ミャンマーチーク屋さんのわが道を行く

日々の出来事と旅と愚痴と文句を勝手に語る日記。

感動

2015-08-06 21:04:04 | つぶやき
先日、「詩」の講座に通っているお客さんに新聞の切り抜きを
見せられた。

「興味ないかもしれないけれど、ちょっと見て、感動するから…」

感動の押しつけである。

全く興味もないし見たくもなかったが、仕方ないので、一応、大人の
対応で見せてもらった。それは、読売だったか、何かの新聞の「こど
もの詩」なるコーナーに寄せられた作品の数々だった。

その中のひとつにこんなのがあった。

タイトルは「おっぱい」

「おかあさん/ぼくは一才三か月でおっぱいをやめたんだよね…でもね/
あのとき/ぼくさびしかったんだよ…」

5歳の男の子の作品だという。

「これ、5歳の詩か?」というのが率直な感想だった。
もっとも、世界には5歳で大学に入るような 天才もいるけれど…。

うちにも、もうすぐ5歳になる娘がいるので、普通の4~5歳の言語能力が
どの程度のものなのか大体わかる。

まず「…やめたんだよね…」と、あたかも自分の記憶を他人に重ね合わせるよ
うな表現、これはない。普通の子供なら、自分の視点だけで「ぼくはおっぱいを
やめた時にさみしかった…。」と、このくらいしか書けないだろうと思う。

さらに「でもね…」という逆接の表現も早い気がする。

もちろん、年上の兄弟がいて、その影響で言葉が早いということも考えられる
けれど、それにしても怪しい。

決定的なのはこれだ。

「一才三ヶ月」という表現である。

あなた何歳?と聞かれ「ぼくは、五歳三ヶ月です」と答える5歳など、まず、
いない。そもそも何か月という知識がない。仮にあったとしても、すらっと
出てくるものではないし、それを過去に遡って表現できるなんて、まずあり
えない。仮に卒乳の時期を覚えていて、その「さみしかった、」ということ
を詩想として持っている5歳は、実際にいたのかも知れない。 けれど、それ
を文字にしたのは、おそらく家族の誰かだろう。

今の5歳児は、確かに私の子供時代とも違う。なんでも早い時期に覚えるし、
話す言葉も行動も随分、大人っぽい。
けれど、根っこの部分は、昔の子供とさほど変わらないだろうと思っている。

子供が発する言葉に、時々、「ドキッ」とさせられることがある。語彙も限
られるし言い回しも下手だが、物事を斜めに見たりせず、見たままををスト
レートに話すから、意外に的を得ていたりする。

そういう意味では、「子供の詩」などでなくても、普通の日常に感動は溢れて
いる。

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