昔に出会う旅

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イタリア旅行No.18 フィレンツェ 「花の聖母大聖堂」大円蓋の建設

2011年01月31日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、フィレンツェのドゥオーモ「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母大聖堂)」へやってきました。



フィレンツェ「花の聖母大聖堂」のファサードを見上げた風景です。

そびえ立つ巨大なファサードに圧倒されます。

フィレンツェは、毛織物産業の発展で1200年に2.5万人だった人口が、1300年頃には10万人に迫る急成長だったようで、パリ・ヴェネツィア・ミラノ・ナポリと並ぶヨーロッパの五大都市の一つになったそうです。

1296年、手狭になったサンタ・レパラータ大聖堂の場所に新たな大聖堂の建設が計画され、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオにより着工されました。

その後、アルノルフォは数年で死去、1334年後任に選ばれたジョット・ディ・ボンドーネも1337年頃に死去、弟子のアンドレア・ピザーノ(隣の洗礼堂南扉の作者)が引継ぎました。

そして1359年、次に引継いだフランチェスコ・タレンティによりクーポラ部分を除く建物が完成されました。

しかし、残っていた工事は、高さ約50mの建物の上にポッカリと開いた、直径約40mの穴の上に巨大なクーポラ(大円蓋)を載せるもので、当時の技術では技術的に不可能と危惧されていたようです。



花の聖母大聖堂と、その地下に遺構が眠るサンタ・レバラータ大聖堂の平面略図です。

東西の奥行き153m、南北の幅90m、ファサードからの幅38mと大規模な建物で、高さ107mのクーポラ(大円蓋)が完成した1436年には世界最大の教会だったようです。

「サンタ・レバラータ大聖堂」の遺構は建物西側の地下にあり、比べて見ると現在建物の約三分の一の長さです。

「サンタ・レパラータ大聖堂」は、フィレンツェの守護聖人レパラータへの信仰から1128年に建てられたもので、現在のサン・ジョヴァンニ洗礼堂から大聖堂の機能が移されました。

405年、フィレンツェの町が東ゴート王ラダガイススの軍に攻められた時、聖女レパラータが現れて撃退した伝説から町の守護聖人とされ、その記念行事「サンタ・レパラータ祭」は今でも行われているようです。



「花の聖母大聖堂」のファサードの横に「ジョットの鐘楼」がそびえています。

四角形の平面の一辺が約15m、高さ約82mの塔の上には階段で上がることができ、眺めも良いようです。

「ジョットの鐘楼」は、1334年にジョットが着工し、フランチェスコ・タレンティによって25年目の1359年に完成されました。

ジョットは、着工後3年の1337年に亡くなり、鐘楼建設は弟子のアンドレア・ピザーノ(洗礼堂南扉の制作者)に引継がれました。

1350年にはフランチェスコ・タレンティに引き継がれ、三人の建築家により完成されたもので、鐘楼の名称は、設計・着工したジョットにちなんだものと思われます。



「ジョットの鐘楼」の後方にクーポラ(大円蓋)がそびえていました。

この大聖堂のクーポラ部分の工事は、ブルネッレスキにより、約15年の歳月をかけて完成されました。

1402年のサン・ジョヴアン二洗礼堂第2扉のコンクールで敗退したブルネッレスキは、延べ15年間ローマへ滞在し、古代ローマ時代の遺跡の研究から建築技術を学んだようです。

1420年、遂に大聖堂にクーポラ(大円蓋)を載せる工事のコンクールが開催されました。

コンクールの最終審査に残ったのは洗礼堂第二扉のコンクールと同様、ギベルティと、ブルネッレスキでした。

技術的な裏付けのない伝統的な木製の仮枠を使用するギベルティ案に対して、ブルネッレスキ案は、木製の仮枠を使わず、内殻・外殻の二重殻構造で積上げ、屋根自体で支持する工法を考え出しました。

1420年、最終的にブルネッレスキ案が採用され、ライバルだったギベルティを共同責任者として工事が開始されました。

しかし、ギベルティには画期的な建築技術が理解できるわけもなく、1423年には工事の全権をブルネッレスキ一人に委ねることになったようです。



クーポラ(大円蓋)を見上げた風景です。

数人の観光客が見下ろす茶褐色の屋根の上を見てもクーポラの巨大さが分かります。

ブルネッレスキは、効率的に高所へ資材を引上げる巻き上げ機を考案し、多額の報奨金を得たそうです。

歯車を複雑に組み合わせ、牛を動力とする機械だったようで、現代の建築現場にそびえるクレーンの原型ともいえるものだったようです。

東西の奥行き153m、南北の幅90m、ファサードからの幅38mと大規模な建物で、高さ107mのクーポラ(大円蓋)が完成した当時は世界最大の教会だったようです。

クーポラの頂上に見える十字架を載せた黄金の球は、更に30年後の1471年に設置されています。



大聖堂の主祭壇の前の風景です。

おごそかな祭壇の上に美しいステンドグラスが輝き、クーポラからやさしい光が落ちています。

着工から140年を経た1436年3月25日、完成したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式が教皇エウゲニウス四世により行われました。

奇しくも教皇エウゲニウス四世は、前教皇派との対立で二年前からフィレンツェへ亡命しており、その晴れの席にはメディチ家のコジモ・イル・ヴゥッキオ(祖国の父)も列席していました。

1434年までのフィレンツェ共和国は、アルビッツェ家が実権を持つ体制でしたが、ローマ教皇庁の財務管理の業務で台頭するメディチ家を警戒して1433年に当主コジモが追放されました。

しかし、翌1434年にメディチ派によるクーデターが成功し、アルビッツェ家に対する教皇エウゲニウス四世の調停もあり、アルビッツェ派は追放されることとなりました。

メディチ家が初めて共和国政治の実権を持った時期でもありました。



高いクーボラを見上げた風景です。

周囲約40mの巨大な天井には神々しい「最後の審判」(フレスコ画)が描かれています。

八角形のクーポラの下に美しいステンドグラスの丸窓が輝いています。

八ヶ所の窓のステンドグラスにはロレンツォ・ギベルティや、ドナテッロなど聖書を題材とした作品があるようです。



天井に描かれたフレスコ画「最後の審判」です。

1572年からジョルジョ・ヴァザーリによって制作が始まり、その死後を引き継いだフェデリコ・ツッカリにより1579年に完成された作品です。

1541年、バチカン宮殿システィーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの最後の審判が完成した約30年後のことでした。

この大聖堂にフィレンツェ出身の巨匠ミケランジェロが描いた「最後の審判」の世界を再現させようとしたのでしょうか。



サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母大聖堂)のファサードの風景です。

意外にもこのファサードが完成したのは1887年だそうで、クーポラが完成した1436年から約450年後のことでした。

しかし、1059年に完成した「サン・ジョヴアン二洗礼堂」や、1359年に完成した「ジョットの鐘楼」と見比べてみてもまったく違和感がなく、美しい三色の大理石の壁が調和しているようです。

1296年、大聖堂の建設に着工したアルノルフォ・ディ・カンビオは、ファサードから始めて、下部はその頃に造られていたようですが、造り直すためメデイチ家のフランチェスコ一世により撤去されました。

何度かのファサードのコンクールが開催されたようですが、結局決まらないまま数世紀が過ぎて、19世紀になってしまったようです。



ファサードの上を眺めた風景です。

中央に見える像は、キリストを抱く聖母マリアのようです。

町の人々は、広場を見下ろす聖母マリア像を見上げと、見守られている安堵の気持ちを抱いているのでしょうか。

ここファサードは「花の聖母大聖堂」の顔のようです。



ファサードに向かって左側の屋根にミケランジェロのダビデ像が飾られていました。

当然、本物ではないようですが、すぐに目に入ってきました。

ダビデ像は、ミケランジェロ広場や、シ二ョリーア広場で見ましたが、これで三体目です。
 
やはりダビデ像は、フィレンツェの町の象徴のようでした。



「花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)」のファサード前のドゥオーモ広場の北側に十字架が載せられた丸い柱が立っていました。

この柱は、フィレンツェの守護聖人の一人ゼノビウス(サン・ザノービ)が起こしたとされる奇跡を記念して建てられた柱です。

聖ゼノビウスは、フィレンツェの初代司教で、サン・ロレンツォ教会に5世紀初頭に埋葬されていた遺骸を新設のサンタ・レバラータ大聖堂(現ドゥオーモの場所)へ移す時にその奇跡がおこったようです。

運ばれていた聖ゼノビウスの棺が群衆に押されて檎[にれ]の枯木にぶつかると、木はたちまち生き返って緑の葉が茂ったそうです。

その檎の木があった場所がこの場所で、柱の中段を見ると葉が茂った木が描かれていました。

毎年、奇蹟が起きたとされる冬の1月26日には、この柱に花輪が飾られるそうです。

水彩スケッチ「花の聖母大聖堂」

2011年01月27日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「花の聖母大聖堂」です。

初めて訪れたルネサンスの町「フィレンツェ」は、小高いミケランジェロ広場から始まりました。

「花の聖母大聖堂[サンタ・マリア・デル・フィオーレ]」は、広がる町並みの中で、ひと際大きくそびえています。

石造りのドームでは世界最大、優美さも漂うこの褐色のクーポラ(大円蓋)には町の象徴にふさわしい魅力が感じられます。

イタリア旅行No.17 フィレンツェ 「サン・ジョヴアン二洗礼堂」天国の門

2011年01月25日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、「オルサンミケーレ教会」を過ぎ、いよいよ「ドゥオーモ」へ近づいてきました。



カルツァイオリ通りを北へ進み、右手に見えた「ジョットの鐘楼」と、「ドゥオーモ」です。

古代と近代が入り交じったようにも感じる多色大理石の壁が現れた時、不思議な感動を覚えました。



フィレンツェ、「ドゥオーモ」付近の中世の絵地図です。

右下の「オルサンミケーレ教会」から赤い線をたどり、「ドゥオーモ」へ向かいました。

進行方向右手に「ジョットの鐘楼」「ドゥオーモ」と並び、その向いに「サン・ジョヴアン二洗礼堂」があります。

サン・ジョヴァンニは、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ」の名前だそうです。



「ジョットの鐘楼」を背に南東側から見た「サン・ジョヴアン二洗礼堂」です。

建物に向かって左側に南扉、右に東扉が見えます。

壁の白・暗緑色・ピンク三色の大理石で構成する幾何学模様は、その後建設された「ジョットの鐘楼」や、「ドゥオーモ」の壁にも同じ仕様とされたようです。



北西側から見た「サン・ジョヴアン二洗礼堂」です。

建物に向って左の扉が北側で、右の少し突き出た所が西側で、後方に「ジョットの鐘楼」がそびえています。

紀元前1世紀の古代ローマ時代、この場所には軍神マルスの神殿があったと言われています。

四世紀頃になると神殿の上に聖堂が建てられ、九世紀には大聖堂として使われるようになったようです。

1128年、大聖堂は町の人口増加で手狭となり、隣接地に「サンタ・レパラータ聖堂」が建てられ、施設は洗礼堂として使われるようになりました。

又、「サンタ・レパラータ聖堂」の上には現在の「ドゥオーモ」が建てられており、この辺りには、フィレンツェの中心地だった長い歴史がありました。



「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の平面図です。

八角形の建物で、西側が祭壇、北・東・西の三ヶ所に扉があります。

当初、木の扉でしたが、その後青銅に金が塗られた扉に換えられています。

南の第1扉は、1336年にアンドレア・ピサーノが約6年をかけて製作し、当初は東の扉でした。

その扉には四つ葉と、菱形を組合せた28枚の枠に「洗礼者ヨハネの物語」などの浮き彫が描かれています。

北の第2扉、東の第3扉は、ロレンツォ・ ギベルティが1403年から1452年までの約50年間を費やして制作したものです。



これは1402年、洗礼堂第2扉の制作者をコンクールで決することとなり、最終審査まで残り、名勝負を演じた二作品です。

旧約聖書「イサクの犠牲」が主題で、向って左の作品がロレンツォ・ ギベルティ、右がフィリッポ・ブルネッレスキの作品です。

優劣を決めかねたコンクールの委員会は、共同製作を依頼したようですが、ブルネッレスキが辞退して ギベルティに決まったとされています。

14世紀のフィレンツェでは黒死病(ペスト)の大流行が続き、1400年には小さな町で死者1.2万人とすさまじいものだったようです。

洗礼堂第2扉の制作者を決めるコンクールの発表があったのは、その翌年1401年で、前例のない大きな話題性のあるイベントだったようです。

近代まで原因不明だった黒死病に対して、当時のフィレンツェ人々は洗礼堂にすばらしい扉を捧げ、ひたすら神に祈ろうとするものだったのでしょうか。



ツアーの人達と、北側の第2扉を見ている風景です。

1402年のコンクールで選ばれたギベルディの作品がこの扉です。

高さ4.9m、幅2.85mの扉には南の第1扉と同様、四つ葉と菱形を組合せたの枠が、ヨコ4列、タテ7段の28枚並んでいます。

ガイドブックで紹介されていた北扉の上にある三体のブロンズ像が見当たりません。

洗礼者ヨハネ像を挟んで信者のパリサイ人とレヴィ人が並んでいるとされていました。

像があった痕跡と思える壁の黒いシミを見ると修理中だったのでしょうか。



第2扉には新約聖書「キリストの物語」を主題とした場面が描かれています。

浮き彫りを一つ一つ見ると素晴らしいものです。

1403年、製作にとりかかった25才のギベルティがこの扉を完成させた時、46才だったそうで、1424年までの21年間の製作に毛織物商組合から支払われた費用も莫大なものだったと思われます。

上から1段目左に「十字架を担うキリスト」、その右に「磔刑」が見えます。

又、上から5段目左に「受胎告知」、その右には「降誕」と物語のつながりがうかがえます。



「ドゥオーモ」を背にして見る、東側の第3扉です。

扉の上には三体の彫像が並び、ここが洗礼堂の祭壇に向う正面の門扉になります。

ギベルティの第2扉の出来栄えを高く評価し、パトロンの毛織物商組合は、続いて第3扉の制作もギベルティへ依頼したと思われます。

第3扉の制作は、1425年から1452年までの27年間かかり、完成した時のギベルティは74才だったようです。

24才で第2扉コンクールに優勝し、50年間を扉の制作に費やした人生とはどんなものだったのでしょうか。

「旧約聖書の物語」を主題としたこの扉を見たミケランジェロは感嘆して「天国の門」と命名、その名が今日まで続いています。



洗礼堂の東扉、ギベルディ作「天国への門」の上部分の写真です。

第1・2扉とは違い、大きな枠で描かれています。

四つ葉と菱形を組合せたの枠にこだわらず、自由に描くよう依頼したものと思われ、ギベルティは、この扉に新しいルネサンス様式で描いたようです。

以下は絵の内容です
上から1段目左側:人間創造原罪
上から1番目右側:アベルの犠牲 カインのアベル殺し
上から2段目左側:ノアの箱船 ノアの泥水 ノアの犠牲
上から2番目右側:アバラハムの物語 イサクの犠牲
上から3段目左側:ヤコブとエサウの物語
上から3番目右側:ヨゼフと兄弟達



「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の向こうに「花の聖母大聖堂」と呼ばれるドゥオーモがそびえています。

1421年、ギベルディの第2扉の制作が終盤に差しかかっていた頃、大聖堂のクーポラ(大円蓋)部分の建設再開が計画されました。

次回は、第2扉の制作コンクールでギベルディと名勝負を演じたブルネッレスキが活躍する物語になります。

水彩スケッチ「カナル・グランデの風景」

2011年01月22日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「カナル・グランデの風景」です。

ヴェネツィアのリアルト橋から大運河カナル・グランデ(Canal Grande)を見下ろした風景です。

大きくカーブしたカナル・グランデを小さな船が行き交う中、ゴンドラがゆっくりと進んでいます。

高い建物が運河の岸辺にひしめく風景に魅せられてしばらくの間、リアルト橋の上から眺めていました。

イタリア旅行No.16 フィレンツェ、「オルサンミケーレ教会」の守護聖人像

2011年01月20日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、「ヴェッキオ宮殿」、「シ二ョリーア広場」を見た後、次の「ドゥオーモ」(花の聖母大聖堂)へ向いました。



「シ二ョリーア広場」から北へ、カルツァイオリ通りを「ドゥオーモ」へ向って歩いていると左手の建物にブロンズ像が飾られている建物がありました。

一般の建物になぜ彫像が飾られているのかと、一瞬疑問に思う様なたたずまいの「オルサンミケーレ教会」です。

ブロンズ像が飾られている壁面の窪みの名は、「壁龕」[へきがん]で、教会などでよく見かけました。



建物に向って左にあるブロンズ像は、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ像」です。

「洗礼者ヨハネ像」は、当時フレンツェで随一と言われた芸術家ロレンツォ・ギベルティが毛織物商組合の依頼により制作したものです。

13世紀頃からフィレンツェは、様々な同業者組合(アルテ)の代表で構成される平民政府が統治する時代になっていました。

1404年に再建された「オルサンミケーレ教会」の建物外周の壁には14ヶ所の「壁龕」[へきがん]が計画され、費用負担と、制作責任を同業者組合(アルテ)へ割り当てたようです。

又、各同業者組合(アルテ)では、それぞれに自分達を守護する聖人が決められていたようで、その聖人の像を当時の芸術家に注文して作ったものです。



中世フィレンツェの中心地、南の「シ二ョリーア広場」から北の「ドゥオーモ」の範囲の地図です。

「シ二ョリーア広場」から北へ向う赤い矢印のある道が「カルツァイオリ通り」、通りに面した赤い場所が「オルサンミケーレ教会」です。

又、「オルサンミケーレ教会」の少し北の四つ角から西に行くと「レプブリカ広場(共和国広場)」や、赤い□印の場所には凱旋門があります。



「カルツァイオリ通り」に面した「オルサンミケーレ教会」の中央部分です。

この教会には「奇蹟の聖母」と言われる不思議な伝説がありました。

750年から1240年までの約500年間、この場所には「サン・ミケーレ礼拝堂」が建ち、その後、穀物市場になっていたようです。

穀物市場のロッジャ(開廊)の石柱に描かれた聖母像による奇蹟が始まったのは1292年頃からだったそうです。

フィレンツェでは病や怪我が治り、手足の不自由な人も元に戻るなど、町から疫病がなくなったと伝えられています。

その後の火災で「奇蹟の聖母」が消失、1337年に教会は再建されたそうです。

1404年に教会の2・3階を増築して非常時用穀物倉庫としたようで、同業者組合の守護聖人が作られることとなったのがこの時期だったようです。



建物中央の壁龕にあったブロンズ像で、ヴェロッキオが商事裁判所の依頼で制作した「聖トマスの不信」(1483年頃)の像です。

新約聖書に出てくる場面で、復活した「イエス・キリスト」が、イエスの復活が信じられない弟子の一人「トマス」へ磔の時に刺された脇腹の傷を示し、「信じる者になりなさい」と語りかけている場面です。

当初、この壁龕にはグエルファ党が依頼し、ドナテッロが制作した大理石像「トウールーズの聖ルイ」(1423年頃)があり、その後壁龕が商事裁判所へ売却されたようです。



1601年にジャンボローニャが法律家・公証人組合の依頼で制作したブロンズ像「聖ルカ像」です。

この像は、通りに面した壁の向って右にあるで、元はニッコロ・ランベルティが制作した大理石の「聖ルカ像」(現在パルジェッロ国立美術館保存)があったようです。

建物が出来た時代、ブロンズ像は非常に高価で、当初は裕福な毛織物商・両替商・毛織物業の三組合だけだったようです。

さすが、中世から毛織物の生産と、金融で発展したフィレンツェです。



壁龕の横の壁、四ヶ所にこんな飾りが付いていました。

同じ大きさのものですが、それぞれデザインが違っていましたが、いずれも人物像です。



建物の上を撮った写真ですが、三階建ての二階までが写っています。

簡素な建物ですが、壁の飾りがおしゃれです。



壁にフィレンツェの紋章がありました。

百合の花(実際はアイリスの花)をデザインした紋章「フルール・ド・リス」で、中世から国際的通貨として知られるフィレンツェの「フィオリーノ金貨」を連想しました。

「フィオリーノ金貨」にはこの百合の紋章と、フィレンツェの守護聖人「洗礼者ヨハネ」の像が刻印されています。

1252年、平民政府が始まったフィレンツェでは、ヨーロッパ各国に先駆けて純度の高い「フィオリーノ金貨」を発行し、ヨーロッパ各地で高い信頼を得たようです。

毛織物の原料の羊毛をイギリスや、スペインから仕入れ、製品をヨーロッパ、地中海諸国へ販売する広域決済のために考えられたのでしょうか。

金貨は約3.5グラム(5円玉とほぼ同じ)と小さなものだったようですが、フィレンツェの金融業が発展し、ヨーロッパ各地に支店を有するメディチ家などを輩出する基礎になったようです。



「オルサンミケーレ教会」を通り過ぎ、次の四つ角で左を見ると「レプッブリカ(共和国)広場」の凱旋門が見えていました。

1865年から1871年、フィレンツェが統一イタリア王国の首都になった時期があり、その頃に造られたようです。

城壁の大半が撤去され、外周道路となったのもこの頃で、貴族の宮殿や、教会建物の多くも政府機関で使用されたようです。

遷都では、人口約12万人のフィレンツェの町へヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王室約2.5万人が移住することなり、住宅、政府建物の確保は実に大変な準備だったものと思われます。

その後数年で、首都はローマへ遷都されましたが、住民の大きな反対運動もなかったようで、町の落着きを取戻した安堵感がうかがえるようです。



「レプッブリカ(共和国)広場」に立つ高い円柱「豊饒の柱」の上にドナテッロ作「豊饒」像がありました。

これは女神の像でしょうか?

紀元前の古代ローマ時代、フィレンツェは、ローマ帝国の植民都市だったそうで、その時代の町の中心がこの柱の場所だったようです。

古代ローマの都市の設計では、東西、南北、二本の大通りの交差点(フォルム)を中心として町が造られたとされ、円柱の場所が交差点だったようです。



凱旋門の上に書かれていた文の意味が分からず、気になって資料を探してみました。

■「図説フィレンツェ」中嶋浩郎著 河出書房新書より
***************************
太古の市の中心は
長い荒廃の時を経て
かつての栄光を取り戻した
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「太古の市の中心」とは、二本の大通りの交差点(フォルム)のことで、「長い荒廃の時を経て」とは広場が穀物市場に転用されていた時代のことと思われます。

「かつての栄光を取り戻した」とされるこの広場も凱旋門が完成した時には、既に首都はローマに遷都されていたそうです。

通りすがりで見たこの広場にも長い歴史が刻み込まれていました。

水彩スケッチ「アルノ川河畔の城門」

2011年01月18日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「アルノ川河畔の城門」です。

フィレンツェの町の中を流れるアルノ川の南岸に「サン・ニッコロ門」がそびえる風景です。

午後の自由時間にアルノ川の河畔を歩き、ちょっと素敵な風景を見つけました。



14世紀のフィレンツェの絵図です。

図の上まで城壁が続き、河畔にそびえているのが「サン・ニッコロ門」です。

「サン・ニッコロ門」の対岸の建物が「サンタ・クローチェ教会」で、図の下には「ヴェッキオ宮殿」や、「ウッフィツィ美術館」、「ヴェッキオ橋」も見えます。




河畔に立つ場内側(西側)から見た「サン・ニッコロ門」です。

門の上部には三段のアーチが見え、一段目のアーチはトンネルのように突き抜けていました。



場外側(やや東側)から見た「サン・ニッコロ門」です。(上段の写真の裏側です)

門の上部に中世の城の雰囲気が漂っているようです。

門の向こうの山の上に「ミケランジェロ広場」が見えていました。



「ミケランジェロ広場」から北の方向を見ると「サン・ニッコロ門」の上部が見えていました。

対岸には「サンタ・クローチェ教会」が見えます。

「サン・ニッコロ門」は、ややマイナーなスポットですが、中世の町の面影を残す興味ある史跡です。

イタリア旅行No.15 フィレンツェ、アートな空間「シ二ョリーア広場」

2011年01月15日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、「ウフィツィ美術館」の次に、隣の「ヴェッキオ宮殿」と、「シ二ョリーア広場」へ行きました。



「シ二ョリーア広場」から見た「ヴェッキオ宮殿」です。

1314年に完成し、ゴシック様式の外観と、そびえる「アルノルフォの塔」が印象的です。

シニョーリアとは「政庁舎」の意味で、市庁舎だった「ヴェッキオ宮殿」は、共和国時代には「シニョーリア宮殿」と呼ばれていたようです。

1865年には統一イタリアの首都がフィレンツェになり、ローマに遷都されるまでの数年間「ヴェッキオ宮殿」が国会議事堂で使われたこともあったようです。

又、「シ二ョリーア広場」は、フィレンツェの政治の中心地、市民の集会も行われていました。

向かって右に彫像が並ぶ「ランツィのロッジア(loggia-開廊)」の建物、左手には噴水「海神ネプチューンの泉」があり、素晴らしいアートな空間が広がっていました。



両脇に彫像が立つ「ヴェッキオ宮殿」の正面入口です。

左手の彫像は、ミケランジェロの「ダヴィデ像」(1504年完成-レプリカ)で、本物は現在「アカデミア美術館」に収蔵されています。

当初、「ダヴィデ像」の設置場所を横にあるロッジアの中と主張する50歳のレオナルド・ダ・ヴィンチと、この場所を主張する27歳の作者ミケランジェロが対立、遂に主張を通してこの場所になったそうです。

当時のフィレンツェは、メディチ家を追放した直後の共和国で、「ダヴィデ像」は共和国の象徴として称賛されたようです。

十代にメディチ家豪華王ロレンツォに才能を見出されて養育されたミケランジェロは、40代に復活したメディチ家体制を倒そうとする革命軍に加担して失敗、晩年は故郷フィレンツェを離れてしまったようです。

右手はバッチョ・バンディネッリ作の「ヘラクレスとカクス」です。

ローマ神話の中で、巨人カクスに牛を盗まれたヘラクレスが、洞窟に隠れているところを見つけて倒す場面です。



このブロンズ像は、ドナテッロ作の「ユディットとホロフェルネス」で、ユダヤ人女性ユディトが町を包囲する軍の司令官ホロフェルネスの首を切り落とす場面です。

元は上段の写真にあるミケランジェロの「ダヴィデ像」の場所にあったものが移設されたものです。(その前はメディチ家リッカルディ宮殿中庭の噴水彫刻)

ユディットの物語は、旧約聖書外伝にあるそうで、概要は以下の通りです。

ユダヤの町ベトリアがホロフェルネスを司令官とするアッシリア軍に包囲された。
町の女性ユディトは、美しく着飾って敵陣に赴き、エルサレム進軍の道案内をすると安心させ、酒宴で泥酔したホロフェルネスの首を切り落とし、包囲軍を撃退させた。

ユダヤの女性ユディトが、司令官ホロフェルネスの首を切り落とす場面は、このブロンズだけでなく、他の絵画でも凄惨な場面が描かれています。

場所を譲る相手が旧約聖書に登場するユダヤの王「ダヴィデ像」ではユダヤの女性ユディトは抗し切れなかったのでしょうか。

そう言えば、作者ドナテッロのブロンズ像「ダヴィデ像」を思い出しました。

剣を持ち、美しい少女のような少年の像で、若いミケランジェロは、先輩ドナテッロ達のダヴィデのイメージを大きく変える挑戦的な作品に取り組んだものと思われます。



「ヴェッキオ宮殿」の横にある噴水で、バルトロメーオ・アンマナトティ作「海神ネプチューンの泉」です。

コジモ一世が、オスマン帝国に対抗するため、1562年にピサの南リヴォルノ港に海軍を創設し、その記念に作られたようです。

巨大な海神ネプチューン像の足元に四頭の馬が見え、海馬が牽く戦車に乗った姿に見えます。

ネプチューン像の前にある女性のブロンズ像は実に変わったスタイルで、小さな顔、長い首、作られた時代には前衛芸術のようだったのでしょうか。

写真左手の馬に乗るブロンズ像は、ジャンボローニャ作の「コジモー世の騎馬像」です。

1537年、トスカーナ大公となったコジモ一世によりメディチ家は第二期の絶頂期に進んでいきました。



「ヴェッキオ宮殿」に向って右にある「ランツィのロッジア」(1382年完成)です。

建物にはステージがあり、かつては広場で行われる政治的なイベントの舞台となっていたようです。

後方の壁の前には古代ギリシアや、ローマ時代の彫像が並び、その前にルネサンス時代の彫像が並べられています。

ステージや、建物の両脇には素晴らしい彫像が並んでいます。



この三点の彫像は、「シ二ョリーア広場」にあるジャンボローニヤ(1529~1608年)の作品です。

左手の「サピーネの女の略奪」は、女性が不足するローマが隣国サピーネの女を略奪した伝承から作られたもので、一つの大理石から三人を彫ったことが評価されたようです。

中央の彫像は、「ヘラクレスとケンタウロスの戦い」を描いたものです。

これもギリシアかローマ神話に登場する場面と思われます。

射手座の絵にもある上半身が人間、下半身が馬の「ケンタウルス」をゼウスの子ヘラクレスが倒す場面のようです。

右手の彫像は、「海神ネプチューンの泉」写真にもあった「コジモー世の騎馬像」です。

これらジャンボローニヤの作品は、神話などの劇的な場面を強烈な躍動感のある彫像に仕上げ、近くで見上げる者を圧倒します。



ベンヴェヌート・チェッリー作「メドゥーサの首を持つペルセウス」のブロンズ像です。

ギリシア神話で、髪の毛が毒蛇、顔を見た者を石にする怪物メドゥーサをペルセウス(ゼウスの子)が後ろから忍びより倒した場面です。

メドゥーサは、三姉妹の一人で海神ポセイドン(=海神ネプチューン)の愛人とされ、二人の子供もいるだけに神と怪物の区別がよく分からなくなります。



「ヴェッキオ宮殿」に入ると中央に噴水のある中庭があります。



中庭を囲む壁には、風化してよく見えなくなった壁画が並んでいました。

これらの壁画は、コジモ一世の息子フランチェスコに嫁いだオーストリア大公の娘ジョヴァンナ・ダウストリアを慰めるため、オーストリアの風景を描いたものだそうです。

政略結婚で嫁ぎ、慣れない地で郷愁をつのらせていたジョヴァンナを慰めようと気遣う周囲の人達の配慮だったのでしょうか。



中庭の中央にある噴水の上にはヴェッロッキオの「イルカを抱いた天使像」(レプリカ)です。



中庭の噴水の上は吹き抜けになっており、見上げると「ルノルフォの塔」が見えます。

この塔の地面からの高さは、94mだそうです。



「ヴェッキオ宮殿」の裏手に「ウフィツィ美術館」があり、間の通路で上を見上げた写真です。

「ウフィツィ美術館」の東側の棟と、「ヴェッキオ宮殿」は、やはり回廊でつながっていました。

十三世紀に建設され、フィレンツェ共和国時代、フィレンツェ公国時代、統一後のフィレンツェ市庁舎と、これらの建物には様々な歴史が刻みこまれているようです。

水彩スケッチ「シエナ・カンポ広場」

2011年01月14日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「シエナ・カンポ広場」です。

シエナの街の坂道を下りて行くと、太陽に照らされた中世の広場が広がっていました。

見上げると建物の間にクリスマスの飾りが輝き、そびえる鐘楼を美しく飾っているようです。

イタリア トスカーナ地方のシエナの町の「カンポ広場」は本当に忘れられない印象に残る風景でした。

イタリア旅行No.14 フィレンツェ「ウッフィツィ美術館」

2011年01月12日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目朝、フィレンツェの町を一望する「ミケランジェロ広場」から「ウフィツィ美術館」へ向かいました。



ウフィツィ美術館の入場前、中庭で見た風景です。

建物の各柱にはルネッサンス時代に活躍した芸術家の彫像が飾られているようです。

野球選手にとっての野球殿堂のような場所だったのでしょうか。



ウフィツィ美術館の廊下から中庭を見下ろした風景です。

向こうには塔がそびえる「ヴエツキオ宮殿」、その向こうに「ドゥオーモ」のクーポラ(円蓋)が見えています。

美術館は南北に細長い建物が二つ並び、ここ南端部分で接続してU字型になっています。

西の棟の前には高いクレーンがあり、工事中のようです。

古い年代の東側の棟の見学を終えたところですが、やはりボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」「春」の実物を見た感動は大きなものでした。

この付近には展示室がなく、添乗員さんから屋外の撮影は許可されているとのことで撮影することが出来ました。



「ウフィツィ美術館」の南を東西に流れるアルノ川の風景です。

美術館二階から「ヴェッキオ橋」へ向けて二階建の「ヴァザーリ回廊」が伸びているのが見えます。

「ヴァザーリ回廊」は、トスカーナ大公(コジモ1世)の時代の1565年に約半年間で造られたと言われ、私邸の「ピッティー宮殿」から当時政庁だった「ウフィツィ美術館」の建物を通り、旧邸の「ヴェッキオ宮殿」までの約1Kmを結んでいるようです。

「ヴェッキオ橋」の向こうにも四つの橋が見えていました。



昔、購入した本に掲載されていた「フィレンツェ ルネサンス時代」の絵図の一部です。
<ライフ人間世界史 5 ルネサンス (著)タイム社ライフブックス編集部より>

アルノ川の図に向って左下が北、右上が南方向になります。

ウッフィツィ美術館は、コの字型で、川沿いに伸びた回廊はヴェッキオ橋につながっています。

この時代の城壁は南岸まで及び、ミケランジェロ広場近くの川岸からピッティー宮殿を囲み、図の右下辺りまで続いていたようです。

約500年前の絵図で見る建物や、道路が、今でも余り変わらず残っていることに驚きます。

又、絵図全体では北岸の城壁の範囲もたいした広さがなく、ルネッサンス時代の傑出した人材がこの小さな町でなぜ多く輩出されたのかも謎です。



「ヴェッキオ橋」の中央付近の風景です。

橋の上で景色を眺める人達や、橋の脇に突出た家屋が造られています。

頼りなさそうな細い支柱に支えられた棚の上に三階建ての家とは、スリルたっぷりの住み心地に見えてきます。

橋の二階「ヴァザーリ回廊」には700点以上の美術品が展示されているようで、対岸の「ピッティー宮殿」を一般解放した「ピッティー宮殿美術館」にも1000点以上が展示されているようです。

ウフィツィ美術館に展示されている2000点以上の収蔵品を合わせると、メディチ家の資産は途方もなく莫大なものだったようです。

これだけの富を集中させた権力者には反感を持つ人々も多かったと思われ、暗殺の危険を避ける「ヴァザーリ回廊」が半年間で完成させた理由も分かるような気がします。

イタリア旅行No.13 「ミケランジェロ広場」からの眺望

2011年01月08日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、終日イタリア中部の町「フィレンツェ」の観光です。

フィレンツェの市外にあるホテルを出発、9:00頃、小雨模様の「ミケランジェロ広場」へ到着しました。

広場の駐車場に駐車時間の制限があり、警官が監視するとかで、10分程度のあわただしい見物になりました。



フィレンツェの町を一望する「ミケランジェロ広場」に立つ「ダビデ像」です。

「ダビデ像」は、ルネサンスの三大巨匠の一人「ミケランジェロ」(1475~1564年)の代表作の一つですが、本物は「アカデミア美術館」にあり、これはレプリカだそうです。

「ダビデ像」のレプリカは、ヴェッキオ宮殿前のシニョーリア広場などにも立っていました。

写真には観光客が見えませんが、短時間で見物して立ち去る観光客で賑わっていました。



「ミケランジェロ広場」から見下ろしたフィレンツェの町です。

丘の下をアルノ川が流れ、対岸に広がるフィレンツェの町が一望できます。



フィレンツェの観光案内の地図です。

午前中の観光コースは、アルノ川の河畔にある「ウフィッツ美術館」から北へ進み、「ヴェッキオ宮殿」の中庭、「シニョーリア広場」、「ドゥオーモ」と進んで行きました。

午後の自由時間は、妻の絵の風景を探してアルノ川河畔を散策しました。



「ミケランジェロ広場」からひと際大きく見える「ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」です。

八角形のクーポラ(円蓋)の高さは、107m、左手にそびえる「ジョットの鐘楼」は85mと、一望するフィレンツェの町の中ではひと際存在感のある建物です。

この巨大な屋根が完成したのが1468年だそうで、日本では室町時代、応仁の乱が始まった頃と考えると、この建物の壮大さが実感できそうです。



「ミケランジェロ広場」から西を見下ろしたアルノ川河畔の風景です。

アルノ川は、フレンツェの町を東から西に流れ、斜塔で知られるピサ付近でリグリア海へ注いでいます。

右手の塔のある建物は、メディチ家の邸宅「ヴェッキオ宮殿」ですが、見張台のある要塞のようにも見えました。

左手の二階建の橋は、「ヴェッキオ橋」で、「ヴェッキオ宮殿」との間に「ウフィッツイ美術館」の建物があります。

写真には見えませんが「ヴェッキオ橋」の左岸にメディチ家の邸宅が後に建てた「ピッティー宮殿」があり、右岸の「ヴェッキオ宮殿」との間を「ヴェッキオ橋」の二階の回廊で結んでいたようです。

前回掲載した水彩スケッチ「アルノ川の風景」は、この写真の左手部分を描いたものです。



「ミケランジェロ広場」から西を見下ろした「ヴェッキオ橋」南岸の風景です。

こちらにも八角形のクーポラ(円蓋)がそびえていました。

上段の地図にはありませんが、これは河畔近くに建つ「サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会」で、15世紀頃からあった建物にクーポラを増築したのが1689年だそうで、ドゥオーモには及ばないものの、これも歴史的な建物です。

午後からの自由時間の散策で、河畔に建つ「サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会」の風景はとてもすてきなものでした。



「ドゥオーモ」のクーポラの東側に鋭くそびえる塔と、大きな建物が見えます。

これは「サンタ・クローチェ教会」と、その鐘楼で、12世紀後半にゴシック様式で建てられ、ミケランジェロ、ガリレオなどの埋葬場所にもなっているようです。

夕方の帰り道、白く輝く大理石のファサードを見て意外にも新しい建物のように感じました。

ファサードは、1863年に再建されたようで、風雨にさらされた150年の歳月では大理石にたいしたダメージが無かったのかもしれません。

左手の河畔に双塔のある建物が見えますが、国立図書館のようです。



「サンタ・クローチェ教会」よりやや東側で、「ミケランジェロ広場」から北方向の風景です。

茶色の屋根が広がる町の中にコバルトグリーンの円蓋が目に付きます。

少し詳細な観光地図を見ると「ユダヤ教会」のようでした。

中心にある円筒型の建物から四方にかまぼこ型の建物が突き出し、とにかく珍しい建物です。



前から見た「ダビデ像」です。

ダビデは、紀元前千年頃に実在したといわれる古代イスラエル二代目の王と言われています。

旧約聖書に「ダビデ」がペリシテ人の巨人兵士ゴリアテと戦った時、石を投げて額に命中させ、倒した記述があり、まさに石を投げようとする姿だそうです。

周辺の強大な諸国にフィレンツェが立ち向かう姿を、ダビデ像に象徴させて国威を発揚させたようです。

しかし、戦いの前の張りつめたダビデ像の足元に横たわる裸体の像は、ちょっとリラックスし過ぎではないでしょうか。

<2011/2/9追記>
この横臥する四体の像を調べたらメディチ家礼拝堂(サン・ロレンツォ教会の裏)の石棺に載せられたミケランジェロ作の寓意像の複製品のようでした。

向って左の像が「黄昏」、中央が「曙」、右手が「夜」で、裏手には「昼」の像があり、それぞれ素晴らしいものです。



ツアーの人達が見物を終え、急ぎ足でバスへ戻るところです。(今ではなつかしく思い出しますね)

ダビデ像の向こうに一本のイタリア笠松が見えます。

イタリアで見た松は、全て笠の形でしたが、ちょっと不思議な木です。

少し残念な小雨の景色でしたが、フィレンツェの町が一望出来、これから「ウフィッツ美術館」で名画の鑑賞です。

水彩スケッチ「アルノ川の風景」

2011年01月07日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「アルノ川の風景」です。

昨年11月12日、イタリア中部、トスカーナ地方にあるフィレンツェの町を観光をした時のスケッチ画です。

「花の都フィレンツェ」を見下ろす「ミケランジェロ広場」からの風景は、小雨で霞んでいましたが、アルノ川には歴史を感じさせる「ヴェッキオ橋」など数本の橋が続いていました。

この広場からは、花の聖母大聖堂のクーポラや、ヴェッキオ宮殿の塔も見え、絵を描く人にはちょっとしたポイントのようです。

イタリア旅行No.12 中世の塔が林立する町サン・ジミニャーノ

2011年01月03日 | 海外旅行
11/11 イタリア旅行3日目、イタリア中部の町「シエナ」を出発、16:30頃「サン・ジミニャーノ」へ到着しました。

丘の上に見える「サン・ジミニャーノ」には中世に築かれた14本の塔がそびえ、古い建物が続く町並みと合わせて、素敵な中世を味わえる町です。



「サン・ジミニャーノ」の町の南にある城門「サン・ジョヴァンニ門」の横に続く城壁です。

「サン・ジョヴァンニ門」の前は、広い駐車場があり、観光客の多くはここから町に入るようです。

既に陽が傾き始めていましたが、町の観光はこの城門から自由行動で、とりあえず町の中心「ドゥオーモ広場」を目指しました。



城門「サン・ジョヴァンニ門」から北に続く「サン・ジョヴァンニ通り」です。

この「サン・ジョヴァンニ通り」は、ローマから北ヨーロッパを結ぶ「フランチジェナ街道」の一部で、「シエナ」と同様に「サン・ジミニャーノ」が宿場町として発展したようです。

正面にはグロッサの塔[Torre Grossa](高さ54m)が見えて来ます。

グロッサの塔[Torre Grossa]は、これから目指す「ドゥオーモ広場」の南側にある町では最も高い塔です。



サン・ジョヴァンニ通りを北に進むと、通りは右にカーブし、その向こうにロニョーザの塔[Torre Rognosa] と思われる塔が見えてきます。

ロニョーザの塔[Torre Rognosa](高さ51m)は、「ドゥオーモ広場」の東側にある「ボデスタ宮殿」の上にそびえ、グロッサの塔に次いで町で二番目に高い塔です。

手前に見える低い塔は、クニャネージの塔[Torre dei Cugnanesi]で、突当りを斜め右に進んだ「ベッチのアーチ」の左手に建っています。

この地方では、中世からサフラン(花のメシベから採取した香料・染料)が栽培され、その取引でサン・ジミニャーノは大いに栄えたようです。

財を成した商人達は、競って塔を建設し、12世紀頃には72本もの塔が林立したそうです。

前回掲載したシエナの町でも中世には50~60本の塔があったとされ、宮殿の上にそびえる塔の高さは一族の勢力を誇示するものだったようです。



サン・ジョヴァンニ通りがやや右に曲がった坂道の先に12世紀頃の城門だったとされる「ベッチのアーチ」が見えてきます。

その上にそびえるのはベッチの塔[Torre dei Becci]です。

急な傾斜を感じる坂道の上に造られたかつての城門には外敵からの強い防御の工夫がされているようです。

「ベッチのアーチ」をくぐるとその先は「チステルナ広場」、その先に「ドゥオーモ広場」と続きます。

「ベッチのアーチ」をくぐった右手に脇道があり、ちょっと立ち寄ってみました。



「ベッチのアーチ」から建物を東へ抜けると「パレストロ通り」で、眼下にトスカーナの素晴らしい田園風景が広がっていました。

道の先に日本のテレビ撮影のスタッフ(NHK?)が見えます。

「サン・ジョヴァンニ通り」でも見掛け、追い抜きましたが、トイレに立寄った間にここに来ていたようです。

正月番組でイタリアの特集をするそうで、そのための撮影と思われます。



「パレストロ通り」で風景を楽しんでいると「ベッチのアーチ」の方向から二人の神父さん(?)が近づいて来て、下の道に下りて行きました。

初めて見る服装が珍しく、カメラを向けると笑顔が返ってきました。

神父さん(?)の一人は日本人のように見えますが、こんな素敵な町の仕事はいいものでしょうね。



「ドゥオーモ広場」へやってきました。

正面の建物は、「参事会教会」(ドゥオーモ・コッレジャータ)で、その左手にサン・ジョヴァンニ通りから見えていた町で最も高いグロッサの塔[Torre Grossa]がそびえています。

幅の広い階段の上に見える教会のファサードは、極めて簡素なデザインで、「ドゥオーモ広場」の周囲にあるシンプルな塔と、よく調和がとれている様に感じます。

17:00頃、到着しましたが、次第に暗くなってきました。



ドゥオーモ広場の北側にそびえるサルヴィッチの双塔[Torri dei Salvucci]です。

林立する塔の建設に高さの規制が加えられたため、サルヴィッチ家では二本の塔を建て、勢力を誇示しようとしたものと思われます。

ドゥオーモ前の広い石段から見る風景で、建物一階のお店の明りにどこか郷愁を感じるようです。



参事会教会の向かい(東側)の風景です。

高くそびえる塔は、町で二番目に高いロニョーザの塔[Torre Rognosa]で、「ポデスタ宮」の上に造られています。(サン・ジョヴァンニ通りからも見えていました)

左手の低い塔はキージの塔[Torre Chigi]で、建物一階にはおしゃれな店が並んでいました。



帰りに立寄った「ドゥオーモ広場」南隣の「チステルナ広場」北側の建物です。

建物の後方にそびえるのは上段の写真にもあったロニョーザの塔[Torre Rognosa]です。

広場には使われなくなった大きな井戸があり、広場の名称は、「井戸=チステルナ」から名付けられたようです。

13世紀に作られたこの井戸は、雨水を貯める方式で、やはり丘の上では地下水の確保が出来なかったものと思われます。



「チステルナ広場」西側の風景です。

後方の高い塔は、「参事会教会」の横に建つグロッサの塔[Torre Grossa]で、右手がドゥオーモ広場になります。

前に建つ二つの塔は、アルディンゲッリの双塔[Torri degli Ardinghelli]です。

二つの広場の周囲には塔が林立し、最も「サン・ジミニャーノ」らしさを感じました。

「チステルナ広場」は、すっかり暗くなり、素敵な夜の「サン・ジミニャーノ」の姿が見えて来ました。



サン・ジョヴァンニ通りの空に三日月が輝き、観光客や、地元の人達が歩く夕方の風景です。

短い自由時間でしたが、中世を感じる塔の町の風景を堪能出来ました。

「サン・ジミニャーノ」の名物が赤ワインと聞き、集合場所「サン・ジョヴァンニ門」近くのお店で買って帰りました。

2011年賀正 油絵「つばき」 

2011年01月01日 | 妻の油絵

新年 あけましておめでとうございます。

妻の油絵「つばき」です。

毎年、寒い春先に描く花ですが、今回は少し早い時期に描いたようです。

お正月らしく金色の額に入れて撮影しました。

昨年は、沖縄、北海道、イタリアと、あこがれの地に旅行をすることが出来ました。

アイヌの歴史や、西欧史にはまるで知識がありませんでしたが、旅行をして、興味が強くなり、今になって本を読み始めた始末です。

この旅行で何を見てきたのか自問しながら、スローペースで書かせて頂いています。

今年もよろしくお願い申し上げます。