格を感じます。

拝殿のすぐ右手に四本の石柱で囲まれた柿の木があり、神木とされているようです。

■拝殿下の石段の横に神社の由緒が掲示されていました。
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戸田柿本神社由緒記
祭神は正一位柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武の三天皇につかえ宮廷歌人として令名が高く、万葉集に数多くの長歌、短歌を遣しています。
そのうち「妻と別れて京に上り来る歌」「臨死[みまか]らんとする時自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても「万葉集」の「石見の海打歌の山の木の際りわが振る袖を妹見つらむか」の「打歌の山」が古くから益田市中垣内町の大道山とされ、その北西の戸田町は、生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
柿本社の宮司綾部家は四十九代続いている旧家ですが、その庭前の柿の木もとに、祭神は七才の童子となって孝徳天皇即位九年に天降ったと古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疫病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ、古来地方民の尊崇厚いところであります。

 記
一、建造物 本殿 権現造り 文政五年 四月再建
      拝殿 妻破風  木造り明治二十九年再建、
              組み物の彫刻は精巧そのもの、美事である。
      宝庫、社務所  大正十二年建立   
      神楽殿     明治三十五年増築
二、御神体 柿本人麿木彫座像 ほかに人麿御童子像、付帯像計七体は益田市指定
               文化財、台座の動物浮かし彫りは妙である。
               作者は津和野藩士大島常一(文政五年作)
三、宝物  柿本従三位人麿記、人麿旧記、柿本集、筆柿古木の根など多数
      綾部家には近世古文書の所蔵が多い。なお境内には神木筆柿がある。
四、例大祭 四月十八日 新年祭 春季
  八朔祭 九月一日  新穀感謝祭 秋季

  昭和五十六年十一月吉日
    益田ロータリークラブ建之
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「戸田柿本神社」の駐車場近くにあった案内板です。

国道191号から南に曲がり、右折した道の脇に小さな駐車がありました。

この道を直進するとすぐ左手に「遺髪塚」、更に進むと「足型岩」「聖なる岩(柿本人麿伝承岩)」があるようです。

案内板の右上に「戸田柿本神社の御神体 人麿七体像」と書かれた写真があります。

上の写真には三体の像があり、中央に人麿像、左右に養父母像がありました。

その下には四体の従者の像があり、合わせて七体の神体像としているようです。



益田市の万葉公園にある「和風休憩所」に展示されていた戸田柿本神社の御神体像「人麻呂童形像」と案内された写真です。

人麿が生まれてしばらくして、両親が亡くなり、柿本家に語家(語り部)として仕える綾部家の夫婦によって養育されたとされています。

今から1300年以上前の話ですが、現在も綾部家が戸田柿本神社の宮司として49代続いていることに驚きました。



道路脇の駐車場から神社のある東光山方向を見た景色です。

小川に架かった橋を進むと右上に登る坂道が分かれ、参道になります。

神社の鳥居と、手水舎が、桜の木の陰になり見えていません。

付近には農家がまばらにあり、実にのんびりした場所です。



坂道を登り始めるとすぐに赤い鳥居が見え、その先に長い石段が続いています。

何と、安芸の宮島で、海に浮かぶ大鳥居と同じ形です。

鳥居の形式は「両部鳥居[りょうぶとりい]」と呼ばれ、左右四本の稚児柱で支えているものです。

扁額には金色の文字で「柿本神社」とあります。

益田市にはもう一つ高津町に「柿本神社」があり、戸田町にあるこの「柿本神社」と区別するために町名を付けて呼ばれているようです。



坂道を登って行くと境内が見えてきます。

左手の木の陰に拝殿があり、中央に「社務所」、右手の白壁の建物は「宝庫」、右端の建物は「神楽殿」と思われます。



境内の入口付近に珍しく石州瓦の鯱鉾が置かれていました。



白壁の「宝庫」です。

左右の壁の下部になぜか鬼瓦が付けられていました。



「宝庫」の鬼瓦を拡大した写真です。

石州瓦の鬼瓦と思われますが、なぜ壁に取り付けられているのか分かりません。

とにかく始めてみる光景です。



拝殿前に個性的な狛犬がありました。

窪んだ大きな目、鼻筋が通った顔は、始めてみる顔立ちです。



拝殿に登る石段の脇にこんな瓦が置かれていました。

拝殿の屋根にある瓦と同じように見えましたが、石州瓦が多用されている理由はまったく謎です。

帰る頃に3名の家族連れが参拝に来られましたが、静かな境内でした。

益田市三里ヶ浜の「観音岩」

2009年11月07日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

浜田市から日本海沿岸を西に走り、山口県萩市と隣接する益田市に向かいました。



益田市街を通り過ぎ、海岸沿いを5~6Km西へ走ると浜辺の近くに立つ「観音岩」があります。

海岸近くの海に半円形の大きな岩がそびえていました。



「観音岩」周辺の地図です。

益田市街を西に進むと石見空港があり、サンシャイン広場を過ぎた国道191号沿いに未舗装の駐車場があります。



駐車場から見た「観音岩」です。

駐車場に「海岸保全区域喜阿弥地先海岸」の案内板があり、「観音岩」から約1Km西の「喜阿弥港」までを保全区域とする図がありました。

海岸の土砂採取や、施設の工事などの場合、県知事の許可が必要と書かれています。



「観音岩」付近から西に続く長い砂浜です。

上の地図の「ふれあい広場」そばに海水浴場のマークがあることから夏には大勢の人で浜がにぎわうものと思われます。

先に見える岬は、1Km先にある「喜阿弥港」辺りでしょうか。

13:30頃、少し陽が西に傾きかけ、逆行気味の写真になりました。



西から見た「観音岩」をアップで撮ってみました。

良く見ると右向きのネズミのようにも見えます。

左に伸びたシッポ、丸めた背中、右側にある丸い目、顔の下に揃えた前足・・・。

岩の裏は日陰でよく確認できませんでしたが、

岩の裏は、日陰でよく見えませんでしたが、この岩の面は、どう見ても観音様には見えません。



「観音岩」の上部を拡大した写真です。

岩の一部には草が茂り、毛がびっしりと生えているような感じにも見えます。



海岸を東に進み、海岸とほぼ直角方向に見た「観音岩」です。

なぜこの岩を「観音岩」と呼ぶのかわかりませんが、岩礁の目印となって付近を航行する船の安全を守っていたものと考えられます。

山陰西部の海岸で、観音にまつわる場所は、今回石見旅行の最初に行った畳ヶ浦の穴観音、2007年8月の山口旅行で行った長門市油谷の「立石観音」があります。

いずれも、危険な日本海に船出する人々の安全を観音様に見守って頂く信仰の場になっているようです。

観音菩薩は、様々な姿で現れて人々を救うと言われ、この岩もその一つでしょうか。



上段の写真より少し東から撮った「観音岩」です。

やはり岩の端の厚みは薄いようです。

海は比較的穏やかでしたが、波の音と磯の香りで気持ちの良い浜辺の散策でした。



「観音岩」から東側の海岸を見た景色です。

右手の山から突き出ている鉄の構造物は、石見空港の誘導灯と思われます。

飛行機は、ちょうど「観音岩」の真上を航行するようで、観音様に空の安全も見守って頂くようにお祈りするのもいいのではないでしょうか。