Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

1972年、返還後の沖縄におけるアメリカ人側からの視点

2009-01-29 21:07:27 | Weblog
火曜日の夜には、沖縄返還後の72年に、在沖アメリカ軍における黒人兵の地位向上の運動などを行っていたビルさんの家に伺って来る。せっかくの沖縄だから、ということで、たまたまNYに滞在中であった前嵩西一馬さん、沖縄の大学で教えていた島田雅彦さん、そして私のアシスタントを務めて下さっている照葉さんと伺って来る。

詳細についてはここでは触れないが、72年の返還後の沖縄におけるアメリカ人側からの視点、そして写真アーカイブというのがとても興味深かった。私も、一馬さんも、そして島田さんも食い入る様に見入ってしまった。こういった重要な資料は、時間をかけてでも、しっかりと紹介したいと思う。

ビルさんはバンブーという名の超巨大犬がいて、とても可愛かった。その大きさ、俺と同じサイズか、それともそれ以上!近所の公園のドッグランにて、「ドッグランの市長さん」と呼ばれているそうだ。

明日から沖縄だ。まだヨーロッパ帰りの時差ボケが抜けていないのが気になるが、とりあえず全力で頑張ろう!

カサーレス「モレルの発明」と、佐久間艇長の遺書

2009-01-28 06:03:50 | Weblog
先日のブログに書いたアドルフォ・ビオイ=カサーレスの小説「モレルの発明」について再度ググった所、日本語版が去年の10月に再販されていたことを発見!素晴らしい。古本で1万円以上していたので手が出せなかったのだが、文庫なら即購入OKだ。

英語版Wikipediaにて「モレルの発明」の解説を読んだ所、ポリネシアに住む唯一の人間が、佐久間勉の遺書を思い出そうとする、というシーンあると言う。それを読んで、驚いた。何故、第二次大戦以前のアルゼンチン人が、そんなシーンを書くに至ったのだろう。

オバマブームで一躍有名になった小浜市出身の佐久間潜水艦艇長の遺書、それは夏目漱石が名文と激賞したものでもある。以下に1918年の朝日新聞の天声人語を引用しよう。

■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/08/18:より引用》

 沈没したロシア原潜の内部は、いま、どんな様子だろうか。想像しただけで、息が苦しくなってくる。助かってほしいと心から願う。

 夏目漱石が「名文」と絶賛した文章がある。佐久間勉が書いた。彼は1910年(明治43年)4月15日に亡くなった。当時、海軍大尉、30歳。沈没した潜水艇に閉じこめられ、13人の部下とともに殉職したのだった。名文とは、その遺書である。

 佐久間は、それより4年前に完成した6号潜水艇の艇長だった。国産初の潜水艇で、排水量57トン、長さ23メートル、幅2メートル。製造技術も性能も貧しく、大きさもロシア原潜にくらべれば豆粒みたいなものだ。動力はガソリン機関と2次電池。事故は訓練潜航中に起こった。

 山口県岩国沖で消息を絶ったため、徹夜で捜索が進められたが、翌日、水深16メートルの海底で沈没しているのが確認された。全員が部署についたままの姿で死亡しており、佐久間艇長の軍服のポケットから、手帳に鉛筆で途切れ途切れに書かれた遺書が見つかった。

 沈没の原因、その後の経過、艇内の状況が冷静に報告され、〈サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ〉と記す。電灯が消え、ガスが充満する。遺書は〈12時30分呼吸非常ニ苦シイ……12時40分ナリ〉で終わる。――うまい文章というのではない、人間としての誠実の極致というべき文章なのだ。漱石は、そんな意味のことを書いている(『艇長の遺書と中佐の詩』)。

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当時の潜水艇は事故が多かったそうで、引き上げた潜水艦の中から、苦しさのあまりハッチ周辺に集まった兵隊の争いの跡の残る無残な遺体が揚がる、ということがよくあったそうである。しかし、佐久間艇長の潜水艦では、隊員たちが死に至るまで一人も持ち場を離れず、職務を全うし、殉死した、という。

その話を聞くと、私はギャビン・ブライヤーズが作曲のテーマとした、タイタニック号の沈没の話を思い出してしまう。音楽家たちが、沈没する船の中で、冷静さを失うことなく最後まで音楽を奏でる、音楽家としての全身全霊をかけた演奏、そんな恍惚なシーンが目に浮かぶ。(細野晴臣の祖父はタイタニック号に乗船していた唯一の日本人であったが、細野晴臣にこの音楽家の霊が乗り移っているかの様な印象を与える音楽性がある気がする)

佐久間艇長の事件を聞きつけた各国の駐日在武官は、佐久間大尉の弔問に訪れ、みなその遺書の複写を取って、訳を付けて本国へ送ったと言う。英国では海軍士官学校のテキストに紹介されているという。そしてアメリカは、国会議事堂の大広間にある大きな10個ほどのガラス戸棚があり、第一戸棚にはワシントンの独立宣言が、そして第四戸棚に佐久間艇長遺書が原文のままコピーされ、英訳を添えて陳列されたと言う。真珠湾攻撃の際、一部の市民が取り外すよう迫ったのだが、当時の管理者は、歴史的事実は一時の感情に左右されるものではない、としてそのまま展示を続けたそうだ。

水村美苗の受け売りではないが、漱石を評価する外国人は少ない。私が知っている限りでは、グールドくらいなものだ。しかし、漱石が絶賛した、佐久間艦艇長の遺書が、どうしてそこまでの国際的なパワーを持ちえたのか、そしてカサーレスがその普遍性をヒントとしているのなら、、、と考えると、興味は尽きない。

佐久間潜水艦艇長の遺書は短文なので、簡単に読めます。確かに、誠実さ溢れる素晴らしい文章です。ぜひ、ご覧になってみて下さい。


モレルの発明 (フィクションの楽しみ)
アドルフォ ビオイ=カサーレス
水声社

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レイキャビク最終日

2009-01-27 01:29:10 | Weblog
土曜日の朝、山小屋から帰ってくる。(写真は朝ご飯を食べる、友人の息子のイゴール君)道中、車の中で日本の歌とアイスランドの歌を歌おう、ということになり、私は「上を向いて歩こう」を歌ったのだが、ビルタもビョークもこの歌を知っており、鼻歌でハミングする。ビョークはシャイで歌ってくれなかったのだが、ビルタはGling Gloや童謡を美しい歌声で歌ってくれた。

レイキャビクに到着すると、ギャラリーのオープニングを梯子して、そのままゲストハウスにて仕事を済ませる。この日は土曜日だったので、バーへと繰り出す。レイキャビクの通称”Bar Crowling"はまさにWorld Famous Activityと言えよう。

レイキャビクの町は小さい。バーで飲んでいると、知った顔の人が声をかけてきて、そのまま皆で派手な飲み会になる。先日アーティストインレシデンスにて出会ったアーティストのSiggaや、その友人のアーティストたちが、ぞくぞくと現れる。人が増えてきたのは、深夜1時くらいからだっただろうか。

レイキャビクでは、お酒を飲むことが目的化している。ケルト系の人が多い為か、楽しく、賑やかに飲む。おそらく、日照時間など自然環境の面から考えても、週に1回は皆で集まって飲む、ということをしないと、精神的に参ってしまう、そんな理由もあるのだろう。

一軒目のバー・レストランがクローズすると、皆その次のバーへと大移動する。路上、カジノの前では、中年の女性が酔っ払ってへたり込んでいる。新歓コンパの日の高田馬場さながらの光景が氷の国で繰り広げられているのは、面白い。

アイスランドの人たちのリテラシーの高さについては既に述べたが、バーでも、いろんな話が咲く。ヒロシマをテーマに作品を作りたい、という多摩美に留学していた南米系フランス人アーティストと話が盛り上がり、最近のチンポム事件について文章の寄稿をしたことを述べ、比較対照としてデュラスとレネの話をした所、意気投合する。スペイン語ができる方だったので、カサーレスの「モレルの発明」がヌーヴォー・ロマンの基礎を築いたということに興味がある、と述べると、カサーレスの小説のレベルはおそらくフランスのヌーヴォー・ロマンを上回っているから、その点を抑えた方が良い、という意見をもらう。

そんな話をしていると、他のアイスランド人アーティストが、イーストウッドの「硫黄島からの手紙」のロケは、アイスランドで行われた、という話になり、あの映画における「玉砕」とは何か、ということについて、聞かれる。さすがリテラシーの高いアーティストたちだけあって、玉砕の持つエクスタシー的・美的要素に関心があるが、それに類するものが自分達の文化に無い、という質問の仕方だったのに、感心した。

二件目のバーでは、十代の後半にキリスト教から神道にコンバートした、という日本のICUに留学したという自称「三鷹ボーイ」に出会う。彼は日本の自然に見せられ、屋久島を回っている際に、一つの境地に辿り付いたそうなのだが、それに確信がもてない、という質問を私にしてきた。その彼とは、ひらがな文字の発生から日本の近代化まで、朝6時にバーが閉まるまで、いろんな話をした。

今回のアイスランド旅行では、アイスランドの作家と反近代という件について話をしたが、あまり上手く会話が成立しなかった、というのが不思議な収穫であった。日本とアイスランドの共通点はあきらかに多いが、日本のコンテクストをアイスランドのコンテクストと交差、またはパラレルするには、かなりの準備が必要だ、ということを感じた。

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ニューヨークに帰ってくると、早速アグレッシブな警官や悪態をつくタクシードライバーなどに出会い、ああ、NYに帰ってきたな、と実感する。木曜日からは日本だ。仕事は山積みだが、体調だけには注意して行こう。

アイスランドでの激動の日々

2009-01-25 05:53:48 | Weblog
水曜日は朝からビルタとミーティングを行い、夕方からは温泉「ブルーラグーン」に行って一休み。乳白色のお湯につかって、疲れを取った。

夜はまたビルタと合流し、反政府デモに参加する。この日のデモは、すさまじかった。

政府のある石造りの建物は、ペイントボールか何かでピンクや緑色に染まっており、建物のファサードも、そして警官隊の盾もずいぶんとカラフルな色に染まっていた。また、ビール瓶や小型の爆発物が建物に投げつけられており、デモの前列に近づくと、かなりの危険を感じた。

前日とは異なり、手製の爆発物だろうか、政府関係のビル周辺で凄まじい爆音が続いている。おそらく、アナーキストの集団が自らのパワーを顕示する為に、威嚇として使っていたのだろう。これは危ない。。。

夜8時半から、保守派のミーティングが行われているという国立劇場目指して、デモ隊が大移動を始めた。その数、おそらく2000-3000人程度だろうか。人口17万人のレイキャビクでは、大変な人数である。そのまま建物を取り囲み、夜遅くまで抗議活動は続いた。このデモのリーダー格になっていたのが、造反した保守派政党の若手女性議員で、肩車してもらっていたその女性からカリスマ性が垣間見れて、とても興味深かった。

また抗議活動に参加していた女性アナーキストたちは、男性アナーキストと同じく全身真っ黒の服に目だし帽だけで抗議運動を行っていたのだが、その姿がイルマ・ヴェップの様で、炎に照らされたその姿は、どこか幻想的だった。抗議活動には、何故かハプスブルグ家の令嬢が来ており、なんだか不思議な気分だった。

抗議活動は夜中まで続き、夜の早いレイキャビクでは私はろくに晩御飯さえ食べることができなかった。こうして、私の29歳の誕生日は過ぎていった。

しかし、この抗議活動の効果はてきめんで、次の日には首相が辞任を表明した。確かに、あそこまで抗議活動が拡大し、都市機能が完全に麻痺してしまった情況で首相を続けるのは不可能だろう。アイスランドの歴史の新しい時代が始まった、そんな印象を受けた。

木曜日は早朝から、地熱発電所、瀧、さらに大陸プレートと間欠泉を見るツアーへと参加して来る。アイスランドは大陸プレートが重なっている箇所を見ることができる世界でも稀な場所であるが、実際に大陸が重なっている場所を見ると、やはり壮大であった。

本当はレンタカーを借りて一人で行こうかと思っていたのだが、今回ばかりはツアーに参加して良かった。というのは、自然環境が苛酷すぎて、とても一人では行ける情況にない、ということを行ってみて理解できた。下手をしたら遭難しかねない様な強風の中、アイスバーンの上を歩いて瀧を見たり、プレートを見たりと、と、アドベンチャーだった。プレートテクトニクスに興味を持っている私にとって、この旅は今後の活動に関して参考となる旅となった。

その日の夜は、リスタファーン美術館へと伺い、展示のオープニングに参加し、関係者へと挨拶して来る。その後、「ボルケーノ・ラヴァーズ」展参加アーティストであるハラルデュール・ヨンソンのスタジオに伺いミーティングを行い、その後は一緒に鯨料理を食べて来る。鯨を食べながら、鯨と自然を巡る話に話が弾む。その後、一緒にデモ活動へと参加して来たのだが、デモが大分平和的なものとなっており、警察官とデモ隊が友好的に話しているのが印象的だった。デモ隊の多くも非暴力を謳っており、オレンジ色の札を付けてアピールしていた。

政府系の建物の隣にある教会では、神父さんがデモ隊と警察隊の双方に神のご加護を祈っており、寒さで凍えた活動家たちをホットチョコレートやコーヒーを配って暖めていた。つまり、教会側がデモ隊の支持に回ったのである。私にも若い神父さんが、「God Bless you」と言って十字を切ってくれたのだが、なんとも言えない不思議な気分であった。

金曜日の朝は、レイキャビクの美術関係施設やレコード屋を巡り、その後アーティスト・イン・レシデンスに伺いスタジオ・ビジットをして来る。夕方からは、参加アーティストのヒルデュルとアーティスト仲間たちと合流し、ヒルデュルの持つ山小屋へと出発した。私のかねてからのリクエストで、ヒルデュルがコーディネートしてくれたのだった。

レイキャビクから2時間行った所にある農場にある家は、本当に映画の様な美しい場所で、見渡す限りの氷りついた山の中に、ひっそりと建っていた。そこで私達は、皆で一緒にピザを作り、夜遅くまでお酒を飲みながら芸術について語った。

アイスランドのアーティスト達は異常なほどリテラシーが高く、国民の半分が留学組みで4ヶ国語くらいできて当たり前、しかもどんな話もできてしまうので、正直驚く。アラン・バデュウやジャン・リュック・ナンシーの思想についてあれほど軽やかに議論を展開できる場所は、それほど無いだろう。私も久しぶりに、知的好奇心に溢れる話をすることができ、大満足だった。

次の日、レイキャビクへと戻って来て、ギャラリーのオープニングへと伺って来る。バタバタだけれど、最後まで頑張ろう。

アイスランドは燃えている

2009-01-21 08:49:59 | Weblog
アイスランド行きの飛行機の中では、隣に座った政府系銀行員のインド人とナヒンサーの話で盛り上がってしまい、あまり眠れず。そしてようやく、2年ぶりのアイスランドへと到着した(二年前の記事はここをご覧下さい)。朝九時になってもまだ暗い。なんだか懐かしい。

レイキャビクの空港からバスに乗り、滞在先のCIA(Center for Icelandic Art)へと向かう。共同キュレーターのビルタが、アーティスト向けのレシデンスに滞在をアレンジしてくれたのだ。CIAにてビルタと合流して、朝食をご一緒する。

その後私は仮眠を取ってからLiving Art Museumにてビルタと合流後、ビルタ自身の運営している101プロジェクトやi8ギャラリーを見て回る。相変わらず、どこに行っても作品のクオリティが高く、関心する。写真作品などは、皆ドュッセルドルフのラボで焼いてマウントしているらしく、完成度が非常に高いのに関心した。NYのラボよりも良いものだった。

ビルタは、今日の夜、友人と一緒にオバマの就任式を見る予定が入っているのだけれど、一緒に来るか、と聞かれたので、もちろん、と答える。エリックさんというアメリカ人アーティストの自宅で皆で見たのだが、実はエリックさん、私とブルックリンのバーで飲んだことのある方だった。凄い偶然。世界は狭い。

アイスランド人とアメリカ人のアーティスト15人ほどで、オバマの演説を堪能する。とにかく、無事に済んで良かった。

その後、アイスランド人のアーティストがyoutubeにてレイキャビクにて起こった今日の反政府活動のビデオを見る。今日、昼寝をしようと思った際、うるさいなー、何かパーティでもやっているのか、と思っていたのだが、これは反政府運動の活動体だったのだ。ビデオを見る限りでは、催涙ガスが放たれたり、殴打された逮捕者が出たりと、かなり大変な感じだった。

ちょっと驚いたのは、その中に映っていた、プロテストグループの間をかいくぐって建物の中に入っていった政府系の役人らしき女性の人が、今朝道に迷って困っている私を助けてくれた方だったことだ。つい数時間前に道を教えてくれた優しそうなこの方が、プロテストされている側、つまり政府側の職員だった、というのはなんだか不思議な気分だった。

ビデオを見終えたら、そのまま皆でプロテストのグループに加わろう、という事になり、政府ビルの前にて開かれている運動へと参加して来る。ビデオで見た通り、思った以上に凄いことになっていた。平和を祈るプロテストではなく、政府に対する怒りが爆発した運動、そういった感じであった。

ビルタによると、アイスランドの銀行がヘッジファンド業務に手を出していて、それが国家規模で行われている、ということを知っている人は、アイスランド市民の中にそれほど多くなかったと言う。だから、突然の国家破綻になった時に、国民は混乱し、13日続いた保守政権に対する怒りが爆発したそうだ。建物には、木材やらペイントやらが投げ込まれ、騒然とした雰囲気だった。

そう考えると、どこでも皆政治の話ばかりしていた気がする。アイスランドは、完全に政治の時代に突入している。国家が財政破綻した、という本当の危機を経験して、アイスランド市民が覚醒したのだ。あれだけ平和だった国が、これだけ歴史的な転換機に入っている、というのが驚きだった。

しかし、この市民のやっているプロテストが全くオーガナイズされていない印象を受けた。海外のNPOが入って先導してあげないと、大変なことになりそうだ。一番元気の良い、ティーンエイジャーのアナーキストが、下手をやらかさないか、気が気でなかった。

アイスランド、どうやらとても重要な転換機に入っている様だ。

逆境の中のアイスランド行き

2009-01-20 05:29:08 | Weblog
先日、キャプテンになったばかりのフットサルチームで、試合中快調に飛ばしていたら、後半終了直前に悪質なファウルを受けて、右足首を痛めてしまった。ファウルを受けた時「ブチッ」というとても嫌な音がして激痛が走ったので、正直「ああ、これはもう駄目かな」と思ってしまった。そして、今までの捻挫よりも、ずっと痛かった。

チームメートの何人かが氷を買ってくれたり、テーピングをしてくれたりして、励ましてくれた。この時まで私は知らなかったのだが、私のチームにはお医者さんが二人所属しており(小児科医の男性と、薬学の女性)、傷めた箇所を的確に治療してくれたのが良かった。

「傷めた足はできるだけ高く上げて、患部は定期的に冷やして、そしてとにかく休息を取ること。睡眠前にはAdvilを飲んで。それでも明日立てなかったら、迷わず病院に行ってね」

「病院に行きたくても、俺、保険に入ってないんだよね」

そう言うと、「Bellevueという病院に行ってみて。あそこはwaiver formがあって、しっかりとした理由があれば支払いをしなくても済むの。あなたの場合は、他の人の過失で怪我をした訳だし、大丈夫だと思う」と言われた。

「もし駄目なら、私がなんとかしましょう」

という女性がいた。実は私のチームの副キャプテンの女性は、弁護士だったのだ。そして、私のチームには、もう一人弁護士がいた。さすがニューヨーク、訴訟の数が多いだけ、弁護士の和もやたら多い。

「私が訴えてやるわ!」

そういって力瘤を作った副キャプテンを見ていたら、なんだか元気が出て来た。よし!気合だ!

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次の日、おそるおそる足首を曲げてみると、かなりの痛みを伴ったが、足首を曲げることができた。よし、これで骨は大丈夫。あとは直すのみ。その日は一日家で仕事をして、次の日に備えた。

今日、ようやくソロリソロリと、少しだけ歩ける様になった。そして、今日の夜から、私はアイスランドへと発つ。

私のアトミックサンシャイン展の次の展示は、アイスランドと日本のミニマルアート、そしてアニミズムの影響をテーマとした展示「ボルケーノ・ラヴァーズ - アイスランドと日本から」である。日本に住んでいる作家や、日本での会場との打ち合わせをする前に、金融危機のダメージを受けているアイスランド側とのやりとりを明確にしたい、という思いがある。

会場側との調整、共同キュレーターのビルタと展示構成とカタログ制作に関する打ち合わせ、アーティストとの顔合わせ、さらにファンドレイジング用のエディション作品の制作の可能性を探るのがメインだ。アイスランド側の作家と何らかの形で、記念となる様なエディション作品を作れたら、と思う。

私の足首が、この旅行に耐えられるかどうかは未知数だが、やってみるしかない。私は自他共に認める、逆境に強い男である。こういう所で真価を発揮するのが性分だ。あとは気合で乗り気ろう!

アトミックサンシャイン展 沖縄県立美術館へと巡回が内定しました

2009-01-17 06:54:05 | Weblog
今日はブログをご覧の皆様に、とても良いニュースがあります。

ニューヨーク、東京と巡回したアトミックサンシャイン展が、今年の4月より沖縄県立美術館へと巡回することが内定しました。沖縄県内の作家も参加し、今までとはまた違った展開があるかと思います。

どうしてもキュレートリアルの仕事を優先しなくてはならない為、開始したばかりの連載小説の方は少し不定期の更新になるかと思いますが、ご理解下さい。

>takashihoさま

沖縄県立美術館への展示巡回が内定しました。私も沖縄県内にてリサーチなどを行う関係で、takashihoさまの手助けが必要となることがあるかと思います。もしよろしかったら、takashihoさまのメールアドレスと電話番号を、
article9@gmail.com
の方にご連絡頂けますでしょうか?

他にも沖縄県内でこの展示をお手伝いしたい、という方がございましたら、
article9@gmail.com
の方までご連絡をお願いします。

また詳細が決定しましたら、ブログの方にその様子をアップして行きたいと考えています。ブログをご覧の皆様、今後とも、どうぞよろしくお願いします。

1月17日発売のART iT22号(2009年冬/春号) に掲載されています

2009-01-16 03:11:04 | Weblog
ART iT22号(2009年冬/春号)
1月17日発売
[特集] よいキュレーション、悪いキュレーション
に、私に関する記事が掲載されています。さて、私のキュレーションは、よいキュレーション、悪いキュレーション、どちらに分類されているのでしょうか・・・ちょっと笑えるので、ぜひご覧になって下さい。



ART iT (アートイット) 2009年 01月号 [雑誌]

紀伊國屋書店

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キャプテン・・・

2009-01-12 14:32:46 | Weblog
私の所属しているサッカーフットサルリーグのscrimmage(練習試合)があった。

私は冬になると、いつもマンハッタンのZogsportというカジュアルなフットサルゲームに加わってやっているのだが、今年もそのシーズンが始まったのである。

Zogsportは、基本的に登録して参加費用さえ払えば誰でも入れるもので、私の所属しているのは1-4部のうちの2部リーグである。私のチームは、日本人1人(私)、ブルガリア人1人、北欧人1人、インド人1人、ヒスパニック2人、チャイニーズ・アメリカン1人、残り3人がアメリカ白人、そんな感じの合計10人のチームである。

今日の練習でも思ったのだけれど、アメリカ人の若者をまとめるのは大変だ。体育館でのゲームなのだが、パス回し中にバスケットボールの練習を始めるやつがいたり、ちゃんとパス出しをする様に指示したり、そういうまとめ役を買って出るヤツが本当に少ない。みんな好き勝手やっている。責任感が無いし、他者の気持ちを理解しようという意識が希薄だ。

そんな中、私もいつの間にか、このZogsportの中で年長者になっていることに気が付いた。23歳から入っているこのリーグも、私も再来週には29歳、すっかりベテランだ。

仕方ない、俺が若いアメリカ人をまとめよう、と思い、ある程度仕切ってゲームをする様にした。5対5のカジュアルなフットサルで、女性も二人入っているのだが、女性二人は1人はオフェンス、1人はディフェンス、男3人はオフェンス、ミッドフィルダー、ディフェンスという形でバランスを取る。あとは前線にボールが入ったときには、ディフェンダーも一人を残してフォローに行き、守備に入るときも、前線に一人残して、フォワードの一人はディフェンスに入る。。。プレーヤーの名前を呼んで、個別に指示を出す様にした。

そんな意識付けをしていたら、何となくチームの集団意識が出てきた。不思議なものだ。あとはもう少し時間をかけて、チームのコミュニケーションの質を上げて、点がとれるチームにするだけだ。

試合後、キャプテンを決める小会議を開いたのだが、チームの中で一番頑張ってゲームを戦った女性プレーヤーが私をキャプテンに押してくれて、全員一致で私がキャプテンとなり、そして私を推してくれた女性が副キャプテンとなった。仕事の関係で途中から来れなくなっても良いか、と聞いたけれど、構わない、やってくれ、と頼まれてしまった。遊びのミニゲームだけれど、何だか照れくさかった。そう考えると、スポーツチームというカテゴリーの中では、初めてのキャプテンである。これからのチームの成長が、楽しみだ。

アメリカに文化庁を!

2009-01-11 00:44:39 | Weblog
アメリカでは、オバマ大統領に文化庁創設のPetitinを推進する運動が進行しております。新たなニューディール政策を掲げるオバマ政権下で、文化面でも新しい動きが生まれることは必死です。これが実現すれば、画期的な文化行政改革となることでしょう。

Petitionへのサインはアメリカ国籍者でなくてもできますので、賛同される方、署名されてみてはいかがでしょう?

--
Dear Friends,

You may already have received this, but it is so important, I'm passing it
along.

Quincy Jones has started a petition to ask President-Elect Obama to
appoint a Secretary of the Arts. While many other countries have had
Ministers of Art or Culture for centuries, The United States has never
created such a position. We in the arts need this and the country needs
the arts--now more than ever. Please take a moment to sign this important
petition and then pass it on to your friends and colleagues.

www.petitiononline.com/esnyc/petition.html
--
Elaine W. Ng
ArtAsiaPacific
elaine@aapmag.com
www.aapmag.com