昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.40 再現された蝦夷地の都市「松前藩屋敷」

2011年12月30日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道松前町の松前城の見学の後、江戸時代の松前を再現したテーマパーク「松前藩屋敷」へ行きました。



「松前藩屋敷」の入り口付近の風景です。

入口の上に「武田菱」と言われる「四つ割菱」が丸で囲まれた紋が白い幕に描かれています。

松前藩主の松前氏の始祖「武田信広」が清和源氏の流れを汲む若狭武田氏だったとされることによるものです。

室町時代中期にアイヌと和人の戦い「コシャマインの戦い」(1457年~1458年)が発生、渡島半島の各地にあった和人の拠点「道南12館」の大半が陥落する事態となったようです。

若狭から蝦夷地に渡った「武田信広」は、「道南12館」の一つ、上之国「花沢館」の蠣崎氏の配下にあり、コシャマイン率いるアイヌ軍を倒したことから、蠣崎氏の女婿となり、家を継承していったようです。

5年前の若狭旅行で行った「高浜町郷土資料館」で、若狭武田氏が安芸武田氏から派生した武門と知り、広島県にも縁があることから歴史への興味も増してきます。

■門を入った所に案内板がありました。
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松前藩屋敷
 蝦夷地唯一の城下町松前は、幕末時には戸数八千、人口三万を数え、仙台以北では最大の都市といわれ、近江商人を中心として北前船(弁財船)によって、日本海沿岸から瀬戸内海方面まで広く経済交流が行われ、大いに発展した町である。
 しかし、箱館戦争で城下街の三分の二を焼失し、廃藩後は、士族、豪商が多く離散し、さらに打ち続く火災によって、古い町並みは全く消失した。
 町では、これら往時の特色を持った建物十四棟を再築し、松前藩屋敷と命名した。
 この場を通じ、北前船交流地との広域経済をすすめると共に、松前藩の政治・経済・文化・民俗を理解していただき、さらに町の活性化、観光産業の飛躍を期待している。
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「松前藩屋敷」の鳥瞰図です。

パンフレットにあったもので、再現された松前の街を見学する順路で、右下の「表門」から番号順に歩きます。



「松前藩屋敷」の廻船問屋の土蔵に江戸時代の松前の街の絵が展示されていました。

再現された松前の街の見学順路の案内で、右下の「表門」から番号順に歩きます。

海岸に沿って松前の街が長くのび、中央に松前城がそびえています。

海岸にはたくさんの黒い帆柱が林立し、沖には帆をあげたおびただしい数の北前船が水平線まで続いています。

江戸時代後期には年間1,500艘以上の船が来航していたとされ、この絵もまんざら大げさな表現ではなかったようです。

■絵に添えられた説明文です。
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松前風景画
江戸時代松前城下の賑わいの様子を描いたもの、海岸には多くの北前船が停泊し、沖の方には出船入船が多数帆をたてている、いわゆる北前船である。本州と北海道(えぞ地)の産物、生活物資の輸送が盛んな松前港は最大の拠点であった。東北以北で最大の都市と福山(松前)が言われたのもこの頃である。
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海岸近くにあったとされる「沖の口奉行所」の再現建物です。

幕府から独占を認められた蝦夷地交易への徴税に依存する松前藩の重要な役所で、現代の税関のような機能だったようです。

江刺や、函館にも同様の役所があったようで、蝦夷地に来航する船は、松前・江刺・函館の三湊いずれかに立ち寄ることとされていました。

日本海沿岸を宗谷まで行く場合の「江刺」、太平洋側を根室・千島まで行く場合の「函館」を想定したものと思われます。

■建物の前に案内板がありました。
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松前藩沖の口奉行所
 松前藩の蝦夷地へ出入りする船改め、積荷、出入人を改め、税役を徴収する役所て、奉行、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代等の役人が配置されていた。
 白洲では、入国者を裸にして調ベ刀傷のある者、入墨のある者と、身元引受人のない者の入国を許さず、次に本州へ出帆する船に乗せて帰した。
遭難船の救助は附船宿に任せ、奉行所はこれを監視するたけであったが、商人達からは役人に多くの太義料、袂銭の献金があったといわれている。
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武士の人形が展示された「沖の口奉行所」の建物の中の風景です。

来場者が少ないのんびりした会場内で、暇そうにふんぞり返った武士を見ると、のんびりとしたお役所仕事を連想します。

しかし、パンフレットの説明に「蝦夷地に入ろうとする者は、お白州で裸にされ、刀傷や入れ墨がないか等を調べられました」とあり、現代では考えられない厳格な取調べがあったことに驚きます。



「沖の口奉行所」の向かいにあった商家「近江屋」の再現建物です。

店内には呉服、味噌・醤油・油などが陳列されていました。

門の近くの案内板に「近江商人を中心として」とあり、意外にも松前には北陸・東北など日本海沿岸各地の商人と並び、近江商人の活躍が顕著だったようです。

江戸時代に「天下の台所」といわれた「大阪」や、「京都」へ蝦夷地の産物を運ぶには、若狭湾から琵琶湖、淀川を結ぶ経路が使われていたものと思われます。

中世から琵琶湖周辺の勢力が複雑に絡み合う地域事情を考えると、地域事情に詳しく、顧客情報を把握する近江商人が夷地との流通に活躍する背景があったものと推察されます。

又、都に近い近江には医薬品の歴史もあり、蝦夷地との交易に欠かせない産品だったのかも知れません。

■建物の前に案内板がありました。
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商家
 松前の商家の多くは近江商人や、北陸地方出身の商人が多く、これらの人たちの出身地の商品を北前船(弁財船)に積んで来て販売した。取扱う商品も大阪、敦賀、三国湊、橋立、輪島、七尾、新潟、佐渡、酒田、秋田、津軽の太物(錦織物など太い糸の織物)調味料から儀筵、縄、竹細工、漆器、鍋釜、瀬戸物、鉄器類、漁網、薬品にいたるまで、あらゆる品を取り揃えていた。
また、これらの店舗を張る商人のなかには場所請負人となるものもあり、巨万の富を築いた人が多い。
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■店内に豪商のリストが展示されていました。
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松前藩屋敷の五豪商
 飛騨屋久兵衛 飛騨(岐阜)
 村山傳兵衛  能登(石川)
 栖原角兵衛  紀伊(和歌山)
 伊達浅之助  陸奥(青森)
 高田屋嘉兵衛 淡路(兵庫)
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最初の通りを突き当たった辺りから振り返った風景です。

左手に「髪結屋」、その向こうに土蔵の「土産物店」、その向こうが上段の商家「近江屋」と並び、右手に「旅籠屋」と、「沖の口奉行所」が続いています。

土蔵の「土産物店」では松前杉を加工した民芸品が販売されていました。

杉の生育の北限は、青森とされていますが、江戸時代末期の植林で、ここ松前にも杉が育っていました。

民芸品を製作する店主のお話では、渡島半島の南端に近い松前は、北海道でも特に温暖な気候だそうです。

函館から来る途中、北海道南端「白神岬」の東側に霧が立ち込め、西は晴れていたことを話すと、松前の温暖な気候によるものと説明されました。

又、店主から聞かれ、広島県福山市から来たと告げると、松前の福山(城)と、福山市とどっちが古いのかと質問を受けました。

広島県の福山は、江戸時代初期に出来た城下町で、松前の福山(城)が古いと答えると、以前から疑問に思っていたことがわかったと喜ばれたことを思い出します。

土蔵の土産物店「民芸松前杉」のホームページがあり、興味のある方はリンクからご覧下さい。



「髪結」とされる建物の石が置かれた屋根に興味がわき、掲載しました

屋根は、長柾葺(ながまさぶき)とされ、屋根の上には木材で留められた石が並べられています。

他の地方でも屋根に石を乗せた風景を見たことがありますが、雪の多い日本海沿岸、雪下ろし作業と、屋根の傾斜が気になります。

民家や、漁家の再現建物でも同じ屋根が使われ、財力のない庶民は、こんな屋根の建物に住んでいたのでしょうね。

■建物の前に案内板がありました。
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髪結
近世の時代、男は必ず髷を結い、女性の多くは島田髪を結った。
髷の場合、月代を剃った上、髪を鬢付で固め固めに髷に仕立てた。
個人ではできないので髪結いに行き、男の月代剃や、髪結いは男性の床屋が行い、女性の髪結いは女性が結った。
店には待合室があり、待合の時間に将棋を指したり、四方山話をする社交場でもあった。
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「廻船問屋」の建物です。

向かって左に土蔵があり、さすが交易の都市松前の主役を担う「廻船問屋」の建物だけに立派なものです。

■建物の前に案内板がありました。
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廻船問屋
 松前藩内三湊(松前、江差、箱館)では、沖の口奉行所に従属する三つの問屋制度があった。
一つは問屋、二は小宿、三は附船である。
 問屋は松前から出入する船の積荷の取り扱いをして二分の口銭を取り、その積荷の内容を奉行所に申告し、また、廻船の手配をするなどの業務を担当した。
 この問屋は、株式制で、年代によって異なるが、凡そ十軒から十五軒程の問屋があり、荷捌や廻船で莫大な財をなした。
 小宿の業務は問屋と同じであるが、取り扱う仕事は問屋全体の三割であって、業者は五軒程度である。
 附船は他国からの入港船の薪、水、食糧の供給、洗濯女の斡旋、宿屋等の業務を担当して利益を得た見返りとして難破船の救助等が義務付けられていた。
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「廻船問屋」の土蔵に弁財船(北前船)の模型が展示されていましたが、北前舟が立ち寄った港の資料館で見かけるものです。

幟に「長者丸」の文字が染められ、前回掲載の松前城資料館でも松前藩の参勤交代で飾られて航行する絵が展示されていました。(前回の5番目の写真)

「この模型は約8分の1で製作したものです」と補足説明がありましたが、大きさは実感できませんでした。

テーマパークとPRする施設だけに、実物大の弁財船を参勤交代で海上を航行する姿で展示し、船内の見学が出来たら見ごたえがあると思うのですが、・・・。

■船体に貼られていた説明文です。
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弁財船と長者丸<模型>
江戸時代、日本海やえぞ地周辺で活躍した大型船は、弁財船と呼ばれ明治になって西洋式船舶にとってかわられるまで、えぞ地と本州間の物資輸送を一手に担って活躍した。
これは、長者丸と名づけられた弁財船の模型で、松前藩が藩主の御座船として建造したものである。
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「自身番小屋」と書かれた建物があり、通りの角に火の見櫓が建っていました。

火の見櫓の上には「半鐘」が吊り下げられています。

昭和30年代は、このような火の見櫓が日本各地で普通に見られましたが、次第に半鐘がサイレンに、木製の櫓が鉄製になったものの、基本的な構造はあまり変わっていないようです。

写真左側は、建物の中に展示されていた火消しの道具と思われるものです。

これらは、現代の消防署の装備とはまったく雲泥の差で、火事に対してほとんど無力だったことを感じさせられます。

■建物の前に案内板がありました。
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自身番小屋
 本来の自身番小屋は、目明の勤務場所であったが、松前市街の自身番小屋は、火の見番所であった。
 したがって番所内には火の見番が居り、夜は拍子木を叩いて町内を「火の用心」とふれて歩き、火災を発見すると半鐘を叩いて、消防組員が町内に知らせまわった。
 小屋のなかには、龍吐水(腕用ポンプ)をはじめ刺子、馬穴、布馬穴、天水桶、鳶口、鋸、丸太、提灯等が備えられていた。
 海岸で風の強い松前では、一度出火すると消す方法がなく、延焼しそうな先の家を潰してしまう破壊消防が主な消化の方法であった。
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これで松前の見物を終え、日本海沿岸を北へ約50Kmの上ノ国町へ向かいました。

上ノ国町には15世紀後半、松前藩の祖「武田信広」が築いた中世の城郭跡など楽しみにしていた地です。

北海道旅行No.39 「松前城資料館」で見た「夷酋列像」

2011年12月22日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道松前町の松前城の天守閣にある「松前城資料館」を見学しました。



「松前城資料館」受付の建物です。

「搦手ニノ門」をくぐると正面にある建物で、ここを通り抜けると、そびえる松前城の天守閣が見えてきます。

■天守閣にある「松前城資料館」の案内板があり、階別の展示内容が書かれていました。
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地階 アイヌ
1階 松前藩関係資料
2階 松本家資料展
3階 夷酋列像・松前城写真・福山(松前)城出土陶器展
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地階のアイヌ関係の展示場に「正装した弁開凧次郎氏」と名付けられた写真があり、興味深く見せて頂きました。

幕末に生まれ、明治・大正期に活躍されたアイヌのリーダー的な方だったようです。

この写真のすぐ横にも雪の中に立つ7人の男達の写真があり、下記の説明文にある八甲田山遭難事件で捜索で、アイヌの仲間を引き連れて出動した時の記念写真だったと思われます。

■写真に添えられた説明文です。
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弁開凧次郎(1847~1919)
牛馬商、獣医。アイヌ名はイカシパ。落部[おとしべ]コタン(現 渡島管内八雲町)の有力者の家に生まれる。
1902年、青森歩兵第5連隊の八甲田山遭難事件では、3週間にわたって捜索活動に参加した。
皇太子殿下(大正天皇)のご成婚を祝い子クマ2頭を献上している。また、1911年殿下がご来道の際には、大沼公園の船遊びの近くまで泳いで行き、ご歓迎したという。
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1階の松前藩関係資料の展示場の風景です。

左側の絵図が、前回も紹介した「松前屏風」(小玉貞良筆・宝暦年間[1751~1763])です。

江戸時代中期、交易で賑わう松前城下の様子がよく伝わってきます。

鎖国の江戸時代、公然と交易を収入源としていた松前藩は、西に開かれた長崎ほど知られていませんが、アイヌを通してアジア大陸北東部に開かれた意外に大きな窓口だったようです。



1階、松前藩関係資料の中に「慶応3年の福山城」と題する古い写真がありました。

「函館市写真歴史館」でも紹介されている幕末からの写真家「木津幸吉」「田本研三」両氏の撮影による貴重な映像です。

慶応3年は、箱館戦争が勃発した明治元年の前年で、江戸時代の福山城(松前城)の雄姿と、城下町の様子が伝わってきます。



2階、松本家資料展で見た「長者丸姿図」です。

見慣れた北前船の姿とは違い、美しく飾られた船に目がとまりました。

松前藩主の参勤交代で航行する様子が描かれたもので、船を曳く周囲の小船と合わせ、さながら海上の大名行列絵図といったところでしょうか。

この船の船頭「松本家」は、能登半島の出身とされ、蝦夷地から日本海を南下、若狭湾~琵琶湖~京都~大阪と続く中世からの交易ルートに関連するものと推察されます。

■絵の下に添えられていた説明文です。
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長者丸姿図
参勤交代の時、旗や幟[のぼり]、まん幕などで飾られた長者丸が、たくさんの小船曳かれて松前から出発している様子を描いたもの
   「福山温故図解」より
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松前町指定有形文化財
松本家資料
 松本家は能登(石川県羽咋)出身で、初代金蔵・2代百蔵(のちに金蔵を襲名する)にわたり、松前藩の御召船(おめしぶね)の船頭を勤めた家柄であつた。 御召船とは藩主が参勤交代で津軽海峡を渡る時に乗る船をいう。この船の名を長者丸とこいい、松前城下の豪商柏屋藤野家の持船であつた。
 松本金蔵は、ふだんは長者丸の船頭とこして蝦夷地と大坂・江戸とをはしり、藩主の参勤交代時には御召船の船頭とこして活躍した。したがって、いわゆる北前船の船頭とは異なり身分は松前藩の徒土格士席(かちかく しせき)であった。
 松本家資料は、同家に長く保存されてきたものを平成7年、松前町で購入したものである。資料は、文化年間(1804)から明治・大正期に及び、和船関係、古文書、美術工芸、民族資料など多岐にわたり、北海道の経済史、海運史、生活史などのうえから貴重なものである。
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江戸時代の1791年(寛政3)、蠣崎波響によって描かれたアイヌの有力者「乙箇吐壱[イコトイ]」(左)と、「失莫地[シモチ]」(右)の異様な像です。

北海道旅行No.14、根室半島「ノッカマフ」の記事でも紹介しましたが、江戸時代の道東でアイヌが蜂起した大事件「クナシリ・メナシの戦い」の後に描かれたとされる絵です。

松前城天守閣最上階3階に「夷酋列像」12枚が展示されていましたが、額のガラスに城の窓の光が映った写真になってしまいました。

■パネルに添えられていた説明文です。
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乙箇吐壱[イコトイ]
アッケシ(厚岸)の指導者。常に槍を携えている。騒動を聞き、参加者の逃亡を防ぐため、弓が巧みな部下数十人をウルップ(ラッコ)島、エトロフ島へ派遣した。

失莫地[シモチ]
シモチアッケシの準指導者。幼少より体術に巧みで弁舌に優れていたという。
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■「夷酋列像」12枚のパネルの説明文です。
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夷酋列像<いしゅうれつぞう>
 寛政元(1789)年、クナシリ島やメナシ地方(根室管内)のヌイヌ民族が場所請負人飛騨屋の横暴に対し蜂起する事件があつた。(国後目梨騒動、クナシリ・メナシの戦いと呼ばれる)この事件では、クナシリ島や対岸の標津(しべつ)地方で和人71人が殺害され、搾取に苦しむアイヌ民族の怒りが頂点に達した結果であつた。
 これに対し松前藩側では急きょ260人余の討伐隊を派遣し、首謀者ら37人のアイヌを処刑し事件を収束させた。この時、松前藩側に協力し事件の収拾にあたったアイヌの指導者12人の肖像が「夷酋列像」である。
 事件後の9月、松前藩は44人のアイヌを引き連れ城下へ凱旋(がいせん)するが、それらアイヌの人々は松前で一冬過ごしたという。
この時、藩主道廣は、弟で家老であった蠣崎波響にその肖像を描せた。ただし、12人のうち実際に松前に来ていたのは4人(シモチ、イニンカリ、ニシコマッケ、イコリカヤニ)で、残りの8人は人相などの聞き取りによって描いたものと云われている。しかし、描くにあたってはかなり苦心したらしく、多数の下描き(粉本)が残されており、完成したのは翌年秋であつた。
 波響は寛政3年、作品を携えて上洛し、改めて浄書を行った。「夷酋列像」は文人の間での評判が高まり、ついに天覧(天皇陛下がご覧になること)を賜わるにいたった。その後、諸大名の間でも関心が持たれ、借り受けた大名による模写作品がいくつか知られている。展示作品は 黒田家旧蔵の模写(小島貞喜による)作品である。
 「夷酋列像」は二組(松前家と蠣崎家蔵、一説にはもうー組あった)作成されたが、明治維新の混乱のため散逸してしまい、現在、市立函館図書館に2幅とフランスのブザンソン美術館に11幅が保存されている。
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「夷酋列像」のパネル「貲吉諾謁[ツキノエ]」(左)と、その妻とされる「窒吉律亜湿葛乙[チキリアシカイ]」(右)の絵です。

上段の乙箇吐壱[イコトイ]は、二人の息子になるようです。

アイヌの蜂起事件「クナシリ・メナシの戦い」は、支配下のクナシリで発生したとされており、和人への強い反感がありながら騒動の鎮圧に動かざるを得なかったやり場のない心情があったものと思われます。

■パネルの説明文です。
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貲吉諾謁[ツキノエ]
クナシリの総指導者。身長6尺余(180cm余)、眉目秀麗、腕力出群。年齢70才以上。騒動の時には千島列島にいた。しかし、息子、支配下のアイヌの多くが騒動に加わっていた。
部下の中の雄弁な者に説得の演説をさせ、騒動を鎮めた。鎮圧の功績第一という。

窒吉律亜湿葛乙[チキリアシカイ]
ツキノエの妻でイコトイの母、65才
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「卜羅鵶[ボロヤ]」(左)と、「乙箇律葛亜泥[イコリカヤニ]」(右)の像です。

「イコリカヤニ」も上段の「ツキノエ」の息子とされるようで、「ツキノエ」の息子の一部には蜂起に参加した者がいたとされることから、親子、兄弟が戦う悲しい事件でもあったようです。

■パネルの説明文です。
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卜羅鵶[ボロヤ]
東部ベッカイ(別海)の指導者。シモチとともにクナシリ島アイヌの説得をする。

乙箇律葛亜泥[イコリカヤニ]
クナシリの準指導者。不敵勇猛であり、衆夷かに敬服されている。クナシリで一番の弓の名手。
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「麻鳥太蝋潔[マウタロケ]」(左)と、「起殺麻[キサマ]」(右)の像です。

説明文にある「ウラヤスベツ」は、網走の東にある地域のようで、国後島で始まった蜂起事件は、北海道東部のアイヌ社会全体を巻き込む深刻な事件となったことがうかがえます。

■パネルの説明文です。
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麻鳥太蝋潔[マウタロケ](マウタラケ)
東部ウラヤスベツの総指導者。騒動を聞き300人余のアイヌを率いて参加者の西北部よりの逃走を防ぐ。

起殺麻[キサマ](チョウサマ)
騒動の発生を聞き、マウタラケとともに300人余のアイヌを率いて騒動参加者者が西北部から逃亡するのを防ぐ。
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「贖穀[ションコ]」(左)と、「訥室孤殺[ノチクサ]」(右)の像です。

「知慮にあふれる」とする「ノチクサ」の説明文と、鹿をかつぐ姿は、どうもイメージが合いません。

夷酋列像の12人の内、松前に来なかった8人に含まれる「ノチクサ」の像だけに、蠣崎波響が会わないで描いた絵と、説明文に矛盾があることは仕方ないことかも知れません。

■パネルの説明文です。
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贖穀[ションコ]
東部ノッカマップ(根室)の総指導者。威厳があり、深い知恵にあふれ貧しいアイヌを救ったという。弓術が巧みで常に携えていた。

訥室孤殺[ノチクサ]
東部シャモコタン(根室)の指導者。道理をわきまえ、知慮にあふれる。弁舌により利害を説き、他のアイヌの騒動への参加を押さえる。
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「乙[口金]※葛律[イニンカリ]」(左)と、「泥湿穀末決[ニシコマッケ](右)」の像です。

■パネルの説明文です。
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乙[口金]※葛律[イニンカリ]
厚岸の指導者。侠気にあふれたという。
松前藩兵が到着する前に、騒動を起こしたアイヌを攻めようとするが思いとどまり、藩兵到着によりノッカマップ(根室)へ同道する。

泥湿穀末決[ニシコマッケ]
アッケシの指導者。弓に優れ、威名は東部にとどろくという。
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※[口金]は、1文字の活字表示がなく、口と金を合わせた一つの文字で見てください。



タイトルに「旧幕府軍 中島三郎助」と書かれた写真がありました。

函館戦争で五稜郭の南西約1~2Kmにあった「千代ヶ岡陣屋」の隊長で、降伏の勧告を拒絶して二人の子供と共に壮絶な最後を遂げたとされる人です。

一昨年、中島三郎助最期の地「千代ヶ岡陣屋跡」を訪れ、どんな人だったかと思っていましたが、この写真の顔に最後まで意志を貫いた強い人柄を感じます。

■函館市「千代ヶ岡陣屋跡」付近にあった案内板の説明文です。
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中島三郎助父子最後の地
中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明冶元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く思い哉」という辞世の句を残した。
昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。
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なぜ、この松前城資料館に写真があるのか分かりませんが、函館戦争の歴史を肌で感じるような写真でした。

油絵「花」

2011年12月16日 | 妻の油絵

妻の油絵「花」です。

カラフルな「ばら」と、純白の「百合」をしゃれたタッチで描こうとしたのでしょうか。

花屋さんの店頭には季節外れの美しい花が年中並び、お陰で冬でも花の絵が描けます。

今日は、雪がちらつく寒い日でしたが、こんな季節でも花の温室栽培は続いているようです。



つい先日、運動不足対策で行った「ばら公園」(福山市)です。

何と、まばらですが「ばらの花」が咲いていました。



ばら公園で咲いていた薄いピンクの花です。

周囲にいくつかのツボミがあり、花はまだ続きそうです。



色の名は分かりませんが、美しく咲いていた花です。

朝晩の寒さのためか、外側の花びらは傷みはじめているものの、意外に寒さには強いようです。



どこか一部が傷んだ花が多い中、これも美しく咲いていた花です。

冬のばらがこんなにたくさん美しく咲いていたとは知りませんでした。



我が家のテラスで咲いたシャコバサボテンです。

毎年、少しずつ株が大きくなり、花は丸いテーブルをはみ出すまでになりました。

やはり、季節の花は美しいですね。

12月下旬に向かって満開になるこのシャコバサボテン花は、今年もクリスマスを彩ってくれる予定です。

北海道旅行No.38 日本の近世最後の城郭「松前城」

2011年12月12日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)11時頃、北海道南端に近い「松前」に到着しました。

中世以降、蝦夷地への和人の進出は次第に増加し、「松前」は長い間アイヌとの交易を取仕切る中核拠点でした。

明治時代になり、「北海道」は水産業に加えて本格的な農業が始まり、広い内陸を包括的に管理する札幌にその座を譲ることになったようです。

しかし、中世から江戸時代までの蝦夷地の歴史に触れるには、やはりこの松前周辺になります。



江戸時代中期、北前船で賑わう松前の風景が描かれた「松前屏風」の一部です。(小玉貞良筆・宝暦年間[1751~1763])

松前城資料館で頂いたパンフレットに載っていたものですが、北前船で賑わう当時の松前の様子がよく伝わってきます。

「松前城(福山城)」は、アイヌの攻撃に備えて「大松前川」(東)と、「小松前川」(西)に挟まれた小高い台地に造られ、絵には天守閣のなかった当時の館が描かれています。

天守閣を備えた本格的な築城は、江戸時代末期の1849年(嘉永2)のことで、ロシアなど外国船に対する警備を目的とするものに変っていったようです。



松前城(福山城)の東側に「松前町役場」があり、正面の壁に「史跡 松前奉行所跡」の看板が設置されていました。

かつてこの場所に松前の町を取仕切る松前奉行所と、町会所があったようです。

向かいには無料駐車場があり、ここから松前城へ登っていきました。



「三の丸」の「番屋跡」にあった松前城(福山城)の現在の様子を知る縮小模型の写真です。

赤い字の番号は、今回掲載した12枚の写真の掲載順です。

向かって左に追手門がありますが、右手の「松前町役場」(縮小模型-2)から天守閣を往復するコースで見学しました。



「松前町役場」の北側の道を進むと「大松前川」に架かる橋の向こうに城に続く「馬坂」がありました。

「馬坂」は、「三の丸」から「搦手二ノ門」に至るジグザクの道で、攻め上る敵の列に横から攻撃する工夫をしたのでしょうか。

「大松前川」は、名前とは大違いの小さな川で、城の堀の機能はとうてい期待できないものです。

アイヌの軍団や、外国船団を想定して築城されたと思われますが、箱館戦争ではこの坂から旧幕府軍に攻め込まれて陥落したようです。

■橋の袂に馬坂の案内が記された立て札がありました。
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二級河川 大松前川
          北海道
馬坂の由来
 江戸時代に松前藩士が登城したと伝えられる馬坂は「数馬坂」と呼ばれていたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。
 松前家五世・藩主松前慶廣の四男・数馬之介由広が大阪冬の陣(1614)が起きる直前、慶廣の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ、斬り殺された場所とも伝えられている。
 当時、城内へ通ずる坂は五つあり(馬 出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)馬坂はその一つである。
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馬坂を登ると「三の丸」で、すぐ南側に「天神坂門」があります。

「本丸」、「二の丸」を囲む「三の丸」は、外国船からの砲撃に備えて土塁で囲っているようですが、「天神坂門」は、城門とは思えない驚くほどきゃしゃなものでした。

向かって左の建物は「七番台場跡」で、門の右側にも「六番台場跡」があります。



「天神坂門」を下から見上げた風景で、ジグザグの坂道は「天神坂」だそうです。

登って来る敵を銃や大砲で攻撃するには門を開放するか、土塁の上からのようで、この城郭は外国船への対応のみが考慮されているように見受けられます。

「天神坂」は、かなり急な坂道で、ジグザグの道は、歩ける傾斜を考慮したためかも知れません。



「三の丸」の内側に一段高くなった「二の丸」(右側)を囲む狭い掘りがありました。

石垣が築かれた掘りと、白い塀が日本の城郭を感じさせてくれます。




「三の丸」から掘りの橋を渡り、「搦手二ノ門」に向かう風景です。

「搦手二ノ門」の前は傾斜のある広場で、中央付近に石垣で丸く築かれた「三本松土居」とされる施設がありました。

「三本松土居」とは、松の生えた土塁と解釈出来ますが、敵の攻撃から門を守るための施設か、珍しいものです。



「搦手二ノ門」をくぐり、正面に見えた風景です。

城の案内図では手前の建物は、「御多門」で、現在は「松前城資料館」の受付の建物でした。

後方の三階建ての建物は、再現された天守閣で「松前城資料館」となっています。

さっそく「松前城資料館」の見学をしましたが、内容は次回の掲載とします。



天守閣の三階の窓から南西方向を見下ろした風景です。

沖に見える岬は、前回掲載した北海道の南端「白神岬」辺りでしょうか。

海から近く、戦艦による砲撃に弱いとされたこの城は、この風景からも察せられます。



天守閣を見上げる南側の広場に「本丸玄関」と案内された建物がありました。

一見、ガラス戸もあり、比較的新しい建物のように見えましたが、意外にも370年以上前に造られた建物と紹介されていました。

案内板によると江戸時代初期の1639年に京都伏見城の一部を移設した建物とされていますが、風格のある切妻の屋根瓦の上部が見えない写真だけに伝わってこないかも知れません。

■建物の前にある案内板の案内文です。
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北海道指定有形文化財
旧福山城本丸表御殿玄関
慶長十一(1606)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。
しかし、寛永十四(1637)年城中より出火し、多くの建物を消失、同十六年これを修築した。
その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治八年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天主と本丸御門、表御殿は残った。
表御殿は松城小学校として充用され、明治三十三年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和五十七年まで利用されてきた。
昭和三十八年七月二十六日指定
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これも天守閣の南、二の丸にある広場から見た風景です。

向かって左は城の案内図では「御門」とされ、右の天守閣は「三重櫓」とされていました。

天守閣の「松前城資料館」を出て重厚さを感じるこの「御門」をくぐって出てきました。

一つ気になったことは、三階建ての天守閣が小さく、貧弱なことです。

大砲による戦争を意識し始めた幕末の城郭だけに標的にされる高い建物への懸念があったのでしょうか。

砲撃戦を明確に意識した「五稜郭」(1866年建造)と、その17年前の1849年(嘉永2)に改築された松前城(福山城)を比較してみると近世から近代への変遷が見えてくるようです。

北海道旅行No.37 北海道南端「白神岬」を目指して

2011年12月06日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、函館から北斗市「トラピスト修道院」へ立ち寄った後、国道228号を南下、北海道南端の「白神岬」を目指しました。



北斗市の西隣、木古内町のサラキ岬にさしかかると、帆船の模型が展示されているのが見え、立ち寄りました。

「トラピスト修道院」から海岸沿いの国道228号を約10分走った道路脇に未舗装の大きな広場に展示されていたものです。

帆船の模型は、「咸臨丸」でしたが、なぜここにあるのかと言う疑問と同時に、子供の頃に読んだ本を思い出しました。

日本初の軍艦「咸臨丸」で、初の太平洋横断の航海に乗り出した勝海舟や、福沢諭吉などが途中ひどい船酔いに悩まされた話が印象的でした。

その後、箱館戦争で沈没したのかと思っていましたが、戊辰戦争で榎本武揚に率いられて江戸を出発したものの、すぐに暴風雨で難破し、戦線を離脱、その後明治新政府の輸送船として使われていたようです。

■「咸臨丸」の案内板です。
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サラキ岬に蘇る咸臨丸
咸臨丸は1857年、オランダで建造された日本初の軍艦であり、幕末の怒涛の中、1860年初の太平洋横断の快挙を成し遂げ日本近代化の一役を担いました。晩年は数奇な運命をたどり、蝦夷地開拓移民を乗せた咸臨丸は、1871年ここサラキ岬で座礁沈没し、栄光と悲劇の幕を閉じました。
このモニュメントは、郷土の歴史遺産である咸臨丸の栄光の歴史を後世に伝えようとする町内外の人々の熱き思いによって製作されました。
                           平成19年5月20日
製作/西村幸光 船体寄贈/猿見田幸男
咸臨丸とサラキ岬に夢見る会・木古内町観光協会
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船の脇にあった満開のチューリップの写真です。

この広場に咲くチューリップのようですが、咸臨丸が建造されたオランダにちなむ花ということでしょうか。



渡島半島の地図です。

赤いマークは、今回立ち寄ったスポットです。

白神岬まで南下した後、日本海沿岸を北上、松前、上の国、江差を回り、函館のホテルに帰るコースです。



木古内町から南に進んだ知内町の国道228号の道路脇に「青函トンネル出入口 撮影ポイント」と書かれた案内板と、小さな展望台がありました。

右手には知内川に架かる「萩茶里橋」があります。

地形図で確認してみると、本当は約1Km手前に青函トンネルの初めての出入り口があり、200mの区間が地上に出ていました。

しかし、その場所には道路が無く、ここは、本州からの列車が初めて見られる場所だったようです。



雄大な残雪の峰が「萩茶里橋」の向こうにそびえ、青函トンネルの展望台へ行かず、感動して見物していました。

方角から推察すると「大千軒岳」(1072m)と、周辺の峰々のようです。

残雪の「大千軒岳」の風景は、この前後の走行でも見ることが出来ますが、この場所は駐車してゆっくりと見物出来るスポットでもあるようです。



北海道南端「白神岬」に近い「赤石トンネル」入口です。

「白神岬」までの国道228号は、岩の斜面を削った断崖の道沿いに荒々しい岩礁の海岸が延々と続き、やっと見つけた駐車スペースでした。

海岸の道は通行止めになっていますが、トンネルが造られる前の道路だったようで、



「赤石トンネル」入口付近から海岸を見た風景です。

海岸に続き岩礁の向こうには濃い霧が立ち込めていました。

道東の海岸でも濃霧が見られましたが、私にとっては神秘的なめずらしい風景です。



白神岬近くの「白神岬覆道」の脇に駐車場がありました。

駐車場には「白神岬」の石碑もあり、津軽半島を望むスポットになっているようでしたが、立ち込める霧で沖の風景は見られませんでした。

「白神岬覆道」を少し過ぎた白神岬の先端に建つ灯台見物は見逃してしまいました。

地形図では灯台の北に自衛隊の小さな施設が見え、津軽海峡を見守っているようです。



駐車場に設置された津軽海峡の地図です。

案内板には「「白神岬-竜飛岬 最短地点」の距離が「192m」と書かれている様に見え、一瞬その距離の短さに驚きました。

しかし、よく見ると間の字が消えているようで、「19.2Km」でした。

写真はありませんが、海岸にある大きな岩礁に登り、付近の荒々しい海岸の風景を楽しむことが出来ました。



「白神岬」を過ぎ、日本海沿いを少し北の海岸から「白神岬」方向を振返った風景です。

まったく霧がなくなり、岬を挟んだ東西の天気の極端な違いを体験しました。

メカニズムは分かりませんが、日本海の海流や、地形などが影響していたのでしょうか。