「アトミック・サンシャイン」展に参加予定のアーティスト、森村泰昌さんの個展準備がLuhring Augustine Galleryにてあり、そのインスタレーションを手伝ってくる。さすがに森村さん位の大物アーティストになると、作品も大掛かりなものが多く、かなり詳細に渡る仕事が必要となってくる。しかし、Luhring Augustineも超一流ギャラリー、スタッフのレベルがとても高く、仕事がはかどる。これだけ仕事ができる人たちとご一緒できるのは、私にとっても大変な喜びだ。なんとか、24日のオープニングに合わせてインストールが完了できた。今日は今から空港に森村さんをお迎えにあがり、29日のアーティスト・オープニングに合わせて準備に入る。
最近、コミュニケーションの可能性について、いろいろ考えている。私はコミュニケーションが非常にリテラルだ、という指摘を受けることが多いのだが、その傾向は、英語を使う生活が長くなることと比例して、強くなっている気がする。
例えば、小津映画の原節子の「ちょっと・・・」という言葉の中に含みを持たせるようなコミュニケーションは、英語圏では日本ほど多く存在しないと思う。アメリカ人であれば、little, for what?という感じで、それこそリテラルに聞き返されるだろう。英語は日本語と異なり、完全なロゴス型の言語であり、それがリテラルなコミュニケーションの基底になっている気がする。別の言い方をすれば、日本語は非常に「分かり難」く、英語は言語的に「分かりやすい」のだと思う。
そんな中、森村さん扮する三島由紀夫や浅沼稲次郎という人物の説明をアメリカ人に対し、その歴史的背景や日本というコンテクストをリテラルに理解してもらおうと幾多のリテラルなコミュニケーション努力をする中、改めてコミュニケーションについて考えさせられた。芸術の表現そのものはリテラルなものではないが、そのコンテクストが共有できなかったら、その意味が理解できないではないか。そのコンテクストの説明(まさにキュレーターの仕事!)は、リテラルに行うしかない。表現やリテラルではない表現というのは、その次の段階だ。
まだ読んでいない三島の「文化防衛論」の中で、三島は一体何を語っていたのだろうか、ととても気になり始めた。こういった部分に重なる所が少なからずあるだろう。このブログ投稿のタイトルも大江健三郎を知っている人向けの、リテラルなコミュニケーションになっている時点で、私のコミュニケーションはダメなのかも(笑)でもブログという文字情報である限りは、仕方ないですよね、皆さん。
最近、コミュニケーションの可能性について、いろいろ考えている。私はコミュニケーションが非常にリテラルだ、という指摘を受けることが多いのだが、その傾向は、英語を使う生活が長くなることと比例して、強くなっている気がする。
例えば、小津映画の原節子の「ちょっと・・・」という言葉の中に含みを持たせるようなコミュニケーションは、英語圏では日本ほど多く存在しないと思う。アメリカ人であれば、little, for what?という感じで、それこそリテラルに聞き返されるだろう。英語は日本語と異なり、完全なロゴス型の言語であり、それがリテラルなコミュニケーションの基底になっている気がする。別の言い方をすれば、日本語は非常に「分かり難」く、英語は言語的に「分かりやすい」のだと思う。
そんな中、森村さん扮する三島由紀夫や浅沼稲次郎という人物の説明をアメリカ人に対し、その歴史的背景や日本というコンテクストをリテラルに理解してもらおうと幾多のリテラルなコミュニケーション努力をする中、改めてコミュニケーションについて考えさせられた。芸術の表現そのものはリテラルなものではないが、そのコンテクストが共有できなかったら、その意味が理解できないではないか。そのコンテクストの説明(まさにキュレーターの仕事!)は、リテラルに行うしかない。表現やリテラルではない表現というのは、その次の段階だ。
まだ読んでいない三島の「文化防衛論」の中で、三島は一体何を語っていたのだろうか、ととても気になり始めた。こういった部分に重なる所が少なからずあるだろう。このブログ投稿のタイトルも大江健三郎を知っている人向けの、リテラルなコミュニケーションになっている時点で、私のコミュニケーションはダメなのかも(笑)でもブログという文字情報である限りは、仕方ないですよね、皆さん。