Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

岡崎乾二郎さんの「現代アート講座」に飛び入り参加!

2009-03-30 18:33:34 | Weblog
沖縄県立美術館での展示「移動と表現」も終わりに差し掛かった28日土曜日、岡崎乾二郎さんの「現代アート講座」が開かれた。私は岡崎乾二郎さんとは、5年ほど前、「Another Expo」展を企画している時、岡崎さんの知恵を借りたいと思い四谷を訪ねたとき以来だ。随分ご無沙汰していたのだが、御元気そうで何よりだった。

「移動と表現」のキュレーターを担当した翁長直樹さんから、じきじき岡崎乾二郎さんのトークがあるからぜひ来て欲しい、と連絡があり、大変光栄だったのだが、岡崎さんのトークの第一部に伺い、休憩を挟んで第二部に入るとき、翁長さんからいきなり登壇の依頼があり、急きょ登壇して話すことになった。その日のお昼、沖縄に到着したばかりの前嵩西一馬さんや、たった20分前にNYから沖縄へとやって来て、美術館に到着したばかりの照屋勇賢さんも道連れにして、4人で第二部のトークをすることに。まさにインプロビゼーションの、凄い展開となった(笑)

岡崎さんの話は、ダダイズムの黎明期に、ネイティブ・アメリカンのホピ族の精霊カチナの人形が影響を与えていた、という話や、ウィリアム・モリスのアーツアンドクラフト運動と沖縄の工芸をつなげよう、という話が、散在していた。二部では、司会の前嵩西一馬さんがかなり質問などを綺麗にまとめて下さり、岡崎さんの思想的な根源がどこにあるのか、という話ができた。その中で、主体の発生やアリストテレスの詩学の話になり、詩と因果律の体系の話になったのだが、岡崎さんの興味関心が私のそれと非常に近いことに、興味を覚えると同時に、その興味関心の出方が全く異なることに、驚いた。

岡崎さんが、ホピの精霊カチナの彫刻が好き、という話をして下さったのだが、私もホピの村に滞在したことがあったので、その時に経験した因果律の違いの話や、時系の話などをした。それから、主体の発生と神の問題について簡単に触れたのだが、ここも一馬さんが綺麗にまとめてくれた。そして、貨幣の物神性と認識の問題に関して、照屋勇賢さんが、さすがアーティストらしい見事なお話を披露してくれた。

限られた時間の中ではかなり体系的な話ができたと思う。知的好奇心を満たされる、エキサイティングな時間だった。

その後、岡崎さんを囲んで、みなさんと打ち上げになったのだが、岡崎さんが、あそこまでしゃべる人だとは思わなかった。もう、しゃべり出したら止まらない、まさにそんな感じだった。奥さんのぱくきょんみさんが優しそうに見守っていて、素敵なカップルだな、そう思った。

日本語と乖離した日本語で読み書きする私

2009-03-25 00:17:32 | Weblog
アメリカ人ジャーナリストと英語での筆記式インタビューを行いながら、日本語での文章を書き、思考を進めていると、私の思考が英語での思考そのものに類似しており、日本語表記と必ずしも一致していない、ということがクリアになって来た。日本語で書いている私の文章は、私の経験(またはトレーニング)から、英語表記しても問題ないものを無意識に取捨選択していることが、自分で分かってしまった。これは、ある種の恐怖でもあった。

私がドイツ人を好きな理由の一つが、ドイツ人と英語話者が英語にてコミュニケーションを取っている際、言語構造の違いから発生する理解の違いを、ドイツ人が一生懸命、もう一度自身の言語であるドイツ語でさらに思考を進めようとして、それを他者と共有しようとする所だ。

覇権言語を持ってしまったイギリス人やアメリカ人は、そういう他言語を話す人のコミュニケーションのあり様に、驚くほど鈍感だったりするが、ドイツ語話者は、その違いを、ある意味PC的なものを配慮しながら、プログレッシブに進めようとする。そのやり方が、どこか私にそっくりだな、と思い、そういう場に出くわしてしまうと、それだけで相手を抱きしめたくなる。

「あなたは、これからどうするの?」

こういった特殊な状況を共有することで生まれたドイツ語話者から、そう聞かれたことがある。つまり、英語話者でもなく、日本語話者ともかい離した、中途半端なドイツ語をたしなんだ私は、これからどうなるのか?そういう問いである。

言語の思惟性や、ギリシア・ローマ以降のイデア・ロゴス支配の問題というのを乗り越える上で必要となるものを見につけようとしている私にとって、さらに大きな難題が加わってしまった。これは、なる様にしか、ならないのだろうか。

サテライト展:「アトミックサンシャインの中へ in 佐喜眞」 4月15日(水)~5月6日(水)

2009-03-24 13:13:12 | Weblog
「アトミックサンシャインの中へ in 佐喜眞-日本国平和憲法第9条下における戦後美術」
キュレーター:渡辺真也

会期:2009年4月15日(水)~5月6日(水)
佐喜眞美術館 (さきまびじゅつかん)
沖縄県宜野湾市上原358 〒901-2204
TEL 098-893-5737 FAX 098-893-6948
開館時間 9:30~17:00 火曜休館

参加アーティスト:

アローラ&カルサディーラ:
「バイクのマフラーにトランペットをくくりつけて、米軍から取り戻した我らのビエケス島の森と海を、祝福しよう。」

山城知佳子:
「戦争を体験していない私たちのカラダは、沖縄の戦争体験を受け継ぐことができるのか?」

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サテライト展:「アトミックサンシャインの中へ in 佐喜眞」に寄せて

沖縄県立美術館にて開かれる「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄」展に合わせ、佐喜眞美術館にてサテライト展「アトミックサンシャインの中へ in 佐喜眞」を開催します。

沖縄初の私立美術館である佐喜眞美術館は、佐喜眞道夫館長が、『「原爆の図」で有名な丸木位里・丸木俊が描いた「沖縄戦の図」(4m×8.5m)を展示するために作った』美術館です。土地の所有者である佐喜眞道夫氏は、粘り強い交渉の末、米軍との契約期限が切れる1992年、別に所有する軍用地の再契約と引き替えに普天間基地の一部を返還させ、1994年に美術館をオープンしました。

丘の上に位置するこの美術館のデザインは、庭園にある270年の歴史を持つ佐喜眞家の亀甲墓と統一感を持たせたものであり、屋上へと続く階段からは、普天間基地を見降ろすことができます。

アーティストの山城知佳子は2004年、ビデオ3部作「オキナワTOURIST」の1つ、「墓庭エイサー」を、この佐喜眞美術館の亀甲墓の前で制作しました(他の2本はアトミックサンシャイン本展にて上映予定)。沖縄に生まれた作家として、何を表現すべきなのか、という問いの下、沖縄にて作品を制作、発表し続けてきた山城は、当展示にて、戦争を体験していない私たちは、本当にその体験を継承することが可能か、自らの身体表現を通じて結実させた写真作品「バーチャル継承」、さらに新作ビデオ作品を発表します。

また、アトミックサンシャイン展の出品作家である、プエルトリコ在住のアメリカ人とキューバ人アーティストのデュオであるアローラ&カルサディーラは、プエルトリコのビエケス島をテーマとしたビデオ作品を展示します。アローラ&カルサディーラは、1941年から2003年まで米軍とNATO軍によって武器演習場として使われていたビエケス島の不服従運動に参加、軍用地の一部を返還させることに成功しました。彼らの出品するビデオ作品「Returning a Sound」では、返還された土地を走る、ビエケス島の住民が乗るバイクのマフラーにくくり付けられたトランペットから、土地の返還を祝福する音楽が響き渡ります。その音が佐喜眞美術館に充満するとき、私たちはそこに何を感じとることができるでしょうか。

本展示が、9条と戦後美術というテーマを、地上戦を体験し日本にある米軍基地機能の75%を押しつけられている沖縄県民、そして日本国民、さらに世界の人達と再考する機会となり、来るべき未来への準備の契機となれば、と願います。

(渡辺真也)

アーティストトーク:
山城知佳子
「触れたとき、他者の痛み、について」

5月2日土曜日 午後3時~ 
佐喜眞美術館にて

戦争体験を語る側、そして聞く側、という従来の戦争体験の継承に絶対的に欠けているのは「痛み」の経験だ、と思い至った山城は、言語におけるコミュニケーションの延長線上に、「身体を通じての戦争体験の継承は可能か」、という新たな問いを立てました。作品を作る過程で、102歳のおばぁに触られた山城は、そこで一体何を感じたのでしょう?パフォーマンスという自身の身体を通じて行う表現から、作品という形に至るまでの経緯を、アーティスト本人が語ります。


【開館時間】 9:30-17:00
【休館日】 火曜日・年末年始
【入館料】 大人 700円(630円)
中高 600円(540円)
小人 300円(200円)
※( )内は20名以上の団体料金


「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄-日本国平和憲法第9条下における戦後美術」

2009-03-23 22:42:07 | Weblog
「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄-日本国平和憲法第9条下における戦後美術」
キュレーター:渡辺真也

会期:2009年4月11日(土)~5月17日(日)
(休館日:4月13、20、27日、5月7日、5月11日)

場所:沖縄県立博物館・美術館 企画ギャラリー1,2

参加アーティスト(アルファベット順):
ヴァネッサ・アルベリー: Vanessa Albury
アローラ&カルサディーラ: Allora and Calzadilla
新垣安雄: Yasuo Arakaki
安次嶺金正: Kanemasa Ashimine
コータ・エザワ: Kota Ezawa、江沢考太
比嘉豊光: Toyomitsu Higa
エリック・ヴァン・ホーヴ: Eric van Hove
石川真生: Mao Ishikawa
真喜志勉: Tsutomu Makishi a.k.a Tom Max
松澤宥: Yutaka Matsuzawa
森村泰昌: Yasumasa Morimura
仲里安広: Yasuhiro Nakazato
オノ・ヨーコ: Yoko Ono
下道基行: Motoyuki Shitamichi
平良孝七: Koshichi Taira
照屋勇賢: Yuken Teruya
山城知佳子: Chikako Yamashiro
柳幸典: Yukinori Yanagi



展示コンセプト (文責:渡辺真也)

日本国憲法は、1947年、アメリカ占領軍によって実質的に書かれた歴史がある。そして平和憲法として知られる第9条には、主権国家としての交戦権の放棄と戦力不保持が明記されている。

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世界的に見ても非常に珍しくユニークな憲法上の平和主義の規定は、アメリカのニューディーラーの理想主義が反映されている。この平和主義を含んだ新憲法は、第二次大戦の苦しみを経験した当時の日本の一般市民に受け入れられ60年以上改正されることなく今日に至るが、この平和憲法と呼ばれる第9条が、現在、その存在を問われている。

美術展覧会「アトミックサンシャインの中へ - 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」は、日本国憲法改正の可能性のある中、戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、それに反応した日本の戦後美術を検証する試みである。

憲法第9条は、戦後日本の復興と再形成に多大な影響を与えたのみならず、60年間他国との直接交戦の回避を可能にした。しかし、9条を持つことで日本は直接交戦から回避することに成功したが、日本の実質的戦争協力は、第9条が保持される限り、ねじれた状況を生み出し続ける。この日本の特異な磁場から、多くのアーティストたちは取り組むべき新たな課題を発見し、彼らの芸術に表現してきた。日本の戦後やアイデンティティ問題などをテーマとした美術作品の中には、戦後の問題、アイデンティティ問題、また憲法第9条や世界平和をテーマとしたものが少なくない。

アトミックサンシャインとは、 1946年2月13日、GHQのホイットニー准将が、吉田茂とその側近であった白洲次郎、憲法改正を担当した国務大臣の松本烝治らと行った憲法改正会議のことである。ここで、ホイットニー准将は保守的な松本試案を一蹴し、GHQ民政局の憲法試案を「日本の状況が要求している諸原則を具体化した案」で、マッカーサーの承認済みのものだと説明した。その後、アメリカ側が公邸の庭に下がり、英文を読む時間を日本側に与えたのだが、その際、英語に長けた白洲次郎が庭に出てアメリカ人のグループに加わっていくと、ホイットニー准将は白洲にこう言った。

「We have been enjoying your atomic sunshine.」

この一言で、ホイットニー准将は日本側に、戦争の勝者・敗者を明確に思い起こさせ、さらにGHQ草案に示された諸規定を受け入れることが、天皇を「安泰」にする最善の保障であり、もし日本政府がこの方針を拒否するならば、最高司令官マッカーサーは日本国民に直接この草案を示す用意がある、と発言した。その後、この憲法改正における日本国とGHQの会議は「アトミック・サンシャイン会議」と呼ばれるようになる。このGHQ草案に添った形で修正した内閣案が、最終的に1946年11月3日に日本国憲法として公布された。



沖縄巡回展に寄せて (文責:渡辺真也)

第二次大戦中、地上戦により一般市民の多くが犠牲となったこの沖縄の地において、憲法第9条と戦後美術に関する展示を開催することには、特別な意味がある。

大戦終結直後のアメリカ政府は、沖縄県民を日本の帝国主義に支配された異民族であると位置づけ、アメリカ軍政下に置いたが、朝鮮戦争勃発以降は、沖縄を東アジアにおける最前線の基地に位置づけ直し、軍用地として住民の土地を強制的に接収するなどした。

日本は1951年のサンフランシスコ講和条約の際、GHQ占領下から独立する条件として、アメリカと安全保障条約を結ぶことを半ば強制されたが、これにより日本は資本主義ブロックへと組み込まれ、アメリカの核の傘の下へと入ることになった。この時、アメリカ側は沖縄における日本の潜在的な主権を認めつつ、沖縄を正式にアメリカ軍の管理下に置くとした。

1956年、沖縄住民側の「土地を守る4原則」を無視した「プライス勧告」の発表をきっかけに、住民たちは「島ぐるみ闘争」と呼ぶ反基地運動を展開した。その後ベトナム戦争が勃発すると、沖縄は米軍の最前線基地となり、それに伴う事件・事故も増加し、さらに爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対する批判も激しく、住民は反米・反戦色の強い祖国復帰運動を活発に行う様になる。

一方、米軍からの需要がある産業に携わる住民は、復帰反対や米軍駐留賛成の立場を取らざるを得ず、復帰賛成派と対立した。1968年、琉球政府の行政主席選挙が行われると、90パーセント近い投票率の結果、本土復帰派の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。その後1969年の日米首脳会談にて、ニクソン大統領が安保延長と引き換えに沖縄返還を約束、1972年5月15日に沖縄は日本へと復帰することとなった。

しかし、日米両国政府が考える沖縄返還のかたちが次第に明確になるにつれ、沖縄では「反復帰論」や「独立論」といった思想も顕在化した。その背景には、復帰交渉において日本政府が在沖米軍基地の現状について米軍の要求をほぼ丸飲みし続け、沖縄の住民が期待した「即時無条件全面返還」、すなわち9条を堅持した「反戦復帰」が実現せず、「核抜き・本土なみ」と呼ばれる復帰となったことから、日本政府への不信感が高まったことなどが挙げられる。「独立論」は日本やアメリカ支配の否定、そして「反復帰論」は、国家主権そのものへの批判、という性格を持っていた。

また、9条を堅持することが、日本国の防衛としての日米安全保障条約の存在を不可欠としている、という議論も存在し、その延長線上に、皮肉にも沖縄に未だに大規模な米軍基地が存在している、という理解も可能である。この様に、沖縄の現状において9条と戦後の問題を考えることは、現在性を持つ大変重要な議論であり、この9条と戦後美術をテーマに掲げた展示が沖縄に巡回する際に、沖縄県内の作家による表現行為を組み込むことは必然だと私は考えた。

戦争体験を通じ、住民の多くが強く平和を希求する中、沖縄のアーティストは、9条という理想、そして沖縄の帰属やアイデンティティというテーマに関して、「戦後」と呼ばれる時代に、どんな表現を行ってきたのだろうか。今回の沖縄県立博物館・美術館への巡回展では、「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄」と題し、ニューヨーク・東京での巡回展での作品に加え、沖縄の作家による戦後の美術作品を加えた。本展示が、9条と戦後美術というテーマを沖縄県民、そして日本国民、さらに世界の人達と共有するとともに再考する機会となり、来るべき未来への準備の契機となれば、と願う。


*4月11日の展示オープニングには、キュレータートーク、アーティストトークを開催します。他の関連イベントに関しても、またWebサイトで追って告知致します。

*佐喜眞美術館では、サテライト展「アトミックサンシャインの中へ in 佐喜眞」(2009.4.15 - 5.6)を開催しています。

開館時間:午前9時~午後6時、金・土は午後8時まで(入館は、閉館30分前まで)

観覧料
当日券 前売り・団体券
一般(70歳以上含む) 800円 640円
高校生・大学生 500円 400円
小学生・中学生 300円 240円
※団体は20名様以上を対象とする。
※障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は、当日券の半額とする。

主催:文化の杜共同企業体/沖縄県立博物館・美術館


弦楽器としての声

2009-03-22 16:58:58 | Weblog
金曜日の夜、那覇入りした。

以前、沖縄入りの回数が増える度、複雑な思いが募って行く、という事を書いたのだが、正直な気持ちを書くと、今回、私はこう思ってしまった。

「沖縄、きついな」

私が個人的に、肉体的に、もしくは精神的に追い詰められていた訳ではない。沖縄、という観光化された、もしくは「癒しの島」として売り出すことを余儀なくされた沖縄と、私との距離感が無くなることで生まれた、正直な気持ちだったと思う。正直、沖縄に住んでいる人たち、特に現状に批判的な態度を持つインテリなどは、もっと辛いだろうな、そう思った。

それでも、私はこう言いたい。

「私は沖縄が好きです」

沖縄の持つ独特なリズムに触れると、私の中で何かが覚醒して行く気がする。

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那覇では、首里フジコさんのライブに行ったり、栄町にて地元のおじさん達が引くギターに合わせて「栄町の歌」を歌ったりして、楽しい時間を過ごすことができた。また、桜坂のライブハウスR Greenにて聞いたジャズバンド「Element of the Moment」の演奏クオリティが高く、本当に驚いた。沖縄の音楽のレベルの高さには、いつもながら驚かされる。

今回の滞在中、沖縄の方とこんな話になった。(私の中で整理がついていないので、かなり乱暴、かつとりとめの無い話になってしまうが、ご容赦頂きたい)

以前、私は民謡酒場で、宮古出身の民謡歌手である上原正吉さんの歌を聞いた時、声が弦楽器の様だな、と感じた。私は人の声を聞いてそう思ったことは無かったのだが、その話を、本土から沖縄へとやって来て民謡を歌っているウクレレ奏者にお話をした際、「人間の声帯は、弦楽器と同じ作りになっています」と説明され、ああ、そう言われてみれば、そうだな、なんて思った。

また、沖縄の方と話していて、沖縄には飴耳の方が多い、という話になった。私自身は粉耳なのだが、日本本土に暮らしていて飴耳・粉耳の話になることはあまりなかったので、興味深かった。

私は初めてアメリカに留学した時のこと。アメリカに耳かきが売っていなかった為、確か両親に頼んでもらって送ってもらった記憶がある。その時、アメリカ人の友人が私の部屋に置いてあった耳かきを見て、「これ何?」と聞かれ、耳かきだ、と言うと、大変驚かれた記憶がある。他のアメリカ人の友人に見せても、いわゆる日本の「耳かき」が「耳かき」だと認識できた人はいなかった。

インドのアーグラーに行った時、公園に耳かき屋さんが沢山いて、「Ear Cleaning, Ear Cleaning for Free」と言って売り込んでくるのだが、もちろん無料のはずがなく(インドは耳かき屋さんを巡るトラブルが多い)、それよりも私は、知らない人が私の耳をほじる、というのがどうしても怖くて、頼めなかった記憶がある。(私はもともと、耳を触られるのが苦手だ)

いったい、耳かきとは何時生まれたものなのだろう?と疑問に思って「耳かき」でググってみたら、耳かきの先端に付いているボンボンのことを梵天と呼ぶらしく、梵天の語の由来は、ヒンドゥー教のブラフマーから来ているそうだ。ヒンドゥー教の由来で漢訳されている、ということは、インドから中国に伝来したものが日本に伝来した、と考えるのが筋だろう。

私の友人のアングロサクソン系の白人は、小学校の授業で、先生から「あなたの肘よりも大きなものは、Ear Holeに入れてはいけません」と教わり、一生に一度も耳の掃除をしたことが無い、と言っていた。「Swab(綿棒)さえ使ったことが無いの?」と私が聞くと、「無い」と答えていた。いわゆる白人の多くは飴耳だとされているので、粉耳の人に比べて、メンテナンスの必要が無いのだろうか?それとも、小学校の先生がまずかったのだろうか?!

そんなことを書いていたら、私の知人で、蒙古痣の付いたユダヤ人のことを思い出した。ユダヤ人に蒙古痣が付いている、というのも微妙な話になって来るのだが、蒙古痣の付いた人はお酒が飲めない、という話を聞いたことがある。彼もやはり、お酒に弱かった。

上記を踏まえて、かなり乱暴な議論をすると、沖縄の人がいわゆる縄文系だったとして、フォッサマグナ以北の日本人は、やはり、沖縄の人と同じ傾向があるのだろうか?

フォッサマグナ以北のみから縄文土器が出る、と言う仮説をとりあえず信じるとすると、約5000年ほど前に富士山の大噴火があり、フォッサマグナにてより北東と南西の文化が分断された。そして、朝鮮半島から入ってきた、いわゆる弥生系の人たちが弥生土器や飛鳥文明を築いた時に、東北地方は違った文化を築いていたのではないか。

これはイメージに過ぎないが、新潟よりも北に住む人たちは、何故か酒豪のイメージがある。そして、これもイメージの話ばかりで申し訳ないが、私が東北人、と聞いた時に思い浮かべてしまう顔が、寺山修司の顔である。そう言われてみると、彼の顔も縄文系ではないか?

日本は明治維新の近代化の過程において、1920年代までは多民族国家であることを売りにしていたが、30年ころから単一民族国家という幻想を打ちたてて行く様になった、と読んだことがある。その前の文献に当たれば、当時がどういう認識だったのか、考えることができるかもしれない。

私は、自分自身を弥生系だと認識したことはあまり無かったが、冷静に考えてみると、どちらかと言うと弥生系かな、そんな風に思った。

鈴木邦男さんの新刊:「蟹工船」を読み説く+展示ポスタープラン

2009-03-19 09:39:41 | Weblog
鈴木邦男さんから本が送られて来た。いつも新刊本が出る度に、ご丁寧に送って下さる。本当に礼儀正しくて、そして優しい人だと思う。(どうして日本の左派の中には、こういった礼節を重んじる人が、なかなか出てこないのだろう?)

魂の革命家 小林多喜二 「蟹工船」を読み説く

というものなのだが、さすが鈴木邦男さんが書いただけあって、一味違った切り口となっており、勉強になった。

大正から昭和にかけて、田中智學が創設した「国柱会」という日蓮宗を元にした国家革新の運動体があったのだが、その会員には石原莞爾や宮沢賢治がいた。

(国柱会と言えば、八紘一宇という言葉を生み出したことでも有名だが、私がマレーシアのジャングルにて、戦争体験をした現地の老人から聞いた歌は、「ハッコウイチウノー」という歌であった。)

鈴木邦男さんは、宮沢賢治に対して、「君は作家になった方が良い」と諭してくれる国柱会の幹部がいたが、小林多喜二に対しては、そういったことを諭してくれる共産党の幹部はいなかった為、彼をオルグやルポに使い、死なせてしまった、勿体ないことをした、と述べているのが印象的であった。

さらに、田中智學の三男が、石原莞爾や宮沢賢治とも懇意であり、100万部を売上げた『天皇とプロレタリア』を書いた里見岸雄であり、この本の中で、里見は天皇が体制側、資本家側のものとされ、労働者を反天皇に追いやっている、という現状を憂いでいた、と言う。非常に興味深い。

左派の思想家も、保守思想をちゃんと押さえておいた方が良いと思うのだけれど、今の私くらいの世代の思想家は、戦前から戦後にかけての保守思想をどれくらい勉強しているのだろうか、と疑問に思った。鈴木さんの様な方が身近にいると、全く異なる側面から物事を捉えて語ってくれる為、とても参考になる。

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昨日は横浜にあるデザイナーの相澤幸彦さんの事務所に伺い、「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄」ポスターのファイナル版を仕上げてくる。相澤さんには、いつも夜遅くまで頑張ってデザインして頂き、本当に恐縮だ。おかげ様で、素晴らしいものができそうだ。相澤さん、お疲れ様!



「蟹工船」を読み解く
鈴木邦男
データ・ハウス

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木幡和枝さんと語る現代日本

2009-03-15 18:15:02 | Weblog
昨日は芸大の池田剛介くん、NY Art Beatの藤高晃右くん、編集者の神部政文くんと一緒に、私が敬愛してやまない、キュレーターの木幡和枝さんと代々木上原のレストランにて晩御飯をご一緒してくる。

心臓の手術をした木幡さん、元気かな、と本当に心配していたのだが、以前より元気になった、という本人のコメントを聞いて安心する。木幡さんには、いつも非常に多くのご意見をお聞かせ頂き、本当に参考になっているのだが、今回も展示や人生に関して、非常に多くのご意見をお聞かせ頂け、本当に光栄だった。自分のやっていることは本当に正しいのか、時々不安に思うときがあるが、それをズバっと斬ってくれる大先輩が近くにいると、勇気が湧いてくる。

最近お亡くなりになった加藤周一さんのお話や、昔、一緒に勉強会をしていたという小沢一郎氏について、多くのご意見を伺う。日本の知性とぶつかりながら道を切り開いて来た木幡さんの、現代日本に関する自論が聞けて、とても興味深かった。

一件目のレストランで飲みながらご飯を食べていたら、突然見かけたことのある方が隣に座った。キュレーターの天野太郎さんだ。つい先日、メールのやりとりをしたばかりだったので、あまりの偶然に驚く。その後、少しだけお話をして、2件目の飲み屋に移動すると、なんとそこでもばったり同席し、すごい偶然が続く。どうやら、私は天野さんと縁があるようだ(笑)その後、皆で芸術に関して白熱した議論を繰り広げることができ、興味深かった。

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最近、調べ物をしていて、アルカディ・ボロドスの演奏する結婚行進曲を見たのだが、超絶系の演奏に驚いた。音楽というのを、自分の中で自由に解釈して、ここまで変換してしまうことができるのだな、と考えると、同じ芸術の立場にいる人間として、とても参考になる。自分の表現のスタンダードを押し上げる努力を続けて行きたい。

沖縄良いとこ一度はおいで

2009-03-12 09:13:44 | Weblog
沖縄では、泡盛ばかり飲んでいた様な記憶がある。

パーティが好きで飲んでいた、というよりも、アーティスト達とは、泡盛を飲みながらでも話しをしないと埒が明かない、という事が多すぎた。ほぼ毎日、飲んでいて、泡盛漬けになってしまった様だ。おかげ様で、沖縄のディープな部分が大分垣間見える様になって来た気がする。

仕事に追われていて、沖縄に来たと言うのに、全く観光ができていない、と少しだけぼやくと、美術館の謝花さんが民謡酒場へと、そして空港へと向かう私を、アーティストの山城知佳子さんが、ヤハラヅカサのウタキへと案内してくれた。

民謡坂場では、沖縄民謡の第一人者である上原正吉さんと「てぃんさぐぬ花」を一緒に歌うご名誉を授かることができ、光栄だった。そして、ヤハラヅカサのウタキでは、神域そのものである百名のビーチを歩いて、リフレッシュできた。ウタキの一部を見た時、写真に撮りたい、という衝動に駆られたのだが、これを衝動にまかせて撮影してしまったのか岡本太郎だったのだろう、なんて思った。


展示準備に追われている中、こんな夢を見た --

松澤宥さんの15mの垂れ幕型の作品「人類よ消滅しよう」を、どうやってインストールしようかと悩んでいた。天井から設置するには、天井が高すぎて設置できず、方法が見つからなかった。

私が、「じゃあ、バルーンを付けて、空間に飛ばそう」と提案し、美術館の内部の吹き抜け空間に作品を飛ばすことに。とても上手く行って、綺麗に設置することができた。

「せっかく、天気も良いのだから、美術館の外にも出そう」

そう私は提案すると、垂れ幕を持ったまま、屋外へと飛び出した。沖縄県立美術館の前、おもろまちの空に、「人類よ消滅しよう」の垂れ幕が、綺麗に浮かんだ。

しかし、このバルーンの浮力が思った以上に強く、垂れ幕そのものが飛んで行ってしまいそうだ。私は仕方なく、必死で作品を守ろうと、垂れ幕にしがみついた。頑張ったのだが、努力むなしく、垂れ幕を付けたバルーンは、私をひきずったまま、飛んでいってしまった。

私を引きずったまま、

「人類よ消滅しよう」

の垂れ幕が、沖縄の青い空を飛ぶイメージが、多くの人に目撃されたらしい。

・・・

今の私を象徴したかの様な、フロイト兄さんに相談してみたくなる様な、鮮明な夢だった。

--

おとといの深夜、仕事の関係で東京へと移動する。昨日の朝、ひとつ仕事をこなしていたら、無性にカレーが食べたくなり、そのまま私の好きな新宿御苑近くのカレー屋「草枕」へと向かう。普段使わない東新宿の駅の階段を歩いていると、向こうから知っている人が歩いて来る。オーストリア出身のキュレーター、Walter Seidlだ。そういえば、今週東京に来る、とは聞いていたが、まさかこんな形で会うとは。東京に着いてから一人も知り合いにすら会っていないのに、彼とすれ違うとは、奇跡的な確率だったと思う。

「Walter!」

と声をかけると、向こうもびっくりしていた。それはそうだろう。そのまま、夜に御飯でも食べに行こう、ということになり、赤坂サカスにてご飯をご一緒する。不思議な、楽しい夜だった。

沖縄入りしました

2009-03-05 09:12:37 | Weblog
おとといの夜、関西空港から那覇空港へとフライトする。沖縄入りの回数が増える度、複雑な思いが募って行く。

以前、沖縄出身の学者さんに、
「私は沖縄が好きです」
と言った際、それだけで随分怒られた記憶がある。私は、「沖縄が好きだ、という人に対して、それを批判するのはおかしい」、と随分反論したのだが、沖縄入りの数が増えるにつれて、彼が怒ったのも分かってきた気がする。

深夜のタクシーで、おもろまちにある滞在先に向かうと、カーステレオの中から遠藤賢司の「カレーライス」が流れてきた。沖縄の湿った、生暖かい空気と、エンケンのかすれた声が交差し、私の周りからなかなか離れてくれなかった。

昨日は美術館にてミーティングを行った後、写真家の石川真生さんのご自宅に伺い、展示について丁寧にお話する。展示趣旨をご理解頂いた上で、私の希望する写真をスタジオにて一緒に選ぶ。真生さんが非常に協力的だったので、とても嬉しかった。

その後、作品制作のリサーチをする為、アメリカの軍払下げ品のお店を回って、どんなものがあるのか、見て回る。結論から言うと、何でもあって、びっくりした。マシンガンが(not for sale)のタグと一緒に置いてあって、これ、大丈夫なのかな、なんて思ったり、パラシュートが売っていて、いったい誰が買うのだろう、なんて思った。Dog Tagと言われる、米兵が死んだとしても、身元証明に使われているシルバーのタグを彫るサービスがあったりして、所変わればいろんな商売があるものだなぁ、なんて妙に関心する。

お店の前で、上半身裸のティーンエイジャーの米兵たちが、重低音のステレオの音を聞きながら、ビールを飲んで騒いでいた。これじゃ、地元との軋轢は絶対に無くならないな、そんな風に思った。

大阪でのエトセトラ

2009-03-02 11:43:50 | Weblog
昨日の朝、静岡から大阪へと移動し、そのまま芦屋市美術博物館にて学芸員さんにご挨拶差し上げた後、大阪国立国際美術館に移動、学芸員さんに挨拶を差し上げた後、講演を終了したばかりの、アトミックサンシャイン展参加アーティストである森村泰昌さんにご挨拶差し上げる。

森村泰昌さんとは、沖縄県立美術館での三島由紀夫をテーマとしたビデオ作品を、どういう形で上映したら良いのか、という形で、技術者の岸本さんやコーディネーターの大舘さんを交えてお話する。お忙しい中、お時間を取って頂き、恐縮だったのだが、森村さんの優しい人柄に触れると、ホっとする。

その後、タクシーで心斎橋へと移動し、森村さんにお別れを告げると、大阪大学の久保田テツさんと合流し、アップルストアで開催されていた「知デリ」の打ち上げ会場に飛び入りし、皆さんと食事をしながら、大阪の美術活動の現状に関して意見交換をする。

打ち上げ中、知デリにてトークをした大阪大学蛋白質研究所教授である後藤祐児さんが、あさがおの左巻き右巻きの話をしたので、私もそれに加わってお話する。

何故あさがおが左巻き、または右巻きである、という認識の違いが生まれたのか、それはあさがおを上から見下ろしたのか、それともあさがおの視点になって上を見上げたのか、という視点の問題があるが、これは即物的な問題ではなく、主体=Subjectの問題、すなわちキリスト教の臣下という考え方が、あさがおを上から見おろして左巻き、そして主体概念の成立しなかった日本人が、あさがおの視点となって右巻きと述べたのではないか、という私見を述べたのだが、後藤教授にはあっさりと流されてしまったのが印象的だった(笑)

しかし、大阪で学生や美術関係者と話している度に、東京のひとよりも時間をかけてお互いを理解しよう、という姿勢が見えて、私は好きだ。東京は、人が壊れてしまっている。それに比べると、人がもっと人懐こくて、話していてずいぶんと楽しかった。

その後、テツさんの家へとお邪魔し、そのまま居候させて頂く。引っ越しの際中だと言うのに、まったく迷惑な顔をせずに歓迎してくれるテツさんには、頭が上がらない。ありがとう、テツさん!