昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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フグと、下関と、伊藤博文

2007年09月29日 | 山陽地方の旅
平安時代末期、「源平合戦」の最後の舞台となった関門海峡の壇ノ浦を望む小高い場所に「日清講和記念館」があり、たずねました。



壇ノ浦に沿って走る国道9号線に面して「日清講和記念館」の入り口があります。
「春帆楼(しゅんぱんろう)」と書かれた看板と、坂道が見えてきます。

日清戦争の講和会議を行った会場が、今でも続いている割烹旅館「春帆楼」でした。
写真を撮ったカメラの位置付近や、坂道の脇が無料駐車場となっています。


「春帆楼」の上り坂の入り口から見上げた写真です。
正面の建物が「春帆楼」、向って右が「日清講和記念館」です。
向って左の塀に沿って曲がって進む道が「李鴻章道」と呼ばれ、清国(中国)の全権大臣「李鴻章」の狙撃事件があった場所でもあります。



坂道を登った門を入ると左手になんともかわいらしいフグの銅像がありました。
フグの町、下関にちなむ由来が書かれているのではと期待して読んでみました。

■説明板を転記します。
「ふくの碑」
春帆楼の名は伊藤博文公春の海の帆を心に描いてされたそうです。
明治二十一年伊藤公が春帆楼でふくを召し上がったのを機にご禁制を解かれふく料理店の公許第一号となりました。以来みなさまのおかげで百周年を迎えることができました。
ここにそれを記念すると共に感謝の心をこめてふくの碑建立します。
平成元年九月二十九日
竹井博友


伊藤博文は、初代内閣総理大臣で、在任期間は1885年12月~1888年4月でした。
平成元年(1989)9月29日で百周年とすると、百年前は1889年で、初代総理大臣を退任した後のことだったと思われます。
碑文に「伊藤公が春帆楼でふくを召し上がったのを機にご禁制を解かれふく料理店の公許第一号となりました」とありますが、当時の伊藤博文が公式な権限を持っていなかったと思われますが、強い政治的影響力を使ったのでしょうか。

伊藤博文が「春帆楼」でフグ料理を食べたきっかけは、シケの日に活きの良い魚がなかったため、苦肉の策で禁制のフグ料理を出したことによるそうです。
その味に喜んだ博文は、魚の名を聞き、遂にフグの解禁に動いたようです。

又、伊藤博文は、「春畝(しゅんぽ)」と号し、「春畝公」とも呼ばれていたようで、博文に名づけられた「春帆楼」と類似しています。
ここから海に行き交う船を眺め、思い浮かべた名称だったのかも知れません。

初代内閣総理大臣を退任した伊藤博文は、4年後に5代目内閣総理大臣に再任され、その在任期間は、1892年8月~1896年8月です。
日清戦争は、1894年(明治27)7月から1895年(明治28)4月まで約10か月間、博文が総理大臣の期間に行われました。

日清講和会議の会場に「春帆楼」が選ばれたのも総理大臣伊藤博文との関係にあったと思われます。

この地方では「ふぐ」を「ふく」と呼ぶようで、縁起のよい「福」にちなむ説を聞いたことがあります。
しかし、この「ふくの碑」のふくれあがった腹を見ていると、「膨れる」から派生した可能性もあると思います。

ところで上記の碑文の最後に「竹井博友」の名があります。
脱税事件で倒産した地産グループのオーナーだった方で、当時の「春帆楼」は地産グループに買収されていたようです。
老舗「春帆楼」ののれんは紆余曲折の中で引き継がれているようで、現在はオリックスグループにより経営されているようです。

フグの町下関は、このような歴史がきっかけとなって始まったようです。


フグの取扱いで日本一の市場は、下関市彦島の「南風泊(はえどまり)市場」ですが、昔「春帆楼」のすぐ近くにある「唐戸市場」が手狭となり、移ったものと言われています。
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坂本竜馬も滞在した下関「本陣伊藤宅跡」

2007年09月25日 | 山陽地方の旅

「日清講和記念館」を探して入る道を1本間違え、「本陣伊藤宅跡」を見つけました。
又、明治天皇が行幸され、お使いになられた手洗鉢(西郷隆盛供奉)もありました。



「本陣伊藤宅跡」の案内板です。
秀吉、加藤清正、隠元、シーボルト、坂本竜馬、明治天皇、井上馨など歴史に名を連ねる多くの人々と接点を持ったことに驚きました。
又、明治天皇に西郷隆盛が「蛸踊り」を供覧したことにも驚きました。
こんなに多くの歴史の流れを見つめてきた建物がなくなったことは実に残念です。



「本陣伊藤宅跡」から9号線を挟んで海岸沿いにある「コミュニティー広場」にカイコウズ(海紅豆)が赤い花をつけていました。
坂本竜馬が「本陣伊藤宅」を自然堂と名付け、ここを拠点に薩長同盟の成立に活動を行っていたことが書かれていましたが、ふと鹿児島県の県木であったことを思い出しました。
この地から薩長同盟の提案が発信され、歴史が大きく変わり、明治維新が実現したことを考えると改めて竜馬の偉大さを感じます。


我が家のテラスにも2年前まで太い幹のカイコウズ(海紅豆)があり、毎年赤い花を咲かせてくれていましたが、残念ながら枯らせてしまいました。
カイコウズ(海紅豆)は、ブラジル原産で別名「アメリカデイゴ」とも言うようです。
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下関市唐戸の古い洋館

2007年09月18日 | 山陽地方の旅
8/13朝8:00から下関市内見物を始めました。
下関市唐戸桟橋近くの9号線の交差点に架かる歩道橋の上から明治以来の古い洋館がきれいに見えます。



向って左側の2階建ての建物は、「下関南部町(なべちょう)郵便局」、向って右側の3階建ての建物は、「旧秋田商会ビル」です。
歩道橋から西に見えて、お盆休みの朝で人通りもほとんどなく、スッキリとした全景写真が撮れました。



上の写真と同じ歩道橋の場所から東側に見える「旧下関英国領事館」です。
「唐戸洋館めぐり」と紹介されている建物は、以上の3つです。朝の開館していない時間帯には、歩道橋の場所から3つの建物の全景が眺められます。



唐戸桟橋付近の地図です。
ピンクの部分は国道9号線、赤い〒マークの場所が「下関南部町郵便局」、赤い十文字の場所が「旧秋田商会ビル」、赤い丸印の場所が「旧下関英国領事館」です。
ピンクの国道9号線上にグレーで歩道橋が描かれていますが、赤い四角に囲むマークの辺りから全景写真を撮りました。



下関南部町(なべちょう)郵便局です。
1900年(明治33)に建てられた下関市内最古の西洋建築だそうです。
現在でも郵便局として使われており、日本で最も古い現役郵便局舎でもあるそうです。今年で107年間も使用されていることになります。
建物のデザインには古さを感じますが、建物はよく補修されているためか、あまり古さを感じませんでした。
建築物の耐震基準がなどが厳しくなっていると聞きます。安全対策を考えると古い建物を使い続けることも難しい問題ですね。



1915年(大正4)に建てられた「旧秋田商会ビル」です。
屋上には茶室の屋根や、数本の松も見え、本格的な日本庭園が造られているようです。最近流行の「屋上緑化」のモデルのようなものですね。
現在、建物1階は「下関観光情報センター」で使われ、2~3階は、書院造の住宅になっているようです。
「秋田商会」は、木材商、海運業などを営む、下関でも代表的な企業だったようです。



「旧下関英国領事館」で、国道9号線を挟んだ向かいから撮った風景です。
1906年(明治39)全国で3番目に開設された英国領事館で、英国人技師によって設計された2階建て赤レンガの建物だそうです。
1階が事務所、2階が住居で使われていたそうです。
屋根の中央に三角形の切妻が特徴だそうで、ちょっとかわいらしいデザインですね。



「旧下関英国領事館」の説明板です。


植込みにバラの実がたくさん色づいていました。



ちょっと特徴のある門と、その前にガス灯が立っていました。



上の写真に見える塀の下にあったガス灯の説明板です。




ガス灯を見上げた写真です。


通りから見た「旧下関英国領事館」です。
ちょっと異国情緒が味わえる通りですが、何とも風流な松の木が気になります。
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天下の奇祭「数方庭祭」

2007年09月16日 | 山陽地方の旅

下関旅行の一番の目的だった「数方庭(すほうてい)祭」のポスターが、長府の町のあちこちに掲示されていました。
「天下の奇祭」のフレーズに魅かれて一度見たいと思いました。
数方庭祭は、忌宮神社境内で毎年8月7日から13日まで毎夜行われるそうです。
境内の広場にある鬼石の周囲を20mもある竹竿幟を一人でバランスをとりながら持ち歩くというめずらしいお祭りです。
お祭りの由来は、仲哀天皇7年、新羅国の凶酋「塵輪(じんりん)」が、熊襲を扇動して豊浦宮を襲撃、黒雲に乗り空から攻撃する「塵輪」に対して仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を射落とされ、熊襲は退散したそうです。
その時、兵士たちは矛をかざし、旗を振りながら「塵輪」の屍体を囲んで踊ったのが数方庭の起源であると伝えられています。
「塵輪」の首を切りその場に埋め、その上を覆った石が「鬼石」と言われ、「塵輪」の顔が鬼のようであったことから名付けられたそうです。



向って左下の建物が、「手水舎(てみずや)」、右上が「神門」で、「拝殿」は、「神門」を入るとすぐ正面にあります。
「神門」の前の広場に「鬼石」があります。
太い孟宗竹に旗や、飾りをつけた「大幟(おおや)」が立掛けられています。
実に重そうな竹で、100Kg以上あるそうです。おまけに風の強い日でしたので、祭で持ち歩くのは大変な力が要るようです。



数十本の「大幟(おおや)」が立掛けられています。
神社境内の広場に円を描くように高い柵が造られ、ロープで繋がっています。
「大幟」が倒れて見物客に当たらないようにガードしているようです。



「大幟(おおや)」の下の部分です。
太い孟宗竹の根の部分から掘り出して作ったようです。
かなり重そうです。



上空で風にたなびく「大幟(おおや)」の先端部分です。
竹の先端に鳥毛、そのすぐ下に鈴と、家紋や社紋を染め抜いた旗、その下に白い幟を取り付けているようです。
中国や、朝鮮の祭りでも同じようなものがあるようです。

現在の「数方庭祭」の形が整ったのは、長府藩三代藩主毛利綱元公の頃(元禄)で、それまでの矛(ほこ=両刃の剣に長い柄をつけたような形状)や薙刀(なぎなた)を禁止し、竹竿幟と切籠(きりこ)と言われる笹飾りの様式に変更されたそうです。
昔は、戦いの直後の戦勝を祝う歓喜の踊りのスタイルだったようです。



日が暮れた拝殿の前のようすです。
ハッピ姿の人が参拝しています。
今夜、「大幟(おおや)」を持ち歩く人達でしょうか。
ぼつぼつお祭りが始まります。



神門の前で、神主さんや、役員さんの挨拶があり、いよいよお祭りの始まりです。
最初に「切籠(きりこ)」と言われる笹飾りが境内に入場し、輪を作ります。



上の行列に使われている「切籠(きりこ)」です。
神門に上がる石段はお祭り見物のスタンドになってしまいました。


次は、小幟の行列がありました。
歩くだけであまり盛り上がりがありません。


次に中幟、大幟の順で鬼石の周りを周ります。
中央の太鼓の下に「鬼石」があるようです。
太鼓や、鉦(かね)の素朴なお囃子が続きます。


大幟は、高いもので約30m、重さが100kgのものがあるそうです。
風が強く、すぐ倒れていました。

残念ながら祭りを見てあまり感動はありませんでした。
しかし、今から1800年前の弥生時代の終わり頃に始まり、現在まで続いていることに改めて感心しました。
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下関市長府の「忌宮神社」

2007年09月12日 | 山陽地方の旅
8月12日、下関市長府の「忌宮神社」(いみのみやじんじゃ)へ行きました。
「忌宮神社」は、第14代仲哀天皇・神功皇后の行宮「豊浦宮」の跡とも言われています。
又、「忌宮神社」には仲哀天皇にちなむ1800年前からとも言われる奇祭「数方庭祭」(すほうていまつり)が毎年8/7から毎夜1週間続いて行われているとのことで非常に興味をそそられました。
下関市長府は、昔の「長門」の国の国府があった土地の意味を省略した地名と言われ、「忌宮神社」のすぐ 隣の図書館辺りに長門国衙があったといわれています。



「忌宮神社」横の商店街です。
所々に「数方庭祭」(すほうていまつり)の赤い幟や、先端に飾りのついた竹竿が立てられています。



神社の入り口の鳥居の横にこんな看板がありました。

放駒部屋(元大関魁傑)相撲資料館
開館時間 午前9時~午後4時 (休館=月曜日)
荒熊稲荷神社 三日相撲放駒部屋後援会


鳥居をくぐった場所から見た神社の参道です。(正門の参道ではありません)



最初の石段を上がると右手に境内社「荒熊稲荷神社」があります。

■赤い鳥居の脇に掲示されていた神社由緒を転記します。
荒熊稲荷神社由緒
 文化・文政年間(1801~29) 長府藩11代藩主 毛利元義が、江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて分霊を勧請し、産業の繁栄を祈願した。
嘉永元年(1848)に現在地に遷して社殿を再建、以来 広く信仰をあつめ、特に勝運・失せもの発見に霊験あらたかと伝えられている。
十一月三日の例大祭の奉納相撲は、「長府の三日相撲」として世に知られ盛大に行われて来ているが、昭和四十九年大相撲の魁傑関が参拝して九州場所で優勝して以来、放駒部屋一行が毎年参拝して賑わいを見せている。
平成二年十一月、「御大典記念事業」として社殿を改築御造営。無病息災・家運隆昌・商売繁盛を祈念する崇敬者の参拝が絶えない。
御祭神 宇迦之御魂大神
配祀神 厳島社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)
例大祭 十一月三日・春祭り 四月二十九日
月次祭 毎月三日(午前11時)



稲荷神社らしく鳥居が連続しています。

稲荷神社で鳥居が連続して並んでいるのは京都の伏見稲荷の千本鳥居が有名で、信者が鳥居を奉納する習わしは、江戸時代から始まったようです。
信者から奉納された鳥居が約1万基となった現在でも「千本鳥居」と言われているようです。



「放駒部屋(元大関魁傑)相撲資料館」がありました。
こじんまりした建物でしたが、時間がなく見られませんでした。


忌宮(いみのみや)神社の拝殿です。
以外に小さな拝殿でした。

■由緒が書かれている表示板を転記します。
長門国二ノ宮 旧国幣社
忌宮神社 由緒
 忌宮神社は、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇が九州の熊襲を平定のため御西下この地に皇居豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政治(まつりごと)を行われた旧祉で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉祭して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明(とよあけ)宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀し一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎(いみ)と同意語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。
現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修す。
古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門国二ノ宮として広く親しまれている。


拝殿の中の様子です。
「数方庭祭」(すほうていまつり)に参加する方々が座るように準備されているのでしょうか。



拝殿に奉納された大きな駒絵がありました。
馬の背の後ろになにやらオバケの顔のようなものが見えています。
よく見ると尾を結び、飾りたてているものと思われます。



拝殿の入り口に鶴(?)の絵が描かれた提灯がありました。



きれいな鶏が放し飼いされていました。
「古事記」や、「日本書紀」にも出てくる奈良県天理市の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)でも鶏が放し飼いされています。
古来、鶏は神聖な動物として考えられていたものと思われますが、どんな由来があるのか興味深いところです。


鶏の後をついて行くと、少し色の違う鶏がいました。
メスの鶏でしょうか?
最近では人間の男女の識別も難しくなってきて、とまどう場面があります。
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「土井ヶ浜遺跡」№4「埋葬人骨が語る物語」

2007年09月08日 | 山陽地方の旅

下関市「土井ヶ浜ミュージアム」の横にある「土井ヶ浜ドーム」へ入ってみました。
ドーム一帯で約300体の人骨が発掘され、「土井ヶ浜ドーム」は人骨が多く発掘された部分を覆うように造られているようです。



「土井ヶ浜ドーム」へ入って行くと土井ヶ浜の砂が展示されていました。
砂の中に貝殻が多く、人骨のカルシュウムの減少を補っていたそうです。



「土井ヶ浜ドーム」の中のあちこちに様々な人骨のレプリカが発掘された状態で展示されています。
並んだ2体の人骨、その向こうにたくさんの頭蓋骨があります。



「土井ヶ浜ミュージアム」の展示パネルに「英雄」と名づけられた殺されたままの姿の人骨があり、目を惹かれました。


「土井ヶ浜ドーム」の中にその人骨がありました。
ささっているのは弓矢でしょうか。
なぜこのような姿で殺されたのか?なぜこの姿のまま葬られたのか?
この人骨にまつわる2,000年前の物語は、謎のままです。



「土井ヶ浜ミュージアム」にこのような人形の展示と、背景の海岸の絵に鵜を抱いた女性が描かれていました。



「土井ヶ浜ドーム」の中に「鵜を抱く女」と表示された人骨が展示されていました。
一緒に葬られたこの鵜は、この女性にとても大切に飼われていたと思われます。
「鵜飼」の漁は現代でも各地で行われていますが、この鵜も漁をしていたのでしょうか?



「父と子」と表示されています。
子供が亡くなり、父と一緒に埋葬されたのか、同時に亡くなったのか分りませんが、埋葬の時の悲しむ肉親達のすすり泣きを想像してしまいました。



「一緒に埋葬された男女」と表示されています。
縦に並んで埋葬されています。この二人の関係も興味が湧いてきます。
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下関市「土井が浜遺跡」№3 「弥生人の顔」

2007年09月06日 | 山陽地方の旅
「土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム」に旧石器時代から現代までの人の顔の変遷がパネル展示されていました。
以前から、雑誌などで、あなたは「縄文人顔」「弥生人顔」? などと顔の特徴からタレントなどを例に分類する遊びを見かけます。
弥生時代から次第に混血が進んでいますが、縄文・弥生それぞれの特徴は現代でも引き継がれているようです。
しかし、最近では世界各地から日本で暮らす外国人が増加し、新たな渡来人との混血児により日本人の顔の変化は極めて不透明になっていくようです。



土井ヶ浜遺跡で見つかった人骨から推定された顔のようです。
長い顔が特徴のようです。



弥生人の顔をその特徴から以下の4エリア別分類した地図です。
①九州・山口エリア、②西九州エリア、③南九州・離島エリア、④関東エリア
この地図は、東日本も描かれていましたが、カットしています。



部九州・山口の弥生人がこのエリアに渡来してきたことがうかがわれます。
どこから来たかは別として、地理的に朝鮮半島を経由していることがうかがえます。

■展示パネルの説明文
<北部九州・山口の弥生人>
頭型は中頭型で顔面の高さは高く、眉の上の隆起は弱い。鼻が低いのでホリは浅く、身長は高い。歯の咬み合わせは鋏状咬合[きょうじょうこうごう](上の前の歯が下の前の歯の前にかぶさる形式)。



西北九州の弥生人の顔は、縄文人と、弥生人の中間型のように思えます。
比較的早い時期に混血が進んでいた地域ではないかと思われます。

■展示パネルの説明文
<西北九州の弥生人>
頭型は中頭型で、顔面の高さは低く、幅が広い。眉の上が隆起し、鼻が高くホリが深い。身長は低い。



縄文人の特徴が強く、弥生文化を受け入れた縄文人のように思えます。

■展示パネルの説明文
<南九州・離島の弥生人>
短頭型で西北九州の弥生人よりも、顔面の高さは低く、幅は広い。身長も低い。



南九州・離島の弥生人と同様に縄文人の特徴が強いようです。

■展示パネルの説明文
<関東の弥生人>
この地域で鼻根部の形態から、縄文人に近い弥生人、古墳時代に近い弥生人、両者の中間的な弥生人が見られます。



旧石器時代人の顔だそうですが、日本で発掘された骨がほとんどなく、沖縄県の港川から発見された骨を参考に書かれているようです。
沖縄は、地理的に東南アジアと近く、港川人から日本本土の旧石器時代人の顔を推察するの少しムリがあるのかも知れません。

■展示パネルの説明文
<旧石器時代人>
旧石器時代人の出土例は少なく、頭蓋(とうがい)の特徴を知ることができるのは沖縄県の港川人のみです。骨は厚く、顔は幅が広く、高さは低い。眉の上のの隆起は強く、鼻は高かったようです。身長は低い。



■展示パネルの説明文
<縄文時代人>
前期頃の縄文人はきゃしゃでしたが、後期になると頑丈になります。後期の骨は固くて、頭蓋(とうがい)は身長に比べて大きく、顔面は幅広く高さは低い。眉の上が隆起し、鼻が高いので鼻のつけ根(鼻根部=びこんぶ)がくぼみ、ホリの深い容貌をしています。身長は低い。




■展示パネルの説明文
<古墳時代人>
地域や身分によって差が見られますが、一般的に頭型は長頭型に近づいています。面長で高身長の人と、顔面の高さが低く、低身長の人がいます。全体として次第に鎌倉・室町時代に近づいていきます。


この時期になると全国的に混血が進行し、これ以降の時代の顔の変化は、鼻から下が主となるようです。

■展示パネルの説明文
<鎌倉・室町時代人>
頭型は著しい長頭型で、顔面の高さは低く、幅が広く鼻の付け根が扁平で、鼻も低くなっています。上顎は前歯(切歯)が前へ突き出し、「そっぱ」になります。身長は低い。


■展示パネルの説明文
<江戸時代人>
頭型は長頭型に近い中頭型です。階層によって差が認められ、一般に顔面の高さは低く、幅が広く、低身長ですが、なかには浮世絵などに描かれているような顔の長い人々も現われ始めました。徳川将軍などの上層階級の人々は著しく面長で、きゃしゃでした。
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下関市「土井が浜遺跡」№2 「貝殻紋土器」

2007年09月03日 | 山陽地方の旅
「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」に貝殻紋の土器についてのパネルが展示されていました。
■タイトルは、「北九州・響灘沿岸に見られる貝殻紋」で以下の説明文が ありました。

土井ヶ浜遺跡や下関市の綾羅木郷遺跡など、響灘※沿岸の弥生時代の遺跡からは貝殻で模様をつけた壺が数多く見つかっていて、この地方の特徴となっています。
貝殻で描いた模様を貝殻紋と呼んでいますが、この地域では主にタマキガイやベンケイガイなどの二枚貝を使っています。
これらの貝の口は、内側が鋸の歯のようになっていて咬み合っています。
弥生人は、この貝殻の歯の部分を土器の表面に押しつけたり、回転させたりしながら、羽状紋、鋸歯紋、重弧紋、木の葉紋などの模様を描いています。

※「響灘」(ひびきなだ)
日本海の西端で、島根県西部の浜田港付近から、関門海峡付近を経て、福岡県の宗像市大島付近までの海域です。


木の葉紋の土器の写真が展示されていました。
貝の紋様の土器といえば鹿児島の縄文遺跡上野原遺跡を思い出します。2007-01-13記載した
巨大噴火に消えた「貝文土器文化」も美しい土器でした。



羽状紋


羽状紋と、鋸歯紋


木の葉紋
思わず「丼のフタ」をイメージしました。
蝶の模様にも見えます。


貝殻紋のつけかたのパネルが展示されていました。
貝を上手に利用して様々な模様を描いていたことが分かります。
いつの日にかこの技術も忘れられてしまったようです。
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