Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

京都入り+三十三間堂のアフラ・マスダ、そして神像+五臓六腑

2008-06-28 00:59:12 | Weblog
25日の夜には、ボランティアさん達に集まって頂き、実行委員会のミーティングを展示会場であるヒルサイドフォーラムにて行う。ヒルサイド側でオーガナイズをして下さっている坪井さん、それと実行委員会の側でオーガナイズをリードして下さっている林田茜さんの頑張りもあり、多くの協議事項はすんなりと決まっていき、本当に良かった。参加して下さった皆様、ありがとうございます。

26日、京都行きの新幹線に乗るべく品川へと向かう頭注の山手線に乗っている途中、渋谷駅に着くと、アトミック・サンシャイン展へとカタログテキストを書いてくれたマックス・ブラックが同じ車両に乗ってきて、ばったり出会う。横須賀にある研究室にて、戦後日本の研究をしているそう。それにしても凄い偶然。いろいろと情報交換する。

京都にて、2つの大学関係者とミーティングをし、アトミック・サンシャイン京都展に関していろいろと議論する。何度となく足しげく通っている効果が出て来たのか、かなり腹を割った話となる。初めて会った大学関係者の方には、私が若いのでボランティアさんか何かだと勘違いされていたらしい(笑)

今日も大学関係のスペースをチェックした後に、お寺へと向かう。やはり京都に行ったら、最低一つはお寺に行かなくては。今回は、以前から気になっていた三十三間堂へと向かう。中学の修学旅行以来、2回目の拝観である。

ニューヨークでパ-ルシー(ゾロアスター教徒の末裔)の建築家のサロシュと話した際、ゾロアスター教のアフラ・マスダが三十三間堂に祭られている、ということに本当に驚いた、と言っていたのが印象的で、ぜひ私ももう一度訪れて見たい、と思っていたのだ。そして、やはり行ってみて良かった。28体の仏像のうち、27対がサンスクリット語から漢訳、さらに日本語訳の対訳付きで、とても勉強になった。少し準備していた事もあり、私もずっと理解が深くなっていたのだ。(ちなみに、アフラ・マスダの完訳はアフラ=阿修羅です。ちなみに図にある光明神アフラ・マスダのイメージは、エジプトの太陽神ラーのイメージと酷似している)

その後、京都国立博物館に、神像を見に行く。私は最近、仏像と神像の違いに興味があり、ぜひ京都に行ったら本物の神像を見てみたい、と思っていたのだ。

神像の中にも仏教の影響が強いものがあるのだが、いくつかは、まさに原日本を想像させる、ある種の恐ろしさを秘めた像であった。ごつごつとした顔に、クリーム色のペイントを塗られた女性の像は、人の理解を拒む様な、異様さを持っている様に感じられた。

しかし、それよりも驚いたことがあった。中国の西部で保存されていた、という「五臓六腑」(仏像を仏の像とする為に、人間の臓器を模倣して木像に入れる手製の内臓)のレプリカを見たのだが、これが凄かった。心臓や五臓を形取った布製のものにサンスクリット語の呪文が書かれているものだったのだが、その中に、子宮の卵管と、女性器そのものを形取ったものであった。そして、そのデザインが、非常に美しかったのだ。女性器そのものを形どった布が、メビウスの輪の様にデザインされていたのが印象的であった。

私は興奮気味に、ぜひ資料として個人的に使いたいので、写真をくれないか、と頼んだのだが、お寺の許可が無いと写真として公開できない、と断られてしまった。これでは、出直すしかない。しかし、あれは本当に凄いものだっが。例えば、卒塔婆はストゥーパの漢訳だが、ストゥーパは子宮を模倣している。鳥居の原型である「たまさか」も女性器に似ている、と思ったのだが、原始宗教の形態がビジュアル化した瞬間に迫る、というのは、歴史のロマンを感じませんか?

ホームページ、リニューアルしました+東京での日々

2008-06-24 18:49:52 | Weblog
ホームページ、リニューアルしました。

デザインを担当して下さったOctet Designさんと、林田茜さんには本当に感謝です。ありがとうございます。

帰国後、早速準備に動いている。

森美術館でのターナー賞の展示を見た後に、築地にてアーティストの照屋勇賢さんと合流し、タグボートにて販売しているエディション作品の確認や、インタビューのアポイントメント、さらに製作などに関しても議論をする。勇賢さんとの時間はいつもクリエイティブな時間になるので、一緒にいて楽しい。

日曜日は展示カタログのデザインを担当して下さった相澤さんと一緒に、横浜美術館にて茂木健一郎さんがキュレーションした「4人が創る『わたしの美術館』展」の関連イベントとして開かれた茂木さんのトークに参加してくる。茂木さんの話を久しぶりに長時間聞いて、刺激になった。トークの途中で私の展示企画について多くを触れてくれて、なんだか恥ずかしかった。トーク終了後、楽屋でいろいろ話していくうちに、話がエキサイトして、この続きは7月4日に横浜美術館にてやろう、ということになった。とても楽しみだ。対談をセットアップして下さった八柳キュレーターと木村キュレーター、ありがとうございます!

その日の夜は茂木さんのゼミ生だった上田くん(通称ジャガー上田くん)とそのフィアンセ、さらに相澤さんと勇賢さんを交えて、日本文化の現状などについていろいろと語る。そんな中、上田くんと勇賢さんが夢精について話が盛り上がってしまい、私は話題に乗り遅れる(笑)

月曜日は朝にTシャツデザイン会社の方とミーティングし、午後はゲーテ・インスティテュートのシュメルター博士と、今後の可能性についていろいろと議論する。帰宅後は作業に没頭。そして今日は一日、デスクワークに追われる。ひたすら電話していた。

明日はヒルサイドフォーラムにて実行委員会のミーティングを開催する予定だ。万全に準備を進めたい。

茂木健一郎×照屋勇賢 クロストーク:太陽(ティーダ)―もうひとつの「顔」

2008-06-23 22:51:34 | Weblog
「アトミック・サンシャイン - 九条と日本」+「4人が創る『わたしの美術館』展」連携イベント

茂木健一郎×照屋勇賢 クロストーク:太陽(ティーダ)―もうひとつの「顔」
(モデレーター:渡辺真也)
日時:2008年7月4日(金)16:30~18:00
会場:横浜美術館 企画展示室

*来場される方は、当日有効な「4人が創る『わたしの美術館』展」展覧会チケットが必要となります。

8月6日より代官山ヒルサイドフォーラムにて開催される「アトミック・サンシャインの中へ―日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展は、第2次世界戦後の国民・国家形成の根幹を担った日本国憲法第9条と、それに反応した日本の戦後美術の検証を試みた美術展覧会です。日本国憲法は日本の民間草案を取り入れた上でアメリカ占領軍によって書かれていますが、その第九条には、主権国家としての交戦権の放棄と戦力不保持が明記されています。

その展示に「さかさまの日の丸」という作品を出品した沖縄出身のアーティスト照屋勇賢と、脳科学者の茂木健一郎による対談を開催します。ティーダとは、ウチナ口にて「太陽」を指します。私達の通常認識している太陽と、どこが違うのでしょうか?照屋氏の作品「さかさまの日の丸」とは一体、何なのでしょうか?そして、アーティストの表現と、脳科学者のアプローチには、どんな接点があるのでしょうか?

「意識」は「意識されているもの」という「他者」を持ちますが、その「他者」とは「意識にとっての他者」でしかありません。もしも「絶対的な他者」があるのなら、その相対的な「他者」を超越した所にあり、哲学者レヴィナスはそれを「顔」と、そしてカントは「物自体」と呼びました。

自己を認識する際に、自分の「顔」を日常認識しているのは人間だけだ、と茂木健一郎氏は述べています。ここで、「日の丸」の持つオブジェ性(=物自体)を作品とした照屋勇賢氏と、共通する「他者」というテーマが見えて来るのではないでしょうか?そんな、もう一つの「顔」を巡る対談です。(渡辺真也)

発話主体とコミュニケーション

2008-06-17 09:22:36 | Weblog
友人のアーティストたちと、こんなゲームをしたことがある。

お互いの母国語を理解しない同士の人間が向かい合い、自分の母国語のみを使用し、相手に向かって話しかける。私は、日本語の分からない相手に向かって、日本語で話しかける。相手は、私の理解できない言葉、つまり彼らの母国語で、私に向かって話しかける。そしてお互い、相手が何を話しているのか、というのを何となく想像しながら、会話を進めていこう、というゲームである。

実は私はこのゲームが好きで(笑)、言語やコミュニケーションをテーマとしたアーティストを見つけた際、お酒が入って話が盛り上がってくると、このゲームを行う。

日本語は、どうしても文章の中に横文字が入ってくるので、
「私はあなたとコミュニケーションを取りたいとおもって、このダイアローグを続けているんだ」
みたいな事を話すと、コミュニケーションとダイアローグという単語が入ってくるので、あとは主語(つまり私と相手)、動詞、形容詞さえ想像できれば、文章の理解が可能となる。動詞はなかなか想像がし難いが、形容詞というのは、話し手と面と向かって話せば分かるんじゃないか、そんな淡い期待を持ちながら、相手に向かって日本語でしゃべる。

そして私も、全く知らない言語の人間と話している際、例えばラテン語の影響がある言語の人間だと、何となく相手の言っていることが分かるときもあるが、ほとんどは理解できない。しかしゲームのルール上、それに対して応えなくてはならないので、相手の言っていることを一生懸命想像しながら、必死で応答する。

そして、1分ほど話し終えた後で、お互いが何を話していたのか、確認する。そこでお互いが交わしていた言葉の齟齬が分かるので、ワハハ、となる。

そんな中、相手に対して、「あなたはさっき何って言ったの?」と聞いた際、「シンヤ、あなたは人の話を聞かない。独りでしゃべりすぎだ、とさっき話したのに、何も聞こえてないみたいだ」と言ったと言われて、苦笑してしまった。

その時、私は確かにしゃべりすぎていた、と考えた。しかし、何故しゃべりすぎていたのか、考えてみた。

言語によるコミュニケーション、つまり発話する主体となった日本語を話している自己は、日本語を話さない他者とのコミュニケーションの手段としての言語という形態を取っているのだが、この発話、という行為が、私にとって突然、「願い」という言葉と重なって思えたのだ。

「願い」とは、こうあって欲しい、という希望である。ほとんどがはかないものだが、例えば、日本語を理解できない他者に向かって発話し、理解してもらいたい、と考えた時点で、発話、つまりコミュニケーションの往来の「往」の側、つまり相手に理解してもらいたいという自分自身の「願い」、さらに他者に理解してもらいたい、という相手に対する希望が、発話する自分自身の主体という一人称のループの中で増幅したのではないか、だから私は普段よりしゃべり続けたのではないか、と考えた。

言語によるコミュニケーションそのものが、齟齬を前提として成立している、というのはいささか後ろ向きな言い方ではあるが、言語が恣意的なものである限り、そういうものである。そこに真摯になった方が、コミュニケーションの可能性を探ることができる。なぜなら、表現は言語で語りえぬもの、つまり言語の外部にあるからだ。

憲法に話を移すと、憲法は文章によって国家の主権者であるネーションを規定する訳だが、これは言語の恣意性というのを極限まで切り落とした、ある種想像力の逆に位置するものと言えるかもしれない。ネーションそのものが、敵対概念を明確化する為に他者の存在を前提としない書き方をするのは、この問題と関係している様に思える。

最近、自分で存在しない言語を作り、その言語で賛美歌を作っているアーティストに出会った。美しい歌声であったのだが、発話主体そのものが「願い」ということと一致しているのではないか、という自身の考えと偶然にもシンクロし、不思議な気分だった。

西日本新聞への投稿+ニューミュージアムでのレクチャー

2008-06-15 15:19:18 | Weblog
6月14日土曜日発行の西日本新聞に
「民主党候補指名争い現地報告」オバマに見た米国の民主主義
演説に説得力、ネットで浸透
という記事を投稿・掲載しました。ご覧になった方がおられましたら、コメント頂けると嬉しいです。

12日には、ニューミュージアムの教育デパートメントにて開催されていた在韓米軍の展示の一環として、アーティストの砂入博史さんとトークを行ってきた。テーマが「戦後日本美術を巡る問題」、そして被爆と9条をテーマとしたかなり硬派なものだったので、本当に人が集まるかどうか心配だったのだが、40人程度の方が集まり、立ち見してくれる方も出てくる盛況ぶりで嬉しかった。

まず最初に、砂入さんが被爆をテーマとした自身の作品について述べた後、私は9条をテーマとして扱ったアトミック・サンシャイン展のことについてお話したのだが、限られた時間、ということでできるだけ大きな「戦後とは何か」という枠組み、そして9条の歴史的意味について話すことにした。そして、現在の9条を巡る最大の問題の一つとして、在韓米軍と似た情況にある在沖縄米軍の話をして、戦後美術というコンテクストと沖縄の本土復帰の話を接続する為に、沖縄の本土復帰から1年後の73年、フィンガー5が東京にて行ったコンサートにおける「恋のダイヤル6700」を流して終わった。

アメリカ人との質疑応答も比較的しっかりした質問が出てきて、嬉しかった。それに対する回答をちゃんとやったら、後で質問をしてくれた皆に握手を求められ、それがまた嬉しかった。

しかし、日本人の友人からは、真也くんは日本語で話す時よりも英語で話す方が論旨がしっかりして分かり易い、という旨の指摘を複数の人から受けた。私自身、そう思うことが多々ある。日本語における思考の、円還してしまう部分が、私はどうやら苦手らしい。

こういう人前に出て話す機会をもっと増やすことで、自分の思考の精度を上げて行きたい。ニューミュージアムのHaeyun、砂入さん、そしていらして下さった皆様、ありがとうございました。

照屋勇賢氏のCプリント作品「Dawn」 タグボートにて世界先行販売!

2008-06-14 02:16:54 | Weblog
照屋勇賢氏のCプリント作品「Dawn」のタグボートでの販売が始まりました。

この作品の売り上げの一部が、「アトミック・サンシャイン」東京展実行資金となります。照屋勇賢さま、タグボートさま、ありがとうございます。ぜひ皆様、作品をご覧になって頂き、お買い求め頂けたらと思います。


照屋勇賢
「Dawn」
2008

ピストルやナイフといったオブジェに、オオゴマダラという蝶の金色に輝くと言われているさなぎを、さりげなく付着させている。黄金に輝く蝶の蛹のぬけがらは、タイトルから「夜明け」(Dawn)と共に空へと飛び立ったであろう美しい蝶を想起させる。同時にこの夜明けでは、鑑賞者の主体的参加、つまり想像力を働かせる、というモンタージュが求められている。つまり、何が現実社会における夜明け足りえるのか、というアーティストの問いが内包されている。
この蛹の有機的な形は、見るものにその美しさと繊細さ故、暴力を連想させる人工的オブジェに触れることをためらわせる。自然のもたらす有機的美しさ、という力の下で、人工的な力を寄せ付けない、自然の美の強度が保たれている。そう、そこからが、私たちの夜明け足りうるのである。(渡辺真也)

ニューミュージアムにて、日本の戦後美術の問題に関してレクチャー開催します

2008-06-10 01:59:32 | Weblog
New MuseumのHaeyon Parkさんの提案で、6月12日に日本の戦後美術の問題に関し、砂入博史さんと一緒にレクチャーを開催します。詳細は以下の通りです。ご興味のある方は、ぜひご来場下さい。

Issues in Post-War Japanese Art―From Hiroshima to Peace Constitution: A Conversation with Shinya Watanabe and Hiroshi Sunairi
Part of Museum as Hub, Exhibition Related

Thu, Jun 12, 2008 | 7:30 PM
Museum as Hub, 5th floor
Free with Museum admission

Independent curator Shinya Watanabe and artist Hiroshi Sunairi discuss the philosophical meaning of Article 9, the so-called Peace Constitution in Japan drafted by U.S. occupation forces after the war in the context of the U.S. military presence in Okinawa. Sunairi will speak about his recent work Elephants Never Forget shown at the Hiroshima City Museum of Contemporary Art in 2005, the sixtieth anniversary of the atomic bombing in Hiroshima.

This open discussion is part of the Museum as Hub project “Dongducheon: A Walk to Remember, A Walk to Envision,” organized by Insa Art Space, Seoul, and on view in the fifth floor Museum as Hub space until July 6, 2008.

Born in Shizuoka, Japan, in 1980, Shinya Watanabe is an independent curator based in New York. After acquiring his MA at New York University, Watanabe traveled thirty-four countries as a backpacker and started to curate an exhibition on the relationships between nation-state and art, "Another Expo―Beyond the Nation-States” (White Box, NY, 2005). He is currently preparing the exhibition "Into the Atomic Sunshine―Post-War Art under Japanese Peace Constitution Article 9" (Puffin Room, NY, 2008, and Tokyo, 2008).
spikyart.org/atomicsunshine/index.html

Hiroshi Sunairi was born in Hiroshima, Japan, in 1972, and currently lives in New York. His work Elephants Never Forget, was shown at Hiroshima City Museum of Contemporary Art in 2005, the sixtieth anniversary of the atomic bombing of Hiroshima. Most recently, Sunairi exhibited White Elephant, a memorial of the events September 11, for a group exhibition at the Japan Society in New York during Fall 2007. He is part-time faculty in the Department of Art and Art Professions at NYU.
sunairi.blogspot.com

アイデンディティの深層へ

2008-06-09 05:17:48 | Weblog
最近、仕事のリサーチを続ける上で、いくつか面白い事実を見つけた。韓国王朝とインドに関する歴史と、ウルトラマンの作者、金城哲夫の背景についてである。

韓国にはいくつか苗字があるが、金(キム)という苗字のル-ツの一つが、韓国に3-6世紀に存在した伽耶諸国のスロ王(King Suro)から来ているそうである。このSuro王は、北部インドからやって来たAyodhyaの王妃(韓国語表記でHeo Hwangok)と結婚し、その後140年間幸せに暮らしたとされており、そしてこの史実は、韓国政府が公式に認める唯一の王族間の混血結婚であるらしい。そして韓国のKimhae City(金海市)とインドのAyoda市は、1999年より姉妹都市提携を結んでいると言う。

伽耶諸国は、高句麗、百済、新羅の三国時代に、倭国(ヤマト王権)の朝鮮半島における出先機関があった、と言われている所であるが、こんな史実があったのか、ととても驚いた。また、インドのアヨーダー(Ayodhya)はヒンズー教の神、ヴィシュヌの化身であるスリラムの生まれ故郷であるが、その影響が朝鮮半島に入っているとしたら、本当に凄いことだと思う。

「ウルトラマン」の作家である金城哲夫について調べていたら、とても面白いことに気付いた。私は、金城を沖縄生まれの沖縄育ちの人物だと思ったのだが、そうでは無い様なのだ。

ペルー育ちのクリスチャンである母親のつる子が、父親の東京遊学に付き添って産んだ子、それが金城哲夫であるという。こういった環境から、哲夫は標準語を話す環境に置かれ、日曜日には教会に通っていたと言う。高校時代にはクラスで3番以下になったことのない優等生であったにも関わらず、高校受験の際にはわざと入学試験の答案を白紙で出し、那覇高校の受験に失敗した上で、両親に東京の高校を受験したい、と懇願する。もしかしたら、ウチナ口の上手く話せない金城には、日本本土に対する哀愁があったのかもしれない。

その後、ウルトラマンシリーズを取り終えた金城は、本土復帰前の沖縄に帰って沖縄芝居を作っているのだが、ウチナ口でせりふを書くことができず、標準語の文章を沖縄の訳者がウチナ口に翻訳して演じていた、というのだ。これは興味深い。その後金城は、本土復帰の75年に沖縄海洋博をプロデュース後、37歳で死去した。

アイデンティティが、言語、宗教、国家をまたいで交錯している。もっと深く掘り下げてみたい領域である。

オバマの父の問題

2008-06-08 02:06:01 | Weblog
展示準備が大詰めだ。とにかく忙しくなってきた。特に連携を取って進めて行かなくてはならない分野においては、なかなか時間通りに進まないことが多く、どうしても全てが押せ押せになってしまう傾向がある。これはどうにかして解決しなくてはならない問題だ。

また、ファンドレイジングが未だに苦しい状態だ。展示開催まであと2ヶ月しかない、というのに、これは厳しい。いくつか販売可能な作品もあるので、それを販売しつつ、さらに、個人からの寄付を募って行くしかない。企業からの協力は、展示の性格上、どうしても難しい。本当に厳しい。

そんな中、仕事の関係でオバマ大統領候補について調べなくてはならないことがあり、ちょとネットを使って調べてみた。ネットは、大統領選挙などのメインストリーム系のデータを調べるのには、本当に便利だ。

そんな中、オバマの父の存在に興味が湧き、調べてみた。オバマは、2歳の時に両親が離婚し、母方の家族に引き取られ、ハワイとインドネシアで育っている。オバマが父と再会したのは、10歳のとき、一度しかないと言う。その父の悩みであった人種の問題を、何とかして乗り越えたい、という気持ちが、今回の大統領選挙出馬の理由の背景にある様なのだ。

調べていて驚いたのが、オバマの父に奨学金を与えていたのが、ハリー・ベラフォンテであったということだ。ベラフォンテに関しては以前にもブログで書いたけれど、こういった所でオーバーラップするのは面白い。まさに歴史の因果だ。

あー、もう、仕事が山積みだ。でも、とにかく、頑張るぞ!