Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

戦争の世紀からの脱却 - ヨーロッパ近代の超克としての憲法第9条

2007-12-26 04:51:54 | Weblog
先日、展示のホームページの方にアップロードした私のキュレートリアル・ステートメントとして書いた文章
「戦争の世紀からの脱却 - ヨーロッパ近代の超克としての憲法第9条」
がInternet Explorerでは読めない、というご報告を頂、早速訂正しました。ぜひご覧になって下さい。

できるだけ多くの方々と問題意識を共有したい、という思いから、公開を決意し、アップロードしました。ヘッドラインは、

日本国憲法第9条をテーマとする美術展制作に当たって
敗戦後、大日本帝国憲法から日本国憲法へ
秘密裏に進められたマッカーサー草案
アトミック・サンシャイン会議とは?
9条は誰が発案したのか
9条の戦後における役割
第二次世界大戦に至ったヨーロッパの国家とその規定について
第二次世界大戦が生んだレヴィナスの他者の哲学
近代の問題として - ドイツにおける歴史家論争と日本における靖国論争
9条の21世紀における可能性

という感じです。ぜひお読みになって、コメントを頂けると幸いです。また、カタログの方、発売中ですので、そちらの方もよろしくお願いします。

カタログ販売の開始と展示中のスペシャル・イベントのご案内

2007-12-25 08:06:09 | Weblog
今日、展示のホームページの方を更新し、展示の為のキュレーター・ステートメントとして書いた文章
「戦争の世紀からの脱却 - ヨーロッパ近代の超克としての憲法第9条」
をアップロードしました。これは、できるだけ多くの方々と問題意識を共有したい、という思いから、公開を決意し、アップロードしました。ヘッドラインは、

日本国憲法第9条をテーマとする美術展制作に当たって
敗戦後、大日本帝国憲法から日本国憲法へ
秘密裏に進められたマッカーサー草案
アトミック・サンシャイン会議とは?
9条は誰が発案したのか
9条の戦後における役割
第二次世界大戦に至ったヨーロッパの国家とその規定について
第二次世界大戦が生んだレヴィナスの他者の哲学
近代の問題として - ドイツにおける歴史家論争と日本における靖国論争
9条の21世紀における可能性

という感じです。

なお、カタログの方、販売を開始しました。送料込みで1冊2500円です。素晴らしいデザインです。

A4サイズ、68ページフルカラー 英語、細部のみ日本語 (Printed in Japan)
デザイン: 相澤幸彦(Aizawa Office)

でして、寄稿者は

"Your Fears, My Hopes" on Vanessa Albury
by Jan Van Woensel (independent curator, Senior Studio Professor at New York University)

"Matsuzawa Yutaka’s Vanishing Act"
by 富井玲子 (美術史家、キュレーター)

"三島は今も生きている"
by 鈴木邦男 (政治批評家、新右翼団体「一水会」創設者)

"憲法とは何であるかを考えた一日 - ベアテ・シロタ・ゴードンとの出会い"
by 伊藤剛 (ジャーナリスト,GENERATION TIMES編集長)

"The Emperor’s New Clothes in Old Photos: Oura Nobuyuki’s Holding Perspective and the Culture and Politics of 1980s Japan"
by 加治屋健司 (広島市立大学准教授)

"Interpretations at War and Peace: Article 9, Okinawa, Japan" on Yuken Teruya
by 前嵩西一馬 (コロンビア大学文化人類学Ph.D.候補 早稲田大学研究員)

"Citizens, Sovereigns, and Mirrors: Article 9 in the Postwar Era"
by Matthew Black (Ph.D. student in Anthropology at Columbia University focusing on the issues of Japanese post-war period)

などなど盛りだくさん!カタログには、このステートメント以外にも、かなり豊富な文章によって構成されています。ぜひ、皆様の購入の方をお待ちしております。


なお、展示期間中の特別イベントとしまして、

1月19日土曜日 5PM- (無料)
ドキュメンタリー・フィルム上映会 「White Light, Black Rain」
ステーィブン・オカザキ監督による、広島・長崎への原爆投下に関するドキュメンタリー
+ 舞踏パフォーマンス(Vangeline Theater Co.)

1月25日金曜日 7PM-
アコースティック・・ライブ・ミュージック
羽鳥美保 + Special Guest

を開催します。

このドキュメンタリー映画、アメリカの地上波として初めて原爆投下について触れた、大変優れたドキュメンタリー映画です。きっと、展示に来場してくださった皆様に、広島と長崎への原爆投下、という事件について、より深く理解して頂ける機会になることと思います。また、上映後には、NYをベースとした多国籍舞踏団体、Vangeline Theaterによる舞踏パフォーマンスが開催されます。

また、羽鳥美保さん(元チボ・マット、Gorrilaz)のアコースティック・ライブですが、羽鳥美保さまの方に了解を頂、アコースティック・ライブという形で開催しようと考えております。また、展示において、9条を語る上で外せない、沖縄のコンテクストが強いのですが、それをもう少しでも理解して頂けないかと思い、羽鳥さんの方には沖縄民謡もいつくか歌って頂こうと希望しておきました。とても楽しみです。

それでは、皆様のご来場をお待ちしております。失礼します。

渡辺真也

近代・主体・ネーション・・・

2007-12-23 17:16:01 | Weblog
実行委員会に入って下さっている谷邊さんさんから面白いコメントが頂けたので、それに返答する形で、ちょっと書いてみます。

>クセナキスは自分の音楽は「外・時間」の表現だと言っていたそうですね。
>流れているように感じられる日常的時間の「外」。
>
>そのメルツバウのライヴも「永遠の現在」という感じでした。
>
>「外・時間」を生きているのが超越論的主観なのではないでしょうか?

時間の問題は、とても大きい問題だと思います。デリダの言う「差延」が、その良い例だと思います。つまり、同定されうるものは、全て時間的に先立つものが必要となる、という問題であり、これは「意識」を存在としてしまったことによって生まれた心脳問題とも関わってくると思います。

私は、「考える自己」という主体を、一旦自然の中に再度還元してみたい、と考えています。

以前、谷邊さんとも議論しましたが、方法叙説においてデカルトが試みた「考える自己」を神の視点からも肯定する、という行為は、神、という人間の内在的問題、すなわち「考える自己」の内部の中で行われている気がしてなりません。つまり、私がブログでも何度か書いてきた、「モダニズムの根底にある、疑うことの出来ない考えている自己、すなわちコギトは、ローマ・カトリシズムの三位一体の延長線上の思想であり、人間の内面的問題の延長である」ということに繋がります。私はこの考える自己を、神の視点から肯定する、それはすなわち人間の内面の象徴である一神教的神を強化する、という行為を批判しており、私はそうではなく、単純に、「全ては人間の内面的問題」と考え、その考えている自己を自然の中に置きたいのです。

私は、アニミズムに興味があるのですが、そういう意味で言ってます。日本は、この問題を考える上で、恵まれた土壌があると思うのです。

>それは主体の分裂(存在と存在者の分裂?)によって生じる「普遍化された主体」で、国民国家など超え、戦争のない世界の構想ともつながるのでは。

しかし、谷邊さんが上で述べたトランセンデンタルなものが、どうやって実現するのか、それは即ち、基本的な意味において経験主義の全否定、ということにも繋がってくると思います。トランセンデンタルなものの例としてカントが例に挙げた、「円では、中心点と円周の間が全て等間隔である」ことも、リーマン幾何学的な立場からでは、批判も可能です。すなわち、カントが例として挙げたトランセンデンタルなものの例も、その場、歴史的・経験的状況における限定的な意味でトランセンデンタルなものでしかない、すなわち究極的にはトランセンデンタルではない、と思うのです。

主体の分裂、すなわち普遍化された主体は、簡単に国民国家は超えていくでしょう。そうすれば、国家間の闘争、としての戦争はなくなる、ということにはなります。

>しかしそれは対象を措定する以前に、まず事物の対象性をリダクションして、世界と自身を「幽霊化」してしまう。
>それってけっきょく形而上学で、ファシズムにつながるんじゃないの?というのが自分にとっての問題で、よくわからんとこなんです。
>「近代の超克」のことともつながるのかな。

谷邊さんのおっしゃる問題意識は、私も共有しています。そして、デカルトはおそらく、そういう問題も理解して、コギトを考えたのではないか、そんな気さえします。近代を背負ったのですね。

私の分からないことの一つは、ドイツのファシズムが民主主義と社会主義の名目の上に成立したことと、日本のファシズム(という言葉は正確ではないので、軍国主義と言いましょう)が神道を利用した、ということに関してです。ドイツのファシズムは、私はドイツというネーション規定が、非常に曖昧な言語的なものであったことと、同言語圏における宗教の差異を内在化してしまったことだと考えております(これも主体の分裂です!)

谷邊さんの好きな、「幽玄」を先取りした、とおっしゃっていたロバート・フランクですが、彼の父はドイツ国籍を持つユダヤ人であり、息子ロバートをスイスで産んだ際「息子はHigh Germanをしゃべらさなくてはダメだ」、と言って、ロバートにスイス国籍を取らせなかった(つまりネーション規定としての言語の問題と、その優位性=ドイツの対戦中における民主的オーストリア併合と直結します)、その為ロバートは無国籍になってしまい、その国籍を持たない彼が戦後にアメリカに来て、The Americansにおいてアメリカ南部を取る、という行為は、その主体の分裂と、ネーションの亀裂の問題を端的に含んでいると私は考えています。

>ロザリンド・クラウスがマイケル・フリードを批判したのもそのあたりのようです。

読んでみたいです。具体的な本のタイトル、分かりますか?

>デリダを読まなくちゃだめですかね。

そうですね。ジャン・リュック・ナンシーとデリダの主体性論争は、凄いです。読んでますか?私ももっと勉強する時間が欲しいものです。

クセナキスのついでに、音楽の話と差延の話を無理やり繋げると、スティーブ・ライヒのDifferrent Trainsは、離婚して東海岸と西海岸に離散してしまった家族の間を、take a different trainで旅し続ける第二次大戦中のスティーブ少年をテーマにしたものですが、この移動が、音楽における第二節において、隣の大陸であるヨーロッパのホロコーストにおいて収容所に運ばれる共時性とシンクロしていきます。そして、3章が、ヨーロッパとアメリカにおける「戦後」。あの音楽の表現は、ミニマルミュージックという方法に、ピッタリしてますよね。

問題意識の共有の難しさ

2007-12-19 06:05:23 | Weblog
カードの製作が遅れている。私の製作した大型カードのデザインなのだが、アメリカのカードの郵送の際にバーコードが張られる部分には、一切色を配置してはいけない、というルールがあるらしい。全く知らなかった。本当は封筒に入れて郵送すれば簡単に済むのだが、その予算が無いのだから、デザインを変更するしかない。そんな訳で仕方なく、今日になって急遽デザインを変更し、送り直す。

昨日、どうしても行かなくてはならない友人のパフォーマンス・イベントがあり、風邪を引いていたのだが、無理して参加してくる。

ノイズ・ミュージック系のイベントで、完全な暗闇の中でノイズを40分間聞き続ける、というイベントだったのだが、質疑応答の過程で、アーティストが自らのテーマとして設定しようと試みていることに関して、さまざまな問題が浮かんでくる。アーティストが空間の中におけるオブジェクトに興味がある、という発言をしていた為、オブジェをオブジェたらしめている意識に関して、どういうアプローチを行っているのか、と聞くのだが、構築的な返答を得ることはできなかった。

また、その後参加者の皆さんとお話している際、「お前は何をやっているんだ」と聞かれ、「憲法をテーマとした美術展をやっている」という話をするのだが、なかなか文化や国籍などの違いからか、話のトピックが共有できず、話が続かない。しかしその中で一人、私のやっている事に興味を持って下さったミュージシャンの方がいたのだが、やはり彼は、ポストコロニアルの思想を通じて、近代という問題に関して自分なりに思考を進めている人間であった。その彼と、反近代という思想が、音楽の中でどう形成されてきたか、中華料理屋で議論する。

シチュエショニストは僅か5人のコアメンバーで動いていた、と言われているが、その気持ちが分かる気がした。そもそも近代の抱えた構造的問題を、多くの鑑賞者と共有することは困難だ。ドゥボールは、それを理解していて、自分の思想と近い、意思疎通の行い易いメンバーと共有し、自らの藝術活動を推し進めて行ったのだと思う。廣松渉の「近代の超克論」を読みながら、いろいろと考えつつ、消化不良に陥る。

多くの矛盾を抱えつつ、少しずつ、可能な限りで前進して行くしかない。

照屋勇賢「さかさまの日の丸」、販売決定!

2007-12-14 17:01:05 | Weblog
皆に心配されている様なので、展示の進行具合を報告します。たまには具体的にどういった形で展示が進行しているのか書いた方が良いと思うので、少し具体的に書いてみます。

ようやく、展示カタログの入稿も終了し、ホっと一安心。

カタログは、Aizawa Officeの相澤幸彦さんの力作デザイン。本当に息を呑むように美しい、エレガントかつ力強いジャパニーズ・デザインになった。日の丸を想起させる赤色と白を基調としたシンプルなものの中に、時に文章を分断する様な、細い赤い線が入る。日本の戦後史を俯瞰するには、本当に最高のデザインだと思う。

日常のデザインの業務をこなしながら、徹夜で、しかもボランティアでこれだけのデザインのカタログを製作して下さった相澤さんには、本当に感謝しております。この場を借りて、感謝の意を述べたいと思います。ありがとうございます。

しかし一つ問題が。このカタログ、とにかく重い。今回、66ページフルカラーのカタログを1500部作ったのだが、仮にこのうちの半分、750部をダンボールに入れて郵便局から空輸で送った場合、ダンボール箱23箱、合計33万円!というとんでもない見積もりが出てしまった。船便では間に合わないし、割引運賃でも、割り引かれるのは10%程度。

その為、日本在住で、NYの展示にいらっしゃる展示協力者の方々に、一人一箱でも良いから、ダンボール箱を持ってきてもらえる様、連絡する。印刷工場から空港ゆうパックで空港まで送り、そこで受け取って頂いた上で預け荷物扱いでチェックイン、JFKからタクシーでSOHOまで持ってきてもらおう、という戦略だ。この方法に関しては、とりあえず一人は確約を取れたのだが、他の方はまだ確認中。

もしも、この展示期間中、またはオープニングに合わせて日本からNYに来られる方がございましたら、
article9@gmail.com
までご連絡下さい。成田空港までカタログの箱を送りますので、預け荷物として持ってきてもらえると嬉しいです。

そして、展示の招待カードも2種類製作し、あとは発送を待つのみ。

このうち一つはPuffin Roomのカードで、4x8"の定型カードを、私のいつも利用しているマイアミのプリンターで5000部印刷する。パフィンのSnail Mailのリスト数は4200あるのだが、来週の月曜日は私もパフィン・ルームに行って、みんなで切手とラベル張りの作業をする。4500部ということは3,4人でまる一日の作業になるだろう。もしNY在住の方でお手伝いできる方がございましたら、
article9@gmail.com
までご連絡下さい。

昨日は松澤宥さんの作品をLoanさせていただく予定の富井玲子さまの家に伺い、作品のLoan Agreementを交わすと同時に、フレーミングなどに関していろいろ相談する。また、松澤宥さんが故人となってしまった為、ご遺族の方に丁寧なご連絡を差し上げるという提案を受け、早速それを実行する。

その後、以前より友人に誘われていたHunter Collegeの卒業展に足を運ぶ。この友人もヨーロッパに帰ってしまう為、久しぶりに会って、親交を深める。Hunterの大学院は、学生が東海岸で最大のスタジオスペースを持てる、という事から、学生の間でも大変評判が良く、チェルシーに近いということから、ディーラーも足を運ぶ注目の場所である。実際足を運んでみて驚いたのだが、J・Cギャラリーのディレクターさんなど、大物ギャラリストがちゃんと作品を鑑賞し、しかも名前をチェックしていた。彼らと話をしてみて驚いたのだが、皆学生の名前をよく知っていて、その動向を追っているのだ。これぞ、プロフェッショナル、と関心してしまった。作品をちゃんと見ているのは、キュレーターやコレクターよりも、ディーラーかもしれない。

その後、また招待されていたワインテイスティングとチョコレート・テイスティングのイベントに顔を出し、富井さまから預かった作品を、フレーマーで、実行委員会メンバーの小柳聡さんに手渡しする。聡さんには、エリックの作品の製作など、様々な面でお世話になっている。聡さん、いろいろとご協力、ありがとうございます。

今日はもう一つのカードを注文して、分配作業のリストを提供して下さったDaneyal Mahmoodギャラリーのダニエルとダリトに挨拶に行く。Daneyal Mahmood ギャラリーは、比較的社会的問題とアートとの関わりに興味のあるオーディエンスが多く、私の企画意図と重なる部分がかなり多い。そこで、彼のe-mailとSnail Mailのリストを利用し、今回の展示アナウンスをすることに関して、許可を頂いたのだ。

こちらは8.5x6"の大型カードを3000枚注文、うち1200枚は彼らの顧客/メディアコンタクトリストで分配してもらう。その交換として、カタログとカードにギャラリーのロゴを掲載することで同意を頂く。これも、「Another Expo」以来、Dalitと私が長年美術活動に関して行動を共にしてきたことの友情の証だと思う。Dalit、ありがとう。

今日はDaneyalのギャラリーを訪ねた後、Kota EzawaさんのギャラリーであるMurrey Guyギャラリーに伺い、DVDのディスクのローンに関してお話をしてくる。DVDのディスク、そして2つのモニターと設置用の台その他に関して、全て了解を頂く。また、展示の意図をかなり完璧に理解してくれて、ドイツに巡回させるべきだ、という話をしてくれる。大変有益な情報をいろいろと頂いた。

Murrey GuyのJanice Guyさんは本当に優しい人で、いつも会いに行くとホっとする。しかも大変なインテリの方で、話しだすと止まらない。Kotaさんの新作が「去年マリエンバードで」という作品なのだが、Janiceさんがマリエンバードに行ったことがある、という話から、私もマリエンバードというゲーム理論の話などをしていくうちに、アラン・ロブ・グリエの話で盛り上がる。私はロブ・グリエ自身が映画監督で映画を撮っていると知らなかった。

その後、照屋勇賢さんと、勇賢さんが最近グラントを貰ったJoan Mitchell Foundationのパーティで落ち合って、夕食をしながら、展示そのものや、ファンドレイジング用の「さかさまの日の丸」に関してミーティングを行う。全ての話は食事中にまとまらなかったので、その後ブルックリンのスタジオに移動し、細部を詰める。

その結果、展示への出品作品「さかさまの日の丸」のエディション販売に関して、細部も含め同意を頂く。生産的な話ができてよかった。

作品「さかさまの日の丸」を購入希望の方、
article9@gmail.com
までご連絡下さい。詳細データを送る様にします。

ミーティングが終わり、帰宅したら午前2時半。頂いたメールに可能な限りで返信し、仕事を進める。明日もミーティングが二つ。頑張ろう。

PS:今日カフェで仕事をしながらケルト音楽を聴いていたら、ケルトのストリング・ミュージックがイスラームのそれと似ていることに気がついた。これはちょっとした発見かもしれないので、自分の中でもうちょっと考えてみたい所だ。

アン・リー監督の最新作「Lust, Caution」について

2007-12-11 15:32:25 | Weblog
なかなか多忙極まり、ブログが更新できないままでいた。申し訳ない。もう暫くしましたら、ブログに多くの情報をアップしますので、しばらくお待ち下さい。

仕事ばかりで煮詰まってしまったので、こうなったら映画でも見よう、と思い、近所で現在上映中のアン・リー監督の映画「Lust, Caution」を見てくる。

私はアン・リー監督が、「恋人たちの食卓」以来、とても好きである。そして彼とは、イリノイ大学、ニューヨーク大学大学院と言う同じ経歴を辿ったアジア人として、何だか共感できる点が多い。

彼が今回の作品で舞台としたのは、第二次大戦中、日本に占領された香港と上海。そこでレジスタンス活動に参加することになった中国人の女スパイが、日本の傀儡政府側の役人(トニー・レオン)を暗殺する使命を受けるのだが、そのスパイ行為の上で、禁断の恋愛が発生する、というものである。

この映画の中、一つ、私がとてもシーンがある(ネタバレなので、映画を見たい人は以下は読まないで!)

日本の傀儡政府側の役人であるトニー・レオン(おそらく、張愛玲の旦那で、汪兆銘政権の下で活躍し、日本でも活躍した胡蘭成)が、愛人となった女性(タン・ウェイ)と密会をする場面で、上海の日本人管轄地域における芸者小屋での面会を指定し、そこで二人で時間を過ごすシーンである。タン・ウェイは、何故日本管轄地域で、と疑問に思いつつも、それに従う。

「ささ、こちらの二階へ、どうぞ」、と芸者の女性からゆったりとした日本語にて招かれたタン・ウェイは、二回の奥の部屋にいるトニー・レオンに会いに行くのだが、その途中、廊下にてすれ違った日本人の軍人が、「おお、いい女だ、こっちへ来い」と、日本語の分からないタン・ウェイに日本語で話しかけ、宴会場に無理やり連れて行こうとする。それを見かねた日本人芸者は、「いえいえ、○○さん、私がお相手します」と日本語で応答し、「さあ、こちらへ」と、日本語にてタン・ウェイを奥の部屋へと招く。

その奥の広い部屋にはトニー・レオンが一人で待ち受けており、「今一つ日本側との重要な仕事が終った所だ」と告げ、隣の部屋から漏れてくる三味線と民謡を聞きながら、「日本人の歌は酷い。まったくOut of Tuneだ」、と述べる。そして、タン・ウェイは「私の方が歌が上手いわ」と言って、中国風の舞踊と中国の歌(完全なる旋律!)を披露する。その後、トニー・レオンは、タン・ウェイと抱擁を交わす。

この一連のシーンの設定や演出の仕方が、抜群に上手かった。アメリカでこの映画を見た私にとって、映画の途中、突然日本語が話され、その中に私自身が突き落とされるような感覚(つまり、タン・ウェイが分かっていないものを、スクリーンを通じて私が分かっている)には、不思議なものがあった。

そして、ここで描かれている日本人と中国人が、全く異なる価値観を持つ人間として描かれている点が興味深い。芸者の立ち振る舞いと日本人軍人の姿はあまりにも日本的であり、中国という国を日本人に売った、日本国傀儡側に付いた中国人男性が芸者小屋で見る、中国人の愛人(しかも抗日レジスタンスのスパイ!)が演じる歌と踊りは、あまりにも中国的である。しかし、その不具合の形が、トニー・レオンとタン・ウェイの関係という不具合さと不思議と一致しており、そしてこの場面を過ぎた二人は、より深い恋へと落ちて行く。

台湾は、アン・リーやエドワード・ヤンなど、大変優れた映画監督を多く輩出してきたが、エドワード・ヤンの「クーリンチェ少年殺人事件」の中に現れる、少年が裏声で歌うエルビス・プレスリーの「Love Me Tender」のシーンを思い出した。あまりにも美的な、映画史に残る名シーンだ。こういった様に、台湾という土地の歴史性と分断の様なものをテーマとした作品が、自由に作られ、発表できているということは素晴らしいことだと思う。

それにしても、ベネチア映画祭の対象をアジア人が普通に取れる時代が来た、というのが、私にとっては何よりも励ましである。また、こういったアジアの歴史を、ベルトルッチではなく、アン・リーが映画化していること、そしてそれをヨーロッパが評価していることが、私にはとにかく嬉しい。この時代のアジアには、もっと多くの物語があるはずである。

PS:このトニー・レオン演じる胡蘭成が、「現在の政治制度や法律の尊厳も、一旦ひどい目に逢つたら、たとへば占領軍や共産政権に逢つたら、塵挨革芥にしかず。況んや民主政治なるものは、史上その根拠極めて浅く、しかもその原理は極く粗末であり、これから先、中国や日本で祭政一致の新しい制度が出現すれば、憲法や国会を廃するぐらゐは別に驚くには及ばないことである」と建国新書の序文で述べている。またこの胡蘭成、中国で大変なブームになっている様です。興味深いなぁ。

オシムさん

2007-12-07 16:25:56 | Weblog
毎日、オシムさんのことが、頭から離れない。新聞のWebサイトを開く度、スポーツ欄を真っ先に見てしまう。それくらい、私にとって、オシム監督というのは特別な存在である。今までの私の短い人生経験の中で、人間として「この人には敵わない」と感じたのは、オシム監督を置いて他にいない。私利私欲とは全くなく、理想に向かって進む、まさに「哲学者」であったと思う。

新聞で、家族との会話その他のことが書かれているが、奥さんのアシマさんにアイスを食べさせてもらって、「冷たくない?」と言われた際に、「つめたくなくてはアイスではない」と応答したオシムさんの表情が目に浮かんで、とても愛おしく思ってしまった。

オシムさんは、「東京オリンピックで見た日本人の優しさが忘れられない」と言って、日本に来日した訳だが、彼が見た現代の日本には、64年に彼が見た、日本人の優しさが本当に残っていたのだろうか。彼が心の底で何を考えていたのか、それを伺ってみたい。

ユーゴスラビアという祖国を無くしたユーゴスラビア代表監督が、日本という国に希望を見出してしまったのは、私には痛いほど良く分かる。理想、それは追った人間だけが分かる、永遠に到達できないとも思える戦いの様なものだ。それをチトー主義のもとで経験した彼には、「世界」を見る際に、本当に多くのフィルターがかかっていたと思う。オシム語録というのは、そのフィルター越しに見た、オシム監督の生の記録だったと思う。

サッカーの代表監督というのは、世界中にある仕事の中で、最も厳しい仕事の一つだと思う。その重圧を、マスコミその他は本当に理解しているのだろうか。そして、私達サッカーファンの一人ひとりが、理解できていただろうか?

千葉のアマル監督が成績不振を理由に解任された今後、オシム家は、今後どこに滞在することになるのだろうか。彼の祖国は、もうない。しかし、95年に破壊尽くされたサラエボへの愛は、特別なものがあるだろう。オシム監督は、体調が回復してしばらくしてから、自ら「ここで死にたい」と言っていた故郷のサラエボに帰ることになるかもしれない。

しかし、「日本」代表という激務の過程にて病に倒れたオシム監督に対して、私達「日本」人が最大の誠意を持って尽くすのが、彼への最大の恩返しであることに、全てのサッカーファン、そして日本代表を応援する日本人に理解してもらえたら、と思う。

オシム監督の回復を、心から祈る。

準備・準備

2007-12-06 16:23:54 | Weblog
ひたすら展示準備に追われる。2種類のカードのデザイン、スペシャル・イベントの準備、カタログの最終校正、日本からのお客さんとのコンタクトと滞在準備、展示作品の為のファンドレイジング、展示作品の部品、そしてフレームの準備、インストール道具とその人的手配、雑誌のプレビューに関するやりとり等等。今日はメールだけでも、数えてみたら40通以上送っていた。完全に缶詰状態だ。しかし、スカイプでの国際電話や宅ファイル便など、パソコンとネットさえあれば、仕事をやる上では本当に便利な世の中になったと思う。特に日米間とのやり取りは、ここ数年で飛躍的に向上したと思う。

ここを抜けたら、展示もうすぐだと思う。なんとか持ちこたえたい。孤独な戦いだが、もうすぐだ。頑張ろう。

陵賀も、今頃はマイアミでドローイングのパフォーマンスをしているのだろう。上手く行っているだろうか。NYから、幸運を祈っていたい。

田舎道・木・夕方 ポール・チャンによるニューオリンズでの「ゴドーを待ちながら」

2007-12-03 03:06:51 | Weblog
今日、久しぶりにNYTimesにて、面白い記事を読んだ。 Holland Cotterが書いた、ポール・チャンがプロデュースする「Waiting for Godot」に関する記事である。


「ゴドー」が演じられる舞台は、何とニューオリンズのLower 9thにある、ハリケーン・カトリーナによる防波堤の決壊にて破壊された本物の民家。演技をするのはニューヨークの演劇グループであるClassical Theater of Harlemだという。

彼はこのプロジェクトの開始に当たり、ニューヨークの非営利美術団体であるクリエーティブ・タイムを通じて「シャドー・ファンド」を立ち上げ、この美術プロジェクトにどんなにお金がいくらかかろうとも、そのかかった費用がニューオリンズの草の根的復興支援団体に再分配される、というシステムを作ったと言う。そして、プロジェクトが終了し、クリエーティブ・タイムのスタッフ達がニューヨークへと引き上げた後も、ポール・チャンは現地に残り、教育プログラムを続けたと言う。

やはりホーランド・コターはスーザン・ソンタグがサラエボで演じたWaiting for Godotと比較していた。「ゴドー」と「ニューオリンズ」という記号論的操作という点は批評の対象をなることを免れないと思うが、それよりも、アクティビストを自称するアーティストが、芸術を通じてニューオリンズにニューヨークのお金持ちのお金を還流させようと考え、それを実現している、という彼の行動(=Activism)の方が圧倒的に勝っている。コターが解説の中で、ゴドーの中に出てくる、ウラジミールの言葉を引いているのが印象的だった。

“Let us not waste our time in idle discourse! Let’s do something, while we have the chance! It’s not every day that we are needed. Let us make the most of it before it is too late!”

以前、カールスルーエのZKMに行った際、現代美術の黎明期という紹介部分にて、ベケットの「ゴドー」がビデオアート作品として展示されていたことに感銘を受けた。実存、すなわち人間が神である、という三位一体の崩壊がキリスト教圏の現代性を形作る、という思想をアイルランド人が作った、というのは、ドイツ人にとって非常に興味深い事実なのだろう。

森村泰昌さんから学んだこと

2007-12-01 08:42:34 | Weblog
昨日、ルーリング・オーグスティン・ギャラリーにて森村さんのアーティスト・オープニングがあり、通訳などを担当して来る。展示そのものもとても素晴らしい出来で、展示にいらして下さった多くの方々も、大変良かった、と言って下さった方が多かったのが印象的だった。

それにしても、今回、私は森村さんから本当に多くのことを学んだ。その最大のものは、一芸術家として、芸術に対してどれだけ真摯であり続けることができるか、ということに尽きると思う。

森村さんとニューヨーク、ワシントンと濃密な日々を過ごす中で、森村泰昌さんという一人の芸術家が、どれだけ芸術に対して真摯な姿勢を貫き、活動してきたかを学んだ。これだけ芸術に命を捧げたアーティストが、現在の世界にどれだけいるのだろうか、と考えてしまう位、それは真摯な姿勢だった。

一つだけ自戒の意味を込めて、アトミック・サンシャイン展に関して森村さんから頂いたお言葉を、ここに書いてみたい。

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アトミック・サンシャイン展が開かれることは大変意義のあることであるし、日本に巡回することも素晴らしいことだと思う。しかし、私が一つ危惧しているのは、この展示が成功することで、渡辺さんの中で達成感が生じて、展示の終了と同時に9条に関する関心そのものもうすれてしまう事だ。展示が成功したとしても、9条の問題はこれからも持続する。そういった継続し続ける状況に対して、自分がいかに真摯に、自身がテーマとしている、またはしてきた問題に対して真摯に取り組み続けることが、とても重要であると思う。

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森村さんの素朴な人柄の中に、芸術家のあるべき姿を見出せたことが、とても嬉しい。森村さんからは、本当に大変多くのことを学んだ。正直、これだけの短時間の中で、これだけ多くのことを教えてくれた方は、なかなか思いつかない。

森村泰昌さん、ありがとう。