昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「初夏の倉敷川」と、ガクアジサイ

2014年11月30日 | 妻の油絵

妻の油絵「初夏の倉敷川」です。

今年6月20日、よく晴れて人もまばらな倉敷美観地区を散策した時の風景です。

商家の前に置かれた緋毛繊の赤色の長椅子と、川辺に咲く紫のアジサイの美しさに魅かれて描いたそうです。

6月初旬に梅雨入りして約半月たった頃、すがすがしい朝の倉敷美観地区でした。



絵に描いたアジサイの写真で、一昨年の6月下旬に撮ったものです。

水面にも映るガクアジサイの清楚な姿が思い浮かびます。



対岸へ行き、そばで撮ったガクアジサイです。

花盛りのガクアジサイ見つめると、実におもしろい姿をしていることに気付きます。



写真下段は、接写したガクアジサイの花で、写真下段は、その一部を拡大したものです。

不思議な花の構造に興味をひかれ、調べてみました。

円盤状のガクアジサイの周囲に大きく開いた花は、「装飾花」と呼ばれる結実しない(実の出来ない)花だそうです。

「装飾花」の花びらと思われる部分は「萼(がく)」が大きくなったものだそうで、写真下段の中央の花には小さなオシベ・メシベも見られますが、実は出来ません。(写真下段の左右の花の中央にはツボミが見られます)

ガクアジサイの円盤状の中央部分にある花は、結実する花で、目立たない、たくさんの小さな花に虫を引き寄せ、受粉を促進させる役割と考えられているようです。

この「ガクアジサイ」の知能的な進化には感心します。



写真は、山歩きで撮った野生のガクアジサイで、上段は開花初期(三次市作木町「常清滝」付近で撮影)、下段は、初秋の道後山(広島県北東部)で、たくさんのガクアジサイの実がなっています。

栽培種「ガクアジサイ」は、この野生種を改良したものとされ、原産国は、日本です。

一般に「アジサイ(セイヨウアジサイ)」と呼ばれる品種は、「ガクアジサイ」の栽培種がヨーロッパへ伝わり、品種改良されたもので、花に結実しないことから挿木で増やすようです。

一つの木に様々な色の花が咲く「セイヨウアジサイ」に魅了される現代の日本、ガクアジサイの清楚な美しさを見つめ直し、日本の伝統文化を思い起こして見たいものです。

トルコ旅行 6 イスタンブールからアンカラまでの風景

2014年11月23日 | 海外旅行
9/30 、トルコ旅行2日目、イスタンブールの観光を終え、ツアーのバスは、宿泊地のアンカラを目指して450Km、約6時間の移動でした。



イスタンブールの旧市街からガラタ橋を渡るバス前方の風景です。

金角湾の入口に架かるガラタ橋の歩道には多くの釣りをする人が見られ、ここは釣りのスポットのようです。

ガラタ橋を渡った新市街を北上し、ボスフォラス大橋をアジアサイドに渡って行きます。(前回掲載の地図をご参照下さい)



地図上段は、イスタンブールからアンカラまでの高速道路を赤い線で表示したもので、地図下段はトルコ旅行8日間の旅程を書き込んだものです。

イスタンブールから首都アンカラへ向かうバスの車窓には、珍しい風景が続き、6時間余りの移動も意外に退屈しませんでした。

この地図にはトルコ東部が表示されていませんが、トルコの国土は783,562平方キロメートルで、日本のほぼ2倍だそうです。

又、現在のトルコの人口は、7,700万人で、30年前の160%と増加傾向が続いており、人口減少が始まった日本から見るとうらやましい気持ちになりますが、国境を接しているイラン、イラク、シリアでの紛争対策や、国境を越えて存在し、移動するクルド人問題もあり、良いことばかりではないようです。

トルコ人ガイドさんも徴兵されて、東部国境の防衛部隊の配属となり、クルド武装勢力との戦いで、多くの同僚を失った話を聞き、防衛について再考する必要性を痛感させられたものです。



イスタンブールの新市街に広がる住宅街の風景です。

1戸建ての多い日本と違い、4~5階建ての集合住宅ばかり並んでおり、写真左下にその一つの拡大写真です。

バスの車窓から見えたトルコの住宅は、郊外から田舎の町まで集合住宅が見られました。

トルコ人ガイドさんの話では、かつては所有権のない土地に一夜で造る違法なバラック建築があふれていたそうです。

田舎から都市へ出ていく人口移動の増加と、住宅供給の不足などが背景だったようですが、新たな住宅供給により次第に解消されているようです。

多階層の集合住宅は、土地の有効利用が出来、建築コストも割安となり、発展途上国トルコの知恵が生み出した住宅スタイルだったようです。



ボスフォラス大橋を渡りアジアサイドの郊外の丘の上にひと際そびえる高層建築が見えてきました。

背の低い左右のビルにはパイプで組まれた白いオブジェがかぶさるように飾られており、中央の高層ビルと合わせた複合的な建物風景がデザインされたのかも知れません。

高いビルの上には建設用のクレーンが見られ、発展していくトルコの勢いを感じる風景でした。



アジアサイドの郊外で見たモスクの風景です。

日本の神社、仏閣のようにトルコの各地には様々なモスクが見られ、珍しさもあり、車窓から見えるモスクの写真を撮っていました。

丘の斜面にひしめく建物も集合住宅ばかりで、区画ごとに同じデザインの建物が造られているように思われます。



緑色のドームに4本の小さな飾りの塔が付けられた素敵なモスクが見えてきました。

ボスフォラス大橋から約30分、高速道路の走行時間から考えると広いスタンブールの町のエリアから出た辺りでしょうか。

背後に見える濃い緑の山は、日本で見かける風景とあまり変わらないものでした。



イスタンブールから約2時間、トイレ休憩で立ち寄ったサパンジャ湖畔にある高速道路サービスエリアのスーパーマーケットの風景です。

店舗の軒先に野菜や、果物、加工食品などが大量に陳列されており、物珍しく見物しました。

イスタンブールの南に広がるマルマラ海の東にはイズミトまで長く入込んだイズミト湾があり、サパンジャ湖はその東にあります。

ところで、イズミト湾に橋を架け、イスタンブールと、南にある都市プルサ(地図上段参照)を結ぶ経路を大幅に短縮するイズミット湾横断橋の工事が日本企業IHI(旧石川島播磨重工業)を中心とする企業グループで受注され、2013年1月に着工、完成予定は、わずか3年後の2016年1月で、世界第4位の吊り橋(中央径間1,550m)となるそうです。

イズミト湾には湾に沿って東西に延びる活断層があり、1999年にはイズミトを震源地として推定4万人以上の死者・行方不明者が出たとされる大地震が発生しています。

IHIは、イスタンブールのボスフォラス海峡に架かる「ファティフ・スルタン・メフメット大橋(第2ボスフォラス大橋)」などでも架橋実績があるようで、阪神淡路大震災の震源地に近い世界第1位の明石海峡大橋(中央径間1,991m)の実績も含めて日本の企業によせるトルコの期待の大きさを感じるものです。



サパンジャ湖から2時間以上走った辺りで見た山村の風景です。

この小さな村にもモスクの白いミナレット(尖塔)が見られ、多くの住宅は1戸建てのようです。

又、内陸に進んで行くと次第に山の緑が少なくなっていきました。



アンカラまで残り1時間余りの付近で見た風景です。

モスクの周囲に工場や、倉庫と思われる建物が見られ、工業団地といっつたところでしょうか。

内陸に入るにしたがって山の緑が少なくなり、この辺りに来ると、平地には緑が見られますが、はげ山の風景が続いていました。

標高約1000mの広大なアナトリアの高地は、年間の最高気温が40度、最低気温がマイナス20度と、厳しい自然環境の中でも産業の育成がなされているようです。



信号待ちのバスから見たアンカラ駅の風景です。

ガイドさんに教えられ撮った写真ですが、人口約440万人の首都にしては意外に小さな駅舎でした。

昼食を食べたイスタンブールのレストランからアンカラのホテルまで約6時間、旅行2日目は終わりです。



トルコ旅行 5 海岸のレストランで食べた「ドネルケバブ」と「トルコアイス」

2014年11月16日 | 海外旅行
9/30 、トルコ旅行2日目、イスタンブールのバザール2ヶ所の観光を終え、海岸のレストランで名物料理の昼食です。



昼食で利用したレストラン「Sur Balik」です。

食べた料理はトルコ名物「ドネルケバブ」でしたが、トルコのアイスクリームもおいしいと案内されたお店です。

道路脇の看板には「Sur Balik」、その下に「Fish Restaurant」と書かれてあり、魚料理が売りのシーサイドレストランといったところでしょうか。

写真左上は看板の上部に描かれたお店のマークで、船の舵のイラストの中に魚がデザインされたオシャレなものです。



ボスフォラス海峡の両側に広がるイスタンブール市街地の地図です。(Excelのオブジェクトで自作したものです)

赤い丸印がレストラン「Sur Balik」で、南にはマルマラ海が広がり、東はボスフォラス海峡の入口です。

マルマラ海は、北のボスフォラス海峡の先にある黒海と、南のダーダネルス海峡の先のエーゲ海の間に横たわる海で、この小さな海域まで正式な海の名がつけられることに感心しました。

青い丸印のAが最初に訪れたグランド・バザール、Bが次に訪れたエジプシャン・バザールです。

又、近くには旅行最終日に訪れたC.ブルーモスク、D.アヤソフィア、E.トプカプ宮殿なども見られます。

赤い破線は、2013年10月29日に開通した海底トンネル地下鉄「マルマライ」で、アジア側の2駅と、ヨーロッパ側の3駅を結ぶ全長13.6Kmの路線だそうです。

トルコ人ガイドさんによると、海底下60mと、世界一深いトンネルだそうで、日本の資金協力や、重要な海底トンネル部分を日本の大成建設の技術で造られており、開通式には安倍首相が出席されたことも報じられたようです。



レストラン「Sur Balik」の前から東を見た風景です。

海の向こうに見えるのはアジアサイドの街並みで、ボスフォラス海峡を通る多くの船舶が見られます。



レストラン「Sur Balik」の前から西を見た風景です。

前の道路は、海岸線に沿って続いており、オスマン帝国時代以前の城壁と、海岸との間を走っています。

この先、約15Km西にはアタテュルク国際空港があり、更に進むとギリシア国境です。

トルコ人ガイドさんの話では、トルコが最も仲が悪い国は、ギリシアだそうで、隣国との問題はいずこも同じようです。



レストラン「Sur Balik」の建物に入り、左手にトルコのアイスクリーム「ドンドゥルマ」の売店がありました。

店に入ると、さっそく店員のおじさんが後ろの植込み台に上がり、長く伸ばしたアイスクリームで、前を通る私たちの気を引こうとしている場面です。

トルコアイス「ドンドゥルマ」は、羊乳と砂糖にラン科の植物「サーレップ」の根から採取したデンプン質の粉を合わせて煮詰め、水分を抜いた後、冷却するとあります。

更に冷やしながら長時間練ることにより粘りを出して長く伸びるようになるようです。

この独特の製法の目的は、品温が上がってもトロけないようにするものと思われ、「ドンドゥルマ」は、トルコの風土から生まれたアイスクリームと言えるようです。



写真は、トルコアイス「ドンドゥルマ」を、を注文し、受け取ろうとする場面です。

店員は、アイスクリームを渡すふりをして様々なパフォーマンスで、客をだまして渡してくれません。

写真(1)は、普通にアイスを渡そうとする場面で、写真(2)は、二重の三角コーンの下側だけ持たされ、アイスを入れた三角コーンを抜き取った場面です。

写真(3)は、アイスの上下にくっつけた三角コーンの下側を持たされた場面で、写真(4)は、アイスが三角コーンの上側にくっついて渡してもらえなかった場面です。

写真(5)は、さんざんじらされた後に、やっと笑顔で渡してくれた場面ですが、周囲は笑い声の連続でした。

この後、私も買いましたが、繰り返される同じようなパフォーマンスでは、感動が薄れてしまい、笑いながらのおつき合いでした。

様々な娯楽があふれる時代、ワンパターンとも思えるこのパフォーマンスを愛し続けるトルコ人の気質に興味がわきます。



トルコの名物料理「ドネルケバブ」と、フライドポテト、ライス(炒めた?)を食べている私を妻が撮ってくれた写真です。

ご飯党の私には「ドネルケバブ」の横に盛られたご飯がうれしく、パサパサした「ドネルケバブ」(牛肉でした)よりおいしく頂いたことが記憶に残っています。

横に置かれたデザートのムースは、同じようなものを旅行先の数ヶ所で頂いたことからトルコではポピュラーな料理と思われます。

又、左のビールの商品名は、トルコで有名な「エフェス(エフェソス)」で、さっぱりとした味が気に入り、これもトルコの各地で飲みました。

「エフェス」は、トルコ西部のエーゲ海に面した都市の名で、旅行6日目、古代ローマ帝国時代の大きな遺跡を見物した町です。



イスタンブールの街中で見たテイクアウトの「ドネルケバブ」のお店です。

バスの車窓から見えたお店で、写真右端は、「ドネルケバブ」の串刺し部分を拡大したものです。

店頭のカウンターに「ドネルケバブ」を置き、注文に応じて削ぎ取るように見えますが、加熱装置が見えないことから店内で焼いているものと思われます。

「ドネルケバブ」の調理方法は、スライスした肉を重ねて大きな串に刺し、回転させながら周囲から焼き、火の通った部分を切り取って食べるもので、世界各地に伝わっているようです。

スライスした肉をフライパンや、網で焼いたものは、広い表面に直接高熱が当たり、油分が出て、水分が減って濃厚なうまみが出てくるように思われますが、この調理法の場合は、蒸した感じになるのかも知れません。

トルコでは「ドネルケバブ」の他、焼き鳥のように串に刺した「シシケバブ」があり、トルコ旅行7日目、再びイスタンブールに戻った夜、ベリーダンスや、民族舞踊を見ながら食べたのを思い出します。

「ケバブ」は、トルコ民族が遊牧民だったことに由来すると考えられ、この料理法が生まれた歴史など知りたいものです。



食事を終え、海岸を西へ約150m歩き、バスのいる駐車場へ近づいた風景です。

左手にはマルマラ海が広がり、道路右側には長い歴史を感じさせられる、かつての城壁がそびえています。

駐車場に見える数台のバスは、レストラン「Sur Balik」で食事をする別のツアーのバスで、この駐車場のお陰で、レストランが繁盛しているようです。



道路右手にそびえる城壁の風景です。

上部には比較的小さな扁平な石が積まれ、下部には方形に整えられた少し大きめな石が規則正しく積まれているようです。

写真には見えませんが、城壁の上に家屋が見られ、城壁は丘の斜面を保護する石垣の様にも思われます。

この城壁は、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス大帝(在位 306~337年)が330年にこの地に遷都した頃に造られたものと思われ、興味深く眺めました。

上の地図に「コンスタンティヌス大帝の城壁」と表示した破線と、そこから東の海岸線に沿ったラインがローマ帝国から、オスマン帝国の時代まで続く帝都の城壁の始まりとされ、左の「テオドシウス2世の城壁」と表示した破線は、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世(在位 408~450年)により西側へ拡張された城壁です。

又、ローマ帝国の遷都以前は、ギリシャの都市「ビュザンティオン」があったとされ、この辺りからガラタ橋を結ぶラインと、その東の海岸線が城壁となっていたようで、この城壁の石の一部も4世紀以前の古代都市の城壁の石だったかも知れません。



城壁に円形の石を見つけて撮った写真です。

規則正しく石が積まれた城壁の右側には不規則に積まれた石積みが見られ、補修された跡のように思われます。

赤い矢印で示した円形の石は、石臼でしょうか、赤い丸印の石も再利用された石と思われ、壊れた城壁を急いで補修した様子が浮かんできます。

1500年以上前からの様々な歴史がこの城壁に刻み込まれているかも知れないと、崩れかけた城壁に化石でも見つけるかのように城壁を見つめていました。

旅行2日目、最初の観光地イスタンブールを後にして、トルコの首都アンカラのホテルまで約6時間のバス移動となりました。

トルコ旅行 4 「エジプシャン・バザール」と「イェ二・ジャミイ」の風景

2014年11月09日 | 海外旅行
9/30 10時頃、観光初日イスタンブールの「グランド・バザール」と、その隣の「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」の見物を終え、「エジプシャン・バザール」へ向かいました。



買い物客でにぎわう「エジプシャン・バザール」の風景です。

頭を黒いスカーフで覆った二人連れの女性は、親子でしょうか。

伝統的なイスラムの黒い服をまとった母、白いストライプの服と、ジーンズでおしゃれに装う娘が仲良くお買いものといった感じです。

外国人観光客で賑わう「グランド・バザール」と違い、鉄道の駅や、港などに近いこの市場は、地元の人に便利な市場のようです。

■「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)より
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エジプシャンバザール(ムスル・チヤルシュ)
イェ二・ジャミイの施設の一部の建物を、1660年に市場に改装したという歴史のあるバザール。トルコ語のムスル・チヤルシュとは「エジプトの市場」の意で、当時、エジプトのカイロで積み立てられた香辛料貿易の税金が建設費用に使われたため、その名があるという。
また、香辛料を扱う店が多かったためスパイス・バザールの別名もある。現在、ハーブやスパイス、食品を扱う店が多く、地元の人でいつも賑わっている。店の数は80余り、クランド・バザールよりも庶民的なので、買い物しやすいという声もある。
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「エジプシャン・バザール」付近の地図です。-「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)に掲載の地図を利用させて頂きました。

ボスフォラス海峡の東西にまたがるイスタンブール、そのヨーロッパ側の金角湾に架かる「ガラタ橋」の南に「エジプシャン・バザール」や、バザールの建物の元となった「イェ二・ジャミイ」があります。

googleマップの航空写真を参考に「エジプシャン・バザール」、「イェ二・ジャミイ」の実物に近い建物の外形を赤色の図にして挿入しています。

「エジプシャン・バザール」は、L字型の建物で、北の入口から入って行きました。

「ガラタ橋」の南には多くの船が出入りする港や、すぐ東には路面電車の「エミノニュ駅」、その南東には国際列車が発着するシルケジ駅があり、西側はエミノニュ広場に隣接するイスタンブール市内でも最も便利の良い場所のようです。



「ガラタ橋」のすぐ東の海岸から「イェニ ジャーミィ」を見た風景です。

目指す「エジプシャン・バザール」は、「イェニ ジャーミィ」の裏です。

「イェニ・ジャーミイ」の右には、「スレイマニエ・ジャーミイ」、写真右端は「リユステム・パシャ・ジャーミイ」です。

2本のミナレットがそびえる「イェニジャーミイ」の手前には路面電車の「エミノニュ駅」の乗場です。



「ガラタ橋」の東側の海岸から「ガラタ橋」や、対岸の新市街地を見た風景です。

水色の「ガラタ橋」は、車、路面電車、人が通る橋で、写真左側の橋の中央部分は、金角湾の奥へ航行する船舶を通すため跳ね橋になっているようです。

「ガラタ橋」の向こうにそびえるのは、ビザンツ帝国時代の528年に灯台として造られた「ガラタ塔」です。

「ガラタ塔」の東の沖合、ボスフォラス海峡を挟んだ対岸(アジア側)に近い小島にも灯台の機能や、税関の見張り台でもあった「クズ塔(乙女の塔)」があり、両岸でこの海域の航海の安全を支える重要な施設だったものと思われます。



「ガラタ橋」のたもとのエミノニュ広場から「エジプシャン・バザール」へ向かって歩く風景です。

右手の建物が「エジプシャン・バザール」、向こうに「イェニジャーミイ」が見えます。

「エジプシャン・バザール」の建物は、改装工事のためか工事中の仮囲いで覆われ、約350年前の歴史的な建物の姿は見られませんでした。



エミノニュ広場に面した「エジプシャン・バザール」の風景です。

建物の外側にも店が並び、建物の中に劣らず賑わっているようです。



写真は、北の入口から入った「エジプシャン・バザール」の中の風景で、大勢の客でひしめいています。

L字型の長い建物を一往復しましたが、スパイスのお店が目につく他は、グランドバザールとあまり違いが感じられませんでした。

通路両脇の青い柱の上の天井を見ると、工事の仮囲いがあり、ガイドブックで見るアーチ型の天井が見られず、魅力の薄いスポットでした。



スパイスのお店の風景です。

スパイスの知識も少なく、日常生活でなじみがないため、まったく興味が湧きませんでした。

前述のガイドブッツクで、1660年こ造られたとされるこのバザールが「エジプトのカイロで積み立てられた香辛料貿易の税金が建設費用に使われた・・・」とあり、オスマン帝国時代(1299~1922年)のエジプトとの関係を調べてみました。

オスマン帝国がエジプトを征服したのは第9代皇帝セリム1世(在位 1512~1520年)で、ヨーロッパ方面との和平で後方を固め、南のアラブ世界の征服へ乗り出し、1517年に遂にエジプトのカイロを首都とするマムルーク朝(1250~1517年)を倒したとされています。

征服したエジプトからは莫大な富がもたらされ、その蓄積もありこの施設や、様々なスパイスや、農産物がもたらされたものと思われます。



植物の実などの乾燥品を吊るしたお店がありました。

下の陳列品には加工品も見られ、興味をそそられました。

中にトウガラシもあり、これらもスパイスの一種でしょうか。



「エジプシャン・バザール」を奥に進み、左手に出て見えてきた「イェ二・ジャミイ」の風景です。

工事の仮囲いにより風情のなくなったバザールに見飽きて、しばらく「イェ二・ジャミイ」を眺めていました。

地図を見るとドームのある建物は、前回紹介した「ヌルオスマニエ・ジャーミイ」と同様、キブラ(聖地メッカの方角)とされる南南東に向いています。

■「ワールドガイド イスタンブール・トルコ」(JTBパブリッシング発行)より
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イェニ・ジヤミイ
ガラタ橋のたもとに立つ大きなモスク。1567年(★1597年の間違い)メフメット3世の母后が建築家タバート・マ一に着工を命じ、メフメット4世の時代の1663年に完成。「イェニ」とはトルコ語で「新しい」という意味だ。建築様工ミノ二ユのシンボル的存在式はオスマン・トルコ様式で、中庭の清めの泉はイスタンブールで最も美しいものの一つといわれる。堂内は広く、中央ドームの高さは36m、直径17m。色とりどりのタイルで覆われた壁面装飾も見応えがある。扉の彫刻も見事だ。敷地内にはメフメット4世の霊廟がある。
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★着工を1567年としていますが、母后の夫であるムラト3世の在位が1574年からであり、別のガイドブックより1597年と訂正しました。



「イェ二・ジャミイ」前の広場の左手を見た風景です。

写真右橋は「イェ二・ジャミイ」の建物で、左手に並ぶ店舗は、L字型の内側が広場に面する「エジプシャン・バザール」の北部分です。(地図を参照下さい)

冒頭のガイドブックの記述にあるように「エジプシャン・バザール」は、「イェ二・ジャミイの施設の一部の建物を、1660年に市場に改装した」とあり、イェ二・ジャミイの完成より3年早く造られたようです。

「グランド・バザール」が造られた1461年から約200年、比較的小さな規模ながら利便性の高い場所で、付加価値の高いスパイスを売りにする新しい市場が開設されたことは、イスタンブールの経済にとって明るい話題となったものと思われます。



花壇に囲まれた美しい噴水の後方に堂々たる建物がそびえる風景です。

「エジプシャン・バザール」の開設から3年後、この美しい「イェ二・ジャミイ」の完成によって、この辺りは、一躍人気エリアとなったのかも知れません。

ガイドブックなどによると、モスクの着工が1597年、完成を1663年とすると、66年もの歳月がかかり、工事の中断、火災があったとしています。

しかし、「ブルーモスク」(1609年着工、1616年完成)の工期7年間と比較すると、66年間の中断には深刻な理由があったことがうかがわれます。

「興亡の世界史10オスマン帝国500年の平和」(林佳世子著、講談社発行)によると、この時代、オスマン帝国は、アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがり、世襲の皇帝では統治が困難となったことから、大宰相を中心とした政治体制に移行していたようです。

一方、ハレムの最高権力者である母后「サフィエ・スルタン(1550~1618年)」が政治に無関心となった皇帝に大宰相の選任などへの影響力を持ち、直接的な政治への権力行使までも行ったのが「イェ二・ジャミイ」の着工命令だったものと思われます。

「イェ二・ジャミイ」が工事中断されていた66年間の初期、1593年から1606年までの13年間は、オーストリアのハブスブルク家と「長期戦争」を行っており、オスマン帝国は、ひどい財政危機に陥っていたようです。

更に、新大陸中南米からヨーロッパに持ち帰られた大量の銀の影響などによるインフレや、長く続いたボスフォラス海峡が凍結するほどの寒冷化も帝国財政に深刻な影響を及ぼしていたようです。

その後、1606年にハブスブルク家との長期戦争を終結させ、財政赤字の中で「イェ二・ジャミイ」の建設を中断したまま1609年に「ブルーモスク」を新たに着工しており、深刻な財政赤字を考えると理解出来ないところです。(日本の巨大な財政赤字も心配です)

Wikipediaによると、母后「サフィエ・スルタン(1550~1618年)」は、ヴェネツィア共和国の貴族の娘で、海賊に捕えられ、奴隷として売り飛ばされ、オスマン帝国のハレムに入れられたとされています。

オスマン帝国に敵対するヴェネツィアの娘が皇帝の母后となり、孫の代まで影響を及ぼしたことは、血統にこだわらず、有能で美しい女性を登用していたオスマン帝国のハレムのシステムでしょうか。

サフィエ・スルタンの歴史に中国清朝の西太后や、日本の持統天皇を連想し、世襲による国家権力継承の限界を再認識させられたものです。

油絵「ばら」

2014年11月01日 | 妻の油絵

妻の油絵「ばら」(F4号)です。

最近の作品の中では一番のお気に入りだそうです。

小さな女の子のようなかわいらしさを感じるこの花は、意外にも人気のツルバラ「ピエール・ド・ロンサール」を花瓶に挿した姿でした。

この人気のツルバラ「ピエール・ド・ロンサール」は、1989年フランスで16世紀のフランスを代表する詩人の名が元になったそうで、この花の美しさが彼の詩に詠まれたバラにふさわしいものだったのかも知れません。

よく散歩する福山市のばら公園でも、花の名称が品種が作られた土地の名や、花のイメージにちなんでいるのを見かけます。

秋のバラが美しく咲く季節、花の姿だけでなく、その名称の由来を想像しながらゆっくりと見て歩くのも楽しいものです。