教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(4)

2011年09月18日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 この数回毎日投稿できているのは、予約投稿を使って投稿しているためです。

 さて、最後の部分です。


(2)目標としての「先生」―先に生きる者
 子どもたちの生活習慣の獲得・改善方法は、教育学では、伝統的に学校管理法(school-management)・訓練(discipline)論のなかで論じられてきた。日本における学校管理法・訓練論は、1880年代頃に、19世紀イギリスで形成されてきたそれらを輸入することから本格的に始まった。19世紀イギリスでは、教師の人格を契機とする規律訓練によって子どもの統制を行い、様々なルールや道徳を身につけていくことが目指された。その際に重要な条件として挙げられたのが、教師の権威(authority)であった。権威は、子どもの教師に対する愛着・尊敬をともなって、始めて十分に機能すると考えられた。たとえば、子どもたちは、尊敬する教師を喜ばせたいために、ルールを守る。そのため、ルールを守らなくてはならないといった拘束力は、依存者(教師に依存する子ども)の意志となって、はじめて発生する。いわば、子どもたちの教師に対する愛情・尊敬・共感が、次第に義務感に転じ、責任感へとつながっていくのである。
 子どもが保育者にいつも依存するように仕向けては別の問題が生じてしまうが、幼児の発達・保育上では、ある程度の依存は必要である。保育者は、子どもにとって、自分にはできない様々なことができる「あこがれ」の存在であり、尊敬の対象になることが目指される。モデリングにしても「まね」にしても、対象への興味・関心が出発点となる。保育者が「あこがれ」や尊敬の対象となった時、保育者はその子の成長の目標となり、常に興味・関心が向けられることになる。そして、子どもは保育者の「まね」をし、様々なことを経験し、学んでいく。子どもの自主性に支障をきたさないように気をつける必要があるが、保育者は、子どものよりよい教育・保育のために、子どもの「あこがれ」や尊敬の対象となりたい。子どもの「あこがれ」や尊敬の対象になるには、普段から子どもたちに見えるところで生活し、常に関わっていくことが大前提だろう。また、保育者自身の得意なこと(歌・ピアノ・運動・製作など)を子どもたちに見せることも有効である。保育者が自分の得意分野を伸ばすことの教育的意義は、ここにある。
 もう一つ、別の観点から考えるために、保育方法の一つ「生活誘導」を取り上げる。生活誘導法とは、戦前日本において、倉橋惣三が、「生活を、生活で、生活へ」という標語の下に提唱し、実践現場へ導入した方法である。倉橋は、幼稚園の生活「を」、子どもたちがさながら(そのまま)に生きている生活に合わせていくこと「で」、目標としての生活を実現「へ」と向かわせることを目指した。すなわち、この場合の幼児教育・保育とは、子どもたちの生活(発達状況・興味関心など)に応じて、園生活(教育・養護)を計画・実行し、望ましい生活へと子どもたちを誘い導いていくことである。
 子どもたちの生活を望ましい生活へ誘導していくには、保育環境が重要になってくる。物や友だち、そして大人の生活といった物的・人的環境が、子どもたちの生活を誘導していく。重要な人的環境の一つは一緒に生活する大人である。園生活で子どもたちと一緒に生活する主要な大人は、保育者である。保育者は、一定の目的・目標を実現するための人的環境として、目的・目標にもとづく望ましい生活を体現していなくてはならない。子どもたちを望ましい生活へ導くには、保育者が、その望ましい生活を子どもより先に生活化していなければならないのである。その意味で、保育者は、子どもにとっての「先生」すなわち「先に生きる者」でなくてはならない。
 なお、保育者はただの生活者ではない。子どもが生活に参加する中で、そのつまずきや困難を乗り越え、成功や喜びを経験する機会を捉え、支援していかなくてはならない。その意味では、「先に生きて、子どもたちを導く者」でなくてはならない。

 以上、保育者の人格・行動様式(習慣)が、どのような教育的意義を持つか検討してきた。望ましい人格・習慣を全て備えた完全な人間は、この世には存在しない。当然、保育者もまた、聖人君子・完全無欠の人格・習慣を得ることはできない。しかし、少なくとも、自らの人格・行動の改善を求めていく必要と責任とを、保育者は有しているといえる。
 保育者の人格・習慣は、無意識的・無意図的に機能する潜在的カリキュラムであると同時に、意識的・意図的に機能させ得る顕在的カリキュラムにもなり得る。保育者の人格・習慣は、子どもを変え得る人的環境であり、教育方法であり、教育内容である。そのため、保育者は、子どもと自らの職務に対して、自らの人格を高め、習慣を整えていく責任を負っているのである。

<(1)~(4)までの主要参考文献>
倉橋惣三『幼稚園保育法真諦』東洋図書、1934年(『幼稚園真諦』倉橋惣三文庫①、フレーベル館、2008年)
佐藤学『カリキュラムの批評―公共性の再構築へ』世織書房、1996年。
森上史朗・吉村真理子・後藤節美編『保育内容「人間関係」』新・保育講座、ミネルヴァ書房、2001年。
橋川喜美代『保育形態論の変遷』春風社、2003年。
江川玟成・高橋勝・葉養正明・望月重信編『最新教育キーワード137』時事通信社、第12版2007年。
浜口順子編『事例で学ぶ保育内容〈領域〉表現』萌文書林、改訂版2008年(初版2007年)。
ヴォルフガング・ブレツィンカ(小笠原道雄・坂越正樹監訳)『教育目標・教育手段・教育成果―教育科学のシステム化』玉川大学出版部、2009年。

(「子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する」了)

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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