さて、先日からの続き。
出典を示されるときには、以下のように示してもらえると幸いです。
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白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?―啓蒙思想の影響とフレーベルの幼稚園構想から考える」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月4~11日。
または
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?(2)」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月6日。
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?―啓蒙思想の影響とフレーベルの幼稚園構想から考える―」 より
(2)ルソーにおける子ども期の問題化
J・J・ルソー(1712~1778)は、フランスの思想家であり、『エミール』(1762)を著して子ども期を問題化した。ルソーは、現実社会を悪弊・堕落の累積する社会と捉えたが、人間は本質的に善良であると考えた。そして、子どもを善に向けて内なる力(無垢な本性)を発達させることはできないか思考実験を行い、その結果を『エミール』としてまとめた。
ルソーは、「人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅びてしまったにちがいない」と述べ、子どもの時期における教育を重視した。子どもは、様々な面で不足があるから様々な能力や支援が必要になり、その結果、子どもは生きることができるという。たとえば次の言葉は、とても力強く子ども期における教育の重要性を述べている。
わたしたちは弱い者として生まれる。わたしたちには力が必要だ。わたしたちはなにももたずに生まれる。わたしたちには助けが必要だ。わたしたちは分別をもたずに生まれる。わたしたちには判断力が必要だ。生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる[i])。
当時のフランスの村落では、乳児は産衣にくるまれて、身動きできないように固く固定されて育てられていた。ルソーはこのような子育ての実状を問題視し、子どもは活動を求めており、それが自然なのだと主張した。たとえば、以下のように述べている。
人は子どもの身をまもることばかり考えているが、それでは十分でない。大人になったとき、自分の身をまもることを、運命の打撃に耐え、富も貧困も意にかいせず、必要とあればアイスランドの氷のなかでも、マルタ島のやけつく岩のうえでも生活することを学ばせなければならない。[略][子どもの]死をふせぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。わたしたちの器官、感官、能力を、わたしたちに存在感をあたえる体のあらゆる部分をもちいることだ[ii])。
ルソーは、子どもが生きることとは活動することだ、と主張した。続いて、子どもを制止すべき場面を慎重に見極めながら、次のように子どもの活動の意味を説いている。
自然は体を強くし成長させるためにいろいろな手段をもちいるが、それに逆らうようなことはけっしてすべきではない。子どもが外へ行きたいというのに家にいるように強制したり、じっとしていたいというのに出ていかせるようなことをしてはならない。子どもの意志がわたしたちの過失によってそこなわれていなければ、子どもはなにごとも無用なことを欲することはない。子どもは思うままに跳びはね、駆けまわり、大声をあげなければならない。かれらのあらゆる運動は強くなろうとする体の構造の必要から生まれているのだ[iii])。
18世紀のヨーロッパでは、子どもの時期は、哀れみや無関心の対象であった。しかし、ルソーは、そのような子ども期のとらえ方や現実の子育てを批判し、子ども期における活動への欲求を積極的に認めて、子どもの内なる力を伸ばすことを重要視した。ここには、教育において、子どもの自己活動を尊重する姿勢が明確に現れている。ルソーによる子ども期の問題化は、教育においていかに子どもの自己活動を発揮させるかという課題を、後の教育思想家たちに突きつけた。フレーベルも、この課題に取り組んだ一人であった。
図3 J・J・ルソー(Rousseau,J.J.)(1712~1778)
出典:ルソー『懺悔の教育―エミール』目黒書店、1924年。
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