Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

空再考とボンとの再会

2006-09-29 14:15:21 | Weblog
昨日のブログでサンスクリットから漢訳への問題についてすこし触れたが、空という概念について興味があったので、語学に堪能な同僚の台湾人に聞いてみた。

日本語でいう空(そら)は、天空という風に書かないと、日本語で言う空(そら)すなわちSkyという意味にならない、ということを同僚の台湾人から聞いた。その後、韓国人のアーティストにも同じことを聞いてみたのだが、やはり空という文字だけではNothingnessとEmptinessを指すが、Skyという意味にはならない、と言われた。おそらく空(くう)という音読みは正しく、空(そら)という訓読みは、極めて日本語的なものなのかもしれない。また、韓国語でもマンダリンでも、空はコンと発音するらしい。

今日アートフェアで働いていたら、私のルームメートだった韓国人のボンがひょっこりブースを訪れてくれた。彼は2年に及ぶ兵役を終えてNYに帰ってきた、ということは知っていたのだが、まさかこんな所でばったり会うとは。彼とは大学院の1年生時代に同学部同学科の同級生で、同じく1980年生まれのみずがめ座だったのだ。なんだかかぶる所がいろいろあったので、とても気になっていたのだが、彼は将来的にNYに戻ってきたい、という希望から、1年生を終えた後に休学し、兵役に行っていたのだ。それを終えて、大学院に無事復帰したという訳。元気そうで何より。近いうちに飲みに行こう、という話になった。楽しみ。

それと、ピカソの息子さんがアートフェアのブースを訪れてくれた。顔がそっくりでビックリ。とってもダンディで、優しい面持ちだったのが印象的だった。

サンスクリットと漢訳の限界?

2006-09-28 14:14:16 | Weblog
昨日今日とアートフェアの準備。かなりクタクタ。

今日の夜からプレビューがあって、何人か重要なお客さんがブースに立ち寄る。そんな中、一人面白いお客さんがいて、話し込んでしまった。

ヌプールと言うインド人女性のデザイナーが、展示していたビンテージの中国文化大革命時のプロパガンダ・ポスターに興味を持ってきて、手元にあったポスターを全て一緒に見ながら説明する。彼女は特に毛沢東に強い関心を持っていて、そこに書かれていた漢字をきっちりとコピーしていった。

セイラ・カメリッチもそうだったのだが、優れたビジュアル、そしてデザイン・センスを持っている人は、漢字をコピーするのが異様に上手い。きっちりとトメ、ハネを残して毛沢東という文字をコピーしていったのが印象的だった。

その後、中国や世界史の話になり、その後漢字の話になった。ヌプールと漢字で書いてほしいと頼まれたので、迷った挙句、「能波留」とごまかしごまかし書く。(どうでも良いけれど、「プ」って、漢字書けないよね)あなたの漢字はどう書くの、と聞かれたので、真也を書いて、意味を説明した上で、サンスクリット語でシューンヤーは空だよね、と言うと、違う、と言われてしまった。

サンスクリットで空だと思っていた私の名前は、ヌプール曰く、正確には円形の開始、すなわちNothingnessと世界の始まり、という意味らしい。そして、そのルーツはサンスクリット以前にある、と指摘された。これは本当に面白い。

私達が知っている、中国語でいう「空(くう)」の思想は、インドから切り離されて東アジアに伝播したものと捉えるのが適切なのかもしれない。ナーガールジュナの思想もインドでは広がらなかったのではないか。

仏教で言う空(くう)は、サンスクリット語でzUnya、パーリ語でsuJJa、英語でSunyaとなる。しかし、もしかしたらこの「空」という言葉を漢訳した際、漢字の当て字に無理があったのかもしれない、とちょっと思い直した。それは明治維新の際、キリスト教のLoveを説明しようとした際に、仏教の愛をひいてしまったのと似たような状況かもしれない。

ナーガールジュナという名前は、漢訳された際に龍樹(りゅうじゅ)という名前になるのだが、これは「ナーガ」という言葉が蛇という意味であり、それに対する当て字として「龍」が当てられたためである。そもそもナーガールジュナが中庸にて空の思想を体系化していき、同時期にインドにて仏教が弱体化していくのだから、空、という当て字をあててしまった事によってインド仏教の持っていた意味を取りこぼしてしまったケースも少なくないかもしれない。

その後、ガンジーの話で盛り上がり、別れ際にヌプールからガンジーの顔が書かれた5ルピー札をもらう。裏側に書かれた稲作のイメージが鮮烈で、アジアは農耕文化だよね、なんて話しをした。楽しかった。

ゼゼッションとユニフィケーション

2006-09-26 14:06:23 | Weblog
日曜日はMoMAでキュレートリアル・アシスタントをやっているヴェランヌと一緒に、ノイエ・ギャラリエにてクリムトを見てくる。最近、世界記録となる高額で取引された絵画が展示されていて、それを見てきたのだ。お客さんの多さもさることながら、クリムトの作品の華麗さに胸を打たれる。それ以上に素晴らしいとも言えるのは、シーレのドローイングたち。すごいの一言。ゼゼッションの時代におけるこの二人は、他の追随を許さない。

その後、ヴェランヌが現在企画中の展示について、いろいろと知恵を絞る。ヨーロッパとNYのマーケットでは受け入れられる作品やコンテクストが異なってくるので、それに関していろいろと意見交換。北米のアーティストとヨーロッパのアーティストまたはその現状では状況がかなり異なる。特にNYにおいてはネーションや人種のコンテクストに回収されやすいものでも、例えばフランスであればもうちょっと違った見方があるのではないか。また、私の次回の展示に関する意見も聞けて、大変有益だった。

今日はISCPというアーティスト・イン・レシデンスのオープン・スタジオにパメラと一緒に伺ってくる。スロバキア出身のアーティスト、アンネッタにぜひ来るように、と招かれていたのだ。いつも通り、ISCPはアットホームな雰囲気で、落ち着ける。仲よしのLievenやJulikaには会えなかったけれど、多くの新しいアーティストに会って話しをすることは、多いに刺激になる。特にサラエボ出身のLaraというアーティストとは、私がユーゴスラビアを専門に扱っていたこともあり、話が盛り上がる。一緒に行ったパメラとは、いつも通り、旧約聖書におけるヨブ記の話から、ユングにおける集合的無意識、そしてドゥルーズの行ったカフカ批判にまで多岐にわたって話しが盛り上がる。Julikaがいれば、この辺の話ももっと盛り上がったろうに、と思うとちょっと残念。

その後、イーストビレッジにてチェルシーのギャラリーにてマネージャーを務めるダリトと展示に関して意見交換。ダリトはイスラエルとアメリカの二重国籍で、私がテーマとする国家的な問題に関する視座は深い。私のやろうとしている国家の主体性の問題に関しても、すんなりと理解してくれるだけの知識があるのは有難い。私のプロポーザルを丁寧に聞いてくれた上で、できることなら何でもする、と言ってもらえた。嬉しかった。私は友人に、本当に恵まれていると思う。皆に感謝しなくては。

カールステン・ニコライと主体性の不可能性

2006-09-25 01:32:13 | Weblog
一緒に展示の準備をしているアーティストのパメラと、私がアシスタントを務めていたローズリー・ゴールドバ-グ、その旦那さんのダコタと一緒に、キッチンにてカールステン・ニコライのパフォーマンスを見てくる。

カールステンのコラボレーターである坂本龍一さんも会場にいらっしゃる。坂本さんはローズリーとは初対面だったので、紹介する。ローズリーはシリン・ネシャットのデジタルオペラのディレクターを務めたが、坂本さんは現在、シリンの作品の為の曲作りをしているそう。出来上がりが楽しみ。

カールステン・ニコライのパフォーマンスは、打ち込み系の音に映像がリンクしているものなのだが、映像の作りこみ方が凄い。どういうプログラミングなのか分からないが、ある一定の音が格子状に広がって行ったり、ある音声がまるで動物のような塊になって動いていったり、または粒子が散らばっていったり、という白黒の映像が約1時間続いたのだが、とても美しいものだった。美しいビデオを作ることそれ自体がかなり難しいことなので、それを音楽にリンクさせて作っているのはなかなかすごいと思う。

カールステンの映像のベースとなっているのが格子上の構造物だったのだが、こんなことを考えてみた。

最近エバ・ヘスの展示を見たのだが、最晩年の彼女の作品が始まりと終わり、そして内部と外部がない、天井から吊るしたひも状の彫刻作品であった。前回のブログで素粒子と超ひも理論に関して述べたが、そもそも自己規定から開始する、すなわち外部を内的なもの「のみ」から理解すること自体が、不可能なのではないか(私は主体性が嫌いなのだ!)

これはデカルト批判に繋がってくると思うのだが、二次関数(英語で書くとCartesian Coordinate system、すなわちデカルト関数)のX軸とY軸も、イマジナリーな領域でしか成立しないのではないか?XとYは最終的な所で繋がっているとするのであれば、ここに書かれた図形のようになる。そうすると、それはグリッドともメビウスの輪ともつかない形態になる。

メビウスの輪にえんぴつを刺した際、そのえんぴつにとっては裏面と表面が発生するが、メビウスの輪そのものにしてみると、裏も表も存在しない。これを丁寧に指摘していたのはラカンであったが、そもそも主体性とはこのえんぴつの様なものではないか?すなわち、主体性が物事の裏面、表面、もっと言ってしまえばXという指標のプラス・マイナス、Yという指標のプラス・マイナスを規定するのだが、それはねじれた位相の中での一地点でしかないと私には思えるのだ。

日本型ロボットと姥捨て山?

2006-09-22 10:43:08 | Weblog
先日は、五十嵐太郎さんとその友人たちとご飯を食べる。ディラー&スコフィディオが設計したシーグラムの建物の隣のレストランで食べたので、かなりの値段がした。その後はTime Warnerビルの展望台にてビールを飲む。痛い出費だが、面白い話で盛り上がったので、よしとしよう。

特に私が興味深かったのは、いわゆる西洋にありがちな「親殺し」の物語としての伝統が、アジアにない、という話である。

例えば、フランケンシュタインのお話も親殺しがフォーカスされているが、同じく人造人間のアトムにはそれが見られない。手塚が美術を担当するはずだった、キューブリック原作の映画A.I.も人型ロボットのデイビッド両親への圧倒的な思いが作品のかなりを占めるが、これは日本人にしてみるとちょっと理解しがたい感覚かもしれない。

この親殺しの話は西洋ではエディプス・コンプレックスと呼ばれてまとめて語られるが、最近、フロイトが「モーゼと一神教」を書いた理由として、フロイトが自分の父親を殺害の対象としてあてはめることがついにできず、最終的にその祖先の大本であるユダヤの父とも言えるモーゼの殺害を試みたのではないか、ということをラカンが指摘した、という事を知った。これはすごい。すごすぎる。

しかし、この親殺しの伝統は、ヨーロッパと明らかに密接に関係していると思われる。農耕民族として土地に根付いていった日本で親殺しの伝統がないのは、ある意味必然なのかもしれない。しかし、その代わり、口減らしとしての行為が行われた、と接続することも可能かもしれない。

先日、アメリカ人写真家のSam Samoreと話していた際、井上靖の話をされて、その延長線上で姥捨て山の話を聞かれた。「楢山節考」などがアメリカでも翻訳されて、紹介されているのだろうか。そういった所で初めて、姥捨て山の伝説が日本的なものだった、ということに気付かされたりする。

岡本太郎が沖縄に伝わる兄弟殺しの作品をあまりにも美しい話だ、と呼んだことが、頭をかすめていく。

おつかれさま。

2006-09-18 11:30:38 | Weblog
今日は久しぶりに実家に電話する。実は先週をもって、うちの両親が仕事からリタイアしたのだ。

実家でやっていた魚問屋の(株)マルヨ渡辺商店は、私が継がなかったこともあり、経営者が変わったのである。いろいろと経営上のシステムの変更もあり、その引継ぎ作業が3ヶ月ほど続いたのだが、先週をもって、無事そのプロセスを終えたのである。

とりあえず、父、そして母に今までお疲れ様、と言いたかった。本当に長い間、お疲れ様。これからは第二の人生を楽しんで下さい。私もできるだけ実家に長い時間帰れるように努力します。

今日、母と話していて驚いたのだが、私のブログを読んでとてもショックを受けた、といって嘆いていた。というのも、私が「国籍を変えることに関しても抵抗はない」と書いたことが、衝撃だったと言うのである。

私としてみると、今まで国籍でいろいろと苦労してきた。ジャマイカではパスポートが偽元だと言われ足止めを食らったし、スペインでパスポートを盗まれた際には、日本の総領事館で「日本人であることを証明して下さい」と言われ、そんなことは不可能だと思った。アメリカではビザで散々苦労したし、もうそんなものは、早く無くなってもらいたい、と思うことが多々ある。

私は日本というネーションがイマジナリーなものであることを、セルビアとボスニアを用いて証明したつもりだったのだが、もっと生活的なレベルで考えた時、そんな事はどうでも良いことなのかもしれない。そんな訳で、私が書いたことはどうやら母には勘違いされてしまった様である。

母は、日本人として生まれ、生きてきた、それがあなたのルーツなのだから、国籍を変えることに関しても抵抗はないなんて言わないで。ここがあなたのホームなのだから、忘れないで、としんみり言われてしまった。そう言われてしまっては、とりあえず謝るしかない。ごめん。

それと母には、そんなに先急がないで、周りを見渡せるだけの余裕を持って、というアドバイスを頂いた。

今日も私はサッカーに行ってきたのだが、私がサッカーをどんなに忙しくてもするようになったのは、もうちょっと人生を楽しもうと思ったからだ。今まで勉強や仕事に費やす時間が圧倒的に多かったので、せめて自分の本当に好きなことをやっておこう、と思ったのである。

そんな中、試合中、攻めてばっかりで全然ディフェンスをしないアメリカ人を叱責しながら疲れていく私自身に気付き、やはりネーションの問題を考えてしまったりするのであった。

いろいろなホームシック

2006-09-15 13:48:38 | Weblog
うちのギャラリーでインターンをやっているSが、なんだか元気がない。「どうしたの?」と声を掛けると、「ホームシックにかかった」との答えが返ってきた。

Sはフランス国籍だが、イギリス人の父とポーランド人の母の元に生まれ、フランスでフランス人として育った。しかし、両親がフランス人ではないからか、フランスに対するアイデンティティ・コミットがなく、ソルボンヌ卒業後はポーランドにしばらく住んだ後、NYに流れついて来た。本人曰く、全ての人が外国人とも言えるNYだったらホームな感じが味わえると思ってNYに来たら、予想に反し、ホームシックになった、と言って、笑った。

私のもう二人の同僚も、似たような経歴の持ち主だ。香港生まれのブリティッシュ国籍のRはアメリカのパーマネント・レシデントで、香港にもロンドンにもニューヨークにも特別な愛着がない。ブルガリア国籍でアフリカ育ち、ドイツで学位を取った後にNYに来たBも、ドイツやブルガリア、ましてやNYにもアイデンティティ・コミットがない。ひるがえって、私自身も、NYに帰ってくると帰ってきた、という実感があるが、いつまでもこの街に住むということはないんだろうなぁ、という感じは薄々感じている。と同時に、日本に帰った時、帰ってきた、と思うけれど、同時に居心地の悪さを感じてしまう。日本にもアメリカにも特別なアイデンティティ・コミットはないし、国籍を変えることに関しても抵抗はない。でも、アメリカ人にはなりたくない!というギリギリの所に、私のアイデンティティがあるとでも言えるかもしれないが。

しかし、こういった複雑なバックグラウンドを持った人たちが漂着する場所のひとつがNYであることは間違いない訳で、それがこの街を面白くしているのは確かだ。

S、とりあえず元気だせよ!ということで、RとBと一緒にSをなだめる。ホント、元気だせよ!

キュレーターとして残された課題

2006-09-14 13:36:51 | Weblog
最近、場の思想に興味がある。

直線的な思考においては場に関する理解は困難である。以前にブログに書いたI and you are here. のhereが問題だと思うのである。このhereの問題は、人称を先に規定する思考体系(いわばラテン語、または一神教地域とでも言おうか)ではなかなか認識が難しいと思う。リニアな発想では捕らえ難いと思うのだ。

アインシュタインが夢見た統一場理論(unified field theory)という言葉の中に「場」(Unified Field)という言葉が出てくるのは、統一した場、すなわち線的なものでない何か特殊な空間がイマジナリーな存在として規定されているのが理解できる。次元の問題も、十進法を先に規定してしまったことにより、捕らえ難くなっていると思う。これは、自然の係数(例えば切片曲線など)を中心にもってこないで、人間の指の数、すなわち身体のイデアを前面に持ってきたことと関係していると思う。

さらに、日本語で場という言葉を使った際、西田的な意味で、Unifiedというコノテーションが含まれている気がする。このUnifiedという概念が、自己の統一性を先に持ってきてしまった西洋哲学と一線を画している気がするのだ。

時間と空間の歪みが引力(gravity)となっている現れているのだが、日本語だと、gravityには引力と重力という2つの言葉があり、これはすなわち相対性と主観性の問題が言語構造に現れた例である。この例は英語には存在しない。

同じく、西洋の単純なレベルでの幾何学の構造が、こういった理解を逆に困難にしているのではないか。すなわち、場(unified field)のようなコノテーションは、ラテン語には存在しないのではないか、そんな印象を受けた。

素粒子を「点」とせず、ある種の「ひも」と理解した時に生まれる超ひも理論により、素粒子の観測の問題に糸口が見えたとされる。これは面白い問題だ。これも次元の問題と同じく、イデア的な認識の問題とも絡んでいると思う。

構造主義の中に潜む問題点、すなわち私達の経験や私達という言葉から始まる観測により、私達の周りを取り囲む問題を果たして正確に理解できるのか、という問題になってくる。これは時間軸の話としても取り扱い可能であり、尽きることのない話でもある。このフィールドにおいては、私には芸術の領域で、まだキュレートリアルな立場から見た際に、残させたことが沢山ある気がする。

サッカーのシーズン到来+NYライフ

2006-09-13 12:32:21 | Weblog
日曜日は、秋になってようやく始まった室内サッカーのリーグに参加してくる。このリーグに参加する様になって、はや3年。なんだかベテランになった気分。久しぶりに体を動かすと、気持ちが良い。この日の初戦は9-10のスコアで惜敗したが、私自身で2点取れたのが個人的にはよかった。

その後、日曜日の夜は、日本からNYに遊びに来ていたアート関係者と、夜遅くまで友人のスタジオで飲み会。この方は抜群に語学ができる方だったので、NYの現地の私の仲間とも溶け合って、話が盛り上がる。本当に気持ちが良かった。アートも本当にアートが好きな人同士だと、いくら話しても話がつきない。楽しかった。

今日、たまたまチェルシーのギャラリー・マップの裏表紙に、Kota Ezawaさんの作品「OJシンプソン裁判」のイメージを見つける。なんとMoMAのコレクション展の表紙(?)に選ばれたのだった。蔡国強, Rineke Dijkstra, Jeff Koons, Luc Tuymans, Bill Viola, Rachel Whitereadというメンバーの中で顔に選ばれるというのは、本当にすごいことだ。やったね、Kotaさん!

それはそうと最近、ヨーロッパと日本とのやりとりがふえて、時間の調子が狂う。日本に電話しようと思ったら夜型になるし、ヨーロッパに電話しようと思ったら朝方になる。気付くと朝も夜も仕事しなくてはならなくて、いつの間にか疲れはててしまう。

今日は早朝からチェルシーのフィリップスのオークションに行ってくる。その後、夜までギャラリーで仕事。そこから自分のプロジェクトを進めるべく晩御飯を食べながらパソコンに向かうも、さすがに疲れている。うーん、どうにか自分をコントロールしないと。。。

Wikiと無意識、そして新たな意思統一?

2006-09-11 03:14:50 | Weblog
先日、Wikiベースのアートアーカイブを製作中の杉浦正範くんと話す。マサノリ君はNYU時代の私の後輩に当たるが、非常に良い写真を作っていたのが印象的で、度々いろんな所で会う。

マサノリ君は現在、aDocumentという、アジアのアートをメインフォーカスとしたWikiを作ろうという、なかなか壮大な試みをしている真っ最中。私としてもできるだけ応援していきたいと思う。

マサノリ君とは、資本主義的発展の中でWikiの様なアルゴリズムの中に回収されていった際、地域性や外部性、または個人性は保たれるのだろうか、そんな話をする。地域性はおそらく保たれるが、全く新しい問題意識が生まれてくるのではないだろうか。

土曜日のお昼は、脳科学者の友人ベアトリスと一緒に、ワシントンスクエアで開かれたサマー・ステージを見てくる。

素晴らしい天気の中で聞くカール・ストーンの新曲、そしてジョアン・ラ・バーバラのボイスパフォーマンスは本当に気持ちの良いものだった。聞いている最中、木の葉が頭の上にひらひらと落ちてくるのは、本当に気分が良い。

特にラ・バーバラのサウンド・ペインティングと呼ばれる動物の鳴きまねをするパフォーマンスは素晴らしく、心を打たれた。前にも書いたが、私はラ・バーバラのボイス・パフォーマンスはメレディス・モンクのそれを凌ぐのではないか、と考えている。

ベアトリスと会うたびに言語、そして無意識の話ばかりしている。

意識は無意識から発生しており、近代は強烈な意識から発生しているのであれば、無意識が意識を生み出していることを述べるだけで十分コギト批判ができるのではないか、と私は思いついた。すなわち、考える自己を生み出す意識は無意識からのセレクションであり、その無意識には個人経験のみならず、遺伝子情報などが多分を占めている。そうなってくると、個人的経験や思考より、自然と歴史の蓄積の方に個人の選択のメインフォーカスが移るのではないだろうか。

無意識は遺伝子経験的なものが大部分を占めてくると思うので、その遺伝子経験的な部分を前面に出すことによって、十分経験批判、意識批判になるのではないか、と私は思い立ったのである。もちろん、思いつきの領域を出ていないが。

考える自己というのは十分自然の内部の現象だと思う。私はそこから思考を始めたい。

マサノリ君のWikiに話を戻すと、人間の行動パターンを資本主義発展に伴うgoogle的な手法でアルゴリズムに回収していくと、私は個人意思が新たなコミュニティまたは言語レベルの意思統一を生み出すのではないか、と考える。すなわち、個人レベルで無意識から意識が発生するように、コミュニティ/言語レベルで、意識から新たな統一意思が生まれてくる可能性があるのではないか。

ベアトリスが言った中で面白かったのは、反宗教改革の中でコギトが発生したのは、人間は動物と違い、明らかな意識を生み出せる、ということを明確にする必要があったのではないか、という持論を述べた。さすが科学者、マウスを毎日解体しているだけのことはあるなぁ(笑)