小沢代表は9月28日、日本共産党の志位委員長から「『戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府』の実現をよびかけます」とする提案を受け、「基本的に理解し、大胆な決断を評価する」と述べ、今後の緊密な連絡、協力で一致したことを明らかにしました。 pic.twitter.com/rt8V5qf8ug
映像作品『ユーラシアを探して』の上映につきまして、Webマガジンのコロカルでもご紹介頂きました。
黒潮文化から宇宙へ!鹿児島に未来のアートが集合「かごしまアートフェスタ2015」|鹿児島県 鹿児島市|「Webマガジン コロカル」 colocal.jp/news/54459.html
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イルカは脳波で会話するけれど、オデッサでイルカと一緒に泳いだ時、もしかしたらイルカと脳波で会話できるかもしれない!と思って、もの凄い意識を集中してイルカに念力を送ったけれど、どうやらキャッチしてもらえなかった様だった。
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人間の意識が量子の動きに働きかけるという実験結果は、デヴィッド・ボームの考えた量子のホログラム理論と一致すると思う。これが人間のVorstellung(表象)とding an sich(もの自体)の一致であり、カントの構想力かつミクロコスモスとマクロコスモスの一致ではないか。
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イリヤ・プリゴジンの複雑系は、時代が追いついたからノーベル化学賞を受賞できたけれど、デヴィッド・ボームの考えた量子のホログラム理論は、時代が全く追いつかずに、そのまま放置されている様に思う。
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SEALDsの奥田君への脅迫について、匿名による「呪い」の言葉がどれほど定型的であるか想田さんが指摘しています。僕も繰り返し言いますけれど、匿名で、個体識別できないようなことを言うのは、発信者の「自分自身に対する呪い」として機能します。
「誰でも言いそうなこと、誰が言ったのか特定できないこと」を言う人は、そうすることを通じて自分が「いてもいなくても大勢に影響がない人間」「口を噤んでもそのことに誰も気がつかない人間」「その人以外に誰も口にできないようなことを言わない人間」であることを自己申告しています。
自分は「いてもいなくてもいい人間」である、「いなくなっても誰も気づかない人間」であることをうれしげに繰り返しアピールする人は、そうやって弱い酸に侵されるように自分自身の存在根拠を掘り崩しているのです。
奥田知志さん @tomoshiokuda についての先週の週刊新潮の記事も、きわめて偏った、一方的なものだった。新潮社が好きだし、週刊新潮に知り合いもいるだけに残念。奥田さんは無私の人で、ホームレスの方々の支援を長年続けてこられた。あの記事は、そんな奥田さんに対する侮辱だった。
奥田愛基さん @aki21st に寄せられたさまざまな誹謗中傷のツイートのいくつかを見たが、その中に見逃せない「論点」があったので、そのことについて書く。奥田さんが(当然のことだが)警察に相談したことに対して「個別的自衛権で十分じゃなかったのか」みたいなことを書いている人がいた。
国家の中の、個人が、自分の生命や財産を守ることと、国家が警察などの治安維持のための仕組みを持つことの関係は、国際社会において各国家が自衛することと、集団的自衛権の仕組みを持つことの関係と果たして同等だろうか? 私は、重大な差異があると考える。
そもそも、国家はどうして必要なのか? ホッブズの『リヴァイアサン』の社会契約論によれば、自然状態では「万人の万人に対する闘争」(bellum omnium contra omnes)になってしまうため、個人の権利を一部制約しても、国家というシステムをつくるのである。
社会契約によって出来た国家を「リヴァイアサン」という聖書の中の怪物にたとえたのは、ホッブズの慧眼であった。まさに、主権国家はリヴァイアサンとして振る舞っており、大量破壊兵器の使用など、事実上好き勝手なことを繰り返しては、その責任を逃れ続けている。
国際法上、国家の主権を制限する法理は存在するが、それは極めて限られている。現実の国際社会は、地球という「超国家」の下に各国家が「個人」として存在するような状態にはなく、むしろホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」に近い状態にある。そのような状態での「集団的自衛権」はどうなるか?
核兵器を含むさまざまな兵器を持った国家同士が対峙する地球は、個人が権利を譲り渡して国家をつくった『リヴァイアサン』の状態よりは、むしろ、ならず者たちが実力で向き合う無法状態の方に近い。そんな中での「集団的自衛権」は、結局、どのならず者の集団に加わるか、ということに近い。
アメリカは、かつて、「世界の警察官」を自認し、今でもその残滓があるが、アメリカが「紛争解決」のためにやってきたことを冷静に見れば、そこにはほとんど無制限の国家という「リヴァイアサン」の暴力があるだけだ。ベトナムでも、イラクでも、アメリカは平和の名のもとに破壊を繰り返してきた。
戦争は、結局、国家という「リヴァイアサン」の好き勝手な行為、に近く、大量の兵器が消費され、それを製造して販売する人たち=「死の商人」が儲かる。タリバンやアルカイダ、ISISを生み出す遠因にもなる。結局、国家による「警察行為」は、平和を生み出すどころか暴力の連鎖をもたらすだけだ。
国際社会における「集団的自衛権」が、もし国家の中の警察行為に近いものならば、大いに結構だし、称賛されるべきだろう。しかし、その内実は、未だ怪物として核兵器を含むさまざまな破壊装置を持つ国家による好き勝手な行為に近く、目的と手段のバランスが異常に悪いと言わざるを得ない。
国際連合の本質は、第2次世界大戦の戦勝国連合である。戦勝国は、残念ながら、国家のリヴァイアサン性を反省する必然性に乏しい。原爆を投下しながら、未だに国家としては反省の言葉を述べていないアメリカはその象徴だ。集団的自衛権は、結局、警察よりは、反省のない怪物の中に加わることに等しい。
憲法9条は、その成立の過程こそ異例なものだったが、国家のリヴァイアサン性に対する嫌悪、反省に基づいた、人類史上画期的なものだった。戦後の日本が、世界各地で続けられてきた大量破壊、市民の犠牲、新たな暴力の連鎖に関与しなかったことは、誇りであり、日本の国家的アイデンティティだった。