安倍首相は、一から政治言語を学習し直さなければならない。
政治は言語を通しての創造的な頭脳の作品である政策を、具体的に討議できる形の法案にまとめ上げる頭脳労働である。
ところが、安倍晋三という政治家は、すべてが官僚や側近連中の頭脳労働の神輿の上に乗るだけで、自らの頭で熟慮することがない。
一般論をいうのは避けたいが、3代目の跡取りは、側近が集まっての神輿担ぎで、権力を維持する談合構造であることが多い。
したがって、側近が担ぎやすい、【扱いがしやすい人物】の方が、神輿に載せられるのが、日本的潮流の主流になっている。
言うなれば、神輿に担がれる人物は、あまり熟熟慮型でない方が、担ぐ集団にとっては良いリーダーなのである。
時たま、リーダーも自分がコントロールしている地位にいることを自分で納得するために、意向を側近に、それとなく伝える。
それを殿のご意向と悟って、十分な忖度をした上で行動して、実現していれば、側近の地位は安全である。
対立する勢力の少数意見を尊重する気など、さらさら無いのだ。
したがって、国会の開会前での論争、国会開会後の論争は可能な限り省略するのが、能力があることの証明になる。
ゴタゴタする論争は、【悪夢のようだと眼に映る】のだが、それをあからさまに表明するリーダーは、なんとも傲慢で幼稚である。