散歩者goo 

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昨日記140604水 (ブログランキング 卑弥呼と平原遺跡)

2014年06月05日 18時28分55秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇/雨  26.7/19.3℃ 65/44%
昨日は午後から本格的な雨になった。
終日家にいてTVを見たり、片付けをしたりしていた。
したがって、昨日記に書く内容もあまりない。
昨日、朝の日常のことを書き、その中でブログランキングのチェックも朝の作業の中に入れた。
このように書くとかなり気にしているように見える。
多少気にしているが、ランキングが悪くても、一生懸命上げようとも思わない。
落ちればそれでも良いし、読者が減ってもよいと思っている。
読者が多いに越したことはないし、多くの人に読まれると悪い気はしない。
しかし今書いているようなことや、日常茶飯の事しか書かないと読者離れやランキングが悪くなるのは目に見えている。
このブログは、半分は自分のためであり、そのついでにほかの人に自分のことを知ってもらえたらいいというつもりで書いているので、あまりランキングを気にしないようにしようと思っているが、いつも見てしまう。

昨日は特記事項もなかったが、少し前から気にしていたTV番組があった。
昨日夜放送された、NHKの歴史秘話ヒストリアの卑弥呼である。
纏向遺跡のことは、現地説明会にも行ったし、ある程度理解している。
しかし伊都国の平原遺跡に関しての、最新の詳細は知らなかった。

そもそも私が考古学に興味を持ったのは、30歳前後に勤めていた農事用温暖機の会社が倒産しそうになり会社を辞めてたが、その失業期間中に、アルバイトの時給が良かった遺跡発掘調査の作業員として、東大阪の近鉄石切駅を下ったところにある中学校グラウンドの芝が丘遺跡?に発掘作業員として行ったことがきっかけだった。
アルバイト先の発掘現場では、若い考古学研究者やマニアが多くいて、彼らから刺激を受けて、原田大六氏の「邪馬台国論争」を読んだことがきっかけだった。
私にとっては、「邪馬台国論争」は超難しい本で、何か月もかかって読んだ。
当時は考古学や古代史に関しては全く無知で、難解な考古学の用語や古代史の人名を覚えるのに非常に苦労した。
それ以降何冊か原田氏の本を読んだり、大阪市主催の考古学講座に参加したり古代をしのぶ会の初期会員として参加したりした。
原田大六氏の著作の中に、伊都国や平原遺跡等北九州の話もよく出てきたので、強い印象があった。

当時と比べ、今では私の考古学古代史の知識も格段に増えたが、それ以上に日本の考古学は、高度成長に伴う遺跡の発掘数の飛躍的な増加に比例して、高度な発展を遂げた。
古代日本の考古学的見方も、考古学やそれと関連する学問の進展により、古代史像は一変している。
吉野ヶ里や三内丸山遺跡のような、弥生や縄文の社会状況は当時誰も想像していなかった。
当時は、卑弥呼が現れる直前に倭国で起きていたと中国の歴史書に記されている、弥生末期の倭国の乱に絡むのではないかとして、大阪湾と摂津・河内・和泉を中心とする高地性集落が、古墳時代前夜の状況として考古学的注目を浴びていて、そのことを論文で初めて指摘した都出氏の論文のコピーを、アルバイト先の遺跡調査会でもらって読み、古代のロマンに思いをはせたことを覚えている。

その当時から、原田氏は九州の魏志倭人伝に出てくる、伊都国や奴国といった国の王墓に注目していた。
昨日の番組では、その伊都国の王墓とされる平原遺跡が、卑弥呼と関連する可能性があるかもしれないという話を取り上げていたのだ。

無論、記紀(古事記 日本書紀)に書かれた、神武以来少なくとも10代の天皇は創作されたものであろうということは、多くの学者の指摘するところであるし、記紀そのものが、中国の史書のように事実を記載したものでないというのは、学問的常識である。
だが、同時に稲荷山の鉄剣等を通じ、考古学的事実と照合して、ある程度の事実も記載されている可能性も注目されている。
しかし、あくまで考古学的事実をベースにして、記紀の記述との整合性を確認するということであろう。
記紀は、作成時に、歴代の権力者により都合よく歪曲変更されていることは、文献批判から明らかにされている。

それにしても、もし卑弥呼が北九州出身だと仮定すれば、そこに神武東征の物語を象徴的に組み込んだという可能性も面白いように思う。(学問的根拠のないフィクション・神話の世界だが。)
卑弥呼は、3世紀に亡くなり、箸墓との関連も指摘されているが、2世紀から3世紀は、朝鮮半島からの鉄の需要が活発になる時期でもあるし、中国、朝鮮も動乱の時期である。
中国の後漢が滅亡し、その後成立した魏に卑弥呼が使節を送ったのは、魏志倭人伝でも明らかである。
当時北九州は、朝鮮中国への窓口であっであろう。
鉄は当時日本にはなく、朝鮮からの輸入品であり、倭の諸国にとっては、強力な武器や農業に有効な最先端技術の鉄や鉄製品は、戦国時代の鉄砲以上に重要な戦略物資であったに違いない。(楽浪郡帯方郡は漢の支配下にあったので、多くの中国の技術・文化が朝鮮には伝わった 鉄生産と関係の深い燕も位置的に近い。)
鉄を使用した農業(農器具の刃先に鉄の刃を被せて使用)は、生産力を大きく増やした可能性があるし、鉄製の鏃や刀や甲冑は倭国の乱といった戦闘で威力を発揮したに違いない。
また、中国の銅鏡は宗教的な道具であったろう。
鉄製品や銅鏡は主に北九州諸国を通して輸入した可能性が強い。

そうしたことを考えた場合、大陸の最先端の文化や技術に触れ、取り入れることができる、北九州の伊都国や奴国が繁栄したであろうことは理解でき、当時の倭でも強国であった可能性も考えられる。
当時の伊都国や奴国は、今の東京のような先進地域で、通商で最先端の文化技術を取り入れ、経済力を持ち力をつけた国だったのかもしれない。
上記の話は、私の空想だが、卑弥呼のTV番組から様々な想像が出来て面白い。
今後、考古学が学問的に弥生末期から古墳時代にかけての、北九州と大和の関係がどうなのか、解明してくれることを楽しみに待ちたい。

参考
弥生時代の祭祀に関係する銅鐸や銅剣が弥生末期に一斉に埋められたりして姿を消し、その後、前方後円墳を頂点にした古墳時代が出現する。
宗教儀式も弥生時代から古墳時代になて変わったかもしれない。
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