今週のニューヨークは世界最大のアートフェアである、アーモリー・ショーの話題でもちきり。今、NYでは本当に多くのアートフェアが開かれていて、NYで一番忙しいシーズンである。私も早速、アーモリー・ショー、ビデオアートのフェアであるDIVA、マイアミで参加したPulseアートフェア、そしてADAA(Art Dealers Association of America)に行って来た。
どこに行っても本当に数えきれないくらいいろんな人に会って、話が弾む。アートフェアは展示を見る、というよりもネットワーキングの要素の方が強いのではないか。アーモリーの後にひょんなことからダグラス・ゴードンらと一緒にカラオケにてアナーキー・イン・ザーU.K.を歌ってきたりなどと、とりあえず楽しい日々だった。
これらアートフェアができたことにより、アートの流通そのものが劇的に変化した。これはアートの庶民化にも繋がってくると思うが、それは最終的にはアートの自己解体にも繋がりかねない。かなり大きな問題なので、いつか丁寧にまとめて書いたり、話したりしてみたい。
おとといはアイスランドで仲良くなったSAFNのキュレーターであるビルタと一緒にビト・アコンチのパフォーマンスを見てくる。その後、市原研太郎さんも交えて食事しながら、アートと言語やナショナリズムの問題、そしてアートとアニミズムの関係に関していろいろと議論する。モダニズムの問題は宗教の問題を始めとするパースペクティブや自己認識の問題が大きく横たわっているように思えるが、アニミズムを内包したアートにはそれを軽々と超える力があると思う。そういったアニミズムの思考をヨーロッパに輸出したい、そんな話をビルタとする。ビルタも私の言いたいことをかなり上手く汲みとってくれて、さらにお互い沖縄民謡や日本のエクスペリメンタル・ミュージックとアイスランドの音楽CDを交換したり、と大変楽しく、有益な時間となった。
肝心のアートフェアでの作品だが、やはりなんだかんだ言ってもArmory Showには良い作品が数多くあったと思う。アグネス・マーティンやバーネット・ニューマン、ジェームス・ウェリングやマルセル・ブロータス、シール・フロイヤー、モナ・ハトゥムの作品などが特に素晴らしかった。しかしお値段もかなりのもの。それでも売れているのがNYの現在のマーケットの強さを反映している。
興味深かったのは、クリス・マルケルのドキュメンタリーフォトのシリーズ。まさかアーモリー・ショーで開放同盟のドキュメントを見ることになるとは思わなかった。とてもクールな写真群で、とても惹かれた。お金があったらぜひ買ってみたい作品の一つである。
なお、今回グラッドストーン・ギャラリーなど大手現代美術ギャラリーが参加して話題になっているADAAにも初めて行ってきたのだが、大変興味深い体験であった。ADAAは基本的にモダンアートのフェアなのでピカソを始め巨匠の作品が多く並んだのだが、その中にもはや古典となったリヒターやリュック・タイマンスの作品などが入って来るのである。完全にハイエンドな客層で、観光客はほぼゼロであった。
これらの古典となった多くの作品群の中で尤も私の興味を惹いたのは、ブラッサイの写真作品であった。これはピカソがブラッサイの写真に書き込みをすることからインスパイアされたブラッサイが、直接ヌード写真のネガにドローイングを数段階に分けて書き込むことで作品を完成させていったものである。この作品には大変胸を打たれた。
私は作品を見た瞬間、このブラッサイのドローイングの手法に非常に非ヨーロッパ、もっと言ってしまうと非ローマ・カトリック的な視点を見出してしまった。これはモンドリアンでもルイットでもなく、ブラッサイの非西ヨーロッパの手法だと思うのだ。ブラッサイは「ブラショフ人」というニックネームだが、オーストロ・ハンガリー帝国下のルーマニアのブラショフにユダヤ人として生まれたというコンテクストは、カフカのそれと非常に似ている。またブラショフはドイツとルーマニアの緩衝地帯、すなわちローマ・カトリックと東方正教会の分岐点だった訳だが、そういった歴史性が、あたかも必然として作品に出ている、そんな印象を受けた。
ブラッサイが捉える落書きの写真にも、そういった要素が感じられる。それはデュビュッフェ的なものとは全く異なる。一緒に展示を見ていたピカソ美術館で働いていたヴェランヌにそう思うか、という意見を聞いてみたのだが、なかなか言いたいことが伝わらなくて残念。ビルタがここにいたらどんなコメントをするのだろうか、と想像してみる。
どこに行っても本当に数えきれないくらいいろんな人に会って、話が弾む。アートフェアは展示を見る、というよりもネットワーキングの要素の方が強いのではないか。アーモリーの後にひょんなことからダグラス・ゴードンらと一緒にカラオケにてアナーキー・イン・ザーU.K.を歌ってきたりなどと、とりあえず楽しい日々だった。
これらアートフェアができたことにより、アートの流通そのものが劇的に変化した。これはアートの庶民化にも繋がってくると思うが、それは最終的にはアートの自己解体にも繋がりかねない。かなり大きな問題なので、いつか丁寧にまとめて書いたり、話したりしてみたい。
おとといはアイスランドで仲良くなったSAFNのキュレーターであるビルタと一緒にビト・アコンチのパフォーマンスを見てくる。その後、市原研太郎さんも交えて食事しながら、アートと言語やナショナリズムの問題、そしてアートとアニミズムの関係に関していろいろと議論する。モダニズムの問題は宗教の問題を始めとするパースペクティブや自己認識の問題が大きく横たわっているように思えるが、アニミズムを内包したアートにはそれを軽々と超える力があると思う。そういったアニミズムの思考をヨーロッパに輸出したい、そんな話をビルタとする。ビルタも私の言いたいことをかなり上手く汲みとってくれて、さらにお互い沖縄民謡や日本のエクスペリメンタル・ミュージックとアイスランドの音楽CDを交換したり、と大変楽しく、有益な時間となった。
肝心のアートフェアでの作品だが、やはりなんだかんだ言ってもArmory Showには良い作品が数多くあったと思う。アグネス・マーティンやバーネット・ニューマン、ジェームス・ウェリングやマルセル・ブロータス、シール・フロイヤー、モナ・ハトゥムの作品などが特に素晴らしかった。しかしお値段もかなりのもの。それでも売れているのがNYの現在のマーケットの強さを反映している。
興味深かったのは、クリス・マルケルのドキュメンタリーフォトのシリーズ。まさかアーモリー・ショーで開放同盟のドキュメントを見ることになるとは思わなかった。とてもクールな写真群で、とても惹かれた。お金があったらぜひ買ってみたい作品の一つである。
なお、今回グラッドストーン・ギャラリーなど大手現代美術ギャラリーが参加して話題になっているADAAにも初めて行ってきたのだが、大変興味深い体験であった。ADAAは基本的にモダンアートのフェアなのでピカソを始め巨匠の作品が多く並んだのだが、その中にもはや古典となったリヒターやリュック・タイマンスの作品などが入って来るのである。完全にハイエンドな客層で、観光客はほぼゼロであった。
これらの古典となった多くの作品群の中で尤も私の興味を惹いたのは、ブラッサイの写真作品であった。これはピカソがブラッサイの写真に書き込みをすることからインスパイアされたブラッサイが、直接ヌード写真のネガにドローイングを数段階に分けて書き込むことで作品を完成させていったものである。この作品には大変胸を打たれた。
私は作品を見た瞬間、このブラッサイのドローイングの手法に非常に非ヨーロッパ、もっと言ってしまうと非ローマ・カトリック的な視点を見出してしまった。これはモンドリアンでもルイットでもなく、ブラッサイの非西ヨーロッパの手法だと思うのだ。ブラッサイは「ブラショフ人」というニックネームだが、オーストロ・ハンガリー帝国下のルーマニアのブラショフにユダヤ人として生まれたというコンテクストは、カフカのそれと非常に似ている。またブラショフはドイツとルーマニアの緩衝地帯、すなわちローマ・カトリックと東方正教会の分岐点だった訳だが、そういった歴史性が、あたかも必然として作品に出ている、そんな印象を受けた。
ブラッサイが捉える落書きの写真にも、そういった要素が感じられる。それはデュビュッフェ的なものとは全く異なる。一緒に展示を見ていたピカソ美術館で働いていたヴェランヌにそう思うか、という意見を聞いてみたのだが、なかなか言いたいことが伝わらなくて残念。ビルタがここにいたらどんなコメントをするのだろうか、と想像してみる。