ミャンマーチーク屋さんのわが道を行く

日々の出来事と旅と愚痴と文句を勝手に語る日記。

平成最後の日

2019-04-30 23:20:37 | つぶやき
帰国いたしました。

中国といっても滞在先が観光地ではないので、別段、日本人を見かけることもなく、帰国日の空港も至って普通で、特に連休を思わせる混雑もなかった。滞在中は天候が悪く、想像以上に過ごしやすかったのは良かった。華南地方は4月に入ると、急激に蒸し暑くなり、天気の良い日は不快指数がグッと上がる。なのでこの時期は雲が一番過ごしやすく、晴れるよりは逆に雨の方が体力的にはありがたい。そういう意味では、すごく良いタイミングだった。

そして今日は平成最後の日。

昭和から平成を迎えた日は19歳だった。

当時の友人が住んでいた中野のアパートの一室でその日を迎えた。その日は朝方まで起きていて、午後3時ころに、先に私が目覚めてテレビを付けると、小渕さんが平成の文字を持っていた。すぐに友人を起こすと、しばらくボーっとしてから二人でラーメンを作って食べたのが平成の始まりだった。

当時のその友人は、3年前、長野県の集団大麻事件で捕まってしまった一人だった。もう、20年以上会っていないけれど、平成という時代を思い返す時、なんとなくこれからも彼のことを思い出すような気がしている。

明日は令和の初日だ。

私は休みで、多分、家族と過ごすことになるだろうと思う。そして30年後くらいに、もし健康で元気でいられたら、もしかするともう一度、元号の改正をこの目で見ることができるかもしれない。その時に令和の初日はどうやって過ごしていたのか、思い出すことができるだろうかと、ちょっと気になっている。何かあえて思い出に残るような日にすべきなのか、それとも何気ない普通の日でいいのだろうかと…。

でも、良く考えてみれば、平成最初の日も特に何かあったわけではないのだなと…。あの日、単に友人宅にいただけの日だったのに、今もこうして記憶に残っているということは、元号改正ということをちょっと特別な日に感じていただけのことだったということなのかもしれない。

だとすれば、明日のこともきっと、ちゃんと記憶していられるはずだ。

やっぱり、何気ない日常で過ごそうと思う。

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中国へ

2019-04-24 21:13:12 | つぶやき
連休まであと2日だ。

私の休みは3日間だけだが、今さらながら近場のキャンプでも行こうと探してみるが、どこも一杯。空いていそうなのは岐阜県の比較的標高の高いところばかり。やっぱり寒いからだろうか?うちの装備は夏使用のみなので、この時期の寒いところはどうしても避けたい。でもそうすると見つからない。

まぁ、仕方ない。

もうキャンプは諦めることにして、どこかに近郊の山へ登山に行こうかと思っている。これなら費用も掛からないし…。

その前にひと仕事。

ということで、明日から中国へ行ってきます。

まだ、空港混雑はないと思うけれど、中には溜まっている有休2日間を連休にくっつけて、12連休なんて勇気のある行動を取った人もいるかもしれない。

うらやましいが、この時期はどこへ行っても日本人ばかり…なんてことにもなり兼ねないので、やっぱり連休は避けたい。

行先がスリランカの人は、どうするんだろう?ちょと気分的に思い気もする。

では、行ってきます。





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脱出失敗

2019-04-23 21:09:53 | つぶやき
今日は年に1度のテナントのオーナー会議の日。

昨年度の実績報告やら来季の方針、テナント本社からのお偉いさんや商工会議所の方々のあいさつに始まり、優良テナントの表彰などおよそ2時間に渡って行われた。一応、シャツにジャケット着用で行かねばならないのが面倒、極まりない。昨年はちょうどタイに出張中ということで逃れたが、今年は先にくぎを刺されたので断念。

終わった後は、全体で立食の懇親会。こういう形式じみた名刺交換みたいなのは苦手だ。どうせ、後で顔と名前が一致しないのだから意味がない。適当に上っ面の会話をして、テーブルに並んだオードブルをひと通り食べて、トイレに行きがてら脱出しようと試みた。

トイレに入ると、そこには偶然、テナントの室長さんがおり、自然とそのまま会話して戻る羽目に…。
見事、脱出失敗だ。

今日は、年に一度の会社社会との繋がりを強烈に実感する1日だった。

今月は休みが少なく、ちょっと辛い。

ただ、催事の延長が決まり、ちょっとホッとしている。これで連休前に撤収しなくて良いことになった。

近頃は9時を回ると、眠くなり寝てしまう日が続いている。

今日も寝よう。

では、おやすみなさい。





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10連休

2019-04-19 21:37:49 | つぶやき
あと一週間で10連休が始まる。

といっても、休めない人にとっては長過ぎてちょっと困惑気味ですらある。先日、長めの春休みを取ってしまったので、今月はほとんど休めない日が続いている。本当は連休明けに、中国とタイへの出張を一度に回ろうかと思っていたのだが、どう急いでも9~10日はかかる。で、そうすると帰国後に、また休みが取れなくなり、今月と同じような展開になりそうなので、連休前と後で分けて行くことにした。

まず、連休前に中国へ。連休後、すぐには催事の撤収があるので、12日(日)からタイへ行くことにした。連休前は高いかなと思いきや、25日発は平均よりやや高いくらいだったので、この日に決めた。

10連休、おそらく27や28日なんて、日本の民族大移動の日になるのではないかと思う。出国する人も多いだろう。うちのお客さんは、何人かがクルーズ船に乗ると言っていた。あの有名な「飛鳥」がちょうど連休のタイミングで東京晴海を出発し、グアムとサイパンを回って横浜に戻ってくるとのこと。もうひと方は、東京から釜山と九州を回るイタリア船に乗ると言っていた。9日間も乗ってると
皆、食べ過ぎて何キロか増えて降りるのだとか…。

うちは3日くらいしか休めそうもない。

どこにも連れて行かないというのもなんだし、かといってアフリカでレジャー費は尽きてしまったので、先立つものがないという事情もある。夏にもどこか行きたいので、まずはレジャー費を稼がないといけない。

なので、この連休は近くの山へ山登りか、お金のかからないキャンプくらいしかないかなと…。

でも、今度はインドへ行きたいな…。


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玉の輿

2019-04-17 16:14:19 | つぶやき
2日前、仕事中に10年来のお客さんが訪ねてきた。

「お兄ちゃん、(昔から、私の事をそう呼んでいる)私、結婚することになったの、相手はお医者さんよ…」。

この最後の、「相手は、お医者さんよ…」に、嬉しさと喜びと、ちょっとだけ優越感が入り混じったような感情が読み取れたものの、本当に幸せそうな顔をしていたし、まぁ、おめでたい話ということもあり、出会いからここまでの道のりを事細かに伺ってしまった。

このお客さん、御年70歳。およそ30年前に前夫と離婚して以来、独り身。2人の子供はすでに独立して、現在、95歳の母親と二人暮らし。見かけは70歳にしては身ぎれいにしている。仕事は時々、週末に催事で宝飾品販売をしている他は、ほぼ年金暮らしだ。

出会いは、知人の紹介。医者とは知らずに、再婚を望んでいた相手側にとりあえず会ってみたところ、気に入られ初めての出会いから2か月目でプロポーズされたとのこと。相手は75歳で開業医。跡継ぎの息子も医者で病院には20人の従業員がいるらしい。自宅にも行き、すでに相手の息子さんにも会ったという。見かけはちびデブのおっさんだが穏やかな人ではあるらしい。

これって俗に言う、完全な玉の輿婚だ。

自宅も、やはり豪邸だったとのこと。下世話な話だが、こういう話には反対する相手側の息子さんとの対立が必ずあり、結婚後は遺産目当てなどと言われ、思い描くような生活ではなかったなどという話も耳にするけれど、その点を伺うと、「相手の息子さんは、再婚には大歓迎で、父をよろしく…」と言われのよ、と。

70歳で病院の院長婦人か…。人生大逆転だ。

このお客さんの95歳になる母親はどうなるのか、とちょっと気にはなったが、あまりにも幸せそうな笑顔に、そこは触れずにいた。あとは、相手のお医者さんが性格的にも人格的にも普通に方であることを心から願うばかりだ。

こんな話が身近に本当にあるんだなと、びっくりしてしまった。

とりあえず、おばちゃんおめでとう!






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あと二週間

2019-04-15 21:01:29 | つぶやき
あっという間に4月も半ば。

あと二週間で平成も終わりだ。それに対して、別段、何の思いもないけれど、高度成長期に教育を受け、バブル崩壊直後に社会に出た世代としては、「平成」は日本がまさに地盤沈下していった時代であり、「右肩下がり」の時代だったと心底、思う。

昭和の終わり頃、海外に行けば、空港から街までの道路沿いには数多くの日本企業の看板が目に入ったが、それが平成の終わりの今、中国にとって代わった。世界市場を席巻していた日本企業がどんどん世界の一流企業から脱落する一方、国内では格差が広がり、生きづらいと感じる人が大量に出てきた。みんな余裕がなくなり、すっかり将来を悲観する国になってしまった。それが「平成」だとすれば、できれば「令和」の時代は、戦争がないだけで満足する時代にはなってほしくないとつくづく思う。

それにしても、新元号の「令和」。

公式には、新しい天皇が元号選定に関わられることはないと言う。

けれど、天皇にとっての元号と言うのは、自分の時代の名前になるわけで、それを有識者や国民の代表だけで本当に決めているのだろうかとちょっと疑問だ。新しい天皇はすべて決まった後に新元号を教えられ「わかりました」と、受け入れてるとは到底思えない。なぜなら、自分の時代の名前なのに、その選定に一切、関われないなんて、普通で考えたらないだろう。決定前にどこかで伝えて、了承していると考えるのが普通だと思う。

考え過ぎだろうか?





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オマーン マスカット編

2019-04-14 22:06:04 | 旅行(海外)
赤道直下にありながら、高地にあるので一年中常春のナイロビから灼熱のアラビア半島にあるオマーンへ。朝だというのに気温はすでに30℃。といっても乾燥しているので日陰に入るとさほど暑さは感じない。

オマーンは初めて訪れる国だ。昔、旅行していた90年代は他のアラビア半島の国々と同じ、ビザの取得が面倒でなかなか旅行し難かった国だった。旅行者の門戸を開いたのは15年くらい前だったか…?

マスカット空港に着いて若干残っていた米ドルを換金して、路線バスで市内へ向かう。
通貨はオマーンリアル、1リアルおよそ290円。この単位だけでも物価の高いのがわかる。終点までおよそ30分、バス代500パイサ、およそ140円。そこでまたバスに乗り換え、宿のあるマトラ地区へ向かう。今度はバス代80円。どうも距離によって運賃が違うようだった。マスカットの街は、3つの地域に分かれていて、結構、大きく掴みどころのない街だった。しかも、バスの車窓から街を眺めていても、ほとんど人が歩いていない。

単純に暑いから…。

朝9時の時点で気温は35℃。昼には40℃、午後2時には42℃まで上がった。日差しが強く、日中はとてもじゃないが歩けない。後で聞いたところ、旅行に適しているのは10月から1月くらいまで、後は、常に暑いという。7月には50℃以上にもなるのだとか。

宿に着いて、パスポートを出そうとすると、私のだけが見つからない。どこを探してもない。思い返すと、換金した時、両替屋さんにコピーを取るからと渡したまま、返してもらうのを忘れたようだった。再び、空港まで戻らねばならない。バスは1時間に1から2本しかない。しかも時刻表などない。タクシーだと往復4000円。仕方ない。この炎天下の中、いつ来るのかわからないバスを待つのは辛すぎる。面倒だが、空港まで往復する。

戻ってきて、昼寝。

夕方、涼しくなってから出かけた。マスカットの街は、平地が少なく山を削って拡張しているような街で、つかみどころがないけれど、とてもフォトジェニックな街だ。特にマトラのスーク(市場)周辺は、古き良き中東の雰囲気が色濃く残っていて異国情緒がいっぱい。人も、一体どこから出てきたのかと思うほど、夕方からは大変な賑わいになる。観光客は欧米人ばかりだった。ちょうどクルーズの大型船が港に接岸されていて、どうもそのお客さんらしい。東洋人もほとんど見かけない。

オマーンの観光のメインは、やはりUAEのドバイからのほうがアクセスの良い飛び地、ムサンダム半島だと思われる。マスカットからだと一度、UAEを跨いだ先にあり、やや遠いので、観光客はドバイやアブダビと抱き合わせで旅行する人が多い。だからマスカットにはあまり立ち寄らない。しかも車がないと移動が不便な街なので尚更、敬遠してしまう。タクシーはあるが高いし、メーターではないし、その度に交渉になる。外国人だと平気で3倍も4倍も言ってくるドライバーも多いので面倒と言えば面倒だった。

翌日も、朝からぐんぐん気温が上昇。午前中ですでに39℃。バス停で、バスを待つ。けれど、待てど暮らせど全然、バスが来ない。バス停には屋根もないので、日射病か熱中症にでもなってしまいそうだった。限界を感じた頃、ようやくやってきた。この日はスーパーやショッピングセンターといった、とにかく日差しを遮る場所から出られなかった。
午後には44℃になった。

中東の湾岸諸国は、いわゆる冬にあたる時期、10月後半から1月後半くらい以外は、旅行するのに適していない。しかも交通手段も限られるので、車がないととても不便だ。帰りは、空港までは素直にタクシーで向かった。これがいけなかった。

デジカメをタクシーの中に忘れてしまった。

しかも、このデジカメには、今回の旅行の写真だけではなく、娘の小学校の入学式や小さな頃の写真。まだ、他に保存やプリントアウトをしていないメモリーカードが入っていた。

それが全部、きれいさっぱり無くなってしまった。動物を撮るために、一眼レフも持って行ったので、それだけは残ったけれど、キベラの写真もナイロビの写真も無くなってしまったのは、ちょっと悲しい。

妻は激怒。娘は落胆。私も気が遠くなる…。

オマーンでは、両替屋にパスポートも忘れ、デジカメも紛失するし、なんだか相性が悪かったのかな…。

「旅の思い出は、記憶の中で…」

そう思っても、妻に激怒されそうなので、言えないでいる
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ケニア キベラスラム編

2019-04-13 00:38:06 | 旅行(海外)
サファリから戻った翌日、この日がケニアの最終日。今日の夜、オマーンのマスカットへ向かう。とりあえず何の予定もなかったが、案外、元気なのでスラムを見に行こうと思いついた。いや、本当はサファリの間、退屈だったので最後の日はどうしようかと考えていた時に、ふと思いついたのがスラムだった。

ナイロビには世界で2番目に大きなスラム(キベラスラム)がある。ちなみに世界一は、インドのムンバイにあるらしい。で、早々、ネットで検索。するとやはり最安値はニューケニアロッジで申し込む…とある。再び、ニューケニアロッジへ行くと、「今からでもいいよ…」と。ツアーなどと言っても、ガイドはキベラ出身のお兄さんに連れられてキベラを案内してもらうというもの。時間は3時間ほど。行きは、お兄さんに迎えに来てもらいダウンタウンから路線バスに乗ってキベラへ向かう。帰りはキベラのバス停まで見送ってもらい私たちだけで戻る。

このキベラ見学ツアー、一人2000ケニアシリング。およそ2000円。子供なんて参加しないので、子供料金なんてないと思われるが、半額にしてくれた。迎えに来てくれたのは32歳のドレッドヘアーのレゲエのお兄さん。でも、優しいそうだったので安心した。以前、訪れたとき良く乗った路線バス、懐かしい。ダウンタウンからキベラまでおよそ30分、30円ほど。

キベラスラム、ナイロビに住む人口の約半分、およそ80万~100万人以上が住んでいるとも言われている巨大なスラムだ。バス停から歩くこと10分、道を1本隔てただけでいきなりバラックの集合住宅が連なる巨大な集落、いや、町が広がる。道は人一人がやっと通れるほどの迷路のような道が入り組んでいる。案内がなければ絶対に迷い出れなくなる。

とにかく臭いが半端ではない。もう、ドブ臭というか物の腐った臭いというか何とも言えない臭いがスラム全体を包んでいる。鼻をつまみたいが、失礼なのでできない。娘もちょっと緊張している。スラムの中は、一見、無秩序のようだが、一応、ちゃんとした社会が形成されている。ほとんどが住宅だが、時折、商店、雑貨屋や肉屋、八百屋、金物屋などもある。そして学校やデイケアーなどの施設もちゃんとある。びっくりしたのが、アクセサリー工場やレンガ工場などの個人経営の会社のようなものも存在している。写真は基本自由だ。スラムの人間は、こういう外国人(NPOの人など)が来るのは比較的慣れているらしく、大人は無関心を装っているが、子供が来たことには驚いていた。学校では、娘は多くの子供たちに囲まれて、ひたすら髪の毛を触られていた。どうもストレートヘアーがめずらしい。子供は行動がストレートでわかり易い。

1時間ほど歩いて、一軒の家にお邪魔した。ガイドのレゲエ兄さんの知り合いの家のようだった。すべてがトタン作りで狭かったが、小さなテレビもあった。ソファアなどはどこからか拾ってきたもののような感じだ。この家のおばさんは少し英語を話した。部屋に入り、ソファに座ると、小さな子供たちが5人ほど入ってきた。皆、娘の隣に座りたがった。子供の一人はおばさんの娘で、あとはデイケアーで近所の子供を預かっているようだった。

キベラで暮らす人々にとって水の確保が一番の問題だ。所々に水道は引かれていても、頻繁に断水するらしい。あとは病気だ。病院はない。そもそもお金がないので罹れない。なので近くの森や林に入って薬草を探して対応する。大きな病気はスラムの人々が少しずつ、お金を出し合い診てもらうこともあるのだとか…。

おおよそ3時間ほど歩いて終了。いろんな話を聞いたが、これほど大きなスラムは国家規模で対応しないと改善なんて到底、無理な話だと思った。

帰り際、娘に「どうだった?」と聞くと、一番、印象に残ったのは、「ママが足場の悪いところで足を踏み外し、片足がドブにハマり半泣きになったこと…」とスラムとはまったく関係ないことを答えていた。

妻は妻で、「早くホテルに帰りたい、足が腐る…」と嘆いていた。確かにこれまでの人生であんなに汚いドブを見たことがなかった。しかもそんなドブに足を突っ込むなんて悪夢しかない。でも、ちょっと可笑しかった。

以上が、キベラスラムのゾーン1、(実際はそんな風にゾーンには分かれてはいないが…)の話だ。さらにゾーン2とゾーン3まであり、ゾーン3は完全に警察かボディガードを雇わないと行けない地域になっているのだとか。ゾーン2は、様々な違法な薬物や銃器、ワシントン条約違反ものなどを売る場所などを訪れるらしく、こちらもちょっとそれなりの人(キベラの長老など…)を雇わないといけないらしい。

興味はあったが、子連れなので諦めるしかなかった。

キベラで見たもの。いろいろ考えさせられる風景が、未だ、頭に焼き付いている。圧倒的な貧困に対して、どうすることもできない現実があった。もし、自分がここで生を受けたなら…と想像すると、正直、日本という国に生まれた幸運を思わずにはいられなかった。世界にはいろいろな国がある。シリアやイエメンやソマリアなどは、ここよりももっとずっと悲惨な状況にあるはず。

それを思えば、今、自分の抱える悩みやストレスなど、ちょっと小さなことに思えてくるから不思議だ。

とりあえず、ここで見た光景を忘れないでいようと思う。

こうして、ナイロビ滞在は終わった。

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ケニア サファリ編(3)

2019-04-12 00:22:08 | 旅行(海外)
サファリ最後の日、この日は早朝6時出発、8時にはテントへ戻り、朝食。8時半にはナイロビに向け出発する。早朝サファリは眠いだけで終わったが、動物が元気に駆け回る光景が見られたのと、サバンナの朝日がとてもきれいだった。

ナイロビへの復路、1時間ほどしたところでクレーターロードを走行中、突然、「バン!」と何か破裂するような大きな音がして車が止まった。車内では「またかよ!」の声が…。
皆で外へ出る。昨日とは違う箇所だった。運転手が車の下へ潜り古いシートベルトらしきモノを使って補強する。そこからはさらに時速が遅くなり10キロにも満たない走りで、街道沿いの小さな町の修理屋さんに立ち寄る。途上国ではちゃんとした設備やパーツなどなくても、あり合わせのモノでどうにかこうにか直してしまう逞しさがある。この辺は尊敬に値する。

こんなことでもなければ立ち寄ることもない本当に小さな町に立ち寄れるので、私的にはうれしい。早々、散策。街道沿いにバラック作りの小さな商店が連なるだけの小さな町。いや、村か。その後ろにこれまたバラック作りの家が並ぶ。ヤギが離し飼いされている。外国人が珍しいのか、注目の的だ。特に東洋人の子供が珍しいのか、娘に話しかける人もたくさんいた。アフリカ人の普通の人は案外、フレンドリーではない。調子のいい奴はどこか胡散臭く、なにか企んでいるような人が多い。それはどこの国でも同じだが…。なので、アフリカではジロジロ見られるけれど、娘と一緒でも声がかかることはそれほどなかった。

40分ほどで修理完了。元のスピードに戻ったのでひと安心と思いきや、それから1時間後、再び、「ボン!」と大きな音。また、故障だ。皆で降りる。今度は重症そうだ。10分後、ドライバーが走ってくる同業者の車を止め始めた。この先、30分ほどのところで昼食を食べる予定になっている。そこまで止めた車に私たちを乗せ、先に行って食事をして待っていてもらう手筈だ。その間にドライバーは、再びどこか街道沿いの修理屋さんまで走り、そこで手直しして合流するらしい。なんとも場当たり的な感じがするが、ここまで来ると、こういうやり方でも物事が進んでいくというところが、まさにケニアなのだろうと、妙に納得してしまう。

案の定、昼食を食べ終わってしばらくすると、ドライバーが満面の笑みで「ジャンボー」と顔を見せた。「車はどう?」と聞くと「ノープロブレムだ!」と。再び、走り出すと、今度はほんとうにナイロビまで何事もなく走り終えた。7時間ほどで往路とあまり変わらなかったのが信じられないくらいだった。

ナイロビに戻り、スーパー寄り、それから夕食を食べに行った。食堂から外へ出ると真っ暗。ちょっと不安にもなったが、人通りのある道でホテルに戻った。

車のトラブル続きだったが、結局はどうにかなってしまうことで、そういうアバウトさの中でケニアの社会は回っているのだと確認できたような気がした。

こうしてサファリが終わった。
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ケニア サファリ編(2)

2019-04-11 00:58:17 | 旅行(海外)
ナイロビからおよそ6時間半、マサイマラに到着。

各自、テントに荷を降ろすと、すぐに夕方からのサファリに出発。私たちの車のリーダーはルーマニア人の大学の先生。大学の先生だけあって英語は完璧だし、なんとなく私たち日本人のシャイな特性を理解しているようで、それを組んであれこれ提案してドライバーに伝えてくれる非常に頼もしい方だった。後々も、この人がいてくれて本当に良かったと言う場面がたくさんあった。

出発すると、ひたすらサバンナに動物がいる光景が続く。

昔と違うのは、今は各車に無線が取り付けられ、動物の情報を共有しながらサファリを進んでいく。どこかの車がライオンを見つけたりすると、その情報が各車に入る。すると皆、猛ダッシュでその場所へ向かう。インパラやガゼルやシマウマのような草食動物は、そこら辺にうじゃうじゃいる。ゾウもキリンも結構、いる、やはり皆、観たいのは、ライオンやチーターのような肉食動物だ。

観れる確率は、それこそ運次第。あとは季節にもよるらしい。今は雨季前で、実のところそれほどいいタイミングではないらしい。それでも、早々、ライオンのファミリーに遭遇。しかも大接近できる位置だった。私のような、付き合いサファリの人でもちょっとはテンションが上がる。そして像も群れ。娘も妻も大興奮。ルーマニアの先生もご機嫌だった。私は疲労もあって「早くテントに帰って横になりたいなー」と思いながら観ていた。

ようやく日暮れ。キャンプに戻ると夕食が出来ていた。ケニア食のオンパレード。味はいま一つだけれど、そんな贅沢は言っていられない。これがロッジサファリだと美味しい洋食が並ぶらしい。もっとも料金は5倍以上する。食事中はルーマニア人の先生が優しい英語で盛り上げてくれる。娘にも気にかけてくれて、楽しい団らんだった。シャワーもふんだんにお湯が出た。マサイマラは、日中こそ気温が35~38℃にも上がるものの日が沈むと一気に肌寒くなる。お湯が出てとても助かった。昔は、お湯などなかったから、お昼に一度テントに戻り、そこで水シャワーを浴びていた。今や湯が出ることで、昼に宿に戻ることが無くなっている。

翌朝は7時に朝食、7時半に出発。走り出すこと30分、車体から「ガキー」と凄い音がして車は止まった。サファリでは本来、車から降りてはいけない。とはいえ、運転手は車を降り状態を確認すると、ギブアップのジェスチャーをしている。どうもシャフトがダメになったらしい。すぐに無線で誰かに連絡をとっている。20分後、1台の車が来てルーマニアの先生と日本人の大学生を乗せて出発。すぐ後にまた1台の車がきて私たち3人を乗せて出発。結局、車が直るかわからないので、別のツアーの車にそれぞれ便乗させられることになったのだ。私たちの乗った車にはお金持ち風の欧米人の若い女性が2人乗っていた。車もすごく良いし、運転手もビシッとしていて、何かが違う感じがした。少したってどうもプライベートで車をチャーターしているということがわかった。その違いは、お昼時にも実感した。便乗した私たちは車を乗り換える時に渡されたのは紙袋に入ったランチボックスだった。サンドイッチにパックジュース。バナナと現地の変な味のするポテトチップスのみ。彼女らは遠くからしか見えなかったが、豪勢なランチを食べていた。

それでも、結局、後になってみれば、これが良かった。この運転手は常に他の車の前へ出てでも、自分のお客さんにベストな位置から見せようとしてくれる。ちょっと強引な感じすらしたが、ひたすら顧客満足度を追及しているような行動は気持ちよくもあった。私たちは、偶然、この車に便乗できたおかげで、ビック5はもとよりハイエナにレオパードにダチョウにサイとおおよそ観ることができた。それは夕食時に別の車に乗ったルーマニアの先生らと話をしていても違いを感じた。

なんだか初っ端からアクシデントに見舞われたが、それはそれで良かったとも言える。私たちのドライバーは申し訳なさそうだったが、一応、車は「もう大丈夫!」と胸を張っていたので、まぁ、安心した。明日は早朝サファリとナイロビに帰る日。この日は夕食後、コーヒーを飲みながらルーマニア人の先生と大学生とちょっと話をして眠りに着いた。

私としては、やはり1日中動物ばかりで、飽きたのが正直なところ…。


つづく…。
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