先日のブログに書いたアドルフォ・ビオイ=カサーレスの小説「モレルの発明」について再度ググった所、日本語版が去年の10月に再販されていたことを発見!素晴らしい。古本で1万円以上していたので手が出せなかったのだが、文庫なら即購入OKだ。
英語版Wikipediaにて「モレルの発明」の解説を読んだ所、ポリネシアに住む唯一の人間が、佐久間勉の遺書を思い出そうとする、というシーンあると言う。それを読んで、驚いた。何故、第二次大戦以前のアルゼンチン人が、そんなシーンを書くに至ったのだろう。
オバマブームで一躍有名になった小浜市出身の佐久間潜水艦艇長の遺書、それは夏目漱石が名文と激賞したものでもある。以下に1918年の朝日新聞の天声人語を引用しよう。
■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/08/18:より引用》
沈没したロシア原潜の内部は、いま、どんな様子だろうか。想像しただけで、息が苦しくなってくる。助かってほしいと心から願う。
夏目漱石が「名文」と絶賛した文章がある。佐久間勉が書いた。彼は1910年(明治43年)4月15日に亡くなった。当時、海軍大尉、30歳。沈没した潜水艇に閉じこめられ、13人の部下とともに殉職したのだった。名文とは、その遺書である。
佐久間は、それより4年前に完成した6号潜水艇の艇長だった。国産初の潜水艇で、排水量57トン、長さ23メートル、幅2メートル。製造技術も性能も貧しく、大きさもロシア原潜にくらべれば豆粒みたいなものだ。動力はガソリン機関と2次電池。事故は訓練潜航中に起こった。
山口県岩国沖で消息を絶ったため、徹夜で捜索が進められたが、翌日、水深16メートルの海底で沈没しているのが確認された。全員が部署についたままの姿で死亡しており、佐久間艇長の軍服のポケットから、手帳に鉛筆で途切れ途切れに書かれた遺書が見つかった。
沈没の原因、その後の経過、艇内の状況が冷静に報告され、〈サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ〉と記す。電灯が消え、ガスが充満する。遺書は〈12時30分呼吸非常ニ苦シイ……12時40分ナリ〉で終わる。――うまい文章というのではない、人間としての誠実の極致というべき文章なのだ。漱石は、そんな意味のことを書いている(『艇長の遺書と中佐の詩』)。
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当時の潜水艇は事故が多かったそうで、引き上げた潜水艦の中から、苦しさのあまりハッチ周辺に集まった兵隊の争いの跡の残る無残な遺体が揚がる、ということがよくあったそうである。しかし、佐久間艇長の潜水艦では、隊員たちが死に至るまで一人も持ち場を離れず、職務を全うし、殉死した、という。
その話を聞くと、私はギャビン・ブライヤーズが作曲のテーマとした、タイタニック号の沈没の話を思い出してしまう。音楽家たちが、沈没する船の中で、冷静さを失うことなく最後まで音楽を奏でる、音楽家としての全身全霊をかけた演奏、そんな恍惚なシーンが目に浮かぶ。(細野晴臣の祖父はタイタニック号に乗船していた唯一の日本人であったが、細野晴臣にこの音楽家の霊が乗り移っているかの様な印象を与える音楽性がある気がする)
佐久間艇長の事件を聞きつけた各国の駐日在武官は、佐久間大尉の弔問に訪れ、みなその遺書の複写を取って、訳を付けて本国へ送ったと言う。英国では海軍士官学校のテキストに紹介されているという。そしてアメリカは、国会議事堂の大広間にある大きな10個ほどのガラス戸棚があり、第一戸棚にはワシントンの独立宣言が、そして第四戸棚に佐久間艇長遺書が原文のままコピーされ、英訳を添えて陳列されたと言う。真珠湾攻撃の際、一部の市民が取り外すよう迫ったのだが、当時の管理者は、歴史的事実は一時の感情に左右されるものではない、としてそのまま展示を続けたそうだ。
水村美苗の受け売りではないが、漱石を評価する外国人は少ない。私が知っている限りでは、グールドくらいなものだ。しかし、漱石が絶賛した、佐久間艦艇長の遺書が、どうしてそこまでの国際的なパワーを持ちえたのか、そしてカサーレスがその普遍性をヒントとしているのなら、、、と考えると、興味は尽きない。
佐久間潜水艦艇長の遺書は短文なので、簡単に読めます。確かに、誠実さ溢れる素晴らしい文章です。ぜひ、ご覧になってみて下さい。