南九州旅行2日目(2012/5/8)、宮崎県都城市山之口町の 「田島かくれ念仏洞」と、「安楽寺」の見学の次にすぐ近くにある「弥五郎どんの館」を訪れました。
「弥五郎どんの館」は、約500m東の「的野正八幡宮」で行われる「弥五郎どん祭」等が紹介されている施設です。
巨大な弥五郎どん人形が練り歩く祭りは、鹿児島県曽於市大隅町の「岩川八幡神社」でも行われており、「大隅弥五郎伝説の里」の見学は、このブログでも掲載しています。
「山之口弥五郎どんの館」の建物です。
弥五郎どん人形を展示し、弥五郎どん祭りを紹介する八角形のホールの左右には、研修室や、食品加工室などの付属建物が伸びていました。
■「弥五郎どんの館」のパンフレットにあった説明文です。
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山之口弥五郎どん祭リ
宮崎県指定 無形民俗文化財
国選択 平成二年二月二十七日
所在地 (的野正八幡宮)山之口町冨吉一四一二番地
「弥五郎殿」は養老四年(七二〇)の「隼人の乱」が起きた時の隼人族の首長であったと言われています。大伴旅人(朝廷軍)によりこの乱は鎮圧されましたがこの戦いで数多くの死傷者が出ました。それに、斬首などの残虐行為も行われたと言われています。この隼人族の霊のたたり現象を恐れた朝廷は宇佐八幡の神託を受けて全国的規模の「放生会」を行いました。その放生会は、以後各地の八幡神社の祭りとして行われました。放生会の先払(先導役)となったのが隼人族首長弥五郎どんです。
大隅地方、日向諸県地方ではこの放生会を「ホゼ」=豊穣祭と言っています。当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では、鹿児島県岩川八幡神社・宮崎県日南田之上八幡神社・山之口町的野正八幡宮の三ケ所だけと言われています。
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宮崎県都城市山之口「弥五郎どんの館」と、祭りが行われる「的野正八幡宮」付近の地図です。
国道269号沿いの「安楽寺」から市道を東に約1.5Km進むと「弥五郎どんの館」で、更に数百メートル東が「的野正八幡宮」です。
山之口の「弥五郎どん」人形です。
「弥五郎どんの館」へ入ると、大きなホールの中央に赤い顔に顔の巨大な人形が見下ろしてきます。
口の両端には下からキバが生え、頭のてっぺんに三本のヤリのような飾りがあるのは兜を表現しているのでしょうか。
鹿児島県曽於市大隅町「岩川八幡神社」の「弥五郎どん」は、頭に鳥の頭と尾の飾りがあるのとは大きく違っています。
足元に大小二本のカラフルな飾りが置かれているのは何だったのでしょうか。
斜め後方から見た「弥五郎どん」です。
木製の四輪の台車の上に据えられている様子がよく分かります。
施設内に照明が点灯されておらず、天窓からの自然光がたよりです。
ホールの壁沿いに「弥五郎どん祭り」の行列を再現した模型が展示されていました。
左手先頭に獅子舞、その次に大きな「弥五郎どん人形」、その後方には馬が引かれています。
更に赤い三台の神輿、「応神天皇」(15代天皇)、「玉依姫命」(神武天皇の母君)、「神功皇后」(応神天皇の母君)と続いているようです。
その他、行列には様々な姿の人々が見られ、祭りの長い伝統と、盛大さが伝わってきます。
■「弥五郎どんの館」のパンフレットにあった説明文です。
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『弥五郎どん祭りのはじまり』
弥五郎どんは隼人族の首長であつたといわれています。昔、九州が西海道といわれていた時代に南九州は日向と呼ばれていました。
奈良時代のはじめ(約一三〇〇年前)ごろ、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。
それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとつては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までのような土地の所有権又は、生活ができなくなると思い反抗したのです。大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を起こしました。隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちて、大変痛ましいものとなりました。
隼人族の首長弥五郎をはじめ犠牲となった隼人たちの霊を鎮魂するために、宇佐神宮では放生会を始めました。これが放生会の始まりです。その後、大和朝廷は各国に命じて何度も放生会を行わせました。この地方では、放生会で隼人族の首長「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊を慰めるようになつたのです。その名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」なのです。
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「弥五郎どん祭り」の行列の模型に上に展示されていた「弥五郎どん」のお面です。
左手の赤い面は、「江戸時代から明治時代のはじめ(廃仏毀釈)まで使用された最も古い面」とされ、右手の白い面は、「明治・大正・昭和の時代に使用された面」とあり、いずれも的野正八幡宮に所蔵されているようです。
現在の面は、明治初期の面と似ていますが、廃仏毀釈以降の白い面にはどんな意味が込められていたのでしょうか。
「的野正八幡宮」の境内入口の風景です。
石段を上る中央の鳥居の両脇には、道が左右に分かれ、「弥五郎どん人形」の行列はそのいずれかから下ってくるものと思われます。
カメラを構えた右手には「的野正八幡宮別当弥勒寺跡」と書かれた立札があり、明治初期の廃仏毀釈で壊された神社ゆかりの「弥勒寺」が建っていたようです。
■弥五郎どんの館に展示されていた神社の由来です。
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的野正八幡宮由来
祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇(誉田別命)・玉依姫命(比売大神)・神功皇后(息長帯姫命)である。
的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅三年(奈良時代のはじめ)西暦七一〇年に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記されている。
奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は七〇〇町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。ここで収穫される農産物の集散地として延喜式にみる水俣駅が当地(山之口・推定)に置かれたのである。駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設けられ、運搬用として駅馬五頭が常時配置されていた。
的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町(字名・現在も残る)は門前町様相を呈し賑わったといわれている。
武家政権の胎動と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。肝付氏-島津氏-伊東氏-島津氏と攻防をくりかえす中でも歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護されてきたのである。的野正八幡宮の紋が島津家の紋になったり伊東家の九曜紋になったりしたのをみれば如何に大事にされてきたかがわかる。現在、的野正八幡宮の紋は伊東家の九曜紋である。
この的野正八幡宮は、明治四年の廃藩置県・廃仏毀釈によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺も財産を没収され、跡形もなく破壊されている。
明治四年五月、神社の社格を定める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。翌年、明治五年七月圓野神社と改号した。
黎明二十一世紀を迎え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成十四年四月三十日これまでの圓野神社を的野正八幡宮と改号し五月七日に登記したのである。
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「的野正八幡宮」の社殿です。
境内の石碑によると2002年(平成14)に本殿の修復と、拝殿の改築が行われ、神社名も廃仏毀釈後の1872年(明治5年)以降からの「圓野神社」から、創建(710年)以来の「的野正八幡宮」に戻したようです。
後方の本殿建物の壁がレンガ色で、柱下部の紺色との配色が珍しく、どこか古代の雰囲気を感じるようでした。
拝殿正面の屋根にとても珍しい虎(タイガー)の瓦がありました。
■的野正八幡宮境内の石碑です。
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御鎮座千参百年記念事業
本殿修復 拝殿改築 他 環境整備
碑文
圓野神社は、古くは的野正八幡宮と称し、和銅三年(西暦七一〇年)の奈良時代、今から一二九〇年前に創建され、三股院(現在の山之口町・高城町・三股町・都城市の一部)の総鎮守であり、歴代の院司や領主は勿論、多くの民から厚い崇敬を受けていた。又、当神社は特に五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・交通安全・合格祈願・子育て安産・武運長久としてご利益があり、昔から町内・郡内・都城市は勿論、鹿児島の一部から参拝が多かったと記されています。
現在の本殿・拝殿は明治六年に改築され、明治十九年の台風にて弊拝殿が倒壊・改築、更に大正三年に修復、昭和四年に屋根を銅版葺にし、現在に至っていますが、腐朽荒廃ひどさを極め、二十世紀の終わり頃り雨漏りもひどくなり、御改築すべきとの地域民の声高く、昭和六十三年より神社御改築を目標に基金づくりが山下勝正氏(当時氏子総代長)によりはじめられ、年次積金して引継ぎされてきました。平成十三年遠近の有志一同より叱咤激励を受け、黎明二十一世紀に奮起し建設準備委員会の発足にいたりました。この計画を進めるためには、多くの資金が必要とされ、委員会において度重なる会議の結果、平成十三年度(会計年度)を目標に事業を推進することになりました。
そこで、皆様に実情をご理解いただき、ご賛同・ご協力賜りました。結果、委員全員の努力と遠近の方々から心温まる励ましと基金により資金の目途が立ち、建設委員会を発足させ、鋭意協力一致努力の結果、立派に完成できました。関係各位に深甚の敬意と感謝を申し上げます。
多くの方々が夢に描く拝殿にご芳名を末永く残し、ご神徳のご加護に預かる事を信じ、此処に記念碑を建立する次第です。
この度の本殿修復・拝殿改築の奉祝を記念して、圓野神社を的野正八幡宮と改名いたしました。
宮司 日高 広之
神職 尾上 九州男
〃 尾上 秀二
的野正八幡宮奉賛会事務局
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「弥五郎どんの館」に展示されていた「弥五郎どん祭り」のポスターです。
鳥居をくぐる「弥五郎どん」の行列は江戸時代のお祭り風景でしょうか。
何故か、ポスターには年数が書かれておらず、何年のポスターかよく分かりません。
よく考えてみると、11月3日の文化の日を毎年の祭りの日としているため、年数が書かれていないこのポスターは、毎年使えるよう工夫されたデザインと思われます。
脱帽です!
■神社境内にあった「弥五郎どん祭り」の案内板です。
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宮崎県指定(文化庁選択)
山之口弥五郎どん祭り(日向の弥五郎人形行事)
◆山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず一年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
催物●弥五郎どん力餅・甘酒
●地場産品販売
●文化祭 おもと 欄の展示会など
弥五郎どんは隼人族の首長
◆昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。苦からここに住んでいた人々が隼人族です。
奈良時代のはじめ(約1300年前)頃、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。
それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
養老4年、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を走星こしました。隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲となった1,400余名の隼人族の怨霊をおそれた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつ<リ、その霊を慰めるようになったのです。神仏習合の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業
宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
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上段の風景は、神社境内にあった催物のステージと思われる施設です。
下段は、境内の案内板にあったお祭りのスケジュール表で、午後に行われる「舞」や、「郷土芸能」はこのステージで行われるのかも知れません。
大勢の人がこのステージを囲み、にぎやかな行事が続く様子が目に浮かぶようです。
「弥五郎どんの館」に展示されていた神楽「片剣舞(片刀舞)」の写真です。
神楽と言えば、神話を再現した舞をイメージしていましたが、まったく様相が違っており、神楽の認識を改める必要があるようです。
■写真の説明文です。
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的野正八幡宮神楽(片剣舞・片刀舞)
的野正八幡宮の神楽は古くから舞われている。都城市郡元の稲荷神社とのかかわりが深く、その神楽歴史を見ると、舞人たちは古くから互いに行き来をしながら練習を重ね、保存継承に努めてきている。(大正12年に圓野神社の社務所において、稲荷神社の舞人の指導を受けて踊ったときの神歌・神文の手書きの練習書が残されている。)現在舞われている神楽は、手力舞・双剣舞(両刀舞)・片剣舞(片刀舞)・薙刀舞・宮毘舞・田の神舞の六つが保存継承されている。
写真は、平成13年11月3日「弥五郎どん祭り」で保存会員によって奉納された神楽である.
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「弥五郎どんの館」に展示されていた神楽「田の神舞[たのかんまい]」の写真です。
これは南九州の田園地帯で見られる石像「田の神さあ」(たのかんさあ)の原型となった神楽の舞と分りました。
このブログに掲載の南九州旅行1日目の都城市の数ヶ所で見た石像「田の神さあ」を参考にご覧下さい。
江戸時代から続く「田の神さあ」のタイプには「仏像型」、「神主型」、「田の神舞型」などがあり、農民が生活の中で目にする姿が石像にされていたことを知りました。
■写真の説明文です。
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的野正八幡宮神楽(田の神舞)
有望なニセ(青年)たちが神楽保存会員となり、日高宮司(的野正八幡宮)を中心として練習を重ねて継承に努めている。
田の神舞は、双剣舞(両刀舞)と共に古くから舞われていた最も人気のある神楽である。大きい鼻と口を開いた阿形の面を着け、後腰に幣竹を2本差し、右手に鈴、左手にメシゲ(しやもじ)を持って舞い、次に右手に扇を、左手に鈴・メシゲを持って舞う。舞う時には、神歌と祭文を唱えながら中腰で舞い、神の恵みによってできる米の尊さをのべて、神に感謝し、五穀豊穣、農耕安全を祈願しながら舞う。
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「弥五郎どんの館」は、約500m東の「的野正八幡宮」で行われる「弥五郎どん祭」等が紹介されている施設です。
巨大な弥五郎どん人形が練り歩く祭りは、鹿児島県曽於市大隅町の「岩川八幡神社」でも行われており、「大隅弥五郎伝説の里」の見学は、このブログでも掲載しています。
「山之口弥五郎どんの館」の建物です。
弥五郎どん人形を展示し、弥五郎どん祭りを紹介する八角形のホールの左右には、研修室や、食品加工室などの付属建物が伸びていました。
■「弥五郎どんの館」のパンフレットにあった説明文です。
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山之口弥五郎どん祭リ
宮崎県指定 無形民俗文化財
国選択 平成二年二月二十七日
所在地 (的野正八幡宮)山之口町冨吉一四一二番地
「弥五郎殿」は養老四年(七二〇)の「隼人の乱」が起きた時の隼人族の首長であったと言われています。大伴旅人(朝廷軍)によりこの乱は鎮圧されましたがこの戦いで数多くの死傷者が出ました。それに、斬首などの残虐行為も行われたと言われています。この隼人族の霊のたたり現象を恐れた朝廷は宇佐八幡の神託を受けて全国的規模の「放生会」を行いました。その放生会は、以後各地の八幡神社の祭りとして行われました。放生会の先払(先導役)となったのが隼人族首長弥五郎どんです。
大隅地方、日向諸県地方ではこの放生会を「ホゼ」=豊穣祭と言っています。当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では、鹿児島県岩川八幡神社・宮崎県日南田之上八幡神社・山之口町的野正八幡宮の三ケ所だけと言われています。
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宮崎県都城市山之口「弥五郎どんの館」と、祭りが行われる「的野正八幡宮」付近の地図です。
国道269号沿いの「安楽寺」から市道を東に約1.5Km進むと「弥五郎どんの館」で、更に数百メートル東が「的野正八幡宮」です。
山之口の「弥五郎どん」人形です。
「弥五郎どんの館」へ入ると、大きなホールの中央に赤い顔に顔の巨大な人形が見下ろしてきます。
口の両端には下からキバが生え、頭のてっぺんに三本のヤリのような飾りがあるのは兜を表現しているのでしょうか。
鹿児島県曽於市大隅町「岩川八幡神社」の「弥五郎どん」は、頭に鳥の頭と尾の飾りがあるのとは大きく違っています。
足元に大小二本のカラフルな飾りが置かれているのは何だったのでしょうか。
斜め後方から見た「弥五郎どん」です。
木製の四輪の台車の上に据えられている様子がよく分かります。
施設内に照明が点灯されておらず、天窓からの自然光がたよりです。
ホールの壁沿いに「弥五郎どん祭り」の行列を再現した模型が展示されていました。
左手先頭に獅子舞、その次に大きな「弥五郎どん人形」、その後方には馬が引かれています。
更に赤い三台の神輿、「応神天皇」(15代天皇)、「玉依姫命」(神武天皇の母君)、「神功皇后」(応神天皇の母君)と続いているようです。
その他、行列には様々な姿の人々が見られ、祭りの長い伝統と、盛大さが伝わってきます。
■「弥五郎どんの館」のパンフレットにあった説明文です。
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『弥五郎どん祭りのはじまり』
弥五郎どんは隼人族の首長であつたといわれています。昔、九州が西海道といわれていた時代に南九州は日向と呼ばれていました。
奈良時代のはじめ(約一三〇〇年前)ごろ、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。
それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとつては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までのような土地の所有権又は、生活ができなくなると思い反抗したのです。大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を起こしました。隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちて、大変痛ましいものとなりました。
隼人族の首長弥五郎をはじめ犠牲となった隼人たちの霊を鎮魂するために、宇佐神宮では放生会を始めました。これが放生会の始まりです。その後、大和朝廷は各国に命じて何度も放生会を行わせました。この地方では、放生会で隼人族の首長「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊を慰めるようになつたのです。その名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」なのです。
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「弥五郎どん祭り」の行列の模型に上に展示されていた「弥五郎どん」のお面です。
左手の赤い面は、「江戸時代から明治時代のはじめ(廃仏毀釈)まで使用された最も古い面」とされ、右手の白い面は、「明治・大正・昭和の時代に使用された面」とあり、いずれも的野正八幡宮に所蔵されているようです。
現在の面は、明治初期の面と似ていますが、廃仏毀釈以降の白い面にはどんな意味が込められていたのでしょうか。
「的野正八幡宮」の境内入口の風景です。
石段を上る中央の鳥居の両脇には、道が左右に分かれ、「弥五郎どん人形」の行列はそのいずれかから下ってくるものと思われます。
カメラを構えた右手には「的野正八幡宮別当弥勒寺跡」と書かれた立札があり、明治初期の廃仏毀釈で壊された神社ゆかりの「弥勒寺」が建っていたようです。
■弥五郎どんの館に展示されていた神社の由来です。
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的野正八幡宮由来
祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇(誉田別命)・玉依姫命(比売大神)・神功皇后(息長帯姫命)である。
的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅三年(奈良時代のはじめ)西暦七一〇年に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記されている。
奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は七〇〇町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。ここで収穫される農産物の集散地として延喜式にみる水俣駅が当地(山之口・推定)に置かれたのである。駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設けられ、運搬用として駅馬五頭が常時配置されていた。
的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町(字名・現在も残る)は門前町様相を呈し賑わったといわれている。
武家政権の胎動と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。肝付氏-島津氏-伊東氏-島津氏と攻防をくりかえす中でも歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護されてきたのである。的野正八幡宮の紋が島津家の紋になったり伊東家の九曜紋になったりしたのをみれば如何に大事にされてきたかがわかる。現在、的野正八幡宮の紋は伊東家の九曜紋である。
この的野正八幡宮は、明治四年の廃藩置県・廃仏毀釈によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺も財産を没収され、跡形もなく破壊されている。
明治四年五月、神社の社格を定める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。翌年、明治五年七月圓野神社と改号した。
黎明二十一世紀を迎え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成十四年四月三十日これまでの圓野神社を的野正八幡宮と改号し五月七日に登記したのである。
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「的野正八幡宮」の社殿です。
境内の石碑によると2002年(平成14)に本殿の修復と、拝殿の改築が行われ、神社名も廃仏毀釈後の1872年(明治5年)以降からの「圓野神社」から、創建(710年)以来の「的野正八幡宮」に戻したようです。
後方の本殿建物の壁がレンガ色で、柱下部の紺色との配色が珍しく、どこか古代の雰囲気を感じるようでした。
拝殿正面の屋根にとても珍しい虎(タイガー)の瓦がありました。
■的野正八幡宮境内の石碑です。
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御鎮座千参百年記念事業
本殿修復 拝殿改築 他 環境整備
碑文
圓野神社は、古くは的野正八幡宮と称し、和銅三年(西暦七一〇年)の奈良時代、今から一二九〇年前に創建され、三股院(現在の山之口町・高城町・三股町・都城市の一部)の総鎮守であり、歴代の院司や領主は勿論、多くの民から厚い崇敬を受けていた。又、当神社は特に五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・交通安全・合格祈願・子育て安産・武運長久としてご利益があり、昔から町内・郡内・都城市は勿論、鹿児島の一部から参拝が多かったと記されています。
現在の本殿・拝殿は明治六年に改築され、明治十九年の台風にて弊拝殿が倒壊・改築、更に大正三年に修復、昭和四年に屋根を銅版葺にし、現在に至っていますが、腐朽荒廃ひどさを極め、二十世紀の終わり頃り雨漏りもひどくなり、御改築すべきとの地域民の声高く、昭和六十三年より神社御改築を目標に基金づくりが山下勝正氏(当時氏子総代長)によりはじめられ、年次積金して引継ぎされてきました。平成十三年遠近の有志一同より叱咤激励を受け、黎明二十一世紀に奮起し建設準備委員会の発足にいたりました。この計画を進めるためには、多くの資金が必要とされ、委員会において度重なる会議の結果、平成十三年度(会計年度)を目標に事業を推進することになりました。
そこで、皆様に実情をご理解いただき、ご賛同・ご協力賜りました。結果、委員全員の努力と遠近の方々から心温まる励ましと基金により資金の目途が立ち、建設委員会を発足させ、鋭意協力一致努力の結果、立派に完成できました。関係各位に深甚の敬意と感謝を申し上げます。
多くの方々が夢に描く拝殿にご芳名を末永く残し、ご神徳のご加護に預かる事を信じ、此処に記念碑を建立する次第です。
この度の本殿修復・拝殿改築の奉祝を記念して、圓野神社を的野正八幡宮と改名いたしました。
宮司 日高 広之
神職 尾上 九州男
〃 尾上 秀二
的野正八幡宮奉賛会事務局
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「弥五郎どんの館」に展示されていた「弥五郎どん祭り」のポスターです。
鳥居をくぐる「弥五郎どん」の行列は江戸時代のお祭り風景でしょうか。
何故か、ポスターには年数が書かれておらず、何年のポスターかよく分かりません。
よく考えてみると、11月3日の文化の日を毎年の祭りの日としているため、年数が書かれていないこのポスターは、毎年使えるよう工夫されたデザインと思われます。
脱帽です!
■神社境内にあった「弥五郎どん祭り」の案内板です。
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宮崎県指定(文化庁選択)
山之口弥五郎どん祭り(日向の弥五郎人形行事)
◆山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず一年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
催物●弥五郎どん力餅・甘酒
●地場産品販売
●文化祭 おもと 欄の展示会など
弥五郎どんは隼人族の首長
◆昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。苦からここに住んでいた人々が隼人族です。
奈良時代のはじめ(約1300年前)頃、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。
それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
養老4年、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を走星こしました。隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲となった1,400余名の隼人族の怨霊をおそれた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつ<リ、その霊を慰めるようになったのです。神仏習合の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業
宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
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上段の風景は、神社境内にあった催物のステージと思われる施設です。
下段は、境内の案内板にあったお祭りのスケジュール表で、午後に行われる「舞」や、「郷土芸能」はこのステージで行われるのかも知れません。
大勢の人がこのステージを囲み、にぎやかな行事が続く様子が目に浮かぶようです。
「弥五郎どんの館」に展示されていた神楽「片剣舞(片刀舞)」の写真です。
神楽と言えば、神話を再現した舞をイメージしていましたが、まったく様相が違っており、神楽の認識を改める必要があるようです。
■写真の説明文です。
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的野正八幡宮神楽(片剣舞・片刀舞)
的野正八幡宮の神楽は古くから舞われている。都城市郡元の稲荷神社とのかかわりが深く、その神楽歴史を見ると、舞人たちは古くから互いに行き来をしながら練習を重ね、保存継承に努めてきている。(大正12年に圓野神社の社務所において、稲荷神社の舞人の指導を受けて踊ったときの神歌・神文の手書きの練習書が残されている。)現在舞われている神楽は、手力舞・双剣舞(両刀舞)・片剣舞(片刀舞)・薙刀舞・宮毘舞・田の神舞の六つが保存継承されている。
写真は、平成13年11月3日「弥五郎どん祭り」で保存会員によって奉納された神楽である.
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「弥五郎どんの館」に展示されていた神楽「田の神舞[たのかんまい]」の写真です。
これは南九州の田園地帯で見られる石像「田の神さあ」(たのかんさあ)の原型となった神楽の舞と分りました。
このブログに掲載の南九州旅行1日目の都城市の数ヶ所で見た石像「田の神さあ」を参考にご覧下さい。
江戸時代から続く「田の神さあ」のタイプには「仏像型」、「神主型」、「田の神舞型」などがあり、農民が生活の中で目にする姿が石像にされていたことを知りました。
■写真の説明文です。
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的野正八幡宮神楽(田の神舞)
有望なニセ(青年)たちが神楽保存会員となり、日高宮司(的野正八幡宮)を中心として練習を重ねて継承に努めている。
田の神舞は、双剣舞(両刀舞)と共に古くから舞われていた最も人気のある神楽である。大きい鼻と口を開いた阿形の面を着け、後腰に幣竹を2本差し、右手に鈴、左手にメシゲ(しやもじ)を持って舞い、次に右手に扇を、左手に鈴・メシゲを持って舞う。舞う時には、神歌と祭文を唱えながら中腰で舞い、神の恵みによってできる米の尊さをのべて、神に感謝し、五穀豊穣、農耕安全を祈願しながら舞う。
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