昔に出会う旅

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南九州旅行No.20 都城市山之口 「弥五郎どんの館」と「的野正八幡宮」

2012年08月29日 | 九州の旅
南九州旅行2日目(2012/5/8)、宮崎県都城市山之口町の 「田島かくれ念仏洞」と、「安楽寺」の見学の次にすぐ近くにある「弥五郎どんの館」を訪れました。

「弥五郎どんの館」は、約500m東の「的野正八幡宮」で行われる「弥五郎どん祭」等が紹介されている施設です。

巨大な弥五郎どん人形が練り歩く祭りは、鹿児島県曽於市大隅町の「岩川八幡神社」でも行われており、「大隅弥五郎伝説の里」の見学は、このブログでも掲載しています。



「山之口弥五郎どんの館」の建物です。

弥五郎どん人形を展示し、弥五郎どん祭りを紹介する八角形のホールの左右には、研修室や、食品加工室などの付属建物が伸びていました。

■「弥五郎どんの館」のパンフレットにあった説明文です。
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山之口弥五郎どん祭リ
 宮崎県指定 無形民俗文化財
 国選択 平成二年二月二十七日
 所在地 (的野正八幡宮)山之口町冨吉一四一二番地
 「弥五郎殿」は養老四年(七二〇)の「隼人の乱」が起きた時の隼人族の首長であったと言われています。大伴旅人(朝廷軍)によりこの乱は鎮圧されましたがこの戦いで数多くの死傷者が出ました。それに、斬首などの残虐行為も行われたと言われています。この隼人族の霊のたたり現象を恐れた朝廷は宇佐八幡の神託を受けて全国的規模の「放生会」を行いました。その放生会は、以後各地の八幡神社の祭りとして行われました。放生会の先払(先導役)となったのが隼人族首長弥五郎どんです。
大隅地方、日向諸県地方ではこの放生会を「ホゼ」=豊穣祭と言っています。当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では、鹿児島県岩川八幡神社・宮崎県日南田之上八幡神社・山之口町的野正八幡宮の三ケ所だけと言われています。
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宮崎県都城市山之口「弥五郎どんの館」と、祭りが行われる「的野正八幡宮」付近の地図です。

国道269号沿いの「安楽寺」から市道を東に約1.5Km進むと「弥五郎どんの館」で、更に数百メートル東が「的野正八幡宮」です。



山之口の「弥五郎どん」人形です。

「弥五郎どんの館」へ入ると、大きなホールの中央に赤い顔に顔の巨大な人形が見下ろしてきます。

口の両端には下からキバが生え、頭のてっぺんに三本のヤリのような飾りがあるのは兜を表現しているのでしょうか。

鹿児島県曽於市大隅町「岩川八幡神社」の「弥五郎どん」は、頭に鳥の頭と尾の飾りがあるのとは大きく違っています。

足元に大小二本のカラフルな飾りが置かれているのは何だったのでしょうか。



斜め後方から見た「弥五郎どん」です。

木製の四輪の台車の上に据えられている様子がよく分かります。

施設内に照明が点灯されておらず、天窓からの自然光がたよりです。



ホールの壁沿いに「弥五郎どん祭り」の行列を再現した模型が展示されていました。

左手先頭に獅子舞、その次に大きな「弥五郎どん人形」、その後方には馬が引かれています。

更に赤い三台の神輿、「応神天皇」(15代天皇)、「玉依姫命」(神武天皇の母君)、「神功皇后」(応神天皇の母君)と続いているようです。

その他、行列には様々な姿の人々が見られ、祭りの長い伝統と、盛大さが伝わってきます。

■「弥五郎どんの館」のパンフレットにあった説明文です。
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『弥五郎どん祭りのはじまり』
 弥五郎どんは隼人族の首長であつたといわれています。昔、九州が西海道といわれていた時代に南九州は日向と呼ばれていました。
 奈良時代のはじめ(約一三〇〇年前)ごろ、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。

 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとつては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までのような土地の所有権又は、生活ができなくなると思い反抗したのです。大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を起こしました。隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちて、大変痛ましいものとなりました。
隼人族の首長弥五郎をはじめ犠牲となった隼人たちの霊を鎮魂するために、宇佐神宮では放生会を始めました。これが放生会の始まりです。その後、大和朝廷は各国に命じて何度も放生会を行わせました。この地方では、放生会で隼人族の首長「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊を慰めるようになつたのです。その名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」なのです。
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「弥五郎どん祭り」の行列の模型に上に展示されていた「弥五郎どん」のお面です。

左手の赤い面は、「江戸時代から明治時代のはじめ(廃仏毀釈)まで使用された最も古い面」とされ、右手の白い面は、「明治・大正・昭和の時代に使用された面」とあり、いずれも的野正八幡宮に所蔵されているようです。

現在の面は、明治初期の面と似ていますが、廃仏毀釈以降の白い面にはどんな意味が込められていたのでしょうか。



「的野正八幡宮」の境内入口の風景です。

石段を上る中央の鳥居の両脇には、道が左右に分かれ、「弥五郎どん人形」の行列はそのいずれかから下ってくるものと思われます。

カメラを構えた右手には「的野正八幡宮別当弥勒寺跡」と書かれた立札があり、明治初期の廃仏毀釈で壊された神社ゆかりの「弥勒寺」が建っていたようです。

■弥五郎どんの館に展示されていた神社の由来です。
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的野正八幡宮由来
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇(誉田別命)・玉依姫命(比売大神)・神功皇后(息長帯姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅三年(奈良時代のはじめ)西暦七一〇年に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は七〇〇町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。ここで収穫される農産物の集散地として延喜式にみる水俣駅が当地(山之口・推定)に置かれたのである。駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設けられ、運搬用として駅馬五頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町(字名・現在も残る)は門前町様相を呈し賑わったといわれている。
 武家政権の胎動と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。肝付氏-島津氏-伊東氏-島津氏と攻防をくりかえす中でも歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護されてきたのである。的野正八幡宮の紋が島津家の紋になったり伊東家の九曜紋になったりしたのをみれば如何に大事にされてきたかがわかる。現在、的野正八幡宮の紋は伊東家の九曜紋である。
 この的野正八幡宮は、明治四年の廃藩置県・廃仏毀釈によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺も財産を没収され、跡形もなく破壊されている。
 明治四年五月、神社の社格を定める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。翌年、明治五年七月圓野神社と改号した。
 黎明二十一世紀を迎え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成十四年四月三十日これまでの圓野神社を的野正八幡宮と改号し五月七日に登記したのである。
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「的野正八幡宮」の社殿です。

境内の石碑によると2002年(平成14)に本殿の修復と、拝殿の改築が行われ、神社名も廃仏毀釈後の1872年(明治5年)以降からの「圓野神社」から、創建(710年)以来の「的野正八幡宮」に戻したようです。

後方の本殿建物の壁がレンガ色で、柱下部の紺色との配色が珍しく、どこか古代の雰囲気を感じるようでした。

拝殿正面の屋根にとても珍しい虎(タイガー)の瓦がありました。

■的野正八幡宮境内の石碑です。
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御鎮座千参百年記念事業
本殿修復 拝殿改築 他 環境整備
碑文
圓野神社は、古くは的野正八幡宮と称し、和銅三年(西暦七一〇年)の奈良時代、今から一二九〇年前に創建され、三股院(現在の山之口町・高城町・三股町・都城市の一部)の総鎮守であり、歴代の院司や領主は勿論、多くの民から厚い崇敬を受けていた。又、当神社は特に五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・交通安全・合格祈願・子育て安産・武運長久としてご利益があり、昔から町内・郡内・都城市は勿論、鹿児島の一部から参拝が多かったと記されています。
現在の本殿・拝殿は明治六年に改築され、明治十九年の台風にて弊拝殿が倒壊・改築、更に大正三年に修復、昭和四年に屋根を銅版葺にし、現在に至っていますが、腐朽荒廃ひどさを極め、二十世紀の終わり頃り雨漏りもひどくなり、御改築すべきとの地域民の声高く、昭和六十三年より神社御改築を目標に基金づくりが山下勝正氏(当時氏子総代長)によりはじめられ、年次積金して引継ぎされてきました。平成十三年遠近の有志一同より叱咤激励を受け、黎明二十一世紀に奮起し建設準備委員会の発足にいたりました。この計画を進めるためには、多くの資金が必要とされ、委員会において度重なる会議の結果、平成十三年度(会計年度)を目標に事業を推進することになりました。
そこで、皆様に実情をご理解いただき、ご賛同・ご協力賜りました。結果、委員全員の努力と遠近の方々から心温まる励ましと基金により資金の目途が立ち、建設委員会を発足させ、鋭意協力一致努力の結果、立派に完成できました。関係各位に深甚の敬意と感謝を申し上げます。
多くの方々が夢に描く拝殿にご芳名を末永く残し、ご神徳のご加護に預かる事を信じ、此処に記念碑を建立する次第です。
この度の本殿修復・拝殿改築の奉祝を記念して、圓野神社を的野正八幡宮と改名いたしました。
  宮司 日高 広之
  神職 尾上 九州男
   〃  尾上 秀二
  的野正八幡宮奉賛会事務局
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「弥五郎どんの館」に展示されていた「弥五郎どん祭り」のポスターです。

鳥居をくぐる「弥五郎どん」の行列は江戸時代のお祭り風景でしょうか。

何故か、ポスターには年数が書かれておらず、何年のポスターかよく分かりません。

よく考えてみると、11月3日の文化の日を毎年の祭りの日としているため、年数が書かれていないこのポスターは、毎年使えるよう工夫されたデザインと思われます。

脱帽です!

■神社境内にあった「弥五郎どん祭り」の案内板です。
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宮崎県指定(文化庁選択)
山之口弥五郎どん祭り(日向の弥五郎人形行事)

◆山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず一年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 催物●弥五郎どん力餅・甘酒
   ●地場産品販売
   ●文化祭 おもと 欄の展示会など

弥五郎どんは隼人族の首長
◆昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。苦からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ(約1300年前)頃、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隅の国を分置したのです。
 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代大隅国守を殺害して叛乱を走星こしました。隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲となった1,400余名の隼人族の怨霊をおそれた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつ<リ、その霊を慰めるようになったのです。神仏習合の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
  山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業
  宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
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上段の風景は、神社境内にあった催物のステージと思われる施設です。

下段は、境内の案内板にあったお祭りのスケジュール表で、午後に行われる「舞」や、「郷土芸能」はこのステージで行われるのかも知れません。

大勢の人がこのステージを囲み、にぎやかな行事が続く様子が目に浮かぶようです。



「弥五郎どんの館」に展示されていた神楽「片剣舞(片刀舞)」の写真です。

神楽と言えば、神話を再現した舞をイメージしていましたが、まったく様相が違っており、神楽の認識を改める必要があるようです。

■写真の説明文です。
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的野正八幡宮神楽(片剣舞・片刀舞)
 的野正八幡宮の神楽は古くから舞われている。都城市郡元の稲荷神社とのかかわりが深く、その神楽歴史を見ると、舞人たちは古くから互いに行き来をしながら練習を重ね、保存継承に努めてきている。(大正12年に圓野神社の社務所において、稲荷神社の舞人の指導を受けて踊ったときの神歌・神文の手書きの練習書が残されている。)現在舞われている神楽は、手力舞・双剣舞(両刀舞)・片剣舞(片刀舞)・薙刀舞・宮毘舞・田の神舞の六つが保存継承されている。
 写真は、平成13年11月3日「弥五郎どん祭り」で保存会員によって奉納された神楽である.
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「弥五郎どんの館」に展示されていた神楽「田の神舞[たのかんまい]」の写真です。

これは南九州の田園地帯で見られる石像「田の神さあ」(たのかんさあ)の原型となった神楽の舞と分りました。

このブログに掲載の南九州旅行1日目の都城市の数ヶ所で見た石像「田の神さあ」を参考にご覧下さい。

江戸時代から続く「田の神さあ」のタイプには「仏像型」、「神主型」、「田の神舞型」などがあり、農民が生活の中で目にする姿が石像にされていたことを知りました。

■写真の説明文です。
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的野正八幡宮神楽(田の神舞)
 有望なニセ(青年)たちが神楽保存会員となり、日高宮司(的野正八幡宮)を中心として練習を重ねて継承に努めている。
 田の神舞は、双剣舞(両刀舞)と共に古くから舞われていた最も人気のある神楽である。大きい鼻と口を開いた阿形の面を着け、後腰に幣竹を2本差し、右手に鈴、左手にメシゲ(しやもじ)を持って舞い、次に右手に扇を、左手に鈴・メシゲを持って舞う。舞う時には、神歌と祭文を唱えながら中腰で舞い、神の恵みによってできる米の尊さをのべて、神に感謝し、五穀豊穣、農耕安全を祈願しながら舞う。
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油絵「パンと卵の殻のある静物」

2012年08月24日 | 妻の油絵

妻の油絵「静物」です。

洋酒の瓶と、水差しの前に食べかけのパンと、何故か卵の殻も置かれています。

この卵の殻のこわれ具合は、二つに割って料理に使ったものでもなく・・・。

食べかけのパンと共に、この場面に至った様々な可能性を考えていると、絵がそっちのけの深い謎になってきました。


南九州旅行No.19 「田島かくれ念仏洞」と「安楽寺」

2012年08月22日 | 九州の旅
南九州旅行2日目(2012/5/8)、鹿児島県志布志市の観光を終え、都城市へ戻り、山之口町の 「田島かくれ念仏洞」と、関連する「安楽寺」を訪れました。

「隠れキリシタン」はよく聞きますが、「かくれ念仏」は聞いたことがなく、強い興味が湧き、訪れたものです。

薩摩藩(島津氏領)や、隣接の人吉藩(相良氏領)では江戸時代以前から一向宗(浄土真宗)が禁止され、明治時代に信教の自由が解禁されるまで「隠れ念仏」として信仰が続いていたようです。

「田島かくれ念仏洞」は、密かに一向宗(浄土真)の信仰を続けていた人々が信仰の場としていた地下洞窟の史跡です。



「田島かくれ念仏洞」駐車場の風景です

奥に石碑と、案内板が建ち、左手の道を下ると地下に掘られた「田島かくれ念仏洞」の遺構が保存されています。

■駐車場にあった「田島かくれ念仏洞」の案内板です。
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町指定史跡 田島かくれ念仏洞
所在地 都城市山之口町冨吉四九七九番地
■洞入口=高さ一一〇cm・幅七〇cm
■洞 内=高さ一二六m・直径二二〇cm
 都城盆地内には、たくさんのかくれ念仏洞が現存しています。この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長二年(一五九七年)二月二十二日、十七代藩主島津義弘が二度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
 また、明暦元年(一六五五年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永七年(一七七八年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。役人の拷問は悪辣を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。責め苦に耐えきれずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否をすれば死刑に処せられました。特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召楊の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など四ヵ所のかくれ念仏洞が在りましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
 都城市教育委員会
 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起し事業
 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
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宮崎県都城市山之口町にある「田島かくれ念仏洞」と、「安楽寺」の地図です。

上の地図は、概略の位置を示す広域図、下の地図は狭域図です。

山之口町は、都城市の中心街から北東方向にあり、高速道路都城インーチェンジから南東方向にある田園地帯でした。



石碑の横の坂道を見下ろした風景です。

丘の斜面の下が塀で囲まれ、奥にコンクリートの建物が見えてきます。

「田島かくれ念仏洞」は、丘の斜面の下に造られていました。

■駐車場に建てられた石碑の碑文です。
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念仏禁制 殉難之旧蹟 かくれ念仏洞

<台座碑文>
念仏はいのちなり
念仏はまことなり
血吹き
 涙あふるゝ 
暗き世に
わが無碍光※は
 されど
  その力にては
   消えざりき
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※無碍光[むげこう]=阿弥陀仏の発する十二光の一。何ものにも妨げられない救いの光明。<デジタル大辞泉より>

碑文を読むと、過酷な弾圧に耐え、信仰を守り続けてきた信者の人々の強い気持ちが伝わってくるようです。



建物の手前の木の横に斜面を石垣で覆い、鉄柵で囲われた場所がありました。

斜面の下に地下洞窟があったようです。

琉球石灰岩の地層が広がる沖縄では自然の洞窟が多く、「ガマ」と呼ばれていますが、南九州でもこのような洞窟を「ガマ」と呼ぶようです。

古代からの続く言葉の共通性によるものか、薩摩藩による琉球支配で伝わったものか、興味のあるところです。



鉄柵で囲われた地下洞窟をのぞいてみましたがよく見えませんでした。

島津氏領内に一向宗が布教されたのは室町時代中期とされています。

一向宗の布教は、本願寺第8世蓮如(1415-1499年)以来、先ず土地の有力者を信者とし、その後、地域全体へ広げていく極めて効率的な手法で、教団を急成長させたようです。

又、一向宗の組織は、地域の信者を「講[こう]」と呼ぶ組織にまとめ、それを束ねた「道場(坊)」、その上に「寺」を置くピラミッド型組織だったようで、身分を越えた人々の信仰の集い(講)により地域の結束と、布教が促進されたものと思われます。



建物の前面は、鉄の扉で囲われていました。

建物に向かって左の壁の一部が空いており、自然の斜面が残される構造になっているようです。

一向宗の禁止は、島津氏領(薩摩藩より約40年早い1555年(天文24)に相良氏領(人吉藩)で、日蓮(法華)宗と共に禁止が始まっていたとされています。

相良氏領で禁止された背景には、加賀国で守護が追放され、約90年間の一向宗支配が続いていた「加賀一向一揆(1488~1580年)」の強い影響が考えられます。

その後、一向宗の本拠「石山本願寺(大阪城の場所にあった)」では織田信長と10年間続く石山合戦(1570~1580年)を行い、和睦したものの一向宗の潜在的脅威を広く知らしめたようです。

戦国時代の1560年頃から将軍足利義輝の許しを得て京都で布教を行っていたポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラは、石山本願寺を「日本の金銀のほとんどはここにある」と評しており、一向宗信者から本願寺へ行う寄進が各地の大名にとっても経済的に大きな影響があることも認識されいたものと思われます。

一向宗の懐柔に動いた秀吉は、1591年(天正19)京都に土地を寄進、そこに建てられたのが西本願寺で、現在世界遺産に指定されている豪華絢爛の桃山建築からも、当時の一向宗信者の負担の大きさを量り知ることが出来ます。

室町時代中期から布教されたとされる島津氏領内の一向宗が禁止されたのは、秀吉の二回目の朝鮮出兵に従う直前の1597年(慶長)とされ、相次ぐ戦いで戦費確保を迫られる中、寄進による領内からの金品流出と、宗教活動の制限による一向一揆の防止が急務だったことが考えられます。

又、島津氏が最も恐れる秀吉が一向宗を懐柔し、その情報ネットワークを利用して領内から情報収集されることへの防止策でもあったと思われ、相良氏の導入事例を参考に一向宗禁止が決断されたものと推察されます。



建物をのぞくと右手に小さな仏壇があり、その前には賽銭箱も置かれています。

改めて「田島かくれ念仏洞」が今でも仏教施設として存続していることを認識させられます。



鉄柵にデジカメを差入れて撮った地下洞窟です。

階段が取付けられた洞窟は、ほぼ垂直に降り、前方へ掘られているようでしたが、奥の様子は見えませんでした。

江戸時代以前から長く使われていた洞窟にしては余りに簡素なもので、大雨による浸水なども考えられます。

これら二つの洞窟が同じ時期に使われていたとすれば地盤が弱く、大きな洞窟では崩落の危険があったのかも知れません。

いずれにせよ洞窟は極めて小規模で、数名が唱える念仏を外に漏らさない簡易な施設だったように思われます。



「田島かくれ念仏洞」に近い「安楽寺」門前の風景です。

観光案内に「かくれ念仏」の取調べで使われた拷問石があるとされ、訪ねてきたものです。

「日本人の心6」(五木寛之著 講談社)に五木寛之氏と、安楽寺佐々木住職との対談が掲載されており、興味深く読ませて頂きました。

それによると、佐々木住職の五代前のご先祖は、本山(本願寺)から毎年五名ずつ派遣された使僧のひとりだったとされ、「藩境を越えてひそかに薩摩藩に入って、薩摩一円を回ったらしいです。」と話されており、薩摩藩の禁止をかいくぐった布教活動が続いていたことを知りました。



門をくぐると「安楽寺」の本堂がありました。

右手には親鸞聖人の銅像が立っています。

「日本人の心6」(五木寛之著 講談社)に掲載の佐々木住職のお話で、1800年(寛政12)京都の西本願寺の御影堂の大修復が行われ、1万1千両という莫大な金額がかかり、1857年(安政4)まで賦課金(信者への割り当て金?)が続いたと書かれています。

更に佐々木住職は、薩摩藩では「諸県」内場[うちば]五講と「大口」椎茸[しいたけ]講とで合わせて二千六百五十両、なんと24パーセントを、薩摩藩の「隠れ念仏」の信者たちが請け負っていると話されています。

1800年から57年間、賦課金の24%が薩摩藩の北部、諸県・大口地区に割り当てられたとする余りに過酷な話に驚き、本願寺の姿勢に強い疑問を感じました。

江戸時代中期の1754年(宝暦4)、幕府は、薩摩藩の財政弱体化を目的に濃尾平野西部を流れる木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を命じ、約1年間の大工事を完了した薩摩藩では50名以上の自刃者と、膨大な負債を残した歴史がありました。

薩摩藩が西国最大の外様大名だったことによるものと思われますが、西本願寺の御影堂の大修復でも幕府の意向による賦課金割当ての操作があったのでしょうか。



本堂の横にある拷問石です。

台座の上に長方形の石が4枚積まれ、その後方にも1枚置かれているのが見えます。

佐々木住職のお話では「割れ木などの上に正座させて、その膝の上に石を五段まで積んでいった。」とあり、「さらに、石を載せるとごりごり揺すったというんですね。だから、「肉は裂け骨は砕けた」と。」すさまじい拷問の様子が語られています。

又、対談の中で、当地に伝わる「隠れ念仏音頭」二番目の歌詞が紹介されていました。

「薩摩島津のこの村は 血ふき涙の三百年 死罪拷問くりかえす 嵐のなかのお念仏」

自白して拷問から逃れようとしても、地域の「講」の破滅に及ぶことから逃げ場のない拷問に耐えるしかなかったこの地の人々の悲惨な歴史を知りました。

南九州旅行No.18 志布志市「天水氏庭園」と町の散策

2012年08月15日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、5月8日、鹿児島県志布志市の「宝満寺跡」に駐車し、武家屋敷地区の「平山氏庭園」を見学した後、「天水氏庭園」へ向かいました。



「宝満寺跡」の駐車場にあった観光案内図の一部です。

「宝満寺跡」を出発し、「平山氏庭園」「天水氏庭園」(黄色の★印の場所)と歩いて行きました。



カーブの上り坂先に三叉路があり、その上に「天水氏宅」が見えてきました。

道路右手の石垣や、左の家の石塀は、びっしりと緑で覆われ、沖縄でよく見る南国の風景です。



三叉路の突当たりが天水氏の屋敷で、庭園は以外に高く積まれた石垣の上にあるようです。

石垣の上に見える細い竹は、かつて矢の材料とした「矢竹」でしょうか。

三叉路を右に歩き、写真の右端にある門へ向かいました。



天水氏の屋敷に入る門です。

自然の岩盤が露出した斜面に石垣を積み、造成された屋敷のようです。

岩の窪みにしめ縄が掛けられた石の祠が祀られ、何の神様が祀られているのか気になります。



門をくぐり、左手に上った石段の上から見下ろした風景です。

門の内側の二方向が石垣で塞がれ、まるで防御を固めた小さな城の門の様です。

庭園は、門の屋根の庇の高さまで積まれた石垣の高さにあります。



門から続く石段を上がり、右手の石塀に造られた木戸の奥に見えた東側の庭園風景です。

石段を登った辺りで庭を眺めていた時、天水氏の御主人と思われる人が帰って来られ、「こちらも見てください」と教えられたものです。

南側の庭園には面した建物の壁は植木で遮られており、縁側で解放されたこちらが庭園の中心だったようです。

■門の脇にあった案内板です。
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国指定丈化財 天水氏庭園
 種  別  名  勝
 所 在 地  志布志町帖6605番地
 指  定  平成19年7月26日
 管理団件  志布志市
 この庭園は、江戸時代中期に造られた築山枯山水の庭園で、作庭型式は風景式の三尊石組枯滝石組式、庭趣は築山枯山水・借景法で、面積は120平方メートルである。
 作庭者は、この庭園の元所有者村原氏の祖先と推定されている。
 作庭の手法は、自然の大岩盤の上に、貝蝕された海石を築山状に石組(当地方の特徴的な様式でもある)し、それにサツキ・ツツジ・ハクチョウゲ・クチナシ・モミジ等の小灌木を配植し、地被植物としてハラン・ツワプキ・ヤプラン・シダ類等を下草にあしらっている。また植栽生垣の背景には志布志内城を借景として展望することができる。
 築山中央正面の最高部に立てた巨石は枯滝石を象徴して庭園意匠の中核をなし、その背景の常緑広葉樹(ツバキ・アラカシ・サザンカ等)は刈込物として遠山を表象している。
枯滝石の前面には、脇侍石・水分石・鯉魚右等の役石が配せられ、三尊石組枯滝石組の型式をとっている。
 築山の裾中央には大ぶりの富士山形の海石が立てられ、その近くには水盤的な水鉢が置かれている。さらにその左方には小さいながら洞窟石組が2箇所もつくられている。
 築山と在家との間には飛び石が打たれているが、おそらく後からの添作物であり、築庭当初は砂を敷いて枯れ池を象徴Lたものであったと思われる。
 在家の縁先には鮟鱇型或いは司馬温公型に近い手水鉢が自然石の台石3個の上に裾えられている。これは縁側の内外南側から共用できるようになっており、内側からの景観としては、視点より著しく低い位置にあるのであまり目立たず、近景としての効果は薄い。しかし、その傍らに配したシュロチク・クチナシ(以前はツツジ)等の鉢請樹によって鉢前の景色を引き立て、また遠景と相俟って景観により深い奥行きを見せている。
   志布志市
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木戸をくぐり、東側の庭園の右手奥の風景です。

赤いモミジの付近に並ぶ大きな岩は、案内板に「築山中央正面の最高部に立てた巨石は枯滝石を象徴して」とある岩でしょうか。

しかし、案内板に「枯滝石の前面には、脇侍石・水分石・鯉魚右等の役石が配せられ、三尊石組枯滝石組の型式をとっている。」と書かれていても、どの石か分らず、専門用語は予備知識の無い私には理解出来ませんでした。



東側の庭園の奥の高くなった場所から入口の木戸の方向(南側)を見た風景です。

松尾城跡のある南西方向の山を背景に、南の石垣に植えられた竹が重なり、細長い庭に広がりのある空間を感じさせているようです。

南側の庭園とさえぎる石塀に造られた木戸は、城壁に造られた門のようでもあります。

木戸を出て左が門の方向、右に南側の庭園が広がっています。



門から続く石段を上がり、正面に見える南側の庭の風景です。

左側に高く積まれた石垣に向かって庭の斜面が造られ、様々な草木が植えられています。



南側の庭の奥から門のある東方向を見た風景です。

借景した背後の山は、観光案内図にもある「内城跡」で、石垣沿いに植えられた竹や、植木が庭の風景とつながりを持たせているようです。

4ヶ所ある志布志の城郭は、南西の松尾城がもっとも古く、次いで東の内城が築かれたようです。

二つの城郭の中間に突き出た小山に石垣を高く積み、建てられているこの屋敷もこの地を守る戦術的な役割を持っていたのかも知れません。



帰りの道路脇に湧水が流れ出る場所がありました。

 「飲まずには通れない 水がしたゝる 山頭火」

石碑に山頭火の句が刻まれ、志布志の町を行乞[ぎょうこつ]する山頭火が立ち寄って飲んだ湧水かも知れません。

案内図にも志布志の街の各所に湧水が紹介され、山頭火にも讃えられた水のおいしさもこの町の繁栄を支えたものと思われます。

■山頭火の歌碑の案内板です。
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 放浪の俳人・種田山頭火[たねださんとうか]が志布志を訪れたのは、昭和五年の秋のことである。十月十日福島から徒歩志布志に入り、鹿児島屋に二泊滞在しながら街中を行乞[ぎょうこつ]し、十ニ日志布志駅から都城へ向かっている。この間山頭火は四十六の句を詠んでいるが、この旅の日誌『行乞記[ぎょうこつき]・あの山越えて』には、当時の志布志の様子がいきいきと描かれている。
 「究極の美味さとは淡白にあり、その極致は水にある」とされるが、酒を愛しまた水を愛した彼は、別名「水飲み俳人」とも呼ばれ、「きき水」 の達人として各地で名水の秀句を残している。
 日誌の中にその足跡は辿れないが、志布志麓[しぶしふもと]の湧水群[ゆうすいぐん]は彼の心を充分に満足させたであろうと思われる。
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説明文に「福島から徒歩志布志に入り」とある「福島」は、東に隣接する串間市の市街地と思われ、山頭火は海岸の風景を見ながら歩いてこの志布志に来たようです。



山頭火の歌碑から更に南に戻った場所に「鬼塚製茶」があり、立ち寄ってみました。

お店の中で頂いたサービスのお茶がとてもおいしく、湧水でたてられていたのでしょうか。

お茶の栽培、加工、販売と熱心に取り組まれ、隣の奥の建物で加工されているそうです。

お土産の他、自家用に買って帰ったおいしい「宝満茶」を飲むと、志布志での思い出がよみがえってきます。

南九州旅行No.17 志布志市「平山氏庭園」と武家屋敷群

2012年08月11日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、5月8日、鹿児島県志布志市の「宝満寺跡」を見物、車はそのまま駐車場へ置いて前川西岸に広がる武家屋敷地区の散策に出かけました。



「宝満寺跡」の駐車場にあった観光案内図の一部です。

観光案内図には町歩きの4コースが紹介されていましたが、事前に調べていた武家屋敷地区の庭園見学としました。

「前川」の東岸「宝満寺跡」の駐車場を出発、「宝満寺橋」を渡り、「平山氏庭園」「天水氏庭園」(黄色の★印の場所)などを見学するルートです。

案内図には三か所の山にそれぞれ「内城跡」「松尾城跡」「高城跡」があり、南西にある「高城跡」の西隣にも「新城跡」の名が書かれてあり、志布志市街地の城跡は全部で4ヵ所もあるようです。

重要な土地だけに、時代の変遷の中で城の立地も大きく変化していったのでしょうか。




「宝満寺橋」を渡り、直進すると志布志小学校が見えてきました。

たくさんの草花で彩られた道の向こうには大きなクスの木がそびえ、周囲に広がる校庭には子供たちの声が響いていました。

観光案内図では、この場所が「地頭御仮屋跡」とあり、江戸時代に志布志を治める役所「地頭仮屋」があった場所のようです。

江戸時代の薩摩藩では、領内を約110ヶ所の地域に分けて「地頭仮屋」を置き、その周囲に武家屋敷群を配置した「麓[ふもと]」と呼ばれる集落が形成されていました。

「津口番所」の案内板に「前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており、番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び」とあり、ここの辺りから河口まで交易の町並が続いていたようです。

又、「麓」と呼ばれた武家屋敷群は、ここから北の前川沿いや、城に挟まれた二つの谷筋に見られます。

前川河岸の船着き場に近いこの場所に「地頭仮屋」が置かれたのは、この地が重要な交易拠点だったことを物語っているようです。



西側の道に面した門から「平山氏庭園」が見えてきました。

右手の路地は、庭園の南に面しており、その先は志布志小学校の校庭です。

■門の脇に案内板がありました。
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国指定文化財 平山氏庭園
  種別 名勝
  所在地 志布志町帖6390番地
  指定 平成19年7月26日
  管理団体 志布志市
 この庭園は、江戸時代初期に造られた寺院庭園で、作庭型式は風景式、庭趣は自然的岩石園の築山観賞式で、面積は246平方メートルである。
 当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平山家の住宅となっている。
 作庭者は明らかでないが、石峯寺時代の住職が世俗を離れた仏道を修行するための場として自ら想を練り作庭したものと推定されている。
 作庭の手法は、背後に樹林を負い住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし、その上に青々とした山の景観を表象する60数株のサツキ・ツツジ類の小刈込物を配して、深山幽谷の自然を風景的にまとめあげた庭園である。
 荒々しい大岩盤は数段となって豪快な趣があり、稜角は鋭く直線的に延び、正面に岩窟があって宗教的な雰囲気が漂い、見る者を圧してその心に訴える厳しさをもっている。これは修験道の寺庭として、その修行道の厳しさに通ずる表現であると解釈される。
 下段の岩盤には、直径約30cm深さ約2cmの円形穴を掘り込んで満月を表象する斬新な意匠も見られ、その出典は神仙説話により、仏法の悟りの境地を象徴するものとされている。
 庭の西隅には大日如来の化身を象徴するといわれる多宝塔をかたどった灯籠が配されていかにも寺庭らしく、これはまた庭の末端を抑えて引き締め、添景物として利かせた作者の自信を推すに足る。
 植栽は、概ね不等辺三角形の頂点に配植する自然風植栽法をとり、樹石間の美しい釣合を永遠に崩さないように丸刈込みとなし、岩石の直線とよきコントラストもなしている。
 降雨の際には、雨水が岩肌を伝って滝として落ちるような妓巧も凝らされている。」
   志布志市
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門を背にして見た「平山氏庭園」です。

左手の建物の手前に玄関があり、門から続く敷石は、カーブしているようです。

左の木戸を入ると建物西の庭に続いています。



門を入り、左手の木戸の奥を見た風景です。

勝手口の雰囲気が漂う建物西側の庭には、竹で組まれた柵に手入れの良さを感じさせられます。



上段の写真にも少し見えていましたが、門から左手の木戸を入ると大きく枝を張るサボテンの木が立っていました。

南九州以外でも見られるものですが、九州南端に近い志布志で見る大きなサボテンの風景は、南国へ来ている実感が湧いてくるものでした。

後方の建物は、生垣で仕切られた隣家のようです。



南の庭を奥に進み、突き当った辺りの風景です。

巨大な自然の岩盤を巧みに活かしたこの庭一番の風景を客間となる南東の部屋から一望できたようです。

丸く刈り込まれたサツキ・ツツジ類を巧みに配置し、殺伐となりがちな岩盤の風景を趣のある庭園に仕上げているようです。

事前の観光案内情報では、生活されている住宅とされており、ちょっと緊張して門を入りましたが、窓越しに見える家の中はしばらく空き家が続いている様子でした。



敷地南東の岩盤の上から玄関や、門の方向を振り返った風景です。

案内板に「当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平山家の住宅となっている。」とあり、かつての「石峯寺」は歴史の中に消えていました。

志布志市志布志町では明治初期の廃仏毀釈で9ヶ寺が廃寺され(「鹿児島県の廃仏毀釈」名越護著より)、現在、同名の寺が見られるのは「大慈寺」「宝満寺」の2寺で、徹底した廃寺の後の再興には困難な環境が続いていたものと思われます。



敷地南東から建物の東側を見た風景です。

雄大な岩盤の風景が敷地の東側全体に広がっていました。

案内板に「住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし」とある風景は、この場所だったのでしょうか。

数年前、知覧の武家屋敷群の庭園を見て歩きましたが、、ここまで大自然の景観が取り入れられた庭は記憶にありません。

巨岩の割れ目に根を張ったツツジがひっそりと赤い花を咲かせていました。

南九州旅行No.16 志布志市 「宝満寺跡」

2012年08月06日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、5月8日、鹿児島県志布志市の江戸時代までの港の管理施設「津口番所跡」の見学の次は、「前川」を数百メートル遡った対岸の「宝満寺跡」です。




「宝満寺跡」を「前川」の対岸から見た風景です。

赤い欄干の橋を渡ると、左手に広い駐車場となった「宝満寺跡」の境内が広がっています。

「宝満寺跡」の駐車場は、観光コース「志布志町歩き」の起点ともなっており、散策コースの案内板がありました。

志布志の町は、幕府からの「一国一城令」で取り壊された支城周辺に「麓」と呼ばれる薩摩藩の独特の武家屋敷が並ぶ通りがあり、交易で栄えた港町と合わせて三つの観光コースが紹介されていました。

■境内の案内板です。
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鹿児島県指定文化財・史跡第二〇号
宝満寺跡
指 定昭和四二年三月三〇日
管理者志布志町
 明治二年(一八六九)の廃仏棄釈によって廃寺となった秘山密教院宝満寺の遺跡である。
 宝満寺は聖武天皇神亀年中(七二四~七二八)の創建と伝えられ、正和五年(一三一六)院宣を受けた信仙上人英基和尚により再興された勅願寺である。
 元応二年(一三二〇)本山の奈良西大寺より下向安置された本尊如意輪観音は運慶一代の名品といわれ、安産守護の霊仏として奥三州の尊崇を受け、安産の護符を授る新郎新婦のシャンシャン馬の参詣風物もこの地にはじまるとされる。
興国元年(一三四〇)足利直義は日向一の寺として一国一基の塔婆を安置し仏舎利を奉納している。宝満寺はまた古来院参の寺格を有し代々の住職は上京参内して香衣の勅許を受ける名刹であった。
明治二年の廃仏により西海の華と呼ばれた美しい華麗な堂宇や什宝・記録等の一切を焼失したが本堂の敷地跡に旧庭園・石橋・下馬札・隈田原兄弟仁王像・歴代住職墓等を残し、岩窟や背後の自然林と共に往時の繁栄を偲ばせている。
尚、廃寺後も町内有志の仏心講の手により観音堂を建立して宝満寺の観音信仰を現在に伝え、旧四月八日の釈迦祭りは今も盛大な賑いを見せている。
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江戸時代末期の「宝満寺」の鳥瞰図が「三国名勝図会[さんごくめいしょうずえ]」にありました。

「三国名勝図会」は、1843年(天保14)に10代藩主島津斉興[なりおき]の命で編纂された60巻にも及ぶ地誌で、薩摩国・大隅国・日向国(南西部)の三国にまたがる薩摩藩領内の様子がたくさんの挿絵とともに紹介されています。

当時の「宝満寺」は、前川の河畔にあった門を入ると、左手に「本堂」、右手に「鶴ヶ岡八幡宮」が建つ典型的な神仏習合のたたずまいだったようです。

境内の右手には山から流れ出る溝に小さな橋が架かり、そのたもとに朝廷から下賜された「下馬札」(乗馬通行を禁止する立札)が立ち、寺格の高さを伝えているようです。



志布志市の市街地の東を流れる前川沿いの地図で、右上に「宝満寺跡」、少し下流には前回紹介した「津口番所跡」があります。

赤い破線で囲んだ「宝満寺跡」周辺を下の拡大地図に「三国名勝図会[さんごくめいしょうずえ]」を参考にして江戸末期の境内の建物配置イメージを描いてみました。

撮影して帰った写真の場所を調べる時に利用したGoogle地図(ZENRIN)に境内の池や、石段などが詳しく描かれており、当時の様子をもっと知りたく、作成したものです。

又、拡大地図に赤い数字1~10の場所は、以下に掲載した境内の写真の場所を説明するものです。



境内の南側に建つ「隈田原兄弟仁王像」です。(拡大地図の2の場所)

室町時代初期の1363年から島津家は、薩摩国守護職の総州家と、大隅国守護職の奥州家に分割相続され、奥州家に統一される1430年まで争いが続いていたようです。

1401年(応永8)、奥州家に従う新納[にいろ]氏の居城志布志城へ東に隣接する串間から両家の紛争に関わる本田氏が侵攻してきた時、勇敢に戦って戦死した隈田原兄弟を偲び、仁王像とした珍しい石像です。

右手の像は破壊しており、右手の像も長い年月で風化して顔形は無くなっていました。

■境内の案内板です。
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鹿児島県指定文化財 史跡第二〇号
宝満寺跡の史跡案内

庭園
自然林と大岩盤を背景にして、湧水で池をめぐらした室町時代の庭園で一部は旧状のまま残され往時の二石橋がかかる。

隈田原兄弟仁王像
応永八年(一四〇一)の島津家の内乱のとき前川河中て戦死したと伝える隈田原兄弟の武勇を偲んで建立されたもの。

下馬札
朝廷より下賜されたと伝えられるものて勅願所としての寺格をあらわしている。

網掛観音像
海中て網にかかったものを引き上げたと伝えられており、旧永泰寺より移したものである。

宝満寺観音堂
宝満寺の観音信仰は廃寺後も伝承され昭和十一年、仏心講により移したものである。

歴代住職墓地
室町初期から江戸期までの歴代住職墓地群がある。宝満寺最後の住職圓道和尚の墓や逆修塔も見られる。

その他
仏舎利・仏具・圓通闇(大慈寺蔵)・圓道和尚の位牌・六地蔵塔・大師堂・笠祇神社・文殊菩薩堂・笠祇神社遥拝所・日清戦役招魂・戊辰丁丑両戦役戦亡霊能真柱碑・日露戦役忠魂碑・干亀女の話等の民話等が伝承されている。

志布志千軒町草箒いらぬ 花の千亀女の裾で掃く
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境内南端の山裾に大きなクスノキ(拡大地図の3の場所)がそびえる風景です。

かつての庭園の池には石橋が残り、そばに山頭火の歌碑が建てられていました。(拡大地図の4の場所)

歌碑のそばにある案内板によると、昭和5年の10月、行乞する山頭火が志布志の町で詠んだ句は46句にも及んだようで、この町への特別な親しみによるものだったのでしょうか。

■山頭火の歌碑の案内板です。
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家を持たない 秋が ふかくなった
               山頭火

 放浪の俳人・種田山頭火が志布志を訪れたのは、昭和五年の秋のことである。十月十日福島から徒歩志布志に入り、鹿児島屋に二泊滞在しながら街中を行乞し、十二日志布志駅から都城へ向かっている。
この間山頭火は四十六の句を詠んでいるが、この旅の日誌『行乞記・あの山越えて』には当時の志布志の様子がいきいきと描かれでいる。
 酒を愛した山頭火は、きき水の名人でもあった。
旅に明け暮れた一生の中で水を詠んだ句は多く、行く先々で水を味わい、水に心を寄せており、晩年の彼は清澄の心境となっている。

【種田山頭火】本名は正一、明治十五年十二月三日山口県防府市生まれ、生家は大地主。十歳の時に見た母の自殺の衝撃が彼の生涯につきまとった。神経衰弱のため早稲田大学文学部を二年で退学し帰郷、父が始めた酒造業を手伝う。明治四十二年結婚、翌年長男誕生。大正二年荻原井泉水の主宰する自由律俳誌『層雲』に入門、この頃から「山頭火」の号を用いる。大正五年酒造業破産、妻子を連れ能本へ移り、商いをするが生活はすさみ離婚。作句と飲酒の生活となる。
同十三年暮、泥酔で市電を止めるという自殺未遂事件を起こし、見かねた知人が曹洞宗の禅寺に預け、翌年出家する。
 大正十五年九州・中国地方を行乞流転し昭和四年熊本に帰る。翌年九月また旅に出る。同七年から約六年小郡の其中庵に入る。この時期、最も多くのそして長い旅をしている。昭和十五年十月十一日四国松山にて死亡。享年五十九歳。
 没後、その放浪性や脱世俗性、心情や情景を素直に表現した自由律の句が現代人の心に響き、多くの人を惹きつけている。
  志布志市
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大きなクスノキの下に庭園の池が広がる風景です。

山裾の巨岩を抱えるように根を張ったクスノキの姿は、圧倒される迫力です。

巨岩の下には洞窟があり、「岩屋観音」と刻まれた小さな石塔も見られます。



大きなクスノキの北側に続く風景です。

小さな石橋(拡大地図の5の場所)を渡り、石の鳥居をくぐると短い石段が見えます。

石段を登った右手の岩の下にも木の鳥居があり、その奥の岩屋には祠があったのかも知れません。(拡大地図の6の場所)

石の鳥居の左手には石仏が見られ、「三国名勝図会」の絵図では「岩窟」と書かれた場所と思われます。

■上に掲載した「宝満寺跡の史跡案内」にある「千亀女」の民話を見つけました。
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「鹿児島藩の廃仏毀釈」(名越護著 南方新社発行)より
 「如意輪観音像」に関わる民話 
 事実かどうか定かではありませんが、宝満寺のご本尊、如意輪観音像の作者運慶は、この観音像は自身の一生の名作だとしてこの像から離れることができず、後に志布志の地にやってきてこの地で余生を過ごしたと伝えられています。そのご本尊の観音さまは人の心をうっとり引きつけるような美しさだったとされ、これにまつわる哀歌「千亀女[せんがめじょ]の話」が長くこの地方に伝えられています。
 【志布志町誌』によると、昔、志布志の向川原に千亀女という美女がいました。生まれながらの美貌は年頃になると輝くばかりで、「この世に千亀女の上を越す美人はいないだろう」と人々はもてはやし、両親はこの上なく一人娘の美しさを誇りにしていました。ところがそのころ、宝満寺に運慶一生の傑作とされた観音さまがこの地にもたらされました。
 この観音さまの美しさにうたれた人々は感動して、「いかに千亀女でもこの観音さまにはかなうまい」と、口々に話していました。これを聞いた千亀女の両親は、娘可愛さの余り、ある夜密かに観音さまを持ち出して松葉でいぶして汚くしました。「やっぱり千亀女が一番美しい」と人々に言ってもらいたかったからです。
 ところが夜が明けてみると、松葉でいぶしたはずの観音さまはなんともなく、かえって以前より一層美しく輝いて見え、その代わり、可愛い千亀女は一晩のうちに顔に醜い湿疹ができ、足の片方が大きくはれるなど足が不自由になっていました。はれ上がった足を隠すため、裾を長く引いて歩く、その後の千亀女を見て、土地の人々は次のような俗唱を残しています。

 志布志千軒町箒はいらぬ
   花の千亀女が 裾で箒く

 ちなみに宝満寺跡の墓地には「運慶のもの」と言い伝えられている墓石と、悲哀の主人公の「千亀女の墓」がひつそり立っています。問題の如意輪観音像も、廃仏敦釈で破棄されてどうなったのか所在不明です。
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◆鎌倉時代初期の仏師「運慶」の没年は、1224年、宝満寺の再興と、本尊「如意輪観音像」(運慶作)の安置は、92年後の1316年とされており、運慶が「如意輪観音像」を見守るため当地へ移り住み、境内に墓があるとした話は、矛盾があるようです。



更に北に歩くと池は細くなり、「延命橋」と刻まれた石橋があります。(拡大地図の7の場所)

「延命橋」の石柱には褐色になった部分が見られますが、かつての橋が朱色に塗られた跡としたら、緑に映える鮮やかな朱色の橋の風景があったのかも知れません。

橋のたもとに手水鉢と思われる丸い石の鉢が据えられ、「延命橋」は、「三国名勝図会」の絵図に描かれた「文殊堂」への参道だったようです。

「宝満寺」が属する「真言律宗」の開祖「叡尊」と、弟子「忍性」は、「文殊菩薩」を深く信仰し、当時「」と呼ばれて差別されていた人々の救済に取り組んだとされています。

「文殊菩薩」は、貧窮孤独苦悩の人間の姿で行者の前に現れるとされ、「」の中に「文殊菩薩」を見た「叡尊」「忍性」の貧者救済活動は、鎌倉幕府の執権北条時頼からも信頼と崇敬を受けたようです。

「延命橋」の名は、叡尊・忍性たちが浄財を集め、飢えに苦しむ人々に食べ物を施す切実な活動テーマでもあったのかも知れません。



「延命橋」を渡り、北に進むと石段の上に小さなお堂のある岩屋がありました。(拡大地図の8の場所)

「三国名勝図会」の絵図に見られる山裾から屋根が突き出た「文殊堂」があった辺りと思われます。

案内板にもあるように、1869年(明治2)宝満寺は、吹き荒れる廃仏棄釈のあらしの中で破壊されたとされています。

明治の初め、新政府が発布した神仏分離令は、行き過ぎた廃仏毀釈運動になり、全国的に波及していったようです。

とりわけ薩摩藩では明治2年、藩主の菩提寺を含む1,066ヵ寺全てを廃寺とし、2,964人の僧侶を還俗させる徹底したものでした。

1877年(明治10)に勃発した西南戦争は、薩長が主導した明治維新後の旧薩摩藩の地に深い傷を残しましたが、維新直後の廃仏毀釈運動でも多くの人々に過酷な事態がおこっていたことを知りました。



左手の石段は、上段で紹介した「文殊堂跡」へ北から上がる道で、右手には心が和む花が咲いていました。

「三国名勝図会」の絵図にある「鶴ヶ岡八幡宮」は、この辺りに建っていたものと思われます。

かつての本堂には真言律宗の総本山「西大寺」から本尊として「如意輪観音像」(運慶作)が持ち込まれ、境内には鎌倉武士の守護神「鶴岡八幡宮」が勧進されていたことから、民衆への布教や、政治的な面でも志布志が重要な地とされていたことが分ります。

観音堂側の山裾には墓地へ上がる坂道があり、千亀女や、歴代住職の墓と、運慶の供養墓が案内されていました。(拡大地図の10の場所)



「観音堂」前の案内板に描かれていた「お釈迦祭り」のイラストです。

かつての本尊「如意輪観音像」は、安産に霊験あらたかとされ、「お釈迦祭り」では、花嫁を乗せた馬の手綱を花婿が引く「シャンシャン馬」や、稚児行列が町を練り歩き、鹿児島の三大祭りの一つとされているそうです。

■案内板にあったお釈迦祭りの説明文です。
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お釈迦祭りの由来
 花祭り(お釈迦祭り)は、お釈迦さまの誕生日(四月八日)をお祝いする日のことです。正式には潅仏会とも言い各寺院で法会が営まれます。お釈迦さまは、今から約二五〇〇年前ヒマラヤ山脈の麓にあったカビラの国、その国王である釈迦族の浄飯王と摩耶夫人の王子としてお生まれになりました。

 潅仏会の行事は、推古天皇の(六〇六年)頃に誕生会として始まったようです。続日本紀によれば、花御堂に安置したお釈迦さまの仏像に香水(甘茶)を灌ぎかける行事は、平安時代(仁明天皇八三三~八五〇年頃に)、宮中において初めて行なわれたと記されています。

 お釈迦さまに甘茶を灌ぎかけるのは、お釈迦さまの誕生を喜んだ龍王が、天から温かい水と冷たい水の二種類の甘露の雨を降らせたという伝統に因んだものです。
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さわやかな5月の緑に包まれた「宝満寺観音堂」です。(拡大地図の9の場所)

1869年(明治2)に廃寺された後も観音信仰を守り続けた地元の仏心講の人々により1936年(昭和11)に再建されたそうです。

薩摩半島南西端にある坊津の「一乗院」、鹿児島の「慈眼寺」と並び「薩摩三名刺」讃えられた大寺院「宝満寺」の面影は無くなってしまいましたが、鹿児島の三大祭りの一つ「お釈迦祭り」の賑わいに「宝満寺」の信仰の伝統が息づいているようです。


油絵「カサブランカ」

2012年08月04日 | 妻の油絵
妻の油絵「カサブランカ」(F6号)です。


背景色は、花瓶いっぱいに、元気に咲く花からイメージしたそうです。

なぜか「カサブランカ」の花は、女性にとりわけ好まれているようです。

純白のエレガントな花びらの中央に立つメシベは、女王様の自分、周りのオシベは、茶色のジャケットを着た6人の騎士とでも想像しているのでしょうか。

男には分らない世界があるのかも知れません。