最近、久しぶりにレンタルビデオを借りて見た。ずっと昔に見たビクトル・エリゼの「ミツバチのささやき」がどうしても気になっていた。スペイン内戦以降、弱体化したフランコ政権が最後の文化統制をしていく中で作られた、珠玉の傑作だ。
1972年に制作された映画「ミツバチのささやき EL ESPIRITU DE LA COLMENA」(日本語訳すればミツバチの巣の精神となる)は、暗にスペイン内戦をテーマとした、1940年のスペインの田舎をテーマとした作品で、アンナとイザベルという少女をメインに据えた作品だ。あまりにも敏感な作品なので、強度のない言葉を寄せ付けない、完璧とも言える作品だ。ここにとても親切な解説が書かれた批評があるので、参考にまでどうぞ。
最近、まだ直感のレベルでしかないのだが、スペインにおける国民国家問題の状況は韓国のそれと似ているのではないかと考えている。韓国の国民国家問題は20世紀初頭の日本による植民地主義の問題、そして冷戦以降1982年の金泳三以前まで続いた親アメリカ傀儡政権の為、北と南の問題を抱え込んだ。一方スペインは、反ナポレオンのパルチザンにて始めて成立した「スペイン・ナショナリズム」の流れにおいて国家が成立したものの、第一次大戦以降、フランコによるクーデター以降の軍事政権によって民主化が遅れたため、それがバスクとカタロニアの問題へと繋がっていく。民主化の遅れは問題として非常に大きいが、同時に民主化を無理やり進めていたら早いうちに分裂していたかもしれない。
照屋勇賢さんが横浜トリエンナーレにて、フランコに反対しカタルニアからプエルトリコへと亡命したチェリストのパブロ・カザルスをテーマに作品を作っていたが、私はここには可能性があると思う。安易なナショナリティをテーマにするのではなく、ネーションにおける複雑な位相を丁寧に接続し、解き明かしていくのが重要なのではないだろうか。
エリゼを理解するのの困難は、逆を言えば外国人が中上健二や坂口安吾、成瀬巳喜男等の作品を理解できるか、というレベルと似てくると思う。角材を持って三里塚に座り込む「大男」の中上、法隆寺を焼き払えと唱える安吾、銀座のママが2階にあるお店まで階段を上るまでの憂鬱を描いた成瀬、これは非常にナショナルな問題をテーマとしているが、これを外国人でも理解できれば非常に面白いだろう。(最近は日本人でも分からない人が多いのでは?!)時代は今、そういう点に向かって動いていると言えよう。現に、NYでは現在成瀬の特集上映が始まっている。
つまり、こういった複雑なテーマを、いかに正確に、そしてわかりやすく、そして面白さを理解してもらえるか。これはキュレーターである私に課せられた使命とも言えよう。
エリゼの映画の中に出てくるフランケンシュタインは、何とも言えずポエティックなシンボルである。さらにこのフランケンシュタインはいわゆる民話的トリックスターではなく、あくまで詩的な直喩なのである。ここでアナ(無垢)の姉であるイザベル(理性)に対する質問が効力を発揮してくる。
「なぜフランケンシュタインは少女を殺したの」
「なぜ皆はフランケンシュタインを殺したの?」
「精霊とは何?良いの、悪いの?」
フランケンシュタインが何を意味するかは説明するまでもないが、同時に説明してしまった時点で野暮だ。これが表現における「語るもの」「語れないもの」の臨界線と言えよう。(同時にそこで沈黙してしまってもダメ!)ちなみにこのフランケンシュタインは記号ではなく、象徴的な何か、と言えるだろう。フランコ政権側の検閲官が、エリゼの作品が問題作だと分かっていながら検閲できなかった理由が、ここにある。さらにこの質問に関するシーン、そしてその回答は、全てモンタージュの接続方法、すなわち想像力に委ねられている。
「ミツバチのささやき」だが、「ささやき」という訳語を使ってしまった為、少女がベッドシーンにてささやく可愛らしさが前面に出すぎてしまった様に思える。しかし、ここは多少硬くても、あくまで「みつばちの巣の精神」という言葉を使うべきだったように思う。それは外国人には分かり難くても三里塚はJFKではなくsanrizukaであり、法隆寺はWestminsterではなくHoryujiであり、銀座がSohoではなくGinzaである様に。
1972年に制作された映画「ミツバチのささやき EL ESPIRITU DE LA COLMENA」(日本語訳すればミツバチの巣の精神となる)は、暗にスペイン内戦をテーマとした、1940年のスペインの田舎をテーマとした作品で、アンナとイザベルという少女をメインに据えた作品だ。あまりにも敏感な作品なので、強度のない言葉を寄せ付けない、完璧とも言える作品だ。ここにとても親切な解説が書かれた批評があるので、参考にまでどうぞ。
最近、まだ直感のレベルでしかないのだが、スペインにおける国民国家問題の状況は韓国のそれと似ているのではないかと考えている。韓国の国民国家問題は20世紀初頭の日本による植民地主義の問題、そして冷戦以降1982年の金泳三以前まで続いた親アメリカ傀儡政権の為、北と南の問題を抱え込んだ。一方スペインは、反ナポレオンのパルチザンにて始めて成立した「スペイン・ナショナリズム」の流れにおいて国家が成立したものの、第一次大戦以降、フランコによるクーデター以降の軍事政権によって民主化が遅れたため、それがバスクとカタロニアの問題へと繋がっていく。民主化の遅れは問題として非常に大きいが、同時に民主化を無理やり進めていたら早いうちに分裂していたかもしれない。
照屋勇賢さんが横浜トリエンナーレにて、フランコに反対しカタルニアからプエルトリコへと亡命したチェリストのパブロ・カザルスをテーマに作品を作っていたが、私はここには可能性があると思う。安易なナショナリティをテーマにするのではなく、ネーションにおける複雑な位相を丁寧に接続し、解き明かしていくのが重要なのではないだろうか。
エリゼを理解するのの困難は、逆を言えば外国人が中上健二や坂口安吾、成瀬巳喜男等の作品を理解できるか、というレベルと似てくると思う。角材を持って三里塚に座り込む「大男」の中上、法隆寺を焼き払えと唱える安吾、銀座のママが2階にあるお店まで階段を上るまでの憂鬱を描いた成瀬、これは非常にナショナルな問題をテーマとしているが、これを外国人でも理解できれば非常に面白いだろう。(最近は日本人でも分からない人が多いのでは?!)時代は今、そういう点に向かって動いていると言えよう。現に、NYでは現在成瀬の特集上映が始まっている。
つまり、こういった複雑なテーマを、いかに正確に、そしてわかりやすく、そして面白さを理解してもらえるか。これはキュレーターである私に課せられた使命とも言えよう。
エリゼの映画の中に出てくるフランケンシュタインは、何とも言えずポエティックなシンボルである。さらにこのフランケンシュタインはいわゆる民話的トリックスターではなく、あくまで詩的な直喩なのである。ここでアナ(無垢)の姉であるイザベル(理性)に対する質問が効力を発揮してくる。
「なぜフランケンシュタインは少女を殺したの」
「なぜ皆はフランケンシュタインを殺したの?」
「精霊とは何?良いの、悪いの?」
フランケンシュタインが何を意味するかは説明するまでもないが、同時に説明してしまった時点で野暮だ。これが表現における「語るもの」「語れないもの」の臨界線と言えよう。(同時にそこで沈黙してしまってもダメ!)ちなみにこのフランケンシュタインは記号ではなく、象徴的な何か、と言えるだろう。フランコ政権側の検閲官が、エリゼの作品が問題作だと分かっていながら検閲できなかった理由が、ここにある。さらにこの質問に関するシーン、そしてその回答は、全てモンタージュの接続方法、すなわち想像力に委ねられている。
「ミツバチのささやき」だが、「ささやき」という訳語を使ってしまった為、少女がベッドシーンにてささやく可愛らしさが前面に出すぎてしまった様に思える。しかし、ここは多少硬くても、あくまで「みつばちの巣の精神」という言葉を使うべきだったように思う。それは外国人には分かり難くても三里塚はJFKではなくsanrizukaであり、法隆寺はWestminsterではなくHoryujiであり、銀座がSohoではなくGinzaである様に。