9/30 10時頃、観光初日イスタンブールの「グランド・バザール」と、その隣の「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」の見物を終え、「エジプシャン・バザール」へ向かいました。
買い物客でにぎわう「エジプシャン・バザール」の風景です。
頭を黒いスカーフで覆った二人連れの女性は、親子でしょうか。
伝統的なイスラムの黒い服をまとった母、白いストライプの服と、ジーンズでおしゃれに装う娘が仲良くお買いものといった感じです。
外国人観光客で賑わう「グランド・バザール」と違い、鉄道の駅や、港などに近いこの市場は、地元の人に便利な市場のようです。
■「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)より
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エジプシャンバザール(ムスル・チヤルシュ)
イェ二・ジャミイの施設の一部の建物を、1660年に市場に改装したという歴史のあるバザール。トルコ語のムスル・チヤルシュとは「エジプトの市場」の意で、当時、エジプトのカイロで積み立てられた香辛料貿易の税金が建設費用に使われたため、その名があるという。
また、香辛料を扱う店が多かったためスパイス・バザールの別名もある。現在、ハーブやスパイス、食品を扱う店が多く、地元の人でいつも賑わっている。店の数は80余り、クランド・バザールよりも庶民的なので、買い物しやすいという声もある。
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「エジプシャン・バザール」付近の地図です。-「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)に掲載の地図を利用させて頂きました。
ボスフォラス海峡の東西にまたがるイスタンブール、そのヨーロッパ側の金角湾に架かる「ガラタ橋」の南に「エジプシャン・バザール」や、バザールの建物の元となった「イェ二・ジャミイ」があります。
googleマップの航空写真を参考に「エジプシャン・バザール」、「イェ二・ジャミイ」の実物に近い建物の外形を赤色の図にして挿入しています。
「エジプシャン・バザール」は、L字型の建物で、北の入口から入って行きました。
「ガラタ橋」の南には多くの船が出入りする港や、すぐ東には路面電車の「エミノニュ駅」、その南東には国際列車が発着するシルケジ駅があり、西側はエミノニュ広場に隣接するイスタンブール市内でも最も便利の良い場所のようです。
「ガラタ橋」のすぐ東の海岸から「イェニ ジャーミィ」を見た風景です。
目指す「エジプシャン・バザール」は、「イェニ ジャーミィ」の裏です。
「イェニ・ジャーミイ」の右には、「スレイマニエ・ジャーミイ」、写真右端は「リユステム・パシャ・ジャーミイ」です。
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2本のミナレットがそびえる「イェニジャーミイ」の手前には路面電車の「エミノニュ駅」の乗場です。
「ガラタ橋」の東側の海岸から「ガラタ橋」や、対岸の新市街地を見た風景です。
水色の「ガラタ橋」は、車、路面電車、人が通る橋で、写真左側の橋の中央部分は、金角湾の奥へ航行する船舶を通すため跳ね橋になっているようです。
「ガラタ橋」の向こうにそびえるのは、ビザンツ帝国時代の528年に灯台として造られた「ガラタ塔」です。
「ガラタ塔」の東の沖合、ボスフォラス海峡を挟んだ対岸(アジア側)に近い小島にも灯台の機能や、税関の見張り台でもあった「クズ塔(乙女の塔)」があり、両岸でこの海域の航海の安全を支える重要な施設だったものと思われます。
「ガラタ橋」のたもとのエミノニュ広場から「エジプシャン・バザール」へ向かって歩く風景です。
右手の建物が「エジプシャン・バザール」、向こうに「イェニジャーミイ」が見えます。
「エジプシャン・バザール」の建物は、改装工事のためか工事中の仮囲いで覆われ、約350年前の歴史的な建物の姿は見られませんでした。
エミノニュ広場に面した「エジプシャン・バザール」の風景です。
建物の外側にも店が並び、建物の中に劣らず賑わっているようです。
写真は、北の入口から入った「エジプシャン・バザール」の中の風景で、大勢の客でひしめいています。
L字型の長い建物を一往復しましたが、スパイスのお店が目につく他は、グランドバザールとあまり違いが感じられませんでした。
通路両脇の青い柱の上の天井を見ると、工事の仮囲いがあり、ガイドブックで見るアーチ型の天井が見られず、魅力の薄いスポットでした。
スパイスのお店の風景です。
スパイスの知識も少なく、日常生活でなじみがないため、まったく興味が湧きませんでした。
前述のガイドブッツクで、1660年こ造られたとされるこのバザールが「エジプトのカイロで積み立てられた香辛料貿易の税金が建設費用に使われた・・・」とあり、オスマン帝国時代(1299~1922年)のエジプトとの関係を調べてみました。
オスマン帝国がエジプトを征服したのは第9代皇帝セリム1世(在位 1512~1520年)で、ヨーロッパ方面との和平で後方を固め、南のアラブ世界の征服へ乗り出し、1517年に遂にエジプトのカイロを首都とするマムルーク朝(1250~1517年)を倒したとされています。
征服したエジプトからは莫大な富がもたらされ、その蓄積もありこの施設や、様々なスパイスや、農産物がもたらされたものと思われます。
植物の実などの乾燥品を吊るしたお店がありました。
下の陳列品には加工品も見られ、興味をそそられました。
中にトウガラシもあり、これらもスパイスの一種でしょうか。
「エジプシャン・バザール」を奥に進み、左手に出て見えてきた「イェ二・ジャミイ」の風景です。
工事の仮囲いにより風情のなくなったバザールに見飽きて、しばらく「イェ二・ジャミイ」を眺めていました。
地図を見るとドームのある建物は、前回紹介した「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」と同様、キブラ(聖地メッカの方角)とされる南南東に向いています。
■「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)より
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イェニ・ジヤミイ
ガラタ橋のたもとに立つ大きなモスク。1567年(★1597年の間違い)メフメット3世の母后が建築家タバート・マ一に着工を命じ、メフメット4世の時代の1663年に完成。「イェニ」とはトルコ語で「新しい」という意味だ。建築様工ミノ二ユのシンボル的存在式はオスマン・トルコ様式で、中庭の清めの泉はイスタンブールで最も美しいものの一つといわれる。堂内は広く、中央ドームの高さは36m、直径17m。色とりどりのタイルで覆われた壁面装飾も見応えがある。扉の彫刻も見事だ。敷地内にはメフメット4世の霊廟がある。
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★着工を1567年としていますが、母后の夫であるムラト3世の在位が1574年からであり、別のガイドブックより1597年と訂正しました。
「イェ二・ジャミイ」前の広場の左手を見た風景です。
写真右橋は「イェ二・ジャミイ」の建物で、左手に並ぶ店舗は、L字型の内側が広場に面する「エジプシャン・バザール」の北部分です。(地図を参照下さい)
冒頭のガイドブックの記述にあるように「エジプシャン・バザール」は、「イェ二・ジャミイの施設の一部の建物を、1660年に市場に改装した」とあり、イェ二・ジャミイの完成より3年早く造られたようです。
「グランド・バザール」が造られた1461年から約200年、比較的小さな規模ながら利便性の高い場所で、付加価値の高いスパイスを売りにする新しい市場が開設されたことは、イスタンブールの経済にとって明るい話題となったものと思われます。
花壇に囲まれた美しい噴水の後方に堂々たる建物がそびえる風景です。
「エジプシャン・バザール」の開設から3年後、この美しい「イェ二・ジャミイ」の完成によって、この辺りは、一躍人気エリアとなったのかも知れません。
ガイドブックなどによると、モスクの着工が1597年、完成を1663年とすると、66年もの歳月がかかり、工事の中断、火災があったとしています。
しかし、「ブルーモスク」(1609年着工、1616年完成)の工期7年間と比較すると、66年間の中断には深刻な理由があったことがうかがわれます。
「興亡の世界史10オスマン帝国500年の平和」(林佳世子著、講談社発行)によると、この時代、オスマン帝国は、アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがり、世襲の皇帝では統治が困難となったことから、大宰相を中心とした政治体制に移行していたようです。
一方、ハレムの最高権力者である母后「サフィエ・スルタン(1550~1618年)」が政治に無関心となった皇帝に大宰相の選任などへの影響力を持ち、直接的な政治への権力行使までも行ったのが「イェ二・ジャミイ」の着工命令だったものと思われます。
「イェ二・ジャミイ」が工事中断されていた66年間の初期、1593年から1606年までの13年間は、オーストリアのハブスブルク家と「長期戦争」を行っており、オスマン帝国は、ひどい財政危機に陥っていたようです。
更に、新大陸中南米からヨーロッパに持ち帰られた大量の銀の影響などによるインフレや、長く続いたボスフォラス海峡が凍結するほどの寒冷化も帝国財政に深刻な影響を及ぼしていたようです。
その後、1606年にハブスブルク家との長期戦争を終結させ、財政赤字の中で「イェ二・ジャミイ」の建設を中断したまま1609年に「ブルーモスク」を新たに着工しており、深刻な財政赤字を考えると理解出来ないところです。(日本の巨大な財政赤字も心配です)
Wikipediaによると、母后「サフィエ・スルタン(1550~1618年)」は、ヴェネツィア共和国の貴族の娘で、海賊に捕えられ、奴隷として売り飛ばされ、オスマン帝国のハレムに入れられたとされています。
オスマン帝国に敵対するヴェネツィアの娘が皇帝の母后となり、孫の代まで影響を及ぼしたことは、血統にこだわらず、有能で美しい女性を登用していたオスマン帝国のハレムのシステムでしょうか。
サフィエ・スルタンの歴史に中国清朝の西太后や、日本の持統天皇を連想し、世襲による国家権力継承の限界を再認識させられたものです。