昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-12 長崎市中島川の「眼鏡橋」と石橋群

2013年02月26日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目夕方、島原半島の観光を終え、長崎市のホテルへチェックインした後、中島川の「眼鏡橋」周辺の散策へ出かけました。



「出島」のあった長崎湾の東岸を河口とする中島川の「常盤橋」から上流方向を見た風景です。

すぐ前の石橋が「袋橋」で、中島川に架かる石橋群の最も下流に架かる石橋です。

「袋橋」のアーチの下に飛び石を渡る観光客の姿が見られ、その向こうの橋が「眼鏡橋」です。

写真には写っていませんが、「袋橋」の下流の両岸に中島川の水量を軽減するために造られた地下水路の出口が見えます。

昭和57年、記録的豪雨により「長崎大水害」が発生、中島川に架かる石橋の多くも甚大な被害があり、石橋の改修と、その景観を保持するため、川幅の拡張に代えて暗渠のパイパス水路が考えられたようです。

江戸時代、多くの石橋が造られたのは、狭い川幅に適していたのかも知れません。

後方左の高い山は、長崎市街地の北東にそびえる「烽火山[ほうかざん ]」と思われ、江戸時代初期に異国船侵略の緊急連絡の「烽火[のろし]を上げる史跡が残っているようです。



陶板に描かれた「中島川石橋群」の絵図です。

横長の絵図を左右に分割し、上下に並べています。

上半分の図(左の図)は、中島川の上流、下半分が(右の図)下流の石橋群です。

現存する石橋にはピンクの吹出し、石橋からコンクリート橋に架け替えられたものは、グレーの吹出としています。

江戸時代には中島川に石橋が14橋あったとされ、上流から「第1橋」~「第14橋」と呼ばれ、現在のように個別の名称が付けられたのは明治時代になってからのようです。

上流にある石橋「桃渓橋[ももたにばし]」には江戸時代の番号呼称がなく、中島川支流の橋だったことによるものでしょうか。

絵図の下流に見える「常盤橋[ときわばし](第12橋)」から下流にも「賑橋[にぎわいばし](第13橋)」、「萬橋[よろずばし](第14橋)」の二橋の石橋があったようですが、やはりコンクリート橋に架け替えられています。



「眼鏡橋」に次いで古いと言われる「袋橋」の風景です。

橋の上で記念写真を撮る人も見られますが、車両の通行が制限されておらず、今でも現役の石橋のようです。

丸い擬宝珠の付いた欄干の橋には、江戸時代の情調が漂っています。

■現地の案内板です。
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袋橋
   栄町一古川町 市指定有形文化財(昭和46年10月21日指定)
 中島川の第11橋。この橋は記録がなく、架設年月、架設者とも不詳。中島川の下流の石造アーチ橋では、眼鏡橋につぐ古い石橋との説もあるが、確証はない。
しかし、享保6年(1721)閏7月以降、度々 洪水にも流失を免れており、壁面を整然と積む、長崎型石造アーチ橋の形態を良く残している。この橋は、袋町(現・栄町)に架かるところから、袋町橋とも呼ばれたが、明治15年に袋橋と命名された。
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「袋橋」の近くに「坂本龍馬像」と並び立つ「上野彦馬像」が建っていました。

「上野彦馬」は、江戸末期の写真家で、「坂本龍馬」や、当時、長崎を訪れた著名人の写真を撮影した人です。

近くに生誕の地とされる場所があり、川縁に銅像を建てて紹介しているようです。

「上野彦馬」の写真に関する資料が長崎市東山手町の「古写真資料館」に展示されており、後日掲載予定です。

■誕之地にあった案内板です。
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上野彦馬生誕之地
 上野彦馬は、天保9年(1838)、銀屋町16番(現、長崎市銀屋町)に生まれた。
父・俊之丞は、長崎奉行所の御用時計師で、ダゲレオタイプ・カメラ(銀板写真機)を日本で初めて輸入した。彦馬は16歳から広瀬淡窓の私塾・咸宜園で漢学を学び、その後、長崎に戻り、オランダ海軍医ポンペのもとで舎蜜学[せいみがく](化学)を学んだ。このとき湿板写真術に興味を示し、津藩士堀江鍬次郎とともに、フランス人ロッシェについて、写真術を学んだ。
 文久2年(1862)、彦馬は、中島川河畔に商業写真館・上野撮影局を開設。
高杉晋作ら著名人の肖像や各地の風景を撮影し、貴重な写真を後世に残すとともに、多くの門人を育成し、わが国写真業界の基礎を築いた。
 また、明治7年(1874)金星観測の写真撮影に参加。
さらに、明治10年(1877)には西南の役に従軍し、日本初の従軍写真家として活躍し、明治37年(1904)65歳でこの世を去るまで、写真技術の発展に多大な功績を残した。
   平成18年 長崎さるく博’06記念   長崎南口一夕リークラブ寄贈
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「袋橋」から見た「眼鏡橋」の風景です。

ちょっとおしゃれな白い目地が地味な石橋のイメージを親しみのあるものにしているようです。

中島川の両岸の遊歩道や、飛び石から水辺に映る眼鏡橋の風景を楽しむことが出来ます。

■現地の案内板です。
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眼鏡橋 めがねばし
  栄町-諏訪町  国指定重要文化財(昭和35年2月9日指定)
 中島川の第10橋。わが国最古の石造アーチ橋で、寛永11年(1634)興福寺唐僧黙子[もくす]禅師によって架設された。
 黙子禅師は中国江西省建昌府建昌県の人で、寛永9年(1632)に日本に渡来したが、石橋を架ける技術指導者でもあったようである。しかし、この眼鏡橋は、正保4年(1647)6月の洪水で損害を受け、慶安元年(1648)平戸好夢[こうむ]によって修復がなされた。
川面に映るその姿から、古来より“めがね橋”の名で長崎の人たちに親しまれていたが、明治15年(1882)に正式に眼鏡橋と命名された。
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飛び石から見た「眼鏡橋」の風景です。

穏やかな水面に橋の風景が映り、心が和む水辺の風景です。

川に対し、橋がやや斜めに架かるためか、メガネのシルエットが縦長です。



妻が立つ「眼鏡橋」のたもとの風景です。

橋に二段の階段が見られますが、擬宝珠のある欄干は「袋橋」と似ており、この橋を手本にして数多くの石橋が造られた歴史が実感できるようです。

二段の階段は、一時、取り除かれ、スーロプに改造されたようですが、再び江戸時代の姿を取り戻したようです。



中島川の河畔に「眼鏡橋」造った中国僧「黙子如定」の銅像がありました。

「黙子如定」(1597~1657年)は、長崎市の黄檗宗(禅宗)興福寺二代目住職に就任するため、1632年(寛永9年)に来日し、日本で生涯を終えています。

「黙子如定」が伝えた中国式の石橋技術は、洪水に強い架橋技術として日本各地に広がっており、多くの人々が恩恵を受けたものと思われます。

■銅像の案内板です。
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黙子如定の像
長崎の地に370年余りもの長い歴史を持つ眼鏡橋は『黙子如定(1597-1657)』という中国の江西省の僧が寛永9年に日本に渡来し同11年(1634)に我が国最初のアーチ型石橋として眼鏡橋を完成させた。
川面に映るその姿から古来より『めがね橋』の名で長崎の人たちに親しまれ、明治15年に正式に眼鏡橋と命名された。
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「眼鏡橋」の上流「魚市橋」の下に飛び石があり、たくさんの鯉が泳いでいました。

「眼鏡橋」周辺を散策する人々を和ませる水辺の風景です。



中島川の河畔にの公園に「シーボルトの桜」と案内された桜の若木がありました。

江戸時代末期、帰国したシーボルトが持ち帰った桜がヨーロッパで繁殖し、再び日本へ持ち帰られたようです。

シーボルトは、長崎に「鳴滝塾」を開き、西洋医学の教育を行った他、伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図」を持ち帰ろうとして国外追放となった事件でも有名です。

美しい日本の桜がヨーロッパに伝えられたことは、初めて知るうれしい歴史でした。

■現地の案内板です。
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シーボルトの桜
 この桜はシーボルトによって1866年頃ヨーロッパに紹介され、始めて見る桜にヨーロッパ人は魅了され、広まりました。
ヨーロッパでは、日本の有名な浮世絵師葛飾北斎の名前をとって、ホクサイと呼ばれました。

 この桜は八重桜の一種です。
普通は、桜の花には香りがありませんが、この花は芍薬(しゃくやく)のような香りがします。
花は長い期間咲き、薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます。
140年後に長崎に帰ってきました。
                      2006年3月
NPOながさき千本桜
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「魚市橋」から見た上流の石橋「東新橋」と、その向こうにコンクリートの「芋原橋[すすきわらばし]」が続く風景です。

「東新橋」の欄干の擬宝珠などは、下流の「袋橋」とよく似ていますが、橋の反り返りがやや大きいようです。

「中島川石橋群」の絵図にあるように「芋原橋」を右手に進むと「黙子如定」が住職を務めた「興福寺」に至ります。



中国僧「黙子如定の像」の対岸に中国で制作された大理石の「水害復興と友好の記念碑」がありました。

昭和57年の「長崎大水害」では長崎市に通じる道路の多くが通行出来なくなり、救援物資などの輸送に大きな障害があったことを思い出します。

中島川の石橋も6橋が流失し、3橋が一部崩壊しており、大きく崩壊した眼鏡橋の画像が全国ニュースで報じられていました。

江戸時代、「眼鏡橋」に始まる石橋の建設の多くが来航した中国人の寄付を集めて造られたようで、「中島川石橋群」の絵図にある寺院を菩提寺とする中国の人々の参拝の便も考慮されていたのかも知れません。

現代の橋は、公共事業で造るのが常識となっていますが、江戸時代の長崎に民間の寄付で多くの石橋が造られた歴史も驚きです。

長崎に伝わる祭りにも中国の人々が伝えたものが多く、長崎は、西洋文化の窓口だったイメージ以上に中国とのつながりが大きかったことを知りました。

■現地の碑文です。
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水害復興と友好の記念碑
 昭和57年7月23日、長崎の街は想像を絶する集中豪雨により、死者、行方不明合わせて262人という大惨禍を受け、美しかった中島川石橋群も6橋が流失し、3橋が半壊しました。
 この碑は、中島川に石橋を架けるなど古くからゆかりの深い中国に依頼して製作した水害復興記念碑です。
 像は、不思議な能力を持った伝説上の中国の少年と元気な日本の少女が力を合わせて、風を呼び雨を呼ぶ巨大な龍を従わせている姿で、治水と日中の友好を象徴しています。
  平成元年2月23日
    長崎市長 本島 等
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油絵「胡蝶蘭」

2013年02月24日 | 妻の油絵

妻の油絵「胡蝶蘭」です。

花の終わりかけた枝二本を切り、花瓶に挿して描いています。

長い枝に咲く胡蝶蘭は、華麗に舞う蝶の姿にも見えていたそうですが、短い枝では華麗さは無くなるものの、花の美しさは静かに伝わってきます。

胡蝶蘭には「幸福が飛んでくる」の花言葉があるそうです。

終わりかけたこの花に運んできてくれた小さな幸せを感謝したいものです。

長崎旅行-11 雲仙市小浜町の「金濱眼鏡橋」

2013年02月19日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、島原半島南端に近い口之津港を後に島原半島西岸を北上、雲仙市小浜町金浜の「金濱眼鏡橋」に立ち寄りました。

九州各地には多くの古い石橋が造られており、その見物も旅行の楽しみです。



金浜川のせせらぎに架かる「金濱眼鏡橋」です。

「金濱眼鏡橋」は、江戸時代末期の1846年(弘化3)に造られたアーチ型石橋で、アーチの向こうにコンクリート製の橋も見えます。

自動車が走る現代の橋と、流失対策で堅牢性を重視先して歩いて渡る江戸時代の橋が重なる風景です。



橘湾に面した島原半島南西部の雲仙市小浜町金浜周辺の地形図で、「金濱眼鏡橋」は、赤丸印の場所です。

右下隅は、「金濱眼鏡橋」周辺を拡大した地形図で、金浜川南岸の国道251号の脇に専用駐車場があり、「金濱眼鏡橋」は、旧道と思われる海岸沿いの道との中間にあります。

「金濱眼鏡橋」の下流側には金浜川の支流が合流しており、河口の南の小さな入江が金浜漁港です。



「金濱眼鏡橋」の上から国道251号が見える上流側を見た風景です。

「金濱眼鏡橋」の駐車場が国道が通る橋のたもとにあり、その下にある白壁となめこ壁の建物は、公衆トイレのようでした。

川岸に遊歩道が造られ、水辺を歩きながら「金濱眼鏡橋」の風景を楽しむことが出来るようです。



「金濱眼鏡橋」の上から下流の河口方向を見た風景です。

金浜川の両岸の遊歩道は、旧道の橋の下まで続き、約100mのちょっとした川辺の公園になっていました。

金浜川の河口のはるか沖には諫早市付近の山並みが見えます。



国道脇の駐車場に「金濱眼鏡橋」の石碑がありました。

写真を撮って帰りましたが、読み取りに苦労しました。

前後の文で、推測した部分もあり、間違っていたらご容赦ください。

■石碑の碑文です。
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金濱眼鏡橋由来記
 昔時、金濱川はしばしば氾濫し、
洪水のたびに架橋は流失した。ために
人々は苦しみ、その復旧作業に難儀した。
北串山の人、岡右衛門はこの窮状を
見かね、石橋架橋によって人々の難を
救わんと決意し、弘化三年(一八四六年)
遂にこれを完成した。当時の架橋技術の
最高を駆使したと言われる。
爾来およそ百五十年、この石橋は、
よく風雪に堪え、橋畔のアコウの樹とともに
生きて、時代の流れを見守り続けてきた。
しかしながら永い歳月の間に石材は風化し、
欄干や橋底は落ちるなどして、往年の
面影を止めないまでに傷みが激しくなった。
かつて、この石橋に通じる道路は、
「殿様道」とも称されて、藩制時代は
重要な街道でもあった。平成の今日、
生活道路としての意義は薄れたが、
今、往年の金濱眼鏡橋を解体修理して
平成金濱眼鏡橋を復元し、併せて河畔を
整備する。
そのゆえんとするものは何であるか。
それは、一つには、先人の遺徳を偲び
その尊い顕績を称えんがためである。
そして、またそれはこのすぐれた文化財を
永く児孫に伝え、その郷土愛の魂に
培わんとするためである。
  平成五年(一九九三年)三月三十一日
    小浜町教育委員会
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「金濱眼鏡橋」北岸に建つ石碑です。

石碑に刻まれた金色の文字は、橋や、川の名称「金」の文字を意識したものでしょうか。



「金濱眼鏡橋」の北詰の風景です。

アーチ型が高く、北岸の高さが低いためか、6段の階段が必要だったようです。



「金濱眼鏡橋」を歩き、中程から北岸をふり返った風景です。

橋の向うに直進する道がなく、不自然な位置に架る橋です。

石碑によると、橋に通じる道は、「殿様道」とも称され、「藩制時代は重要な街道だった」としており、平成の解体修理の時に橋の場所が変更されたことが考えられます。

北岸の高さが低く、橋に階段を設置したのは、直進の道がなく、長い傾斜の道を造れなかったことによるものと思われ、移設の際の苦肉の策が階段だった可能性もあります。



「金濱眼鏡橋」の中程から橋の南詰めを見下ろした風景です。

こちらは、石のアーチの先には階段がなく、長い坂道が続いています。

右手には「金濱眼鏡橋」150年の歴史を共にしたと石碑に書かれているアコウの樹がそびえ、坂道の右側に金浜川の小さな支流が流れています。

アコウは、「締め殺しの木」の別名を持つクワ科イチジク属の植物で、大木に寄生して長い気根を伸ばし、最後には大木を覆って枯らせてしまう怖い木でもあります。

もしかして「金濱眼鏡橋」と歴史を共にしていたのはアコウが寄生した大木だったのかも知れません。

長崎旅行-10 三池炭鉱の輸出港で栄えた口之津の歴史

2013年02月15日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、前回に続き、島原半島南端に近い南島原市口之津の「海の資料館」「歴史民俗資料館」「与論館」の見学です。

前回は、口之津港へ南蛮船が来航して繁栄した時代の歴史でしたが、今回は、「三池炭鉱」の輸出港として繁栄を誇った明治時代に歴史です。



展示室に入ると、たくさんの人々が汽船に群がる不思議な絵の前に石炭を積んだ小さな船が展示されていました。

船は、大牟田港から石炭を運んだ団平船[だんべいせん]と呼ばれるもので、汽船に積み替える作業風景の再現展示でした。

団平船の上に置かれた藁の容器に入れられた石炭を、汽船に架けられた梯子に多くの作業婦が立ち、リレーで運び上げているようです。

天然の良港とは言え、接岸する埠頭がなく、クレーンなどもなかった明治時代の作業風景に驚きます。

作業では「ヤンチョイヤンチョイ」との掛声が掛けられたとあり、大きなメガホンを持つ人が手渡しのタイミングを掛声で合図して作業ペースの管理をしていたのかも知れません。

下段右の絵は、上段パネルの作業風景の絵を拡大したもので、下段左は、作業風景の展示写真の一部分です。

又、説明文に石炭5トン=四斗樽100杯、四斗樽=容器8杯とあり、容器の石炭は平均6.25Kgで風袋を合わせて8Kg程度の荷物リレーだったようです。

長時間労働で、休みも少なく、猛暑や、真冬の寒さ、大雨などに関わらず海上に立ち続ける作業は、現代では考えられない厳しさだったと思われます。

■パネルの説明文です。
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 石炭[ごへだ]積み
三池から輸送された石炭はこのようにして団平船[だんべいせん]から手運びして本船(内外汽船)に積込みこの時の掛声をヤンチョイ、ヤンチョイと言ったのでこの容器をヤンチョイカガリというようになりました。
こうして運んだ石炭は本船の上で四斗樽に移し、容器[かがり]八杯で樽一杯となり樽一〇〇杯が五屯という計算でした。
つまり四斗樽は石炭の量をはかる枡[ます]の用をなしたのです。

 労務契約は次のとおりでした
一、本船積込み       一屯につき八銭四厘
一、舶倉内の石炭かきならし 一屯一銭
一、石炭陸揚[あかあげ]   一屯五銭
一、陸より団平船積出し   一屯四銭八厘
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上段の写真は、口之津港の明治20年代の(南から見た)全景写真で、赤い破線で囲んだ船が団平船のような小舟に囲まれており、中段に写真を拡大してみました。

この様子から見ると、口之津港には汽船が接岸する埠頭がなく、湾内に停泊して積込みを行っていたものと思われます。

下段は、明治30年代の(北から見た)全景写真で、埋め立てられたと思われる海岸に倉庫が並ぶ風景が見られます。

展示された年表には三井は、明治28年に貯炭場として口之津の大屋、中橋と呼ばれる地域21,000坪を買収したとあり、海岸に建ち並ぶ倉庫(赤い破線で囲んだ部分)には大量の石炭が貯蔵されていたものと思われます

口之津は、輸出船への積替えを行う拠点から、入出庫作業、保管を伴う本格的な物流拠点となって発展したようです。

訪れた口之津の町は、これらの写真の時代から早や110~120年が経過、これらの歴史を知らなかった私には口之津港の往時の面影はほとんど気が付きませんでした。



上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。

口之津から輸出された三池炭鉱の石炭は、三池港が開港した1909年(明治42)までは、北に隣接した大牟田港から積出されていたようです。

三池山から大牟田川河口近くまで鉄道が敷設され、口之津までの輸送経路が見えてきます。

下段の口之津港周辺の地形図には前述の倉庫群があったと思われる場所を印しています。



たくさんの「団平船」を汽船が牽引する珍しい写真が展示されていました。

冒頭の写真で、汽船積み込む石炭を積んだ小さな船「団平船」が口之津港へ航行する風景でした。

冒頭の写真に石炭を積む「団平船」が展示されていましたが、この写真の「団平船」は、1本のマストがあり、船も少し大きいように見えます。

■パネルの説明文です。
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団平船
大牟田港から口之津港への運炭船(団平船)
団平船を数珠つなぎにして
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「口之津港」の貿易実績統計が展示されていました。

下記に掲載した説明文だけのパネル「三井との関係について」にありますが、口之津港は、1876年(明治9)に上海へ石炭輸出を開始、1906年(明治39)に最高額を記録、1909年(明治42)三池港の開港で入港船舶が激減したようです。

展示された統計からは口之津港からの輸出がいつまで続いたのか分かりませんが、昭和5年の貿易額は見る影もなくなっています。

■統計パネルに添えられた説明文です。
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三井との関係について
三井は明治9年から三池石炭を口之津軽由で上海へ輸出するようになった.出炭量、輸出量の増加に伴い口之津に税関を設け、
明治29(1896)年 口之津は輸出入貿易港に
明治39(1906)年 口之津から石炭輸出額最高に
明治42(1909)年 三池築港で口之津入港船舶は激減
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上段の写真は、「海の資料館」「歴史民俗資料館」に並ぶ「与論館」の建物の中に展示されていた「与論長屋」で、下段の写真にある当時の家を縮小し、移設したものです。

口之津港が輸出港として繁栄した時代、薩南諸島から多くの人々が移住し、石炭の船積み作業などで働いていたようで、「与論館」は、与論島の区長(村長)に率いられた約1200名の集団移住者があった歴史から姉妹町協定が結ばれ、展示されているようでした。

この写真からは当時の生活はうかがうことができませんが、「三池炭鉱 月の記憶―そして与論を出た人びと」(井上佳子著、出版石風社)によると、土間にゴザを敷き、親子がゴロ寝していたとあり、移住した人々は長屋での極貧生活を耐えていたようです。

■与論館の入口にあった案内板です。
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与論館
与論島[よろんじま]をはじめ鹿児島の島々から明治32年に集団移住し、苦労して口之津の繁栄の一端を支えてくれた。
この人たちを偲ぶ唯一の証として「与論長屋」を縮小再現した。
また、与論町と口之津町の絆を示す資料を展示している。
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■「与論長屋」の案内板です。
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与論長屋
 口之津が石炭輸出港として栄えた明治三十年(一八九七年)の頃、不足した労務者を南西諸島から募集した。特に与論島から、時の上野応介村長を始めとする千二百二十六名の応募があり、集団でこの地に移住したのて、ここに長屋を建設して収容した。これを俗に「与諭長屋」といって、この地区と焚場(現在の栄町)に数棟ずつ建設されていた。
 三池築港完成後、労務者が余り、与論の人達は島に帰ったり、三池に移住したりしたので、家屋は逐次取り除かれた。数棟のうち只一棟が八十余年の歳月に耐え、昔の名残りをとどめていたがこれも倒壊寸前となったので、昭和六十一年一月十日解体した。
 この家屋はその一部で、口之津の繁栄を支えてくれた与論の人達の労苦をしのび、併せてこの絆を長く伝えるため、所有者三原源二朗氏の好意により保存するものである。
 昭和六十一年三月
   口之津町
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「与論長屋」の建物の中にに展示されていた作業衣と、作業具です。

移住した当初、寒い冬でも芭蕉布で作った着物一枚で黙々と石炭を運んだ話も伝わっており、温かい与論島から来た人々には寒く、つらい土地だったと思われます。

書籍「三池炭鉱 月の記憶―そして与論を出た人びと」によると、移住したきっかけは、明治31年8月の台風による甚大な被害と、干ばつによる主食のさつま芋の不作、蘇鉄の澱粉採取・解毒に必要な水の不足により島は大飢饉に陥り、人手不足の三井三池炭鉱関係の募集で、集団移住したようです。

島に帰ることが出来ない人々は、口之津の生活環境が厳しくても耐えるしかなく、仕事の無い日には皆で集まり、三線・太鼓で、島の民謡を歌い、慰め合っていたようです。



海の資料館に展示されていた作業道具です。

ヒモの付いた竹カゴは、「陸揚[おかあげ]ばら」、鍬のような物は、「石炭荷揚用具」と案内されています。

様々な機械や、便利な道具が整備された現代の作業環境も、こんな簡素な状況から少しずつ発達したことを改めて教えられます。



これも海の資料館に展示されていた南海日日新聞(奄美市)の切り抜きです。(上の手書きの日付けが18.11.15とあり、2018年でしょうか)

記事によると、口之津港へ集団移住したのは、与論島だけではなく、沖永良部島からもあったようです。

明治31年代の口之津会員寄宿所作成の「海員申込人名禄」「海員人名簿」が口之津歴史資料館館長により見つけられ、与論島以外に沖永良部島から188人の集団移住も確認された他、喜界島24人、奄美大島14人、徳之島4人の移住も確認されたとしています。

船内で働く人が多かった沖永良部島の人々は、三池港の完成後には仕事が激減して帰島したり、各地へ分散したようです。

一方、船積み作業に従事した与論島の人々の多くは新設の三池港に移行した作業のため、大牟田へ移り、集団移住の歴史もよく伝えられていたようです。

台風被害や、大飢饉が薩南諸島一帯に広がっていたことがうかがわれます。



「口之津歴史民俗資料館」の二階に「からゆきさん」の展示コーナーがあり、様々な資料が展示や、山崎朋子さんの小説「サンダカン八番娼婦」のビデオ放映(約10分間)も見ることができました。

この展示案内を見た妻が「からゆきさんの港はここだったのか!」と驚き、昔読んだ「サンダカン八番娼婦」の記憶が蘇ったようです。

三池炭鉱の輸出港口之津から密かに乗船し、悲しい門出となった娘たちの展示資料に心を痛めながら見学しました。

■展示コーナーの案内文です。
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からゆきさん
明治から大正にかけて島原、天草地方の貧しい農家や漁村の娘たちが口之津港から石炭船の船底に隠されて、中国や東南アジア各地に売られていった。
その娘たちを「からゆきさん」と呼び、貧困の悲劇として語り継がれているが、「島原の子守唄」はこれをテーマにしたもの。
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「からゆきさん」の展示コーナーにからゆきさんだった女性の写真や、小説「からゆきさん物語」などが展示されていました。

「からゆきさん物語」の説明文に「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平さん(1980年逝去)の遺稿を2008年に出版したものとあり、映画「まぼろしの邪馬台国」で、竹中直人さん演じる盲目の宮崎さんの研究を吉永小百合さん演じる妻和子さんの物語が浮かんできました。

1917年(大正6)、島原市に生まれ、郷土の歴史家宮崎さんが「からゆきさん」の歴史に興味を持ち、書き残した未完の作品だそうです。

実在した「からゆきさん」とされる数名の女性の写真も展示され、過酷な境遇を耐えて生きていた歴史を生々しく実感させられるようでした。

■展示コーナーの案内文です。
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下の写真のからゆきさんは明治三十六年頃、十六歳の時、口之津港を出ていきました。
彼女の苦難の生涯を小説化したのが「島原の子守唄」で知られる作家・宮崎康平氏の遺稿「ピナンの仏陀」です。

<書籍販売の案内>
「ピナンの仏陀」九州文学1~5号 各800円、これを一冊にまとめたのが「からゆきさん物語」2600円
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「明治29年頃の口之津全景」のタイトルで「海の資料館」展示されていた写真です。

口之津港の入口付近の北岸から右手に入り込んだ湾の奥を見た風景のようです。

この写真の左端に写る汽船は、「島原の子守唄」の歌詞の一節にある「青煙突のバッタンフール」と呼ばれた船で、「からゆきさん」が密かに積まれて行ったとされる英国船だそうです。

石炭の輸送には、日本船の他、英国船、ドイツ船も入港していたことが説明されており、外国船「青煙突のバッタンフール」は人々の印象に強く残っていたものと思われます。

よく見ると「島原の子守唄」の作詩は、作家「宮崎康平(耿平)」によるもので、驚くことに「島原の子守唄」の歌詞も「からゆきさん」をテーマとしていたようです。

南蛮船来航の地として訪れた口之津港で、心に残る歴史を知りました。

下記に「バッタンフール」の説明と、「島原の子守唄の歌詞」(二番の歌詞に)も添えています。

■展示写真の説明文です。
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明治29年頃の口之津全景
 (三池炭の輸出港)
左から順に青煙突のバッタンフール、口之津灯台、検疫所、税関、着工直後の貯炭場、そして無数の団平船(艀船)が描かれている。
口之津が栄華を極めた時代を表す象徴的な絵である。
     提供:口之津史談会
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■「バッタンフール」の説明文です。
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バッタンフール船
イギリス船バッタンフールは口之津に最も多く入港した石炭船で「島原の子守歌」にも青煙突のバッタンフールとして登場します。

バッタンフール船:バターフィールドカンパニーの船の略称
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■CD「コロンビア・アワー 歌声喫茶の頃 山のロザリア」添付の歌詞です。
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島原の子守唄
 島倉千代子、コロムビア・オーケストラ
 作詩.宮崎耿平/採譜・宮崎耿平/編曲 言関裕而

おどみゃ 島原の
おどみゃ 島原の
ナシの木 そだちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼[おに]の池[いけ]ん久助[きゅうすけ]どんの 連[つ]れん来らるばい

姉しゃんな 何処[どけ]行たろかい
姉しゃんな 何処行たろかい
青煙突の バッタンフール★
唐は何処ん在所[ぬけ] 唐は何処ん在所
海の涯ばよ ショウカイナ
泣くもんな がねかむ オロロンバイ
あめ型買うて 引張らしょ

彼所[あすこ]ん人[ふと]は 二個[ふたつ]も
彼所ん人は 二個も
純金[きんの指輪[ゆぷがね]はめとらす
金な何処ん金 金な何処ん金
唐金[からきん]けなばい ショウカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ
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油絵「帆船のある静物」

2013年02月09日 | 妻の油絵

妻の油絵「帆船のある静物」です。

前回、「口之津海の資料館」の南蛮船模型を掲載しましたが、今回も帆船模型の絵になりました。

前に置かれた静物は、古びた帆船模型の色と調和するようパン、ホオズキ、クルミで、背景には白い椅子の背もたれが描かれているようです。

帆船は、ヨーロッパの男達が夢をいだいて、大海原へ乗り出し、地球を一周する航路が開発された大航海時代の主役です。

大砲を装備した戦艦でもあり、かつては遭遇した船に緊張を走らせる迫力があったと思われますが、今ではレトロな雄姿に親しみを感じ、鑑賞する時代になったようです。

長崎旅行-9 南蛮船来航の地「口之津港」

2013年02月04日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、南島原市の「原城跡」を見学した後、島原半島南端に近い「口之津港」へ向かいました。

戦国時代末期、島原半島一帯を支配する大名「有馬義貞」は、実弟だった隣国の大名「大村純忠」を通じて南蛮船の来航を求め、キリスト教の布教を許したことから「口之津港」は歴史の舞台に登場することになりました。



口之津開田公園に隣接して「南蛮船来航の地」と刻まれた記念碑と、案内板が建てられていました。

何故か、この一郭は、四方を堀で囲まれ、小さな石橋を渡って入って行きます。

口之津港の海岸一帯は、埋め立てられたとされ、四方の堀は、海が埋立てられた過程を示すものかも知れません。

■「南蛮船来航の地」の案内板です。
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南蛮船来航の地
永禄五年(一五六ニ)有馬義直(義貞)口之津港を貿易港として開港
永禄十年(一五六七)司令官トウリスタン・ヴァスダウエイガの南蛮定期船の外二隻の南蛮船が入港
天正四年(一五七六)司令官シマンガルシーアのポルトガル船(ジャンク)が人港
天正七年(一五七九)ポルトガル船入港 巡察師ヴァリニァーノが口之津に着く
             全国宣教師会議を口之津で開催した。
天正八年(一五八〇)南蛮定期船(ジャンク)入港天正十年(一五八ニ)南蛮船入港(これが最後の入港)
             フロイス、口之津に居住し京都から届いた本能寺の変をこの地からヨーロッパに発信した。
こうして開港以来二十年間南蛮貿易商業地として栄えた。この間キリシタン布教の根拠地とし、また西洋文化の窓口としても栄えたのである。
  昭和十六年ー月十七日長崎県史跡指定
    口之津町教育委員会
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上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。

天草諸島の北端の港「鬼池港」は、島原半島南端の港「口之津港」とフェリーで結ばれています。

熊本県の三池港は、大牟田市の東にあった三池炭鉱の積出港で、大型船が入港できなかった約30年間(1879~1909年)は、「口之津港」を上海への輸出港としていたようです。

下段は、口之津港周辺の地形図で、「開田[ひらきだ]公園」から「口之津歴史民俗資料館」の順で見て廻りました。

その途中に大きな観音像が立つ「玉峰寺」がありますが、キリシタン時代に「口ノ津天主堂」があった場所と考えられているようです。

口之津の南にある「烽火山[のろしやま]」は、googleの地図で見つけたものですが、古代の烽火[のろし]台のようにも思われます。

「肥前風土記」の高来郡(諫早市付近から南の島原半島)には「駅は四所、烽は五所」とあり、この辺りにも交通網と並行し、烽火[のろし]による軍事通信網が整備されていたようです。

天智天皇の時代、百済再興をめざす「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れ、西日本各地に山城や、烽火台が一斉に整備された時期のものかも知れません。



口之津開田公園の風景です。

上段は、北の端から見た風景で、下段は、ゲートの様な建物をくぐり、南に進んだ風景です。

中世ヨーロッパをイメージで整備されたとするシンメトリーの公園で幾何学模様の庭園は、自然の風景が取り入れられて安らぎを感じる日本庭園とは異質の雰囲気です。

かつて口之津で花開いた南蛮文化と、この公園のイメージは余りつながりを感じられませんでした。



白いペンキで塗られた「口之津海の資料館」を正面駐車場から見た風景です。

後方の淡いピンク色に塗られた建物は、明治32年開設の「旧長崎税関口之津支署庁舎」を再利用した「口之津歴史民俗資料館」で、右端に前方に少し見えるのが「与論館」と、三館をまとめて見学ができます。

「口之津海の資料館」には口之津が繁栄したキリシタン時代と、三池炭鉱の貿易港として繁栄した明治時代展示があり見学させて頂きました。



「口之津海の資料館」の横から渡ってきた「なんばん大橋」方向を見た風景です。

車1台が通る狭い橋で、対向車を心配して渡りましたが、人家も少なく交通量は余りないようです。

口之津港周辺の地形図でご覧頂けますが、「なんばん大橋」は、小さな入江に架けられたアーチ橋で、住宅が並ぶ狭い海岸沿いの道路のバイパスとして造られたのかも知れません。



「なんばん大橋」のたもと、「口之津海の資料館」の前に大きな南蛮船の絵が掛かっていました。

はるばる来航した南蛮船が波を蹴立てて航行し、幟をたなびかせた多くの小舟は、喜び勇んで並走する歓迎の風景でしょうか。

口之津港が南蛮貿易で繁栄した時代を彷彿とさせます。



「口之津海の資料館」に南蛮船が来航していた頃の美しい口之津港の風景画が展示されていました。

海岸を見下ろす教会、沖合に大きな南蛮船が見え、右手向こうに停泊する二艘がジャンク船としたら初来航の風景かも知れません。

1562年(永禄5)有馬義貞は、口之津港を開港したものの、初めての南蛮船来航は、5年後の1567年(永禄10)でした。

実弟の隣国の大名「大村純忠」が1561年(永禄4)に横瀬浦(大村湾の北)を開港し、1563年(永禄6)に領内の反乱と、豊後商人による焼打ちに遭い、南蛮貿易は、一時頓挫したようです。

横瀬浦事件や、領内のキリシタンの布教を懸念する義貞の父晴純(隠居中)は、キリシタンを禁止したものの1566年(永禄9)に亡くなり、解禁されたようで、口之津港への南蛮船の来航には様々な曲折があったようです。

■展示パネルの説明文です。
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南蛮船来航について
南蛮船(ポルトガル船)が最初に口之津に入港するのは1567年である。
1艘のナウ型と2艘のジャンク船だった。その後、1582年まで5回入港した。
来航の目的は、交易とキリスト教の布教であり、西洋文化の窓口となった。
この地は、有馬義貞が開港して以来、有馬侯の外港であった。
名だたる宣教師にアルメイダ、トルレス、フロイス、ヴァリニャーノらがいる。
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「口之津海の資料館」に展示されていた南蛮船の模型です。

口之津港の南蛮貿易の開港1562年からちょうど450年、記念イベントの「世界帆船模型展覧会」が近くの公民館で開催されており、パンフレットを頂きました。(時間がなく行けませんでした)

船の後部の甲板が傾斜して船尾が三階建てのように高くなっています。

昔、仙台旅行で支倉常長の乗った「サン・ファン・バウティスタ号」を再建した船を見学した時、、高い船尾には支倉常長や、船長の部屋があったのを思い出しました。

下の展示パネルによると、「南蛮船」の他に、「紅毛船」の名称で、オランダ・イギリスの船が区別されていたとされます。

確かに、南欧に多い黒髪と区別して、北欧側の「紅毛」の表現は分るような気がします。

江戸時代の長崎で続いたオランダの貿易にも「南蛮」のイメージを持っていた私には目からウロコでした。

■展示パネルの説明文です。
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南蛮船の来航と口之津
(1)南蛮船とは
ポルトガル船 南蛮船
スペイン船        黒船
オランダ船  紅毛船
イギリス船

(2)口之津入港
1.永禄10(1567)年 3艘
2.天正 4(1576)年 1艘
3.天正 7(1579)年 1艘 ヴァリニャーノ
4.天正 8(1580)年 1艘
5.天正10(1582)年 1艘

(3)日本来航と艘数
1.平戸  1550年~ 18艘
2.横瀬浦 1562年~ 5艘
3.福田  1565年~ 6艘
4.口之津 1567年~ 7艘
5.長崎  1571年~ 18艘
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「南蛮船の航路」と書かれた地図が展示されていました。

当初、ポルトガル商人は、マラッカを拠点としていましたが、マカオへ進出し、中国・日本との仲介貿易も拡大させたようです。

遠いヨーロッパからの商品を交易すると思っていましたが、日本が輸入する主体は中国の生糸だったようで、大量の銀が購入に充てられたようです。

世界遺産となった当時の石見銀山の権益は、尼子氏から毛利氏に移り、その後豊臣氏との共同管理に変遷したようですが南蛮貿易に利用されていたのかも知れません。

■展示パネルの説明文です。
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(4)日本への航路
   りスボン(ポルトガル)
    ↓
   ゴア(インド)
    ↓
   マラッカ(マレーシア)
    ↓
   マカオ(中国)
    ↓
   日本

(5)貿易品
○輸入品
  生糸,絹織物,砂糖,水牛角,
  ビードロ,ブドウ酒,羅紗 等
○輸出品
  銀,硫黄,傘,甲冑,塗物,
  小麦,小麦粉,米 等
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1563年(永禄6)、この地に布教の第一歩を印した修道士「ルイス・アルメイダ」(1525年頃~1583年)の銅像の写真で、銅像は島原市の白土湖の東岸に建つ島原協会にあるものと思われます。

「ルイス・アルメイダ」は、中国・日本の仲介貿易を行う商人でしたが、フランシスコザビエルから日本での布教を託されたトーレス神父との出会で、布教活動に加わったようです。

アルメイダは、有馬義貞の承諾を得て口之津に教会を建て、翌1564年(永禄7)にはトーレス神父が移って来て、この地がイエズス会の日本の本部となったようです。

貿易で財を成し、医師でもあったアルメイダは、私財を投じて日本で初めての西洋医学の病院や、孤児院を建てた人でもあり多くの人々を救った献身的な活動がこの像からもうかがうことができます。

27歳頃、商人として初来日し、58歳で天草で没したアルメイダの偉業には深く敬服するものです。

■展示パネルの説明文です。
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ルイス・アルメイダ
ポルトガルのリスボン生まれ。
口之津には1563年にやってきて、キリスト教布教に努め、口之津に教会・病院・初等学校を建設した。
外科医であり、九州を中心に30年間の布教活動後、天草河内浦で没した。
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イエズス会東インド管区の巡察使「アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ」の肖像画です。

1579年(天正7)の初来日では、マカオから定期船で口之津へ到着、約3年間滞在し、キリスト教の布教に大きな足跡を残した人です。

ヴァリニャーノは、日本に滞在する宣教師を招集して「口之津会議」を開催、日本人聖職者の養成を決定し、島原半島にも「セミナリヨ」(小神学校)、「コレジヨ」(大神学校)が設立されることになります。
(この時代は、白人以外の多くの民族が蔑視され、聖職者に登用されなかった中での重要な決定だったようですが、日本側もポルトガル人などを「南蛮人」と呼ぶことにも問題があるようですね)

又、初来日で滞在した3年間には有馬晴信、大友宗麟などの大名の他、1581年(天正9)には織田信長に謁見して歓待を受けたとされています。

有名な「天正遣欧少年使節」もヴァリニャーノによる発案、推進とされ、1590年(天正18年)には帰国する少年使節団を伴い、インド副王使節として再来日、キリスト教を禁止した豊臣秀吉に政治的立場で謁見するなど、イエズス会の戦略的な布教政策が彼によって押し進められたことが分ります。

「口之津海の資料館」の入口付近にあったコンパクトな展示でしたが、撮影させて頂いた写真を手掛かりにキリシタン時代の口之津を知ることができました。

■展示説明文
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アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ
イタリア生まれで、大学で法学を修めた。
1579年,日本で初めて口之津に定航船で入港し、印刷機、パイプオルガン3台などをもたらした。
日本教会史上、最も重要かつ影書力の大きかった人で、口之津で全国宣教師会議を開き、今後の布教方針や神学校内規を定め、4人の少年使節をローマに送った。日本には3度来日し、1608年,マカオで没した。
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