サダム・フセインの処刑の直前の様子が報道されたCNNのニュースを、ネット上のビデオアーカイブにて見た。いやな気分になった。死刑、という制度そのものもイヤだが、権力を失った元権力者が、権力者によって公開処刑されているのがとにかくイヤだった。
国家権力がその主権者である国民(それは人を殺すことを禁じている)を、国家の名の下に刑罰として死を要請するのが死刑という制度である。そこには飛躍があるが、国家の主権者である国民には人を殺すことを禁じておきながら、国家という大きな権力となった際に飛躍が発生し、その権力が死を要請するのである。ディドロらの書いた百科全書では、司法の権力は国民から国家に一旦譲渡される、と書いてあると聞いたことがあるが、死刑制度もその辺りが一番の問題となってくるのかもしれない。(実際、フランスは憲法に死刑廃止を盛り込むことになるそうである)
ヨーロッパにおける公開処刑の中止がミュージアムの発生に結びついている、と指摘したのはフーコーであったが、それはつまり、フランス革命とナポレオン戦争以降のモダニズムの発生と、国家による文化統制がほぼ一致しているのである。しかし、この半公開処刑を見て、私はまた中世に戻ってしまったのではないか、という印象を受けた。又はそれだけ、現在の統治の体系が疲弊していることなのだろうか。
国家が法を用いて統治するのは当然のことであり、それには異論はない。しかし、それが国際レベルで行われる際に(この裁判はイラク国内の裁判ではあったが)、かなり丁寧にやらないとまずいと思う。裁く側と、裁かれる側の問題だ。裁く側が存在する限り、その裁く側は同時に裁かれる対象でなくてはならない。
世界連邦の会議の通訳をした際、ICC(国際司法裁判所)の実現の為には各地の国内法の整備が必要だという話を聞いて、なるほど、とも思ったが、それが植民地主義や資本原理主義の延長に行われているのであれば、それは残念だ。
ミロシェビッチ裁判の時もそうであったが、ミロシェビッチが裁かれるのは当然であるが、国家元首が他の国家によって裁かれることや、その裁く側が戦勝国であるというのはどうかと思う。彼を裁く主体は、西ヨーロッパではなく、本来彼を権力の座に据えたセルビア人でなくてはならないのでは?
同様、イラク戦争という、大量破壊兵器の存在を理由に戦争を始め、多くの死者を出すことになってしまった戦争の責任者である全ての権力者は、サダム同様裁かれるべきではないか。
国家権力がその主権者である国民(それは人を殺すことを禁じている)を、国家の名の下に刑罰として死を要請するのが死刑という制度である。そこには飛躍があるが、国家の主権者である国民には人を殺すことを禁じておきながら、国家という大きな権力となった際に飛躍が発生し、その権力が死を要請するのである。ディドロらの書いた百科全書では、司法の権力は国民から国家に一旦譲渡される、と書いてあると聞いたことがあるが、死刑制度もその辺りが一番の問題となってくるのかもしれない。(実際、フランスは憲法に死刑廃止を盛り込むことになるそうである)
ヨーロッパにおける公開処刑の中止がミュージアムの発生に結びついている、と指摘したのはフーコーであったが、それはつまり、フランス革命とナポレオン戦争以降のモダニズムの発生と、国家による文化統制がほぼ一致しているのである。しかし、この半公開処刑を見て、私はまた中世に戻ってしまったのではないか、という印象を受けた。又はそれだけ、現在の統治の体系が疲弊していることなのだろうか。
国家が法を用いて統治するのは当然のことであり、それには異論はない。しかし、それが国際レベルで行われる際に(この裁判はイラク国内の裁判ではあったが)、かなり丁寧にやらないとまずいと思う。裁く側と、裁かれる側の問題だ。裁く側が存在する限り、その裁く側は同時に裁かれる対象でなくてはならない。
世界連邦の会議の通訳をした際、ICC(国際司法裁判所)の実現の為には各地の国内法の整備が必要だという話を聞いて、なるほど、とも思ったが、それが植民地主義や資本原理主義の延長に行われているのであれば、それは残念だ。
ミロシェビッチ裁判の時もそうであったが、ミロシェビッチが裁かれるのは当然であるが、国家元首が他の国家によって裁かれることや、その裁く側が戦勝国であるというのはどうかと思う。彼を裁く主体は、西ヨーロッパではなく、本来彼を権力の座に据えたセルビア人でなくてはならないのでは?
同様、イラク戦争という、大量破壊兵器の存在を理由に戦争を始め、多くの死者を出すことになってしまった戦争の責任者である全ての権力者は、サダム同様裁かれるべきではないか。