「五足の靴が五個の人間を選んで東京を出た。
五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。」
これは明治40年の夏、新聞に連載された旅行記の書き出しで、
五人は、与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里。
鉄幹は三十代だが、ほか四人はまだ二十代前半の若さだった。
五人の若者は東京から汽車で、まず白秋の家がある福岡へ行き、
長崎から荒天の中を船で熊本県の天草へ渡り、真夏の海岸線を徒歩で南下する。
わたしは今回の旅を計画した今年の五月まで、この事は全く知らなかった。
図書館で借りたガイドブックにその名も「五足の靴」という立派なホテルが
あるのを見てその由来を知ることになった。
予算内では宿泊できないようなホテルだったが「五足の靴・遊歩道」も整備されて
いる。文学碑もある。
いずれにしても、天草は車がないと不便でとても回れない、という印象だった。
照りつける日差しの中、有明海の青さを眺めながら快速バスを待つのはわたしだけ。
乗用車が何台も通って行き、循環バスが来るたび地元の人が乗って去っていく。
この炎天下を明治の若い文学者たちが学生服やスーツ姿に革靴というスタイルで、
32キロも歩いていったというのは驚異的だ。
彼等は大江天主堂を目指し、宣教師に会う目的があったという。
わたしはとても彼等の足跡を追うことはできなかった。
でも熊本・天草から長崎・島原、諫早へと海と黄昏を堪能した旅だった。
陽が暮れる、やがて夜がくる、その大好きな時間を異郷の地で、
存分に味わった。(寂しさは微塵もなく、ひたすら気楽だった)
帰ってからすぐに書棚から白秋の「邪宗門」を取り出した。
諫早の詩人伊東静雄詩集は行く前に再読していたが白秋はまだだった。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、、、」
(邪宗門)
五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。」
これは明治40年の夏、新聞に連載された旅行記の書き出しで、
五人は、与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里。
鉄幹は三十代だが、ほか四人はまだ二十代前半の若さだった。
五人の若者は東京から汽車で、まず白秋の家がある福岡へ行き、
長崎から荒天の中を船で熊本県の天草へ渡り、真夏の海岸線を徒歩で南下する。
わたしは今回の旅を計画した今年の五月まで、この事は全く知らなかった。
図書館で借りたガイドブックにその名も「五足の靴」という立派なホテルが
あるのを見てその由来を知ることになった。
予算内では宿泊できないようなホテルだったが「五足の靴・遊歩道」も整備されて
いる。文学碑もある。
いずれにしても、天草は車がないと不便でとても回れない、という印象だった。
照りつける日差しの中、有明海の青さを眺めながら快速バスを待つのはわたしだけ。
乗用車が何台も通って行き、循環バスが来るたび地元の人が乗って去っていく。
この炎天下を明治の若い文学者たちが学生服やスーツ姿に革靴というスタイルで、
32キロも歩いていったというのは驚異的だ。
彼等は大江天主堂を目指し、宣教師に会う目的があったという。
わたしはとても彼等の足跡を追うことはできなかった。
でも熊本・天草から長崎・島原、諫早へと海と黄昏を堪能した旅だった。
陽が暮れる、やがて夜がくる、その大好きな時間を異郷の地で、
存分に味わった。(寂しさは微塵もなく、ひたすら気楽だった)
帰ってからすぐに書棚から白秋の「邪宗門」を取り出した。
諫早の詩人伊東静雄詩集は行く前に再読していたが白秋はまだだった。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、、、」
(邪宗門)