昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

比叡山の祖師御行績の絵看板

2009年01月25日 | 近畿地方の旅
近江神宮を参拝した後、比叡山ハイウェーを通り、比叡山に向かいました。



拝観料金のゲートをくぐるり、国宝殿を左に見ながら進むと右にカーブした緩やかな上り坂に差し掛かりました。

道の左右にたくさんの絵が展示されていました。

比叡山を開山した最澄上人の物語や、比叡山に学び、独自の宗派を興した多くの上人たちを紹介する絵です。

この絵は、比叡山が、いかに日本の仏教に大きな影響を与えてきたかをPRすることが目的と思われます。

■このたくさんの絵について案内板があったので転記します。
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祖師御行績[そしごぎょうせき]絵看板について
比叡山延暦寺は延暦七年(788)、伝教大師最澄上人が二十二歳の時に開かれた鎮護国家・人材育成の根本道場であります。
一千七百町歩(1700ヘクタール)にわたる延暦寺の寺域は、東塔・西塔・横川の三塔十六谷にわかれており、それぞれの堂塔伽藍では伝教大師の定められた制式に従って、鎮護国家と人々の平安を祈願して日夜修行が行われております。
鎌倉時代には浄土宗の法然上人・浄土真宗の親鸞聖人・臨済宗の栄西禅師・曹洞宗の道元禅師・日蓮宗の日蓮聖人などの各宗のお祖師さまたちが比叡山で修学せされ、それぞれの宗派をお開きになりました。
現在にいたりこの山は「日本仏教の母山」として教宗派を問わず多くの人々から崇められ、平成六年十二月に世界文化遺産として登録されました。
延暦二十五年(806)に桓武天皇によって立教開宗が認められ、平成十八年をもって天台宗は開宗千二百年を迎えました。
この開宗千二百年慶讃大法会に当たり十方有縁のご協賛を得て、伝教大師を始めとする比叡山の高僧や、比叡山から輩出されたお祖師さまたちの御行績絵看板を修復して境内に掲げました。
この行績を拝読されることを通じて、伝教大師による「一隅を照らす」人材養成の理念に触れていただき、また触れていただくことが国宝的人材のあふれる明るい社会の建設を資するものてせあると願って止みません。
比叡山延暦寺
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この絵は、中国で天台宗を学んだ物語で、もっとも印象的なシーンでした。

最澄上人(767~822)の絵物語は、確か12枚はあったと思います。

■絵の説明文を転記します。
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伝教大師伝(11)天台山での受法
中国における天台宗の祖山天台山(浙江省台州)に登り、天台大師の法灯を継ぐ道邃・行満の二高僧より天台の法門を残らず伝えられた。そのとき、天台山の開かずの経蔵が大師の所持する八舌鍵で開くことができたので、天台山の僧徒はいずれも驚愕し、秘蔵の典籍や法具までことごとく大師に授けたという。この八舌鍵はかって比叡山の土中より拾われたものであり、尓来、由緒ある重宝として今に秘蔵されている。
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平安時代中期、空也上人が町で念仏踊りで布教している場面のようです。

この踊りが、現在の盆踊りにつながっていると知りませんでした。

子供の頃、教科書に空也上人の像の写真が載っていました。

空也上人の口から小さな仏像が並んで飛び出している姿が印象的でした。

■絵の説明文を転記します。
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空也上人(903~972)

金鼓を打ち鳴らして南無だ南無だと唱え乍ら身振り面白く、踊る動作に裘[かわごろも]がバサバサと音を立てて、左手に持つ杖頭の鹿の角が生き物のように動き、腰の瓢箪がほがらかにはねている。年と共にこの伝道は広さと厚みを加え民衆は親しみをこめて、市の聖空也上人とよびはじめた。天暦5年(951)京都の町に悪病が蔓延し屍と枕をあわせるありさまであった。上人は疫病に斃[たお]れた人を憐れんで十一面観音を洛中にまわして祈祷をこめると悪病はやんだという。後、浄土思想を広め、尚今日に於いても盆には街々で開かれる盆踊りは此の空也上人が開かれたものである。
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良忍上人が、京都大原の「音無しの滝」で修行している場面のようです。

平安時代後期にできた「融通念仏宗」について、まったく知りませんでした。

開祖の良忍上人が、大阪市平野区に総本山「大念仏寺」を開山、六代の後継者が続いた後、平安末期から鎌倉末期まで中断したようです。

良忍上人が念仏を音楽的に高めたことは、空也上人の念仏踊りと合わせて、次の鎌倉時代に次々と生まれる新しい宗派に大きな影響を与えたものと思われます。

又、日本の音楽に大きな影響を残したこの念仏を一度聞いてみたいと思います。

■絵の説明文を転記します。
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良忍上人(1072~1132)融通念仏宗御開山

比叡山で修業を終えた上人は洛北大原に来迎院、浄蓮華院を建立して声明梵唄(仏教音楽)に専心。のち声明中興の祖と仰がれている上人は熱心な念仏行者であった。大原の地はもともと念仏聖の遁世するところであったから、上人の声明は念仏と結びついて大きく発展していった。大原の(音無しの滝)の前で声明練習に余念のない上人の姿は大原の里人の尊敬を一身に集めた。滝から落ちるリズムと、上人の声明発声音とが完全に一致した時、変らぬ大自然と流転の世相に至って上人は忽然と悟りを開いたという、後世声明は日本音楽の源流となり、平曲、謡曲、浄瑠璃、長唄、民謡、歌謡曲にまで影響を与えた。(大講堂堂内に御木像を安置)
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三井寺との抗争で奪い取った鐘を引きずっている弁慶です。

大津市役所に近い三井寺と、比叡山延暦寺は、天台宗が分裂し、それぞれが総本山となっています。

昔、激しい抗争を長期にわたり繰り返していたそうです。

■絵の説明文を転記します。
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弁慶のひきづり鐘

山門(比叡山)と寺門(三井寺)とが互いに広壮にあけくれている頃の話
比叡山西塔の武蔵坊にいたと云う衆徒の荒法師弁慶は、つねに三井寺焼討ちの先鋒として攻撃していた。
ある戦いの時、三井寺の伽藍を焼いたうえ名鐘の一つを奪った豪力をもって任ずる弁慶は一人で引っぱって帰り大講堂につるしたと云う。その時の鐘は現在三井寺にもどり、引っぱられた時の傷がついたまま保存されている。
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法然上人の前にいるのは、親鸞でしようか。

法然上人は、現在の岡山県北部、久米南町の出身で、生誕の地に「誕生寺」があります。

寺や、宝物館などを見せて頂きましたが、山深い田舎のお寺とは思えない素晴らしいものでした。

■絵の説明文を転記します。
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法然上人(1133~1212)浄土宗御開山

久安3年15歳にして比叡山に登り登檀受戒した上人は、主に西塔黒谷に住して法然房源空と称した。以後20有余年間黒谷での求道の日々が続いた。自ら反省し修行に打ちこむうち、やがて上人は「叡智第一」と噂される程秀才ぶりを発揮した。比叡山を下りた法然上人は京都吉水の地に住房を構え法門に没入する生活に入った。しかし、当時の京洛は火災・盗賊・大衆兵乱と乱世さながらの様相であった。そんな中で貴族より武士庶民までさまざまの階層の信徒が吉水の地に参集した。包容力のある上人がそれらの人々を一身に受けとめていた。この時上人69歳。若い弟子親鸞聖人は29歳であった。(大講堂堂内に御木像を安置)
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絵に朝日が当り、肝心の「そば喰い木像」が見えにくくなってしまいました。

写真に向ってやや左上、左の列の一番奥に木像が見えています。

■絵の説明文を転記します。
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親鸞上人(1173~1262)浄土真宗御開山(そば喰い木像)

丁度29歳の時、救世の為にはどうしたら?と有名な京都六角堂へ百日百夜の願をかけられた。毎夜ひそかに起用の町へと出かける親鸞の後姿を見かけた同宿の僧達は、色々と悪口を云い、つげ口まで言う様になった。師匠は聖人の在宿を確かめる為、夜中俄かに蕎麦の御馳走を出した。その時ご自作の御姿が聖人の身代わりとなって蕎麦の御給仕をし共々おいしいと戴かれたという。以来、だれいうことなく(身代わり木像)或いは(そば喰い木像)とあがめる様になり、今なお無動寺谷の大乗院に安置されている。(大講堂堂内に御木像を安置)
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中国からお喫茶を伝えたことで有名な栄西の場面です。

■絵の説明文を転記します。
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栄西禅師(1141~1215)臨済宗御開山

禅師は14歳のとき比叡山に登り得度受戒し、東塔北谷の竹林房にあって有弁僧正から天台学を学び、また顕意大徳より天台密教を受けた。のち二度にわたる入宋により臨済の法脈を相承し、天台・真言・禅の三宗ほ並べ弘めた。叡山の台密葉上流の祖でもある。(大講堂堂内に御木像を安置)
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中国に渡った道元が、中国の僧に日常の中での修行の大切さを教えられた場面のようです。

■絵の説明文を転記します。
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道元禅師(1200~1253)曹洞宗御開山

禅師は求法のため中国に渡り、て貞応2年(1223)春4月船は大陸の明州に着いた。禅師は船に留まって諸山巡拝の準備をしていた。そうしたある日日本の珍しい椎茸を買いに一人の老僧が船を訪れた。聞けば名刹阿育王山の典座(雲水の食事を司る役)和尚とのこと、禅師は早速日本の知識を披露し中国仏法をたずねて引き止めたが、老僧「貴僧はまだ修行が文字の中でなく日常の中にあることを知らぬ」と云って早々に去ってしまう。道元禅師はただ慙愧発奮するのみであった。(大講堂堂内に御木像を安置)
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日蓮聖人が、房総の霊峰「旭の森」に登り、朝日に向って「南無妙法蓮華経」の題目を唱えている場面のようです。

日蓮は、鎌倉幕府へ「立正安国論」を鎌倉幕府へ提出したり、他宗派との抗争など過激なイメージがありますが、情熱的な人だったのかも知れません。

■絵の説明文を転記します。
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日蓮聖人(1222~1282)日蓮宗御開山

比叡山の定光院(横川地区)を本拠として10年の求道修行を続けた聖人は、大志を秘めて建長5年(1253)安房(千葉県)清澄む寺に帰った。ここで三昧堂にこもり禅定に入り一心不乱に祈念を捧げた。丁度7日目4月28日東天の白む頃聖人は房総の霊峰「旭の森」に登り、緑の山なみの彼方に水天蒼茫たる太平洋がひらける赫々たる太陽が昇ろうとするとき太陽に向かい合掌し「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と荘厳に声高らかに題目を唱えた。雄々しい開宗の宣言であった。時に聖人32歳。(大講堂堂内に御木像を安置)
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一編が、民衆から熱狂的に迎えられている様子でしょうか。

一編は、諸国を遊行して、賑やかに鉦[かね]を鳴らして踊り念仏を行い、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と刷った札を配って布教していたようです。

賑やかに音楽と踊りで人をひきつけ、チラシ配りや広告を見せて歩く一昔前のチンドン屋を思い浮かべてしまいます。

鎌倉時代では画期的な布教方法だったのかも知れません。

■絵の説明文を転記します。
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一遍上人(1239~1289)時宗御開山

上人は10歳の時母と死別、浮世の無常を感じて仏門に身を投じたという。生まれ故郷の伊予(愛媛県)から九州にわたり専修念仏の修行にいそしんだ。比叡山・高野山・四天王寺・熊野と念仏勧化と修行の旅を続けるうち世を捨てた「捨て聖」と呼ばれ全国を遊行して歩いた。全国を遊行した後修行の根拠地京洛(京都)の地に足をふみ入れた時、上人に結縁する武士・農民・商人達は狂気のように上人を迎えた。当時乱れた京洛の地にあっては救世主以上の存在であった。(大講堂堂内に御木像を安置)
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もっと絵が並んでいましたが、これ位にしておきます。

近江神宮の境内に古代の時計

2009年01月24日 | 近畿地方の旅
前回に続き、滋賀旅行で、「近江神宮」へ参拝した記録です。



「外拝殿」に上る石段の横に青銅の龍がありました。

この青銅の龍には古代中国と、現代の両方のイメージを感じます。

■向って左にある説明板を転記します。
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古代火時計 FIRE CLOCK

この火時計は、約4000年前、中国にて、おもに夜間の時間を計るものとして用いられたもので、龍の背に等間隔に計14個の銅球が吊り下げられており、糸の下を燃え進む線香の火が糸を焼き切り、球が落下し、下に設けられたドラが鳴って時を告げるものです。

この時計は1間隔がおよそ2時間を示すように作られています。
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時計には、時刻を伝えるものと、時間を長さを伝えるものがあります。

この「古代火時計」は、時間を長さを伝えてくれるようです。



写真の印象より大きく、堂々とした龍でした。

青銅の龍に神秘さを感じるのは、尾や、胴の幾何学的なデザインと、リアルな龍の顔のアンバランスさによるものでしょうか。

玉をつかんだ爪のある足が、印象的です。

■台座に貼り付けられた表示板にはローレックスの王冠のようなマークが刻まれ、次のことが書かれていました。
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ロレックス時計会社(スイス・ジュネーブ)より日本の皆様へ贈る。
1979年 時の記念日
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境内に日時計がありました。

昭和三十九年十月に奉納された精密日時計と書かれています。

神社の建物の朱色に合わせて作られたようです。

■日時計にいくつかの表示板があり、その一つを転記します。
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六月十日 時の記念日
「日本書紀」の天智天皇第十年のところに
「四月丁卯[ていぼう]、漏刻[ときのきざみ](水時計)を新台[にいうてな]におき始めて時刻[とき]を打ち、鐘鼓をならし」たと書いてある。いまから千三百年のむかし、天智天皇は日本で始めて「時刻」の制度を定め給うた。
それは新暦の六月十日に当たるのでこの日が「時の記念日」ときめられた。
それよりさき天智天皇は中大兄皇子であらせられたとき、齊明天皇第六年に漏刻[みずどけい]を作られている。この大むかしにすでに時に関する大科学者であらせられた。
漏刻は「時間」の経過をはかるものであって、いま何時[なんじ]かという「時刻」ははかれない。「時刻」は刻々に移りゆく太陽の位置によって定められる。それが精密日時計の仕事である。
東京時計製造株式会社
佐藤守彦
昭和三十九年十月
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「精密日時計」の文字盤です。

文字盤の手前が午前、向こうが午後の時刻が刻まれています。

朝日は昇ってきていましたが、建物の陰になって日時計には日が当たっていませんでした。

■表示板の一つを転記します。
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精密日時計の見方

日時計は地上に立てた棒の影が太陽の動きにつれてかわることから時刻を知るものです。
人類が太古の時代に発見しています。
この精密日時計は五分刻みという世界最高の精度を誇るものです。
文字盤の目盛におちている影の左側で午前の、右側で午後の時刻を読み取ります。
この影がこの場所の時刻ですけれど腕時計の時刻(日本標準時)にするにはグラフを見て今日の分秒数を影の時刻に加減して下さい。
日本および世界各都市の方向をも示してあります。
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「精密日時計」の周りにあった表示板の一つです。

写真に向かって右の説明文に下記の説明文がありました。
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「影の示す時刻(真太陽時)に、グラフの今日の分秒数を+-すると日本標準時(腕時計の時刻)となる。」
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グラフの横軸には、下段に1月から12月まで表示され、その上段に5日間隔のタテ線が書かれてあります。

グラフの縦軸には+15分から-20分まで1分単位で目盛が刻まれています。

グラフには曲線波打つ曲線が描かれ、今日の日付に交差する曲線が、何分の位置にあるか確認するようです。

日時計が示す時刻を確認し、グラフの補正分数を加減すると正確な時刻となるようです。

しかし、神社に来て日時計のお勉強をするとは実に予想外の展開となりました。



上段の「精密日時計」のすぐそばに、もう一つ「矢橋式日時計」がありました。

こちらの方が新しいようです。

■説明板があり転記します。
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矢橋式日時計
日時計のみかた
この日時計は、上のひさしの形をした板のかげが、午後1時までは右側、午後1時間以後は左側の目盛にうつり、それで、そのときの時刻が分かります。
この半円形の目盛板は、その中心のまわりに回転させて、時間のくるいをなおせば、常に正しい時刻を示すことができます。
日時計の周囲にある方位距離板は、ここからその土地まで、地球上の大圏コースにそって行くときの方向と距離を示しています。
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文字盤を上から見た様子です。

朱色の日時計と同じように、午前と、午後の文字盤が離れていますが、間隔が大きく開いています。

日陰を作る斜めに立つ板もずいぶん幅広です。

インカを連想するような太陽のマークがありました。

■説明板があり転記します。
 文字盤が示す時刻が、日本標準時と違いがある二つの理由が説明されています。
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この日時計の特長
これまでの日時計には、次の2種類の時差がありました。
(1)経度差
ここ(東経135.3°)と、中央標準時の基準子午線(東経135°)の通る兵庫県明石との経度差による時差(ここでは日時計が常に約3分進む)と
(2)均時差
四季の変化で太陽が天の坑道上を移行する速さが一定でないため、真太陽と、わたくしたちが時刻の基準にしている平均太陽との相違による最大16分までの進み遅れがあります。
この日時計は統計135°の時刻より、ちょうど1時間遅れる東経120°北緯45°のところの水平型日時計とまったく同じ方向を向くように、少し傾けておき、時間を示す数字は1時間進めて、かいてありますから、(1)の土地の経度差による時差はありません。
また目盛が等間隔になっているので、(2)の均時差による時差は、目盛板を多少左右に回転して、その下方にある矢印の真上にその日の修正値がくるようにすれば、日時計から直接正確な中央標準時(誤差1分程度)をしることができます。
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上記の説明書きの下に、「均時差修正表」が書かれていました。

朱色の日時計は、時刻の修正をグラフで表示していましたが、ここには1月1日から5日毎の日付と、修正する分が書かれたものでした。

時刻のズレは、5日で2分程度あるようです。



日時計の文字盤の周囲には、その方角にある歴史的な場所と、距離が書かれています。

天智天皇にちなむ白村江の名も見えます。



休憩所(二階が時計博物館)の横に小さな池があり、その後方に「漏刻」がありました。

四つの水槽が、階段上に作られています。

池に架かっている石橋を渡り、そばで見物しました。

■写真に向って左に見える白い説明板を転記します。
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漏刻 水時計

日本最初の時計の模型

近江神宮と時の記念日

天智天皇が御在世10年(西暦671年)近江大津宮(今の近江神宮の付近)に初めて漏刻台(水時計)を設け、あまねく国民に時を知らされたことは、日本書紀に「漏刻[ときのきざみ]を新台に置きて始めて時候[とき]を打ち鐘鼓をならす。始めて漏刻を用ふ。この漏刻は天皇の皇太子にまします時に始めてみずからつくりたまふ所なり」と伝えられています。

大正9年に制定された<時の記念日>は、そのご神徳を後世に伝え、正しい時間の観念の普及をうながす目的をもって、天智天皇が漏刻を置かれた4月25日(太陰暦)を太陽暦に換算して6月10日と定められました。
6月10日<時の記念日>には近江神宮において<漏刻祭>が盛大に執り行われております。

この漏刻の模型は一目盛りがおよそ10分間を示すように作られています。

平成14年4月18日設置
近江神宮
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四つの水槽と、下段の水槽に水位を測る白い棒があり、10分刻みの目盛が見えます。

■写真の下に見える表示板を転記します。
 スイス製の時計代理店からの寄贈品のようです。
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天智天皇漏刻ご創製の徳をたたえ日本・スイス修交百周年を記念して日本国民のためにこれを贈る
昭和39年2月5日
瑞西[スイス]オメガ時計日本総代理店
シイベルヘグナーエンドコンパニーリミテッド
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日本の古代の時計を外国の企業から寄贈されているとは意外でした。



昨年8月、奈良の「飛鳥資料館」で見た水落遺跡[みずおちいせき]の模型で、「漏刻」部分を拡大した写真です。

「漏刻」の模型の横にスイッチがあり、水槽をつなぐ透明のパイプに流れる水の動きが見えるようになっています。

この模型では5段の水槽ですが、各水槽間をパイプでつなぎ、サイフォンの原理で次々と下の水槽に水を流す構造になっています。(パイプの端は水面下にセット)

一番下の水槽に水が流れ込み、水位で時間を測るものですが、常に一定量の水を流す必要があります。

多段階の水槽は、一定量の水を流し込むために工夫されたものだそうです。

一番上の水槽に水を汲み入れると、その度に水位が変化し、その下の水槽に流れ込む水量が変化しますが、次々と下の水槽にいくと水位の変化がなくなっていくそうです。



上段の水落遺跡[みずおちいせき]の模型の横にあった「漏刻」を動かしていた頃の再現図です。

水槽に水を汲んで入れる人、水位を測る人、二階の鐘楼に時刻をつたえる人、鐘を突く人が見えます。

大和朝廷は、これで民衆に時刻を伝えていたようです。


滋賀旅行のスタート「近江神宮」へ参拝

2009年01月18日 | 近畿地方の旅
昨年11月1~2日に行った滋賀旅行の記録です。

滋賀旅行は、イザナギ・イザナミを祀る「多賀大社」、復元された「安土城」の天守閣、近江八幡の水郷めぐり、比叡山延暦寺など訪れたいスポットが多くあります。

又、琵琶湖周辺の紅葉が見頃で、「源氏物語千年紀」のイベントも開催されていることから、思いたちました。

最初に訪れたのは「近江神宮」です。

飛鳥時代の667年から672年までの約5年間、この大津は天智天皇の都となっていました。

この「近江神宮」に参拝し、滋賀旅行のスタートとしました。



近江神宮の境内にある木製の鳥居です。

近江神宮は、琵琶湖に近い場所にあり、道路に面した石の鳥居から長い参道を進んで行きます。

この木製の鳥居は、石段を上がり切った場所にあり、簡素な美を感じます。

ETCの早朝割引のため朝3:50分頃に福山東インターを通過、7:00には大津市の「近江神宮」に到着しました。

よく晴れた11月初めの朝の空気は、すがすがしく、静かな境内を進んで行きました。



最初の階段を上がり、鳥居をくぐった突き当りに立派な歌碑が並んでいました。

向って右の一番大きな石碑から

さゝなみの しかの山路の春にまよひひとり眺めし花さかりかな 保田與重郎

人間の知恵のはじめよひそひそと秘色の水に刻まあたらし 春日真木子

漏刻の音とこしへに初日影 桂樟蹊子

楼門に湖脈打てる望の月 伊藤香舟女

この地にゆかりのある歌を選び、石碑を建立しているものと思われます。



上段の歌碑の横に塀のように石柱が並んだ場所がありました。

たくさんの石柱にはそれぞれに歌が刻まれています。

よく知りませんが、現代の歌人の歌碑のようです。

天智天皇の歌碑もあるようですが、分かりませんでした。



楼門に上がる石段の下に立派な「手水舎」に並んで由緒が書かれた案内板がありました。

■板に筆文字が書かれた「由緒」を転記します。
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由 緒
御祭神 天智天皇 天の御名 天命開別大神(あめのみことひらかすわけのおおかみ)
御祭神は、第三十八代の天皇であるが、はじめ中大兄皇子と申上げ、今を去る約千三百年の昔、大化改新の大業を完遂遊ばされ、我が国古代に於ける立国の体制を確立せられ、雄大な建国の理想を実現せられた中興の英主であらせられる。
神界に坐しては、天命開別大神と称えられ、万物の運命開拓のことを司宰し給う宝位につかれ、吾等が運命の開顕をはじめ、明治維新の大業も、現代の目覚ましい文化的飛躍も、その冥助によるところと敬慕して、「世直しの大神」「開運の大神」と信仰されている。
又、小倉百人一首の「秋の田」の御製で昔から国民に親しまれ、「学問の神」「知恵の神」と崇められると共に、御在世の時、初めて漏刻台を置き、時刻を国民に周知せしめられた御事蹟により、時計関係の祖神と仰がれている。
当神宮は、その御聖徳を敬仰する県民数度の請願が発端となり、官幣大社として昭和十五年十一月七日御鎮座になり、爾来、例祭は毎年四月廿日、勅使御参向のもとに厳修されて今日に至る。
近江神宮
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朝日が当たる石段の上に美しい朱色の楼門が輝いて見えます。

二階建ての大きな門です。



楼門をくぐり、右手に進んだ辺りから撮った境内の様子です。

境内は、掃き清められていますが、参拝者はまだ見えません。

楼門の向こうの建物は、「時計博物館」のようでしたが、時間が早く入場できませんでした。



楼門をくぐると正面に「外拝殿」があります。

「外拝殿」の脇には、大きなしだれ桜の木があります。

春の花盛りには素晴らしい景色になるものと思われます。



石段の下から「外拝殿」を見上げた景色です。

「外拝殿」は、左右に長い廊下のような建物になっていました。



「外拝殿」に入り、正面に進むと立派な「内拝殿」が見えます。

ここから参拝させて頂きました。



少し斜めから見た「内拝殿」です。

一番後ろに「神殿」が見えます。

「外拝殿」と、「内拝殿」は、左右の回廊で繋がっていましたが、一般人の通行は出来ないようです。

蘇我入鹿の暗殺、「大化の改新」、「白村江の戦い」などで、歴史に残る天智天皇もこの地で崩御されたようです。

しかし、、その直後に発生した「壬申の乱」で、第一皇子の大友皇子がこの地の戦いで敗れてしまいます。

これらの大事件が相次いだことを考えれば、天智天皇が、激動の時代に生きたことが分かります。



「外拝殿」の向かって右隣に少し小さな階段と、門がありました。

境内社がお祀りされているようです。

■奥に見える小さな鳥居の下にあった説明板を転記します。
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「栖松遥拝殿」[せいしょうようはいでん]
この社は、大正天皇の聖旨に依り有栖川宮の祭祀を継承された高松宮宣仁親王が、御成婚ののち東京高輪の宮邸内に御創建、妃殿下ともども日々礼拝しておられた御霊屋[みたまや]であります。
両殿下薨去後、高松宮とご縁の深い当近江神宮境内へお移しすることとなり、今般原寸通りの復元移築工事が完了、栖松遥拝殿と名付けられました。命名の由来は、有栖川宮の「栖」と高松宮の「松」の一字づつを拝戴し、栖むところ松の緑の如く清らかにの寓意をこめて、亡き宮様方の御遺徳を永く偲ばんが為であります。ご参拝の皆様方には併せて皇室の御繁栄と国運の隆昌・開運安寧とをご祈念下さい。
 平成十九年一月吉日 近江神宮
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栖松遥拝殿[せいしょうようはいでん]の様子です。

写真の手前に見たことのない施設があります。

長方形の箱のような物の中央に五段の金属の輪がついた小さな塔が建っています。

水が湧き出ていることから「手水舎」のようです。

狛犬が片方だけに座り、とても特徴のある社でした。

徳島県東祖谷の「鉾神社」に参拝

2009年01月11日 | 四国の旅
10月12日 16:40頃、三好市東祖谷の「東祖谷歴史民俗資料館」を出て、大枝地区にある「鉾神社」を目指しました。

日が傾きはじめ、高い山に挟まれた東祖谷には早々と夕暮れが迫ってきました。



三好市東祖谷の大枝地区にある鉾神社の地図です。

地図の上に見える「鉾神社」は、国道439号線と平行して流れる祖谷川の対岸、A地点から約4Kmの山中にあります。

急カーブや、上り坂がうんざりするほど続く道を進んで行くと、「鉾神社」は、想像を超える高い場所にありました。



正面の広場から撮った「鉾神社」です。

この神社にある杉の大木があり、その根元に平家の落ち武者、平国盛が平家伝来の鉾を埋めたと言う伝説に魅かれて来ました。

神社には、大木が生い茂り、神秘的なイメージが漂っているようです。

この地方独特の自然石が積まれた階段の両側に、少し風化が進んだ狛犬が座っています。



神社の正面に向かってすぐ左隣に青いトタンに覆われた茅葺き屋根の農家がありました。

神社境内の端にも杉の大木が並んでおり、この集落の長い歴史が感じられるようです。

神社は、他に観光客も見えず、さびしい見物でした。



神社正面の石段の様子です。

驚くほど長い板状の自然石が、使われています。



素朴な神社の拝殿です。

すぐ横にイチョウの大木がありました。

しばらくすると、この辺りは黄色い落ち葉で覆われるものと思われます。

雨戸が閉まっていますが、お祭りにはここでどんな光景が見られるのか興味のあるところです。



拝殿の後ろに少し古くなった本殿が見えます。

床が低く、拝殿と同様、質素な建物です。



神社建物の正面に向って左側に大きな杉の大木と、小さな祠がありました。

太い杉の根っこがクネクネと伸びています。

まるで巨大な蛸の足が絡み合っているように見えます。

この杉の大木が、「鉾杉」かと勘違いしていました。



上段の杉の大木と、拝殿の間にあった石積みです。

何の施設かまったくわかりません。

一見、火を焚く神事でもする場所かと思いましたが、火の痕跡はないようです。



神社正面に向って右側の道路です。

突当りに平家の末裔と言われる「喜多家」が見えます。



■「東祖谷歴史民俗資料館」に展示されていた「鉾杉」と、武家屋敷「喜多家」のの説明文です。
「鉾杉」は、平家の末裔とされる「喜多家」のすぐ横にあったようです。
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天然記念物 鉾杉
昭和29.1.29日指定
樹周11m、樹冠20.5m、樹高35mの樹勢旺盛、樹姿整然とした樹令800年余のスギの巨木で、県内一の大きさを誇っています。
屋島の合戦に敗れ、この地に逃れてきた平国盛が、平家の守り神である鉾を祀ったといわれる"鉾神社"の境内にあり、平和を願ってこの杉を植えたという伝説を有することから「国盛杉」とも呼ばれており、武家屋敷「喜多家」のすぐ横にあります。
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道路から二段階の石垣の上に堂々とした武家屋敷「喜多家」が見えます。

藁葺[かやぶき]屋根の建物ですが、祖谷地方では最も大きな屋敷だそうです。

この屋敷のすぐ横に「鉾杉」があったようです。

見学の終了する17:00近くになっていたのであきらめて帰途につきました。



祖谷川を挟んだ対岸の山に夕日が当たっています。

標高約840mの鉾神社から見える山々は、いずれも1,000mを超えるものです。

手前の緩やかな斜面に刈取られた萱(かや)の山が、見られますが、茅葺き屋根の修復に使われるものと思われます。

この付近の民家の大半は、茅葺屋根をトタンで覆っています。

茅葺屋根の全面的な修復には大量の干した萱が必要だそうです。

毎年、少しずつ干した萱を蓄積して「喜多家」の修復に備えているのでしょうか。

「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」 №2

2009年01月07日 | 日記
1月3日、三次市の奥田元宋・小由女美術館で見た「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」の続きです。



階段の踊り場から第二・第三会場の入口を見た写真です。

第二会場は、地下一階にあり、展示内容は、7世紀前後に活躍した「突厥族」と、10世紀の初め「遼」を建国した「契丹族」です。

下の第三会場は、地下二階にあり、チンギス・ハーンの時代以降の展示です。

美術館は、山の斜面に沿って造られた建物で、一階玄関が、斜面の高い側にあります。



奇跡的に盗掘されていなかった墓から発見された黄金マスクです。

黄金マスクには銀のネットが取り付けられ、頭に固定していたそうです。

遼(10世紀初頭~12世紀初頭)の王の娘婿の顔にかぶせられていたもので、並んで埋葬されていた奥さんの顔にも黄金マスクが、かぶせられていました。

発見当時、ツタンカーメンの王墓から発掘された黄金のマスクに匹敵するニュースだったようです。

会場での説明では、この時代、貴族の結婚では嫁入り道具と合わせて墓へ副葬する品物も持参する習慣があったということです。



地下二階の第三会場の入口で、学芸員の方が移動式の建物について説明されている様子です。

手に持ったアジア大陸の東部の地図で熱心な説明をして頂きました。

この建物は、展示用に縮小されたサイズになっているようですが、日本では「神社」のようなものと説明されていました。

ここからチンギス・ハーンの時代以降の展示です。



チンギス・ハーンが、戦闘で使った馬の鞍だそうです。

狩りの時に乗った鞍も展示されていましたが、こちらの方が立派な感じです。

すぐ横にチンギス・ハーンの顔が描かれた絵がありました。

歴史的な英雄チンギス・ハーンが愛用していた鞍が目の前にあることになかなか実感が湧いてきませんでした。

しかし、このような品物が保存されていたことも奇跡的で、それを見ることができたことも奇跡的なことだと考えてみたら、展示会のすばらしさが次第にわかってきました。



元代の「イスラム教徒の石棺の蓋」です。

石棺の写真に向かって左端の中央部分にアラビア文字が刻まれていました。

説明書きには「アラーは、唯一の神で、モハメッドはアラーの使者である」のような意味の文章となっていたと記憶しています。

アラビア数字はいつも見慣れていますが、他の「アラビア文字」は、初めて見るもので、とても興味深く眺めていました。

元王朝は、世界を征服する過程で様々な宗教に出会い、寛容に対応したようです。

それが多くの民族を征服する技術の一つだったのかも知れませんが、多様な宗教が混在する国家の矛盾が拡大し、崩壊の要因ともなったようです。

改めて世界平和の困難さを感じます。

「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」№1

2009年01月05日 | 日記
1月3日、三次市の奥田元宋・小由女美術館で、「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」がに行きました。

福山市の図書館にあったパンフレットでこの展覧会を知り、当日11:00から学芸員の方によるギャラリートークがあることで思い立ちました。

展示品は、予想外にたくさんあり、常設展と合わせて3時間半ゆっくりとみせて頂きました。

展示内容は、歴史に沿って3段階に分かれ、第1段階は、紀元前4世紀頃からチンギス・ハーンが登場するまでの中国北方の遊牧民族関係の展示でした。

第2段階で、チンギス・ハーンの時代、第3段階で、明・清時代のモンゴル高原の遊牧民族関係の展示でした。

今日は、第1段階の「東胡族・匈奴族・鮮卑族」が展示されている第一会場の様子を掲載します。



1階にあった第一会場の入口です。
ここでは、モンゴル高原で活躍した民族、東胡族・匈奴族・鮮卑族が紹介されています。

個人的にはこの古い時代の展示が、一番印象に残りました。



最初の東胡族のコーナーに展示されていた「許季姜青銅簋」で、頂いたパンフレットに掲載されていた写真です。(戦国時代)

学芸員の方の説明では、許季姜[きょききょう]」は、この青銅器の作者で、青銅簋[き]」とは、青銅の食器だそうで、両側の把手には外側に向いた動物(説明ではヒツジだったか?)の顔がデザインされています。

内側の底に、確か「宝物として末長く大切にするように?」と言うような意味の決まり文句が刻まれているようです。

この青銅器の横に壺のような青銅器が展示されていました。

両側に把手があり、その先端には「螭[ち]」という架空の動物の頭が付いていました。

説明では「螭[ち]」とは大蛇が龍になる中間段階の動物だそうで、キリンのような先端が丸くなった二本の角が付いていました。

漢民族の文明に育った龍など架空動物が、遊牧民族に伝わったものと説明されていました。

東胡族は、中国を統一した秦の時代までモンゴル高原の東部に住んでいた民族のようです。

匈奴族は、東胡の西に住んでいた民族で、この後の漢の時代に勢力を拡大したと言われています。



匈奴族のコーナーにあった金の王冠で、パンフレットにあった写真です。(戦国時代)

説明によるとこの鷲の飾りの付いた金の冠は、展覧会一番の展示品だそうです。

冠の一番下段には、遊牧民が大切にしている家畜、羊と、馬が向かい合って伏せています。
その上段に同じように伏しているのが虎だそうです。(学芸員の方も、虎には見えないと言われていました)

羊が描かれた台の上の頂点には大鷲が載り、匈奴の人々は、世界の王者は大鷲だと考えていたことが、この王冠に表現されているようです。(モンゴル相撲で、鷲の舞が勝者により舞われることを思い出しました)

鷲の鮮やかな青の部分は、確かメノウで、モンゴル高原に住む大鷲は、羊をつかみ空に飛び立つなどの説明がありました。



鮮卑族のコーナーにあった「金製鹿頭形冠飾り」で、これもパンフレットにあった写真です。

説明では匈奴族に圧迫された東胡族の一部が、鮮卑山に逃れて生き延びたのが鮮卑族だそうです。(4世紀頃?)

貴族が冠に着けて歩き、揺れて金属音がすることが高貴さをアピールすることになるとの説明だったと思います。

学芸員の方も後で類似の事例として説明されましたが、奈良県明日香村の藤の木古墳でも同じようなハート型の飾りが出土したことを直感的に思い出しました。

古代から広いエリアで民族の接触が行われ、それにより人類の文明が発展したことが分かります。

ミトコンドリアDNAの研究で、人類の先祖がアフリカの1人の女性である説が有力とされています。

人類は、アフリカから地球全体に広がり、それぞれの民族に分かれた歴史がある一方、最近では地球規模で人類が移動しています。

出かけると、大抵外国人と出会うようになったこの時代の次に、どんな社会になって行くのでしょうか。

東祖谷歴史民俗資料館で見た「平家の赤旗」

2009年01月02日 | 四国の旅
10月12日剣山を下山、三好市東祖谷菅生の小釆家住宅を見学した後、「東祖谷歴史民俗資料館」に立ち寄りました。



平家の落人伝説にまつわる平家の赤旗などが見られるとのことで期待して入って行きました。

■道路脇に「平家落人伝説」の案内板があり、転記します。
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「平家落人伝説」 参考文献(祖谷の語りべ) 平成五年

屋島の合戦に敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、文治元年(1185)大晦(おおつごもり)東祖谷の大枝に入山した後、大枝名主の屋敷で勢力を伸ばし平家再興を祈願したが、ことを起こすことなく、この地に眠ったと言い伝えられている。
伝説の史跡(下記の史跡名に説明文がありましたが、省略します)
1.平家赤旗、2.七人塚、3.鉾神社、4.鉾杉、5.平家屋敷、6.剣山、7.平家の馬場、8.かずら橋、9.皇宮の太鼓田、10.装束石、11.八幡神社、12.安徳帝のご火葬跡、13.栗枝渡の地名、14.天皇森
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壇ノ浦の合戦まで安徳天皇が信じている者には、安徳天皇がこの地で亡くなられた伝説には少し違和感を感じますが、こんなにたくさんの史跡が残されていることには脱帽します。

各地に安徳天皇の伝説があり、この一帯の史跡も捏造[ねつぞう]の可能性が高いのですが、だまされる方が楽しくなる史跡だと割切って見物させて頂きました。



「東祖谷歴史民俗資料館」の入場券です。

平家の赤旗などの展示物が印刷されています。

館内には他に誰も見学者がなく、ひっそりとしていました。

かずら橋には多くの観光客が歩いていましたが、皆さんここにはあまり興味がないようです。



館内に入ると、東祖谷の農家の居間が再現されていました。

一見、情緒ある田舎の居間のようですが、標高700メートルを超える雪深い急峻な斜面に生きる生活は大変厳しいものだったと思われます。

各地の民俗資料館を見て歩きますが、このように古いものが並べられているものの、説明がほとんどなく、内容がよく理解できない施設が多くあり、残念です。



館内で、東祖谷の歴史などを紹介するビデオが放映されており、撮影したものです。

平家の末裔、阿佐家二十四代当主、阿佐愛子さんが紹介されていました。

阿佐家の建物は、一般公開されていませんが、本物の平家の赤旗が保存されているそうです。

屋島の戦いや、壇ノ浦の戦いは、1185年と伝えられており、824年前の出来事となります。

824年前の平家の落人を初代とした場合、二十四代では一代が34年平均になり長過ぎるようです。

阿佐家一代目は、落人となった時代からずっと後の時代の人だったものと推測されます。

阿佐家一代目は、今も謎のままです。

今考えると「東祖谷歴史民俗資料館」の見どころは、このビデオだったと思います。



「東祖谷歴史民俗資料館」の入場券に印刷されていた「平家の赤旗」を拡大したものです。

両方の旗には「八幡大菩薩」とかかれてありますが、赤旗とされる色はあせた黄色になっていました。(色あせたままをコピーしたレプリカでした)

「八幡大菩薩」には、戦勝を祈願する源氏のイメージがありましたが、平氏の旗にも使われていたことは意外でした。

「平家の赤旗」に説明文が添えられており、転記します。
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「平家の赤旗」
平家屋敷所蔵の大小二流の赤旗は、日本最古の軍旗といわれ国盛(教経)が屋島より奉持してきたと伝えられる。
大旗は赤と紫の二色染めで本陣用、小旗は赤一色で戦陣用であったという。ともに生絹を生地とし、アカネとムラサキを染料としているが、800年の年月は、赤を白茶に紫を黒に変色させてしまっている。所々に見える汚点は血痕である。この赤旗は、阿佐家や村人にとっては神そのものであり門外不出とされている。(現品はコピーです)
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平安時代末期頃の旗は「流し旗」と言い、写真のように旗の上部に木を取り付け、それを紐で竿にぶら下げるものだったようです。

旗が、戦国時代の映画にも見られる幟[のぼり]の形式になったのは室町時代以降のようです。

上の説明文に「大小二流の赤旗・・・」とあるように旗の数に「流」の単位がついているのも「流し旗」のなごりなのでしょうか。

平国盛(教経)は、清盛の甥で、平家一番の猛将として知られています。
又、壇ノ浦の戦いでは義経を追い詰め、八艘跳びで逃げられた話は、有名です。

平国盛(教経)が平家の総大将宗盛から安徳天皇をまかされて阿波の山中に逃げたことは、信じられないことですが、真実は分かりません。



平家の赤旗にある蝶の図を拡大した写真です。

向かい合ったアゲハ蝶が微妙にズレて描かれています。

軍を率いる武士の旗とは思えない優雅な図柄ですが、平家が家紋とした「対い蝶[むかいちょう]紋」のようです。

左右の形が、微妙に違い、デザイン化された家紋には見えませんが、これも平安時代末期との時代感覚の違いなのでしょうか。

鮮やかな赤い旗に、くっきりと描かれた当時の蝶を想像すると、大変美しいものだったと思われます。



歴史民俗資料館で頂いた落合集落のパンフレットの表紙の写真です。

対岸の山から撮影された写真で、美しい左右対称の急峻な山の中腹に造られた「落合集落」の様子が伝わってきます。

受付の女性に東祖谷落合集落を対岸から撮影出来る場所に行く道を尋ねたらこのパンフレットを頂きました。(インターネットに同様の景色の写真が掲載されていたので行きたいと思っていました)

この写真は、A3版を二つ折りにしたパンフレットの表紙で、詳しい落合集落地図も掲載されていました。(ありがとうございました)

既に日が暮れはじめていて「落合集落」の見物は中止としました。

次回の訪問では「落合集落」や、「栗枝渡の八幡神社」などの散策を楽しみにしています。

油絵「胡蝶ラン」

2009年01月01日 | 妻の油絵
あけましておめでとうご゜ざいます。

今年は、夫婦揃って厄年で、厄払いをして何とか乗切ろうと思っています。

今年もよろしくお願いします。



年賀状にも使った妻の油絵「胡蝶ラン」です。

ふんわりしたイメージがよく出ています。



「胡蝶ラン」と同じ12月初め頃描いた絵「黄色いシンビジウム」です。

年賀状に印刷するもう一つの絵の候補でした。

黄色は、風水的に良いとのではと迷いましたが、やはり白い花が、正月らしいなどと訳の分からない話しで、適当に決めてしまいました。


12月30~31日、高知旅行に行ってきました。

寒い日が続き、少しでも暖かい場所に行きたいと思い、決めた場所です。

特に30日は、安芸市の町並み見物で、気温が16℃まで上がり、正解でした。

又、旅行の思い出を掲載します。