Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

ベクと4年ぶりの再会

2006-10-31 10:35:13 | Weblog
昨日は休みだと言うのに朝から仕事。その後、昼からサッカーのゲームに参加。あまりにも忙しくて、昼飯はサッカー場までの道のりで歩きながらピザを食べる。

サッカーの試合後、家でシャワーを浴び、一仕事してからウエストビレッジ在住の美術史家である富井玲子さんの家に伺う。最近お亡くなりになられた松沢宥さんに関する資料を見せてもらう為だ。さすが富井さん、松沢氏の初期の活動を含む、大変多くの資料を持っておられ、おもわず唸ってしまう。こういう方がNYにおられる、ということは日本美術界にとって大変なプラスだなぁ、と改めて関心した。その後、富井さんと一緒にご飯を食べながら、MoMAで行われているブライス・マーデン展などに関して議論する。富井さんは絵画を常に歴史の文脈にて捉えているので、その視点を伺うことは、私のとって大変勉強になった。

食事後、もう夜11時を回っていたのだが、頑張ってイーストビレッジに移動、NYにやってきたばかりの友人のベクと一緒に飲みに行く。

ベクは韓国人の留学生で、今はNYUの大学院で映画の勉強をしている。私がベクと知り合ったのは4年前、私が所属していた早稲田のシネマ研究会でのこと。当時ノースウエスタン大学で映画を勉強していたベクが、早稲田の一文に留学してきていて、その時に仲良くなったのだ。同じイリノイ州の大学に行っていたアジア人、というだけで、日本に帰国して間もなく逆カルチャーショックに苦しんでいた私は、すぐ意気投合したのだった。

あれから4年経って、ベクももうすっかり大人になっていた。軍隊に行ったのが大きいのかも。「真也くん、変わらないねぇ」と言われて笑われたけれど、でも、4年ぶりとは思えないほど話が盛り上がって、楽しかった。

最後にベクに会ったのは、渋谷でのこと。友達の雅也と剛と一緒に、飲みにいったのが最後だ。渋谷の町を歩いているとき「韓国マッサージ」という看板があって、ベクに「日本で韓国マッサージと書いてあると、概してエッチなお店なんだよ」と教えると、口をあんぐり空けてから、「どうして、どうして」と聞いてきたことを、昨日のことの様に思い出す。

ベクは、兵役での韓国、現在住んでいるアメリカにいると、日本にいた1年間が夢のように思い出される、また住みたい、と言ってくれたのが嬉しかった。あれだけ日本の社会で苦労していたベクの口からこういう言葉が出るのは、私にとって、何だか救われた気分だった。

今宵はデュシャンと一緒にハロウィーンを

2006-10-30 03:33:51 | Weblog
土曜日も朝から世界連邦で通訳。イタリアが国連安全保障理事会の枠をEUに譲渡する、という件に関して、識者で意見交換が行われた。長時間にわたる通訳だったので、とにかく消耗した。

その後、家で仕事を済ませてから、夕方から招待されていたアジアソサエティーの展示を見に行く。シンガポールのプリント工場と連携して行われた作品群であったが、そのクオリティの高さに惹かれた。特に照屋勇賢さんの作品は、美しかった。

その後、アジア・ソサエティからタクシーに飛び乗って、ハーレムのアポロ・シアターに移動。DJスプーキーことポール・ミラーのDJを見に行く。友人達にDJスプーキーを見に行くんだ、という話をしていたら、みんな行きたがって、結局7人の大所帯になってしまった。

ポールとは先日一緒にご飯を食べたりと、何度かご一緒しているのだが、本当に頭の良い人だ。ここまで「この人は頭が良いなぁ」、と思える人は、本当になかなか会えない。パフォーマンスも半分レクチャーじみたもので、デュシャンの話やダダイズムの話をしながら、演奏が進んでいく。フラッシュプレイヤーを使ったVJと、まるでおもちゃの様にターンテーブルを回すポールは、文句なしにかっこ良かった。貫禄ですね。

その後、みんなでご飯を食べていたら、一緒に演奏を見たアーティストのミカエルが、デュシャンの講義の音声ファイルを持っているからみんなで聞こう、ということになり、アパートに移動、デュシャンの講義を拝聴する。確かに皆が言う通り、デュシャンの語りは、とても知的、刺激的である。その後、皆で意見交換しながら、とりとめのない話になる。周りがみなハロウィーンで盛り上がっている夜の中、なんとも渋い時間を過ごした。


また最近、友人のアーティストが、ある人物に、作品がホーミ・ババが扱っている美学の問題に似ているから、調べてみなさい、という提案を受けたらしい。ババの名前はポストコロニアル批判の学者として私も知っていたが、ちょっと興味があって調べてみると、彼がパールシーとしての背景を持っていることが分かった。

パールシーとは10世紀頃、ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否した民族の末裔のことであり、インドには10万人程度住んでいるマイノリティの人たちらしい。10万人程度のマイノリティでありながら、財力・文化力はかなりのものだそう。

さらに面白かったのは、フレディ・マーキュリーがパールシーであったという点。彼は当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島のストーン・タウンに、パールシーの両親の間に生まれたそう。その後イギリス政府の役人として働いている父親の関係、それとザンジバール革命の影響でインドに移り住み、ボンベイ郊外の高校に通ったという。つまり、普通のイギリス人ではないわけだ。私は高校時代クイーンが大好きでよく聞いていたのだが、あのボヘミアン・ラプソディに見られるフレディの世界観がどこかれ来るのか、非常に疑問に思っていた。しかし、こういう背景を知ると、少しずつその理由が分かってくる気がする。

タピエスとダダかん・山海塾の内外・国際刑事裁判所

2006-10-28 11:56:02 | Weblog
水曜日は、アジアソサエティーの手塚さんと一緒に、NYを訪ねていた上原さんというコレクターの方にお食事に招かれる。上原さんは瀧口修造氏のアシスタントを長年務めていた方で、とても魅力的な方だった。瀧口氏がタピエス氏との親交が深かった関係で、上原さんの名詞がタピエスが書いてくれた鏡文字から出来ている、というのがそのセンスを物語っている。私の友人がバルセロナのタピエス財団に勤めている、という話をすると、大変喜んでくれた。また、バルセロナの気候の話から沖縄の話まで盛り上がって、最高だった。

その後、上原さんとは60年代の日本アバンギャルド・アートの話で盛り上がる。特に上原さんの奥さんがダダかんとの書簡を何度も交わしていて、その数が100に上るという話は大変面白かった。俺もダダかんと往復書簡、したいなぁ。

木曜日は山海塾のパフォーマンスを友人と一緒に見に行く。舞踏は何度か見ているけれど、山海塾のパフォーマンスを見るのはこれが初めて。面白いことに、私が初めて山海塾の存在を知ったのは、NYUのローズリー・ゴールドバーグの授業を通じてであった。やはり海外での評価の方が高いのだろう。全身白塗りのダンサーが身体から粉を降りまきながら踊る様は、なんとも異様な光景であると同時に、美しいものだった。また音楽、衣装など本当に凝っているのに非常に関心する。

特に天児牛大氏の自身の身体のリプリゼントの上手さは、他の日本人ダンサーの中でも突出していた。天児牛大の自身の目指す表現というのがあるのだとするのなら、それはパリでは受け入れられても、日本国内では難しいのかもしれない、とも思った。これも、ネーションの問題に密接に関わってくる。同時に、海外においてその内外差異を逆手に取ることも可能なのだと思う。

今日は関係者からの依頼で、朝から国連系の組織で通訳を担当する。世界連邦というアインシュタインやチャーチルらが創設した、安全保障理事会などの国連改組を目的とした組織であり、会議の内容は国際刑事裁判所の創設に関するものがほとんどであった。ウガンダやソマリア、旧ユーゴスラビアにおける国際刑事裁判の手続きの困難さや、さらにチリ等の国内憲法が世界標準となりつつある刑事裁判手続きと異なる例などについて、ひたすら通訳する。ユーゴスラビアや南アフリカ、ルワンダに関しては私が興味がありある程度勉強したエリアだったので、大変役立ち、さらに勉強にもなった。

その後、夜は友人のミミの展示のオープニングがあり、チェルシーに移動。ミミの家のパーティで会ったスイス人のアーティストがみんな勢ぞろいしていて、面白かった。特にクラウスという年配のアーティストの方と仲良くなり、家でのカクテルパーティに招かれる。非常に温厚な方で、大変惹かれた。こういう優しさが前面に出ているアーティストの方とNYで出会うと、なんだかホっとする。

ことばはなぜ言・葉と表記するのだろう?

2006-10-25 10:17:05 | Weblog
今日レヴィナスの他者に関する文章を読んでいて、一つひらめいたことがある。「ことば」がなぜ「言・葉」と書くのか、少し分かった気がしたのだ。

言葉で世界における全ての事象を表現することは不可能である。全ての事象を言語で表現する、ということはある意味愚かなことなのかもしれない。しかし言葉の数を増やすことによって、言葉が伝えられるものの限界の中で、その真理に近づくことは可能だ。そこで、言葉が伝えられることの限界、すなわち有限性(言葉が伝えられること)の中における無限(言葉の数を増やす)、というメタファーとして、漢字語圏の先人は有限の中における無限の代表格である切片曲線のごとく、葉のメタファーを用いたのではないだろうか?

またさらに、この表意文字から類推すると、ことばというツールを用いて表現できることは僅かである、という反省から、葉という言葉を用いたのではないか、という疑念が出てくる。すなわち、言葉をしゃべる前に言葉で表現できないことを対峙させることにより、その存在を立ち上げたのではないか、と思えるのだ。

そうすると、ハイデガーが「フランス語は制限であり、ドイツ語は可能性である」と論じたことに関し、面白い解釈が可能になると思う。ドイツ語は新しい言葉を創造することによって、表現できる領域を増やすことができる言語である。しかし、フランス語の場合、統治言語という側面が強く、制限の中でしか動けないという制限がある。しかし、もっとマクロな視点で見ると、言葉を増やしても、そればバベルの塔のようなもので、真理に到達しているかに思えるものの、永遠に到達しない。むしろ増えている分だけ、遠ざかっているとも言えるかもしれない。しかし、そこにおける自己反省は、西洋近代の中にどれだけあったのだろうか?言語をロゴスとしてキリスト教世界の内部に取り入れてしまった反動が、ここに出ている気がする。

レヴィナスは、言語が到達しえないものを、あえて言語によってアプローチしていた気がする。それは、彼自身が行っていたタルムード研究と関係があるのだろうか?また、「名づけえぬもの」というタイトルを使って言語の逆アプローチ、すなわち反小説を書いたベケットがフランス語をしゃべるアイルランド人、というのも関係があるのだろうか?とても興味がある。もっと言ってしまうと、ベケットがゴドーを書けたのにも、この問題が絡んでいる気がする。

万葉集は、葉を世(よ)と掛けて、いつの世までも、というのが定説らしいが、万葉(まんよう)とは、なんと綺麗な言葉だろうと思う。言葉にもっと、現代とは違った力があった時代の表現であったような気がする。その問題に興味が湧いたのがリービ秀雄だ、というのも、上に書いた社会的コンテクストにおけるベケットと関係がある気がする。

レヴィナスを読んでいてつくづく思ったのだが、私自身、自らが紡ぎだす言葉が、だんだん希薄になってきている気がする。もっと反省しなくては。

スターバックス・ジャングルでのハーンと汗

2006-10-23 13:56:52 | Weblog
午後まで仕事をこなしてから、MoMAの展示を見てくる。Kota Ezawaさんや河原温さんの作品を見るためだ。もちろん彼らの作品は最高だったけれど、かなりまとまった量でみれたRichard HamiltonやJuan Hidaldo、Peter Doigの作品も非常に良かった。楽しみにしていたEija Leesa Ahtillaの作品が見れなかったのが残念。

夜8時からサッカーの試合があるのでそれまでカフェで読書しながら時間をつぶそうと思ったのだが、68st周辺には手ごろなカフェがない。あるのは、スターバックスだけだ。先日、映画監督をやっている友人のフィリップとNYの話をしたとき、「NYはコンクリート・ジャングルだ」と言った際、フィリップが「いや、スターバックス・ジャングルだ!」とやり返されたのを思い出す。でも、本当にスターバックス・ジャングルみたいだ。

仕方なく入ったスターバックスでは人が溢れていて、なかなか席に座れない。やっと10分ほど立ちながら待っていて、2つ席が空いたので、近くでまっていた女性客と同席することに。

「あなた、アーティスト?どこかで見たことあるんだけれど?」向かいの席になった客に聞かれた。「いや、私はキュレーターをやっています」と言うと、どんな展示をしたのか、聞かれた。そこでAnother Expoの話をすると、ああ、あの展示、見たよ。とても良かった、と言ってもらえ、嬉しかった。この方はAniko Erdosiというハンガリー人のキュレーターで、Apex Artで最近展示をしているバリバリの若手キュレーターであった。Drawing Centerのキャサリンとも仲が良く、キャサリンがやっているEurope Lost and Foundの話などで盛り上がる。

アニコはコロンビア大学でアートと国家の授業を持っているAgnes Hellerの教え子らしい。彼女の出身がハンガリーということで、すぐやはり民族の話になってしまった。ハンガリーにおけるロゴスと言語の話になったのだが、ロゴスの話をした際に避けて通れるキリスト教の話になり、イシュトヴァーン1世が西暦1000年にキリスト教に改宗してからのヨーロッパとハンガリーの勢力関係の話になり、また言語と中央アジアと民族の話になった。

しかしなぜハン(汗)という文字を書くのだろう?私には、ババリアという言葉が英語でバーバリック(野蛮)という文字になってしまった様に、言語と密接に結びついたネーションの外部への圧力のように思えるのだ。(知っている人がいたら教えて下さい)

日本に住んでいるアメリカ人と話すと、抵抗のある日本のブランド名でカルピスとポカリスエットがすぐ挙がるが、カルピスは、どうしてもカルシウム・ピス(カルシウム小便)、ポカリスエットはポカリ・汗という、到底飲めなそうなドリンクになってしまう。(ちなみにアメリカでのカルピスのブランド名は、カルピコ)そう考えると、中国人から見て外部の王様に当たる汗という当て字にも、中国人から見た場合、外部の騎馬民族の野蛮人というニュアンスが強いのではないか、という印象を受ける。日本が倭の国(小人の国)となり、越南が南越になれなかった様に。

アニコは乗馬が好きらしく、なんであんなに馬に乗ると落ち着くのだろう、やはり私の祖先が騎馬民族だったからだろうか、という話になった。私には乗馬をしてスッキリする、というその感覚が分からない。そこからJan Assmanの文化的記憶の話になり、そこからは、とりとめのない話になった。

アニコから、グランというセルビア人の老アーティストがSalon de Fleurusというガートルード・シュタインのサロンを復刻させ、SOHOにて活動しているから一緒に行かないか、という誘いを受ける。グランのことはスロベニア人のキュレーター仲間のナターシャから聞いていたが、こんな所でまた遭遇するとは思わなかった。早速、行ってみることにする。楽しみだ。

Xiao Luオープニングとアワー・ミュージック

2006-10-21 13:53:57 | Weblog
水曜日のXiao Luのオープニングは、非常に厳しいものだった。

プレスリリースに書いたように、Xiao Luは天安門事件直前に開かれた伝説的な展示「China Avant-Garde」で中国人民の顔が反射する鏡張りの電話ボックスを拳銃で破壊し、そのお陰で体制側から睨まれ、オーストラリアに亡命したフェミニスト・アーティストである。水曜日の当日、ギャラリー内でパフォーマンスを再現しようと拳銃を作品に向かって発砲する予定が、保険会社とニューヨーク市から許可が折りず、結果パフォーマンスは断念することに。オープニング直前にも警官が駆けつけ、混乱を収拾するのに大変だった。

そんな訳で、合法的に運営している拳銃が発砲できるスタジオにて作品に発砲し穴を開けたものを展示することに。破壊された作品をインストールするのに時間がかかり、インストールが完了したのは展示開始から1時間後。本当に必死だった。とにかく疲れた。

そんな疲れを癒そうと、今日は以前から見たかったNotre Musique(邦題:アワーミュージック)を見る。非常に美しい作品だった。

ゴダールが私がテーマとしているものを近い主題を扱って作品を作っていることが分かって、素直に嬉しかった。(そういえば、この映画にも引用されているDo you remeber Sarajevo?を撮ったクルセイヤコビッチ兄弟も、「ゴダールが褒めてくれた」、と言って素直に喜んでいたのを思い出す。ちなみに、その映画のポスターをデザインしたのがセイラ・カメリッチだった)

フォーエヴァー・モーツァルトの中でもゴダ-ルはサラエボをテーマとして作品を撮っていたが、なぜゴダールがサラエボをテーマとして現在作品を撮っているのか、分かりすぎるほど分かる。現在、レコンキスタ以降のマラーノ(改宗ユダヤ人)の問題に興味があるのだが、サラエボはオスマントルコ時代に少数であったユダヤ人がある種ニュートラルな立場に立つことが許された数少ない場所のひとつである。それを象徴するかの様に、映画の冒頭で第一次世界大戦の追悼のシンボルである永遠の火が映し出される。その二つを入れないと、ヨーロッパ近代が抱えた問題をあぶり出すことができす、そうなると、イスラエル問題を話すことが不可能になると思うのだ。また、モスタルを「トルコ語で橋という意味です」というシーンを、先生が子供に話しかける、という形で入れているのが、非常に丁寧だと思った。

でも、アワーミュージックという邦題がよく分からない。これは、Hourなのか、Ourなのか?なぜそのまま原題で公開しなかったのか、疑問が残った。

Ethan Cohen Fine Artsにてオープニングです

2006-10-16 10:43:05 | Weblog
For immediate release

XIAO LU “OPEN FIRE”

October 18, 2006 – November 11, 2006

Opening reception with the artist Wednesday, October 18, 2006 from 6-9 pm.
Performance: October 18, 2006 at 6 pm.

Ethan Cohen Fine Arts is pleased to present xiao lu “Open Fire,” a solo exhibition in its on-going series of Chinese art stars. This is Xiao Lu’s first ever-solo exhibition.

A graduate from National Academy of Fine Arts, Xiao Lu (b. 1962) rocketed to the forefront of the Contemporary art scene with her piece “Dialogue,” exhibited in the significant exhibition China/ Avant-Garde in Beijing in February 5, 1989. During the opening of the exhibition, Xiao Lu fired two shots into her installation, consisting of two phone booths in use by one male and one female student. Xiao Lu’s defiant act caught the attention of the media and the Chinese Government. Chinese law prohibits firing or carrying a firearm in public. The act is considered “the most influential combination of installation and performance in Chinese contemporary art history, and one of the most important emblematic works”[1]. The two gunshots were a response to the opposing cultural currents of traditional Chinese values and the burgeoning “sexual revolution.” Rejected and frustrated by her secret lovers, she fired into the phone booths, boldly terminating their stunted dialogues. She targeted her reflection in a mirror in between the booths committing what curator Gao Minglu coined “symbolic suicide”.

Her second series, “15 Shots: 1989-2003” is a direct response to her now defunct 15 year romance with artist, Tang Song. A collaborator in “Dialogue” and later misattributed as the mastermind and creator of “Dialogue,” Tang Song tightly controlled Xiao Lu’s public image. It is now publicly understood that Xiao Lu is the creator of “Dialogue” and Tang Song was a collaborator. In a bold reclamation of her voice, Xiao Lu opened fire again, one bullet for each year of her relationship. With her upcoming memoir, Xiao Lu addresses her frustrations with a constantly changing society and deals with issues of being a female artist in China today.

In this solo exhibition, Xiao Lu will show her second series of photographic based artworks entitled “15 Shots, 1989-2003”. Following her practice of blending performance and installation, Xiao Lu will fire at the fifteen photographs on display. These repeated photographs have a gradient moving from white to black and show Xiao Lu standing before a brick wall posed in a deadly confrontation with an unseen gunman.

Ethan Cohen Fine Arts
18 Jay Street (between Hudson and Greenwich)
New York NY 10013
T 212. 625.1250, F 212. 274.1518
Opening hours: Tuesday – Saturday 11-6
www.ecfa.com

[1] Gao Minglu, “The Sound of Gunshots, Half a Life’s Dialogue: On Xiao Lu’s “Dialogue”

マルセル・デュシャンをやっつけろ!

2006-10-16 01:42:31 | Weblog
金曜日はアーティストの照屋勇賢さん、斉木克裕さん、河合政之くんと一緒にイーストビレッジにて飲み会。久しぶりに濃いメンバーが集まり、芸術談義に花が咲く。

世界をロゴスと捉える河合くんの話や、作品制作そのものに問いのある勇賢さん、そしてアートがヨーロッパのものだと自覚した上でそこでやっていこうとする斉木さんなど、いろいろな切り口のあるアーティストが集まり、興味深かった。

せっかく面白いメンバーがあつまったので、私は皆がデュシャンをどう捉えているか、という質問をしてみた。一見とてつもなく普通な質問なのだが、最近、私はそこで悩むことが多い。もっと言ってしまえば、西洋中心主義の端的な表れがデュシャンにあると思えるのだ。
斉木さんは芸術そのものが西洋のものなのだから、それに対して批判的であっても仕方がない、そもそも現代美術はデュシャンから始まっているのだから、それを受け入れるしかないし、デュシャンは優れたアーティストだ、と考えているそう。一方、河合君くんはデュシャンの問題は困難な問題と設定し、ロゴスとキリスト教の自然支配、それ以降のモダニズムを解体しないとデュシャン批判は困難だ、またそれをするのであれば、ロゴス発生以前の言霊のようなものを持ってくるのはどうか、という見解を見せた。勇賢さんは、実はデュシャンのことはあまり問題として扱ってこなかったのでそこまで興味がない、といった風だった。

土曜日は最近仲良くなった映画監督のフィリップやその友人と一緒に、19世紀に作られた冒険船「エクスプローラー号」に乗って、自由の女神の辺りを見てきた。やったら寒かったけれど、本格的な帆船にのって海に出るのは面白かった。

フィリップはアメリカ生まれヨーロッパ育ちの映画監督で、大変なインテリだ。前回一緒に飲んだ時も大変話が盛り上がったのだけれど、今回は例によってデュシャンについていろいろ議論する。フィリップは多くのヨーロッパ人のインテリがそうである様に、デュシャンに対して最大級の評価を与えている。私はそれに対して批判的であり、それはヨーロッパ批判や近代批判の延長線上での出来事だ、という話をする。あまりにも錯綜してしまった議論をしてしまった為、その場をここに書くのが難しいのが残念だが、船の上での議論、というのも不思議な影響を与えていた気がする。

どうでもいいけれど、そろそろみんなで、マルセル・デュシャンをやっつけようぜ!

アメリカの病と処方箋

2006-10-11 14:28:05 | Weblog
昨日はオーストラリアから帰ってきたばかりの照屋勇賢さんとご一緒する。勇賢さんは多忙が祟り、完全に時間と生活が崩壊しているそう。でも、そんなプレッシャーの中でも展示を成功させているのがすごいと思う。久しぶりに会ったのだけれど、多忙すぎて、小一時間しか話せなかったのが残念。またキャッチアップしなくては。。。

今日はDCから友人のRが私を訪ねに来てくれた。Rと会うのは2年ぶり以上。それでも連絡が途絶えないのは、お互いアートと社会、という感じで、やっている分野が近いからだと思う。

最近、Rはアフリカとインドに行ってきたそう。特にマリ共和国でのドゴン族との出会いは素晴らしいものだったそう。またRはインドにて顔面奇形の子供に無料の整形を供給するというNPOに所属していて、その活動をしてきたそう。そんなNPOがあるのにも驚き。なんとアメリカ的な発想なのだろう。

Rはアメリカ国籍なのだが、ムンバイとハバナとモントリオール、そしてオックスフォードの大学院にて教育を受けた豪傑。こんな人は俺は他に知らない。パーリ語とスペイン語、フランス語という外部性を持ったアメリカ人は、さすがに視座が深い。

会って早々、アメリカの奴隷制度が今日に与えている影響や、アメリカにおけるクリスチャン・ファンダメンタリズムやユングの集合的無意識の話など、矢継ぎ早に話しが進む。特に奴隷制度と人種の話は、本当に面白かった。

私の周りの黒人、特に黒人男性は、自己嫌悪が激しい人が圧倒的に多い。それの根底には、奴隷制度以降連なる、アメリカの病がある。これは当分直らないだろう。Rの場合は黒人率が75%を超えるワシントンDCに住んでいる訳で、その社会的プレッシャーは計り知れない。

最近、Rが激しい交通事故を起こし、DCからバージニアに行く高速道路に、時速70マイルで突っ込んで、大怪我を追ったらしい。その際、黒人の貧民が多く住む住宅街に高速のバリケードを突き破って入り込んでしまったらしいが、救急車が来るまでの数分間の間に、朦朧としている意識のRから、財布や宝石類など、みぐるみ全てはがされてしまったそう。その時に、この国は本当に病んでいる、何とかしなくては、と思ったそう。そこまで追い込まれた状態で、そこまでポシティブシンキングができるRには、尊敬の念を抱かすにはおけない。

日本は深刻な人種問題がないだけ、幸せだと思う、ということを真面目に言われた。本当にそう思う。アメリカのそれは、もはやタブーである。でも、日本人はきっとアメリカ人より幸せだと思う、という言葉はどうしても聞き捨てならず、私なりの見解をいろいろと述べた。

Rと私がこれだけ腹を割って人種の話ができるのは。R自身の人種の入り組んだルーツと関係していると思う。見た目は白人でも、それは関係ない。それこそ、イマジナリーなものなのだ。

昔、Rと一緒にボブ・マーリーのTalking Bluesを聞きながら、セバスチャン・サルガドの写真集を見たことを思い出す。何も話さなくても、お互い何を考えているのか、なんとなく分かった。

人種に関してこれだけ突っ込んだ話ができる(いわゆる)異なる人種の友達を持った私は、幸せだと本当に思う。NYに来てよかったと思った。

Today I met

2006-10-08 07:14:23 | Weblog
昨日は、ついにあの大御所アーティストの方に会ってきた。

話は多岐に渡り、美術史、アートマーケット、ギャラリー、政治、経済、数学、言語、物理学、化学、歴史、文学、詩、宗教、オカルトまで幅広く、とにかくとりとめのない話となった。夕方4時から夜中の3時まで、なんと11時間もぶっつづけで話していた。これだけ話をしたことは、私の人生の中でも初めてのことではないか?

ペンローズの特異点の話から、グルジェフの話、ホツマの話、エメラルド・タブレットの話にまで話は及び、大変興味を惹かれた。特に私が興味深かったのは、知という言葉に関する世界的なメタファーである。

氏はずっと知という漢字に興味を持っており、知という漢字は、「知=矢と口、すなわち知識のある人の口からは矢が飛び出す」、という意味メタファーなのである。その後氏が、フランス人と会話をしていた際、「フランス語で君を知りたい、と言った際、それが意味するのは君とセックスしたい、という意味だ、という事を聞いた際、ハっと気付いたという。つまり、漢字で表記された知のメタファー、すなわち矢と口のイメージが、男性器と女性器のイメージであることに気付いたという。

その後、言語と数学が似ているという話や、人智学の話など、とにかくとりとめのない話になった。時の番人と長い時間を過ごし、とても楽しい夜だった。