散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

私のささやかな抵抗

2011年11月01日 20時35分44秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
私のささやかな抵抗、
従業員を大切にしないと評価される会社の製品は買わない。
ワンマン会社の製品は避け風通しの良い会社の製品を優先する。
公害を出したり、環境破壊する会社の製品は買わない。
社会貢献をしている会社の製品を優先して買う。

私のささやかな抵抗
仲間には丁寧で、店員や掃除の人に偉そうにするする人には、なりたくない。
お金の力を、見せびらかす人には、なりたくない。
貧乏人や学歴の無い人を見下す人には、なりたくない。
お年寄りが困っているのを知らん振りする人には、なりたくない。
人の話を聞かず私が私がという人には、なりたくない。
あつかましい人には、なりたくない。
裸の王様には、なりたくない。
何でも人をけなす人には、なりたくない。
あちらとこちらで発言か変わる人には、なりたくない。

私のささやかな抵抗
年以上に若く見せようと、体力づくりに励む。
失った髪の毛を回復しようと、毛はえ薬をせっせと振り掛ける。
少しでも余裕を持とうと、マックのコーヒーを飲み優雅な気分に浸る。
オンボロラジカセでクラシックを聞き、精神貴族と思い込む。
変速機の壊れた自転車で、中年のマウンテンバイクに乗る人を追い越す。
少し見にくくても、老眼鏡を使わない。
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日本の未開から文明へ 天草の乱と綱吉

2011年11月01日 17時47分14秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
昼食を食べながら、「さかのぼり日本史」の再放送を見ていた。「島原の乱「戦国」の終焉」というタイトルだった。島原の乱も大体知っているし、農民とキリシタンの話だろうと軽く想像していた。

ところが語り手の磯田道史 茨城大学准教授は、この時期に野蛮国家から文明国への仲間入りをした、大変換の時期だという意味のことを説明した。本当かなと思って聞いていくうちに、そのことが明らかになった。国の体質がこの時期を境に野蛮から文明に代わったのだ。長い歴史のうちで国の体質が変わることは余りないという。このような話は初耳だった。

島原の乱の前に生瀬村の事件が紹介された。「島原の乱「戦国」の終焉」(http://www.nhk.or.jp/sakanobori/archive201110/index.html#series_04)参照。
気になったので更に別の資料を調べて見たら、次のことが分った。「現在の茨城県久慈郡大子町の小生瀬村で一揆が発生しました。しかし、時の為政者(徳川)に鎮圧されて一村皆殺しとなり、三百数十名が全滅したとの伝承があります。」「生瀬一揆とは何か」(http://www2.ttcn.ne.jp/~voce-someno.y/section1.html)より。
これについては、1602年頃から1620年ごろまでといろいろ説はあるようだ。ここで語り手が強調したのは、当時は、武士が農民を「なで斬り」=皆殺しすることは、当たり前であるような殺伐とした時代であったということだ。

次いで島原の乱の説明があった。以下島原の乱の参考資料抜粋
「島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。」
ウイキペデイア「島原の乱」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1

島原の乱一揆軍37,000人程であったといわれ、幕府軍は総計 125,800人
一揆軍は全滅し、幕府軍は、その死傷者は諸説あるが、「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。すなわち、従わなければ皆殺しにするのが、当たり前という時代であった。それまでの日本は、それ以前から殺伐としていて殺人は当たり前だったという。

それにしても島原の乱一揆軍の全滅及び幕府軍の死者負傷者を合計すると4-5万人近くになる。しかも天草半島の狭い地域にである。そこでは弓矢や槍や刀や鉄砲を使い、武士・農民・女・子供・老人の区別無く、見せしめの意味も含め、徹底して殺戮・虐殺したに違いない。想像するだけで恐ろしい。
その結果、島原半島の農民は激減して一帯は荒廃し、復興の為他藩から農民を移住させたという。

こうしたことで、幕府は農民を武力で強制的に従わせると、幕府側にも多大なダメージを被ることに気付き、武力で物事を解決することに対し、何となく疑問を持ち始めたのではないかという。

その後綱吉が将軍になって、日本の体質を変えたというのだ。武家諸法度を改定し「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」を「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」などと変更し、儒学(特に朱子学)を重んじるようになった。また生類憐みの令も、世間では犬のことが強調されているが、下記の資料のように、弱者救済の側面があった。また江戸時代では、いつの頃から体系化されたか知らないが、少なくとも殺人等を犯すと役人が取締り、裁きを受けるようになった。そういえば戦国時代以前室町や鎌倉時代の、裁判の話は聞かない。このように見て行くと、意外と中世や近世の歴史も面白い。しかし、これ以上興味を持っても、調べる時間が無いので深追いはやめようと思う。


【参考史料】
1687年(貞享4)の生類憐みの令
 これは江戸前期の私撰幕府法令集『御当家令条』巻33にのるもので、1687年(貞享4)4月に発令された。85年以降に何度もだされた生類憐みの令の中では初期のものである。87年正月に、捨て子や捨て牛馬を禁じる法令がだされて以後、生類憐みの令は本格的なものとなり、本法令もふくめて格段にきびしいものとなっていった。以下その現代語訳
 覚え
一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。よいか、届け出なくてかまわない。
一、鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。それらを養育し、持ち主があればかえすようにせよ。
一、飼い主がいない犬に日ごろ食べ物をあたえないようにしているという。それは要するに食べ物をあたえれば、その人の飼い犬のようになって面倒なことがおこると考え、いたわらないでいるらしいが、けしからん。これからはそのようなことがないように心得よ。
一、飼い犬が死ぬと、飼い主は上司へ届けでているという。その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である。
一、犬ばかりにかぎらず、人々はすべて生類へ慈悲の心からでるあわれみをほどこすことが肝要なのである。
生類哀れみの令」よりhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~k-hina/awaremi.htm
これにより、牢屋の待遇が改善されたり、行き場の無い人が助けられたり、飢えた人に食事を与えられたという。

また次のような紹介もあった。
徳川綱吉 1646-1709
まだ将軍宣下を受ける前から天領の代官たちに対し、「支配者が寛かに民を扱うと、民は奢りに走り本業を怠る 奢侈を許してはいけない 民は為政者を信用していない 為政者もまた民を疑っている このようなことが起こらないように意思の疎通に心がけよ 代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せ切りにせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である」と諭したとされる。

また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなどたいへん学問好きな将軍であった。
以上ウイキペディア「徳川綱吉」より
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89)

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誤字 脱字 文章の乱れ

2011年11月01日 11時35分09秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
ブログを書くときは、出来るだけ様々な資料も参照し誤字脱字の無いよう書くが、それでも読み直すと、文のつながりが変であったり、誤字脱字が多く見つかる。
さらに投稿してからも修正追加することも度々だ。

どうもそそっかしいらしいようで、今に始まったことではなく、無論老化のが原因ではないと思っている。。
この傾向は若い時から変わっていない。

夜遅いときにUPした文は、そのまま翌日の修正も無く、変な文章や誤字脱字がそのまま載り続けることが多い。

フェイスブックやツイッターは文も短く、気楽に反射的に書くので、内容を含め誤字脱字や事実の検証もせずにUPすることが多いので危険だ。

例えば、先ほどフェイスブックのコメントを読み直すと、日常議論しているTPPですらTTPと書き間違えていて気がつかないでいた。(修正せずに置いてある)

今後フェイスブックツイッターも、原稿をアップするときは、できるだけブログ並みに注意を払いたい。

さらにパソコンに頼っていると、パソコンによる誤変換も多い。
しかしこれはパソコンソフトのせいにするわけにはいかない。
それをチェックしなかった、自分が悪いのだ。

この件については、複数の方から、ワードと一太郎の違いだという指摘があった。
今使っているのはワードだが、一太郎は使ったことが無いので分らないが、機会があれば比較してみたい。
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大阪都構想と府市同時選挙2

2011年11月01日 00時27分42秒 | 政治・経済・社会・法律・文化
そもそも、この都構想の話は、大阪府立大学と市立大学の統合問題とか市営水道と、府の水道事業の統合問題がうまく進まなかったことから、橋下氏が都構想を打ち出し、その大義名分として二重行政の解消を言い始めたのではないか。すなわち本質的なことは、自分の思うままに行政を行いやすくする為、大阪府を中央集権化し多くの権力を集中させ、経済。運輸政策政策(鉄道や港湾や航空を含む)を掌握しようとする物ではないか。

まず二重行政を指摘するなら、そもそも事の発端の大学や水道の統合交渉の経緯の詳細を選挙民に明らかにすべきだ。さらに府が言う、二重行政の問題箇所の詳細を出すべきだ。大阪市と大阪府は、二重行政の問題を継続して話し合って、二重行政の無駄を省く努力をすれば良いのではないか。

二重行政や、同じ行政サービスをしていると考えられるものに、(素人判断だが)図書館。美術館・博物館・公園・動植物園・スポーツ施設・市民病院・地下鉄バス等の交通機関・港湾及び関連施設・道路等のものが考えられる。これらの経営権は市が握っているが、こうした物も大阪府に一元化したほうが良いと思っているのだろう。しかしこれらの物を府に一元化したからといって、スケールメリットもないし、マネジメントが良くなるとも思えず、巨大化するだけで、逆に効率は上がらないのではないかと思える。それに水道事業を統合すると、市の水道料金が上がったり、水質が悪化することは無いのだろうか。

逆に各区に区議会を置くことで議員も必要となりそれに付帯する余分な経費が必要となる。それより各区独自で住民サービス・福祉を行うより、大阪市としてまとまって同じ方式で住民サービスを提供するほうが、スケールメリットもあり、よほど効率が良いように見える。各区により小さな違いはあるだろうがそのようなことは、区内の自主裁量を拡大することで解消できる。それ以前に、現在の方式で満足している人は多いということだ。

そもそも地方自治とは、地域により方言・風習習慣・文化・経済・社会・歴史的背景といった要素を共有する人達が集まって地域コニュニティーが成立し、それを勘案して法制度化したものが現在の地方自治体であろう。その意味からすると、大阪市は江戸時代からの街を踏襲し、大坂の街を中心に拡大し、近世になり村や街道の街やベッドタウン化した当時の新住宅地を吸収合併して成立した。

例えば私の両親が昭和10年に引っ越した時は、周囲の多くが田畑だったと聞いていた。私の幼い頃もは、北の方は多くの田畑が残っていた。今の城東区や鶴見区はまだ工場と田畑が多く、小学校の時には、友達と自転車でよくザリガニやカエルを捕りに行ったのを覚えている。小学生の頃は、家の近隣はすでにぎっしり家が立ち並び、町内会も機能し、各路地で盛大に年中行事として、神社の祭りや地蔵盆が行われ、地蔵盆の盆踊り(大阪市内は江州音頭が多かった。)は多くの町内で行われ、共通の文化を共有していた。(今は地蔵盆は寂れた。)

その後、経済発展に伴い、市内中心部に住んでいた人達は、郊外の高級住宅地に移り住んだ。大阪市内はドーナツ化による人口変動に伴い、合区が行われたが、市の行政形態の基本的な変更は無かった。それですら歴史的・文化的な伝統を尊重する人達から反対運動があったような記憶がある。まして、今回の都構想は市制度の廃止と区の再編である。大阪市という歴史的文化的な人の結合で構成された有機体を解体するという無謀な話であり、私は反対である。住民サービスは現在の大阪市に属する区の行政単位で充分であると考えているし数十万人単位で合区し、各区で独自の行政福祉サービスを行うより、合区しないほうが区のカバーする範囲が狭くなり、よりきめ細かな住民サービスが可能になると考えている。

更に都構想の考え方には、別の問題がある。都市行政と人口密度の低い市町村をの行政のあり方が、おのずと違いが出来るであろうということである。人口密度の低いところと、高いところと一緒に議論し、人口数十万人単位で考えることは、ナンセンスである。すなわち人口密度が高いところに行政区画を適用すればその面積は、非常に狭い範囲になってしまい、人口密度の低いところでは同じ人口のエリアでも非常に広いエリアとなる。エリアが広いと移動の問題が生じ住民サービスに移動手段の問題が生じる。密度の高いところでは同じサービスをしても移動の問題がなく効率的に処理でき、スケールメリットを生かせる。例えば人口密度の低い所と、高いところで同じ上下水道のサービスをしようとするとき、同じ人数を処理すれば、大きなコストの差が出るのは明白である。府に一元化することは、水道料金を平準化すれば、市内の上下水道料金の引き上げに直結する問題ではないか。
上下水道は広域処理でなく、地域ごとの処理のほうがコストもかからず有効と聞いたことがある。広域下水道自体、分散方式に改善する方策を考えたほうが良いのではないか。

今回の府市同時選挙に関してはもう一つの論点が存在する。橋下氏と維新の会の政治姿勢の問題だ。民主主義社会においては、いかなる場合でも独裁を許してはならないと思う。今回独裁を許容する発言があったことは、大いに気になる点である。議会で多数を取れば、効率的に物事を運ぶ為に独裁的な手法も容認するという姿勢はいかがな物か。


参考
私の10月24日のブログ「視覚の現場と橋下府政」(http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/1ef80e321c1c2b2f6ff186ce9e51d642)でも美術の立場から、その問題に触れている。
また「白夜の炎」が「橋下ファシズムとメディアの対応」で別の視点から橋下氏及びメディアの姿勢を批判している。  (http://blog.goo.ne.jp/baileng/e/f3a1d5173139439933c098dcba594a67)

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