昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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油絵「倉敷の町並み」

2011年11月30日 | 妻の油絵

妻の油絵「倉敷の町並み」(100号)です。

倉敷川に沿った古い町並みに午後の日差しが当る風景です。

同じような場所でも季節や、時間帯を意識して描いているようですが、次々と、新しい場面を探すのも苦労するようです。



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北海道旅行No.36 北斗市「トラピスト修道院」

2011年11月26日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)は、函館を基点に渡島半島南西部の海岸線に残る中世からの歴史スポットを訪れるコースでした。

函館から北海道南端の「白神岬」を回り、江戸時代まで蝦夷地の和人の中心地「松前」、中世の勝山館跡・花沢館跡など史跡が多く残る「上ノ国」、江戸時代から交易や鰊漁で栄えた港町「江差」などを訪れました。


最初のスポット「トラピスト修道院」に近づくと、長い直線の並木道が続いていました。

7:30頃函館市のホテルを出発、海岸沿の国道228号を西へ約40分、「トラピスト修道院」へ立ち寄りました。

朝靄が薄く立ち込めた並木道の両側には青々とした牧草地が広がり、ヨーロッパを感じさせる風景です。

「トラピスト修道院」では古くから修道士たちによる酪農が行われ、名産品のバタークッキーもここで作られているようです。



直線の並木道の先にレンガ造りの「トラピスト修道院」の建物がそびえていました。

上にそびえる塔は、後方の修道院の建物、下の塔は、前方の門の建物で、塔が上下に重なる姿は、荘厳です。

神社仏閣なら神門や、山門の後方に神殿や、本堂がそびえている風景といったころでしょうか。

直線の道も長い階段の下で左に進んで行きますが、右に曲がると駐車場です。



「トラピスト修道院」付近の地図です。

「トラピスト修道院」は、函館の西北海道北斗市三ツ石の函館湾の西岸付近にあり、海岸から約1Kmの場所です。



建物に登る階段の途中から後方を見下ろした風景です。

誰もいない駐車場の向こうにレンガ造りの建物が並んでいましたが、教会だったようです。

写真にはありませんが、駐車場脇に八重桜があり、散り始めていたものの、まだ美しい花がたくさん残っていました。

■階段の上り口に町の絵地図と、下記の案内文がありました。
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トラピスト修道院の由来
正式名は、厳律シトー会 灯台の聖母大修道院という。
明治29年(1896年)フランスから数名の修道士たちが木造の修道院を建てた。
日本で最初の男子修道院であります。
トラピストの生活は、祈り、労働、読書(聖なる書物)で、その1日は、祈りにより始まり祈りによって終わります。
創立以来、畑の開拓、農耕、牧畜、酪農に力を入れ、ホルスタイン乳牛の輸入をし、その普及は北海道の酪農振興に多大な貢献をいたしました。
明治36年、木造の修道院は消失した。
現在の二階建て本館は、明治40年着手し翌年完成しております。また聖堂は昭和49年に建てられたものです。

トラピストでつくられるバタークッキーは今では北海道を代表する特産品として全国的に広がり、上磯町が誇る一村一品であります。
日々、たえることなく鳴りひびくアンシェラスの鐘、黙々と祈りと労働を持って神に仕える修道士の姿、ここには異国にみる聖地の情景があり訪れる人々の心を和らげます。
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登りきった階段の横から見た「トラピスト修道院」の風景です。

並木道から見えた建物の風景とは違い、門から後方の建物までに意外な奥行きを感じます。



そびえる門の塔のファサードにはキリスト像が安置され、訪れる人を静かに見下ろしていました。

慈悲深い表情で胸の高さまで両手を上げ、何か語りかけている姿にも見えます。



正面から見た門の風景です。

後方の鉄柵が閉まり、入れるのはここまでのようです。

門を入るとすぐ左側に展示室があります。



鉄柵の隙間から見た「トラピスト修道院」の建物です。

ファサードの高い場所にはマリア像が安置され、「トラピスト修道院」の正式名称「厳律シトー会 灯台の聖母大修道院」を象徴しているようです。

急な階段から一変し、建物への道は、芝生の坂道でした。

建物の左手から上る車道もあり、踏み跡の少ない芝生を見ると通る人は少ないようです。



門の左手にある展示室の風景です。

小さな部屋の壁には修道院の歴史などを案内する写真や、案内文が展示されていました。

■正面の壁にある案内文です。
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トラピスト修道院の沿革
明治29年(1896年)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのぼります。
聖ロペルト(1018年~1111年)は、現在の フランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。
そして、1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。
トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(その内五つは女子でトラビスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480年へ547年)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています。
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「創立当時の修道院(1903年消失)」と案内された写真が展示されていました。

上り口の案内板の説明文に「明治36年、木造の修道院は消失した。」とあり、1896年(明治29年)の創立からわずか7年で消失した建物の写真と思われます。



「日本のトラピスト修道院」と書かれた案内パネルがあり、他の場所にある6ヶ所の施設が紹介されていました。

男子修道院は、ここ「灯台の聖母大修道院」の他に「お告げの聖母修道院」(大分県速見郡日出町)があるようです。

女子修道院は、「天使の聖母修道院」(北海道函館市上湯川町)、「西宮の聖母修道院」(兵庫県西宮市)、「伊万里の聖母修道院」(佐賀県伊万里市)、「那須の聖母修道院」(栃木県那須町)、「安心院の聖母修道院」(大分県宇佐市安心院町)があるようです。



2009年8月に訪れた函館市上湯川町にある女子修道院「天使の聖母修道院(トラビスチヌ修道院)」の風景です。

函館市街から東に約10Kmの場所にあり、西に約10Kmの「トラピスト修道院」とは対称の場所です。

厳格に入館が制限された男子修道院と違い、広い敷地内の散策が許され、たくさんのレンガ造りの建物や、美しく咲いた白バラを思い出します。
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2011年卜部俊孝展に行ってきました

2011年11月19日 | 妻の油絵
妻のお伴で、福山市の展ギャラリーで開催中の絵画展「卜部俊孝展」へ行ってきました。



水彩画「函館」です。

開催案内のはがきにも印刷されており、異国情緒を感じる「函館ハリストス正教会」の建物が洗練されたタッチで描かれています。



2011年卜部俊孝展の会場の案内です。

<展ギャラリー>
 所在地:広島県福山市沖野上町2丁目2−28 ヒューマンズ沖野上101
 TEL:084-925-6160

信号のある小さな道の交差点の角に玄関があり、駐車場はやや南、はす向かいにありました。



玄関脇のショーウインドウには少し大きな作品「岳」と、「コスモス」が展示されています。

雨模様の夕方で、早い夕暮れになりました。



会場内の奥から玄関付近を見た風景です。

会場には約20点の個性的な作品が並んでいます。



会場内の奥の風景です。

向かって右の作品「ばら」(最下段に掲載)は、ライトの影になっており、画像の修正に手間取りました。

展ギャラリーにはテーブル席が三席あり、とてもおいしいコーヒーが味わえました。



油彩画「鞆港」M8です。

独特の色使いで港町の風景が描かれ、とても素敵な作品です。

冒頭に掲載した水彩画「函館」と並んで展示され、両方とも既に売約済みマークが付いていました。



油彩画「カッパ橋」です。

有名な上高地の風景が独特のタッチと、色使いで描かれ、深い味わいのある絵になっているようです。



水彩画「服部の池」です。

江戸時代初期に造られた「服部大池」の風景が、余りに素敵に描かれています。

風景の美しさを見抜く眼力の違いなのでしょうか。



水彩画「赤い花」です。

オーソドックスな水彩画ですが、素敵なタッチです。



水彩画「バラ」です。

パステルも使い、表面が引っかかれているようで、初めて見るスタイルです。



水彩画「花」です。

同様のタッチで描かれた花の油彩画は、見慣れていますが、これも水彩では初めて見るスタイルです。

新しい表現を工夫し、チャレンジされているように思われます。



油彩画「ばら」F6です。

これまで見た卜部先生の花の絵の中では最も品格を感じる素敵な作品で、見ていると欲しくなります。
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北海道旅行No.35 函館市「創作料理めっし田本」と「田本研造」

2011年11月15日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)19時過ぎ、市内観光を終え、食事に行きました。

食事の場所は、事前にインターネットで調べいてた函館市末広町「創作料理 めっし田本」でした。

店名から函館の写真家「田本研造」にちなむご子孫のお店ではと思い、期待して訪れたものです。



電車通りの向かいから撮った「創作料理めっし田本」です。

どことなく温かさを感じる店構えでした。

道路に見える白い鉄柵は、函館市電の「十字街駅」のものです。



「創作料理めっし田本」付近の地図です。

赤レンガ倉庫群から近く、電車通りに面したとても分かりやすい場所でした。



「創作料理めっし田本」のメニューの一部です。

和風のお店で、座敷に座りましたが、意外にもおしゃれな洋風のメニューが多く、ジャズのBGMも流れて楽しい食事になりました。



店内に展示されていた「150年後の田本アルバム」と書かれたパネルです。

男性の店員さんに「写真家の田本研造さんと関りのあるお店ですか?」とたずねると、期待通り「そうです」と返事があり、さっそく展示されていたパネルを見せて下さったものです。

三重県熊野市の石碑で写真家「田本研造」の偉業を知ったこと、事前の検索でお店を知り、訪問した経緯を店主の田本さんへ伝えました。

■パネルの説明文です。
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150年後の田本アルバム
2010年夏、国の特別史跡である五綾郭に「箱館奉行所」が復元されました。「復元の決め手になったのはたった一枚の古写真だったのです。」(函館市教育委員会談)その写真は函館にて北海道で最初の写真館を創業した幕末の写真師・田本研造によるものでした。150年前、田本は幕府の通事として開港地・箱館に赴任しました。やがてロシア海軍医ゼレンスキーより写真術を習得して「田本研造写真場」を開業し、土方歳三や榎本武揚ら幕末の英傑たちの肖像写真を数多く撮影しました。明治新政府の時代に入り北海道開拓使が置かれると、田本は政府の依頼により函館-小樽-札幌へと整備される新道(現国道5号線)の築造工事の様子、屯田兵により開拓されていく北海道各地の原野、先住民族であるアイヌ人などを写真に収めていきます。函館市中央図書館所蔵の「田本アルバム」には田本研造による150年前の北海道黎明朋の写真が多数収められています。これらは研究者の同で「北海道写真」と呼ばれる大変貴重な映像資源なのです。「田本の写真が無ければ函館奉行所の復元は不可能でした。」(函館市立博物館 談)書末の写真師が残した北海道の原風景が、150年の時を超えて現代人に歴史と浪漫を雄弁に語りかけます。谷杉アキラは田本研造直系写真館継承者として、偉大な創業者が残した足跡を辿る旅を続けています。北海道写真発祥の地・函館。この街が名実ともに「写真の街」として多くの人々に愛される日が来ることを祈りながら「田本ロード」を歩み続けています。そしていつの日か「150年後の田本アルバム」(先祖へのオマージュ)を完成させることが、夢であり仕事でもあるのです。この「旅」(取材活動)は厳しい環境に屈せず北海道の基礎を築いてきた人々へ捧げるトリビュートなのです。

「時代ヲ旅スル写真館」/谷杉写楽館(旧田本研造写真場五稜郭店)旧小林写真館
 館主谷杉アキラ  www.tokitabi.net
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「田本研造」直系写真館継承者と自称する「谷杉アキラ」さんは、先人の偉業を引継ぎ、「写真の街函館」を発展させる取り組みを意欲的にされているようです。



店主田本さんから手元に残っている「田本研造」の写真を見せていただきました。

お話では店主の田本さんは、研造氏直系の田本家当主で、写真撮影ではなく写真機を取扱う事業もされているとのことでした。

度重なる函館の火災のためか、手元の写真は、ほとんど無くなったそうで、わずかに残る大切な写真でした。



2009年05月に訪れた三重県熊野市の名勝「鬼ヶ城」の入口に建つ「田本研造」の石碑です。

故郷熊野市の人々が写真家「田本研造」の偉業を賞賛し、建立された石碑です。

なにげなく見たこの石碑が発端で、函館旅行が大変興味深いものになりました。

■以下は碑文ですが、読めない文字は?で記しています。
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田本研造翁小伝
翁は天保二年(1831)現熊野市神川町の山深き農家に生まる
二十二歳長崎に行き蘭医に仕えかたわらオランダ写真術に心寄すが志を得ず
二十八歳函館に渡るも病みて右脚切断の悲運に遇う
ときに執刀医たりし縁をもってロシア領事館医より写真術を習得す
明治四年(1871)北海道開拓使命により開拓記録写真撮影に専心すること十有余年
その?大なる作品は迫真の記録性に優れ??写真師の声名これより大いに挙がる
風景と人物主流の写真史初期秀抜のドキュメントは高く評価され
下岡蓮杖 上野彦馬と並び???写真界の先駆者と称せらる
 大正元年(1912)八十一歳函館に没す
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写真家「田本研造」の写真です。

風格と、強い意思を感じます。

片足を失った「田本研造」が周囲の協力を得て、重い機材を伴う北海道各地の開拓の歴史を映像に残したこと、又、多くの写真家を育成したことを考えると、次第に味のある人柄が浮かんでくるようです。

今は亡き人にはお会いできませんが、ご子孫にお会いし、お話が聞けたことで、偉大な人に接した気持ちになりました。

店主田本さんのお話では、北海道に田本姓を名乗る人が少なくなったのことですが、写真家「田本研造」の偉業をいつまでも語り継いで頂きたいものです。
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北海道旅行No.34 「函館市写真歴史館」と田本アルバム

2011年11月10日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)17時過ぎ、函館市元町公園を散策、「函館市写真歴史館」の前に立ちましたが、港付近の観光が残っており、入館しませんでした。

2009年8月の旅行で、内部の見学をしており、以下はその時の写真と、思い出です。



函館市元町公園から函館山方向を見上げた風景で、正面の建物は、「旧函館区公会堂」、向かって右には前回掲載した「函館四天王像」があります。

これから紹介する「函館市写真歴史館(2F)」と、「観光案内所(1F)」は、向かって左の建物で、歴史的建造物「旧北海道庁函館支庁庁舎」を利用したものです。

■建物の前にあった案内板です。
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旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財)
 旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982年)に修復整備されたものです。特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられています。
 明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年(1985年)北海道有形文化財に指定されています。
現在は、1階を元町観光案内所として利用し、2階は「写真歴史館」としで"北海道写真発祥の地函館”の歴史を伝える貴重な写真機器や資料を展示しています。

 なお、江戸時代、ここ元町公園には、松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱舘奉行が置かれました。安政元年(1854年)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行が再置されましたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年(1864年)に亀田の地(五稜郭)に移転しました。
     函 館 市
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「旧北海道庁函館支庁庁舎」の玄関の風景ですが、入口の両側には「元町観光案内所」と、「函館市写真歴史館」と書かれた黒い立て札ありました。

建物周囲には多くの花が咲き、見下ろす函館港の風景と合わせて観光気分を盛り上げてくれます。

上段の案内文中に「柱廊玄関」に「巨大な4本の柱」とあり、写真には左右あわせて6本の柱に見えますが、左右2本の柱廊の柱の間に壁の柱が見えているためです。

玄関前の階段の左の脇に「函館市写真歴史館 展示ご案内」と書かれた看板があり、古い写真のポスター(下段の写真)が掲示されていました。


これが玄関前の展示案内の看板にあった日本最古の写真です。

武士の姿に写真の古さを感じさせられます。

■看板の写真ポスターに添えられた説明文です。
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日本最古の写真(国指定重要文化財)
「松前藩士 石塚官蔵と従者像」
 撮影日:1854年5月24日
 撮影場所:函館実行寺
 撮影者:E.ブラウン・ジュニア

当館で展示しておりました「銀板写真(石塚官蔵と従者)」は、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存する最古の写真の一枚です。幕末開港交渉という歴史上の重要な事象を裏付ける遺品として、また対外交渉史及び写真史上に貴重である資料として知られ、平成18年6月、国の重要文化財(歴史写真の部)に指定されました。
この指定に伴って、資料保護の観点から現在市立函館博物館に保存されることになりました。
 函館市写真歴史館
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撮影したブラウンは、ペリーに随行した写真師兼画家で、撮影場所の実行寺は元町公園から西北へ約800mの場所にあり、ペリー艦隊の宿舎となっていたようです。



日本最古の写真(複製)と、写真に写っている石塚官蔵の衣装と、刀が館内に展示されていました。

■館内の展示パネルの説明文です。
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日本最古の写真
『松前藩勘定奉行石塚官蔵』
展示している銀板写真lま、ブラウンガベリー艦隊の応接役・松前藩勘定奉行石塚官蔵を写したもので、日本最古の写真です。画像は、かなり薄くなっていますが、中央には石塚官蔵、後ろには従者3人(石:槍持万吉、中:草履取卯之吉、左:貨人[かしにん]村田某)が写っています。裃[かみしも]、刀、脇差は、石塚官蔵が撮影の時に着用していたものです。

石塚宮蔵とは?
石塚宮蔵は、ペリーが来航した当時、松前藩の勘定奉行兼旗奉行でした。
『ペリー提督日本遠征記』の中では、<函館の副長官>として紹介されています。異例の出世をした人で、国の大事の時にペリー艦隊の通訳らと漢文で筆談し、その経過を『安政元年 亜墨利加[アメリカ]船箱館碇泊中御用記』にまとめています。漢籍[かんせき]を多く所蔵し、相当漢学に通じていた知識人で、当時55歳でした。

撮影時の石塚宮蔵たち?
ペリー艦隊の通訳ウィリアムズの日記『ペリー日本遠征随行記』の5月24日の項に、撮影当日の石塚官蔵の様子が書かれています。

「遠藤と石塚は、肖像写真をとつてもらった。彼らは彼自身と背後に槍をもち、帽子をかぶり、特殊な鎧を着た家来どもを従えている写真を見て非常に喜んだ。写真術については、今まで聞いたことのあるものは、この他には誰もいなかつた。珍しさと驚嘆と喜びは、彼らの態度と問答中に等しくあらわれていた。この日は天気もよかつたし、結果は全ての人々に満足であった。」(馬場脩訳より)
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日本最古の写真の展示と並んで二つの写真が展示されていました。

「勘定奉行 石塚官蔵」と同様、ペリーと交渉に当たっていた「松前藩家老 松前勘解由」「松前藩用人 遠藤又左衛門」の写真です。

展示パネルの説明文によると、「石塚官蔵」の写真と同じ時、ブラウンによって撮影された写真で、これらも日本最古の写真でした。

しかし、この二つの写真の実物は、函館に現存していないようで「石塚官蔵」の写真だけがアピールされていたものと思われます。

又、ブラウンによって描かれたこれらの写真と同じ構図のさし絵も並べて展示されていました。

■パネル写真の説明文です。
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ブラウンと松前藩士
ペリーに随行した写真家ブラウンは肖像画家でもありました。「ペリー提督遠征記」には彼が撮影した銀板写真をもとにして描いた函館に関するさし絵が6点あります。「桶屋」「籠」「箱館の寺院」、そして「函館の長官」「函館の副長官」「松前候の代理」と説明のあるそれぞれのさし絵には、ベリー応接役の松前藩用人・遠藤又左衛門、勘定奉行・石塚官蔵、家老・松前勘解由が描かれています。
ブラウンが撮影した彼らの写真は、幕府との交渉のために下田へ出発する直前の6月1日、ペリーからそれぞれに贈られました。
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一階の観光案内所の奥に函館の歴史を飾る著名人の写真が展示されていました。

上段左から-ペリー提督、石塚宮蔵(日本最古の写真)、ニコライ司祭、
中断左から-石川啄木、新島襄、木津幸吉、田本研造、横山松三郎、土方歳三
下段-函館の写真師



1854年(安政元年)5月17日に函館に来航したペリー提督です。

函館の人々から見ると幕府に開港を迫り、函館が国際港として大きく発展した立役者とも言えます。

■写真歴史館の中にペリーに関する展示パネルがありました。
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写真の箱館渡来
箱館に写真をもたらしたのは、1854(嘉永7)年、箱館に来航したアメリカのペリー艦隊でした。ペリーに随行した写真家ブラウン(1816~1886)は、18日間におよぶ箱館滞在中に、箱館の寺院や町並み、人物など数十枚を写真に収めたといわれています。「人物草木生るが如く」すべてのものをそのまま写し撮る写真との出会いは、当時の箱館の人々にとつてはかなり衝撃的で、市中では「写真は魔術か?」といううわさまで飛びかっていました。

ペリー艦隊の遠征記録は ペリー提督日本遠征記(F.L.ホークス編)として、1856(安政3)年に刊行されました。その中にはブラウンの写真などをもとにしたさし絵が掲載されています。
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写真技術が日本に伝来したルートが地図に描かれていました。

長崎、横浜と並んで函館に技術が伝わり、日本人による写真撮影が始まったようです。

鎖国が解かれ諸外国との交流が始まると、発明されて間もない写真技術も日本に伝来し、機器の改良、撮影技術の情報など次々と伝わってきたものと思われます。

■展示パネルの説明文です。
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写真術の日本伝来
写実術が日本に伝わつたのは、1848(嘉永1)年オランタ船がダゲレオタイプカメラ一式を長崎に持ち込んだことに始まります。
フランスでダゲールが最板写夫を公表してから9年後のことです。しかし日本での写真術の開花は、銀板写真法ではなく新しい技法として入つてきた湿坂写真法でした。
1856(安政3)年、下岡蓮杖が下田でアメリカ領事ハリスの通訳ヒュースケンから写真の基本を学び、1858(安政5)年には長崎で上野彦馬がオランタ医官ポンペから写真の指導を受けています。箱館では、1858(安政5)年にロシア領事として着任したコシケ一ヴィチなどから、木津幸吉、田本研造、横山松三郎が写真術を学んでいます。このように日本での写真術は、いずれも開国により西洋文化が一挙に流入することとなっ国際貿易港を舞台に、広まって行きました。
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函館で、ロシアから写真技術を学び、写真師となった「木津幸吉」「田本研造」「横山松三郎」3名の写真です。

函館が誇るこの3人の写真師は、ライバル関係ではなく力を合わせて黎明期の写真技術の発展に尽くした関係だったようです。

2009年05月、三重県熊野市の観光スポット「鬼ヶ城」を旅行した時に見つけた石碑で偉大な写真家「田本研造」を知り、このブログ<熊野「鬼ヶ城」の石碑で知った写真家「田本研造」>に掲載しています。

函館写真歴史館に「田本アルバム」の一部が展示されていることで、函館旅行の楽しみの一つになっていました。

又、旧幕府軍を率い明治新政府に半旗を揚げ、函館戦争を指揮した「榎本武揚」の父が備後福山藩(地元)の出身であったことや、新政府軍に備後福山藩からも数百人を派兵した歴史も函館旅行の楽しみでした。

■3名の写真の説明文です。
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草創期の写真師たち
木津幸吉 1830(天保1)年~1895(明治28)年
新潟県新発田市出身。1858(安政5)年ころ、妻よしと箱館に移り、ロシア領事館の洋服の仕立てを行ううちに、領事のコシケーヴィチなどから写真術を学びました。1864(元治1)年に現在の船見町に北海道で最初の写場を開きました。木津の撮影した最も古いものは、田本研造と共に写した福山城全景、蠣埼将監などです。木津の作品は、現在、市立函館図書館に 木津アルバムとして保管されており、函館ではこれが唯-のものです。

田本研造 1831(天保2)年~1912(大正1)年
三重県熊野市出身。長崎でオランタ医学や化学を学び、1860(万延1)年、長崎の通詞(通訳)に従つて箱館に来ました。田本もロシア領事館で写真術を学び、木津幸吉と共に研究しました。1867(慶応3)年には風景や人物を撮影し、1868(明治1)年に開業しました。田本の写真を最も特徴づけているのは、開拓使の委託によつて撮影した開拓のドキュメントです。その視点、技術は現在の写真家をも驚かせるものです。また、後継者を多く育てたことでも特筆すべき人物です。

横山松三郎 1838(天保9)年~1884(明治17)年
択捉島出身。箱館でロシア画報通信社の画工レーマンの助手となり、その際洋画法を習得しました。横山は絵を描くため写真の利用を考え、横浜で下岡蓮杖の門下に入り、湿板法や印画法などの写真術を学び、箱館でもロシア領事のゴシケーヴィチなどから学んでいます。1868(明治1)年、東京両国に写場を開設し、常に写真技術の開発に挑み、立体写真や写真油絵などのを研究し、その技術を独占することなく、函館に戻るたびに写真師たちに伝えています。
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「函館市写真歴史館」に展示されていた「田本アルバム」の写真の1枚で、洋館建てが並ぶ八幡坂から函館港を見下ろした風景のようです。

函館戦争の人気のヒーロー「土方歳三」の甘いマスクの写真や、「榎本武揚」の写真も「田本研造」の撮影とされており、函館戦争の史跡をメジャーにしたものと思えます。

館内には多くの写真が展示されていましたが、興味のある方は函館市図書館の「田本アルバム」のページをご覧になることをお薦めします。

■館内に掲示されていた「田本アルバム」の説明文です。
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田本アルバム (函館市図書館所蔵)

「田本アルバム」は,昭和39年,名誉市民の斉藤与一郎氏の夫人が市立函館図書館に寄付した貴重な郷土資料です。
 ここに展示している写真パネルは,田本アルバムに収載されている写真の一部を,北海道写真史料保存会が.図書館の許可を得て複製したものです。

「北海道新聞」 昭和39年4月15日付け
貴重な二つの贈り物 平沢屏山の掛け軸と明治初期の写真 市立図書館 幕末の有名なアイヌ画家平沢屏山の描いた掛け軸と本道写真界の草分け、田本研造のとった貴重な写真アルバムが十四日、函館名誉市民、斎藤与一郎氏未亡人から市立函館図書館に寄贈された。
 掛け軸は屏山が苦いころ描いたと思われる『熊送りの図』。クマ祭りをしてクマを天に送ったあと祝宴を行なっている風景で、絵が一一五×五六書ンとかなりスケールの大きな掛け軸。平沢屏山は文政五年奥州生まれ、のち函館に移住して青柳町に住んだ。よく十勝方面に旅してアイヌ風俗を描き、アイヌ画家としての名声をあげた。彼の描いたアイヌ絵は市立函館図書館にもかなり所蔵されているが、この掛け軸のように克明にクマ送りのもようを描いたのははじめて。
 一方田本研造の写真アルバムもこれに劣らぬ貴重なもの。彼は幕末に函館へ来て脱そにかかったとき治療を受けたロシア領事館の医師ゼレンスケの写真を見てこれを学び、慶応二年本道の日本人写真師としてはじめて風景、人物を撮影、その後写真製版にも着目してコロタイプ写真銅版を始めるなど、本道写真界草分けとして大きな足跡を残した人。その彼が生存中道内を旅行して撮影した写真の数々をおさめて一冊のアルバムとしたもので、明治二十九年軌こ写したと思われる函館市全景をはじめ同明治四十年の函館大火で焼ける以前の英国領事館、大沼公園、さらに明治初期の江差港、松前福山城、小樽、札幌、釧路の市内風景、変わったところでエトロフの漁場など、いずれも明治初期の道内各地をおさめた貴重な写真集。
『郷土函館の研究に役立ててもらえれば‥・』一名誉市民斎藤与一郎氏の夫人ツユさん(七七)は寄贈のことばをこう語っていたが、元木図書館長は『おかげでまた郷土資料に一段の厚みが加わりました』と思わぬプレゼントに大喜びだった。
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「田本研造撮影機材」と題する写真が展示されていました。

明治初期、屋外での写真撮影は、驚くほどの重装備だったようです。

「田本アルバム」には多くの北海道各地の風景写真が多くあり、今では考えられない苦労をして撮影されいたことが分かります。

■写真の説明文です。
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野外撮影は大荷物を背負って?
湿板写真の野外撮影は撮影機具、携帯暗室、現像用品一式の他に水まで持参するキャンプさながらの大装備が必要でした。
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館内には昔の写真師たちが使っていた古い写真機材や、市販カメラの変遷を知る多くの展示があります。

「函館市写真歴史館」の見学で、記録し、伝え、芸術にまで高められた写真の世界を知ることが出来ました。

■写真の歴史を説明したパネルがありました。
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函館/写真の歴史
函館の写真は、新しい技術の導入の歴史でした。ロシアから湿板写真の技術を学んだ後、写真師たちはお互いに研究しあいながら、新しい写真技術を習得していきました。木津幸吉や田本研造が函館で湿板写真に取り組んでいるとき、横山松三郎は横浜で印画法を学び、二人にその技術を伝えています。函館の写真師たちは次々と開発される写真技術の習得に余念がなく、たえず技術を研鑽、発展させていきました。
そして、写真師たちは函館で培われた技術をもとに、札幌、小樽、根室など道内はもとより、青森、秋田などへ広がり、各地で写真館が開業されていきました。
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今回は、かなり多くの説明文を掲載してしまい、ご容赦下さい。

要点を集約するには時間がかかり、撮影した説明文をOCRソフトで読み取り、そのまま掲載する手抜き手法でした。

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油絵「栗と彼岸花」

2011年11月05日 | 妻の油絵
妻の油絵「栗と彼岸花」です。

毎年描いている彼岸花ですが、今年は「黄色の彼岸花」と、「栗」が加わり、ガヤガヤと秋の会話が始まってくるようです。

艶やかで、妖しい魅力を持つ「紅い彼岸花」は、素朴で親しみを感じる「栗」とは対極にあり、「黄色い彼岸花」が間を取持って、調和しているように思われます。

「黄色い彼岸花」を初めて見たのは2006年10月の鹿児島旅行で行った薩摩半島の川辺町(南九州市知覧の西隣)で、このブログでも掲載しました。

「彼岸」とは、「煩悩を脱した悟りの境地」とあり、妖艶な「紅い彼岸花」より「黄色い彼岸花」のイメージが近いようにも思われます。

個性を強く主張し合う現代にあって、異質な個性を調和させる地味な「黄色い彼岸花」に不思議な魅力を感じます。
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北海道旅行No.33 函館市「元町公園」

2011年11月03日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市元町付近の散策の続きです。

「ハリストス正教会」から西へ進むと、左手に大きな洋館の建物「旧函館区公会堂」が見えてきます。



「旧函館区公会堂」を「元町公園」から見上げた風景です。

昔のアメリカの映画に出てくるような豪邸です。

神戸、長崎などで見る明治時代の洋館でも、これだけ大きいものはめったに見られません。

■門の脇に案内板がありました。
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旧函館区公会堂
 明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。
 この大火で区民の集会所であつた町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の浄財を募つたが、大火後のため思うように集まらなかつた。
 当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗などの多<を焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
 この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称形になつており、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表わしている。
昭和49年5月、国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。
   函館市
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江戸時代、「箱館奉行所」があったとされる「元町公園」付近の地図です。

函館山の裾野の海岸沿いの斜面に通りが碁盤の目のように造られています。

「旧函館区公会堂」の下に「元町公園」、更にその下に「旧イギリス領事館」「ペリー広場」「中華会館」と並び、この付近は官庁街だったようです。



「旧函館区公会堂」を背に見下ろす函館港の風景です。

すぐ前の「元町公園」からは、函館港を航行する船が一望出来、船を監視する奉行所が置かれていたことがうなずけます。

開港後、奉行所は、湾内の艦船からの砲撃を避けるため「五稜郭」へ移転されたそうで、時代の急激な変化の波は、函館の街の構造を変えていったようです。

函館の街は、又、幾度もの大火に襲われたことでも知られ、明治以降に100戸以上消失した火災が28回、1,000戸以上消失した大火は、下記の10件に及んだようです。

函館の主な大火と消失家屋数
 1871年(明治4) 1,123戸
 1873年(明治6) 1,314戸
 1879年(明治12) 2,326戸
 1896年(明治29) 2,280戸
 1899年(明治32) 2,494戸
 1907年(明治40)12,390戸◎
 1913年(大正 2) 1,532戸
 1916年(大正 5) 1,763戸
 1921年(大正10) 2,141戸
 1934年(昭和 9)24,186戸◎

最も大きかったのが1934年(昭和 9)の「函館大火」で、強風により市街地の3分の1を焼き、死者は2,166名と、想像できない規模に広がったようです。

又、1907年(明治40)の大火も2番目の規模で、その後に函館の歴史的建造物「旧函館区公会堂」や、コンクリート造りのキリスト協会などが建てられことから、今日の街並みが出来る転機ともなったようです。



「元町公園」の下にある入口から階段の上の「旧函館区公会堂」を見上げた風景で、2009年8月の旅行で撮影したものです。

左手に「函館市写真歴史館(旧北海道庁函館支庁庁舎)」が見え、背後には函館山がそびえています。



通りで見かけたマンホールです。

向かって左は、実物の色を模した「旧函館区公会堂」を緑の「五稜郭」の輪郭で囲んだデザインです。

向かって右は、波を背景に3杯のイカが並び、「イカの町函館」をアピールするデザインと思われます。

両方に「おすい」の文字があることから「汚水溝」のフタだったようです。



「元町公園」の東側に函館の豪商、相馬哲平[1833年(天保4)~1921年(大正10)]が建てた邸宅がありました。

相馬哲平氏は、「旧函館区公会堂」の建設で、費用の大半となる5万円を寄付したことでも知られます。

公園側から見る「旧相馬邸」は、少し大きな一般の木造民家のように感じましたが、正面に回ると建物の造りや、長さを見ると違いを感じてきます。

17:00を過ぎ、残念ながら中の見学はできませんでした。

■観光案内所で頂いた「旧相馬邸」のパンフレットより
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旧相馬邸は明治41年(1908)に建てられた建坪205坪、敷地面積570坪の和洋折衷の歴史的建造物で、旧イギリス領事館を眼下に旧函館区公会堂のある元町公園に隣接し函館湾を一望できる地にある堂々たる建造物である。
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パンフレットに掲載されていた「旧相馬邸」の間取り図です。

玄関は、左右に2ヶ所、向かって左端「ギャラリー元町」は土蔵造り、右上の間取り図は、二階部分です。

当時の部屋の用途などが間取り図に記載されているとイメージが膨らんでくるのかも知れません。



「元町公園」を下った「ペリー広場」の風景です。

幕末の日本を震撼させた米国のペリー提督の銅像が、函館山を背景に立っていました。(2009年8月の旅行で撮影)

■ペリー提督の近くにあった案内板です。
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ペリー提督 来航記念碑
 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏なとを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。)
 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。
    函館市

 黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ヘリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある他に
「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
    2002年(平成14年)5月17日
    ペリー提督来航記念碑建立協議会
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横から見上げた「ペリー提督像」です。

背筋を伸ばし、前方を見据えて立つ姿は、威厳にみちたものです。

数隻の戦艦に威圧され、開港と不平等条約を結ばされた徳川幕府を想うとき、織田信長による天下布武が成し遂げられ、海外との交流が続いていれば歴史は違っていたのかも知れません。



「元町公園」に四人の銅像が建っていました。

函館に繁栄をもたらせたとされる豪商で、明治維新の新しい変化の波にずば抜けた才覚で財を成し、銅像の建立は地域への貢献を讃えられたことによるものとされています。

■函舘四天王像の案内板です。
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四天王像
函舘四天王像
市民精神の源流
明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。
明治、大正には東京の文化は東北を素りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門はじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。

四天王とは次の四人である
像の向かって左より

今井市右衛門
天保七~明治二十年
一八三六~一八八七
石川県能登の生まれ、苦くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の新聞社の北溟社を創立した。
医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を投じて少しも惜しまなかつた。

平田文右衛門
嘉永二~明治三十四年
一八四九~一九〇一
函舘生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかつた。
区の財産造成にも大功があつた。没後、区会の決議により肖像を事堂に高く掲げてその徳を顕彰した。

渡邉熊四郎
天保十一~明治四十年
一八四〇~一九〇七
 大分県竹田の生まれ、明治二年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、二代三代にわたり私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。

平塚時蔵
天保七~大正十一年
一八三六~一九二二
青森県田名部の生まれ、函舘の平塚家の義子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち最も長命、後輩の指導に尽くした。

この四人は当時の区長常野正義と共に明治十四年制定の藍綬褒章第三号から第七号まで受けた。
  建設期成会
  昭和五十七年十月九日
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「函館四天王」と、「相馬哲平」との関係が気になります。

「旧函館区公会堂」の建設資金の大半を寄付し、「イギリス領事館」を見下ろす邸宅を持つ「相馬哲平」(1833~1921) は、函舘四天王とほぼ同時代に函館で活躍した人です。

最も長く生きた「平塚時蔵」「相馬哲平」の没後約60年に作られた「相馬哲平」抜きの「函館四天王像」には、観光案内では語られていない謎があったのかも知れません。



元町公園の東に建つ「旧開拓使函館支庁書籍庫」です。

1880年(明治13)に建設され、大火にも耐えて今日まで残ったようです。

瓦屋根と、建物の形は伝統的な土蔵のようですが、レンガの壁がかろうじて欧米を感じさせてくれます。

このレンガ壁は、「フランス積み」と言われる方式で積まれたもので、一段に積むレンガが長い面と、短い面が交互になっているのが特徴のようです。(写真右下部分にレンガ壁拡大)

レンガを積む方式には「イギリス積み」もあり、1段ごとに長い面と、短い面が変化するものだそうで、レンガ造りの建物も興味深いものです。



「元町公園」の中心となる建物「旧北海道庁函館支庁庁舎」です。

1909年(明治42)建設の建物で、建物内部が火災になり、1982年に修復されたようです。

一階は、観光案内所、二階は「函館市写真歴史館」になっていました。

日本最古の写真や、写真家「田本研三」の「田本アルバム」など「函館市写真歴史館」の展示は実に見所が多く、次回の掲載とします。
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