昔に出会う旅

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ドイツ・スイス旅行 5 ライン川クルーズ(3) バッハラツハからサンクトゴアハウゼン

2013年07月26日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目、世界遺産「ライン渓谷中流上部」のクルーズの続きです。



ライン川クルーズの自作地図です。

「リューデスハイム」(地図右下の赤丸印)で、ライン川クルーズ船「ボッパルト」へ乗船し、「サンクトゴアハウゼン」(地図左上の赤丸印)までのクルーズの地図です。

今回は、4番目の寄港地「バッハラッハ」からローレライを通り、8番目の寄港地「サンクトゴアハウゼン」で下船するまでの記録です。



4番目の寄港地「バッハラッハ」を過ぎ、しばらく進むと、川の中央付近の中州に「ファルツ城」が見えてきます。

上段の写真は、クルーズを終え、ライン川右岸を走るバスから建物右岸側を撮ったもので、城は中州の上流側(左側)に建てられ、下流側(右側)には城に入る階段が見えます。

下段の写真は、クルーズ船で左岸側を通過し、下流から見た風景で、木の生えた中州の下流側にカウプからの渡し船の桟橋があり、城内の「ライン河博物館」を訪れる見学者を迎えるようです。

下記の資料によると「ファルツ城」は、1327年に通行料徴収所として建てられたとされ、何度も大洪水があったとされるライン川に約700年間も立ち続けてきたことには驚きます。

建設当初は、ライン川クルーズ(1) で紹介した「ねずみの塔[モイゼトルム]」と同様。中央の塔(五角形)だけだったようで、洪水対策で周囲が補強され、戦艦のような姿となったようです。

下記の資料にナポレオンをフランス皇帝の座から引きずり落した勇将ブリュッヘルの率いるプロシア軍がパリへ侵攻するため、ライン川を渡る場面が画家ヴィルヘルム・カンプハウゼンによって描かれ、ライン川西岸を奪還したドイツの歴史を知ることが出来ました。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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ラインに浮かぶ軍艦ファルツ城
~上流にあたる部分の城壁に、ひたひたと河波が打ち寄せている。その様子はまるで軍艦のへさきが波を掻き分けて進んでいるようだ。そして後のほうには艦橋のようにとんがり帽子の塔がそびえている。
~この城を、「ライン河に永遠に浮かび、ファルツ伯の町(カウプ)の眺めの中に永遠に停泊する石の船……」と形容したのはヴィクトル・ユーゴーである。
この城は一三二七年、バイエルン家のルートヴィヒ王がライン通行料徴収所として建てたものだ。またの名をファルツグラフェンシュタイン (ファルツ伯の岩)とも呼ばれる。
なにしろ河の中に陣取っているのだから通行する船は逃げようがない。これほど効率のいい料金所もあるまい。
一八一四年の大晦日、右岸のカウプの町からこの城を中継所にして左岸へ粛々と渡って行く大軍があった。ライブツィヒの戦でナポレオン軍を撃破した勇将ブリュッヘルの率いるプロシア軍である。
そして一八一四年四月、プロシアをはじめヨーロッパ同盟軍はナポレオンをワーテルローに破り、フランス皇帝の座から引きずり落したのだった。
現在この城はライン河博物館となり、内部は一般に公開されている。見学する場合にはカウプから渡し船の便がある。
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ファルツ城の右岸にある「カウプ」の町の背後の山に「グーテンフェルス城」が見えてきます。

やや下流の船着き場からの風景ですが、正面からの城の姿が撮れず残念です。

四角の塔と、連なる建物があり、周囲を城壁で囲った堅牢な城郭だったようです。

通行料の徴収と共に、防衛拠点としての重要性があったものと思われます。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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カウプの町とグーテンフェルズ城
~この城は十三世紀前半に築かれ、はじめはトリアー大司教が所有していたが、のちに麓のカウプの町ともどもファルツ選帝侯の支配下に移った。
現在、一般には未公開だが、週末だけはホテルとなって泊ることができる。堂々とした高さ三十五メートルの天守閣の脇に付属する三階建ての居館は、どの階にも大きな集会場が設けられている。あるいは丸く、あるいは角型、あるいはクローバーの葉の形をした窓などに後期ロマネスクの造形の様式がうかがえる。これを美術史家のパウル・クレーメンは、「後期ロマネスクの形式の多様性とともに、グーテンフェルズ城はラインの城の構造と設計の見事な思考を示している」と評している。この城から見おろすライン河と、浮かぶ城郭ファルツの姿が美しい。
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クルーズ船「ボッパルト」の一階レストランの風景です。

6人用のテーブルが左右の窓際と、中央に3列あり、200人以上を収容できるようで、私たちのツアーも窓側の席で食事をしました。



クルーズ船の二階デッキの風景です。

ローレライが近づいてきたので二階デッキの右舷の椅子に陣取り見物です。

夏の日差しの中でしたが、心地よい風に吹かれて美しい風景を眺めることができました。



カウプの町を過ぎ、6番目の寄港地「オ-バーヴェーゼル」の町に近づくと小高い山の上に「シェーンブルク城」が見えてきました。

上段の写真は、ズームで撮った「シェーンブルク城」で、下段は遠景ですが、見るからに本格的な城郭です。

川辺の教会も山上の城に似た配色で、二つの建物が呼応して町の美しさを演出しているようです。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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勇将シェーンブルクの城
右岸のグーテンフェルズ城から眼を左岸に移すと、オ-バーヴェーゼルの町の背後に豪壮なシェーンブルク城が見上げられる。
二つの寺院のゴシック調の尖塔や円塔などが建ち並ぶオ-バーヴェーゼルの町を、「ロマン主義の時代の、ラインでもっとも美しい避難所だ」とフライリグラートは評した。~そのロマン主義の奔流の中で、この町だけは古典的なゴシック調を守りつづけていると言っているのだろう。バハラッハと並んで中世の面影を濃く残している町として知られている。山麓に並ぶ三角屋根に白い壁の民家、その背後のスロープの頂上にそびえる褐色のシェーンブルク城の光景は、そっくりそのまま中世の騎士物語の舞台になりそうな雰囲気がある。
シェーンブルク城の町に面した部分には巨大な城壁が立ちはだかっている。その左方に角塔の大天守閣と、背後にもう一つ円塔の小天守閣がある。マインツを出発して以来、はじめて見る重厚な構えの城である。
ラインの城のうちでも最古の城の一つといわれるこの城はシェーンブルク家の居城であった。十四世紀にトリアー大司教とファルツ伯との間に争いが起ったとき、両陣営の狭間にあるシェーンブルクの一族は二家に分れたが、この城は二家の″共有財産〞とされた。
十七世紀にこの一族からラインラントの生んだ最大の軍人フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シェーンブルクが出た。
城は現在オ-バーヴェーゼル町の所有となり、ホテルとレストランを営んでいる。
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上段の写真は、オ-バーヴェーゼルの町の船着き場付近を上流側から見た風景で、多くの塔が並び、右端の円柱形の塔は、灯台に似ているようです。

下段右側の写真は、上段右端の円柱形の塔を下流下側から見た風景で、向うの教会の隣にも大きな塔がそびえています。

下段左側の写真は、船着き場のやや上流の風景で、帽子をかぶったような円柱形の塔の他、左右にも塔が見られます。

なぜたくさんの塔が造られたのか分りませんが、同じように多くの塔が並ぶイタリア中部の町、「サン・ジミニャーノ」を思い出します。



上段の写真は、右岸に黒い岩山のローレライで、断崖に近づくとクルーズ船から格調高いローレライの歌声が流れ、心の中で「ローレライに来たんだ!」と感激の風景でした。

下段の写真は、ローレライの岩山を過ぎ、振り返ったライン川で、右上の写真は、岩山の頂上に2本の旗が立ち、すぐそばに断崖を見下ろす二人の人陰が見えました。

ローレライの伝説には様々なバリエーションがあるようですが、下記のハイネの詩を読むと、岩の上に立つ美女が髪を梳きながら歌う声に船乗りが心を奪われ沈没していく話がよく伝わってきます。

しかし、岩山の頂上の写真のようにローレライの美女があの場所に現れても、船乗りたちには髪を梳く姿もよく見えず、歌声もろくに聞こえなかったのではとの想いも浮かんできます。

又、不注意で船を沈没させた船長が、その原因をローレライの美女のせいに出来る都合の良い伝説でもあったのかも知れません。

■近藤朔風訳詩「ローレライ」(原作ハイネ)
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「ローレライ」
なじかは知らねど心わびて、
昔の伝説[つたえ]はそぞろ身にしむ。
寥[さび]しく暮れゆくラインの流れ、
入日に山々あかくはゆる。

美[うるわ]し少女[おとめ]の巌頭[いわお]に立ちて、
黄金[こがね]の櫛[くし]とり髪のみだれを、
梳[す]きつつ口吟[ずさ]ぶ 歌の声の、
神怪[くすしき]き魔力[まがうた]に魂[たま]もまよう。

漕ぎゆく舟びと歌に憧[あこが]れ、
岩根も見為[みや]らず仰げばやがて、
浪間[なみま]に沈むるひとも舟も、
神怪[くすしき]き魔歌[まがうた]謡[うた]うローレライ
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ローレライの断崖の下流に中州があり、伝説の美女の銅像が建っていました。

長い髪の美女の雰囲気は伝わってきますが、髪を梳く姿ではないようです。

この少し上流側の川岸にスイスとの国境でもあるボーデン湖からのキロ数「555」の看板が見られました。



ローレライを下ったザンクト・ゴアールスハウゼンの町の上流(ザンクト・ゴアールの町の対岸)に「カッツ城(ねこ城)」が見えてきました。

小高い岩山の斜面のあちこちに石垣が築かれ、斜面から攻上る敵の侵入を阻止するものと思われます。

ひと際高くそびえる円柱形の塔は、かつて焼打ちにされ、修復されていない姿のようで、古城の風景にも様々な歴史が刻み込まれています。

「ねこ城」の別称は、二つ並ぶトンガリ屋根がネコの耳に似ているためかとも思いましたが、城の名称となった築城者カッツェネルン・ボーゲン伯の「カッツェ」の部分がドイツ語の猫(Katze)と似ていることによるものだそうです。

下船したザンクト・ゴアールスハウゼンより下流に「ねずみ城」があり、「ねこ城」と対抗したことが下記の資料に書かれていますが、ライン川クルーズの最初頃に見た「ネズミの塔」と勘違いしそうでした。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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カッツ(ねこ)城とマウス(ねずみ)城
ザンクト・ゴアールの対岸、ローレライの岩山を越えたふもとに、ザンクト・ゴアールスハウゼンの街がある。ザンクト・ゴアールスハウゼン近くのカッツ(ねこ)城は、ラインフェルス城を建てたカッツェネルン・ボーゲン伯に対抗して、トリーア大司教が少し下流にマウス(ねずみ)城(トゥルンベルク城)を建てたが、それに対して、1393年にカッツェネルン・ボーゲン伯によって建てられたものだ。正式には、「ノイ・カッツェネルン・ボーゲン城」と言う。
ローレライの岩と同じ固い岩の上に建てられ、また、とても頑丈に建てられたので、プファルツ継承戦争のとき、1692年にフランス軍の攻撃に対しても持ちこたえた。ナポレオン時代の1806年にフランス軍によって爆破されるまで、ヘッセン軍の宿となっていた。1898年に再建された。
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上段の写真は、クルーズ船が寄港したザンクト・ゴアールの町の丘にそびえる「ラインフェルス城」で、下段の写真の右上に「ラインフェルス城」があります。

上段の資料にもあったように、対岸のザンクト・ゴアールスハウゼンにある「カッツ城(ねこ城)」と同様、カッツェネルン・ボーゲン伯により築城されたようですが、山城のような「カッツ城)」と違い、街と一体化した風景です。



ザンクト・ゴアールスハウゼンの町で、ライン川クルーズ船から下船する風景です。

写真右端には添乗員Yさんがツアーのバスを探しに向かっているようで、人数の確認、トイレの心配、観光スポットの説明、各自のカメラで記念写真の撮影サービスなど大勢を引き連れて歩くのは本当に大変な仕事のようです。

バスに乗ってライン川沿いをさかのぼり、次に向かったのはフランクフルトの南にある小さな町「ベンスハイム」のワイナリーです。

油絵「ひまわり」

2013年07月21日 | 妻の油絵

妻の油絵「ひまわり」です。

夏の炎天下に咲く「ひまわり」の力強さを感じます。

花を取り囲むように薄い黄色が背景に塗られ、オーラのように見えるためでしょうか。

ところで、子供の頃の「ひまわり」を思い起こすと、背の高さを超える大輪の花が浮かんできます。

最近では、各地で作られる観光用のひまわり畑や、家庭の庭でも背の低い小さな花しか見かけなくなり、この絵でも同様です。

しかし、巨匠ゴッホの花瓶に挿された「ひまわり」も同じような大きさで、昔から小さな「ひまわり」はあったようです。

「ひまわり」の品種に興味が湧いて調べていたら「画家シリーズ」と称してゴッホ、ゴーギャン、モネ、マティスなどのひまわり絵のイメージを模した品種が「サカタのタネ」で開発され、販売されていることを知りました。

なかなかお目にかかれない巨匠たちの名画の雰囲気を数百円のタネを蒔いて楽しむ着想にも大いに拍手を送りたいものです。

ドイツ・スイス旅行 4 ライン川クルーズ(2) アスマンスハウゼンからバッハラツハ

2013年07月18日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目、世界遺産「ライン渓谷中流上部」のクルーズの続きです。

ライン川クルーズは、11:15「Rudesheim[リューデスハイム]」出発、13:05「St.Goarhausen[ザンクトゴアハウゼン]」到着で、途中、船内レストランでランチを頂く1時間50分の楽しい観光でした。



ライン川クルーズの自作地図です。

添乗員さんから頂いた手書きの地図(前回掲載)に飽き足らず、実際の地図に近いものを暇にまかせて作成したものです。

前回は、「リューデスハイム」(右下)で乗船し、2ヶ所目の寄港地「アスマンスハウゼン」まででしたが、今回は古城が最も多く見られる4ヶ所目の寄港地バッハラツハまでで、この地図を参照しながらご覧下さい。

(川沿いのスポットの説明に「左岸」「右岸」の言葉がありますが、川を下って行くその前方に見える左右の岸を表現しており、世界的に広く使われているようです。)



2番目の寄港地「アスマンスハウゼン」を出ると、すぐ左岸に見えてきた「ラインシュタイン城」です。

川縁から切立った高い岩場の上にそびえ立つ城の風景は、川を見下ろす威厳に満ちた姿と共に、崩れてしまう危うさを感じます。

右手の急斜面には城に通じるジグザグの車道も見られますが、昔は城へ登るにも急な坂道に一苦労だったものと思われます。

下記の資料「ライン河の古城」によれば13世紀に通行料徴収所としてマインツ大司教が築いた城とされますが、少し上流の「エーレンフェルス城」や、「ねずみの塔」もマインツ大司教が築いた税関所とされ、税関所の施設が重複している理由は、年代ごとに整理してみないと理解できないのかも知れません。

又、この辺りの古城の多くが左岸にある理由にも興味が湧いてきます。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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岩上のラインシュタイン城
~ラインシュタイン城はライン河に突き出した高さ八十メートルほどの岩の上に築かれている。天守閣の横に、それよりやや低い城館が一枚岩の城壁のようになってつづいている。そこから一段下がったところに教会風のこじんまりとした別館が見える。いずれもネオ・ゴシック様式の建物だ。
この城は十三世紀の後半、ラインの通行料徴収所としてマインツ大司教が築いた。しかし十四世紀の半ばに勢力をのばして来たトリアー大司教の手に渡ってしまう。当時、ライン河沿岸はマインツ、トリアー、ケルンの三者が分け合っていたのだが、時によって勢力圏の消長があったのだ。
その後の度々の戦乱でこの城は荒廃の一途を辿ったが、一八二五年になってプロシアの王子フリートリヒがこれを手に入れると、芸術愛好者の彼は建築家ウイルヘルム・キューンに命じて現在のようなネオ・ゴシック様式の姿に修復させたのである。
城へは急な坂道を登って車でも行ける。城内は美術館として公開され、十六世紀ころからの手工芸品をはじめ甲冑などのコレクションが展示されている。
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「ライン河の古城」は、色々探した本の中で、ライン川沿いの古城などが最も詳細に説明され、勝井規和氏による美しいカラー写真も多く添えられて、とても分り易く参考資料とさせて頂きました。



ライン川左岸トレヒティングスハウゼンの町の上流に建つ「聖クレメンス礼拝堂」です。

添乗員Yさんから頂いた資料では「12世紀建設。ライン川沿でも古い教会」とあり、この建物に800年を超える歴史があるようですが、一見して町外れに建っているごくありふれた教会としか見えませんでした。

教会建物は、河川敷に石垣で造られた一段高い場所に建てられているものの、洪水にしっかりと備えたとも思われず、800年を超えて現代に残されていることには驚きます。

写真左上は、建物正面の壁の左上部分を拡大したもので、よく見ると白い壁を縁取る杏子色の壁が白く細い線で飾られており、優しさや、清潔感のあるイメージを醸し出しているようです。



「聖クレメンス礼拝堂」を過ぎ、すぐ下流に「ライヒェンシュタイン城」が見えてきました。

川辺にはキャンプ場が広がっていました。

下記の資料にはこの城が「盗賊騎士の巣となった」とあり、ライン川を航行する船から通行料を巻き上げる盗賊行為が横行していた時代があったようです。

これだけの立派な城が放置され、盗賊騎士の巣になったのは支配体制が衰退した時期だったのでしょうか。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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ライン最古のライヒェンシュタイン城
~裾まわりに低い城壁をめぐらした、どっしりした構えのライヒェンシュタイン城である。城壁の内側が更に盛り上がった丘になり、隅に二つの櫓を配した高い胸壁に守られるようにオレンジ色の城館がある。二つの櫓のうち、右側の高いほうが天守閣だろう。
そこから右へのぴる尾根つたいの高みに二段に築かれた四角な塔があるが、これは日本の城でいえばさしづめ出丸に当たるもののようだ。
この城はラインの城の中では最古のものの一つだとされている。
しかし盗賊騎士の巣となったため、二云四年にライン都市同盟の攻撃を受け破壊された。その後マインツ大司教の所有となって改築されたが、この城の支配権をめぐって永い間、マインツとファルツ選帝侯の間に争奪戦がつづいた。
一六八八年にはじまったフランス王ルイ十四世のラインラント侵略でライヒェンシュタイン城は他の多くの城とともに、またもや破壊されてしまう。~
~その後、二十世紀の初頭にキルシュ・プリツェリ男爵の所有となって改築され、現在はホテルも営んでいる。城内には狩猟の獲物である鹿の角を飾り立てた部屋、古い家具のコレクションの部屋、武具などを多数展示する部屋などがある。
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山の中腹にそびえる「ゾーネック城」です。

ライン川左岸にそびえ、向かって右手(下流)の「ニーダーハイムバッハ」の町から坂道が続いているようです。

下記の資料では、「1010年にマインツ大司教ヴイレキスによって築かれた」とあり、「十九世紀半ばにプロシア皇太子フリートリヒの所有となり、ラインシュタイン城と同様、ネオ・ゴシック様式に改築された」としており、改修以前の城の姿にも興味が湧きます。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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中世の町とゾーネック城
~その町並みの背後に褐色のゾーネック城が見上げられる。四角の天守閣と高い胸壁の城館を守るように、ラインの流れに面した部分を頑丈そうな城壁で固めている。
この城は一〇一〇年にマインツ大司教ヴイレキスによって築かれた。下って十三世紀には例によって次皿賊騎士の巣として悪名を高めている。その後、幾度かの破壊と修復がくり返されたのち、十九世紀半ばにプロシア皇太子フリートリヒの所有となり、ラインシュタイン城と同様、ネオ・ゴシック様式に改築された。
現在、城内の一部は美術館となり、レストランもある。城から見下すラインの景観は美しく、緑の中州をへだてて対岸の葡萄畑の山裾にわだかまるロルホの町並みが遥かに見渡せる。
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「ゾーネック城」を過ぎ、しばらく下った左岸の町「ニーダーハイムバッハ」に川沿いの教会と、丘の上の「ハイムブルク城」が見えてきます。

下記の資料ではこの城も選帝侯「マインツ大司教」による13世紀の築城とされ、下流を支配する選帝侯「プファルツ伯」との抗争が築城の目的だったようです。

左の大きな円柱形の塔に対して、右の建物部分が小さく、塔がなければ一般住宅にも見え、19世紀後半に改築されたことによるイメージの変化だったのでしょうか。

長い歴史があり、威圧感のない「ハイムブルク城」ですが、「ニーダーハイムバッハ」の素敵な町並みの風景と溶け合っているようです。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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左岸のゾーネック城の川下に、ニーデルハイムバッハの町に囲まれたハイムブルク城がある。ライン河の城の中では最も河岸に近く築かれた城だ。河に面した側に樹木が生い茂り、その上に城壁がめぐらされ、中央にひときわ太い円塔の天守閣が突き出ている。高さ二十五メートルほどもあろうか。城壁には蔦が一面にからみついている。
この城は十三世紀にマインツ大司教が下流のファルツ伯(プファルツ伯)の勢力に対抗するために築いたもので、十七世紀に破壊されたのち、十九世紀の後半に現在の姿に改築されたものだ。しかし個人の所有になっていて、内部は一般には公開されていない。
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「ハイムブルク城」の下の川沿いに続く「ニーダーハイムバッハ」の町並みの風景を集めたものです。

川沿いに様々な色の建物や、木組みの家が混在し、素敵な町並みとなっています。

写真左上に川べりに建てられた「539」の表示板は、ドイツ、オーストリア、スイスの国境にある「ボーデン湖」からの距離を表示したもので、1Kmごとに建てられているようです。

前回掲載したライン川の地図の説明で、「ボーデン湖」から更にさかのぼったライン川源流の記載をしていますが、ライン川の交通の起点となる「ボーデン湖」からの距離を目安としているものと思われます。

川沿いには鉄道と、道路が走り、ライン川沿いは、鉄道、トラック、船の輸送がしのぎを削る場所でもあるようです。



12時前、船内でのランチの風景です。

この地方特産の白ワインを頂きながらのおいしいランチでした。

ブログを書く私としては、古城などの見所を逃すことなく食事が出来たのも幸いでした。



「ニーダーハイムバッハ」の対岸、3番目の寄港地「ロルヒ」の町の風景です。

右手に大きな町の教会がそびえ、左手の川沿いにも白壁の教会と思われる建物が見えます。

写真左下は、左手の小高い山の山頂に見える「ノーリッヒ城」で、その右に並ぶ写真は、白壁の教会の右にある塔(赤い線の場所)です。

山頂の「ノーリッヒ城」へはジグザグに登る道(車道)が見え、下記の資料にある伝説の十字軍の騎士が活躍した時代の道とはだいぶ様相が違っているようです。

川沿いにある小さな塔が山頂の城と関連したものかは分りませんが、ライン川の通行に近くから監視する施設だったのかも知れません。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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十字軍伝説のロルヒ・ノーリッヒ城
~ロルホの町並みの上方に、葡萄畑に囲まれてぽつんと小さな塔が見える。ノーリッヒ城である。かつてはロルホを守る要塞の役割りを果たしていた城だ。しかし現在では二つの円塔を胸壁でつないだだけの廃嘘になっていることが遠目にもわかる。
この城にも十字軍にまつわる伝説がある。ある騎士が十字軍の遠征から帰国してみると、最愛のフィアンセがノーリッヒ城主に奪われていた。城主は騎士に、乗馬のまま城の崖を登れたらフィアンセを返してやるという。なまなかなことでは登れない急峻な断崖だ。
そこで騎士は悪魔に魂を売り渡す契約で魔力を借り、一気に崖を駈け登ってフィアンセを奪い返した。
そこへ悪魔が現われ、約束通り魂をよこせという。騎士が当惑していると、フィアンセがとっさに十字架をふりかざしたため、悪魔はたちまち退散した。そして二人はめでたく結ばれたという。
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「ロルヒ」の町の対岸からやや下流の「ラインディーバッハ」の町の山の中腹に「フェルステンベルク城」がそびえています。

「フェルステンベルク城」の巨大な円柱形の塔は、実に迫力があり、廃墟となって300年以上経過した歳月(下記の資料)を感じさせない存在感があります。

左手の山に広がるぶどう畑は、谷の北側にある南向きの斜面に造られたもので、この辺りの風景を見ると栽培に適した土地は、ぬかりなく利用されていることが分ります。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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フェルステンベルク城の廃墟
次に左岸に現われるのはラインディーバッハの村である。村の背後はなだらかなスロープの葡萄畑の丘につづいている。その中腹にぽつんと太い円塔がそそり建っている。廃嘘となったフユルステンベルク城の天守閣である。
ヴィクトル・ユーゴーは一八四一年に出版した紀行文『ライン河』の中で、この城についてこう書いている。
「その並はずれた高さと珍しい設計はなんという奇妙さであろうか。
高い塔があるが、周囲を取りかこむ壁もなく、扉や窓もなく、矢狭間もほとんどない。この塔は先端から根元に向かって太さを増している……」
この城は十三世紀の半ばに築かれたが、十七世紀前半の三十年戦争と同世紀後半のルイ十四世のライン侵略の際に破壊され、廃櫨のまま現在に至っている。塔の根元には雑草や潅木におおわれた城壁の残骸が崩れかけて残っている。
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「ロルヒ」の下流にある「ロルヒハウゼン」の町並みです。

チョコレート色の重厚な教会の建物が印象的です。

山の稜線の中央付近にも小さな教会が見え、ぶどう畑が広がるのどかな町の雰囲気を感じさせてくれます。



4番目の寄港地、「バッハラッハ」の風景です。

左の小高い山の上に「シュターレック城」がそびえ、写真右上が少し拡大した写真です。

添乗員さんから頂いた資料にはバッハラッハの町は、「千年以上の歴史を持つ町」とあり、「シュターレック城」は、現在ユースホステルになっているようです。

14世紀に築かれたとされる町を囲む城壁も残っており、川沿いの通りに数軒見えた木組みの家も町中に多くあるようで、下船して見物してみたい町です。

下記の資料に「1190年にフリードリヒ一世の息子コンラートの所有」とありますが、神聖ローマ帝国の皇帝でもあったホーエンシュタウフェン王家のフリードリヒ一世の息子コンラートの居城だったようです。

1190年は、日本では鎌倉時代が始まった頃、頼朝の居館にも匹敵するような建物が一般の宿泊施設で利用されているドイツとの文化の違いに驚くばかりです。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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~バハラッハの背後の葡萄畑の丘にそびえるのがシュターレック城である。中央に鉄色のとんがり帽子をかぶった天守閣を置き、左右に翼のように胸壁を張り、それぞれの先端に本館と別館を配している。鉄色の屋根と褐色の壁の配色が渋い。この城はほぼ原形に近い形で残されているようだ。~
~ラインを代表する城の一つとされるこの城の名前が記録に現われるのは二三五年のことである。最初はケルン大司教領の最上流の拠点として築かれた。その後、一一九〇年にフリードリヒ一世の息子コンラートの所有になり、その娘アグネスとハインリヒ獅子王の息子ハインリヒ・ザ・グエルフとの婚礼がこの城で盛大に行なわれている。
シュターレック城の所有権を持つアグネスの子が死ぬと、フリードリヒ二世はこの城をバイエルン家のルートヴィヒに譲ってしまった。以後、バイエルン家はラインの重要な基地であるシュターレックとファルツの二つの城を支配することになる。
三十年戦争がその後に起った。単純にいえばこの戦争は旧教徒連盟のバイエルン公マクシミリアン一世と、ファルツ選帝侯を指導者とする新教徒同盟の争いだ。それにヨーロッパ列強が介入して一六一八年からおよそ三十年にわたる動乱が起ったのである。
バイエルン家のこの城は新教徒同盟の後押しをするスウェーデン軍によって一六二三年に破壊された。しかしその後、ライン古代記念物保護協会によって現在の姿に復元され、いまはドイツ・ユースホステル協会の所有となっている。
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ドイツ・スイス旅行 3 ライン川クルーズ(1) リューデスハイムからアスマンスハウゼン

2013年07月11日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目11:00頃、リューデスハイムの町の自由散策を終え、いよいよ世界遺産「ライン渓谷中流上部」のクルーズへ出発です。



目印の折りたたみ傘を高く掲げ、「KDライン社」の旗がたなびく桟橋を乗船して行く添乗員Yさんです。

船体には「BOPPARD」と書かれていますが、これが船名でしょうか。

乗船すると、さっそくランチの席がある1階客室へ案内されました。

写真下は、記念に持ち帰ったライン川クルーズの乗船券です。



「KDライン社」のサイトから拝借したライン川クルーズの下りの時刻表です。

乗船・下船の場所、時刻に赤いアンダーラインを付けています。

南から北に流れるライン川を地図で描いたように時刻表も下から上に進んで行くように表現されています。

「Rudesheim[リューデスハイム]」を11:15出発し、「St.Goarhausen[ザンクトゴアハウゼン]」に13:05到着する1時間50分のクルーズです。

この便の終着地(時刻表の青い丸印)は、船体に書かれた文字と同じ「BOPPARD[ボッパルト]」で、終着地を船名としたようです。

終点ボッパルトへの到着時刻は13:50、上りの時刻表にボッパルト発14:00~リューデスハイム着18:15の便があることからこの船はすぐに折り返し、毎日1往復しているものと思われます。

又、リューデスハイム・ボッパルト間の下りの航行時間は、2時間35分で、上りの航行時間は4時間15分と、川をさかのぼるには約1.6倍以上の時間を要するようで、ゆったりとしたライン下りでしたが、上りではもっとのんびりしているようです。



添乗員Yさんから配布されたライン川クルーズの資料です。

この資料も地図と同様に北を上として、ライン川を下から上に進んで行くよう書かれています。

お城や、教会などの可愛いらしいイラストからYさんのやさしい人柄が伝わってくるようです。

資料の冒頭に「ドイツ人は父なる川と呼ぶ」とあります。

ドイツでは、一般河川に女性名詞に付ける定冠詞「die[ディー]」が付けられますが、ライン川だけには男性名詞に付ける定冠詞「der[デア]」が付けられ、「Der Rhein[デア・ライン]」と呼ばれるそうです。

この名称からも、ドイツ人がライン川によせる特別な想いをうかがうことが出来ます。



ライン川の地図です。

「ライン河紀行」 (吾郷慶一著、岩波書店出版)に掲載された二つの地図を組合せ、国別に着色したものです。

今回のライン川クルーズは、地図の中央付近に赤い四角で囲んだエリアで、全長約1,320Kmのライン川の内、わずか約30Km足らずのライン川のハイライトとされる部分でした。

「ライン河紀行」によると、ライン川の源流は、スイスアルプスにある「前方ライン」「後方ライン」の二ヶ所(地図右上の詳細地図参照)とされ、「前方ライン」は、この旅行で氷河特急からバスに乗り継いだ町「アンデルマット」付近の「トゥーマ湖」を源泉とするそうです。

又、その後にバスで越えたフルカ峠を分水嶺とし、東側はライン川水系から北海へ、西はローヌ川水系となって地中海に注いでいるそうです。

この地図には南ドイツを源とするドナウ川と、ライン川の支流マイン川とを結んだ「ライン・マイン・ドナウ運河」が描かれています。

1992年、この運河の完成により、北海から黒海、更には地中海へと水運が結ばれ、このライン川もヨーロッパ大陸を横断する壮大な運河の一部であったことに改めて感心します。

古代ローマ帝国は、ライン川西岸、ドナウ川南岸を支配し、二つの川を東岸に住むゲルマン民族からの防衛ラインとしていたようです。

二つの川の間をつなぐ防衛ラインとして、マイン川と、ドナウ川を結ぶ長城「リメス・ゲルマニク」を築いていたそうで、この運河の構想もローマ帝国時代の知恵が活かされたのかも知れません。

古代ローマ帝国が長城まで築いて守ろうとしたのは、ライン川や、ドナウ川の流域の肥沃な土地の産物や、川を利用した交易ルートだったものと思われ、現代もその重要性は続いているようです。



乗船した直後、船から見たリューデスハイム駅の風景です。

ちょうど列車が停車した場面ですが、すてきな車両でした。

左上スミの稜線には下記に紹介する「ニーダーヴァルト記念碑」が小さく見えています。



クルーズ船は、リューデスハイムを出港、すぐ右手のブドウ畑が広がる斜面の上に「ニーダーヴァルト記念碑」が見えてきました。(写真左下は望遠で撮った記念碑)

「ニーダーヴァルト記念碑」は、プロイセン王国(ドイツ北東部)を中心として、ドイツ諸邦が結束してフランスと戦った普仏戦争(1870年7月~1871年5月)に勝利し、ドイツ帝国を建国した記念碑です。

フランスを降し、ドイツ帝国の皇帝となったヴィルヘルム1世(プロイセン王国)が1871年9月にこの地を訪れて建設が始まったとされ、ライン川西岸を見下ろす巨大な「ゲルマニア像」は、ドイツを統一した当時のドイツ帝国のみなぎる自信が表現されているようです。

なぜこの場所が選ばれたのかよく分りませんが、古代ローマ帝国とは逆にライン川を重要な防衛ラインとして、東岸を死守しようとするプロイセン王国の発想によるものかも知れません。

鉄血宰相と言われた「ビスマルク」がヴィルヘルム1世の信任を得てプロイセン王国の宰相から新たに建国したドイツ帝国の宰相となって活躍した時代、日本も明治維新で新たな建国の時代を迎え、国造りのお手本としたドイツを訪れてみると親しみが湧いてきます。



船は、リューデスハイムを出て約15分で、対岸のビンゲンに着きました。

リューデスハイムの対岸とは言え、正確にはやや下流に位置しており、船の操縦も時々に変化する川の流れを計算して行われるものと思われます。

地図で見るライン川は、大きくは南から北へ流れていますが、マインツからここビンゲンまでは東から西へ流れ、再び北へ流れを変えています。

ビンゲンの町の西(下流側)ではナーエ川がライン川に合流し、その下流の「ねずみの塔」が築かれた中洲もナーエ川から流出した土砂で形成されたものと思われます。



ライン川沿いにビンゲンの教会の塔がそびえ、後方の小高い丘にはクロップ城がそびえています。

丘に建つ塔からは、東から北へと大きく流れを変えたライン川を広く見渡し、支流ナーエ川流域までも監視出来るものと思われ、クロップ城の場所に紀元前のローマ帝国が築いていた要塞「ビンギウム」が町の名「ビンゲン」の名の由来であることからもここが要害の地であったことがうかがわれます。

現在のクロップ城の建物の詳細は不明ですが、市役所や、歴史博物館として利用されているとされ、長い歴史の中で破壊と、再建が繰り返されてきた建物と思われます。



クルーズ船の前方に中州に建つ「ねずみの塔」と、右手の斜面に「ラインシュタイン城」が見えてきました。

ライン川が大きく北へ流れを変えるのは、あの辺りです。



「ビンゲン」の下流の中州に建つ「ねずみの塔[モイゼトルム]」です。

添乗員さんの資料では「昔、マインツの大司教が通行税を課していた税関所。その大司教がねずみに食い殺されたという伝説の地。」とあり、航行する船は、ここで通行税を徴収されていたものと思われます。

この中州は、後方のライン川西岸に近く、主として東岸に向いたこちらの建物の面から船の通行を監視していたものと思われます。

左の高い塔で見張り、隣のやや低い塔の上は弓や、鉄砲など戦闘に使われる施設だったのでしょうか。

壁から突き出た出窓からも180度の視界が確保され、屋内からも監視できたようです。

写真左上の紋章は、出窓のすぐ下の壁にあったもので、王冠をかぶった黒鷲の特徴は、プロイセン王国の紋章によく似ています。

プロイセン王国を中核としたドイツ帝国時代建国時代のものだったのでしょうか。

クルーズ船を降りたザンクトゴアハウゼンからライン川沿いを引返すバスの中で、添乗員Yさんから聞いたねずみに食い殺された大司教の話は、いまでも思い浮かびます。

神聖ローマ帝国の時代(962~1806年)、皇帝は7人の有力領主(選帝侯)による選挙で決められたとされ、マインツ大司教はその一人だそうです。

この一帯はマインツ大司教の支配下にあり、その時代からの城も多いようです。



急斜面にそびえるのは廃墟となった「エーレン城」です。

斜面に露出した岩場の上に石垣を築き、その上に築かれた城で、後方に二つの塔がそびえ、前方は窓のある建物です。

ぶどう畑の急峻さにも驚きますが、命綱でも結んで収穫作業などをするのでしょうか。

添乗員Yさんの資料では「マインツ大司教のもと、税関所として建設。普仏戦争でフランス軍が破壊。」とあり、対岸近くの中州に建つ「ねずみの塔」は、この城の付属施設だったのかも知れません。

又、普仏戦争で、フランス軍にこの城を破壊されたと言うことは、ライン川の防衛ラインが突破されたことになり(大砲による破壊かも知れませんが・・・)、「ニーダーヴァルト記念碑」がこの少し上流に造られたことと関連があったのかも知れません。



船は、2番目の寄港地「アスマンスハウゼン[Assmannshausen]」に近づきました。

KDライン社の桟橋はこのすぐ下流でしたが、この桟橋の後方に素敵な建物が並んでいました。

左の可愛らしい木組みの家には特に目を引かれます。

ラインクルーズはまだまだ続きます。

ドイツ・スイス旅行 2 ライン川下りの町リューデスハイム

2013年07月07日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目9:00頃、フランクフルトのホテルからバスで出発、ライン川沿いのリューデスハイムの町に到着したのは9:50頃でした。

このツアーの総勢は約20名、貸切りバスの後部座席はガラガラで、左右の席を自由に移動して風景の撮影が出来ました。



リューデスハイムのライン川沿いの道路に面した歩道の風景です。

左手に進むとレストランや、酒場が並ぶ「つぐみ横丁」で、添乗員のYさんが左の横丁を指さして何か説明している場面です。(最後の集合時の写真です)

写真右上は、「つぐみ横丁(Drosselgasse ドロッセルガッセ)」の入口の壁にあった看板で、地元名産のワインにちなむブドウがデザインされています。

よく見ると、歩道の足元にも同じブドウの模様が描かれており、横丁に入る目印となっているようです。



ドイツの地図にリューデスハイム付近の拡大地図を添えています。

観光ツアーのライン川クルーズの多くは、リューデスハイムからザンクトゴアハウゼンまでのようです。

私たちが利用したクルーズ船「KDライン社」の下りの時刻表を見ると、マインツから下流のケルンまで全線を運行する便があり、8:45発、20:00着と、11時間を超えるクルーズとなるようです。

リューデスハイムの町の散策は、ラインクルーズの乗船までの約30分で、乗船場に近い「つぐみ横丁」の入口が集合場所でした。



10:00頃のまだ観光客がまばらな「つぐみ横丁」の風景です。

通りの両側に多くの店がレストランや、酒場が続き、川沿いの道から山裾の道までを結ぶ約150mの狭い小路でした。

横丁の中間あたりの屋根に「Drosselhof(つぐみの庭)」の文字が書かれた鳥の形の看板があり、「つぐみ横丁」の雰囲気を感じさせてくれます。

この辺りで、添乗員Yさんがツアー全員の記念写真を各自のカメラで撮って頂き、その後の観光地でも同様で、多くの記念写真が残った旅行になりました。(大変感謝です)



リューデスハイムの町では素敵な看板が多く、写真をまとめてみました。

ブドウ畑に囲まれたワインの町だけに「ブドウ」の房や葉をデザインしたものが多く、「つぐみ横丁」の近くでは「つぐみ」をデザインしたものもあり、これらの看板が街並みを一層おしゃれな雰囲気にしているようです。

他にも個性的な看板が多くあったものの、街の景観には調和感があり、画一的な看板で調和感を出そうとする日本の商店街とは違い、のびのびとした楽しい雰囲気を感じる街でした。



「つぐみ横丁」の中間あたりの塔の上から突然、鐘の音でローレライのメロディーが演奏され、からくり時計も動き出しました。

ちょうど10:00、音楽の方向を見上げると、大小14個の鐘が吊るされた「カリヨン(組み鐘)」が取付けられた塔でした。

写真左下は、「カリヨン」の下にある「からくり時計」を拡大したもので、円盤に載せられた庶民的な姿の男女の人形が円盤の回転で、次々と登場する単純な構造のものです。

最初に登場する左の女性が美女のローレライでしょうか、続いて登場した三人の男性にはどんな物語が込められているのでしょうか。

「カリヨン」の演奏は、所々でメロディーや、リズムが外れていて、「つぐみ横丁」でワインに酔いしれた演奏者が二日酔いになっていたのかも知れません。



「つぐみ横丁」を通り抜け、山裾の道を右(東)に進んだ辺りのお土産屋さんに立ち寄ってみました。

屋根の上にクリスマスツリーや、ローソクが飾られ、玄関(写真左下)の両側には大きなクルミ割り人形も見られます。

ショーウインドウ(写真右下)を見ると、ぬいぐるみ人形や、木製の人形が並べられ、童話の世界を彷彿とするとても可愛らしいお店でした。



山裾の道を更に右(東)に進んだ辺りの風景です。

道に置かれた赤いパラソルの下に色とりどりの帽子が陳列され、その向こうにはおしゃれな木組みの家のレストランが見えます。

木組みの家には、たくさんの柱と、筋かいで飾られた壁に、ぶどうや、黒猫が描かれており(写真右下)、メルヘンの世界を感じさせられます。

そう言えば、ここは「メルヘン」発祥の地ドイツでした。



山裾の道を引き返し、ライン川沿いの道に通じる路地の風景です。(ツグミ横丁より東)

路地の向こうにライン川が流れ、向う岸には小高い森が続いているようです。

写真左下は、森の上にそびえる塔をズームで撮ったもので、対岸の町ビンゲンの教会のようで、ピンク色の壁が美しい建物でした。

こんなちょっとした路地でも絵になる風景が多く、素敵な町でした。



山裾の道を更に西に進み、つぐみ横丁を過ぎると右手に「ブレムザー館(自動演奏楽器博物館)」が見えてきました。

白い壁を赤い柱と、筋かいでデザインされた建物には三角の塔が四つそびえ、これもメルヘンを感じさせる建物です。

写真下段は、ブレムザー館の門から見た風景で、三角屋根のある二階の出窓が印象的です。



「ブレムザー館(自動演奏楽器博物館)」の東隣のレストランです。

ここも素敵な木組みの建物で、建物のあちこちにある鉢植えの花も素敵な雰囲気を演出していました。



山裾の道を少し西へ進んだ辺りから川沿いの道へ出ると、石積みの高い塔がそびえる「ボーゼン城」がありました。

門から建物まで続く長い道の両端には花が咲き乱れ、敷地内や、後方の山にはぶどう畑が広がっています。

ライン川の北岸に続く緩やかな斜面の畑で収穫されるブドウからは、特産のおいしい白ワインが出来るようで、つぐみ横丁には毎夜、多くのワイン好きで賑わうそうです。

後方に見えるゴンドラリフト(写真右上)は、左手(西)の丘の上にある「ニーダーヴァルト記念碑」へ行くためのもので、ライン川や、ぶどう畑の美しい風景が楽しめるようです。

「ニーダーヴァルト記念碑」はこの辺りからも見えましたが、クルーズ船からよく見え、次回の紹介とします。



川沿いの道に面した「ボーゼン城」の正門の西隣にあった「ブレムザー城」の風景です。

ワイン博物館として利用されており、門の脇の掲示板にはワイングラスがたくさん印刷されたポスターが見られ、特別展示がされていたのかも知れません。

ドイツ観光の1ヶ所目、リューデスハイムの街の散策は、わずか30分でしたが、思い出深いものでした。

「ニーダーヴァルト記念碑」までのゴンドラリフトに乗り、ぶどう畑や、ライン川の風景を見下ろしたかったのがちょっと心残りでした。

いよいよ世界遺産「ライン渓谷中流上部」のハイライト部分のクルーズへ出発です。

ドイツ・スイス旅行 1 ドイツへ出発! 初日のホテルでカルチャーショック

2013年07月04日 | 海外旅行
6月18日~26日までの9日間、南ドイツ、スイスの旅行に行ってきました。

出発前の天気予報では雨の日が多く、少し憂鬱な気持ちで出発しましたが、幸運にも好天に恵まれ、素晴らしい旅行が出来ました。

旅行会社(阪急交通社)の添乗員Yさんの心のこもったお世話や、ご一緒の皆さんにも恵まれたことでも、良い旅になったもので、深く感謝します。

とは言え、初日はトラブル続き、「始め良ければ・・・」とは違い、「始め悪くても終わり良し」の思い出深い旅行となったのが以下の話です。



旅行会社(阪急交通社)から頂いた今回の旅行のパンフレットの一部をダイジェストしたものです。

旅行のタイトルは、「岡山空港から行く スイス3つの名峰と、氷河特急・ベルニナ線 ドイツロマンチック街道の旅 9日間」とセールスポイントを総動員した長いものでしたが、実際の旅行も実に盛りだくさんで、大いに満足できる内容でした。

パンフレットには他に「ホテルを特にこだわりました」とあったように、驚くほどホテルがすばらしく、お得感と、安らぎを感じさせて頂きました。



パンフレットにあった9日間の「旅程」です。

<岡山空港~仁川空港~フランクフルト~南ドイツ各地~スイス各地~チューリッヒ~仁川空港~岡山空港>

当初、スイスだけのプランを検討していましたが、山が大半では単調になるのではと、ドイツ観光がセットされたプランに決めました。

スイス西部のモンブランや、スイスの町の観光が少ないプランでしたが、モンブランの雄姿が見られ、スイス東部のベルニナ線(世界遺産)に乗ることなど、パンフレットのタイトル通りにスイスの魅力は満喫できたと思います。



ヨーロッパの地図に旅行のコースを印したものです。

阪急交通社から頂いた「ロマンチック街道」と題する小冊子にあったヨーロッパの地図の一部を利用させて頂いて編集したものです。

スイスの面積は九州程度と言われており、南ドイツを加えた旅行の範囲は、その2倍程度でしょうか。

両国とも聞きなれない町の名が並んでいましたが、観光案内本や、地図などを見たり、現地を訪れてみると、次第になじみを感じる名になってきました。



岡山空港から韓国のソウル仁川空港への定期便10:00発の案内板です。

旅行会社の案内には8:00集合と記載されていましたが、岡山空港からのツアーへの参加者は、私たち夫婦のみで、ソウル仁川空港で福岡空港からのツアーに合流することになっていました。

しかし、韓国は初めて、仁川空港の搭乗口で合流するまで不安あふれる旅行のスタートでした。



雨の仁川空港の風景です。

岡山から乗ってきた大韓航空の飛行機ですが、通路を挟んで左右に3人が並ぶ小さな機体でした。

機内から降りる時、床にスリッパや、新聞などが多く散らかる風景を目にし、文化の違いを痛感したものです。

わずか1時間半のフライトでスリッパを使い捨てし、それを散らかした惨状は、エコ生活にいそしむ私たちからはとんでもない風景に見えました。

とは言え、勢いを感じるこの航空会社、この問題も改善したらまだまだ強くなる余地があるというところでしょうか。



フランクフルト空港が近づき、機体を傾け、旋回した時の風景です。

翼の向こうに見える川は、マイン川のようです。

フランクフルトの正式名は、「フランクフルト・アム・マイン」、マイン川(ライン川の支流)のそばにあるフランクフルトと言う意味だそうで、ポーランド国境近くにあるもう一つのフランクフルト、「フランクフルト・アン・デア・オーダー」(オーデル川沿いのフランクフルト)と明確に区別した名称にはドイツらしさを感じます。

12:45発で、約12時間余りの長いフライトでしたが、現地はまだ7時間遅れの18:00頃、おまけに日没が21:00過ぎとなると、私の腹時計は完全に狂ってしまいました。



1泊目、フランクフルトのキューブホテル(THE QUVE HOTEL)の風景です。

道路に面したゲートから見た正面玄関で、翌朝の出発前に撮った写真です。

ここで次々とトラブルが発生しました。



ホテルのカードキーを挟んでいた紙です。

右下の丸で囲んだ418は、「ルーム番号が分らない!」と、フロントまで聞きに行き、書いてもらったものですが、最初はその左の3文字だけでした。

左の3文字の2番目の文字は、「1」でした。

個人的な癖のある文字か、部屋に同様の文字が表示されているのかとも思っていましたが、この国では通常「1」をこのように書くことを後になって知りました。

「1」も推測した範囲でしたが、他人の部屋のドアを推測で開ける可能性があることから躊躇し、止む無くフロントへ聞きに行った訳です。

「普通に1と書けるなら最初から書いてくれよ!」と言いたくてもドイツ語の話せないもどかしさがこみ上げてきましたが、実際にはカルチャーの違いだったようです。



部屋の入口付近の風景です。

白い破線で丸く囲んでいる場所にエアコンのスイッチがあり、右下に拡大した写真を表示しています。

着いた日はドイツでは珍しい暑い日で、エアコンを付けるのに手こずった話です。

スイッチには「Further instructions in your service directory」と書かれてありましたが、壁の高い場所にあるこのスイッチがエアコンのものと断定できず、色々操作してみましたが、結局、部屋は涼しくならずギブアップ。

再び、フロントへ行き、近くに待機されていた添乗員さんを見つけて助けをお願いし、フロントの方と部屋まで来て頂きやっと解決しました。

このエアコンのスイッチ、左上の黒いボタンが風量調整で、ボタンを押すたびに、強弱レベルを表示する右上の三つのランプが順に点灯、最後は全灯しますが、写真のように右だけを点灯させると強い冷気がでるようです。

又、右下のダイヤルの黒い線を左に回し、写真のように一番下にセットすると、最も低い温度となるようです。

しかし、冷却レベルを最大に上げてもまだ涼しくならなかったことや、スイッチが背の低い女性が手を伸ばしてやっと届くような場所にあったことも不可解なカルチャーの違いでした。



洗面所の水道です。

ここでもトラブル発生です。

顔を洗っていた妻が、排水されないと騒ぎ出しました。

写真にはコックの裏に排水溝を開ける丸いレバーが見えていますが、正面からは分りませんでした。

しかも最初から排水溝が閉じられていたことで、水がたまって慌てふためいたものです。

やっと、後ろのレバーを見つけて排水したものの、このホテルの未知の世界にいささか疲れてしまいました。



バスルームの写真です。

ここでも同様のトラブル発生です。

先に風呂に入った妻が、ここも排水出来ないと言ってきたので、排水溝のフタをいじったり、周囲を探してみましたが、どうも見つかりません。

最後、この写真にあるオーバーフローの排水穴をよく見ると、何か排水穴以外の機能があるように見え、まわしてみたらやっと排水の音が聞こえてきました。

これまで経験した風呂では排水穴のフタにチェーンが付き、チェーンを引っ張ると排水できるものしか知らなかったもので、何とも情けないカルチャーショックです。

こんなトラブルが続いたものの、翌朝まで熟睡、気持ちの良い目覚めでした。



一夜明けたホテルの窓からの風景です。

すがすがしい朝の空気と、ドイツの風景に魅せられた妻が窓からの風景をスケッチしていた時、「何か動くものがいる!」とズームで撮った写真です。

白い破線の丸で囲んだ辺りにいたのは、何と「野ウサギ」でした。(写真左下)

街の緑は多いものの、人口約70万人のフランクフルトの街の中に「野ウサギ」がいるとは。

ちょっとうれしいカルチャーショックでした。

旅行2日目、好天に恵まれたドイツ観光の始まりです。

油絵「紫陽花」

2013年07月01日 | 妻の油絵

妻の油絵「紫陽花」(F6)です。

梅雨に咲く色鮮やかな紫陽花に感じる清涼感や、ハッとする魅力を表現したようです。

広島県東部では6月前半まで雨が少なく、ダムの貯水量が昨年の半分となっていました。

一部の取水制限も始まり、夏は風呂にも入れなくなるのではと心配していましたが、6月後半のまとまった雨で一気に昨年の貯水量を超えて一安心です。

旅行などで、ブログの更新をしばらくサボっていましたが、ボツボツ再開です。

旅行の疲れもようやく和らぎ、次回から「南ドイツ・スイス9日間の旅行」の想い出を綴る予定です。