散歩者goo 

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昨日記1406001日 (予定変更 園芸 暑さ対策で網戸設置 )

2014年06月02日 16時40分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴 32.9/20.9℃ 51/30%
昨日は、探鳥会にでも出かけようかと思っていたが、整理が悪く野鳥の会大阪支部の「むくどり通信」が見当たらず、とりあえず探鳥会は朝が早く間に合わないので予定を変更した。
その後「むくどり通信」は出てきたが、大量の本やいろんなものが山積みにされているので、大掃除をして整理する必要がありそうだ。

予定変更して、昼から入場券をもらった弥生博物館に行こうと思っていたが、関連した講演会が開かれていることに気付き、調べるとミニシンポジウムがあるのでその日に行くことにした。
どうも予定がうまく計画されていないので、来ている案内はがきや行きたい催し物をピックアップして、予定日報表に書き込み、関係ホームページの催し物にリンクを張り付けた。

これでいつでも詳細がわかる。
催し物の情報源としてFBは随分役立っている。
これでスマホかタブレット端末さえあれば、外にいても地図を見たりブログを書いたり、クラウドを使って予定日報表を確認したり書き込んだりできるのだが。

その後、表のゴーヤやイチジクや金木犀の誘導を行った。
イチジクには大きな毛虫が3匹もいて葉をかじっていた。
ちょっと油断をしていると、木や草花に虫が付き瞬く間に丸坊主にされる。
そうでなくても、アゲハやモンシロチョウが良く飛び回っていて、その多くの場合、卵を産み付けていることが多く、しばらくすると草花や木の葉に点々と穴が開き始め、さらに放置すると食害で植物が枯れることになる。
実際害虫の食害で植物が弱り枯らしてしまったことは何度もある。

夕方からすることもないので、軽い運動を兼ねて天満橋まで行き、コーヒーを飲みながら読書して帰った。

それ以外、ここ数日の真夏並みの異常高温に対応すべく、真夏並みの家の装備にした。
即ち各種網戸を復活し風通しを格段に良くし、熱がこもらないようにした。
多分梅雨が本格化すれば、いったん春モードに戻し、梅雨明けから再び夏モードの網戸にすると思うし、今は、まだ使っていないミニファンがフル稼働することになるだろう。
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昨日記1405031土 (冷水シャワー 図書返却 西天満 プロパガンダ  )

2014年06月02日 12時37分15秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴 30.6/21.0℃ 63/39%
5/30(金)に初めて大阪市の最低気温が20度を超え、一昨日の31日には最高気温も30度を超え真夏日となった。
湿度が、まだ39-63%と高くないのでそれほど暑さを感じないが、7月になると湿度が高くなる。
そうすると同じ気温でも耐えられなくなる。
湿度により、体感気温が変わる。
私は、ジムで汗を流しているので、気温が高くなるとスムーズに汗をかき玉の汗でなくじっとりとした汗が出る。
だから真夏は家にいると、夜でも室温は31度から33度ぐらいなので、Tシャツがじっとりと湿った状態になるが、水玉のような汗は吹き出さない。
むろんジムでランニング中は大汗をかく。
ランニングを終えても体温はなかなか下がらないので、シャワーで冷水を浴び続けることになる。
そのおかげで体が高温には慣れが出来ているようだ。
それでも、7月中旬から8月下旬までは、寝る直前に裏庭で冷水シャワーを浴びて体を冷やすことが習慣になっていて、体の熱を取った後は、気持ちよく寝ることができる。
室温が31度を超えると、少しぐらいの雨でも冷水シャワーを浴びることが多い。
真夏の昼に室温が34度を超えるときは、昼間でも冷水シャワーを浴びることもある。
80年を超える古い長屋にはシャワーはなく、シャワーを浴びるたびに玄関に巻いてある散水用ホースを裏庭まで伸ばして鴨居の金具にひっかけて使用している。
多少手間だが、慣れると手間に感じない。
実際シャワーを浴びようと思えば、足拭きや体をふくタオルと着替えを用意し、裏庭に置く足台も用意して、数分で浴びることができる。
初めは、散水用ノズルのシャワーでやっていたgさ、すぐに横拡散に切り替えた。
当初、強い水流でかなり痛かったが、今は慣れてまったく痛みを感じない。
多分この水流だけで、体の汚れを落とすことができると思っている。

さて、31日は図書館に午前中借りていた本の延長申請を電話でしたところ、1件予約が入っている本があって、午後から地元の図書館に自転車でその本を返却に行った。
その後、帰宅せずそのまま西天満に向かった。
西天満の画廊街では、グループ展が多かった。
その中にはコンセプチャルで本人は意欲満々の作品もあったが、いくつもの要素を盛り込んで表現が説明過剰になり、空回りしている感じの作品もあった。

芸術は人間の表現であることは間違いない。(哲学的に言えば人間の存在が大前提である。)
表現である限り、人間の活動すべてが表現の対象となる。
その中には、美意識以外、政治・宗教・社会・日常生活や風土、歴史のすべてを包含する。
表現方法も制約はない。
印象派とか現代美術といった区分けも、美術史的に学者が提示したものである。
美の概念そのものも、民族・宗教・風土といった要素で異なる。(芸術的概念で世界的に通用しているのは、西洋哲学や史学から見た芸術観であり、たとえばイスラーム世界では、全く違うかもしれない。)
そうしたことを前提に考えると、人類は歴史的には、近現代以前は芸術で宗教や宗教心に基づく祈りに奉仕していたといえる。
その例は、全世界に存在する宗教曲、宗教絵画、彫刻、宗教建築、(土偶 埴輪 仏教彫刻、絵画、寺院建築、教会建築、モスク、神社、ルネサンス、バロック音楽のバッハ等の宗教曲・・・・・・・・・・)等事欠かない。
近現代になると芸術は、政治的プロパガンダに利用された。
それは今も続いている。

プロパガンダというと、ナチや共産主義を思い出すが、私の好きな、バッハの宗教曲やピカソのゲルニカも言葉を換えれば反戦平和のプロパガンダを感じさせる。(プロパガンダ=特定の思想 世論 意識 行動へ誘導する意図を持った宣伝行為:ウイキペディアより)
そうした意味でいうと、プロパガンダそのものが問題ではなく、目的が問題ともいえる。
今もプロパガンダ的作品は、多く作られ世間でも評価される作品も多い。(例反戦平和ベートーベンの第九も神への賛歌や平和へのプロパガンダとみることもできる。)
同じプロパガンダ的作品でも、芸術性の高いものとそうでないものとあることは言うまでもない。
ステレオタイプ的表現は、すぐに見破られる。
そこに作家の力量をうかがうことができる。

西天満を回った後は、いつものように天満橋に寄り雑貨や本を購入し、コーヒーを飲みながら読書した。
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