Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

それでも時間は流れる

2009-09-21 23:44:15 | Weblog
メールボックスを開くと、ドイツ人の友人からからメールが来ていた。珍しいな、どうしたのかな、と思って楽しみにメールを開くと、悲しいお知らせが待っていた。

NYでよく一緒にお酒を飲んでいた友人のビデオアーティスト、Klaus Lutzが亡くなった、というお知らせだった。クラウスとは、随分芸術談義もしたし、気ごころのしれた仲間だった。1940年生まれ、と私と40歳も年が離れていたにも関わらず、アートについて夜遅くまでサシでお話したこともあった。クラウスはいつも全身真っ黒な格好をしていて、「グレン・グールドみたいだね」、と言うと子供の様に笑った笑顔が忘れられない。クラウスは本当に変わった人だったけれど、12月の初旬、年に一度だけ開く伝説のクラウス・バーというのがあって、それに参加したかったのだけれど、マイアミ・バーゼルの仕事で参加できなかったのが、本当に悔やまれる。こんな事だったら、彼ともっと時間を過ごした方が良かったのではないか、とさえ思う。

時間だけが、全ての人たちに対して、無慈悲に進んでいく気がする。自分の限られた時間を、どうやって使おうか。考え抜いていかなくては、と思う。

Klaus, sleep well, and I hope to see you again.

プレートテクトニクス・パンサラッサ・天皇海山群

2009-09-20 21:10:09 | Weblog
最近、仕事が忙しかったり、病気になったりと大変で、ブログの更新が滞ってしまった。もう少し経てば、いろいろ具体的な報告ができると思うので、しばらくお待ちを。

最近、プレートテクトニクスとプルームテクトニクスについて勉強をしていたら、いくつか面白い名前があったので書きとめておきたい。

まず、パンサラッサという名前。パンサラッサ、と言えば、音楽好きの方ならビル・ラズウェルがカバーしたマイルス・デイビスのリミックス音楽だと気づくのではないだろうか。このパンサラッサという名前、Panthalassa=古典ギリシア語で「全ての海」という意味であり、パンゲアを取り囲んでいた唯一の大洋のことだと言う。プレートテクトニクスでは、パンゲアが分裂して大西洋と北極海ができた結果、パンサラッサはインド洋と太平洋になったとされている。マイルスのリミックスにパンサラッサという名前を付けたラズウェル、憎いねぇ。なんの気はなしに聞いていた音楽も、与えられた意味が分かると理解が深まった様で、嬉しい。

また、ハワイのすぐ近くにある海山に「天皇海山群(Hawaiian-Emperor seamount chain)」という名前が付いる、ということを初めて知った。これらの海山は、個々に

* 桓武海山(約4,000万年前)
* 雄略海山(約4,300万年前)
* 光孝海山(約4,800万年前)
* 応神海山(約5,500万年前)
* 仁徳海山(約5,600万年前)
* 推古海山(約6,500万年前)
* デトロイト海山(約8,100万年前)
* 明治海山(約8,500万年前)

と名づけられており、何故ハワイの山に天皇の名前が付いているのだろうか?と不思議に思い、Webで調べてみた所、ある程度のことだけ分かった。

天皇海山群という名前は、1954年にアメリカ合衆国の海洋学者ロバート・シンクレア・ディーツによって付けられたという。この名前は、彼が1953年からフルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部において研究を行った際に付けられたそうだ。54年と言えば日本がGHQ支配から抜け出してまだ2年目、火山に天皇の名前を付けたアメリカ人学者は、一体どの様な気持ちで、その名前を付けたのだろうか?

私の予想はこうだ。アメリカ大陸から日本列島へと渡って来たアメリカ人学者は、火山活動という自然活動に、神道的な要素を見出してしまったのだろうか。それにしても、海山に天皇の名前を付けた際、同僚だった東大の研究者は一体どんな気分だったのか、と思うのだが、日本においてプレートテクトニクス論の受容そのものが遅れてしまった背景に、学会の派閥闘争があったと言われているが、もしかしたらその一端が、こういった名称に表れているのかもしれない、と思った。

森村泰昌さんからのお手紙です

2009-09-10 15:45:46 | Weblog
アーティストの森村泰昌さんが、新作に参加して下さるエキストラの皆さまを募集しております。どうぞ皆様、ふるってご参加ください。

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皆様へ
 
 美術家の森村泰昌です。皆様にお願いがあり、この手紙を書いています。
 私は現在、新しい作品に着手しています。1945年、「硫黄島にアメリカ海兵隊が上陸、スリバチ山に星条旗を立てる」という有名な写真にインスパイアされ、私なりに想像力をふくらませて制作されるビデオ映像の作品です。
 この新作には、「マリリン・モンローが、多くの観衆を前にピアノ演奏をする」というシーンがあります。
 お願いというのは、皆様に、このマリリンのピアノ演奏の「観客」として参加していただけないか、ということなのです。
 当日は実際に私がマリリン・モンローに扮してピアノ演奏をしますから、そういう一風変わったピアノ演奏会、あるいはパフォーマンスを観に行く、というおつもりで気軽にご参加いただけましたら幸いです。
 くわしくは、私のHP(森村泰昌芸術研所)の「お知らせ」欄、下記のところをクリックしてください。詳細事項と参加申し込みページを用意しています。

  http://www.morimura-ya.com/category/etc/

 日程は10月5日(月)夜、場所は東京赤坂の草月ホール、定員は300名。多少の増員は可能ですが、満席の際は参加していただけなくなるので、申し込みは、どうぞお早めにお願いいたします。この催しに御参加いただいた方々には、当日モリムラよりすてきな写真作品をプレゼントさせていただき、参加の御礼にかえさせていただくつもりです。
 なおこの新作は、2010年3月より2011年4月まで約一年間、東京都写真美術館を皮切りに、豊田市美術館、広島市現代美術館、兵庫県立美術館で開催される、個展「森村泰昌 なにものかへのレクイエム」(仮称)に出品される予定です。皆様の参加、心よりお待ち申しあげます。       
森村泰昌                   
2009年9月7日

追伸: この手紙を興味ある方々にも転送していただけましたら嬉しいです。
   よろしくお願い申しあげます。

「ささやかなしあわせ」に想う

2009-09-07 00:07:56 | Weblog
駆け足にて、越後妻有トリエンナーレ、水と土の芸術祭、福岡アジア美術トリエンナーレ、さらに広島アートプロジェクトと回って来た。

これらの地方都市にいわゆる地域系のアートプロジェクトが発生して来て、それがとりあえずの成功を納めているのを見ると、いろんな意味で複雑な気分になる。さらに、この複雑な気持ちを日本にてなかなか共有できない、という孤独感にも苛まれている。

アートにとって何が一番良いのか、という議論が置き去りになったまま、いわゆる「アート」がローカル言語をしゃべり始め、独り歩きするのを見ていると、キュレーターの不在を強く感じる。これは、もしかしたら近代の歴史の壮大な喪失かもしれず、近代の構造を生み出すことができなかった日本の近代なきポストモダンが、悪い形で出てしまっているのではないか。

広島でのこと。残暑の暑い日、汗を流しながら、へらを使って上手くお好み焼きを食べていた時のこと。「これ、ささやかな幸せ」と言って、お店のおじさんが冷たいタオルを渡してくれた。顔をふくのに使ったら、「いや、これは首の後ろに巻くんだよ。ほら、気持ちいいだろ?」と言って、笑ったのが印象的だった。ちょうど2年前に広島に来た際、お好み焼きとアートの話をしていたこともあり、いろいろと考えてしまった。

このおじさんとの対面コミュニケーションが、大都市に成立しない形で地方都市に残っているのを見ると、羨ましく思うと同時に、嬉しい気分になる。しかし、こういった対面コミュニケーションと、アートだけが成立させる、いわゆる「トランスミッション」は別だ、と考えた方が懸命ではないか。

レジス・ドブレは、現在欠落しているのは権威によって今まで継承されてきた知識の「トランスミッション」だと述べており、さらに彼はまた、現在過剰なのはコミュニケーションだと述べている。コミュニケーションは、目の前にある何かとの意思疎通には有効であっても、そこに知の力が生まれるとは思えないのだ。

日本の近代は、権力機構である美術館を構造として確立させ、そしてトランスミッションの機能を果たすことができなかったのではないか。しかしその代わり、近代の構造を成立させない、いわゆる「コミュニケーション」が、ローカル言語の「アート」として流布しているのではないか。そう見えてしまうと、近代の美術制度の門番でもあるキュレーターという立場にいる人間として、心苦しい。

ゲバラと一緒にパルチザン抗争を経験した反権力の知識人であるドブレが、権力によって成立させていたトランスミッションの重要さを述べたのは皮肉だが、近代国民国家をテーマとしていた私が、トランスミッションとアートの違いを述べることに対して、なんだか歯がゆさの様なものを感じる。