Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

美しいものと方法論について

2009-08-29 02:34:09 | Weblog
美しいものが好き、というだけでは駄目だろうか?それは私がアーティストの友人に聞かれて、一番困る質問の一つでもある。美しいだけでは駄目でしょう、とは言えない私もいるし、美術を美しいだけではなく、特に社会的コンテクストに回収しようとしている自分に気づくと、最低だなぁ、と思ってしまう。

例えば、美しい、と言える作品を作れているアーティストは、そうそういない。作品を見ていて、美しいな、と思えると、やはり嬉しい。(ImageはHARRY CLARKEより)美しいものが見たい、そう思った時に、いつでも立ち寄れる美術館が近くにあれば、それだけでうきうきした日々がおくれるだろうに、なんて思ったりする。

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今日、デュシャンの遺作についてPhiladelphia Museumにて特集が組まれているという記事がNYTimesに掲載されており、そこでHannah Wilkeの言葉が引用されていた。デュシャンの死後、Philadelphia Museumに設置された遺作を鑑賞した、当時Philadelphiaにて学生だったウィルケは、この作品に嫌悪感を抱いたと言う。しかし、嫌悪感を抱いたというWilkeの言葉、“To honor Duchamp is to oppose him.”は、デュシャンに対する最高の褒め言葉にも聞こえる。ここでウィルケが感じた嫌悪感は、美術という表現の方法の範疇にて、許容されていたものかもしれない。

私は初めて知ったのだが、デュシャンの遺作にて、ランプを持っている手の部分は、デュシャンの2人目の妻Alexiaの手型から出来ているそうだ。一人目の妻も作品のモチーフになっていることを考えると、なんだか聞いているだけで、落ち着かない。

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最近、あなた、方法論が間違っているよ、と指摘されて、私自身が方法論についてそれほど考えてこなかったことに気がつかされた。そんなことに関しても、時間をかけて考えて行きたい。

明朝体と音読について

2009-08-26 01:12:59 | Weblog
普段、日本語で会話をしていて、そこから仕事の関係で、英語で文章を書くモードに切り替えると、私の頭の中での思考回路のスイッチが、少しだけ切り替わる印象がある。それと同時に、私の日本語思考の癖や回路が客観的に眺められてしまい、日常的に日本語にて思考し、会話している私が怖くなることがしばしばある。岡潔や胡蘭成は、こういう問題を、どんな風に考えたのだろう。

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活版印刷以前の時代、人間は文字を「音読」しないと、文字を言葉として認識することができなかった、と読んだことがある。つまり、活版印刷という定型フォントの登場が、文字を音読=パロールという「翻訳」を通じて理解する必要が無くなり、エクリチュールそのものとして理解することができる様になったのではないか。(その背景には、ルネサンス期のダンテなどの言文一致の問題が大きいのかもしれないが。ちなみに柄谷は、言文一致は内的な観念にとってたんに透明な手段でしかなくなるという意味において、エクリチュールの消去だと述べている点が興味深い)

パソコンにフォントという概念を持ち込んだスティーブ・ジョブスは、ヒッピーを経験しながらオレゴン州のリード大学在学中に書道を勉強したことから、人間に対してよりフレンドリーな形態を持つコンピューターを作る為、フォントの開発に向かった。(そこには、ジョブスの母がシリア人だった、という影響も少なからずある様に思える)

「明朝体」というフォントを考えた中国人は、明朝の時代、いったいどんな文章の読み方をしたのだろうか?そして元の時代にパスパ文字を使っていたモンゴル人が、政治的な理由からキリル文字へと切り替えた際、どんなマインドセットの変更があったのだろうか?

丸山圭三郎は、ソシュールの弟子たちがシニフィエ・シニフィアンの上位下位の問題を設定したことを批判したが、その批判の際に仏教の中観派、つまり大乗仏教学者・ナーガールジュナの般若空観の考え方は、ソシュールの思想を先取りしていると指摘している。ソシュールの言語学=シーニュの問題そのものが、サンスクリット語のシューニャ=空をルーツとしていることを考えると、丸山の指摘は正しいと思う。

私は今まで、ソクラテス、イエス、仏陀は何故本を書かなかったのか、という話を友人のアーティストと何度か繰り広げてきたが、私の意見は、彼らはパロールの力、さらに弟子を信用しており、自分のメッセージが間違って伝わったのであれば、それは発話者である私自身の責任だと思っていたからではないか、と考えている。

言葉の問題は、これからもずっと考えて行きたい。

悲しみは空の彼方に - 沖縄を回想しながら

2009-08-21 01:04:53 | Weblog
私が大好きな映画の一つに、ダグラス・サーク監督の「悲しみは空の彼方に(Imitation of Life)」がある。イリノイ大学留学中にこの映画を見た私は、声が出ないくらいの衝撃を受けた。映画を見た後に、一時間以上も寝付けない、という経験をしたのは、この映画くらいかもしれない。

白人と黒人の混血児であることを隠して生活を続ける白い肌を持つ若い女性サラ・ジェーン。何も話さなければ白人として通る彼女は、普段は白人として通している。しかし、学校に黒人の母親アニーが来たことで、自身が混血児であることが発覚してしまい、白人である恋人の男性に、混血児であることを隠していたことを責められて、ボコボコに殴られてしまう。

その後、転落してナイトクラブで働く様になったサラ・ジェーン。その仕事先であるナイトクラブに、心配をした黒人の母親アニーが迎えに来るのだが、サラ・ジェーンは。黒人の母親を赤の他人としてしらを通し切る。彼女は、自分自身のルーツである「黒人」という事実に、差別的な人格を形成してしまっていたのであった。そして、次にサラ・ジェーンが母親アニー出会うのは、アニーの葬儀である。母の死をもって母の愛に気づいたサラ・ジェーンは、後悔の涙を流す。私は、そのシーンに心打たれ、寝付けなくなってしまったのだった。

この映画を見たとき、私はイリノイ大学アーバナ・シャンペイン高に留学中であり、一番人種差別に苦しんでいた時でもあった。他の日本人留学生とは異なり、アメリカ人の中に完全に入り込もうとしていた私は、人種という大きな壁にぶち当たっていた。それこそ、サラ・ジェーンに勝るとも劣らない苦い経験を、何度かした。だらかと言って、アジア人の保身の為に形成されたアジア系アメリカ人コミュニティ(しかも韓国の宗教団体が母体となっていた)からも距離を置いており、孤独感を募らせていた。そんな時に、ダグラス・サークの伝説的な作品に出会って、心底心打たれたのであった。ここに芸術表現がある。そう痛感した。

複数の言語を通過し、アメリカでの述べ8年近くの生活を通過した私は、複雑なアイデンティティ形成を遂げてしまった。アジア人として括られるのも嫌、日本人として見られるのも嫌(その根底には、日本の抱える歴史問題が横たわっている)、言語を通過するごとに生まれる、おのおのの言語の持つ主体性を内包化して行きながら、マルクス経済学の影響を受けつつ、ネーション・ステート批判や近代の問題を考える様になった。

アメリカから帰ってきた大学4年生の頃、私はどうしても沖縄に行きたい、と思い、船に乗り込み、初めて沖縄へと向かった。その最大の理由は、日本で苦労している沖縄を見てみたい、という思いからであった(その姿勢は、私の沖縄出身の友人から徹底的に批判されたことを追記しておく)旅先の沖縄で、似た様な問題意識を持った在日朝鮮人の大学生と朝まで議論したのが、記憶の底でゆらめいている。

アメリカに行って「悲しみは空の彼方に」を撮ったサークが、ナチに追われたユダヤ系であった様に、私はアメリカでもアメリカに完全に同一化することができず(そこには、ある種の敵対概念が内包されているのかもしれない)、ニューヨークへと流れ着いた。そして、私が経験したことを通じて考えたこと、さらに学んだことを日本にもって来ようとした際に、システムの違いからか、システム祖語が発生してしまった。これこそ、近代の問題、さらに日本の近代化の抱えた構造的な問題だと痛感している。

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サラ・ジェーンが、自分自身のルーツである黒人という事実に差別的な人格を形成してしまっていたかの様に、私自身は、「日本人」に対して、ある種差別的な人格を形成してしまっているのではないか、と考えた。(自分が、日本人であることをほとほと嫌になってしまったことを経験している人というのは、それほど多くないかもしれないし、ネーションが主体として捉えられることを否定する文脈にて憲法批判をした人、さらに日本の自己規定の中に入り込んでしまった9条における、自己を規定する際における他者概念を述べた人も少ないと思う)そして、その裏返しとしての過剰な期待を、もしかしたら似た様なアイデンティティの問題を抱える「沖縄」へと投影してしまっているのではないか、と考えるに至った。(自分自身に対する精神分析は無意味だ、と言ったのはフロイトであったが)

アートをやる限り、私はアートのルールや、共通言語に従わなくてはならない、と考えている。私の仕事は、西洋の「アート」を日本語へのローカル言語へと翻訳するのではなく、西洋のアートをアートとして日本に輸入すると同時に、主体が成立しない、という汎神論的な近代の在り方を実現した日本の思想を、モダニズムを強化する為に、海外に輸出することを目的としている。

沖縄にてアトミックサンシャイン展を開催した際、私はNYにて立ち上げたコンセプトを、できるだけ変更せずに東京に、さらには沖縄へと持ち込みたいと考えた。それが、共通言語を話すことだと私は考えたのだが、日本の、そして沖縄のローカル言語は、それを共有することができず、特に沖縄では、その複雑なプリズムを通じて、大変複雑な乱反射を生み出してしまった様に思う。そして、沖縄における私は、「渡辺真也」という個人として以上に、「ヤマト」の人間だと、ベタに認識されていた気がする。

それは、私が通常語っている「他者」と出会った瞬間であったのかもしれない。しかし、この出会いは、強烈かつ、感情的なものであった。沖縄の強烈な自然のプレゼンスの中では、ロゴスの整然さよりも、パトスのうねりの方が強かったのかもしれない。

沖縄の展示のことを、ずっと引きずっている。ここで生まれた一連の問題が、日本の本土の人間、そして異なる言語圏の人たちと共有することが、絶望的なほど困難なことであることを認識しながら、そこに佇んでいる。

遅ればせながら、沖縄展の写真をWebにアップしました。展示に含まれた美術館のパーマネント・コレクション作品はご覧になることができませんが、展示のおおよその様子はご覧になれると思います。沖縄での展示にいらっしゃることのできなかった皆さま、ぜひ、ご覧になって頂けたらと思います。

沖縄展に関することは、考え抜いて行きたいと思います。ご声援の方、どうぞよろしくお願いします。

「The Cartoons that Shook the World」を巡って

2009-08-15 10:41:15 | Weblog
ニューヨークでのある日のこと。アート関係のイベントのお手伝いで、ウエイターをやってVIPの接客をしていると、ソファに座った男性に呼ばれて、白ワインを注ぐ様に頼まれた。綺麗な女性を同伴したこの男性、どこかで見たことがあるなぁ、と思って、しばらく考えて、ピンと来た。サルマン・ラシュディ氏であった。

ソファに深く腰掛けたラシュディ氏に白ワインを継ぎながら、私は一瞬、歴史に出会ってしまった、という不思議な感覚、そして混乱に陥った。

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昨日のNYTimes紙上にて、イェール大学出版から出される新刊「The Cartoons that Shook the World」に、2年ほど前にデンマークの新聞に掲載されて問題になった、ターバンが爆弾に書きかえられているムハンマドの風刺画を掲載しない様に作家側に要請していたことが分かった、と掲載されていた。

さらに、デンマークの新聞に掲載された風刺画のみならず。ダンテが「神曲」の中で書き、ボッティチェリやブレイク、ロダンやダリもモチーフとした、ムハンマドが地獄で悩まされるシーンを描いたGustave Doréによるスケッチも、掲載の自粛を要請したと言う。

この本を書いた教授Jytte Klausenがデンマーク人、というのも不思議な歴史の因果を感じる。この教授は、イェール大学出版会の決めた、ムハンマドのターバンが爆弾になっている風刺画の掲載の自粛に関しては、認めたそうだが、大学側のすべてのイメージを自粛して欲しい、という要請には難色を示しているそうだ。

記事を読んでいて驚いたのだが、2年前にデンマークの新聞社が掲載したムハンマドの風刺画騒ぎで殺害された人の総数は、200人に及ぶと言う。そこまで多くの人の命を奪った事件は、近年なかったのではないか。

こういった問題を扱うのは本当に困難だと痛感する。もしも、の事が起こることを想定すると、アカデミズムの側も慎重にならざるを得ない。そして、もしも、のことに前例があった場合、責任問題をめぐって、非常に困難なことになるだろう。

私自身が経験したことに照らし合わせてみても、人ごととは思えない。自分自身が抱え込んだテーマとして、これからも考えて行きたい。

「魔舞裸華視 MABURAKASHI by 森村泰昌」 2009年8月28日(金)~10月3日(土)

2009-08-14 10:24:21 | Weblog
私の敬愛するアーティスト森村泰昌さんが、8月28日より、個展「魔舞裸華視」を開催いたします。皆さまお誘いあわせの上、どうぞご来場下さい。

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森村 泰昌 写真展
「魔舞裸華視 MABURAKASHI by 森村泰昌」
8月28日(金)~10月3日(土) 10;30~19;00/日曜休館
エプソンイメージングギャラリー エプサイト


「魔舞裸華視」とは「まぶらかし」と読みます。森村の造語で「まぶす」「まぜこぜにする」というような意味です。
 展示作品は以下のとおり
 
フリーダカーロをテーマとした直径2メートルの花輪作品8点(予定)
 
水瓜図屏風(フリーダカーロの果物の絵を実際の果物で構成し撮影した写真を和紙にプリント、屏風仕立てにします/新作)
金平糖髑髏図(金平糖で作った髑髏の写真を和紙にプリント、表具、軸にしたもの。ダミアン・ハーストのダイヤモンドの髑髏への反発もあります/新作)
赤曼荼羅図(森美術館のハピネス展で発表した作品を、新たに軸装しました、和紙にプリント)
黄曼荼羅図(同上)
桃曼荼羅図(同上)
華曼荼羅図(未発表作)
信貴山縁起絵巻童子図/軸
信貴山縁起絵巻童子図/扁額
青空童子図(未発表作)
魔舞裸華視絵巻(川崎市民ミュージアムで制作した作品を約3メートルの巻子/巻物にしました)

以上のような作品によって、「まぜこぜ」になった世界をお見せしたいと思います。
なお、8月29日17時~山口裕美さんとのトークを開催いたしますので、こちらもご興味ございましたら是非御参加のほど、よろしくお願い申しあげます。
取り急ぎメールにてのお知らせとさせていただきました。どうぞよろしくお願い申しあげます。

森村泰昌

やがて悲しき島クトゥバ - 渡嘉敷島を訪ねて

2009-08-13 01:11:55 | Weblog
4泊の予定で、沖縄を訪ねて来た。「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄」展の反省会や総括、という意味も含めて、作家とキュレーターとの間でお話をする場を持つことができないか、というリクエストがあり、私もぜひ行いたい、との思いから、日程を調整して、沖縄入りした。

美術館にて開催された作家とのお話し会いの会は、直接顔を合わせて話し合いを進める上で、クリアになって行った部分もいくつかあった。しかし、それと同時に、いくつかのテーマに関しては、話し合いを進める上で、意見の相違がクリアになるのみで、あまり前進できなかった部分もあった。展示そのもののテーマへの理解や、アートそのものの前提や捉え方が異なっている、という根本的な問題が、展示終了後も大きな問題として横たわっている、ということを再確認できたことが、収穫といえば収穫であった。

この問題は引き続き話し合って行こう、ということで、その場は解散となった。私もクリアにする部分はクリアにして、次につなげて行きたい、と思っているのだが、そのやり方については、複雑な問題が多く、まだ悩んでいるというのが正直な所だ。考え抜いて、自分なりの答えを出したいと、ずっと思い続けている。

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その後、那覇からフェリーにて1時間程度で行ける、慶良間諸島最大の島、渡嘉敷島へと行って来た。せっかくの夏だし、綺麗な海が見たいな、と思ってやって来たのだが、どうしても気になってしまい、島に着くやいなや、海を見る前に戦跡巡りをしてしまった。どうしても、集団自決があった現場に先に行って、戦没者のご冥福をお祈りしなくてはという気持ちが、渡嘉敷に降り立った瞬間に湧きあがってきたのだ。

宿のオーナーに戦跡について尋ねると、とても丁寧にご紹介して頂けた。それと同時に、とても重く、そして政治的な傾向を持つものなので、それに関してあまり皆の意見を真面目に聞きすぎないでね、と注意して頂いた。

渡嘉敷で、戦跡巡りのガイドをやっているドライバーの方と一緒に、一緒に戦跡を巡った。強い日差しの中、山道をあるいて行くと、普段とは全く異なる感受性を刺激されて、私の中の自然が覚醒して行く。

小高い丘から行くことのできる、集団自決の現場に行き、手を合わせて冥福を祈ると、ガイドの方が、集団自決の様子を、具体的に話してくれた。話を聞くだけでも、想像を絶する様な光景が繰り広げられていたことが分かる。これだけの重い歴史を背負って、果たして人間は通常の生活ができるのだろうか?と私が考えていると、ガイドさんが曽野綾子と大江健三郎による渡嘉敷島の集団自決の検証問題について話してくれた。裁判などの複雑なやりとりを聞いていると、何故宿のオーナーが私に「あまり真面目に聞きすぎないでね」と忠告してくれたのか、少しだけ理解できた。

慰霊碑である「白玉の塔」にも足を運び、参拝してきた。ガイドさんに、白玉とは何ですか、と聞くと、琉球にて命を象徴するものだ、という説明をして、そのまま琉歌を吟じてくれた。

「しら~た~ま~の~~」

ああ、この歌は、那覇のユタが歌ってくれた歌と同じだ、きっとこの歌を歌って、私の祖父の命を降ろしてくれたのだろう。(しかしこのガイドさん、肝心のこの歌のタイトルを知らなかった。知っている人がいたら、ぜひ教えて下さい)

宿にて、渡嘉敷島に関する本があったら、読ませて頂けませんか?と尋ねると、何冊かの本をもって来て下さったのだが、その中に金城重明牧師による本『「集団自決」を心に刻んで 沖縄キリスト者の絶望からの精神史』が含まれていた。ああ、これはクリス・マルケルのLEVEL FIVEにて渡嘉敷島での集団自決の記憶を話していた金城氏の本だ、と思い、戦跡巡りをした後、ビーチにて読んでみた。(フランス人映画監督のカメラの前にてインタビューに答えた、という下りも見つけることができた)

驚いたのだが、彼が留学したニューヨークにあるユニオン神学校にて、彼に神学を教えてくれたパウル・ティリッヒをナチス・ドイツから匿ったのが、ラインホルド・ニーバーだったそうである。私は、大学1年生の時、マルクス経済学を教えてくれた教授が、ニーバーのこの叡智溢れる言葉を教えてくれたのを、鮮明に覚えている。

The Serenity Prayer

God, grant me the serenity to accept the things I cannot change;
the courage to change the things I can;
and the wisdom to know the difference.

非戦の近いをした、集団自決を目の当たりにした沖縄の金城牧師が、ニーバーの影響をニューヨークにて受けていることに、大変な興味を惹かれた。

その日の夜、私は大変うなされた。熱帯夜であったことも関係したと思うのだが、左足を切断される様な痛みを伴う、悪夢だった。どうやら、昼間に聞いた集団自決の話を、私の体が処理しきれなかった様だ。

私は、沖縄から多くの宿題をもらい続けている気がする。少しずつで良いから、自分なりに考えて、解決して行きたいと思う。


記憶をたぐり寄せて - 死者との対話を通じて 白髪一雄と仲宗根政善

2009-08-08 11:24:49 | Weblog
確か18歳くらいの頃だろうか。記憶が曖昧だが、ある日、何気なく訪れた東京都現代美術館にて、白髪一雄さんの作品を見る機会があった。大きな、力強い作品で、だだっ広い空間に置かれたその作品は、私に強い印象を残した。

もう一つ印象的だったのは、その作品のタイトルだった。どんなタイトルだったのか、具体的に思い出せないが、「天暴星両頭蛇」とか、そんな感じの、難しい漢字のタイトルだった。そのタイトルが私に思い起こさせたのは、何とも言えない距離感、もしくはジェネレーション・ギャップであった。

先日、尼崎にある白髪一雄さんのスタジオを訪ねて来て、ご遺族の方から、白髪さんに関するお話を伺う機会があった。

白髪氏の作品のタイトルが水滸伝から来ていることは、美術の勉強をしていく上で知っていたのだが、白髪氏がいかに水滸伝に心酔していたのか、自宅にある水滸伝のお皿のコレクションを見る中でも、よく分かってきた。水滸伝に出てくる108人の豪傑のうち、106人の人物しか白髪氏は描いておらず、あとの二人が欠けていることに関して、奥さんの富士子さんが、残りの2人は盗賊だから、わしゃ盗賊は嫌いや、描かへん、と言って行って下さったのが、彼の人柄を思い起こさせた。

ご遺族にインタビューしていき、そしてスタジオに伺っている上で分かったのは、彼の作品制作の中にある密教のイメージである。お祈りを捧げて、精神を統一してから絵画制作に向かった彼の姿勢は、非常に禁欲的であり、仏壇や、コレクションである岩波書店の本の山や、ペルシャの骨とう品などを見る中で、彼がテーマとしていたものが、うっすらと分かりかけてきた。

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昨日、沖縄入りした。沖縄に降り立ち、本土とは異なる光を浴びると、生命のエネルギーがこんこんと湧き立って来る様な、不思議な気分になる。

そんな中、日ごろからお世話になっている仲宗根政善さんの娘さんとお話をしていく中で、こんな話を伺った。

仲宗根政善氏は、自宅に植えた鳳凰木の木をとても大切にされていたそうだ。6月に咲くという鳳凰木の赤い花は、父にとって何か象徴的な意味を持っていたと思う、とその娘さんは語ってくれた。仲宗根政善氏は、ひめゆり部隊の最後の引率教員である。そこで散っていった学徒たちへの無念な気持ちが、無意識の弔いの儀式として、鳳凰木を大切にする思いと繋がったのかもしれない。

仲宗根政善氏の日記の中で、ひめゆり部隊の一員であった私の娘の名前が石碑にはいっていない、というコメントを、その学徒の母から頂いた仲宗根氏が、一生懸命岩にその学徒の名前を刻みこむシーンが書かれている。

上原千代子というその学徒は、彼女の死を証明するものが見つからなかった為、終戦直後に石碑に名前を刻むことができなかった。それが53年になって、その母から、名前を刻んでほしい、と依頼を受けたのである。仲宗根氏は、遺族に深くお詫びしたのち、夏の暑い日、この文字が一体どんな慰めになるのだろうか、という思いを抱いたまま、名前を彫っていった、そんな日記をつけている。

もう白髪一雄や、仲宗根政善に出会うことはできない。しかし、その作品や著書は今でも生きており、メッセージを放っている。

私たちの限られた、ほんの小さな想像力の限りで想うしかない。しかし、そんな限られたものであっても、想像力を巡らせてみたい。そして、そこからいかに多くをくみ取ることができるのか、それが死者との対話なのではないだろうか。