Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて by 辛 美沙

2008-12-31 08:15:59 | Weblog
私がインタビュー記事の翻訳をお手伝いした辛美沙さん入魂のアートマネージメント本「アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて」がamazonにて発売となりましたので、ご報告させていただきます。これからアートワールドに入って行きたい!と志す人にとって、羅針盤の様な書籍となることでしょう。


アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて (アーツアンドカルチャーライブラリー)
辛 美沙
美学出版

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インフルエンザに気をつけろ!

2008-12-31 04:25:28 | Weblog
飯島愛、死んでしまったのか、可愛そうだなぁ、なんて思いながらyoutubeを見て就寝し、次の日になったら、どうも体調が悪い。

その日はイリノイ大学時代の親友Bが、フィラデルフィア出身の彼女と結婚する、ということで、両親に挨拶するついでに、NYに遊びに来ていたのだった。ランチを食べながらお話している時、「二人はどこで出会ったの?」と聞いたら、オンラインだと言う。時代も変わったものだなぁ、関心してしまった。奥さんと一緒に、いつか保育園をやりたい、そんな風に語るBが、なんだか羨ましかった。

その後、どうしても体調が優れなかったので、Bたちと予定していた美術館巡りはキャンセルさせてもらい、自宅にて療養する。夜までしっかり寝たのだが、どうも体調が優れない。体温がどれくらいあるのだろう、と測ってみてビックリ!なんと40Cもあった。生まれて初めての40Cということで、さすがに参った。

両手・両足が凄い力で押さえつけられている。なかなか手足が動かない。

寝ている間、うなされていたのだが、その時に見た幻覚が、とても印象的だった。

頭の中を、ピリオドの無い日本語文が、永遠と流れていく。

私は朝起きてそばまで歩くと公園がありシャワーを浴びると夕方で今日も一日が始まる空は青い太陽燦燦明日は休み行き当たりバッタリの散歩を楽しむ帰宅する私は今日も元気だ

こんな感じの何の意味も持たない文章が、延々を頭の中を、上から下へと猛スピードで流れて行く。気持ちが悪かった。日ごろ、活字に触れすぎかな、と少し反省した。

それと、体温が上昇した関係で、体のタンパク質がおかしくなったのだろうか、視界か黄ばんで見えた。これはやばいな、その時にそう直感した。

おそらくインフルエンザだろうと思い、病院に行こうかな、と思ったのだが、やはり無保険の私が病院に行くのは気が引ける。とりあえず1日様子を見てみよう、そう思ったとき、ルームメートのSさんとNさんが手厚く看病してくれた。こういう時に、ルームメートがいると、本当に助かる。ありがとう!

ようやく、パソコンに迎えるだけの体力が出て来たので、とりあえずのご報告まで。メールを送ったにも関わらず、まだお返事を頂いていない方、すぐ返信しますので、しばらくお待ち下さい。

第一話 見つけたぞ、 何を? 芸術を - 私を救ってくれた芸術との出会い

2008-12-26 14:00:54 | Weblog
1998年春、武道館での入学式。九段下の駅から、満開になった美しい桜並木の下を歩いて行く途中、私の心は悔しい気持ちで一杯だった。

受験に失敗したのである。ちくしょう、俺の人生はどうなっちまうんだ、これで良いのか、その悔しさ、さらには劣等感が、私の心の中で渦巻いていた。

--

私が通った高校は、静岡県にある大学付属のマンモス高校で、私が入ったクラスは、確か1年24組だった。高校が巨大だった為、先生も同級生もどこか他人同士、そんな感じだった。

高校時代、私は受験勉強というものが嫌で嫌でしょうがなかった。私は高校受験も失敗していたのだが、受験なんて本当にくだらないと思っていて、何故、ただ単に受験だけを目標とした、何の役にも立たない勉強をしなくてはらないのか、理解できなかった。面白い授業をしてくれる先生もいれば良かったのだが、愛と魅力に溢れた教師を、平均年齢が50歳を超えたこのマンモス高校の中の教師たちの中に見出すことは難しく、学校に対して「くだらない」と思う、どこかスレた感情を持っていた。そして私と教師とは、どこかで常に一触即発の危機になりうる、そんな冷戦状態にあった。

また私自身、高校時代には精神的に大分落ちていたと思う。未来に対する夢や希望が持てなくて、現実からもある種の逃避をしていた。ヴァーチャルな空間に逃げ込んで、インターネットチャットばかりしていた気がする。

しかし、そんな私にも、高校に入ったらやりたい事が一つあった。サッカー部に入ることである。

私は静岡県出身ということもあり、サッカー部は部活の花形で、プロを目指してサッカーをやっている友人も多く、ある種の憧れがあった。近所には、同い年の小野伸二や、高原直泰がいた。しかし、ある種の英才教育を受けた経験者が多く、その中でやっていくだけの自身が無かったので、中学時代にはサッカー部には入らなかった、いや、入れなかったのだ。しかし、高校時代には、自分の好きなサッカーを気が済むまでやりたい、そう思っていた。

私は、高校では特別進学クラスというのに入っていた。これは大学進学を目指す学生が入るクラスで、授業数も1時間多かった。もちろん、下校時間も遅かったし、部活をやっている人たちは、遅れて参加することとなっていた。

高校入学後、私はすぐにサッカー部に入る際に必要とされるトレーニングシャツとシューズを用意するやいなや、教員室に行くと、サッカー部の先生に「入れて下さい」と直訴した。しかし、答えはNoだった。特別進学クラスなんだから勉強しなさい、それと皆プロを目指している様な人たちだから、君とは合わない、そんな答えをされたと思う。

確かに、高校のサッカー部もプロ志向の人が多く、それなりに強かった。通っていた高校そのものがスポーツで有名で、一つ上には、水泳の金メダリストの岩崎恭子さんもいた。そんな中、私の意図は、たしかに「合わなかった」のかもしれない。しかし、「入りたい」と言っている学生に対して、あまりにも冷たくないか、そんな反感があった。

そんなこともあってか、だんだんと学校に興味が湧かなくなってしまった。何の為に学校に行っているのか、そして何の為に俺は生きているんだ・・・そんな疑問さえ持つ様になった。

また何よりも、田舎町の高校という閉塞感は、私にとって耐えがたいものだった。多感な青年にとって、田舎暮らしは、退屈以外の何物でもなかった。早く東京に出て、もっと文化度の高いものに常に触れていたい、そんな思いが絶えず募っていた。

さらに、まだ漠然とした感覚ではあったが、「日本」という閉鎖空間にさえ、どこかうんざりしていた。どう足掻いても、それより外には行けない、という土管の様な閉じられた空間。そこに、アメリカやらヨーロッパやらから情報だけが投げ込まれている、それに対して有無を言わずに満足しなくてはならない、そんな状況に疑問や不快感を覚えつつ、悶々としたものをため込んでいた。

学校にも興味が湧かず(今考えると、本当によく辞めなかったと思う)、世の中にもそんなに興味が湧かない、そんな時、私にとって唯一の救いとなったのが、「芸術」であった。

高校1年生くらいまでは、私はファッション大好き少年だった。ファッション雑誌を見て、流行りの服を着る、そんなことが大好きだったのだが、高校2年生くらいになると、それにも飽きてしまった。ファッションという文化がの底が見えてしまい、浅いな、これ以上追及しても意味がないな、と感じる様になったのである。それ以上に何か刺激的なものはないか、と思いながら、Studio VoiceやEsquireマガジンなどをくまなくチェックしていた。

そんな時に、偶然Esquireマガジンにて、「アンディ・ウォーホルとは、誰か?」という特集があり、夢中になって読んだ。確か椹木野衣が記事を書いていたのだが、これが実に見事な記事だった。おそらく、映画「バスキア」に合わせて特集されたものだったと思うのだが、ウォーホルの周辺人物がダイアグラムと解説と一緒に書かれていて、とても興味が湧いたのである。それからすっかりウォーホルにハマってしまい、「ウォーホル日記」を読んで、しまいには、NYのアートシーンへと思いを巡らす様になった。ニューヨーク、行ってみたいな、そんな漠然とした思いも生まれた。

学校が終わると、私は駅の近くにある立派な図書館に通うのが日課となり、そこで好きな音楽を聞いたり、写真集を見ていた。この図書館の蔵書が素晴らしく、私の興味に対して、それ以上の手ごたえで応じてくれた。特にロックミュージックのコレクションは素晴らしく、クラシックロックの定番を聞き漁った。お気に入りは、パティ・スミスと、ジャニス・ジョプリン、べルヴェッド・アンダーグラウンド、クイーン、スライ・アンド・ザ・ファミリーストーンなど。借りてきてはカセットテープに録音し、自宅で聴いていた。

音楽と並行して、今度は画集や写真集を見る様になった。私のお気に入りは、画家ではジャン・コクトー、アンリ・マティス、そしてフランチェスコ・クレメンテ、写真ではロバート・フランクと森山大道だった。アラーキーの「東京日和」も大好きだった。これらの写真集の中に、中平卓馬の名前が沢山出ていることに気づいて、図書館司書の方に「中平卓馬の写真集は無いのですか?」と聞くと、すぐに入荷してくれた。学校以上の、私だけの秘密の勉強の場所、それが図書館だった。

そして、暇があったからだろうか、映画も良く見た。映画も図書館でレンタルできたし、近所のビデオ屋さんも比較的充実していた。映像の美と世界の歴史や文学が繋がって行くのを見るのは、いろいろな発見があり、爽快だった。

黒沢映画から、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ ヴェンダース、エリック・ロメール、クシシュトフ・キェシロフスキ、スパイク・リー、そしてゴダールまで、幅広く見た。手に入らないものは、行きつけのレンタルビデオ屋さんで借りて、無い時にはリクエストして仕入れてもらったり、時には鈍行列車に乗って2時間半かけて東京に出て、渋谷の映画館で見てきたりした。そんなことをしているうちに、私はヨーロッパのしっとりとした映画が好きだ、ということに気がついた。

それが昂じて、地元の映画好きサークルに出入りする様になり、随分年の離れた人たちと、映画談義をする様になった。私はその方たちにも随分かわいがってもらい、映画のことなど、よく教えてもらった。

またサッカーも、結局地元のクラブチームに入ることになった。同じ高校に通う友人のKくんが誘ってくれたのだ。Kくんはサッカーがめちゃめちゃ上手くて、勧誘されたにも関わらず、高校のサッカー部に入らなかったのだ。どうして?という理由を聞いてもなかなか教えてくれなかったのだが、ある日、彼は敬虔なクリスチャンで、日曜日には教会に行かなくてはならないのでサッカーができない、ということをこっそり教えてくれた。(その後彼は高校を卒業すると、神父になる為にアメリカへと発ったのであった)

20-30代の方たちに交じって、私もサッカーの試合に出る様になった。ここでも、年長者の方々に随分と可愛がってもらい、試合後の打ち上げでは「ホッピー係」として、パーティの盛り上げ役となった。そんな中で、私は年長者との社会的な社交性を身につけていった様に思う。私の末っ子根性が生きたのかもしれない。

映画や音楽など、文化に関しては、同級生の誰よりも精通していて、上質なものを見ている、しかもちゃんと学校の外に出て自分のことをしている、私には、そんな不思議な自負だけはあった。そして、何よりも、私の魂は芸術に救われていた。私の人生における精神の危機は、芸術の魂によって救われたのである。

そんな矢先、高校でこんなイベントがあった。「読書感想文コンテスト」。大学の付属高校が一斉に行う、作文コンテストである。

私はウォーホルの流れから、60年代のアメリカ、特にビートニックに興味が湧き、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックにぞっこんだった。特に「路上」からは強烈な影響を受け、私も路上をテーマに何かものを作ってみたい、そう空想を巡らせる様になった。そこから文学、というものにも、なんとなく興味が湧いてきた。ちょうど17歳になったその時、ランボーの詩に出会い、強烈な印象を受けていた。ゴダールの「気狂いピエロ」のラストシーンから導かれた私は、彼の代表作「永遠」を、何度も読みながら反芻していた。

見つけたぞ、 何を? 永遠を。それは太陽と繋がった海だ。

「永遠」において、太陽と繋がった海の赤と青の美しいグラデーションのイメージを、母音に色付けし、子音とのコンビネーションで絵画的に表現する、という鮮やかな発想や、ナポレオン戦争以降のフランスをテーマとした作品「酔いどれ船」などを、たった16歳の少年が作ったことに衝撃を受け、そして嫉妬した。この時は本当に、私は彼に負けたと思った(そう、私は負けず嫌いなのだ)

そこで私は一念発起し、高校時代の怠惰なエネルギーからため込んだパワーを、読書感想文「ジャック・ケルアック 地下街の人びとを読んで」としてコンテストに発表し、世に問うことにした。私が考え付くだけの、最も的確な言葉を使って、素直に、そして精一杯書いた。今読んでもきっと後悔することのない、そんな文章であったろうと思う。私のライバルは、そう、アルチュール・ランボー。

1か月ほどして、結果発表があった。受賞者のリストの中に、私の名前はどこにも無かった。どうしても納得できなかったので、国語の先生に聞いてみた。

「あのぉー、先生、読書感想文コンテストなんですけど、俺の文章、ダメでしたか?」
「ええ?君、何を書いたの?」
「ジャック・ケルアックの感想文を書いたんですけれど・・・」
「誰それ?」
「アメリカ60年代を代表する作家で、ビートジェネレーションの人です」
「聞いたことがないな。そんなのは文学でも何でもないんじゃないか。」

そこで話を切られてしまった。悔しかったので、聞いてみた。

「では先生、文学とは、たとえば誰のことを言うのでしょうか?」
「太宰だ」

私はその答えを聞いて、彼から学ぶものは何も無い、と決め込んだ。それから、私は学校での勉強というのを放棄する様になった。それは私にとって、有害だと思ったからだ。ちなみに大賞受賞作品は「火垂るの墓を読んで」であった。きっと高校生が書く文章としてふさわしい、と評価されたのだと思うが、私は学校という小さなコンテクストは一切信用せず、これからはずっとユニバーサルなものだけを追及しよう、そう心に決めた。

そんな時、私が夢中になったのが、映画「Trainspotting」だった。多感だった田舎暮らしの17歳の私の肌に、イギー・ポップやルー・リードの音楽と、強烈なイングランド的な感覚が、スっと私の中に入ってきた。こんな映画があるんだ、そしてこんな文化があるんだ、面白そうだな、見てみたいな、そんな風に思った。

私の興味は尽きず、ついに私は、父にこう頼んでみた。

「お父さん、イギリスに行かせて下さい」

-- つづく --


地下街の人びと (新潮文庫)
ジャック ケルアック
新潮社

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旅行記宣言

2008-12-25 11:11:02 | Weblog
ここ最近、とても気になっていることがある。私が抱える多くの問題意識が、日本語を話す多くの人たちと、大分ずれてしまっている、という事である。特に私がテーマとして扱ってきたネーションの問題に関しては、どうしても問題意識の共有が難しい、そう感じている。

友人には、「英語的な思考をしているからだ」とか、「アメリカ生活が長すぎて、日本的な感覚が無くなっているからだ」と指摘されるのだけれど、私はそれ以上に、個人的な体験、特に世界各地への陸路での一人旅や、アメリカ留学の経験などを通じて得ることができた私の視点の多くが、日本で問題意識を持っている人たちと共有できていないからだと考えている。

私は、移動を通じて、多くの出来事を経験して来た。それが何事にも代えがたい経験となり、私の今の活動の根底に流れている。それを、少しでも多くの皆さんと共有したい、その為には、このブログを使って、旅行記、という形で経験談を伝えるのは良い試みではないか、そう考える様になった。

私は、今後日本語メディアではなく、英語メディアを使って、日本文化を世界に輸出したい、と考えているのだが、現在もう既に問題意識がずれてしまっているのでは、私の活動が進行していく上で、今後さらにずれてしまうのではないか、その前に、一度日本語を話す方に理解してもらいたい、そう考える様になった。

「何故ユーゴスラビアに興味が湧いたの?」
今まで私は何度もそう聞かれたが、その質問に答えようとしても、とても一言では答えられなかった。あまりにも多くの理由があるからだ。しかし、この話を読んでくれれば、その問題意識は、少なからず共有できる様になると思う。

今、日本はとても内向的になっており、先が見えない状態にある。そんな中、この試みが、少なからず多くの皆さんへの発奮材料となり、少しでも多くの人が、勇気を持って外国で活躍したり、いや、外国という概念さえ捨てて、どこでも活動することができる様になれば、と思う。そして、私のキュレーターとしての活動に関しても、一定の理解を持って頂けたら、と思う。

(写真は2000年、アユタヤーにて)

私なりに、今回の旅行記に関するルールを作ります:

1.新聞の連載小説の様に、長期的な続編とします
2.少なくとも、週に1回はアップする様にします
3.腹を決めて、正直に書きます

旅行記に相当する箇所は、以下の国と地域です。


1.香港、マカオ
2.シンガポール
3.マレーシア
4.タイ
5.インド
6.ネパール
7.バングラディシュ
8.アメリカ(プエルトリコ含む)
9.グレート・ブリテン
10.フランス
11.ベルギー
12.オランダ
13.ドイツ
14.チェコ
15.ポーランド
16.スロバキア
17.ハンガリー
18.ルーマニア
19.トルコ
20.ジャマイカ
21.キューバ
22.オーストリア
23.スロベニア
24.クロアチア
25.ボスニア・ヘルツェゴビナ
26.セルビア(コソボ含む)
27.マケドニア
28.ドミニカ
29.スイス
30.スペイン
31.イタリア
32.アイスランド
33.カナダ
34.中国
35.日本

みんなに向けて、Happy Holiday!

2008-12-20 15:11:01 | Weblog
「イタタ・・・」。数日前のこと、チョコレートを食べていたら、右下の歯が痛みはじめた。あちゃー、虫歯かな、と思い、仕方なく歯医者さんへと向かった。

どうでも良いことだが、私は国民健康保険に入っていない。理由は、
1.日本国に住んでいない
2.扶養されていない
という理由だ。そんな訳で、私は日本国民であるにも関わらず国民健康保険に入れず、完全無保険の風来坊、となった訳だが、今回は3回の治療と検診で$1000を超える出費となった。いやはや。日本の国民皆保険はやっぱり凄いな、アメリカからの年次要求で自民党に対して国民健康保険の廃止が指示されている様だけれど、何としても守ってもらいたいな、そんな風に思った。

今日、歯に着いた歯垢の除去をしてくれた初老の白人女性は大変なおしゃべりで、私が口を半開きの状態にしているにも関わらず、いろんな質問を矢継ぎ早にしてきた。普通によくちゃべる人なのだろう。その中で、
「日本はクリスマスのお祝いはするの?」
という質問があり、私は口にバキュームを入れたまま「はひ、お祝ひします。ツリーを飾ったり、ケーキを食べたひ、サンタクロースも、子供にプレゼントをくれたります。でも、若いカップルの為の日、という意味合いが強ひです」
と答えた。フーン、とこの女性は理解した様だったのだが、なんだか釈然としない様だった。

歯垢の除去が全て終わり、はい、おしまい、となった時に、この女性はもう一度私に聞いた。
「ええと、気になっていて、もう一度聞きたいんだけれど、何故、日本でクリスマスはカップルの日なの?」
「ええと、日本では、クリスマスはキリスト教の祝日、という意識はほとんどありません。クリスマスがキリストの誕生日だ、ということを知っている人は、おそらく人口の半分もいないのでは、と思います。」
「でも、どうしてカップルの日なの?」
「日本人の若いカップルは、クリスマス、つまり聖夜を特別な、ロマンティックな日だと捉えています。だから、クリスマスはカップルにとって特別な日なのです」
「ふーん。そうなの」
彼女は続けて言った。
「私、キリスト教徒じゃないから、そういうのがとても気になるんだよね」
「差し支えなければ、どこの宗教なのか、教えてもらえますか?」
「ユダヤ教です」
「じゃあ、メリークリスマスではなく、ハッピーホリディですね」
「そう。その通り。だから、ホリデーは家族と過ごすのよ」
と言って、ニッコリ笑った。

ニューヨークは、ユダヤ人人口が多いので、皆クリスマスシーズンになっても、気を使って「メリークリスマス」と言わずに、「ハッピーホリディ」という普遍的な言葉を使う。アメリカの中でも珍しいと思う。(以前、ブログに書いた「食前の祈り」にも、どこか通じるところがあるかもしれない。)

会計を済ませて病院を出ようとすると、今度は別の初老のお医者さんに捕まった。

「ええと、ドクターNから聞いたのだけれど、あなた、日本人のアーティストだそうですね」
「私はキュレーターです。美術展を作っています」
「そうでしたか。実は私、日本が好きでして。随分昔ですが、日本にも1年ほど住んでいました」
「へー。日本はどこでしたか?」
「沖縄です」
「ほう。それは、70年代の話ですか、それとも・・・」
「60年代です。ベトナム戦争の時代でした」
「じゃあ、まだアメリカ占領時代の沖縄の話ですね。」
「そうです・・・」

そこまで答えると、このドクターは一瞬、申し訳無い、という顔をした。私が占領下の、という言葉を出したことに反応したのだろう。きっと優しい人なんだな、と思った。(そういえば、ベアテさんも、Occupied Japanという言葉が出る度に、申し訳無さそうな顔をしていた。このドクターと同じで、きっと日本人と普通に友達になりたかったのに、そうすることのできない一段高い立場に自分を置いていたことに、居心地の悪さを感じていたのだろう。)そして、それが分かったと同時に、ドクターは話を切ってしまったので、私のことをもうちょっと知ってもらえないと、彼とは腹を割った深い話ができそうもないな、と思った。

ニューヨークでは、いろんな人がいろんな思いで、夢中になって今を暮らしている。そんなみんなに向けて。

Happy Holiday!

こだまする「シーユーアゲイン」 - マレーシア、ジャングルトレインからの帰り道に

2008-12-18 15:07:09 | Weblog
来年1月末より、沖縄県立美術館にて開催される展示「移動と表現」のカタログに、移動と美術表現について、簡単な文章を寄稿させていただいた。

国・そして文化間の移動を通じ、自分を外国人としてある種の「他者」的な状況に置いてみると、普通だと思っていた自分の文化が特殊であることに気づかされる、そしてアーティストは、内部と外部、多数と少数、主観と客観などの二項対立の境いめを越境し、表現して行く、そんな文章を書いた。

展示への参加アーティストであるトリン・T・ミンハのビデオ作品を見ていて、ただただ「素晴らしい」と思った。ベトナムで働くごく一般の女性たち、その女性たちへのまなざしが、あたかも近代という枠組みが生んだ多くの二項対立をほぐして行くかの様に、フィルムへと焼き付けられて行く。

ミンハのビデオを見ていてら、マレーシアのタマンヌガラで出会った女性労働者のことを思い出した。そう、あれは、2000年の春のこと。私は20歳だった。

--

私はマラッカから、マレーシアを貫通する電車、通称「ジャングルトレイン」に乗って、北部へと向かった。マレーシアの中部にはタマン・ヌガラという、世界最古のジャングルと言われる国立公園があり、どうしてもそこを見ておきたかったのだ。

美しい森の中を走り続ける電車(まさにジャングルトレインだった)に乗ること数時間、ジャングルの入口で電車を降りると、今度はボ-トへ乗り替え、そこから3時間ほどした所にある小さなコテージに泊った。スコールの降りしきる中、コウモリだらけのバット・ケイブを見てきたり、ジャングルの中で会った原住民のオランアスリ族の人に吹き矢の使い方を教えてもらったりした。

コテージの中の娯楽は、皆が知っている歌を歌う、というシンプルなものだた。現地で仕事をしているマレーシア人従業員が、日本人ツーリストに教えてもらった、と言う今井美樹の「PRIDE」をギターで弾いてくれて、日本語の歌詞なので、私が仕方なく、歌ったりした。楽しかった。

タマヌガラから帰って来て、ジャングルトレインの駅の町までやって来ると、さて、困ってしまった。まだお昼だと言うのに、次の電車が来るのが夜中の2時になると言う。仕方無い、暇でも潰そう、と思い、町に一つだけというインターネットカフェにぶらりと立ち寄った。

日本語が使えないので、仕方無く英語でメールを書いていると、後ろから「日本人ですか?」という声がする。振り返ると、小太りの30代後半くらいの男性が、私の事を興味津々に眺めている。確かアミルさんと言ったと思うのだが、この男性はネットカフェのオーナーで、以前日本に留学したことがあり、その後コンピューター技師となったと言う。何をしているのか、と聞かれたので、深夜2時の電車が来るまで暇つぶしをしている、と答えると、じゃあご飯でも、と誘われ、ついて行くことにした。

アミルさんは、近所にあるお気に入りのカフェレストランに連れて行ってくれて、そこでお話をした。日本がとても好きだ、と言ってくれて、とんねるずが好き、そしてサッカーの中田選手を応援している、久し振りに日本人に会えてうれしい、そんなことを聞かせてくれた。レストランのオーナーの老人、そして鮮やかなイスラム系の服を着た女性店員たちも、とてもフレンドリーだった。店員たちには、英語はほとんど通じなかったが、アミルさんが簡単な通訳をしてくれて、助かった。ご飯を食べて立ち去る際、店員たちは英語が話せないにも関わらず、マレー語で「またいらっしゃい」と言ってくれて、それをアミルさんが通訳してくれた。なんだか嬉しかった。

その後、私はバックパックをしょったまま、町を歩いたのだが、何せ人口が1000人にも満たないジャングルの町、行く所が無い。暇つぶしにお店というお店を全部回って、町を一周しても、まだ日が高かった。頑張ってなんとか時間を潰しているうちに夜になり、お腹も空いてきたので、「またいらっしゃい」という言葉が脳裏にやきついていた、あのレストランを再訪した。

すると、オーナーの老人や、店員の女性たちが、まさに狂喜乱舞して喜んでくれた。「あいつかまた来た!」と言って、女の子なんかは本当にジャンプして、キャーキャー言って、抱きついて喜んでくれた。きっと見慣れぬ異邦人に、興味があったのだろう。なんだか、照れくさかった。

席に着くと、それだけで、ご飯が出てきた。レストランだと言うのに、お金はいらない、という。そうは行かない、と言ってちゃんと支払っては来たのだが、最後までなかなか受け取ってくれず、ちゃんと支払を済ますまで、随分時間がかかった。それでも、ご飯を一口食べる度に、「ゴレン、ゴレン(ご飯のこと)」、と言ってどんどんサービス飯が出てくる。こんなに食べれない、と言うと、お弁当を作ってくれた。驚いた。
 
ここではほとんど英語が通じなかったのだが、筆談したり、顔やジェスチャーで表現したりで、何とかしてコミュニケーションを取った。お爺さんだけ、ほんのカタコトの英語がしゃべれて、この女の子たちは実はタイ南部にあるパタニーという料理が有名なお店から来ているイスラム系の出稼ぎ労働者たちで、実はマレー語もカタコトなんだよ、と説明してくたのだ。へー、そうなんだー、と興味深かったのだが、なぜならこの子たちは、おとなしいマレー系の女性に比べて、圧倒的に明るくて、社交的な感じがしたからだ。

この女の子からは、いろんな事を根掘り葉掘り聞かれた。いくつ?どこから?彼女はいるの?なにしてるの?どこにいくの???きっと、同世代の見知らぬ旅人に興味津々だったのだろう。しかし、言葉が通じないので、どうも話が進まない。そんな中、やたら英語の上手い長身のマレーシア人がやって来て(彼もコンピューター技師だった)、通訳をしてくれた。彼が1時間ほど、逐一通訳してくれたので、だいぶコミュニケーションが取れた。

一旦、彼女たちからの質問攻めが収まると、今度はオーナーのお爺さんが、話しかけてきた。

「私はがんばります。ありがとうございます」

日本語だった。突然のことだったので、驚いた。

マレーシアに来てから、老人たちに突然日本語で話しかけられることがあったが、やはり突然話しかけられると驚く。きっと、話したいことがあるんだろうと思い、話を聞く。

老人は、悩ましげに、日本統治下で日本語を強制的に習わされたこと、そしてその記憶は、どうしても忘れることができない、でも今は、日本人を、アジアのリーダーとして尊敬している、私たちは友達だ、そんなことを話してくれた。ぽつりぽつりと日本語の単語を話してくれるのだが、文章を作ることができないのが、戦後55年という時間の流れを感じさせた。

私, can't write my name in Japanese, but wife's name, I can.

と言う。何故、自分の名前は書けないのに、妻の名前は覚えているの?と聞くと、老人は、妻と愛を語らったときに、妻が遊びで名前を書いてくれたことがあって、それを良く覚えている、と言う。

彼がカタカナで書いた字は、随分崩れた字だったが、確か「イエ」とか、そんな字だったと思う。随分時間をかけて書いたのだが、どうしても思いだせなかった様で、最後は、ボールペンの先でグシャグシャ、と書きなぐって消してしまうと、申し訳無さそうにニコっと笑った。子供がいたずらをして、ばれてしまった後に見せる笑顔、そんな笑顔だった。その様子を、ウエイトレスたちが興味深そうに眺めていた。

そのレストランには、随分長居した。午後7時くらいから、午前1時くらいまで居たと思う。マレーシアの夜は長い。夜1時になっても、お客さんは一向に減らない。長身のマレーシア人も、友人とずっと話しこんでいる。

もう深夜1時、2時の電車までもうすぐ、夜道を30分ほど歩くので、そろそろ出かけます、と老人に伝えると、彼はシャキッ!と立ちあがり、ウエイトレス4人を呼び付けると、彼女たちに私を駅まで送る様に指示し、ランプ式のランタンを持たせてくれた。女の子たちも、楽しそうにどうやら「私を見送ります!」とマレー語で言うと、一緒に夜道へと飛び出した。

本当に真っ暗な夜道。虫の音色しか聞こえない景色を、ランタンのほのめく光が、ほのかに照らして行く。4人で横1列になって腕を組んで、歌を歌いながら、駅まで歩いて行った。なんだか、幼稚園の時に、クラスの皆とお出かけをした時の様な、そんな気分だった。あまりにも既視感の無い不思議な光景に、シュルレアリスティックな眩暈がした。

駅には、駅員一人以外、誰もいなかった。暗いライトが、ホームを寂しげに照らしている。4人の女の子たちが、本当に名残惜しそうにお別れを言ってくれて、カタコトの英語で、グッドバイ、シーユーアゲイン、を、何度も何度も言いながら、夜の闇へと消えて行った。随分遠くになっても、彼女たちの「シーユーアゲイン」が、こだまして聞こえた。私も、出会いが素敵だった分、名残惜しかった。

すると、ふと困ってしまった。このホーム、サインが一切無く、どちらのホームに居れば良いのか見当が付かない。そして、駅員には一切英語が通じない。適当に電車に乗れば良い、という訳でも無いので、困ったなぁ、と悩んでいると、先ほどレストランに居た、英語の上手い長身の男性がさっそうと現れた。

「さあ、ここからは僕の出番だね」

え?と私は一瞬、訳が分からなくなった。彼は続けた。

「さっきのレストランのお爺さんが、きっとあなたが駅で電車の乗り方が分からなくて困るだろうから、私にホームまで先回りして、あなたが駅に着いたら丁寧に案内してくれ、と頼まれていたのです。実は、車で先回りして、お待ちしていました。あなたも随分楽しそうに歩いていましたね。お爺さん、女の子たちもあなたも、きっと歩きで夜道を言った方が楽しいと思って、気づかいしてくれたんですよ。」

なんだか恥ずかしくなると同時に、やられた、という気分になった。

「さあさあ」と彼は私の手を引くと、北部コタバル行きのチケットを手配してくれた。助かった。
 
「あなたのマレーシアの旅の記憶が良いものになることを祈っています。シーユーアゲイン!」彼はそう述べると、さっそうと闇の中へと消えて行った。その余韻の中で、私の心の中で、「なんて美しい人たちなのだろう」という気持ちが、ずっとこだまし続けていた。そして、私は、彼らと同じ優しさを、他者に対して持つことが果たしてできるのか、そればかりをずっと考えていた。

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日本に帰ってから、レストランで撮影した、この写真をアミルさん宛てに送った。当時のガイドブックには、マレーシア中部への国際配達便は、半分ほどしか届かないので注意が必要、と書いてあった。この写真は、彼らの元に、無事届いているのだろうか。

夢を見なさい

2008-12-17 05:30:08 | Weblog
NYは今3時。細野晴臣の世界を、アン・サリーのバージョンでどうぞ。

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三時の子守唄

夢を見なさい 僕の膝で
古いレコードを 聴きながら
風も光も 窓の外
それが三時の子守唄

誰かが扉を たたくまで
古い魔法の 瓶の中に
お茶と話を 詰め込んで
寒いトタンの 屋根の下

待ちの噂を 話すから
はやり唄でも 唄うから
聴かせて 夢の続きを
それが 僕の子守唄

親しみとしての「はだいろ」と、経験としての「ペールオレンジ」

2008-12-16 13:47:24 | Weblog
冬の寒い日、コートを着こんで、ジョルジョ・モランディの絵画展を見にメトロポリタン美術館へと足を運んで来た。

ほとんどぜんぶ肌色だけで塗られた様な瓶や箱たちが、小気味よく、小さなキャンバスの中に収められている。見ているだけで心が落ち着いて行く不思議なバランスが、絵画の中に秘められている。「静物(Still Life)」という言葉がぴったりの、かすかな振動だけが鑑賞者と共鳴する様な、浸透性の高い絵画だった。(解説によると、モランディはピエロ・デッラ・フランチェスカから強い影響を受けたそうだが、それが意外であると同時に、とてもよく理解できた。)

モランディの絵画を見ていたら、子供のころ、私は「はだいろ」のクレヨンが好きだったことを思い出した。

「はだいろ」は、赤や青と違って、白い画用紙にしっかり塗りこまないと色がつかないので、消耗が激しかった気がする。あの、存在しているのに透明感のある「はだいろ」のクレヨン、赤と青と違って目立たないあのナチュラルカラーが、何とも言えない愛着を感じさせた。肌色のクレヨンを見ているだけで、あたかもイメージが描かれている、そんな気分になっていた。

ある日、テレビを付けたら、クレヨンの「はだいろ」が、『ペールオレンジ』か『うすだいだい』に改名された、というニュースをやっていた。私は「はだいろ」のクレヨンが好きだったので、それが聞きなれない名前に代わったとき、何か寂しい感じがした。人種差別に繋がる恐れがある、という理由からだそうだ。

私は、肌の色、ということに関して、全く自覚的でなかった。そう、あの日までは。

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私は大学三年生になった20歳の頃、イリノイ大学のアーバナ・シャンペイン校という所に1年間交換留学していた。留学生は基本的に外国人向けのドミトリーに滞在するのだが、私はせっかくアメリカ人たちと生活をするチャンスなのだから、と思い、アメリカ人だけが住んでいるドミトリーに1年間滞在することにした。こうして、私のドミトリー生活が始まった。

ドミトリーは12階建ての男性塔と女性塔とに分かれていて、一階のレストランカフェと地下のコンピュータールームのみ男女共用となっていた。滞在している人はほぼ全員フレッシュマンで、私は皆よりも2歳年上の年長者として、ドミトリーにて生活することとなった。

正直な所、アメリカ人フレッシュマンとの共同生活は、楽しいものとは言えなかった。共同生活、という概念が無い人たちとの生活は、厳しかった。まず、皆で共同生活を始めてから一番最初に問題になったのが、トイレの使い方だった。彼らはトイレを使っても、どういう訳か、トイレの水を自分で流さないのだ。こういった問題が発生すると、すぐにフロアーごとのドミトリー会議が開催され、問題を改正するべく話をするのだが、アメリカ人がこういったプロセスで共同生活という意識を養っていくのだな、と感心すると同時に、東京での一人暮らしを2年間経験していた私は、勘弁してよ、という気持ちが強かった。

ドミトリーでは、朝、昼、晩と一階のカフェでバイキング形式のご飯を食べるのだが、同じフロアの人たちで自然と集まって一緒に食べるのが習慣化していた。そんな矢先、私にも何人か新しい友達が出来たのだが、そのうちの一人がJだった。

カフェでいつもボーっとしてご飯を食べている、それがJだった。確か私とは、バイキングのサラダか何かをよそっている時に、なんとなく話し始めたのが最初だったと思う。それから何とはなしに、お互い一人の時には、一緒に御飯を食べる様になった。

Jは黒人女性だった。Jはそのボーっとしているキャラクターから、「Boring」というニックネームを付けられていて、みんなにボーリング、ボーリング、と弄られながら、可愛がられていた。Jがいると、その場が明るくなった。ゆったりとしたしゃべり方と、独特な雰囲気は、すべてを受けいれてくれる様な優しさがあり、その優しさゆえ、マイノリティとして肩身を寄せ合って生きている黒人女性たちの、ある種の母親的シンボルとなっていた。

Jがいるだけで、みんなが明るくなって、饒舌になる。そんな中に私も一緒にいたので、お蔭で黒人女性の友達がずいぶんできて、皆がどんな事に関心を持っているのかも、分かってきた。好きな映画、音楽、男の子。。。ずいぶんいろいろと話した。

でも、食事中に食べる食べ物の趣味は、全然合わなかった。グレービーにソースをたっぷり食べて、食い散らかしていく様は、正直頂けなかった。また、この女の子グループの中に黒人男性が入ってくると、今まであった和気あいあいとした空気が薄れて、急に男女の世界、しかもバイオレントな匂いがしたのが、とても気になった。Jの男友達とは、どうしても友達になれなかった。

若い黒人女性たちが5人以上集まり、テンションが高くなってギャーギャーしゃべったり笑ったりしていて、カフェではかなり目立ったと思う。その中に、アジア人男性がひとり入って楽しそうに御飯を食べていたのだから、それはやはり目立ったのだろう。

そんなある日、こんなことがあった。Jを交えてご飯を食べていると、ドミトリーの同じフロアに住んでいる白人男性たちから、目くばせをされた。しかし、それにどういう意味があるのか分からなかったので、私は適当に流していた。その時ふと、Jと一緒に御飯を食べている時、同じフロアーの男の子を一緒に食べようと誘ったのだが、断られていたことを思い出した。

ご飯を食べ終わって、エレベーターに乗り、自分の住んでいる7階で降りると、そこですぐ私は、下級生の白人男性4人に囲まれた。険悪な空気が、そこにがあった。

「お前、なんであいつらといつも飯を食っているんだ?」
「あいつらって、誰だ?」
「分かっているだろう。あの黒人女たちだよ」
「彼女は、ボーリンク、そして他の皆も友達だ。ちゃんと名前で呼んでくれ。でも、一緒に食べて何が悪い」
「You are crazy.」
「Why you think I am crazy? Aren't you crazy?」

そんなやりとりがあった。しかし、彼らはあまり大きな声を立てず、この騒動をこれ以上大きくしたくなかったのが感じられた。何故なら、私の住んでいるフロア25人くらいのうち、3人は黒人男性で、そのうちの一人の男性が黒人コミュニティのボスと親しく、彼にはドラッグディーリングをやっているという噂があった。彼らを巻き込むと面倒だ、そう判断したのだろう。

私もそうだった。こんな小競り合いを、大きな問題へと発展させたくない。それよりも、何故ボーリングたちとご飯を一緒に食べているだけで、こんな目に会わなくてはならないのか、私にはわからなかった。彼らが考えている理由は、おそらくこういうことだったのだと思う。

この白人男性たちは、私がボーリングのことを、女性として興味を持っていると思ったのだろう。(私にそういう興味はなかった)しかし、アジア人男性が黒人女性とそういった関係を持つことは、この田舎町では許されることではない。相当な変わりものか、それともクレージーなやつだと普通に思ったのだろう。私はそんな貧しい考えしかできない彼らを哀れに思ったが、ここで彼らとこれから1年共同生活するのだ、と思うと、本当に面倒臭かった。

私とBoringは、その後も一緒に御飯を食べていたが、少しずつ疎遠になって行った。食事をしている時、そして一般生活をしている際も、白人男性数名から、今まで以上のプレッシャーを感じる様になった。そんな経験をしているうちに、なんとなく疎遠になって行った。

肌の色だけでこんなに分かりやすい差別を受けるのは理不尽だ、と思いながら、これがアメリカなんだ、ということが理解できた。そしてその時、私は自分の「はだ」の色が、それまで親しみのなかった『ペールオレンジ』であることを強く感じた。

食前の祈り

2008-12-12 13:44:27 | Weblog
ぐずついた天気の、冷え込んだマンハッタン。ランチを食べようと思い、ジャンパーのフードを被ってライブラリーから小走りすると、近所にあるセルフサービスレストランへと駆け込んだ。

とてもお腹が減っていたので、プルコギ弁当、そしてほかほかの肉まんを買ってきて、レストラン内の狭いテーブルに座るないなや、ぱくつき始めた。左側では、日本人ビジネスマンが、「内定取り消しって、酷いよなー」なんて、最近の経済状況の話をしていた。いつものミッドタウンの光景がそこにあった。

しばらくすると、私の右隣りに、学生風の韓国人女性が二人向かい合って座った。買ってきたお弁当をテーブルに広げると、二人とも軽く目を閉じ、両手を祈りを捧げる様に胸の前で組むと、少しあごを上げて、韓国語にて神への祈りを捧げ、最後に小さく「アーメン」とつぶやき、十字を切った。ああ、クリスチャンの方だな、でもこんな場所で祈りを捧げるとは、結構敬虔な人たちだな、なんて思った。

その時、私の脳裏に、8年前のカリフォルニアの光景が過った。

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当時イリノイ大学の同じドミトリーに住んでいる友人Dが、「冬休みは何をしているの?行く所がなかったら、うちに遊びに来たら?」と誘ってくれて、ロスの郊外にある自宅へと招待してくれたのだった。

DはLA出身というのがいかにも似合う、インテリヒッピー系の好青年だった。私はキックボードに乗ってキャンパスに向かう時、Dはスケートボードで通っていた。それがきっかけで、私たちはカフェで話す様になった。二人ともケルアックが好きだったので、本を交換して読んだりしたり、田舎暮らしで暇をもてあそばした時には、夜遅くまで煙草をふかしながら、いろいろと議論した。またDのLAに残してきた彼女が日本からの移民だったので、良く恋愛の相談に乗っていたりした。

Dとは、一度約束を破ったどうだで喧嘩したことがあり、それからしばらく口をきかないこともあった。しかし、喧嘩から一週間くらいしたある日、Dが私の部屋に沢山のオレンジの山を持って現われた。和解のしるしだろうか、と思い、とりあえずDを部屋の中に入れてお話して、そのまま仲直りした。

それにしても、こんな沢山のオレンジ、どうしたの?と聞くと、母が送って来た、と言う。でも、食べないからいらない、もらってくれ、と言う。どうして食べないの、と聞くと、俺はオレンジが嫌いだ、と言う。どうして母親なのに、息子の嫌いなオレンジを送ってくるの?と聞くと、これを送ってくれた母はシカゴの母で、離婚したばかりの父の再婚相手で、俺はあまり会っていない、でもいつもオレンジを送って来て、困っている、とのことだった。オレンジは好きじゃないって言ってみたら?と言うと、母に悪い思いをさせたくないし、それと、できる限りこの第二の「母」とはコミュニケーションを取りたくない、ということだった。Dもいろいろ複雑なものを抱えているんだなー、と切ない気分になった。

そんなDが、冬休みに私をLAの自宅に招いてくれると言う。しかし、こんな話をしているうちに、Dが自分の実の母と、再婚したばかりの第二の「父」と、自宅にて3人の時間をあまり過ごしたくない、という理由もあり、私を自宅に呼びたがっている、ということがなんとなく分かってきた。私にはそんなことはどうでも良くて、お招きを受けた時には、まだ見ぬLAへと、空想は既に膨らんでいた。

長距離バスでLAに到着すると、Dが赤いオープンカーで迎えてくれた。そのままヤシの木の生えたコーストラインをドライブすると、Dはカードキーを使って高級住宅地らしき敷地へとドライブしてくれた。「お前、もしかしたら凄い豪邸に住んでない?」と聞くと、そうだ、と言う。母が大企業の副社長と結婚してから、生活も、そして母の生活まで変わってしまったよ、とDは笑いながらため息混じりで答えた。

敷地に入ってからしばらくすると、高級外車が2台泊まった、プール付きの家へと到着した。Dの母、そして「父」が歓迎してくれた。二人しか住んでいない部屋なのに、バスルームが5つある、というまさに豪邸であった。父親が「トイレは5つあるから、迷ったらどこでも自由に使ってくれ」と見せびらかす様に言った時、Dがここに3人で過ごしたくない、と思った理由が直観的に理解できた。

1月の寒い時期だというにも関わらず、家にあるプールには水が流れっぱなしだった。丁度カリフォルニアが水不足で大変な時に、一体何を考えているんだろうか、と思った。この父は40代のうちに会社の方は引退してしまい、今は自宅でデイトレーダーをしているらしく、ほとんど全ての部屋に大型のテレビが設置してあって、そこからは株式情報が絶え間なく流れていた。30分おきぐらいに、父親が「上がった!」とか「下がった!」とか大声を出していて、それに母親の方が「やったあ!」とか「あら、そう」とか丁寧に答えているのが、二人の間の、始まったばかりの不思議な関係のバランスを象徴している様だった。

Dの母は、「今日はせっかくシンヤが来てくれたんだから、お家でお祝いしましょう」と言ってくれて、七面鳥を焼いてくれた。本当にまるまるとした七面鳥で、まるでサンクスギビングの様だった。静まった夜、シャンデリアのある、不自然なまでに大きな食堂で、ろうそくだけの照明の元、父親を上座に据えて、4人の食事会ははじまった。

父親は、私の名前を呼んでワインを注ぎ、歓迎の意を示すと、そのまま神へのお祈りを捧げた。かなり丁寧なお祈りだった。母も、そしてDも目をつぶって、腕を組んでいた。30秒ほど、この世の神への祈りを捧げると、「アーメン」と述べて、父は十字を切った。

三人がほぼシンクロして十字を切った際、私はどうしようか迷った。せっかく私の歓迎会なのだから、私もやろうか、でも、もしそうなら、私は誰の為に十字を切っているんだろう、そんなことを考えながら、居心地の悪い沈黙を過ごしていた。十字を切らない私を、三人は気づいたまま、黙認していた。しかしこの時、私は決定的な文化的差異に出会った気分となった。そして、この三人もこの瞬間、この来客を日本という文化圏の異なる所から来た異邦人として受け入れよう、そんな意志が働いていたのが、垣間見えた。

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私自身が習慣として「いただきます」と言わなくなったのは、いつからだろう?食事を作ってくれた人、お米を作ってくれた農家の人、そして食べ物そのもの、不特定の多くの人に対しての「祈り」がそこに込められている、そう思う。そして、その感謝の気持ちを、習慣として「いただきます」と言うことは、とても重要な文化ではないか、そう思えた。

食事中、隣の女の子たち二人が十字を切ったのを見ると、私は、食事中にもかかわらず、箸を置いて「いただきます」と言ってみた。そうしなくては、何か自分の中の不思議な気持ちが抑えられない、そんな気分だった。

ひとにやさしく。

2008-12-11 14:27:10 | Weblog
ちょっと変わったトレーニングをしてみたい。

私はいままで、沢山の情報を垂れ流しにしてきた様に思う。多くのひとと普遍的な価値を共有したい、と思い、それを追い求めた結果、残念ながら理知的な方向に行ってしまった様な気がする。

だから、ここでひとつ小さなチャレンジをしてみたい。

できるだけ難しい言葉を使わずに、皆に共感してもらえる文章を書いてみたい。

もしこれが成功するのなら、私の可能性の新たな扉が開いたことになるかもしれない。そして、それが私が人に対して、今まで以上に優しく接することができるチャンスになるかもしれない。

だからと言って、今までのハードコアな感じの批評文が無くなる、ということではありません。ご心配せず。

今まで、ずっと書きたかった、と思い続けていた一人旅の話も、ここいらで一度まとめてみたいと思う様になった。もう一人旅を始めて6年が経ち、鮮やかだった記憶も、遠い思いでになりつつある。だから、忘れる前に書きとめておきたい。そんな風に思う。