昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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ヌスクマーペー(野底岳)が見えた

2007年06月30日 | 沖縄の旅
玉取崎から国道390号線を少し北に行き、県道79号線を左折して行くと東シナ海沿岸を南に走るコースになります。
県道沿いにパーキングがあったので、ちよっと立ち寄りました。



「野底(ぬすく)岳」が見えました。
この地方で頭にかぶる「クバ傘」のような姿です。
確か山は、南方向に見えていたように記憶しています。
「野底岳」は、石垣島の北部では比較的高い山で、標高282mあるそうです。


「野底岳」周辺の地形です。
頂上付近は、東が比較的なだらかで、西側は、急な斜面になっているようです。

地図中央下から野底岳頂上の東側を通る道があります。
頂上付近まで車で行けるそうで、頂上まで徒歩10~15分だそうです。


「野底岳」を西側から眺めた景色です。
頂上付近が極端な急斜面になっています。
右の山から巨大で、異様なものが覗いているようにも見えます。

実は、この山は地元で「ヌスクマーペー」と呼ばれ、悲しい伝説のある山だそうです。


琉球王朝が薩摩藩の支配を受けていた江戸時代の話です。
「黒島」(石垣島の南西-黄色の島)の一部の人達が、石垣島の「野底村」へ開拓のために強制移住を命じられたそうです。
その中に「マーペー」という名の娘がいました。
「マーペー」には「カニムイ」という名の恋人がいましたが、いつか会えると信じて密林の開拓に働き続けたそうです。
「マーペー」は、日がたつにつれて「カニムイ」に会いたい気持ちが募り、せめて「カニムイ」のいる「黒島」が見たいと村の近くにそびえる「野底岳」へ登ったそうです。
険しい山を登りつめ、「黒島」の方向に見えたものは島の最高峰「於茂登(おもと)岳」でした。
「黒島」が見えないと分かった「マーペー」は、絶望に打ちひしがれてしまいました。

地図を見ると「野底岳」(赤い三角)と、「黒島」(黄色い島)の間に「於茂登岳」が立ちふさがっています。
ちなみに「於茂登岳」は、標高525mで、沖縄県で一番高い山です。


「野底岳に登って黒島が見たい」と言っていた「マーペー」を探して山頂に登った村人たちが山頂で見つけたものは石になった「マーペー」だったそうです。

地元の人達は、「マーペー」を哀れみ、「野底(ぬすく)岳」をいつしか「ヌスク・マーペー」と呼ぶようになったそうです。

写真は、上段の写真の頂上部分を拡大したものですが、頂上付近の岩が、なぜか顔のように見えてきて、とても気になる山です。
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玉取崎展望台

2007年06月28日 | 沖縄の旅
石垣島の景勝地「玉取崎展望台」へ行きました。
あいにく曇りの日が続き、数年前の訪問に続き晴天の美しい海の景色にはお目にかかれませんでした。


「玉取崎展望台」の駐車場近くにある看板です。


赤瓦屋根の展望台へ向かう坂道です。
ハイビスカスの花がやさしく迎えてくれます。
今度、花がもっと咲いている頃に来て見たいものです。


上の地図で、右下の小さな地図は石垣島全体、その中を赤い枠で囲った部分がこの地図全体の範囲です。
中央に走っている道路は国道390号線で、北に行く県道206と、左折して西海岸に行く県道79号線に分かれます。
「玉取崎展望台」から北へ進むと、平久保半島の基点になる「伊原間」で、その中で島が最もくびれた所が「船越(ふなくや)」だそうです。
「船越」は、太平洋から東シナ海まで約300mの短い距離で、昔は船をかついで渡ったそうです。
地元のお祭りでも爬龍(ハーリー)船を担いで歩く行事があるようです。


「玉取崎展望台」から北を見た景色です。
写真の向かって左上に「伊原間湾」(東シナ海)が見えます。
右上には平久保半島が見え、その先にはトムル岬辺りまで見えるようです。
向かって右の海は太平洋で、天気が良かったら手前の赤いハイビスカスと海の色のすばらしいコントラストが見えるのでしよね。


正面やや左の三角形の山は、平久保岬の入口にある山「はんな岳」のようです。
こんな形の山にはなぜか親しみを感じてしまいます。
海岸が最も入り込んだ辺りが「船越」でしょうか。
海にはサンゴ礁がよく発達し、とてもきれいです。


「玉取崎展望台」から北東を見た景色です。
上の写真よりやや右にスライドしたあたりです。
沖にあるサンゴ礁に波が当り、白い波の曲線が続いています。


「玉取崎展望台」から東を見た景色です。
海岸近くの海には大小の岩が見えます。


「玉取崎展望台」から南西方向を見た景色です。
右上の大きな山は、「大野岳」のようです。(下段の地図を参照下さい)


「玉取崎展望台」付近の地図です。
玉取崎の海には、たくさんの岩があるのが分かります。
海岸に行き、間近で見る景色もいいと思いますが、はたして近づけるのかは分かりません。


「玉取崎展望台」から西に下っていく景色です。
正面に見える山は、「金武岳」のようです。(上段の地図を参照下さい)
頂上付近に大きな岩場があり、姿の良い山です。
これが本土の山なら大抵の場合、神社があります。


展望台をその隣の小高い丘から見た景色です。
手前の葉は、ソテツのようです。


展望台の隣の丘に月桃の花が咲いていました。
4月下旬の八重山旅行は、各地で満開の「月桃の花」「テッポウユリ」が楽しめます。
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石垣島 「大野牧場」のおもしろい景色

2007年06月26日 | 沖縄の旅
国道390号を北上し、「玉取崎展望台」まであと2Kmの辺りに「大野牧場」があります。
大きな岩山を背にして山裾に広がる草原にはおもしろい景色があります。



地図の向かって右上に景勝地「玉取崎展望台」があります。
海岸線に沿って国道390号が走っています。
国道390号は、石垣島の石垣港(美崎町)から伊原間まで29.6Kmの区間です。
しかし、国道390号全体は、那覇市の「那覇ふ頭」付近0.6Kmに始まり、宮古島の区間31.4Kmを通り、石垣島に至る経路で、沖縄県の3島にまたがる日本で最も南の国道だそうです。


広い畑の向うに牛舎と、サイロが見えます。(地図左の赤●地点)
右手の山裾に岩山がそびえています。(地図真ん中の赤●地点)


この円筒形のサイロは、「タワーサイロ」と呼ばれ、高さは20m位で、てっぺんまでハシゴが取り付けてあるようです。
サイロは、草を貯蔵・乳酸発酵する施設だそうで、この高いサイロの上までどうやって草を入れるのかチョット見てみたいものです。


牧場の裏山に岩山がそびえています。
なかなか雄大な景色です。
近くに駐車できる場所がないのが少し残念です。


サイロの場所から少し「玉取崎」方向に数百メートルの場所に3本のガジュマルが並んでいます。。(地図右の赤●地点)
その後ろには上の写真にもある岩山がそびえています。


上の3本並んだガジュマルの向かって左の木です。
積み重ねた大きな岩の上にガジュマルが乗っかるように生えています。
目の前にすると強い迫力を感じます。
ガジュマルは、「しめ殺し」の木で有名な「アコウ」と同じクワ科イチジク属ですが、私には違いがよく分かりません。


上の木を右に回り込んだ所にヒージャー(山羊)の親子がいました。


3本並んだ右の2本の木です。
やはり重ねられた岩の上に生えています。
もしかしてこれらの岩は、津波石ではないでしょうか。
2007-05-23に掲載した「伊原間海岸」の津波石の少し南の海岸に近く、可能性は高いようです。


3本並んだ木より向かって右手にあった木です。
岩の上に生えている木が、強い風に吹かれているような姿で、とても強い印象を受けました。
写真右上の牧場の中に住宅が見えています。


草原の中でたくさんの牛がのんびりと草を食べています。
この一帯の景色を活かして観光牧場などをすると喜ばれるのではないでしょうか。


そういえば前日の夜石垣市街で「石垣牛のあぶり寿司」を戴きました。
このような健康的な草原で育った牛は美味しく、体にも良いのでしょうね。
石垣牛さん、ごちそうさまでした。
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石垣島 星野の「人魚伝説」

2007年06月25日 | 沖縄の旅
八重山旅行の最後の日、石垣島の観光をしました。
朝、8:30頃ホテルを出発、玉取崎を目指しました。


国道390号線を北上、星野集落の少し手前に「人魚の里 石垣島産コーヒー」のお店がありました。
コーラルピンクの色をした壁の建物です。
石垣島で自家栽培したおいしいコーヒーが飲めるお店のようです。


お店の入口の横に無人販売の店もありました。
朝9:00頃でコーヒー店はまだ営業されていないようでしたが立ち寄ってみました。
「島ラッキョウ」「ミニトマト」「ピーマン」「ニンジン」などの野菜がありました。
その他に「サーターアンダギー」丸い容器に入った「塩モズク」、トレイに入ったきれいな海草もありました。
お土産に「島ラッキョウ」「塩モズク」を買っていたら、お店の奥さんが犬の散歩に出かけるようでした。
たずねると、きれいな海草の名は、「スーナ」で、湯通ししてサラダなどで食べるようでした。
形は、枝サンゴのようで、色は、薄い紫・緑でしたが、きれいだったので買いました。(味はほとんどなく、コリコリした食感を楽しむものでした)
モズクや、島ラッキョウも家に帰り、泡盛を飲みながらおいしく頂きました。


お店の名前「人魚の里」は、この辺りの古い伝説にちなんだものと思われます。
昔、野原村(現在なし-星野の近く)の漁師が釣をしていると突然大きな獲物がかかり、釣上げてみたら人魚だったそうです。
人魚は、必死に助けを求め、「助けてくれたら海の秘密を教えます」と言ったそうです。
漁師は人魚を助けてやり、海の秘密を聞いたそうです。
それは「明日の朝、大津波が来る」というものでした。
漁師は、野原村に帰って村人に伝え、皆で高い山に避難したそうです。
又、このことを隣の白保村にも教えようと、急いで伝えたそうです。
しかし、白保村の人々は人魚の話を信用せず、避難しなかったそうです。
翌朝8時頃、大津波が発生し、海岸沿いの村々は大津波に呑み込まれてしまいました。
これが1771年におこった明和の大津波だったということです。
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西表大原港に津波石?

2007年06月24日 | 沖縄の旅
西表の観光を終え、大原港での待ち時間に周辺を散策してみました。



仲間橋の欄干の親柱の上に「イリオモテヤマネコ」の像が作られています。
向かいのネコを見ているのでしょうか。


向かいの「イリオモテヤマネコ」の像です。
なぜかずいぶん太めの体型に作られていますね。


大原港(仲間港)の待合い施設「なかまりん」です。
レンタカー会社の人に送って頂きました。


「なかまりん」の駐車場の端の歩道沿いに、大きな岩を見つけました。
駐車場の歩道を奥に向いて撮ったものです。


岩の高さは3mくらいあったと思います。
岩の上には松などの木が生えています。


上の写真の横にも大きな岩が二つ並んでいます。
この岩の上にも木が元気に育っています。


上の二つの岩の右の方を近づいて撮ったものです。
いわの向うの一段高い所に集落があるようです。


駐車場の入口方向に向いて撮ったものです。
岩の高さは4m以上あったようです。
こんな大きな岩がなぜここにあるのか考えてみました。


これらの岩が「明和の大津波」によるものではないか調べてみました。
地図の下部に震源地(北緯24.0度、東経124.3度)があります。
震源地から各地へ向かった矢印の色は赤色の矢印が80%の死者、緑色の矢印はほとんど死者がなかった、黄色の矢印は15~40%の死者がでた場所です。
西表島では⑦の矢印、古見村の被害が最も多く、約151名(18%)出ています。
⑧の矢印が大原港への津波の進行と思われますが、ほとんど死者が出ていません。

震源地と、津波の発生原因・発生場所が必ずしも同じとは限らないことも考えられます。
又、津波の強さと、被害の大きさが防風林などの関係で比例しない可能性もあり、なかなか素人には判断できないことが分かりました。

しかし、この岩が、海岸に打上げられ、内陸深くまで打上げられた石垣島の 大浜の津波石 と比べて被害の程度とは余り矛盾しないと考え、これらの岩を津波石と推定しました。


西表観光が終わり、石垣島に向けて出航です。
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西表島でちょっと立ち寄ったスポット②

2007年06月23日 | 沖縄の旅
西表島でちょっと立ち寄ったスポットの続きです。
野原崎付近から、県道の南の終点南風見田の浜の手前までのエリアのスポットです。


野原崎近くで牛が放牧されていました。
近くに行くと、シラサギのような鳥が5~6羽飛び立っていきました。
八重山では、頭や羽の一部がベージュ色の「アマサギ」が、放牧されている牛のそばに群がっている風景を目にします。
牛の体に付いた虫を食べることで共生関係になるのでしょうか。


西表島の東端「野原崎」のすぐ沖に浮かぶ「ウ離島(うばなりじま)」という無人島だそうです。
昔は、放牧や、畑を作っていたようですが、今はほとんど利用されていないようです。
海外から安い食糧が輸入出来る時代が続き、日本全国に耕作されなくなった土地がかなり増えているようです。
これからは世界的に資源や、食糧が高くなり、今のような時代は急速に変わっていくものと思われます。


後良川(しいらがわ)ロードパークに立ち寄りました。
橋のたもとに駐車場があり、ちょっと高くなった建物と、その手前に小さな石碑がふたつ並んでいます。
「古見(くん)ぬ浦節」「矼(はし)ゆば節」の歌碑です。


後良川橋から上流を見た景色です。
マングローブが後良川の上流のはるか山の奥まで続いています。
橋の下には足のような根を長く伸ばしているヤエヤマヒルギがびっしりと並んで生えています。


後良川橋から下流を見た景色です。
この先に「相良川」の河口もあるようです。


後良川を後に、古見集落を過ぎると「前良川(まいらがわ)」があります。
「前良川(まいらがわ)」橋から川の上流を見た景色です。
川幅が広く、水量もあり、川の雄大さを感じます。


「前良川(まいらがわ)」の少し上流をズームで撮った景色です。
中央の丸く高くなった山と、川の流れを重ねた風景は堂々としています。
地図で見ると写真中央辺りに西表島の最高峰「古見岳」が見えるはずですが、霞がかかってよく分かりませんでした。


道路標識に「古見のサキシマスオウノキ群落」とあり、立ち寄っていました。
鳥居の奥の正面に御嶽が見え、小さな石碑がありました。
正面の御嶽は、三離御嶽(みちゃりうたき)だそうです。
この裏手に行けばサキシマスオウノキ群落があるようですが、ちょっと気が引けて止めました。


鳥居を過ぎて左側にサキシマスオウノキがありました。
大きな板根がついています。


裏から見た板根です。
板根は、土壌の浅い場所でも大木を支える大変うまく出来た構造をしています。
昔は船の舵などに利用されたそうです。


仲間川に近づいた辺りの道路脇に松の大木が並んでいました。
リュウキュウマツのようです。
沖縄では道路脇で松の大木をあまり見かけませんが、これはりっぱです。


たしか南風見田の浜へ行く途中にあったパイナップル畑の景色です。
パイナップルがとてもよく育ち、収穫をしているようです。
みかん畑で「みかん狩り」の経験はありますが、「パイナップル狩り」をして見てもいいですね。
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西表島でちょっと立ち寄ったスポット①

2007年06月22日 | 沖縄の旅
西表島でちょっと立ち寄ったスポットをまとめました。
県道の起点西表島の北にある「白浜」から時計回りの順で案内します。



西表島の県道の突き当たりに白浜小学校がありました。
門の左の木は、デイゴで、赤い花が少し咲いていました。
学校の前は海で、白浜港が見えます。


白浜港です。最近、施設を整備したようです。
ここから西表島のいちばん西にある集落「舟浮」まで船で10分、1日4~5便あるそうです。
今度西表島旅行の時には、「舟浮」はぜひ行きたいスポットです。


祖納の集落から山の上に登る車道があり、行ってみました。
ちょっとした公園になっているようです。


山の上から見えた祖納の海の景色です。
瀬戸内海のおだやかな海のようでした。


船浦湾の真ん中を突き抜けている道路を走っている景色です。
両側に水辺が広がっています。


船浦橋の東に駐車場があり、干潮の干潟を見物しました。
広い湾が一面に干上がっています。


船浦湾の西を見た景色です。
写真にはありませんが、カヌーが数隻置かれていました。
満潮になれば湾内のピナイサーラの滝などの見物でもするのでしょうか?


船浦橋の駐車場にあった表示板です。
スタンド式の看板の形は、「サキシマスオウノキ」です。
カンムリワシ・イリオモテヤマネコの像が付いて「西表自然休養林 九州森林管理局」とあります。


船浦橋を過ぎて数百メートルするとナダラ橋があります。
船浦湾の東にそそぎ込むナダラ川に架かる橋です。


ナダラ川のマングーロブの水辺に白い大きな鳥がいましたが、「ダイサギ」でしょうか?
ゆっくりと歩きエサを探しているようでした。



ナダラ川のマングーロブは、「ヤエヤマヒルギ」が繁殖しています。
小高い山には大きな「リュウキュウマツ」が見えます。
ナダラ橋のたもとの海側の山にも大きな「リュウキュウマツ」がそびえているのが県道から見えます。


道路脇の斜面に「ハナチョウジ」がたくさん咲いていました。
高さ4~5mの幅で、少なくとも50m以上は続く「ハナチョウジ」のフラワーロードといった感じです。
道路工事の斜面を護るために植えられているようです。
大見謝ロードパークから県道を東に走った所にありました。
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南風見田の浜での時間

2007年06月21日 | 沖縄の旅
西表島の南にある「南風見田の浜(はえみだのはま)」へ行きました。
大原港からの船の出発時刻までの時間をゆっくりと過ごしました。


西表島の地図です。
大原港から海岸沿いに走ると「南風見田の浜(はえみだのはま)」です。
地図では途中の道がありませんが、舗装された道が続いています。


「南風見田の浜」に近づいた辺りで、サトウキビ畑、パイナップ畑が見えています。
この一帯は、右手の山と、左手の浜辺との間が畑になっている景色が数キロ続いています。



「南風見田の浜」に入り、東を見た景色です。
茂みの間を抜けて浜辺に入ると白い砂浜、青い海が広がっていました。
一面にハマヒルガオが生えています。
他の場所では、ハマヒルガオの花を見かけました。


東を見た景色ですが、長い砂浜が続いています。
白い流木が砂浜に打上げられていました。
とにかく静かなビーチで、気持ちが落ち着きます。

この先には「忘勿石」(わすれないし)と言う石碑があります。
太平洋戦争の終わり頃、波照間島の島民は、西表島に集団疎開させられたようです。
多くの人が西表島でマラリアにかかり死んでいったそうです。
戦後、波照間島を望むこの南風見田の浜に慰霊碑「忘勿石」を建て亡くなった人の冥福を祈っているそうです。


浜辺から海を見ていたら沖にこんなものが見えました。(デジカメのズームで撮影)
船でしょうか?岩に作られた灯台のようなものでしょうか?
まさか最南端の島「波照間島(はてるまじま)」?


浜辺から西を見た景色です。
妻が、砂浜の貝殻を探して歩いていました。


海岸の西を見た景色です。
砂浜が途切れた辺りは岩場があるようです。


砂浜から後ろの山を見た景色です。
建物がありましたが、何かわかりません。


砂浜にサンゴのかけらが、たくさんあります。



ヤドカリの足跡のようです、
足跡は、ハマヒルガオの茂みに入り込んでいました。


砂浜から帰る茂みの間の道に蝶がたくさん飛んでいました。
これは「スジグロカバマダラ」のようです。


この蝶もたくさんいました。
「リュウキュウアサギマダラ」のようです。
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「イリオモテヤマネコ」の見学

2007年06月20日 | 沖縄の旅
西表島では「イリオモテヤマネコ」「山猫」のネーミングは、レンタカー・民宿・土産のお菓子、ぬいぐるみなどであふれています。
その「イリオモテヤマネコ」が展示されている西表島古見の「西表野生生物保護センター」へ行きました。
西表島の東部、後良川に架かる後良橋の少し北を内陸側へ入った場所にあります。


「西表野生生物保護センター」の施設案内です。
環境省の施設ですが、町のミニ博物館と言った感じです。


館内に展示してある「イリオモテヤマネコ」の剥製がありました。

1967年、国立科学博物館動物部長の今泉吉典が、生捕の野生ネコが新種のネコであると学会で発表、一躍「20世紀最大の生物学的発見」のニュースとして報道されたようです。
「イリオモテヤマネコ」は、学術的な研究・分類がされていなかっただけで地元の人には知られた存在だったようです。
約20万年の昔、八重山の島々は大陸と離れたそうです。
大陸に住む「ベンガルヤマネコ」が、この西表島で独自の適応・進化をして「イリオモテヤマネコ」となったと考えられています。


■イリオモテヤマネコのパネル説明を転記します。
「イリオモテヤマネコとは」
イリオモテヤマネコが発見されたのは1965年のことですが、島では昔から「ヤママヤー」「ヤマビカリャー」という名で知られていました。現在の生息数は、100頭ほどで、絶滅に瀕していることから、国内稀少性動植物種や特別天然記念物に指定されています。
ヤマネコの生息地は、標高200mイカの地域で、河口付近にあるサガリバナやマングローブなどの湿地林、内陸では川に沿って生息しています。食生活はバラエティに富んでおり、コオロギからイノシシまで多種多様なものを狩って食べます。活動のピークは朝と夕方、活動パターンは季節によって変化します。決まったねぐらはなく木にあいた穴や岩穴で眠ります。また、ヤマネコは木登りや泳ぎも得意です。


リュウキュウイノシシの剥製がありました。
「リュウキュウイノシシ」については2007-06-02由布島の観光に記載していますが、由布島の「リュウキュウイノシシ」は、塀の中で自由に歩き回っていて、半分やじ馬気分で見てしまいます。
剥製を見るとちょっと厳粛で、アカデミックな気分になります。


鳥の剥製が並んでいました。
中央の二羽が「カンムリワシ」のようです。
「カンムリワシ」は、国の特別天然記念物、国内希少野生動植物で、八重山だけに生息するタカ目タカ科の鳥です。
現在の生息数は、約100羽と減少しており、絶滅が心配されています。

「カンムリワシ」と聞くと、元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高を思い出します。
「カンムリワシ」の異名を持ち、出身地「石垣島」を一躍有名にした実に偉大なボクサーでした。


西表島の県道を走ると、イリオモテヤマネコの絵が描かれた看板をよく目にします。


こんな看板です。
「イリオモテヤマネコ とびだし注意」と書かれ、支柱に環境省の名が書かれています。
「カンムリワシ」もよく交通事故の被害にあうそうで、一緒に書いてやって欲しいと思います。


「イリオモテヤマネコ」のいろいろな姿の剥製がありました。
見た目には家猫と毛の色が違う程度しか分かりませんが、生態はかなり違うようです。


「イリオモテヤマネコ」の骨の標本がありました。
日本の山猫は、「イリオモテヤマネコ」の他、対馬の「ツシマヤマネコ」の二種だそうです。
最近の遺伝子分析では、二種ともアジア大陸のベンガルヤマネコと近い種類とされているようです。

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大見謝川の展望台から見えた「鳩間島」

2007年06月19日 | 沖縄の旅
「大見謝(おおみじゃ)ロードパーク」に立ち寄りました。
大見謝川は、河口まで岩の川底が続く、小さいながらもちょっと変わった川です。


右下の地図は、西表島の地図で、□部分が全体の拡大地図です。
「西表島」の北には小さな「鳩間島」があります。
大見謝川の他、ゲータ川、ヨシケラ川が並んでいます。


県道沿いに大見謝ロードパークの駐車場があり、こんな案内板がありました。
向かって右は、「マングローブ散策路」(ヨシケラ川)になっています。
左の展望台、大見謝川に行ってみました。


展望台の建物です。
向かって左の階段付近から大見謝川へ下りる道があります。


展望台から東を見た景色で、右の岸辺にはマングローブが続いているようです。
向うには「赤離島」が見えています。


展望台から見た大見謝川の河口の景色です。
向かって右の水平線上にかすかに見えるのは鳩間島のようです。(上の地図参照)

昔、西表島に「マラリア」という恐ろしい病気があった頃、西表島の農耕は、周辺の離島からサバニ(舟)で通って行われていたそうです。
大見謝川周辺の農耕も鳩間島の人達が来て行っていたようです。

又、祖納の豪族「慶来慶田城用緒」も祖納の南西沖にある「外離島」から移住したと伝えられています。
竹富島の西桟橋からも西表島に渡って農耕を行っていたことはよく知られています。


展望台から内陸方向を見た景色で、深い山が続いています。
高い山頂辺りが岩場になっていて、雄大さを感じます。


大見謝川に下りて行きました。
すぐ川上には、県道の大見謝橋が見えます。
岩の川底が続いています。


少し川を下ると河口が見えてきます。
向かって左側に小さなマングローブが見えます。


大見謝川の河口近くの川の流れです。
こんな岩場ではマングローブも育たないわけですね。
カンピレー・マリュドゥの滝と、巨大甌穴を思い出します。


大見謝川の河口の様子です。(二つ上の写真とは別の日の写真です)
最後の岩の水溜り(巨大な甌穴かも知れません)と、海の間に段差があります。
昔、水の乏しい鳩間島の人達は、この川の水を汲みに来ていたそうです。
確かにここは、サバニ(舟)で来てすぐに水が汲めて便利のようですね。


足元の岩場の様子です。
岩の表面小さな甌穴(ポットホール)が見られます。


川沿いの茂みに「クロアゲハ」が止まっていました。
違う蝶もいましたが、「スジグロカバマダラ」だったようです。

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祖納「新盛家住宅」の間取りと、「節祭」の関係

2007年06月18日 | 沖縄の旅
「新盛家(シンモリケ)住宅」を見学させて頂きました。
「新盛家住宅」は、沖縄県内に現存する最古の木造茅葺き民家で、建物には釘や金具を使用せずくさびで締めてあるそうです。又、木材は西表島産のものが使われているようです。
平たいサンゴ石が、長い歳月で黒くなり古民家の風格を感じさせてくれます。



「前泊の浜」から北に歩いて行くと、右に「新盛家住宅」が見えてきます。
「新盛家住宅」は、北と西が路地に面しています。
「節祭(シチィ)」ではこの道をミルク(弥勒)の行列が通り、そのことが建物の造り方に大きく影響しています。

西表島の「節祭」は、10月~11月頃(旧暦の9月~10月頃)行われますが、農作業の年度が変わる大切な区切りで、神の国の正月行事と考えられているようです。
島の人々は、「節祭」で今年の豊作への感謝と、翌年の豊作祈願を祈るそうです。


石垣の間に幅の広い石段がありました。
意外に屋敷の高さがあり、土地の傾斜があることを感じました。
北側の道の高さは、ほぼ敷地の高さのようです。


石段を上がった家の南側です。
縁側にの手前には土間があり、上がり口になっています。
縁側の突き当たりには木の臼と、杵が置かれています。
沖縄では軒下を「雨端(あまはじ)」と言い、家の壁から軒先の柱までの間が1m前後ありますが、この建物にはありません。
庇(ひさし)の下が縁側になって、「雨端(アマハジ)」がないのがどうも不自然な感じです。


通りに面している建物の西側です。
路地に面して幅広の高い石塀があり、防風林を作っていません。
(屋敷の北・東・南には木が植えられ大きく育っています)
建物には南側と同様に「雨端」がなく、縁側があり、家の正面の感じがします。
ミルク(弥勒)の行列が通る道を強く意識したもの思われます。


南西に位置する部屋ですが、床の間があります。
一般的には東南に位置する「一番座」が南西に造られています。
ミルク行列を強く意識して台所・豚小屋などを東側に作り、「一番座」を西側に配置したようです。
8畳間ですが、南側の2畳分は柱と敷居で仕切られた感じになっています。
東の「二番座」も6畳間ですが、南側の1.5畳分は同様に仕切られた感じになっています。(残念ながら写真には写っていません)
なんだか家の外周の「雨端」部分を増築したようにも思えます。


南東に位置する部屋ですが、仏壇があります。
一般的には南西に位置する「二番座」が南東に造られています。


「二番座」の天井の様子です。
部屋の庇に近い側が斜めの天井になっており、縁側の上は屋根の裏が見えています。


家の南側を東から取った様子です。
家の南正面に土間があり、その左右が縁側になっています。
妻が、来場者の記帳をしているところです。


東側の縁側から撮った台所です。
普通は西側に作られます、
家の中は、数年前まで生活されていたような様子でした。


屋敷の北の道に面して裏門があります。
門は、屋敷の北東部にあります。


家の東に豚小屋のような施設があり、一部壊されているようです。
(普通、豚小屋は屋敷の西に作られます)
もしかしたら昔の「フール」(豚便所)だったのでしょうか。


家の東側から撮った写真です。
向かって右側が家の北側になります。
この家は、南・西が表側の感じに対して、東・北は裏側の感じです。
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妻の油絵「門扉のバラ」です。

2007年06月17日 | 妻の油絵
「第4回ふくやま”ばらの絵”公募展」が福山文化連盟の主催で行われ、受賞した油絵です。
福山市西町の福山ロッツ8階「ふくやま書道美術館」市民ギャラリーで5/24(木)~6/3(日)で展示されていました。


油絵「門扉のバラ」F15号
福山市東深津町の結婚式場「ウエディングパルコ アルジェント」の門の前のバラと、景色を描いています。

山陽新聞に受賞場面の写真と、インタビューの記事を掲載して頂きました。


■「福山ばら祭2007」5/19(土)~5/20(日)
福山市では「戦災の街に潤いを」と45年前に町内会の人達が広場にバラを植え、それが「ばらのまち」のシンボル「ばら公園」の始まりだそうです。
毎年、5月中旬には三角形の「ばら公園」を中心に「ばら祭り」が開催され多くの市民でにぎわいます。
(写真は、閑散としていますが、イベント前日の撮影です)

1945年8月8日22時頃、福山市はアメリカ軍のB29、91機による大空襲を受けました。
当時、6万人に満たない福山の町は焼け野が原となり、死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人と実に82%の市民が被災したそうです。
アメリカ軍が広島市に原爆を落とした2日後のことでした。

終戦後、市民は絶望の中から立ち上がり、町の復興を成し遂げました。
現在、「100万本のばらのまち福山」づくり運動を推進しています。
バラの花は、今いったい何本位になったのでしょうか?
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西表島祖納の前泊御嶽

2007年06月16日 | 沖縄の旅
西表島祖納の節祭の中心となる「前泊御嶽」と「前泊の浜」を散策しました。



海岸に沿った道沿いに「前泊御嶽」があります。
鳥居の前に石碑が見えます。



鳥居の前にある石碑です。
「節祭(しち)」が重要無形民族文化財に指定を受けた記念碑のようです。


「前泊御嶽」のオンヤー(拝殿)の後ろに「イビ」が見えます。


海岸の道から石碑のある場所を右手に入る道があります。
「節祭」にはミルクがやってくる道のようです。
すぐ先の右手には、古民家「新盛家住宅」があります。


祖納「子午線ふれあい館」のアルバムにあった「ミルク(弥勒)」のお面です。(左の白い顔)


この浜が、祖納の「節祭」が行われる「前泊の浜」です。
砂浜で演じられる踊りなどを道路の上から見物するようです。


沖に「まるま盆さん」が見えます。
「節祭」では二そうの舟でこの小島と浜辺の間を三往復する競争をするようです。


祖納「子午線ふれあい館」のアルバムにあった「節祭」で使う「サバニ」です。


祖納「子午線ふれあい館」のアルバムにあった「祖納の獅子」です。
「節祭」では二匹で踊るようです。
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西表島 祖納の豪族「慶来慶田城用緒」

2007年06月14日 | 沖縄の旅
昨日掲載の西表中学学校の生徒達が作った「ゆったり歩こう祖納マップ」に祖納の上村(うえむら)は聖地なので・・・とあり、1500年頃の西表島祖納の豪族「慶来慶田城用緒」(けらいけだぐすくようちょう)に関係する場所ではと思い調べてみました。



祖納の上村は、祖納半島の先にある高台にあり、半島の根元にある集落は下村と言われているそうです。
やはり上村には「慶来慶田城翁屋敷跡」と言う遺跡があるようです。


平家の末裔と言われる「慶来慶田城用緒」は、西暦1500年前後の西表島祖納の豪族です。
世界では大航海時代が始まり、琉球王朝も明国への朝貢貿易で国力を強めていました。
琉球王朝は、第2尚氏王朝第3代の尚真王(1477年~1526年)の時代になり、奄美・久米島・宮古・八重山などの諸島を制圧、王国の版図を大きく拡大しました。
又、シャム・マラッカとの交易も盛んに行い、まさに王朝の黄金時代を迎えていました。

沖縄本島の南にある宮古島も琉球三山時代の14世紀頃から大陸との交易を始め、15世紀末頃には「仲宗根豊見親玄雅」(なかそねとういみやあげんが)の時代には宮古島の統一を果たしていたようです。
又、「仲宗根豊見親」は、琉球王朝へ朝貢、その支配下になっていたようです。

八重山地方では、宮古島を統一したの豊見親一族の影響が強まる中、ようやく群雄割拠の時代を迎える頃になっていました。


上の地図は、1500年頃の八重山地方の推定勢力図です。
八重山諸島は、地図の通り群雄割拠となり、先進地域宮古島の豊見親一族の影響も強まっていたようです。
石垣島北部の「平久保加那按司」、石垣島西部の「仲間満慶山英極」(なかまみつけーまえいきょく)、同島南部の「長田大主」(なーだふーず)、石垣島東部の「オヤケアカハチ」(遠弥計赤蜂)、西表島の「慶来慶田城用緒」」(けらいけだぐすくようちょう)、波照間島の「明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどぅん)」、与那国島の女傑「サンアイイソバ」が地域の豪族として伝えられています。

この情勢の中、西表島祖納の「慶来慶田城用緒」は、石垣島北部の「平久保加那按司」を攻め、滅ぼしたそうです。
戦いは、平久保の「下女」を味方にひき入れ、その手引きで勝ったもので、勇ましい決戦による勝利ではなかったようです。
戦いの直後、「慶来慶田城用緒」は、「仲宗根豊見親」の子とされる石垣村の「長田大主」に会い、兄弟の契りを結んだそうです。

八重山の中心地であった祖納の豪族「慶来慶田城用緒」は、八重山で影響を強める宮古島勢力と結ぶことにより交易権、交易路の確保を図ったものと推察されます。
又、海外との交易を行なう宮古島にとって祖納の「慶来慶田城用緒」を傘下にすることは、造船などの木材資源の主要供給地八重山を確保する重要な意味があったものと考えられます。

滅ぼされた「平久保加那按司」は、平久保辺の小村の者どもを従わせて使用人とし、稲、粟を作り、4~5百石も貯え、牛馬は300~400頭も飼って権勢を誇っていたと言われています。
その屋敷跡「伝平久保加那按司館址」は、平久保半島の県道の終点「平野」にあります。

「慶来慶田城用緒」が、「平久保加那按司」を攻めた訳は定かではありませんが、宮古島への航路にあたること、宮古島により近い木材の供給地としての競合、地域の産業を盛んにして勢力を強めていたことで、相対的に力関係が弱まっていることへの危機感から行動に出たものと推察しています。


祖納集落の北にある「北泊の浜」から「上村」の高台方向を見た景色です。

1771年に造られた「慶来慶田城由来記」と言う資料によると、「慶来慶田城用緒」は、オヤケアカハチの乱の後、琉球王朝から「西表首里大屋子」の官職を与えられたそうです。


祖納集落の南にある「前泊の浜」から「上村」の高台方向を見た景色です。

高台には茂みに囲まれた「慶来慶田城翁屋敷跡」があり、地元の人たちは、祖納の英雄を偲ぶ史跡として大切に守られているようです。

参考資料「沖縄の歴史と文化」外間守善著
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祖納の「子午線モニュメント」と「集落マップ」

2007年06月12日 | 沖縄の旅
西表島祖納の県道沿いにある「子午線(しごせん)モニュメント」を見に立ち寄りました。



1997年、国土地理院沖縄支所が、西表島「祖納地区」と、すぐ南の「白浜地区」を東経123度45分6789秒の子午線が通ることを発見したそうです。
(東経の数字が1から9まで順に並ぶ地点だった)
それを記念して祖納には「子午線モニュメント」「子午線ふれあい館」、白浜には「日時計のモニュメント」が設置されています。
子午線とは「子」=北と、「午」=南を結ぶ線のことで、地球上のある地点を通る南北線のことだそうです。
祖納の「子午線モニュメント」からは青いレーザー光線が子午線に沿って白浜方向の夜空に照射されているそうです。(モニュメントの下にある三角形の斜めの面から光が出ているようです)

子午線の「子午」は十二支の「子」(ねずみ)、「午」(うま)のことです。
十二支は、中国から伝わったとされ、時刻や、方角を表します。
「子」は深夜0時・北、「午」は昼12時・南で、十二支を「子」から時計回りの順で配置すると方角・時刻の図になります。


同じ場所にある「子午線ふれあい館」です。
横の入口から入り、中の展示品を見学させて頂きました。
展示内容は、祖納の節祭のアルバムや、本があり、小さなテレビで節祭のビデオが放映されていました。(4/24掲載)


手造りの民具や、玩具が展示されていました。
ちなみに「うちわ」はクバの葉で作られているようです。


■沖縄タイムス(新聞)の切抜きがガラス窓に貼ってありましたので転記します。
小さな島から大臣賞
西表中、集落マップ作製
「第二十三回わたしの自然観察路コンクール」(国立公園協会など主催)の中学生部門で、このほど竹富町立西表中学校の辻祥子さん(二年)、上亀直人君(二年)、富川太至朗君(一年)、松山忠明君(一年)の作品「ゆったり歩こう祖納マップ」が最優秀賞(環境大臣賞)を受賞した。学校周辺の豊かな自然を観察し、絵地図と解説文で紹介。全国から二百八十四点の応募があり、二十日に決まった。
 絵地図は、海と山に囲まれた祖納集落の様子を鮮やかな色彩で表現。民家や森、水田などの周辺に生息するカンムリワシ、オオゴマダラ、セマルハコガメ、イリオモテヤマネコなどの貴重な生き物の姿をちりばめた。
 解説文は国天然記念物の動植物を身近で見ることができる恵まれた環境に触れ、「ゆっくり流れる時間の中で、色鮮やかな植物、きれいな空気、心地よい鳥たちの合唱と波の音に包まれています」と紹介している。
 辻さんは「最優秀賞が受賞でき、うれしい。みんなで休みの日や夜遅くまで頑張って仕上げたかいがあった」と喜んだ。


新聞記事にあった「ゆったり歩こう祖納マップ」です。
中央にある丁寧に描かれた蝶や、動植物のイラストが緑を基調とした地図にうまく描かれて、ちょっと興味を引かれる感じです。

地図の左端に「上村(うえむら) 聖地なので勝手に入ってはいけません」とあり、古い歴史の場所のようです。
オヤケアカハチの乱のあった1500年頃の八重山の中心は、石垣島ではなくこの西表島の「祖納」であったと言われています。
もしかして上村は、その時代の祖納の豪族「慶来慶田城用緒」(けらいけだぐすくようちょう:平家の末裔か)に関る場所ではないかと思い、調べてみることにしました。
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