昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

がん予防に 自家製発芽玄米の煎りご飯

2014年08月04日 | 日記

今年の1月から自家製の発芽玄米ご飯を始め、毎日続けています。

健康やガン予防に良いとされ、食べやすく、味も良いことからご紹介させて頂きます。

玄米ご飯の健康への効果は、よく知られていますが、食べづらく、味にもなじめませんでした。

玄米を少し発芽させることで、栄養が高くなり、消化の良いご飯になることが知られていますが、市販品で10Kg-約8,000円と高価です。

何とか自家製できないかと、webサイトを探し、秋田県の「黒瀬農舎」さんで紹介されている「自宅で作る美味しい発芽玄米」の手順を見習い作ることにしました。

発芽の後半に水切りし、12時間毎に水洗いすることで、腐敗臭を抑制できる点が気に入りました。

又、タイトル末尾に「煎りご飯」とあるのは、玄米を乾煎りして炊くご飯です。



書籍「がん患者は玄米を食べなさい」(伊藤悦男琉球大学名誉教授・医学博士著、現代書林発行 \1,404)の表紙です。

この本によると、玄米を乾煎りすることで、玄米の糠[ぬか]部分に含まれる成分RBA(抗癌成分)と、RBF(癌細胞を自滅させる成分)が消化吸収出来るようになるそうです。

本の最後に、玄米を水洗、乾煎り、差し水で沸騰、炊飯の順で作る方法が紹介されていました。

我が家の「発芽玄米の煎りご飯」は、上記の二つの方法を組み合わせて炊いたご飯で、癌や、病気に強い抵抗力のある体作りを目的とするものです。

私は、「発芽玄米の煎りご飯」を食べ始めて3~4ヶ月頃から歯周病が改善し、口内炎になる頻度も極端に少なくなり、免疫力が強まったことを実感しています。

少し手間は掛かりますが、このご飯を継続して作られ、一人でも多くの方が健康を増進されることを願っています。


◆◆◆「自家製発芽玄米の煎りご飯」の作り方◆◆◆

【 作る手順 】
 玄米 → A.玄米を発芽させる → B.玄米を煎る~びっくり水で沸騰させる → C 炊飯器で炊く



玄米を発芽させる容器(ザル 直径25cm 高さ10cm・ボール 直径26cm 高さ9cm)と、玄米4カップ(800mℓ)を入れた写真です。

玄米をザルに入れ、その下にボールを重ねることで、水に浸漬したり、水切りした玄米の乾燥を防いだりします。

A.玄米を発芽させる
 1. 玄米の準備と水洗い
   玄米を適量計り、2~3度水洗いします。

 2. 玄米の浸漬
   玄米を12~24時間水に浸漬します。(最初24時間浸漬していましたが、12時間でも問題なく発芽しています)

 3.ザルで水を切って常温に置く。
   浸漬した玄米を軽く洗い、水を切り、濡布巾をかぶせて乾燥を防ぎます。

   その後、約12時間毎に玄米を軽く洗いします。(悪臭・腐敗防止に必須の作業です)

   室温が30℃を超える夏場は、腐敗・品質劣化の防止のため冷蔵庫で発芽させる方法もありました。
   水に漬けたまま冷蔵庫に入れて発芽テストしましたが、日数が長くかかることから止めました。


写真上段は、玄米の状態、写真中段は夏場・24時間経過後、胚芽の膨らみが見られ、写真下段は、胚芽から芽が伸び始め、発芽完了としている状況です。

 4.発芽の確認
   玄米の胚芽部分が膨れて、芽が約0.5mmに伸びたものが目立ち始めたら発芽完了としています。(発芽過剰に注意)

   我が家(山陽地方のマンション)の環境では朝に開始すると夏では翌日午後完了、冬では翌々日午後完了です。
   発芽後の保存はタッパーに入れ冷蔵保管、2日以上の保存や、予備のストックは、冷凍保存しています。

 ★このまま炊飯器で普通に炊き、発芽玄米ご飯として食べることもできます。



発芽玄米を乾煎りする器具で、古くなったフライパンを利用しています。(直径約26cm、高さ7cm)

B.玄米を煎る~びっくり水で沸騰させる
 1.発芽玄米を軽く研ぎ洗いして、ザルで水を切ります。

 2.フライパンなどに移し、強火で煎ります。(普通のフライパンなら一度に2~3合分けて煎る)

 3.パチパチと音が連続し、飛び跳ねるものが見えてきたら火を止めます。(煎ることで、糠臭が消え、香ばしいご飯になる)

 4.玄米の半量~同量程度の差し水をして、余熱で5~10秒程度沸騰させます。(玄米表面の硬い組織を壊す)

C.炊飯器で炊く
 1.沸騰させた煎り玄米と、沸騰したお湯を丸ごと炊飯器に移します。

 2.我家では玄米4カップ(800mℓ)を5.5合の水位で炊きます。

 3.炊飯器で炊き上がった後、そのまま約30分放置してよく蒸らします。(しっとりした食感となる)



炊き上がり、冷ました発芽玄米の煎りご飯の写真です。(白米は混ぜていません)

玄米の表皮が破れ、白米部分がむき出しになっているのが見られます。

白米と比べ少し多めに噛む感じですが、香ばしく、味わいがあり、今では白米を食べると物足りなさを感じるようになりました。

玄米ご飯、玄米のビックリ炊きご飯、押し麦を混ぜた白米のご飯など試してみましたがはるかに食べ易く消化の良いご飯でした。



参考までに、我家で使っている1食毎にご飯を冷凍保存する容器です。(電子レンジ対応 300ml 長さ14cm 幅9cm 逆さ4.5cm)

私し用は、150g、妻用は、120gを入れて一気冷凍しています。

「発芽玄米の煎りご飯」の細かい手順の改善をしている間にご飯炊きは、すっかり私の仕事になり、妻の家事も少し軽減出来たようです。

初めてみるサツマイモの花

2013年08月08日 | 日記

お隣の畑にサツマイモの花が咲いていました。

我が家のサツマイモ畑に隣接する畝にアサガオのような花を見つけ、よく見るとサツマイモのツルに咲く花でした。

生れてはじめて見るサツマイモの花です。



一輪の花が黒マルチの畝に咲く風景です。

お隣の畑では今朝、他の畝のサツマイモを収穫されていましたが、遅く植え付けられたこの畝だけが残っていたものです。

聞き漏らしましたが、植え付け時期から推察すると、花の咲きやすいと言われる安納芋かも知れません。

(8/10追記 お尋ねしたら紫イモでした)



横から見たサツマイモの花です。

やはり花びらの形はアサガオそっくりです。

花の付け根にはいくつかのツボミが見られ、次々と咲くようです。

サツマイモと、アサガオの植物分類を調べてみると。

何と!両方とも「ヒルガオ科サツマイモ属」ではありませんか。

美しい花を咲かせるあのアサガオがサツマイモ属だったとは・・・なぜかガッカリです。



花のすぐそばに落ちた花びらが見つかりました。

又、いくつかの花弁が付いた枝が二つあり、ここから花が落ちたようです。

もしかして花がよく咲く一つの株だったのかも知れません。

生れてはじめて見る花に感激した今朝の畑仕事でした。

三次市歴史民俗資料館の三次人形

2012年04月01日 | 日記
先日、墓参りのついでに、広島県「三次市歴史民俗資料館」へ立ち寄りました。



本通りに面した「三次市歴史民俗資料館」の建物です。

昔にぎわった本通りも今では歩く人も少なく、面影は薄れています。

建物の右端に「卯建[うだつ]のにあう町」と書かれた案内板がありました。

「うだつ」は、二階建ての庇の下に隣家とさえぎる装飾された壁(防火壁)で、閉店が目立つ通りにはうだつが見られます。

石造りの建物だと思っていましたが、館内の案内文では鉄筋コンクリートと紹介されていました。

■館内に建物の案内文がありました。
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三次市歴史民資俗料館の建物の概要
三次市歴史民俗資料館(旧三次銀行)は洋風の石積建築を模した、シンプルで力強いイメージを持つ鉄筋コンクリート造二階建の建物です。正面の柱の上部には、楕円形を中心に曲線模様のレリーフ装飾が施されており、直線が強調された建物のアクセントになつています。玄関部分が前面に1mほど張り出され、それを中心に左右対称の外観デザインになつています。

三次市歴史民俗資料館の沿革
昭和2年(1927年) 三次銀行本店として建築
 
昭和20年(1945年)芸備銀行と合併、同行三次中央支店となる
        (戦後 広島銀行三次中町支店)

昭和25年2月28日(1950年)三次中町支店廃止

昭和26年10月1日(1951年)三次郵便局庁舎となる

昭和52年9月19日(1977年)三次郵便局移転

昭和54年12月3日(1979年)三次市が払い下げ受け整備

昭和56年10月1日(1981年)歴史民俗資料館として開館

平成9年5月7日(1997年) 国の文化財建造物に登録
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三次市の市街地周辺の地図です。

「三次市歴史民資俗料館」は、赤丸の場所(三次市三次町)です。

市街地の中心「巴[ともえ]橋」付近で合流する三本の川が巴形に見えることから三次は「巴峡」とも呼ばれ、橋の名の由来ともなっています。



館内に入るとたくさんの「三次人形」(土人形)が展示されていました。

上段に最も代表的な天神様(菅原道真公)が展示され、その下にも武者人形や、女性の人形など様々な人形が並んでいます。

■三次人形の説明文です。
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初節句のお祝いに三次人形を贈る
 広島の県北一帯では、初節句に三次人形を贈るという風習があります。これは男の子、女の子を問わず、子どもが生まれた家には、旧暦の3月3日、現在では新暦の4月3日ごろに、親戚が三次人形を1~2個持ってお祝いに行くというもの。男の子の場合は天神または男物、女の子の場合は天神または女物を持参し、集まった人形を飾って節句をお祝いします。これは県北では春の恒例行事。これから畑仕事が始まるという春の訪れを告げる行事でもあるのです。
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現在も三次市十日市町で続く「三次人形」です。

古い人形のようですが、気品のある白い顔が印象的です。

「三次人形」の展示場には人形の歴史や、この近郷で作られてきた人形も紹介されていました。

■三次人形の説明文です。
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「光人形」と呼ばれる三次人形
 三次人形は別名「光人形」と呼ばれています。それは、にかわを塗ることによって艶やか(あで)やかな光沢があること。
特に顔に関しては、磨きだし手法によってその光沢を出しています。
 また、三次人形は八頭身の容姿端麗な人形としても有名。
ふつう、人形は六頭身が多いなかで、三次人形の八頭身の姿は群を抜いて美しいのです。

年間生産量
生産量は年間約1000体。5人(夏の作業は3人)で製作するには、これが手一杯だそうです。
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■現存する三次人形(十日市人形)の由来が書かれていました。
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十日市人形
大崎家の職人であった丸本義十郎(まるもとぎじゅうろう)が独立して原村(現十日市)に別の窯を造りました。義十郎は宮の峡窯元の伝統を受け継ぐと共に、各地の人形を収集して研究改良を加え、新機軸を生み出しました。このため人形は2か所で製造されることとなりました。戦時中、土人形生産は衰退し、休業をせざるを得なくりましたが、戦後(昭和30年代)に復活し現在は丸本垚(たかし)・尚志(ひさし)親子が制作中です。
※十日市人形の特徴
・人形の背・底の境目に職人の印(1センチ程度の丸いもの)があるものが確認されこいる
・衣装・顔立ちなど彫りが深く華やかである
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三次人形を創始した窯元の宮の峡人形だそうです。

現在の三次人形よりもっと古い窯元があったとは知りませんでした。

又、三次の町が「宮の峡」と呼ばれていたことも興味深いことでした。

ところで、人物画や、彫刻などで描かれた顔は作者に似ているように思われます。

左右の目の間が離れているこの人形も作者に似ていたのかも知れません。

■説明文です。
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宮の峡人形
宮の峡人形は、嘉永7年(1854)5月に石見国から大崎忠右衛門(おおさき ちゅうえもん)が妻と子供を連れて三次に来て、現山家町に良い土をみつけ、宮の峡(現三次町)に住み、かまどを築いて焼いたのが始まりだと言われています。一方、幕藩時代に三次藩祖浅野長治(あさのながはる)が江戸から帰途、四国の長宗我部氏の末流である森喜三郎を江戸浅草今戸の人形師として召し抱え、中心君子の像を造り、家臣に一男一女が生まれるごとに藩主自らがこの人形を贈って祝ったというもので、この説は尊王の心があった長治が家臣や藩民に大儀名分を明らかにするための手段であったとも言われています。
 大正5年(1916)頃、約60年の人形作りに終止符をうちました。
※宮の峡人形の特徴
・明治30年くらいから刻印(三次宮ノ峡人形本元)をいれた
・ステンシルと言われる技法を取り入れて文様をいれた
・顔の彫りが浅く、平面顔であることが多い
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「長浜人形」が展示されていました。

調べてみると「長浜」とは島根県浜田市長浜町のようで、「長浜人形」は昔から作られているようです。

三次人形の始まりとなった「宮ノ峡人形」も石見国の人によるもので、開始年代を比較しても三次人形のルーツだったように思われます。

■説明文です。
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長浜人形
長浜人形は、地元産の粘土を使った土人形。素焼きにした後、真っ白な胡粉(ごふん)をかけ、彩色を施す。江戸中期の明和年間(一七六四~七一年)に作り始めたとされ、石見の根付けで名高い清水巌(富春)に学んだ永見房造が、「巌」の字をもらって「永見巌」と号し、制作を広めた。
※長浜人形の特徴
・台座が、1段である。
・赤色に朱色を用いている。
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三次市から南東へ約30Kmの上下町で造られた人形です。

上下町(府中市)は、石見銀山から三次を経由して瀬戸内海へ通じる街道の一つ「笠岡(岡山県西部)ルート」の途中にあり、天領だった町です。

まねて作ったとありますが、あまり違いは感じられません。

■説明文です。
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上下人形
上下町の安友徳吉が明治20年頃三次人形を真似て製作したのが始まりといわれている。長男が土人形制作のあとを継いだが昭和10年頃、幕を下ろした。
※上下人形の特徴
・共台のものは、下段が上段に比べて高く、その他の土人形と比べると共台が高い・人形の背中に3センチほどの判が押されているものが確認されている。
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三次市の東隣、庄原市田原町で造られていた人形です。

この顔も宮の峡人形と同様、貴族「菅原道真」ではなく、庶民の顔に見えますが、仕方のないことでしょうね。

人形作りに夢を感じ、窯元となった人たちの作品が並び、三次人形がこの地域で親しまれてきた歴史を学ぶことができました。

■説明文です。
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田原(庄原)人形
樽岡甚作(たるおかじんさく)は十日市人形窯元で土人形制作を学び、独立して庄原で制作をはじめた。独自性の強い特徴ある土人形を完成できたのは甚作の器用さゆえであろう。昭和7年頃まで庄原の地で制作を続けた。
※田原(庄原)人形の特徴
・台座の装飾が格狭間や波紋・梅花をあしらっている
・顔立ちがのっぺりとしていて、大型の男物は口ひげをたくわえている
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子供たちが喜ぶ桃太郎と、金太郎の人形がありました。

桃太郎は、三次人形の白い肌となっていますが、肌を露出した金太郎には白い肌は使えなかったようです。

この他、島太郎や、牛若丸、大黒神、恵比須神、片膝を立てて座る達磨さんなど様々な作品が並んでいます。



初めて見る人形がありました。

右は、鎧姿の「神功皇后」、左は後の「応神天皇」を抱く「武内宿禰」のように思われます。

日本神話のヒロインが人形になっていたとは意外で、時代の隔たりを感じます。

日本で最も多い八幡神社の祭神ですが、案外その神話は知られていないようです。



岡山県井原市、井原駅構内の「手芸&絵画展」

2012年03月23日 | 日記
3月15日、知合いの方の紹介で、岡山県井原市の井原駅(井原鉄道)の構内「ひだまりカフェ ぽっぽや」で開催の「趣味の"手芸&油絵"とのふれあい展」に行きました。



コンパクトな展示会場にご主人の油絵と、奥様の手芸作品が並ぶ素敵な展示会でした。

ご主人の油絵「桜島」(左)「湯布院の大杉」(右)は、旅行で見た思い出の風景を油絵にされているそうです。

奥様の作品は、大事に残してきたお母様の着物や、子供の頃からの服をタペストリーや、ぬいぐるみなど様々な作品に生まれ変わらせているそうです。



展示会場の入口に掲示されていたリーフレットです。

奥様の作品が冒頭に掲載され、展示された作品数も圧倒的に多いことからどうも主役は奥様のようです。

ご夫婦は、広島県福山市神辺町の方ですが、会場はお隣の岡山県井原市でした。



今回初めて訪れた井原鉄道井原駅の風景です。

JR福塩線の神辺駅と、JR伯備線総社駅を結ぶ井原鉄道は、1999年ローカル鉄道の廃止が続く時代に開通した全国的にも珍しい鉄道です。

線路南側の駐車場から駅建物に続く跨線橋から撮った風景で、駅正面に円錐形の塔が付属した丸くカーブした現代的な建築は、源平合戦で扇の的を射ぬいた地元の英雄「那須与一」の弓矢にちなむデザインだそうです。

駅前広場には「那須与一」が弓を射ぬいた的と、足場の位置関係を実感させるモニュメントがありました。

また、駅前広場に墓石が並んでいましたが、説明する案内板も見当たらず、まったく謎の風景でした。



井原駅構内の風景です。

正面左に展示会場のある「ひだまりカフェ ぽっぽや」の入口があり、写真右上は、入口の看板を拡大したものです。

改札口は撮影場所の右手にありましたが、食堂や、ジーンズショップなどが並んでいます。



テーブルが2列に並ぶ「ひだまりカフェ ぽっぽや」の店内です。

玄関を入り、すぐの小さな部屋が展示室で、その奥にカフェがあります。

展示室では時々に様々な展示会が開催され、地域の人には人気の会場となっているようです。

駅の正面に無料駐車場があり、線路を越えた南にも広い無料駐車場があるのも魅力です。



玄関を入って左側の展示風景です。

様々なスタイルの人形などが並び、素敵な作品に妻はすっかり気に入ったようです。



おしゃれな猫の作品がありました。

前足や、目は、備後絣でしょうか。



猫と、魚の並ぶ可愛らしいデザインです。

猫に使われている様々な布地の組合せも絶妙です。

座布団に正座したような足元には魚の骨がきちんと置かれ、お行儀の良い猫ちゃんのようです。



可愛らしい犬の携帯電話ケースがありました。

「CORGI」の文字が刺しゅうされ、犬種は「コーギー」のようです。

北方モンゴロイド系の日本人に多い「胴長短足」の「コーギー」は、英国王室で飼われていた由緒ある英国種だそうです。

ダックスフンドと言い、最近、日本では「胴長短足」の品種が好まれていますが、体形に親近感を感じるためでしょうか。



「スーちゃんのカレンダー(1~12月)」と名付けられたタペストリーです。

案内のリフレットにもあった「スーちゃん」は、ここに描かれた女の子に付けられた愛称だそうです。

各月の可愛らしい風景を見ていると、次の季節が楽しみになってくるようです。



小さな人形や、アクセサリーが掛けられていました。

赤い金魚は、絞りの着物?

その左の絣模様の魚はカレイ?

楽しい作品が並んでいます。




展示会のリーフレットにもあったご主人の油絵「鞆の浦 鯛網出陣」、「小奴可の要害桜」です。

額のガラスが反射してうまく撮れていません。

「小奴可の要害桜」の下にはアクセス案内の地図も掲示されており、親切なご主人の人柄が窺えます。



主人の油絵「北海道 層雲峡 流星の滝」「神辺町 我が家の玄関」です。

「層雲峡 流星の滝」は、感動の風景だったのでしょうか。

玄関に描かれた花は、ご主人が季節毎に咲かせた鉢植えを並べ変えられているそうで、ご自慢の玄関風景でした。



展示コーナーのカウンターに「サクラソウ」の鉢植えがありました。

「サクラソウ」の原種で、毎年絶やさずに育てるご苦労もあるようです。

ご主人のガーデニングの趣味も合わせ、ご夫婦の趣味に込められた情熱が伝わってくるようでした。

今年11月にも同じこの会場で、展示会を開催予定で、妻は楽しみにしています。

菜園で採れた「踊るナス?」です

2011年09月18日 | 日記

今朝、家庭菜園で採れた「踊る?ナス」です。

妻が「こんなのがあったよ」と見せてくれた二股のナスにびっくり。

上から下まで約22cmで、たしか品種は「長なす」でした。

一昨日も二股のナスが採れましたが、直立不動スタイルで、あまり感動の無いものでした。

今回は、実に躍動感あふれるスタイルで、「走っているナス」のようにも見えす。

逃げ足の速そうなこのナスも、明日には「おいしい味噌いため」になっているものと思われます。



芦田川の河口近くの箕島町にある畑です。

3年前から知人の畑の一画を借り、野菜作りを楽しんでいます。

右手に黄色の花の咲く「オクラ」があり、「ナス」はその左に植えています。

2日に1度は収穫に行っていますが、オクラは、実が育ち過ぎて硬くなってしまうものが出てきます。

今日は、生い茂ったオクラの葉を風通しよくカットしてやりました。



「さつま芋」や、「モロヘイヤ」のエリアで、そばに「南京豆」や、「ピーマン」「ニラ」も生育中です。

今年は、植えたばかりの「南京豆」を半分以上「カラス?」に食べられて、しかたなく「モロヘイヤ」を植えましたが、初めてにしては成功でした。

食べきれない野菜を知り合いに差し上げますが、お返しの方が多過ぎて、次に差し上げるのが心苦しく、ちょっと困っている昨今です。

今年もシャコバサボテンが咲きました

2010年12月18日 | 日記
2週間前からシャコバサボテンが咲き始めました。

今年は、クリスマスの飾りを添えて撮ってみました。

頂いたクリスマスカードに組立て式のクリスマスツリーがあり、一緒に飾りました。

昨年書いたシャコバサボテンの記事を見ると、今年の開花状況は少し遅いようです。

猛暑の年は、寒い冬になると聞きましたが、天候の影響でしょうか。

このペースならお正月に満開の花を楽しめそうです。

今年もシャコバサボテンが咲きました

2009年12月16日 | 日記

2週間ほど前から咲き始めたテラスのシャコバサボテンがだいぶ咲いてきました。

まだまだ小さなツボミが多く、正月頃まで花が楽しめるかも知れません。

枝の直径は70センチで昨年と同じ位です。

一昨年から植替えをせず、肥料もやっていないためでしょうか。



昨年12-06の記事で花盛りを紹介しましたが、開花を始めた直後から室内に入れ、12月上旬に花盛りになっていました。

今年は、もっと長く美しい花を楽しみたいと思い、テラスに置いたままにしています。



鉢植えの一部を拡大してみました。

シャコバサボテンの鉢植えは、満開状態よりこの程度開花した姿が最も魅力的に感じます。

福山城博物館の「箱田良助と榎本武揚展」

2009年11月25日 | 日記
先週日曜日、福山城博物館で開催されていた2009年秋季特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」へ行って来ました。



福山城の天守閣の前では菊花展が開催されていました。

写真には写っていませんが、たくさんの菊の花が並び、賞を受けた花は素人の私が見ても立派に見えます。

菊花展も当日までのようで、夕方には花を片づけられていました。



天守閣の入口に上がる石段の横に特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」の大きな看板がありました。

「箱田良助」は、福山市神辺町箱田の出身で、江戸にでて伊能忠敬の弟子となり、日本地図の製作に参画した人で、榎本武揚の父です。

榎本武揚は、ジョン万次郎の私塾で英語学び、幕末には4年半の間、オランダ留学をしています。

帰国後、海軍副総裁に任命され、大政奉還の後には旧幕府の軍艦を率いて函館の五稜郭にたてこもった函館戦争の中心人物です。

その後、明治新政府に罪を許され、政府の要職を歴任した旧幕臣の中では別格の扱いを受けた人物でした。



特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」のパンフレットです。

展示の資料写真がなく、せめてこの写真でも参考にして下さい。



先週の土曜日、箱田良助の生家を訪ねました。

神辺町の要害山の西にある生家の横に、最近建立された石碑がありました。

最初よく分からず、管茶山記念館で道をたずねたら職員の方に現地まで車で案内して頂きました。



古い塀に囲まれた箱田良助の生家です。

道路の向こうが北、手前が南だったと記憶しています。

塀の右手には門があり、箱田良助の石碑は写真を撮っている道の右側にあります。

■福山市神辺町の「管茶山記念館」にあった箱田良助の説明文です。==========================================================================
箱田良助[はこだりょうすけ](1790~1860)
 箱田良助は、1790(寛政2)年、安那郡箱田村庄屋の細川園右衛門の次男に生まれました。名を良助、のちに左大夫、源三郎と改めました。細川家が一時期、地名である「箱田を名乗ったことから、良助もそれを苗字としました。
1807(文化4)年6月、17歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門し、測量術(地図など作製するために土地の距離や面積、高さなど測る技術)を学びました。
 九州第一次測量、第二次測量に参加した後も、忠敬の一番弟子として、測量や地図作製に尽力しました。
1821(文政4)年の大日本沿海輿地全図の完成のために貢献しました。
1822(文政5)年、幕臣である榎本家の株を買って縁組みし、榎本園兵衛武規と改名しました。さらに、1844(弘化元)年には、御勘定万(幕府の会計係)となって旗本(将軍にお目通りできる武士)に加えられています。1860(万延元)年8月、71歳で亡くなりました。
 また、良助の息子には、1886(明治元)年の箱館戦争で政府方に対抗して五稜郭を占拠した榎本武揚(1836~1908)がいます。
 2001(平成13)年、旧細川邸前に、箱田良助の生誕地を示す記念碑が神辺町観光協会によって建てられました。
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管茶山記念館にある管茶山の銅像です。

菅茶山[かん ちゃざん](1748~1827年)は、地元備後地方では江戸後期の教育者として知られ、漢詩人・朱子学者として歴史に残る人です。

箱田良助は、茶山が開いた近くの廉塾[れんじゅく]に学んでいたものと思われ、茶山と、伊能忠敬との交友関係がきっかけで忠敬へ入門することになったと推察されます。

■管茶山記念館にあった管茶山の説明文です。
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管茶山
(1748~1827)
 名は晋帥[ときのり]、字は礼卿[れいきょう]、通称は太中[たちゅう]、号は茶山[ちゃざん]。
 管茶山は、酒造業で神辺東本陣主人も勤めた菅波樗平[すがなみちょへい]と半[はん]の長男として延享5(1748)年2月2日、備後の国安那郡川北村(現在の福山市神辺町川北)に生まれた。
 19歳のとき京都に遊学し、初め古文辞学[こぶんじがく]を市川某[いちかわなにがし]に、古医法[こいほう]を和田泰純[わだたいじゅん]に学んだ。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂[なばろどう]に入門した。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂[なばろどう]に入門した。那波門下の兄弟子には備中鴨方[びっちゅうかもがた]の西山拙斎[にしやませっさい]がいる。
遊学は6回に及び安永2(1773)年・安永9(1780)年には大坂で頼春水[らいしゅんすい]や「混沌社[こんとんしゃ]」社友と交わっている。
 天明元(1781)年頃、神辺に私塾「黄葉夕陽村舎[こうようせきようそんしゃ]」を開いた。塾は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、茶山居宅からなる。寛政8(1796)年に福山藩の郷塾となり、「神辺学問所」「廉塾(れんじゅく)」と呼ばれる。塾では、菅茶山とともに藤井暮庵[ふじいぼあん]・頼山陽[らい・さんよう]・北條霞亭[ほうじょう・かてい]など都講(塾頭)による四書五経[ししょごはょう]を中心とした講釈がなされ、寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの階層にわたる塾生が2~3年にわたって学んでいる。
享和元(1801)年、福山藩の儒官[じゅかん]となり、藩校弘道館[こうどうかん]で講釈を始めた管茶山は、文化元(1804年)年・文化11(1814)年の2回江戸詰を命ぜられ、藩主阿部正精(あべまさきよ)直属の教授となり、文化6(1809)年には「福山志料[ふくやましりょう]」を、文政2(1812)年「福山藩風俗問状答書[ふくやまはんふうぞくといじょうこたえがき]」をまとめている。
 「宋詩に学べ」という文芸運動を西日本で大成した茶山は「当世随一の詩人」と評され、詩集「黄葉夕陽村舎詩[こうようせきようそんしゃし]」の発行は、多くの文人墨客[ぶんじんぼっきゃく]の来訪を促した。
 文政10(1827)年8月13日、管茶山は80歳で病歿し川北村(現在の神辺町川北)網付谷[あみつけたに]に葬られた。その墓碑は頼杏坪[らい・きょうへい]の撰文[せんぶん]である。
 「廉塾ならびに菅茶山居宅」は昭和28(1953)年に国の特別史跡に、「菅茶山の墓」は昭和15(1940)年に広島県史跡に指定されている。
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管茶山記念館に展示されていた伊能忠敬の肖像画です。

商家を隠居した50才から測量や天文観測を学び、56才の第一次測量(蝦夷地)から、74才に亡くなるまで日本地図の作成に情熱を燃やした生涯には感心します。

■管茶山記念館にあった管茶山と伊能忠敬の説明文です。
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管茶山と伊能忠敬
 1860(文化6)年、九州第一次測量(第8次測量)へ向った測量隊は、11月27日に神辺に到着しました。伊能忠敬が宿泊していた本陣(本荘屋菅波氏[ほんじようやすがなみし])に茶山が出向いて面会しました。「黄葉夕陽村舎詩」に「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生、命[めい]を奉[たてまつり]り諸道[しょどう]行きて測量、次いで見[まみ]え問い賦[ふ]して贈る)という詩があります。
 また、測量隊は1811(文化8)年の九州測量の帰路にも神辺を通り、箱田良助の生家(箱田村庄屋細川氏)に宿泊しました。茶山はそこへ使者を送っています。さらに、1812(文化9)年11月2日、神辺を訪れた伊能忠敬から銅版の万国図を贈られています。
1814(文化12)年、茶山の2度目の江戸滞在の際には互いに行き来して親交を深めました。
 第八次測量(九州第一次測量)から測量隊の一員として参加した箱田良助は、のちに茶山と伊能忠敬の交流を助けるなど重要な役割を担った人物でした。

「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生命[めい]を奉[たてまつり]り諸道[しょどう]測量し、行次いで見[まみ]え問い賦[ふ]して贈る)という詩に、茶山は幕府の命令によって日本全国の測量と地図作成に力を尽くした伊能忠敬を褒めたたえるとともに、忠敬の測量の経過を聞くことで自分の詩嚢[しのう](詩文を入れておく袋)に、中国の黄河や五岳(中国の霊山)をおさめたようだといい、忠敬のように諸国漫遊に生涯をささげられることをうらやましく思う、と詠んでいます。
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この資料も「管茶山記念館」に展示されていたものです。

箱田良助は、1807年に17歳で入門し、2年後の1809年の第7次測量に参加していることがわかります。

第7次測量の経路図が下に見えます。

経路=江戸→中山道→岐阜→大津→山陽道→小倉→九州東海岸→鹿児島→天草→熊本→大分→小倉→萩→中国地方内陸部→江戸



説明書きにナポレオン3世から将軍徳川慶喜に贈られ、榎本武揚に下賜されたとあった「フランス製軍服」と一緒に展示されていた「ディニェ モールス印字通信機」です。

武揚は、父良助の死去2年後の1862年から4年半の間、幕府の命でオランダに留学したようです。

オランダからは、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」に乗って帰ったようですが、その半年後の1867年11月に大政奉還があり、翌年の江戸城開場から函館戦争へ突き進んで行きます。



今年8月2日朝に訪れた函館の五稜郭の案内板にあった「榎本武揚」と、「土方歳三」の写真です。

あいにくの雨で、写真に水滴が見えます。

五稜郭で蝦夷共和国政府を樹立、武揚は選挙で総裁となったようですが、翌年の1869年(明治2)降伏しました。

函館では函館戦争で散った土方歳三が予想以上に高い人気でした。



「福山城美術館」のある天守閣の最上階から北東方向の景色で、中央に蔵王山が見えます。

天守閣では福山市の歴史が上階に登るほど古い時代の展示になり、最上階では全国の城の写真展示や、360度の美しい景色が楽しめます。

福山市「道三川」の川辺に咲くあじさい

2009年06月14日 | 日記
妻の風景画の場所探しで、福山市街を流れる小さな「道三川」を散策しました。

道三町の川辺できれいに咲く「あじさい」を見つけました。

霞小学校の南西に近い川辺で、名前は忘れましたが、小さな橋から撮った景色です。

福山市中央図書館前から駅前通りを横切り、「道三川」に沿って西の方向に歩いて行った場所です。

道三川は、江戸時代の初め、水野勝成公によって築城された福山城の外堀が残っているもので、福山市街の西を流れる「芦田川」から「吉津川」の支流が造られ、更に外堀だった「道三川」に流れているようです。

「道三川」の川辺には遊歩道が整備され、鯉が泳ぐ場所もあります。

又、小魚や、ザリガニを網で捕っている子供たちも多く、今日も見かけました。



ここにもたくさんの「あじさい」が咲き乱れていました。

霞小学校の南東にある霞橋の横の景色です。

川沿いのお家の方々が、精魂こめて作られているようです。

妻は、お許しを得てこの場所を絵にすることにし、スケッチに取りかかりました。



上段の「あじさい」を反対から見た写真です。

妻が、お家の方から聞いた話では、挿し木で花の種類を殖やされたそうです。



本当にきれいに咲いていました。

花は、数日前がピークだったそうで、ぼつぼつ終りに近づいているとのことです。



名前は、分かりません、ヒマワリに似た黄色い花が咲いていました。

道三川を歩くと、川沿いの方々のお陰で季節の様々な花が楽しめます。



妻がスケッチの後、お家の方から持って帰るようにと摘んで頂いた花です。

色々な種類を頂き、この花瓶に飾りきれず、もう一つの花瓶にも飾りました。

このクリスタルの花瓶は、ちょうど昨日購入したもので、記念撮影になりました。

日の出と、飛行機雲

2009年04月19日 | 日記
滋賀旅行の思い出を中断し、日の出の写真です。


今朝5:55、テラスから見えた日の出の景色です。

窓から見えた日の出が美しく、デジカメを持ってテラスに出てみると雄大な飛行機雲が出来ていました。

雲の上の先端にジェット機が、飛んでいます。

向って左下にも斜めの飛行機雲があり、北東方向から西に向かったようです。


この雲を見た一瞬、「テポドン」の名が脳裏をよぎりました。


「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」 №2

2009年01月07日 | 日記
1月3日、三次市の奥田元宋・小由女美術館で見た「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」の続きです。



階段の踊り場から第二・第三会場の入口を見た写真です。

第二会場は、地下一階にあり、展示内容は、7世紀前後に活躍した「突厥族」と、10世紀の初め「遼」を建国した「契丹族」です。

下の第三会場は、地下二階にあり、チンギス・ハーンの時代以降の展示です。

美術館は、山の斜面に沿って造られた建物で、一階玄関が、斜面の高い側にあります。



奇跡的に盗掘されていなかった墓から発見された黄金マスクです。

黄金マスクには銀のネットが取り付けられ、頭に固定していたそうです。

遼(10世紀初頭~12世紀初頭)の王の娘婿の顔にかぶせられていたもので、並んで埋葬されていた奥さんの顔にも黄金マスクが、かぶせられていました。

発見当時、ツタンカーメンの王墓から発掘された黄金のマスクに匹敵するニュースだったようです。

会場での説明では、この時代、貴族の結婚では嫁入り道具と合わせて墓へ副葬する品物も持参する習慣があったということです。



地下二階の第三会場の入口で、学芸員の方が移動式の建物について説明されている様子です。

手に持ったアジア大陸の東部の地図で熱心な説明をして頂きました。

この建物は、展示用に縮小されたサイズになっているようですが、日本では「神社」のようなものと説明されていました。

ここからチンギス・ハーンの時代以降の展示です。



チンギス・ハーンが、戦闘で使った馬の鞍だそうです。

狩りの時に乗った鞍も展示されていましたが、こちらの方が立派な感じです。

すぐ横にチンギス・ハーンの顔が描かれた絵がありました。

歴史的な英雄チンギス・ハーンが愛用していた鞍が目の前にあることになかなか実感が湧いてきませんでした。

しかし、このような品物が保存されていたことも奇跡的で、それを見ることができたことも奇跡的なことだと考えてみたら、展示会のすばらしさが次第にわかってきました。



元代の「イスラム教徒の石棺の蓋」です。

石棺の写真に向かって左端の中央部分にアラビア文字が刻まれていました。

説明書きには「アラーは、唯一の神で、モハメッドはアラーの使者である」のような意味の文章となっていたと記憶しています。

アラビア数字はいつも見慣れていますが、他の「アラビア文字」は、初めて見るもので、とても興味深く眺めていました。

元王朝は、世界を征服する過程で様々な宗教に出会い、寛容に対応したようです。

それが多くの民族を征服する技術の一つだったのかも知れませんが、多様な宗教が混在する国家の矛盾が拡大し、崩壊の要因ともなったようです。

改めて世界平和の困難さを感じます。

「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」№1

2009年01月05日 | 日記
1月3日、三次市の奥田元宋・小由女美術館で、「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」がに行きました。

福山市の図書館にあったパンフレットでこの展覧会を知り、当日11:00から学芸員の方によるギャラリートークがあることで思い立ちました。

展示品は、予想外にたくさんあり、常設展と合わせて3時間半ゆっくりとみせて頂きました。

展示内容は、歴史に沿って3段階に分かれ、第1段階は、紀元前4世紀頃からチンギス・ハーンが登場するまでの中国北方の遊牧民族関係の展示でした。

第2段階で、チンギス・ハーンの時代、第3段階で、明・清時代のモンゴル高原の遊牧民族関係の展示でした。

今日は、第1段階の「東胡族・匈奴族・鮮卑族」が展示されている第一会場の様子を掲載します。



1階にあった第一会場の入口です。
ここでは、モンゴル高原で活躍した民族、東胡族・匈奴族・鮮卑族が紹介されています。

個人的にはこの古い時代の展示が、一番印象に残りました。



最初の東胡族のコーナーに展示されていた「許季姜青銅簋」で、頂いたパンフレットに掲載されていた写真です。(戦国時代)

学芸員の方の説明では、許季姜[きょききょう]」は、この青銅器の作者で、青銅簋[き]」とは、青銅の食器だそうで、両側の把手には外側に向いた動物(説明ではヒツジだったか?)の顔がデザインされています。

内側の底に、確か「宝物として末長く大切にするように?」と言うような意味の決まり文句が刻まれているようです。

この青銅器の横に壺のような青銅器が展示されていました。

両側に把手があり、その先端には「螭[ち]」という架空の動物の頭が付いていました。

説明では「螭[ち]」とは大蛇が龍になる中間段階の動物だそうで、キリンのような先端が丸くなった二本の角が付いていました。

漢民族の文明に育った龍など架空動物が、遊牧民族に伝わったものと説明されていました。

東胡族は、中国を統一した秦の時代までモンゴル高原の東部に住んでいた民族のようです。

匈奴族は、東胡の西に住んでいた民族で、この後の漢の時代に勢力を拡大したと言われています。



匈奴族のコーナーにあった金の王冠で、パンフレットにあった写真です。(戦国時代)

説明によるとこの鷲の飾りの付いた金の冠は、展覧会一番の展示品だそうです。

冠の一番下段には、遊牧民が大切にしている家畜、羊と、馬が向かい合って伏せています。
その上段に同じように伏しているのが虎だそうです。(学芸員の方も、虎には見えないと言われていました)

羊が描かれた台の上の頂点には大鷲が載り、匈奴の人々は、世界の王者は大鷲だと考えていたことが、この王冠に表現されているようです。(モンゴル相撲で、鷲の舞が勝者により舞われることを思い出しました)

鷲の鮮やかな青の部分は、確かメノウで、モンゴル高原に住む大鷲は、羊をつかみ空に飛び立つなどの説明がありました。



鮮卑族のコーナーにあった「金製鹿頭形冠飾り」で、これもパンフレットにあった写真です。

説明では匈奴族に圧迫された東胡族の一部が、鮮卑山に逃れて生き延びたのが鮮卑族だそうです。(4世紀頃?)

貴族が冠に着けて歩き、揺れて金属音がすることが高貴さをアピールすることになるとの説明だったと思います。

学芸員の方も後で類似の事例として説明されましたが、奈良県明日香村の藤の木古墳でも同じようなハート型の飾りが出土したことを直感的に思い出しました。

古代から広いエリアで民族の接触が行われ、それにより人類の文明が発展したことが分かります。

ミトコンドリアDNAの研究で、人類の先祖がアフリカの1人の女性である説が有力とされています。

人類は、アフリカから地球全体に広がり、それぞれの民族に分かれた歴史がある一方、最近では地球規模で人類が移動しています。

出かけると、大抵外国人と出会うようになったこの時代の次に、どんな社会になって行くのでしょうか。

ふくやま美術館「大村廣陽展」で見た素敵な日本画

2008年12月27日 | 日記
12/23、妻とふくやま美術館へ「没後25年 大村廣陽 豊麗な花鳥動物画」を見に行きました。

日本画家「大村廣陽」(1891-1983)は、福山市東村町に生まれ、京都で活躍した人だそうです。

郷土にこんな日本画の大家がいたことは、まったく知りませんでした。

福山市東村町は、山陽自動車道の福山西インターに近く、尾道市と隣接した場所にあります。



福山駅北口に近い「ふくやま美術館」の入り口です。

向って右の建物は、福山駅で、正面の石垣は、福山城です。

この門を入ると、すぐ左に広島県立歴史博物館もあり、特に草戸千軒遺跡の展示品は、充実しています。



「ふくやま美術館」の玄関にあったポスターと、料金案内です。

「花鳥風月」の言葉はよく知られていますが、パンフレットのタイトルにもあるように「花鳥動物」が「大村廣陽」の絵の題材となっているようです。

このポスターにある豹の絵にも強い印象を感じます。

大村廣陽は、1907(明治40)年16歳で京都市立美術工芸学校に入学。

その後、京都市立絵画専門学校に学び、京都画壇の第一人者「竹内栖鳳[せいほう]」に師事、京都画壇で活躍したようです。



この絵は、1914年(33歳頃)に描かれた「牛」で、頂いたパンフレットに掲載されていたものです。

実物の絵を見ると、子牛の毛並みのやわらかさが本当に感じられるようでした。

会場に入ると、すぐの場所に展示されていたバッタや、雲雀のデッサンの素晴らしさに驚きました。

少年時代の作品で、これだけの絵が描けたのはやはり豊かな才能があったものと思いました。

展示会場は、少年時代から始まり、晩年の絵まで順路に沿って並べられていました。

この絵の他に動物の絵では、のどかに時を過ごす存在感のある水牛の絵があり、心に残っています。



「軍鶏」1927年の作品です。

鶏の絵は、他に何点もありましたが、いずれも本物よりはるかに美しく、迫力がある鶏でした。

鶏の絵の構想を練ったものと思われる小さなデッサンも展示されていました。

鳥のデッサンは、完成された絵と違って雑な感じで、廣陽の人間味を感じたような気がしました。



「豹」1937年頃の作品で、尾道市立美術館の所蔵だそうです。

展示会場の中央にこの絵がありました。

こちらを向いている豹の目を間近に見て、深い神秘を感じるようでした。

この写真は、美術館の玄関前に「没後25年 大村廣陽 豊麗な花鳥動物画」の大きな看板にプリントされていたものです。



この黒い豹の絵も、上段の「豹」の絵と対をなすよう、会場中央に展示されていたものです。

上段の豹の絵と並んで、迫力があり、幻想的な絵でした。

この写真も上段の写真と同様に玄関前にあった看板にプリントされていたものです。


仏画「光堂開扉」(1965年-74歳頃)です。

晩年になり、仏画をよく描いたようです。

少年時代に描いた、昆虫や、動物など自然の見たままの美しさから、より深い心の世界を対象とする絵になっていったと思われます。

晩年の絵は、動物の絵のようなストレートな感動がなく、気が付いていないことが何か残っているような気持ちになる絵でした。

多くの大作が並び、前半だけで堪能してしまったのかも知れません。



会場出口に屏風絵「青鸞」のビデオが放映されていたものを撮影しました。

「青鸞」1921年 30歳、第3回帝展出品作、2007年収蔵シカゴ美術館と案内されています。

写真に向かって左に見える鳥は、孔雀に似た「青鸞[せいらん]」と言う鳥だそうです。

東南アジアを廻り、そこに生息する青鸞をスケッチして帰り、大きな屏風に鮮やかな配色で再現したものと思われます。

会場の最後のコーナーにこの屏風絵が取り上げられてあり、高さ1m程度の小さな複製画が展示されてありました。

又、その複製画の前には着色された大きな青鸞の絵を切り抜いたものが並べられていました。

この切抜いた青鸞の絵を屏風に当て、型紙のようにして使ったものと推察されます。



ビテオの字幕に「1921年(大正10年)≪青鸞≫の大下図の前で サクヨ夫人とともに」と書かれていました。

廣陽が、30歳の頃の写真だそうです。

「絵の下図の前で」とあり、アトリエでの撮影だったのでしょうか。

二人の服装や、家具などをよく見ると、どことなくよそ行きの格好をして写真屋さんに撮影してもらったものと感じられます。

カメラが普及していない時代、自分たちの姿を写真に残すことは節目となる行事の一つだったものと思われます。

現在の感覚で見ると二人は、少し老けてみえるようです。



この女性は、シカゴ美術館で日本画を担当している方だそうです。

シカゴ美術館では、最近この「青鸞[せいらん]」を購入したそうです。

シカゴ美術館は、鮮やかな色で南国の森が描かれているこの屏風絵を高く評価し、字幕にもあるように来年展覧会を開催するそうです。

郷土にこんな日本画の大家がいて、海外でも高く評価されているとに展示の絵と合わせてとても素晴らしいことだと思いました。

シャコバサボテンが花盛り

2008年12月06日 | 日記
11月20日に開花を始めたシャコバサボテンが花盛りとなりました。



実に豪華に咲いています。

昨年、大きな鉢に植え替えて、一段と大きく成長しました。

広がった枝の直径を測ってみると

 なんと! 70cm

直径120cmの丸い食卓が小さく感じるほどです。



横から見ると、花の重さで枝が垂れ下がっているのが分かります。

小さなツボミもまだたくさんあり、クリスマスまでは楽しめそうです。

今年も「シャコバサボテン」が咲きました

2008年11月20日 | 日記
過去、2年ご案内したことがある我が家の「シャコバサボテン」の開花情報です。



昨日から開花をはじめ今朝見ると開花していました。




二つ目に開花している花です。

今年の開花は、例年よりかなり早いようです。

このブログで、昨年は、12月30日、一昨年は、12月17日に開花情報を掲載していました。
今年は、約1か月早いようです。
今年は、秋が早く、寒さも例年より厳しい感じがします。
開花時期もこの寒さのせいでしょうか。

昨年の写真と比べて今年は、花の数が一段と増えているようです。



これが全景です。
朝の陽射しが強く、カーテンを閉めて撮りました。

この鉢の面は、長い間北向きで、一か月前から南向きに変えていました。
枝や、花の数が少ない面です。



鉢の向きを変えて撮りました。
長い間、南向きで、枝や、花の数が多く付いています。

陶器の青い猫も出演させました。



つぼみがたくさん付いている様子です。