@curatorshinya 私という感覚があるということは、私と世界という2元性があり、証明をするには、観察するものとされるものという2元性がある。しかし、その悟りは絶対的な1元性であるため、見ることも知覚することも説明することもできない。しかしそれはただただ自明である。
シャンカラの説く不二一元論はそういうことだと思います。 @somtampuuu 私という感覚があるということは、私と世界という2元性があり、証明をするには、観察するものとされるものという2元性がある。しかし、その悟りは絶対的な1元性であるため、見ることも知覚することも説明する…
メトロポリタン美術館が所蔵作品 40 万点の画像を高解像度・無料・無許可で DL 提供に着手。(非営利に限る):Metropolitan Museum Initiative Provides Free Access to... metmuseum.org/about-the-muse…
安倍一派の目論見とは真逆の快挙だな。→ ベトナム暴動 日本企業が日の丸掲げ配送を装い中国人6人を救出 - ViRATES [バイレーツ] @ViRATEScomさんから virates.com/news/1515912
このまま行ってしまうと、日本の官僚機構と民衆とが直接対決してしまう局面が出て来る可能性がある様に思う。その時にまた、楠木正成の様な人物が現れるのだろうか?
政治をやれる人が居なくなってしまった様に、哲学や芸術をやれる人も、減ってしまった様に思うことがある。こうなってしまったら、また一から始めるしか無いのだろう。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
ぼくは、実は憲法改正賛成です! 「第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」を改正し、同性婚を明文的に認めるべきだと思います!
こういった改正でしたら、きっと24条を書いたベアテさんも喜ぶと思います! @kenichiromogi 「第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」を改正し、同性婚を明文的に認めるべき
結局、偏差値批判が届かない人たちがいるのは、彼らが見ているのが「小さく前にならえ」の世界だけで、振り切れたoutliersの狂気や深淵を知らないからというだけの話だと思う。だから、かみ合わない。スペクトラムの一部しか見ていないんだ。
リンカーンの有名なゲティスバーグ演説「人民の人民による人民のための政治」は、フランス革命の自由・平等・博愛の精神を、「自由=人民の」「平等=人民による」「博愛=人民のための」と、彼の言葉に置き換えたものではないか?と気がついた。
この「人民の人民による人民のための」という言葉は、14世紀イングランドにおける宗教改革の先駆けとなったジョン・ウィクリフの言葉だという説がある。 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8…
ジョン・ウィクリフやリンカーンの演説は、精神=文化領域には自由の原則、政治=法領域には平等の原則、経済領域には博愛(友愛)の原則が支配しなければならない、とするシュタイナーの社会有機体3分節論に繋がるが、これはフリーメーソンの思想として通底しているのではないか。
フランス革命の自由・平等・博愛や、リンカーンのゲティスバーグ演説には、政治権力を立法・行政・司法に三分割したモンテスキューの影響が強いだろう。 柄谷行人の言うネーション、国家、資本の三位一体や、ラカンの三界区分も、ここから影響を受けているだろう、と私は考える。
それにしても、自由経済と呼ばれるものが、国境を超えた新たな奴隷制度になってしまうとは、何と言う皮肉だろう。それこそ法の下の平等がグローバル規模で確立されていないからこそ起こった、極めて近代的な構造的問題だと思う。
ヒンズー教の創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァら最高神の三神一体機能を三種の神器に当てはめると、胎児を模した八尺瓊勾玉・現状を映す八咫鏡・天叢雲剣に相当し、これは天照・月読・スサノオに相当するからこそ、スサノオの退治した八岐大蛇から天叢雲剣が出て来たのではないか?
ナム・ジュン・パイクは、自分が生まれ落ちる100日前から自分が生まれるまでの母親の胎内で過ごした1932年4月から7月まで、毎日の新聞記事に質問をする形で、自分をお腹に宿した母親とダイアローグをする作品を残している。なんて素晴らしい世界観の持ち主なんだ!と驚いてしまう。
統覚機能を指すサンスクリット語のBuddhiは、覚醒者ブッダBuddhaと同じ語源だろう。ヒンズー教の不二一元論は、カントの構想力と良く似てると思うけれど、この話を追って行くと、どうしてもアーキタイプやシンクロニシティ、生成言語の話と繋がって来る。
名前を持たないものは認識不可能だから、存在しないと同意義である。教育における「名づけ得ぬもの」が、教育の価値を数値化することで顕在化させる偏差値教育からこぼれ落ちた、暗黙知ではないか?