Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

リテラルなニューヨークの私

2007-11-26 03:18:06 | Weblog
「アトミック・サンシャイン」展に参加予定のアーティスト、森村泰昌さんの個展準備がLuhring Augustine Galleryにてあり、そのインスタレーションを手伝ってくる。さすがに森村さん位の大物アーティストになると、作品も大掛かりなものが多く、かなり詳細に渡る仕事が必要となってくる。しかし、Luhring Augustineも超一流ギャラリー、スタッフのレベルがとても高く、仕事がはかどる。これだけ仕事ができる人たちとご一緒できるのは、私にとっても大変な喜びだ。なんとか、24日のオープニングに合わせてインストールが完了できた。今日は今から空港に森村さんをお迎えにあがり、29日のアーティスト・オープニングに合わせて準備に入る。

最近、コミュニケーションの可能性について、いろいろ考えている。私はコミュニケーションが非常にリテラルだ、という指摘を受けることが多いのだが、その傾向は、英語を使う生活が長くなることと比例して、強くなっている気がする。

例えば、小津映画の原節子の「ちょっと・・・」という言葉の中に含みを持たせるようなコミュニケーションは、英語圏では日本ほど多く存在しないと思う。アメリカ人であれば、little, for what?という感じで、それこそリテラルに聞き返されるだろう。英語は日本語と異なり、完全なロゴス型の言語であり、それがリテラルなコミュニケーションの基底になっている気がする。別の言い方をすれば、日本語は非常に「分かり難」く、英語は言語的に「分かりやすい」のだと思う。

そんな中、森村さん扮する三島由紀夫や浅沼稲次郎という人物の説明をアメリカ人に対し、その歴史的背景や日本というコンテクストをリテラルに理解してもらおうと幾多のリテラルなコミュニケーション努力をする中、改めてコミュニケーションについて考えさせられた。芸術の表現そのものはリテラルなものではないが、そのコンテクストが共有できなかったら、その意味が理解できないではないか。そのコンテクストの説明(まさにキュレーターの仕事!)は、リテラルに行うしかない。表現やリテラルではない表現というのは、その次の段階だ。

まだ読んでいない三島の「文化防衛論」の中で、三島は一体何を語っていたのだろうか、ととても気になり始めた。こういった部分に重なる所が少なからずあるだろう。このブログ投稿のタイトルも大江健三郎を知っている人向けの、リテラルなコミュニケーションになっている時点で、私のコミュニケーションはダメなのかも(笑)でもブログという文字情報である限りは、仕方ないですよね、皆さん。

展示会期の短縮のお知らせ

2007-11-22 12:36:44 | Weblog
ブログをご覧になっている皆様、こんにちは。「アトミック・サンシャイン 9条と日本」実行委員会会長の渡辺真也です。大変お世話になります。今日は一つ、ご報告があり、ご連絡差し上げております。

先日、The Puffin Roomのディレクターであるカール・ローゼンシュタインさんとお話しをしたのですが、そこで展示会期の短縮の希望がありました。

The Puffin Roomは現在のニューヨークでは珍しく、平和をテーマとした美術展をやることで大変知られたスペースなのですが(現在は第二次世界大戦中のアメリカにおける日系人強制収容所の写真展を開催中です)、その運営母体であるPuffin Foundationのボードの方から、今回の展示の会期を6週間から4週間に短縮する様に、という指示が会場側に来た、という連絡でした。

アメリカのこういった非営利美術機関は、501(C)という法的制度の中で動いており、そこにおけるボードメンバーの決断は絶対であり、ミュ-ジアムや会場のディレクターは、その決定に従わなくてはなりません。その結果、「改憲を公約に掲げていた阿部政権の終焉により、日本における9条の改正そのものの危機が一旦去り、この展示を長期開催する意味がなくなった」とボードが判断した、という連絡でした。

私はこの展示の意義そのものは変わっておらず、また会期に関しても書類を交わしているではないか、ということを主張して必死の抵抗を試みたのですが、「ボードの決定は絶対だ」ということで撥ねられてしまいました。

ニューヨーク、しかもSOHOという激戦区では、現在的価値が価値として評価される傾向が強く、私の今回の日本の現状をテーマとした展示は、現在のニューヨークという限定された状況では、なかなか理解して頂けないのだろうか、ということを思い知らされた次第です。

花王芸術・科学財団、朝日新聞文化財団さまから助成を頂いている手前、この会期の縮小には、スポンサーである花王様と朝日新聞様には大変申し訳ない、という気持ちでいっぱいです。そして、参加アーティストや他の協力者に対しても、同じ気持ちで一杯です。しかし、展示がキャンセルされた訳ではなく、短期が6週間から4週間に変更された、といいうだけなので、今まで通り、全力で開催に向かって進んで行きたいと思います。また、花王様と朝日新聞様の方からは、変更に関してご理解が頂けたことを報告しておきます。

2月半ば以降にNYを訪れる予定であった方々、大変恐縮なのですが、開催期間は

2008年1月12日-2008年2月10日まで

の4週間に変更になりましたので、ぜひ2月10日前までにNYを訪れる様にして下さい。

それでは、大変恐縮ですが、何卒どうぞよろしくお願いします。失礼します。

PS:現在、展示の案内状とカタログを製作中です。展示中の特別イベントに関しても企画しておりますので、また追ってご連絡差し上げます。

渡辺真也

クシシュトフ・ヴォディチコ特別講演会@東京芸大

2007-11-19 16:03:07 | Weblog
芸大にてクシシュトフ・ヴォディチコの特別講演会があります。私の大変お世話になっている木幡和枝研究室と池田剛介が関わっています。東京在住の方、ぜひ訪れてみてはいかがでしょう?

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クシシュトフ・ヴォディチコ特別講演会

2007年12月6日(木)18:00-20:00
東京藝術大学 上野キャンパス 美術学部中央棟 第一講義室
(定員200名、入場無料・予約不要、同時通訳付き)

 冷戦以後、そして9.11を経由してさらに混沌の度を高めてゆく世界のただ中で、美術を巡る動向はしかし、そこから遠く隔たったかのように沸き立つ市場原理によって決定づけられています。クシシュトフ・ヴォディチコ、彼がアーティストとしての活動を開始してからの約40年間、一貫した姿勢によって繰り広げてきた活動は、今日ますますその意義を増していると言えるでしょう。彼は故郷のポーランドからカナダ、そしてアメリカへと、その拠点を移動しながら、公共空間(パブリック)が隠し持つ政治性や、それによって疎外された人々の存在に対するクリティカルな意識を反映したプロジェクトを展開してきました。 

 1999 年、ヒロシマ賞受賞をきっかけとして行われた「ヒロシマ・プロジェクション」。原爆ドームへ向けて被爆者をはじめとした広島の人々の映像を投影し、それぞれの個人的な経験を公共建築という巨大な身体を通じて語らせるという特異的な状況がそこで描き出されました。今回は、この「ヒロシマ・プロジェクション」を議論の核に据え、公共空間におけるアートの可能性を根本的に問い直します。それは同時に、アートの持つ「別の」可能性について再考する機会を、私たちに深く突きつけることとなるに違いありません。(池田剛介)



クシシュトフ・ヴォディチコ(Krzysztof Wodiczko)
1943年ポーランド ワルシャワ生まれ。ワルシャワ美術アカデミー大学院工業デザイン科修了。現在、マサチューセッツ工科大学 先端視覚研究所 教授。代表作に「パブリック・プロジェクション」「ホームレス・ヴィーグル・プロジェクト」。日本での展覧会に「横浜トリエンナーレ」(横浜、2001)、「第四回ヒロシマ賞受賞記念 クシュシトフ・ウディチコ」展(広島市現代美術館、1999)、「プロジェクト・フォー・サバイバル」(京都国立近代美術館 他、1996)。

主催:東京藝術大学美術学部 先端芸術表現科
共催:京都造形芸術大学
運営:先端芸術表現科 たほりつこ研究室、木幡和枝研究室、池田剛介
問合せ先:先端芸術表現科合同教員室 050-0025-2596

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関連公開レクチャー:名を呼ぶ声をめぐってーーヴォディチコ作品を中心に
/池田剛介(美術家)
東京藝術大学 取手キャンパス メディア棟 第二講義室 
11月20日(火)11:00-12:30 入場無料

関連企画:第二回世界アーティストサミット(ヴォディチコ氏参加) 詳細は下記ホームページにて
http://www.artists-summit.org/

東京にてイラク現代美術展が開かれます

2007-11-19 13:13:33 | Weblog
日本でイラクの現代美術展が開催される様です。ご興味のある方、足を運んでみてはいかがでしょう?

【展覧会情報】
『イラク・アートの先駆者たち~Selections of the Iraqi Art~』展
会場:中和ギャラリー(東京都中央区銀座6-4-8曽根ビル3階/03-3575-7620)
http://www.chu-wa.com/
会期:11月19日(月)~12月1日(土)11:00~19:00(日祝休廊/最終日16:00まで)

協力:NPO法人PEACE ON
http://npopeaceon.org/
※19日17:00よりオープニングパーティをおこないます。

チグリス、ユーフラテスの大河に育まれ、七千年もの歴史の上に継承されてきたイラクの文化、芸術。今日、破壊と殺戮の闇に覆われた首都バグダードは、かつてはアラブ・イスラーム文化の中心地として栄え、「平安の都」とすら呼ばれていました。そのいにしえの美と誇りを身にまとい、自由に世界を遊泳するイラク現代アート。その作品十数点がこの度日本にやって来ます。もちろん本邦初公開。今年の秋も、イラク美術をお愉しみください。

イビツァ・オシム監督入院のニュース

2007-11-18 07:21:10 | Weblog
3人の友人から、私の方に同時に連絡が来た。イビツァ・オシム監督が急性脳梗塞で入院した、というニュースである。

一人は日本の友人からスカイプで、もう一人はクロアチアからスカイプで、そしてもう一人、今展示に参加しているアーティストのエリックからは、メールにて連絡があった。

実はエリックと私は、8月末にオーストリア遠征直前のオシムさんのお宅に伺い、一緒に世界陸上を見ながらお酒を飲んでいた。仕事とは全く異なるプライベートな環境で接するオシムさんは、本当に気さくな方で、人間的な魅力に溢れた方であった。日本酒を飲みながら、ドイツ語とフランス語でユーモアを交えながら話すオシムさんは神々しく、本当に男惚れした。それと同時に、大変忙しい人で、国際電話がひっきりなしになり響く部屋の中で、私など取るに足らない人間と同等に時間を過ごしてくれているオシムさんに対し、私には複雑な思いがあった。

オシム監督は、歴史上最も重要なサッカー関係者の一人だと思う。こんな凄い人が日本にいて良いのだろうか、そう私は常々思って来た。マスコミの全く的外れな批判や、膨大な仕事量をこなすオシム監督は、孤独な仕事人として戦い続けてきたと思う。その彼が、今は集中治療室の中で、孤独に戦っている。

私は彼に対してできることは、回復を祈ることだけだ。他には、何もできない。しかし、遠くから、彼の健康を祈っていたい。

ニューヨークでは、展示準備に関して、走り回っている。仕事の関係で訪れたブルックリン・ミュージアムにて、私がインターンにてアシスタントを務めていたキュレーター、トゥメロ・モサカによるカリブ海の現代美術をテーマとした展示に出品していた、アトミックサンシャインへの出品アーティストであるAllora & Calzadillaのプエルトリコのビエケスをテーマとした作品を見てくる。彼らは天才的だ。これだけのテーマを、美しさの中で表現の範疇に収めた彼らは、本物のアーティストだ。最新号のParkettマガジンの特集がAllora & Calzadillaなので、興味のある人は読むべし。parkettがこういう素晴らしいアーティストの特集をしているのを見る度に、私のドイツ語圏への妄想は拡大して行く(笑)

その後、パフォーマによる他のパフォーマンス・イベントを見たり、参加アーティストの照屋勇賢さんとミーティングを行う。勇賢さんは多忙極まり、なかなか会う時間を確保するのが困難だったのだが、久しぶりに会って、お話をすることができた。作品の形態やインストール方法や、最近のAsian Contemporary Art Fairやベルリンでの滞在の様子、沖縄県美のオープニングの様子などを伺う。

そして、今展示を日本に巡回することができないか、と声をかけて下さったフランシス真悟さんとミーティングを重ねる。こういった展示の意味を理解してくれたのが真悟さん、というのはとても嬉しい。展示の意味や、展示方法その他についてコミュニケーションを交わし、書類を用意する。

昨日はPS1にて木幡和枝さんが企画した田中泯さんの舞踏パフォーマンス・イベントに行ってくる。文句無しに素晴らしいパフォ-マンスだった。

その後、一緒に同席した仲間達と議論をしたのだが、4人のうち2人が赤い襦袢の下に現れた泯さんの私服(短パン、ポロシャツ、帽子)姿に、戦争を感じてしまった、と言っていたのが印象的だった。私は戦争というよりも、日本の「暗さ」や「貧しさ」を感じたのだが、アメリカ人の方はどう感じたのか、興味のある所である。

泯さんの舞踏を見ていて思ったのは、舞踏には中心というものが存在しないということである。その中心が存在しない、という思想そのものが舞踏の中心であり、これは日本的なものではないか、と強く感じた。しかし、その中心の無さの中にも肉体的限界によるパターンが発生し、それが舞踏を形作っているのではないか。これは自己認識が環境に大きく左右される、という考え方で、自己認識が神と人間との契約関係から発生するヨーロッパとは対極的なもので、神道的なものと言えるかもしれない。舞踏はそういった性格の上で、人間そのものに神(=自然)が入り込んでしまうことが可能になっているのかもしれない。

とにかく仕事が大詰めだ。とにかく、この山場を乗り切ろう。

締め切り、締め切り!

2007-11-13 04:20:40 | Weblog
多くの締め切りに追われ、あたふたする毎日。

急遽、新美術新聞のニューヨーク美術紹介に関する記事のピンチヒッターを頼まれ、ローズリー・ゴールドバーグが主催するPerformaがコミッションした、アイザック・ジュリアンとラッセル・マリファントの作品を見て、レビューを書く。何と言っても、この作品の素晴らしさに、驚いた。近年稀に見るコラボレーションの成功例ではないか、と思う。次号、ぜひ皆様ご購入を!

また、私の展示カタログ製作の方でも、いくらか遅れがあり、その調整に追われる。どうしてもアートという仕事は、時間通りに物事が進む、ということが少ない。それは分かるのだが、それを時間通りに進めて行けるように何とかするのが、キュレーターの仕事だと思う。頑張らなくては。。。

カタログのテキストでは、鈴木邦男さんのテキストを英語に訳している際、愛国、や憂国、そして学生運動に関する専門用語をどう使おうか、ということに関して、かなり慎重に翻訳している。そういえば、鈴木さんの著作「夕刻のコペルニクス」は明らかにヘーゲルを意識したものだ、というのは理解していたが、この夕刻とは憂国のことであり、この夕刻とは、夜半、すなわち右派と左派が分かりやすく分裂していた戦後日本のレジームのことではないか、などと考えてみる。とにかく、翻訳を担当して下さった実行委員会の織部さんの頑張りもあり、歴史に残る、重要なテキストが準備できた。出版が楽しみだ。

また、カタログにて参考資料として天皇の肖像を掲載するのだが、新聞社から許可を得た上で宮内庁に電話したのだが、これがなかなか大変だった。こういったやりとりには、かなり体力を消耗する。どうしても私の側も譲歩しなくてはならない部分もあったのだが、とりあえず、一枚だけは掲載することで落ち着いた。

現在開催中のアジアン・コンテンポラリー・アート・フェアに友人が多く参加しており、韓国からの友人が多く渡米してきているので、彼らとも会って、旧友を深めながら情報交換する。私が以前から疑問に思っていた、ハングル語表記における歴史的意味の消失、ということについて、夜遅くまで話し込む。同時に、現在のハングルに、日本による創氏改名の影響が多く残っていることを聞いて、驚く。

また、アトミック・サンシャインの展示会場であるPuffin Roomにて、「Impounded」という、1940年代の第二次大戦中の日系人強制収容所の写真展を見てくる。キュレータ-はパフィンのディレクターであるカールさん。こんな硬派な展示をやれるのは、さすがノンプロフィット!と強く思う。それにしても、アンセル・アダムスが日系人強制収容所の写真を、あれほどシュルレアリスティックに撮影しているとは、皆知らないのではないだろうか。

最近、調べ物をしていて、たまたま見た磐境 (いわさか)のビジュアル・イメージに驚く。ヨーロッパのミニマル・アートやランドアートが近づいているのは、日本の神道のイメージにかなり近いのではないか、と思う。こういった所も、もうちょっと自分なりに勉強してみたい所だ。

第六感を鍛えたい

2007-11-08 14:14:34 | Weblog
今日はニューヨークにて展示実行委員会メンバーとのミーティング。実行委員会に入って下さっているデザイナーの相澤幸彦さんに作ってもらったカタログ・ジャケットのデザインを皆さんにお披露目して、今後のメディア・コンタクトなどのプランについて議論する。やはり三人寄れば文殊の知恵、とは言ったもので、一人で考えていても考えつかないことが、ポンポンと出てくる。展示へより多くの人を招くための大学への働きかけや、ISBN番号を取得した本の販売などに関し、いろいろなアイディアだ。やはり、多くの異なるジャンルの人間がいる、ということが、展示成功への鍵だと思う。また、こういった会合に無償で集まってくれ、協力してくれる実行委員会の皆さんには、やはり最大限の感謝をしたい。ありがとうございます。

その後、近所のベトナム料理屋で話をしながら、コミュニケーションの話になる。私は第六感が悪く、そして物事の理解がリテラル過ぎる、と言われてしまった。私は物事を即物的に理解しようとする傾向があるが、そんな風に世の中の事象を0と1の羅列で物事を理解しようとするな、と釘を刺された。昔、友人に言われた「お前はポストモダン病だ!」という言葉を思い出した。しかし、私にも心当たりがある(笑)私が頑張って、変えていかなくてはいけない所だと思う。

例えば、私がドイツ人が好きだが、ドイツ人たちと私が話していて、「好きだなぁ」、と思う瞬間は、彼らがドイツ語の言語構造で他言語の事象を理解しようとしていて、そこで他言語を話している人たちとの勘違いが細部に出てしまった瞬間である。つまり、私が彼らのことが好きなのは、リテラルな事象で説明が付いてしまう、という私の中の制限に起因していると思う。

しかし、これは本当に好きなのか?言語で理解できる、という自分の納得しやすい形に落とし込んで、私が独りよがりの自己満足、そして安心しているのではないか?しかし、もしそうなら、何故私はそういう方法を自ら選んで、安住しようとしてきたのだろうか?

私は、アートは「心」の問題である、ということに関しては確信がある。しかし、その「心」を打ち震わすのは何なのか?自分が今までしてきた事は、果たしてそうだろうか、そしてどうやったらそこに近づけるのか、そんな根源的な問題に立ち返ってしまった。

私とコミュニケーションを取ろうとする人間がいる。そして、私も人間とコミュニケーションを取ろうとする。しかし、それは本当のコミュニケーションとして成立しているのか、そして私は、それを十分に疑った上で、コミュニケーションを取ろうとしているのだろうか?

自分を変えていくことには時間がかかる。しかし、そう指摘されたからには、何とかして達成したい。それは自己達成であると同時に、もっと大きな次元においても、達成であるような気がする。

近代をめぐる大激論

2007-11-04 14:27:40 | Weblog
今日はApex Artにて、友人のキュレーターであるアントニアがキュレーションした展示を見ながら、サンヤ・イベコビッチが参加したパネル・ディスカッションに参加してくる。サンヤ・イベコビッチは大学院時代にザグレブの家に招いてもらい、2度に渡ってチトーの思い出から共産主義の理想の崩壊、そしてクロアチアの独立などに関して、いろんな議論をした仲である。若き頃の私がサンヤから学んだことは少なくなく、とても感謝している。ぜひ、直接会って私のAnother Expoのカタログを手渡しし、現在の活動についてもお話したい、と希望していた。

アントニアが司会兼パネリストを務めたパネル・ディスカッションは、とても興味深かった。アントニアがテーマとしているトルコのモダニズム、そして自身の出身国であるクロアチアのナショナリズムと国民国家、「新しいヨーロッパ」の問題、さらにアイデンティティと主体性の問題や他者の問題は、私と興味と一致する所がとても多い。アントニアに会う度に私はそんな話ばかりしているのだが、今回も面白い話になった。

パネル・ディスカッションはかなり専門的な話となったのだが、質疑応答の時間に、私はアントニアとサンヤにこう質問してみた。ヨーロッパの問題は、キリスト教の問題ではないか、と。

アントニアはクロアチア独立後のアイデンティティの問題について触れていたが、私はクロアチア人のネーションを規定する究極的なアイデンティティのより所は、ローマ・カトリックである、ということだと思う。そして、あなたの述べた主体の問題、すなわち誰が話者であるか、というのは、ローマ・カトリシズムを東方正教会から分離したきっかけとなる言語構造の相違による主体性論争であり、それはローマ帝国の延長線上である三位一体の議論の延長線上にある。またモダニズムそのものは、考えている自己そのものを疑うことができない、すなわち意識そのものが存在となった、というコギトの発明にあり、これはプロテスタンティズムに対抗するローマ・カトリックの思想であったはずだ。

しかし、実存以降、その三位一体的なフィクションが崩れた後の世界に住んでいるにもかかわらず、「新しいヨーロッパ」はキリスト教を志向しているのはおかしいのではないか。私はクロアチアというネーション規定に宗教性を持ち込んでしまった地域におけるアーティストおよび思想に、ヨーロッパ的な近代の超克論を期待したい、と述べた。

そして、「Lady Rosa of Luxenburg」という、妊婦の格好をしたニケのモニュメントをルクセンブルグに展示したサンヤには、こう聞いてみた。

あなたは議論の中でローザ・ルクセンブルグとボボワールを引用していたが、フェミニストを代表するアーティストと呼ばれるあなたに、構造主義へのアプローチを聞いてみたい。構造主義は言語構造と女性の交換、という植民地主義の延長線上の発見から生まれているが、妊娠した女性は、私にはどうしても構造主義的なものとして目に移ってしまう。例えばクリステヴァなどは、言語と女性の関係性を導くアプローチをしているが、ボボワールはそういった言語と女性を一緒にすること自体を否定していたはずだ。もしそうだとするのであれば、Lady Rosa of Luxenburgの作品の中でニケを妊娠させたあなたは、構造主義における女性の立場において、どう考えるのか、と。

アントニアからは、クロアチアのアイデンティティそのものが宗教と一体化していない、という答えをもらったが(私は納得しなかったが)、サンヤからは回答を頂けなかった。答えを聞きたかった為に、大変残念である。

その後会場にて、「お前は面白いヤツだ、良い質問だった」と言ってきた髭もじゃ、紙ボサボサのラーメンズの片桐みたいな二人組みに話しかけられ、話し込み、そのまま飲み屋に行く。

そして驚いた。私の指摘しているローマ・カトリシズムと実存の問題を論理レベルで理解していたこの二人は、アルメニア出身のアルメニア人、つまりディアスポラを逃れたアルメニア人であった。すなわち、三位一体を拒否した単性論を最古のキリスト教として保持してきたことをアイデンティティとする彼らには、私の問いが現実味を持って聞こえたのである。

しかし、ここからが大変だった。今まで経験したことの無い様な、掴みどころのない議論が展開して行った。

まず、モダニズムについて議論したのだが、彼らの言うモダニズムは、アルメニアという旧ソ連のにおける思想、すなわちタトリンの第三インターナショナルに代表される芸術とその運動であり、そのモダニズムの思想そのものがヨーロッパには無い、という凄い議論を始めたのだ。また、第三インターナショナルのモダニズムが、全てのネーションをネーションから開放するという進歩的思想であり、それがモダニズムであり、それ以外のものはモダニズムとは認められない、と言うのだ。私はモダン・ネーションはそもそも30年戦争以降の敵対概念の明確化という過程で生まれたネーションであるから、あなたの言っているモダニズムもその延長線上に捕えなければならない、と言った所、その場にいたロシア人、クロアチア人、グルジア人、チェコ人、スロバキア人、そして私を交えて大激論になり、全く収集がつかなくなってしまった。

私が最近、中国は近代化の過程で挫折するのではないか、と考えていたが、そもそも私の考える近代化そのものが日本的であり、例えばアタテュルク主義などとは全く異なる近代化を外部に当てはめるのは困難であるが、そもそもその「近代化」という言葉の持つ差異にネーションが垣間見えるのではないか、というものである。

それにしても、アルメニア人とこれだけ話しをしたのは初めてだが、凄い民族だなぁ、と感じた。単性論と似たグノーシス主義などが異端と見なされたのも、なんとなく分かる気がした。

エノラ・ゲイ機長の死

2007-11-03 06:43:22 | Weblog
最近、広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長であるポール・ティベッツ氏死去のニュースがあった。エノラ・ゲイという名前は、このポール・ティベッツの母の名前から取られている。(私が昔書いたエノラ・ゲイ展オープニング・ルポはここで読めます)

日本でも彼の死は読売、産経、ロイターなどで掲載されていたが、NTタイムズのものはかなり長く、彼の生い立ちにまで迫っているものであり、興味深かった。日本のニュースでは報道されていない点があり面白いのですが、コピーライトの問題もあるので、記事の中で私が面白いと感じた部分を簡単に抜粋し、訳してお伝えします。

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彼の死はティベットの友人であるゲリー・ノイハウスによって知らされたが、彼は死の直前、ありとあらゆる食べ物を拒否していた。ノイハウスによると、ティベットはお葬式や墓石など一切を行わないで欲しいと希望しており、それは彼への誹謗中傷を行う者たちに批判をする場所を与えることになるからだ、とのことからだという。

原爆投下は、当時の25万人の人口を抱える都市に何万人もの死者をもたらした。(具体的な数字については触れず)

母への敬意を示す意味で、飛行機をエノラ・ゲイと命名した。

彼の回想本「ティベッツ物語」にて、彼は「飛行機を旋回した私の目の中に、すさまじい、破壊された燃え盛る都市が見えた」「尾翼爆撃機の人が言っている様に、巨大な紫色のきのこ雲が、45000フィート(13710メートルほど)、つまり私達の生活している地上から3マイル(4.8km)のほどの高さまで上昇し、あたかも何か生き物が恐ろくべくして生きているかの様に、沸騰し上昇しつづけていた」と回想している。

そしてその3日後に、より強力なプルトニウム型の原爆が、チャールズ・スウィーニーにより投下された。そして8月15日、日本は降伏した(アメリカの新聞報道で、8月15日を終戦、としているのは珍しいです。アメリカにおけるVJDay, Victory over Japan Day は通常8月14日となっています)

この原爆投下の乗組員たちは、日本での本土決戦を考えた際、アメリカ人の多くにとっては戦死者を少なくしたことで救済者として崇められている。しかし、その後すぐにたち現れた問題は、原爆を投下する、ということのモラルの問題と、日本を降伏されるのに本当に原爆投下が必要だったのか、というトルーマン政権の問題である。

ティベッツ司令官は、彼に与えられた任務をこなす、という点で一切迷いがなかった。

「わたしはそれをすることに対しては、不安があった」と、彼は原爆投下50周年を記念して作られたドキュメンタリー映画「The Men Who Brought the Dawn(夜明けをもたらした男達」のインタビュー中で述べている。「私は日本を征服する為には、なんでもやってやろうと思った。こいつら(Bastardという意味には、「混血児」という意味もある)を殺したかった。それが、あの時代のアメリカ合衆国の態度だった」。また、アメリカと日本の被害者の数について聞かれた際、彼は「私には、私が殺した人数よりも、私が救った人数の方が多いという確信がある」と述べた。

ポール・ワーフレッド・ティベッツはイリノイ州に生まれ、彼のお父さんは雑貨屋さんのセールスマンであった。彼の母(結婚前の名前はEnola Gay Haggard)はアイオワの農家に生まれ育ち、彼女のEnola Gayという名前は、彼女の父が好きだった小説のキャラクターから付けられた。

彼ら家族は、彼が12歳の時にマイアミに移住し、当時のティベッツ少年は、カーティス・キャンディ社がプロモーションしている、ベビー・ルース・キャンディーバーを飛行機からばらまくという、わくわくするスタントに一緒に添乗していた。彼はこの飛行経験にスリルを感じ、その為、彼の父は息子を医者にしたい、という夢を諦め、母の後押しもあり、夢を実現すべく飛行機パイロットになった。

(ベビールース・キャンディーバーです。ホールラン王ベーブ・ルースにあやかって作られたものだそうです)
http://en.wikipedia.org/wiki/Baby_Ruth

その後彼はフロリダ大学、シンシナティ大学を卒業し1937年に軍に入る。

彼は1942年にナチに征服されたヨーロッパにて、活躍し、フランスのルーアンやアフリカ北部を空爆する。

その後、アメリカに戻り、開発されたばかりのB29をテスト運行する。そして1944年9月、大戦を終結する為、軍の最重要機密であった原子力爆弾の開発、そして投下について知らされる。

そして彼は最高のパイロット、ナビゲーター、爆撃者、そしてサポートメンバーを集めるように命令された。

回想録「今だから話すべきこと(Now It Can Be Told)」にて、マンハッタン・プロジェクトの管理者であったレスリー・グローブスは、彼がパイロットとして選ばれた理由として、当時の大型パイロットの中で彼が最高の評価を得ていたからだった、と述べている。

7月16日にニューメキシコでテストされた原爆は、日本がポツダム宣言の受諾を拒んだ時点で、ティベッツの手により、最終投下準備をされた。

原爆は、完璧とされるミッションを経て投下された。彼はその後、軍の最高名誉賞であるサービス・クロスという章を受賞した。

彼はその後も軍に残り、アメリカ軍の原爆投下飛行隊のメンバーとして残り、軍曹となった。軍を引退後、1966年にはオハイオのエアー・タクシー会社の社長になった。

彼は妻であったルーシー・ウィンゲートとは55年に離婚している。彼の現在の妻であるアンドレア・カタラホーム、そして一度目の妻との間に生まれた子であるポールとジーンという二人の息子、そして孫であるポール・ティベット4世准将(どうやら孫も軍人の様です)がいる。彼の戦時中の経験に関しては、作家ロバート・テイラーによって書かれた「上空、そして遠くへ(Above and Beyond)」に書かれている。

それから何年かして、彼の存在は原爆投下に関する議論の中心的なものとなった。

彼がインドでアメリカ軍のミッションに参加している1965年、共産系の新聞社から「世界最大の殺人者」と呼ばれた。1976年、テキサスでの航空ショーにて原爆投下を模倣した飛び方をした際、当時の広島市長であるアラキ・タケシから批判された。

1995年、エノラ・ゲイの胴体とそのパーツのいくつかは、スミソニアンの航空宇宙博物館に展示された。

退役軍人や議会の人たちは、日本を被害者として、アメリカ人を加害者として書いている展示の文章を非難した。その講義の結果、博物館のディレクターであったマーティン・ハーウィットは退職する結果となり、歴史資料となるほかのものは全て取り除かれた。ティベッツ軍曹の飛行機 - 新しくエノラゲイときれいに塗られている - は、飛行機のみ展示されて、それ自身が何かを物語っている。

2003年12月、エノラ・ゲイはもう一つの家を見つけた。完全に復旧され、組み立てられたのち、ヴァージニアの外にあるスミソニアンの別館に置かれている。

去年の春、ティベッツはリッチモンドにある航空博物館を訪れ、「戦争にはモラルはない」と言った。「国家間のもめごとを解決する為、戦争が発生する、ということに関して、なんらかの解決が取られなくてはならない」とティベッツが言っていた、とヴァージニア州のパイロットが述べている。

また同時に、ティベッツ軍曹は核戦争を到来されたことに関しては何の後悔もない、と述べていた。「私自身、私の使命は命を守ることだと考えていた」と述べ、「私はパールハーバーを爆撃したのではない。私は戦争を始めておらず、私は戦争を終結させようとしたのだ」

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彼が「国家間のもめごとを解決する為、戦争が発生する、ということに関して、なんらかの解決が取られなくてはならない」と述べていたのは、とても興味深い。さすがにあれだけのミッションに参加してしまうと、かなり考えてしまったのだろう。

この記事に関しては、考えなくてはならない問題が多すぎる。私は、少しでも良いから、世界中どこでも、一人でも多くの人が今でも核戦争の脅威の中にいることを知ってもらいたい、と心底思う。

セント・パトリック教会とハロウィーン

2007-11-01 14:25:52 | Weblog
今日はババリア出身のドイツ人建築家のお客さんと、NY散策。Diller and ScofidioのデザインしたレストランBrasserieでランチを食べた後に、ミッドタウンを散策し、MoMAを案内する。

家族が今世界旅行中だから、その安泰を祈って、家族のメンバーであるパトリックと同じ名前のパトリック・チャ-チで安泰祈願の蝋燭を燃やしたい、ということで、教会まで同行する。私はローマ・カトリックの方と一緒にローマ・カトリック教会に行くと、いつも小さな発見があるので、私は好きだ。

5thアヴェニューのSt.Particks Churchは世界的にも重要な教会だが、中を見て思ったのは、教会としての政治的信念(?)が比較的ゆるいな、という点である。それは、ローマカトリック系の教会にも関わらず、内部にはロシア系の聖人が祭られた祭壇にイコンが飾られていたり、ペルーのリマの聖者の彫り物が置かれていたり、おみやげ屋さんではヨハネ・パウロ二世が英語のJohn Paulではなく、スペイン語のJuan Paoloと表記さえており、その隣には東方正教会教徒であるマザーテレサのバッジが置かれていた。移民国家アメリカを象徴する様なハイブリッド教会であった。

蝋燭を燃やしながら、蝋燭の持つ象徴的意味と海洋国家について考える。オランダ人が蝋燭の火からタバコに火をつけた際にするKnock Woodの習慣は、当時の船乗りが遠洋航海中の船の中でろうそくを製作していることから、蝋燭の火からタバコに火を付けることによって彼らの仕事を奪ってしまう(kill sailer)、というBad Luckであることから、そのBad Luckを軽減する為、自然素材である木を叩く習慣がある。ある意味、行為と音声による清めという意味では、除夜の鐘みたいなものだろうか。

その後、あるセレブな感じのハロウィーン・パーティにお招き頂き、今後のコンタクトを得る目的も兼ね、楽しんでくる。私は変装は趣味ではないのだが(笑)、頑張って仮装して、場を盛り上げる。こういったハロウィーンというケルトのルーツであるドルイド教、すなたち反カトリック的な祭りを楽しむ、というのもKnock Woodみたいなもので、硬直した社会における清めみたいなものだろうか。