マテリアリズムは、それ以上問いを立てないということを皆が了解した時に生まれたのではないか。つまり目に見えないものの存在や価値を無視して、誰でも簡単に理解できる、目に見えるブツだけを対象にしようとする精神的貧しさが、物質を中心に据えたマテリアリズムを生んだのではないか。
⑦ゾウの牙は一生に一度しか生えない。象牙を奪うにはゾウを殺すしかない。100年前は1千万頭いたが、現在は50万頭前後。年間数万頭が密猟で殺され、動物保護団体「今後1世代のうちに絶滅する可能性がある」(*罠で右足をケガしたゾウ) pic.twitter.com/PWi7ENli1j
動物とコミュニケーションを取っていると、気づかされることが沢山ある。人間は言語を発達させたけど、動物も制限された手法の中でコミュニケーションを取っているのだと気付いた時、その中に宿っているものの意味や価値に気づかされ、それについて考えざるを得なくなる。
感受性のレベルを上げていくと、動物も必死になって人間とコミュニケーションを取ろうとしていることに気づくことがある。きっと動物も、自分の気持ちを他者にできるだけ正確に理解してもらいたいと思っているのだと思う。
オウムやインコは、その飼い主が異性の人間を連れて行くと、その異性に主人を取られたと思って嫉妬すると言う。それだけの愛情を人間に注いでしまうからこそ、あたかも神の怒りを買ったエーコーがナルキッソスの嘆きになってしまったかの様に、飼い主の声を模倣したがるのだと思う。
「一番気になってきたのは、被害者たちの被害性からの自己疎外です。自分で自分の感情や、大切なものを否定しなければならない。そういう効果が最初からあって、それがどんどん強化されている気がして。 」asahi.com/articles/ASJ4H…
これは素晴らしい記事。影響力のあるTVコメンテーターのアイディアを専門家が検証するって、結構理想的なことかも。
マツコ・デラックスの「教育費と医療費の無償化案」 京都大学准教授が試算 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…
トランプ氏の外交政策、ロシアで好評 cnn.co.jp/world/35082020… @cnn_co_jpさんから
雅楽における3つの管楽器(三管)、すなわち笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)、篳篥(ひちりき)はそれぞれ、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声を表す。つまり雅楽には、天と地の間に人が存在するという易経のコスモロジーが色濃く現れている。
私はチベットで音楽活動をしていたミュージシャンの方から、「渡辺さん、龍はキリーンと鳴くんですよ」と教えてもらったことがあるけれど、これは神話上の生き物で実在しない龍の鳴き声はあまりにも高音で、それ故に人間ではなかなか聞き取ることができない、という共感覚が現れたものだと思う。
2オクターブの音域を持つ雅楽の龍笛は、地にある人の声を表す篳篥の旋律にまとわりつく副旋律を担当することが多い。すると古代人は、天と地をそれぞれ1オクターブずつと捉え、その2オクターブ間を行き交う音を、天と地の間を泳ぐ「龍の鳴き声」だと捉えたのではないか。
ドイツ人学生に日本語の仕組みを教えていながら感じた「ひらがな」の凄い所は、漢字の部首を単純化して角ばったカタカナに対して、漢字の音を共感覚的に消化して丸みのある文字へと変化させた所にある。「ひ」とか「ぬ」とか「む」とか、音を文字という形への変化のさせ方が非常に音楽的かつ共感覚的。
バーネット・ニューマンは戦後すぐに始めたZipのペインティングのシリーズを、四角を取って丸めた部屋の中に展示するよう指示していたけれど、これは日本人が漢字から角を取り去って「ひらがな」を生んだのと似た、共感覚的かつある種風水的な試みをしている様に私には思える。
バーネット・ニューマンが戦後すぐに始めたZipのペインティングシリーズも、そのZipという音から、戦争の野戦で使われたZippoの音とそれが放つ光、さらにジーンズのジッパーをジジっと上げて締める様に、忌まわしい戦争の記憶に蓋をしようという試みがミニマルかつ音楽的に表現されている。
今思いついたのだけれど、人間の可聴領域を超えた音を出す犬笛などの楽器だけを集めて、動物たちだけに聞き取ることのできるアンサンブルを作ることは可能だね。
同時に、赤外線や紫外線など、人間の可視領域を超えた周波数の波動を使うことで、動物にだけ鑑賞可能なビジュアル・アートを作ることもできるはず。
そうすると、人間の可視領域を超えた波動によるビジュアルアートと、人間の可聴領域を超えた音域を使った音楽を用いて、人間以外の動物にだけ鑑賞可能な総合芸術を作ることは可能かもしれない。彼らがそれを理解できるかどうかは別としてね。
子供の頃、初めて習字をやった時、毛筆で「む」という字を書いた時に、左側はループするし、右側には点が付くし、なんか不思議な文字だな、と思ったことを思い出した。やっぱり、そこに何か不思議なものがあるのだと思う。
言語的感覚と、その言語が指す形やモノ、そして色などの共感覚的なつながりを扱わないと、「認識可能なものが存在する」ことと、「もの自体は存在しない」ことの意味を扱えないだろう。これはカントの構想力を考える上でヒントになる、大乗仏教中観派が作り上げた哲学の白眉だと思う。
この抽象的なものの存在を「認識可能なもの」として(共)感覚的に共有した時に神話が生まれ、その神話を記したものが言語となり、その言語を共有するグループがネーションになる。「もの自体の存在」を規定するのは、言語による認識やその記述からの理解の順序として間違っていないか?
アーキタイプとは、認識可能なものを構成する最小公倍数なのだと思う。