12/23、妻とふくやま美術館へ「没後25年 大村廣陽 豊麗な花鳥動物画」を見に行きました。
日本画家「大村廣陽」(1891-1983)は、福山市東村町に生まれ、京都で活躍した人だそうです。
郷土にこんな日本画の大家がいたことは、まったく知りませんでした。
福山市東村町は、山陽自動車道の福山西インターに近く、尾道市と隣接した場所にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/da/4fa745712417f706900eb42d2c24b53e.jpg)
福山駅北口に近い「ふくやま美術館」の入り口です。
向って右の建物は、福山駅で、正面の石垣は、福山城です。
この門を入ると、すぐ左に広島県立歴史博物館もあり、特に草戸千軒遺跡の展示品は、充実しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/45/8314c30bf6a71447c52a56538e3f4787.jpg)
「ふくやま美術館」の玄関にあったポスターと、料金案内です。
「花鳥風月」の言葉はよく知られていますが、パンフレットのタイトルにもあるように「花鳥動物」が「大村廣陽」の絵の題材となっているようです。
このポスターにある豹の絵にも強い印象を感じます。
大村廣陽は、1907(明治40)年16歳で京都市立美術工芸学校に入学。
その後、京都市立絵画専門学校に学び、京都画壇の第一人者「竹内栖鳳[せいほう]」に師事、京都画壇で活躍したようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/f8/fefd8761f4e50c929a7c24f7cafc69cf.jpg)
この絵は、1914年(33歳頃)に描かれた「牛」で、頂いたパンフレットに掲載されていたものです。
実物の絵を見ると、子牛の毛並みのやわらかさが本当に感じられるようでした。
会場に入ると、すぐの場所に展示されていたバッタや、雲雀のデッサンの素晴らしさに驚きました。
少年時代の作品で、これだけの絵が描けたのはやはり豊かな才能があったものと思いました。
展示会場は、少年時代から始まり、晩年の絵まで順路に沿って並べられていました。
この絵の他に動物の絵では、のどかに時を過ごす存在感のある水牛の絵があり、心に残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/03/26711f2884f3dd4b76e2f3562647461a.jpg)
「軍鶏」1927年の作品です。
鶏の絵は、他に何点もありましたが、いずれも本物よりはるかに美しく、迫力がある鶏でした。
鶏の絵の構想を練ったものと思われる小さなデッサンも展示されていました。
鳥のデッサンは、完成された絵と違って雑な感じで、廣陽の人間味を感じたような気がしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/20/99809cc9b958c561ec6a4db5e22d6194.jpg)
「豹」1937年頃の作品で、尾道市立美術館の所蔵だそうです。
展示会場の中央にこの絵がありました。
こちらを向いている豹の目を間近に見て、深い神秘を感じるようでした。
この写真は、美術館の玄関前に「没後25年 大村廣陽 豊麗な花鳥動物画」の大きな看板にプリントされていたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/64/d380cbbe4b25f1668a6de0451711ec3c.jpg)
この黒い豹の絵も、上段の「豹」の絵と対をなすよう、会場中央に展示されていたものです。
上段の豹の絵と並んで、迫力があり、幻想的な絵でした。
この写真も上段の写真と同様に玄関前にあった看板にプリントされていたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/de/68a56e9e9392e9d433008fb2e85eef5e.jpg)
仏画「光堂開扉」(1965年-74歳頃)です。
晩年になり、仏画をよく描いたようです。
少年時代に描いた、昆虫や、動物など自然の見たままの美しさから、より深い心の世界を対象とする絵になっていったと思われます。
晩年の絵は、動物の絵のようなストレートな感動がなく、気が付いていないことが何か残っているような気持ちになる絵でした。
多くの大作が並び、前半だけで堪能してしまったのかも知れません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/91/a2dd93edb92b90fa0f9641d060958aef.jpg)
会場出口に屏風絵「青鸞」のビデオが放映されていたものを撮影しました。
「青鸞」1921年 30歳、第3回帝展出品作、2007年収蔵シカゴ美術館と案内されています。
写真に向かって左に見える鳥は、孔雀に似た「青鸞[せいらん]」と言う鳥だそうです。
東南アジアを廻り、そこに生息する青鸞をスケッチして帰り、大きな屏風に鮮やかな配色で再現したものと思われます。
会場の最後のコーナーにこの屏風絵が取り上げられてあり、高さ1m程度の小さな複製画が展示されてありました。
又、その複製画の前には着色された大きな青鸞の絵を切り抜いたものが並べられていました。
この切抜いた青鸞の絵を屏風に当て、型紙のようにして使ったものと推察されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b6/b81a034951145943f10dc219a692754c.jpg)
ビテオの字幕に「1921年(大正10年)≪青鸞≫の大下図の前で サクヨ夫人とともに」と書かれていました。
廣陽が、30歳の頃の写真だそうです。
「絵の下図の前で」とあり、アトリエでの撮影だったのでしょうか。
二人の服装や、家具などをよく見ると、どことなくよそ行きの格好をして写真屋さんに撮影してもらったものと感じられます。
カメラが普及していない時代、自分たちの姿を写真に残すことは節目となる行事の一つだったものと思われます。
現在の感覚で見ると二人は、少し老けてみえるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/3a/e301074e198f2b164a1dff8dcd17b00e.jpg)
この女性は、シカゴ美術館で日本画を担当している方だそうです。
シカゴ美術館では、最近この「青鸞[せいらん]」を購入したそうです。
シカゴ美術館は、鮮やかな色で南国の森が描かれているこの屏風絵を高く評価し、字幕にもあるように来年展覧会を開催するそうです。
郷土にこんな日本画の大家がいて、海外でも高く評価されているとに展示の絵と合わせてとても素晴らしいことだと思いました。
日本画家「大村廣陽」(1891-1983)は、福山市東村町に生まれ、京都で活躍した人だそうです。
郷土にこんな日本画の大家がいたことは、まったく知りませんでした。
福山市東村町は、山陽自動車道の福山西インターに近く、尾道市と隣接した場所にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/da/4fa745712417f706900eb42d2c24b53e.jpg)
福山駅北口に近い「ふくやま美術館」の入り口です。
向って右の建物は、福山駅で、正面の石垣は、福山城です。
この門を入ると、すぐ左に広島県立歴史博物館もあり、特に草戸千軒遺跡の展示品は、充実しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/45/8314c30bf6a71447c52a56538e3f4787.jpg)
「ふくやま美術館」の玄関にあったポスターと、料金案内です。
「花鳥風月」の言葉はよく知られていますが、パンフレットのタイトルにもあるように「花鳥動物」が「大村廣陽」の絵の題材となっているようです。
このポスターにある豹の絵にも強い印象を感じます。
大村廣陽は、1907(明治40)年16歳で京都市立美術工芸学校に入学。
その後、京都市立絵画専門学校に学び、京都画壇の第一人者「竹内栖鳳[せいほう]」に師事、京都画壇で活躍したようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/f8/fefd8761f4e50c929a7c24f7cafc69cf.jpg)
この絵は、1914年(33歳頃)に描かれた「牛」で、頂いたパンフレットに掲載されていたものです。
実物の絵を見ると、子牛の毛並みのやわらかさが本当に感じられるようでした。
会場に入ると、すぐの場所に展示されていたバッタや、雲雀のデッサンの素晴らしさに驚きました。
少年時代の作品で、これだけの絵が描けたのはやはり豊かな才能があったものと思いました。
展示会場は、少年時代から始まり、晩年の絵まで順路に沿って並べられていました。
この絵の他に動物の絵では、のどかに時を過ごす存在感のある水牛の絵があり、心に残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/03/26711f2884f3dd4b76e2f3562647461a.jpg)
「軍鶏」1927年の作品です。
鶏の絵は、他に何点もありましたが、いずれも本物よりはるかに美しく、迫力がある鶏でした。
鶏の絵の構想を練ったものと思われる小さなデッサンも展示されていました。
鳥のデッサンは、完成された絵と違って雑な感じで、廣陽の人間味を感じたような気がしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/20/99809cc9b958c561ec6a4db5e22d6194.jpg)
「豹」1937年頃の作品で、尾道市立美術館の所蔵だそうです。
展示会場の中央にこの絵がありました。
こちらを向いている豹の目を間近に見て、深い神秘を感じるようでした。
この写真は、美術館の玄関前に「没後25年 大村廣陽 豊麗な花鳥動物画」の大きな看板にプリントされていたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/64/d380cbbe4b25f1668a6de0451711ec3c.jpg)
この黒い豹の絵も、上段の「豹」の絵と対をなすよう、会場中央に展示されていたものです。
上段の豹の絵と並んで、迫力があり、幻想的な絵でした。
この写真も上段の写真と同様に玄関前にあった看板にプリントされていたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/de/68a56e9e9392e9d433008fb2e85eef5e.jpg)
仏画「光堂開扉」(1965年-74歳頃)です。
晩年になり、仏画をよく描いたようです。
少年時代に描いた、昆虫や、動物など自然の見たままの美しさから、より深い心の世界を対象とする絵になっていったと思われます。
晩年の絵は、動物の絵のようなストレートな感動がなく、気が付いていないことが何か残っているような気持ちになる絵でした。
多くの大作が並び、前半だけで堪能してしまったのかも知れません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/91/a2dd93edb92b90fa0f9641d060958aef.jpg)
会場出口に屏風絵「青鸞」のビデオが放映されていたものを撮影しました。
「青鸞」1921年 30歳、第3回帝展出品作、2007年収蔵シカゴ美術館と案内されています。
写真に向かって左に見える鳥は、孔雀に似た「青鸞[せいらん]」と言う鳥だそうです。
東南アジアを廻り、そこに生息する青鸞をスケッチして帰り、大きな屏風に鮮やかな配色で再現したものと思われます。
会場の最後のコーナーにこの屏風絵が取り上げられてあり、高さ1m程度の小さな複製画が展示されてありました。
又、その複製画の前には着色された大きな青鸞の絵を切り抜いたものが並べられていました。
この切抜いた青鸞の絵を屏風に当て、型紙のようにして使ったものと推察されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b6/b81a034951145943f10dc219a692754c.jpg)
ビテオの字幕に「1921年(大正10年)≪青鸞≫の大下図の前で サクヨ夫人とともに」と書かれていました。
廣陽が、30歳の頃の写真だそうです。
「絵の下図の前で」とあり、アトリエでの撮影だったのでしょうか。
二人の服装や、家具などをよく見ると、どことなくよそ行きの格好をして写真屋さんに撮影してもらったものと感じられます。
カメラが普及していない時代、自分たちの姿を写真に残すことは節目となる行事の一つだったものと思われます。
現在の感覚で見ると二人は、少し老けてみえるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/3a/e301074e198f2b164a1dff8dcd17b00e.jpg)
この女性は、シカゴ美術館で日本画を担当している方だそうです。
シカゴ美術館では、最近この「青鸞[せいらん]」を購入したそうです。
シカゴ美術館は、鮮やかな色で南国の森が描かれているこの屏風絵を高く評価し、字幕にもあるように来年展覧会を開催するそうです。
郷土にこんな日本画の大家がいて、海外でも高く評価されているとに展示の絵と合わせてとても素晴らしいことだと思いました。