Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

神々の交錯 - ゾロアスター教とミルク神

2009-07-28 00:29:01 | Weblog
先日、日本国内にて、ゾロアスター教徒に出会った。まさか、日本にゾロアスター教徒が存在しているとは、と心底驚いたのだが、どうやらその方は、パルティア国の末裔らしい。そして、それは外部、つまり日本社会に対して、伏せられているという。

パルティア国は、ミトラ教とゾロアスター教の入り混じった国家であったとされているが、弥勒菩薩は、西アジアで崇められた太陽神ミスラが仏教に取り入れられ、菩薩として信仰されたと言う。地域によって形態が変わりながらも、信仰されている、というのが非常に興味深い。

ミトラ教と言えば、ユングの弟子であるヨハン・ホ-ネガ-が報告した精神病患者の幻覚に、こういうものがあった。
「患者は、勃起した男根のような『直立した尾』が太陽にあるのを見る。患者が頭を前後に動かすと、太陽の男根も同じように前後に振れ、そこから風が起る。」

この報告に対し、ユングは、ミトラ祈祷書というペルシャ語でかかれた文献に、これと同じ文章を発見する。
「かくして、西方の地方へ向かって、あたかも無限の東風のごとく。しかし、東方の地方に向かう他の風がはたらくとすれば、同じくその側の地方に向かって、見られたるものの逆転が見られるであろう」「同じようにして、奉仕する風の源である、いわゆる筒が見えるようになるのであろう。なぜなら、それは太陽からぶらさがっている筒のように見えるからである。」

この患者は、ミトラ祈祷書など知らないにも関わらず、患者が単なる偶然で、ミトラ祈祷書と同じイメージを抱いたのだとは考えにくい、とうことから、ユングはリビド-の変容を唱え、民族の枠組を超えた普遍人間的な原像の存在を解明しよう、との立場から集合的無意識を考え出し、フロイトと決別した。

さらに、ミトラ教について少し調べていたら、那覇郊外のユタの家にて出会った、「ミルク神」に出会った。ああ、このお面はミルクと言うんだな、と腑に落ちた。

私はこのミルク神のお面に出会った際、ミルク神という言葉を知らなかった為、中国とも、インドとも、インドネシアとも日本ともつかない神様、という言葉を使ったのだが、このミルク神というのが、布袋和尚を弥勒菩薩の化生と考える中国大陸南部のミロク信仰にルーツをもつ、と考えられているそうだ。

私はNYにてインド北部出身のパールシー(つまりゾロアスター教徒)の友人Sに出会ったが、彼が日本で一番驚いたのが、三十三間堂に行った際、ゾロアスターの神であるアフラ・マスダが、阿修羅として信仰されていた、ということであった。

少しずつ、私の中で小さな事象が繋がりつつある。しっかりと時間を取って、まとめてみたい興味深いテーマだ。

PS:弥勒菩薩は、釈迦入滅後五十六億七千万年のちに、この世にくだり衆生を救うとされているが、松澤宥がサンスクリット語を引用し、八十年内人類滅亡、と概念芸術化したのは、仏教からの引用が強かったのではないだろうか。





イランを巡る言説と、日本の立ち位置

2009-07-24 01:31:32 | Weblog
イランを巡る言説が活性化している。イランの大統領選挙にてアフマディーネジャードが勝利してから、それに反発する左派の言説が割れている。

ジジェクがすぐにLondon Review of Booksに「Berlusconi in Tehran」という文章を書いたかと思うと、Hamid Dabashiがそれに対する批判「Left is Wrong on Iran」を発表した。大変読みごたえのある文章だ。私はまだ問題をちゃんと把握していないのでコメントは控えたいが、イランと聞くと、いろいろな思いが交錯する。

私は、カール・シュミットの「The Crisis of Parliamentary Democracy」を院生時代に読んだ際、シュミットの思想がナチズムそのものを生み出したことに恐怖を抱いたが、同時に彼の述べていることが論理レベルにおいて間違っておらず、西洋近代が生んだ民主主義が合法的にファシズムを生み出したことに、致命的な問題があると考え、西洋のインテリがそれに対して答えを出せておらず、その反面、アジアに過剰な恐怖と期待を抱いていることに気が付いた。

さらに、私がイリノイ大学にて経済学を勉強していた際、最も興味を惹かれたのは、ヴィルフレート・パレートの一般均衡理論であった。こちらもある意味、近代と個の問題を生み出した際に必然的に現われる、「私」と「他者」の問題を扱っていた。私と他者の問題を否応なしに生み出す(考える自己=ゼロポイント)は、結果として利己的なものが利他的である、そして利他的なものは利己的なものと結びつく、という究極の均衡点を生み出す。これは、極右と極左が一致する、という理論とも結び付き、クザーヌスのcoincidenta oppositorumとも一致すると言えよう。そして、この二次関数的なものが、反宗教改革の側から、つまりローマ・カトリシズムの側から生まれていることに気がついた。

ポパーはパレートを「全体主義の理論家」として批判したのだが、ポパーはマルクシズムを否定した所から、オープン・ソサエティを説いている。そして、その弟子に当たるソロスが、資本主義の延長線上に、カラー革命を仕掛ける、というのが、共産主義崩壊以降の東ヨーロッパの流れだったと思う。

そしてイランだ。これは大問題だ。

安藤礼二氏の「近代論」の最後を締めくくる井筒俊彦に関する文章が大変優れていたのだが、イランは近代の矛盾を、どの国よりも内包しているとは言えないだろうか。安藤氏の井筒論が優れていたのは、井筒氏が日本の、そして近代の問題を解こうと、イランに乗りこんでいる姿を描いているからだった。

全く考えがまとまらず、申し訳ないが、「イスラームの現代美術はオブジェ化しない」、と私に言った、アジア・ソサエティのキュレーター、リーザ・アフマディの言葉が今でも残っている。Thomas Struthの、この世界初と言われるデューラーの近代自画像に向き合う男性の姿を、距離感を持って撮影したこの写真に、現代美術を成立させる近代のコンテクストを強く感じる。

そして、日本が、そこから置き去りにされたまま、閉塞して行っている気がする。私たちは、どんなに状況が悪くなろうとも、考え抜かなくてはならないのではないだろうか。


近代論―危機の時代のアルシーヴ
安藤 礼二
NTT出版

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三宅一生の願い

2009-07-17 01:08:39 | Weblog
私は、イッセイ・ミヤケの服が好きだ。Issey Miyakeのグリーンの、美しいグラデーションが入ったジャケットは、私が春咲きに着る、お気に入りのジャケットである。彼の服を着ると、服作りに対するこだわりが随所に見れて、嬉しくなる。

昨日のNYTimesに、オバマ氏の核廃絶のメッセージを受け、三宅氏が被爆体験を語った、というものを読み、大変強い感銘を受けた。彼の優しさの溢れる文章に、久し振りに、心が強く揺さぶられた。
http://www.nytimes.com/2009/07/14/opinion/14miyake.html?scp=2&sq=issey%20miyake&st=cse

核を減らすのではなく、廃絶するのだ、と訴えたオバマ大統領にも、真剣さと覚悟を感じたが、それに触発を受けて被爆体験を告白し、オバマ氏に向かって、8月6日に広島に来てほしい、イサム・ノグチのかけた橋を渡ってほしい、と述べた三宅氏にも、真剣さ、そして覚悟を感じた。

放射線を浴びて死去した母を持つ三宅氏が、自身の体験について語ることは、相当な心理的苦痛が伴うだろう。本当につらくて、そして勇気のいることだと思う。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになったという三宅氏は、被爆後の広島を見た後にダダイズムに傾倒し、「消滅」をテーマとした作品を作り続けた松澤宥氏の姿とも、少なからず重なる(最近NYMoMAにて新たにオープンしたばかりの展示に含まれている松澤氏の作品は、「私の死」であった)

アメリカでは、核の問題を話す人が、広島・長崎の問題と切り離して考える傾向が強い。それはやはり、アメリカが落とした黒い影を見たくない、という思いからだと思うが、それでは核廃絶はやはり困難だと思わざるを得ない。各国大統領が、南北戦争の北端に位置するアーリントン墓地にあれだけ参拝しているのだから、アメリカ大統領が、8月6日に広島に来ても良い時期に差し掛かったのではないか、と思う。そして、もしもオバマが広島に来てくれる様なことがあれば、それは真の対話への第一歩になるだろう。

私自身、アトミックサンシャイン展にて、広島・長崎への原爆投下ミッションに関わったアメリカ人パイロットの孫とコラボレーションを行ったが、戦後60年以上経ってようやく、人々が少しずつ冷静にこの問題について話をすることができた様に思う。皆のたゆまぬ努力が重要ではないか、そう思う。

Newsweek誌の7月8日号の「世界が尊敬する日本人」に、照屋勇賢さんが選ばれたというニュースを伺い、本当に嬉しく思う。やっぱり、しっかりとした活動を続けていれば、ちゃんと見ている人がいるんだな、と思う。勇賢さん、おめでとう!

多摩美でのレクチャー、無事終了しました

2009-07-05 11:18:34 | Weblog
7月3日に多摩美術大学にて開催したレクチャーは、大変有意義なものとなった。オーガナイズして下さった学生たち、そして聞き役を務めて下さった萱野稔人さんと安藤礼二さんには、大変お世話になりました。ありがとうございました。

トークの中で萱野さんがおっしゃった、政治的・思想的な目標の為に、アートを道具として使っているのではないか、という質問は、私も多々受けることがあり、そしてそこには、私も少なからず心当たりがある。

当初、私がアトミックサンシャイン展をNYにて企画した際、ジャーナリスティックすぎる、という指摘を数多く受けた。私自身、ニューヨークにて反戦運動ばかりやっていた際に強く感じた、アメリカ人にもっと9条の歴史的背景について知ってもらいたい、という意向が当初はあり、英語で一切意味を持たない言葉「戦後」という言葉を引いて、戦争を放棄する憲法を持つことによって成立した「戦後」という概念を、日本の戦後美術というコンテクストに落とし込んで解説しようと試みた。

さらに、私の扱っている近代の問題とパラレルして述べる為、戦争を回避する為にヨーロッパにて発明された、敵対概念の設定=ネーション・つまり自己規定の道具となった憲法の中に、他者の概念が入ってしまった9条という問題を、第二次大戦後のヨーロッパに生まれたレヴィナスの他者の思想と比較し、考えてみたい、そう思ったのである。

多摩美では、私が赤瀬川源平を、そして安藤氏がビクトル・エリゼを例に出して話した様に、政治的な要因が一つの理由になっていたとしても、それ以上に芸術の目的性の為に動いている部分が完全に勝った作品、というものがあると思う。エリゼの作品「みつばちのささやき」は、確かに政治的、と言えるかもしれないが、それが芸術という表現行為に、完全に昇華されている。赤瀬川の作品群も、同様だと私は考える。

口に出してしまった瞬間に、噓くさくなってしまう様な「倫理感」、というものがあると思う。こういったものに突き動かされる作家や作品に、私は大変惹かれる。この倫理感とは、PCとは全く異なった、もっと情動的な所で動いており、それをキュレーターが言語化したり、コンテクスト化したりすると、政治的・思想的な意図が全面に出た展示だと解釈されるのだろう。

なお、美術館やキュレーターという制度に対する批判が浴びせられたが、現在は、美術という制度そのもの(例えば美術館)が弱体化している為、制度に対する批判そのものが、ほとんど成立しない所まで来てしまっていると思う。私はその中で、美術という制度を強化・確立させ、作品を守る為に、キュレーターをやりたい、と考えている。さらに、美術館にて検閲の問題が発生するのは、それは、美術館の根本概念である、主権者=国民の意志の発露そのものが拒否されており、美術館そのものが機能していないからだ、と私は考える。

近代を乗り越える為に近代を利用しなくてはならない、という茶番に対して、私と萱野氏、安藤氏の意見は、少なからず一致する場面が多かったと思う。それは、スピノザ的であることが、最もデカルト的であり、近代的である、というロゴス支配の延長線上にある矛盾と一体化しており、これを乗り越えることは容易ではないと思う。

とは言え、ニューヨークで私が抱いていた問題意識を、なかなか共有できない、という状態が日本にて続いている。これが日本という土地の持つ力なのだろうか。

The Ballad of Lucy Jordan on the Moon

2009-07-02 01:16:34 | Weblog
NYに住んでいるイギリス出身ジャーナリストの友人より、日本の文化や歴史に関して知りたいことがある、と連絡があり、早朝と深夜に、時間を合わせてSkypeトークする。同時に、シアトルから、ニューヨークから、スロベニアから、と方々から私に対して多くの問い合わせが集中して来て、嬉しいのと同時に、複雑な気分だ。

私を慕ってくれて連絡をくれるのは本当に嬉しいのだが、それは日本国内にて、英語にてちゃんと自身の文化や歴史についてプレゼンテーションできる人が限られている、ということの裏返しでもあると思う。単純に、日本の文化や歴史について英語で話せる人がもっといないと、私はこのままではパンクしてしまいそうだ。私はこのまま、どこに行ってもネーションの狭間に立たされて行くのだろうか。

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今、Whitney MuseumにてDan Grahamの展示が開催されている様だ。NYTimesのインタビュー中で、グラハムが自身のことをアンディ・カウフマンを似ていると考え、カウフマン自身を優れたコンセプチャル・アーティストだと考えている、というコメントが興味深かった。

カウフマンは、コメディと称して「The Great Gatsby」を、お客さんの前で最初から最後まで朗読した、という伝説の持ち主だが、確かにそこにはグラハムやジョン・バルダサーリの文脈に近いユーモアが感じられる。

カウフマンをテーマとした映画「Man on the Moon」の中で、ジム・キャリー演じるカウフマンがフィリピンかどこかに呪術師に会いに行く、という私の好きなシーンがある。そこでは、不治の病に冒されたカウフマンが、藁をもつかむ気持ちで、オカルトでも何でも良いから、治療を受けるべく呪術師に会いに行くシーンがある。しかし、そこで呪術師の治療の、あまりにもくだらないからくりを見てしまったカウフマンは、「ふふっ」と自嘲的と言える笑みを浮かべる。その笑みには、「だまされた」、そして「俺は馬鹿だなぁ」という、今まで散々人を食ったことをやってきた自分が人に食われた、という様々な感情が透けて見える。

そのシーンを思い出したら、なんだか沖縄にてユタに会いに行った自分とどこか重なってしまい、可笑しかった。私も、藁をもつかむ、必死な気持ちで行った様な気がする。

Artforumにて、マリアンヌ・フェイスフルのニューアルバムが紹介されていた。私はマリアンヌ・フェイスフルに関しては、「The Ballad of Lucy Jordan」が好きなのだけれど、彼女自身の経歴などについてはあまり知らなかった。彼女はイギリス・ロンドン生まれ。父親は大学教授、母親はオーストリアの名門貴族の家系出身で、ユダヤ人、さらにレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの血を引いてると言う。そう言われると、なんだか興味が湧いてくる。

「The Ballad of Lucy Jordan」という名曲が生まれる背景にあった、複雑な入り組んだ状況が、このミュージックビデオから透けてみえてきて、その状況が、なんだかとても愛おしく思えしまう。

最近は、毎日ずっと何かに追われて仕事をしている気がする。もう少し、仕事量を減らして、しっかりとコントロールされた生活を送ってみたい。