みんなをワクワクさせることって、素晴らしい。そんな仕事がしたいし、それが出来れば、全てが好転して行くと思う。
澤の言葉は、全てがものすごいものに感じられる。
『全部私がカバーするから』。20歳を”隣”で支えた澤の言葉。新境地開拓で自信を掴んだ伊藤美紀、愛情に育まれた充実の1年(フットボールチャンネル) zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=2015… #Yahooニュース
@mikaloompa さすが丸山さん、フットワークが良いね。また次回会った時に感想を聞かせてね。じゃあ日本に行ってきまーす!
神話が誕生したのは、シュメール文字が表意的な表記から表音的な表記へと移行してからのこと。表音というある種の抽象性の共有を可能とするために必要とされたのが、二つの異なるものを抽象的に繋ぐ機能を持つ物語(神話)であり、その言語によって書かれた神話が言語の表音を可能にしたと考える。
表意文字では複雑な文脈の表現ができない。複雑な文脈の表現には、表意文字では表現できない抽象的な表現が必要とあり、その為に表音文字が生まれたと考えられる。この表音文字を共有する形で神話が生まれ、それがその言語で書かれた神話という文脈を共有する民族を生んだのだろう。
漢字の場合、白川静の指摘した口(サイ)に代表される様に、表意自体に強い神話性が含まれる。だからこそ漢字を使うことで形成される想像の共同体としての中国人は、文字自体を芸術として捉える傾向が強いのだろう。
印刷技術が発達する以前の日本では、人は黙読できず、全てを音読することによって音声的に言語を認識していたという。つまり定型フォントとして文字を認識する以前の日本人は、全ての手書き文字をユニークネスの連鎖として捉えていて、その言語的認識は音と繋がっていたのだろう。
エクリチュールは原理的にはパロールとしてしか言語的意味を持つことができないと考える。しかし活版印刷に代表される定型フォントの登場により、エクリチュール自体がシュミラクルなフィクションとしての存在価値を持つに至り、それが黙読を可能にしたのだろう。
例えば風や雷の様に、目に見えない故に表意的な表現が難しい現象を言語的に共有するには、風神や雷神のような物語を作って、それを表音的に共有することによってしか、風や雷といった現象を言語的に認識できなかったのではないか?
カタロニア人の血が流れる芸術関係者(ガウディ、フェノロサ、モンポウ、カザルス)たちが日本の芸術家たちと共鳴する傾向があるのは、彼らの中に流れるアラン人の血が、極東へと流れて行った同胞たちとどこかで共振しているからかもしれない。
先程のパロールがエクリチュールに先立つという問題を、音楽の表記と比較すると、3:2の周波数比の繰り返しに基づくピタゴラス音律が、オクターブを規定する2/1の冪乗とは一致しない、というピタゴラスコンマとの関係と似ている気がした。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94…